十一歳になる年から短期留学を重ねて、二十一歳になる今ではほとんど外国暮らし。北の大国ノーザリアを主拠点に、大陸各地、さらには孤島、海外にまで飛んで行けるようになった。
それでもあたしの故郷はエルニーニャ。首都レジーナに到着すると、懐かしくて落ち着く空気を思い切り吸い込む。
ここにあるあたしの家は二つあって、一つは生まれ育ったダスクタイトの家。お母さんとおじいちゃんが暮らしている。そしてもう一つは、叔父さんとおばあちゃんが切り盛りする下宿。
外国での活動資金を得るため、エルニーニャに帰ってきたらあちこちでアルバイトをする。商店街のいくつかの店で働きながら、下宿での力仕事を担当するのが常だ。
下宿は人の入れ替わりが激しいので、来る度に見る顔が違うのは当たり前。毎回簡単な挨拶から始めて、一度離れればなかなか再会できない。
この人もきっとそうだろう。玄関に入ると靴を磨いていた彼。初めて会う人。それほど深い関わりを持つことはない。
けれどもこの予想は、叔父さんの頼みで覆ったのだった。
「彼の訓練を見てあげてくれないかな」
「ええー……。それ、どうしてもあたしがしないと駄目?」
即答で難色を示してしまった。対して叔父さんは聞こえなかったかのように、どんどん話を進めてしまう。
「僕だとそこまで手も回らないし、体力も追いつかないから。何より夏はあまり外に居られない。エイマルは彼と歳も近いし、ちょうどいいよ」
よろしくね、と押し付けられてしまう。ユロウ叔父さんは見た目こそゆるふわ美人だけれど、その実態はしっかり頑固で融通のきかない四十三歳なのだ。
渋々引き受けざるを得ないあたしに、当の本人はへらへら笑って言う。
「これからよろしく、マルちゃん」
変な呼び方をするな。あと、その顔の半分を覆う長い前髪はどうにかならないのか。
彼の名はサウラ・ナイト。あたしの一つ下の二十歳。東の都ハイキャッシの出身で、三ヶ月前から下宿している。
前髪が目が隠れるくらい長く厚く、口元でしか表情を判別できないのが厄介。本当は何を考えているのか読みにくいから、接し方がよくわからない。
おまけに口調が軽薄そう。あたしのことをマルちゃんと、一