兄さん、私、お付き合いしている人がいるの。
妹の弾んだ声が言う。頬を淡く染め、細めた瞳に幸福を滲ませて。
どこの誰だとこちらも尋ね、ひとつひとつ答える妹の表情を眺める時間は、何者にもかえがたく――もう二度と戻らない。
その人の名前はね。
口にした名前を忘れたことはない。ずっと心の内に置いてきた。
「マクラウドさん、軍の方がお見えです」
顔も知らない相手を留めて、長い間恨んできた。知らないままでよかった。
「失礼する。ドネス・マクラウドだな、話を聞かせてほしい」
「まずはそちらの名前をお聞かせくださいますか」
愛する妹を死なせた男に、もしも会ってしまったら。
「私は中央司令部大佐、センテッド・エストだ」
抱えていた憎しみで、彼を殺してしまうかもしれない。
妹は、父の再婚相手の連れ子だった。年齢の離れた彼女は、ちょっとそこらにはいないような美少女で、こちらの顔色を窺いながらぎこちなく笑った。
俺はといえば長い反抗期が終わらず、父と衝突することが多かった。大学に進学が決まったら家を出ようと考えていて、そのため再婚相手の女性のことを母と思えるほどのコミュニケーションを取ろうとしなかった。
そんなことだから、妹はなんとか家族をつくろうと必死だったのかもしれない。隙を見ては俺に話しかけてきた。
内容は当たり障りのないもので、自分の好きな物やその日あった出来事などを、こちらの生返事にめげずに教えてくれた。
作り笑顔ですらも美しい彼女は、学校ではクラスメイトに人気で、街を歩けば人々が振り向いた。そして、変な奴に目をつけられることも多かった。
偶然その場に出くわしたことがある。知らない男に手を引っ張られて、怯えた顔をしていた。すぐさま駆けて行って男を引き剥がすと、そいつは慌てて逃げていった。
大丈夫か、と訊くと妹は真っ青になった顔を俺のシャツに埋めてわあわあ泣いた。怖かった、ありがとう、と繰り返され、震えていた体を抱きしめた。
自分が兄であるという自覚がやっと芽生えたのは、その事件がきっかけだった。以来、妹は俺に懐くようになった。
その妹が二十歳のとき、俺に報告したのだ。付き合っている人がいる、と。
当時、妹はその美貌とスタイルがスカウトマンの目を引き、モデルとして活躍していた。しかしひと月ほど前に事務所への脅迫文騒ぎがあり、軍の世話になったそうだ。
「彼とはそのとき出会ったの。来てくれた軍人さんの一人でね、仕事が中断してイライラしてたスタッフにビシッと言ってくれたのよ。安全が第一です! って」
いやもうちょっとクールだったかな、などと楽しそうに話す妹の様子から、恋人はとても良い人なのだなと安心していた。
その頃、俺は既に家を出ていた。学校を卒業し、学生時代からアルバイトをしていた出版社にそのまま勤めて数年。担当する仕事も多かった。実家になんか戻っていない。妹とだけ連絡を取り、滅多にない休みが重なる日に会っていた。
「恋人が軍人だと、デートの時間も取れないんじゃないか」
「そうね、なかなかゆっくり会えない。でもたまに会うときは、その分を埋める以上に優しいの」
「そりゃあ良かったな。今度兄さんにも紹介してくれよ」
「会ってほしいのはやまやまだけど……兄さん、絶対に怪談話とかしないでね。彼、ホラーが苦手だから」
「へえ。じゃあ、本も読まないのか。映画も」
「全然。兄さんが担当してるシュタイナーさんの本も、面白いよって差し出したら『そんなえげつない恐怖物は絶対読まん』だって」
読まないと言う割には作風をよく知っているようだ。ホラーが苦手なら、たしかにホラー小説作家を多く担当する俺とは相性が良くないかもしれない。いつかのために他の話題を考えておかなければ。
顔を知らない妹の交際相手の、特徴や性格などの情報だけが記憶に刻まれていく。だがどんなことも、妹を幸せにしてくれるのであれば些細なことだ。愛しげに口にした名前でさえも。
「兄が妹を頼んだぞと言っていた、と伝えてくれ」
「都合が着いたら連れてくるから、そのときに直接言ってよ」
約束よ、と妹は言ったが、それはついに果たされることはなかった。
父と話したのは、就職が決まった時以来だった。電話の向こうで、感情を押し殺したような低い声がする。録音された自分の声と似ていた。
さらに奥から、義母のすすり泣きも聞こえた。この時ほど、家を出たことを後悔したことはない。
可能な限り急いで、教えられた病院に向かった。到着するとそこに老人が二人いて、よく見ると憔悴した両親だった。
「可哀想に。女の子なのに、年頃なのに、よりによって顔を狙うなんて……」
泣きながら声を絞り出す彼らと共に、ベッドに横たわる妹と対面した。
美しい顔は包帯に覆われている。髪も少し除かれているらしい。閉じた目に長い睫毛はなく、本当にこれは本人なのかと疑った。
すれ違いざまに薬品をかけられたのだと説明された。それで大火傷を負ってしまったのだと。医師に頼んで包帯を巻く前の写真を見せてもらったが、治るとしてもかなりの時間が必要そうだった。
「犯人はすぐに捕まったの。デート中だったからね、彼氏が追いかけて、取り押さえて」
そういえば、交際相手は軍人だった。妹を置いて、犯人を追うことを優先したのか。職業人の性なのかもしれない、だが。
「それで、その彼氏は」
「さっき謝りに来た。自分がついていながら、この子に大怪我を負わせてしまいすまなかったと」
「それだけ? どうしてここにいないんだ」
「この事件の処理があるからと、すぐ中央司令部に向かった」
それは、妹の容態よりも優先すべきことなのか。仕方ないのか、軍人だから。
名前から察するに、彼は軍家の人間だ。それも国内で最も有名な家系の。わかっている、彼にだって立場があるはずだ。しかし、と考えてしまうのは、俺が被害者の身内だからだ。
やがてうっすらと目を開けた妹が、俺を見て唇を微かに動かした。横に引こうとするのは、笑顔をつくっているつもりなのか。こんなときなのに、彼女はこちらを気遣っていた。
退院するまで、病室に毎日通おうと思っていた。妹をなんとかして励ましたいという気持ちと、そうすれば交際相手にも会えるのではないかという目論見があった。
事件当時どのような状況だったのか、両親は軍から聞いていたが、俺はそれを又聞きしたに過ぎない。そこにいた本人から聞き出したい。――だが、とうとう交際相手と会うことはなかった。
事件から二日後、妹は病院の高層階から身を投げた。前日に俺を含む何人かの見舞い客と会っていて、最後に面会したのは例の交際相手だったそうだ。
妹の葬儀には多くの弔問客が訪れ、誰もが彼女を偲んで涙していた。モデル仲間などは声を上げて泣き崩れ、気の毒だが別室に移動してもらうことさえあった。
どうして妹が死ななければならないのか、と考えを巡らせていると、それが栓となっているのか、涙は出なかった。時間はかかるが顔は治るはずで、たとえ元通りにならなくても家族は妹を一生支え励ましていくつもりだった。それがかえって彼女にとって重荷だったのかもしれないが、一番良い方法を模索していくにはあまりにも短い時間だった。
「ご家族の方ですか」
不意に声をかけられ、返事をして振り向いた。男が一人立っていたので、妹の交際相手ではと身構える。しかし彼は「この度は残念でした」と名刺を取り出し、待っていた相手ではないことを示した。
「ああ、妹の事務所の方」
「ええ。妹さんは大変人気のあるモデルでした。……遺書などは見つかりましたか」
首を横に振る。それらしきものは見つからなかったが、捜査にあたった軍によると自ら命を絶ったのだろうということだった。
「ご家族にはお心当たりなどは」
「事件に巻き込まれたこと以外にはありません。ただ気丈な子でしたから、自分でなんて考えられなくて……」
「事件の際には同行者がいたと伺いましたよ。事務所にも知らせず恋人を作って一緒に出かけたりなんかしなければ、傷つかなかったでしょうにね。せめて恋人が守ってくれたなら良かったのに」
事務所の人はしばらくの間、妹について話していた。俺はほとんど聞き流して、ただ彼に相槌を打つ。考えていたのは、妹が死なないためにはどうすればよかったのか――交際相手は何故、妹を守ってくれなかったのかということばかり。
疑問が恨みに変わりゆく間に、交際相手は弔問に来て、すぐに帰ったようだった。一度も会うことがないままに時が流れ、悲しみも恨みも疑問も、次第に心の隅へと追いやられていった。
「ドネス先輩、明日は外なんですね」
研修中の新入社員が予定表を眺めて言う。翌日には担当作家のサイン会があるので、研修も他の者に任せている。
妹の死から二年が経った。今年の新入社員には妹と生まれ年が同じ者がいる。予定表を見ていた彼女などは、雰囲気もどことなく妹に似ている気がして、よく記憶をよみがえらせる。
「俺がいなくても、ちゃんと仕事しろよ」
「しますよ。覚えたいことがいっぱいあるんです。そしていつか立派な編集者になって、バンバンお仕事をこなしたいです!」
「おっと、俺の仕事までとられそうだな」
思い出すのは楽しかったことばかりで、でもエピソードとしてはとても少ない。実家を出ることばかりを考えていた俺は、妹から歩み寄ってくれなければ十分な交流はできなかった。
もっと話を聞く機会を設けていれば、今も妹は生きていただろうか。そんな詮無いことを考える。
そうして迎えたサイン会当日は、しかし、良い日にはならなかった。
バックヤードでサイン本を作っていた作家が襲撃に遭い、咄嗟に出した俺の左腕がナイフを受けた。表でやっていた対面のサイン会だけは継続させることができたが、サイン本作成は中止、俺は病院に送られた。
幸いにして傷は見た目よりも酷くはなく、腕を吊り、数日の入院を言い渡されはしたが、そうかからずに治るだろうとのことだった。
それなのに処置室からなかなか出られなかったのは、軍が事件の状況を聞きたがったからだ。早く怪我が大したものではないと作家に電話をして伝えたかったのに。
「マクラウドさん、軍の方がお見えです」
看護師の声に顔を上げ、開く扉に目をやった。入ってきたのはこの国の紺色の軍服に身を包んだ、自分よりも若そうな男だった。
金髪に、鋭い紫の瞳。彼は低い声で俺の名を口にした。
「失礼する。ドネス・マクラウドだな、話を聞かせてほしい」
まるで俺が容疑者かのような、横柄な響き。つい眉を顰めたが、腕の痛みのせいだと解釈してほしい。
「まずはそちらの名前をお聞かせくださいますか」
返答の声も刺々しくなる。冷静な対応をしなければならないのに妙に苛立つのは何故だろう。
その答えは案外すぐにわかった。相手の目だ。その色はいつか妹が話していた。とても綺麗なのだと。
そうは思えない。あの日から見たこともないその色が、恨みの対象となってしまった。――そんなことだから、彼をここに呼んでしまったのかもしれない。
軍人は咳払いをし、名乗った。
「私は中央司令部大佐、センテッド・エストだ」
長い間憎んでいる、その名前を。
それからは質問に一語か二語で答えるのがやっとだった。年下のはずのエスト大佐はこちらに対して常に威圧的な態度を取り、妹の言っていたような優しさなどは微塵も感じられなかった。
もしかしたら同姓同名の別人かもしれない。特徴も似通っているが、偶然であってほしい。そんなことばかり考えていたら、何度か質問を聞き逃し、苛立ったような溜息さえ吐かれた。
何時間もかかったように思えた聴取は、終わってみればほんの十分程度だった。
「ご苦労。捜査に進展があれば連絡する」
ぱたりと手帳を閉じ、大佐はこちらに背を向けた。それだけか。俺の名前に覚えはないか。
積もり積もった澱が、腹の底で渦を巻く。真っ黒なそれが声となって、低く暗く吐き出された。
「センテッド・エスト。マクラウドの名に何も感じないのか」
大佐の足が止まる。一向にこちらを見ようとしないが、そこから動くこともない。
「カルメン・マクラウドを忘れたのか。それともどうでもいいのか」
一方的に言葉をぶつける。何か返せ。教えろ。
「どうしてカルメンを、……妹を守ってくれなかったんだ!」
それ以上は声にならず、沈黙が落ちた。エスト大佐は押し黙ったまま出口に歩き出す。逃げるな、と叫ぼうとして、遮られた。
「すまない」
たった一言。短すぎて平坦さだけを際立たせ、そこに感情があったのかもわからなかった。
それなのに、軍服の背中が扉に阻まれ見えなくなっても、俺は動くことができなかった。
襲撃事件の直後、会社に被害にあった作家の周りのスキャンダルが送り付けられたり、軍からもその作家の作品をもう出すなと理不尽なことを言われたりということが続いた。当の作家は一連の出来事に責任を感じてしまい、これまでに出した全ての本を絶版にするよう複数の出版社に願い出た。
関係する処理をする間、エスト大佐とは頻繁にやり取りをしなければならなかった。彼は襲撃事件を担当し、作家に活動の停止を求めていた張本人だった。
襲撃犯アズハ・ヒースには余罪があるとみられ、どんな人間や組織と繋がりがあるのかわからない。作家が――ニール・シュタイナー先生が作品を書かなければ、もう狙われることはないだろうという、理屈にもならない話をされた。過去などまるでなかったかのように、淡々と。
この男は、俺から全てを奪おうというのか。悔しくても、刺された左腕には満足に力が入らない。
ここまでしておいて、捜査は二ヶ月ほどで打ち切られた。アズハの余罪は追及できないまま。
次に彼と関わることになったのは、刑務所を出たアズハが再び動き出したときだった。名前を変えて文壇に戻ってきてくれた作家に、再び「書かせるな」と言いに来た。わざわざ人を連れて、出版社まで赴いて。
俺は既にニール先生改めレナ先生の担当ではなかったが、現担当である後輩が憤慨していた。彼女が怒ってくれたおかげか、こちらはいくらか落ち着いていられた。
「でもまあ、少しだけ刺さりましたね。レナ先生は悪夢を作品に昇華させているから、書き続けることは先生にとってつらい面もあるんじゃないかって、私もちょっと思ってたんですよ」
「……そうだなあ」
レナ先生の作品の書き方はともかくとして、ものを作り上げるというのは楽しいことばかりではない。自分の中にある痛みや苦しみと向き合い、それでも作らずにはいられない。俺たちが一緒に仕事をしているのは、そういう人だ。
「いずれにせよ、俺たちが話を聞くべきは先生だ。軍じゃない」
「ですよね。あのエスト准将が原稿をくれるわけじゃないですし。私は私の仕事を頑張ります」
後輩を見ていると、その真っ直ぐさにほっとする。彼女の、そしてレナ先生の仕事を、軍に邪魔されることがなければいいのだが。
残念ながらその不安は別の形で当たった。アズハは後輩に接触し、軍はしばらく後輩の護衛という名目で会社に出入りするようになった。
エスト准将――いつのまにか昇進していた――も頻繁に姿を現し、その度に苦い思いをした。
俺は彼に伝えなければならないことがある。だが、それを言いたくないという気持ちもまだあった。蟠るものを抱えているうちに、事態はさらに悪い方向へと転じてしまった。
軍の見張りをすり抜け、後輩とレナ先生は誘拐された。もちろんアズハの仕業だった。
二人が一緒に拐われたことが判明したのは、俺への電話があったからだ。彼らは自分たちがいる場所の特徴を、一度しかかけられないという電話で俺に伝えてくれた。
頼ってくれたのは良かったが、情報を受け取ってしまったがために、俺がエスト准将に連絡をしなければならない。急がなければ二人はもっと危険な目に遭うかもしれない。
一瞬でも迷った自分を恥じた。軍に連絡し、エスト准将を呼び出してもらう。
でも、助けられるのか、この男に。妹を目の前にいながら守れなかったのに。だが今は託すしかない。
もう俺は、大切なものを失いたくない。
「准将。先生とマトリを……俺の部下を、頼む」
掠れた声には、間を置いて返事があった。
「善処する」
絶対に救うとは言わない。言わせなかったのは、きっと。
拳を握りしめた掌には、爪の痕が残った。
秋の深まる公園は、吹き込む風が心地よい。ベンチに腰掛けて目を閉じていると、隣に人の気配がした。
「忙しいのか」
低い声が少しくぐもっている。そちらを見ずに、「それなりに」と答えた。
「そっちはどうですか、准将。軍が暇になることはないと思いますが」
「そうだな。常に何かに追われている」
後輩のマトリとレナ先生が無事に救助され、アズハが捕まってから、三ヶ月。エスト准将から連絡があり、初めて会う都合をつけた。
互いの目を真っ向から見ることなく、ぽつりぽつりと言葉を零す。かつての怒りは不思議となく、心は凪いでいた。
「カルメンから、兄の話はよく聞いていた」
彼の口から妹の名が出たら、以前ならカッとなっていたかもしれない。だが至極冷静に相槌が打てた。
「年の離れた兄を、彼女はとても慕っていた。少し妬けるくらいに」
「俺には彼氏の話を聞かせてくれましたよ」
まるで昨日の事のように思い出せる、あの笑顔。瞼の裏にはっきりと浮かんだ姿に、准将の声が重なった。
「彼女を守れなかった。あのとき、ほんの数秒でも早く犯人の様子に気づいて、彼女を庇っていたら。……彼女はきっと、死ななかった」
目を開き、ようやく見た准将の顔は、見たこともない悲痛なものだった。年相応というより、いくらか幼い。この人はどこにでもいる青年の一人なのだ。
「そもそも僕と出会わなければあんなことにはならなかった。もっと良い人と巡り会って、今も幸せに生きているはずだったのに。あれからずっと、そう思って生きてきた」
きっと妹の前でもそうだった、軍人としてではなく、センテッド・エストとしての言葉。尊大な態度の内側は、弱く脆い、生身の人間。
それならば真実を伝え、彼もまた、守られるべきだろう。
「カルメンが死んだのは、あんたのせいじゃない」
「でも、僕は彼女の傍にいたのに」
「たしかに妹はあんたの目の前で被害に遭った。そしてあんたは妹を近くの人に任せ、犯人を追うことを優先した。これは俺も未だに許していないし、今後も許すつもりはない。だが」
妹はそれでも、彼を許すだろう。だから問題は、本当に彼女を追い詰めたのは、その後に起きた出来事だ。
「妹を絶望させたのは、仕事の関係者だ。怪我をしたことじゃない」
「どういうことだ」
准将は、いつかの俺と同じ顔をした。真実を信じられない。全てが覆ってしまう、その瞬間の。
「センテッド君は昔からの友人なんです」
エスト大佐が他の作家には目もくれず、この人だけを対象に「書かせるな」と言うのは、襲撃事件とスキャンダルの暴露だけが理由なのだろうか。それを本人に直接尋ねた答えがこれだった。
ニール先生が名前をレナ・タイラスと改めて、再び小説を発表するようになって間もない頃。引き続き担当となった俺の思い切った問いに、先生は微笑みながら言った。
「ちょっと心配性で、僕のことを気遣ってくれてるんですよ。優しい人です」
レナ先生の評価は妹と似ている。俺が持つ印象とはかけ離れた言葉が並び、本当に同じ人物について話しているのかわからなくなる。
しかし、たしかにあのエスト大佐で間違いないという証拠も、レナ先生は持っていた。
「彼の心配性の度合いが増したのは、恋人を喪ってからなんです。……ドネスさん、あなたの妹さんなんですよね」
病院での俺たちのやりとりを、先生はエスト大佐から聞いていたのだ。付き合いの長い親しい友人に、あの男は起こったことと心の内を打ち明けたらしい。
「守れなくて、傷つけたから、別れを告げられたのだそうです。一晩考えてからもう一度話をするつもりでいたら、その……」
妹が亡くなる前日の認識が、俺が想像していたものと違うということに、このとき初めて気がついた。別れ話があったとしても、俺はてっきり、大佐の方から妹に別れを告げたのだと思っていた。
「どうして妹は大佐を振ったんだろう。守ってくれなかったという怒りが後から湧いて……いや、そういうタイプじゃない」
その場で考え込んでしまった俺に、先生が助け舟を出してくれた。本当は何があったのか、それを知ることができるかもしれないと。
「妹さんはモデルさんなんですよね。それなら、理屈をつけて助けてくれるかもしれません。この人は叔母の友人で……」
紹介してもらったのは、文派の荒事を引き受ける組織だった。組織といっても構成員はたったの三人。隊長だという女性が、先生の叔母の友人にあたる。彼女は本来の業務ではないということをひとしきり文句として吐き出した後、部下に命じた。
「カルメン・マクラウドが死の前日に会った人間を全て調べあげろ。それと葬儀に訪れた人間も同様に」
二人の部下はどうやら双子のようで、同じ顔で不敵に笑って応じた。
「何故、葬儀に来た人まで?」
俺が口にした疑問に、メイベル・ガンクロウ隊長は当然というように、無表情のまま鼻で笑った。
「真犯人は現場に戻るという、実に愚かなセオリーがあるだろう」
そうして彼らは、その言葉の通りの結果を俺に持ってきたのだった。
妹が亡くなる前日に会った最後の人間は、たしかにセンテッド・エストで間違いない。だがその前に、所属していたモデル事務所のマネージャーが病室を訪れていた。葬儀に来て、俺に話しかけたあの男に間違いなかった。
「ドネスさんを含めたご家族の方やお友達など、その日にお見舞いに来た方は多かったんです。しかし誰もが『カルメンさんの怪我は痛々しかったが、本人は思ったより元気そうだった』と証言していました。葬儀で泣き崩れるほどショックを受けたのはそういうわけもあったんでしょう」
「ところが病室を訪れた最後の二人は、酷く思い詰めた様子のカルメンさんと面会している。センテッド・エストからは話を聞いていませんが、別れを持ちかけられるくらいなのだからそういうことでしょう。さてさて、どうして事務所のマネージャーは『カルメンさんはつらそうだった』と証言したのでしょう?」
ステレオサウンドのように口々に報告する双子の部下を、ガンクロウ隊長が手を叩いて黙らせる。回りくどいのは嫌いなようだ。
「カルメン・マクラウドを死に追いやったのは、事務所の人間だ。周辺の情報からも間違いない。奴は外面を取り繕うことはできたようだが、所属モデルらの評判は非常に悪い」
「そんな、どうして……」
葬儀のときの記憶が、聞き流していたので思い出すこともなかったようなことが、急に脳裏によみがえる。
思い返せばあの男の言葉は違和感だらけだ。まるで事件が妹の行動によって引き起こされたかのような物言い。
「ショッキングな証言を教えよう。暴れられるのはごめんだから、ノールとジュードは彼を拘束してくれ」
ガンクロウ隊長の指示で、部下たちが両側から俺の腕を掴む。そうして告げられた言葉は、俺を激昂させるのには十分すぎた。
――顔が駄目になったんだから、もうあれは使い物にはならない。手術なんかしたところで、皮が引き攣ってみっともなくなる。
――だからクビにしてきたんだ。治ったらきっと前以上に働くとか、往生際の悪いことを言うから、こっちもはっきり説明してやった。
――治ったところでこっちの世界には戻れんよ。ああ、でも、いい体をしているから物好きの奴にはウケるかもな。案外そっちの方が儲かるんじゃないか。
絶句しているエスト准将のはらわたは煮えくり返っているのだろう。拳が震えていた。
「あんたに別れを告げたのも、事務所の人間の言葉のせいだ。カルメンは気丈な子だが、怪我で心が弱っていたのを、人前では明るく振舞っていたんだろう。それを蹂躙した」
つくり笑顔まで美しい、人に気を遣ってしまう妹。それを俺はよく知っていたのに、彼女の支えになれなかった。
妹が最後にしたことは、愛する恋人に悪評が及ばないように、突き放してしまうこと。
「この話を聞いたときには、相手を殴りに行きたかった。殺してやりたいと思った。だが、隊長に止められたよ。それは我々の仕事だからと。もう奴は彼らのやり方で処分されて、以前の仕事はしていない」
「だが、捕まらずに生きているんだろう。カルメンを殺しておいて、のうのうと」
「殺人罪ではないし、立証するには証拠が足りないからな。それはあんたが一番わかってるんじゃないですか」
俯いたエスト准将が、握っていた拳をゆるゆると開く。綺麗に切ってある爪も刺さるほど握りしめていたのか、掌には赤い痕が残っていた。
「……やはり、僕と出会わなければ良かったんじゃないか」
力のない声を、かつては肯定していた。でも、今は。
「俺の記憶の中の妹が晴れやかな笑顔なのは、悔しいが、あんたのおかげなんだ」
真実を知ってからずっと考えていた。妹の屈託ない笑顔が見られたのは、どんなときだったか。親や俺の顔色を窺っていたような子が、心から幸せそうにしていたのは。
「あんたの話をするとき、妹は生涯で最も幸福そうに笑っていた。俺にあんたの色んな話をしてくれたよ。正義感が強いこと。クールに振舞っているけれど、実はホラーが苦手なこと。あんたにもきょうだいがいて、その子のことをとても大事に思っていること。心配性なのはとても優しいからだということ」
俺はそうは思えないけれど、とずっと但し置きながら覚えていた。ところが妹とレナ先生の他に、もう一人そう表現する者が現れたので、認めるしかなくなってきた。
「エスト准将。あんたと過ごした時間、妹は幸せだったんだ。だから、出会わなければ良かったとは思わないでくれ。カルメンの気持ちを、どうか否定しないでやってくれないか」
悔しいから言いたくなかったけれど、それが真実だから、伝えなければならなかったこと。
エスト准将に「他人を救えない」という呪いをかけたのは、きっと俺の言葉だった。きっかけが事件だとしても、仕上げをしたのは俺だ。だから俺が責任をもって、彼を解放してやらなければならない。
センテッド・エストにも、救いが必要だ。
「……そうか。あいつはすごいな」
准将は呟いて、顔を上げた。滲んだ紫色の瞳は、妹の言った通り美しかった。
「カルメンは幸せだったはずだと、実はマトリにも言われた」
「マトリ? なんで彼女がそんなことを」
後輩にこのことを教えたことはない。そもそも彼女は俺の妹のことを知らないはずだ。困惑する俺は、けれども、一瞬それを忘れた。
たぶん、妹は何度も見たのだろう。でも、俺は初めて見た。おそらくこれからもそう頻繁に見られるものではない。
センテッド・エストはこんなにも優しく笑うのだと、新たな情報として記憶に刻まれるだけだ。
「ありがとう、マクラウド。僕を救おうとしてくれたこともそうだが、何よりカルメンの話が聞けて嬉しかったよ」
でも、と彼は言う。晴々とした表情で、空を仰ぎ見て。
「カルメンを救えなかったことは、やはり僕の罪として一生背負っていく。選択をどこかで間違えたのは確かなんだ。もちろん、彼女と過ごした幸福な時間は憶えたままでだけれど」
愛していたんだ、という言葉と共に、涙が一筋溢れた。
見なかったふりをして、俺も空を仰いだ。実にきれいな秋晴れだった。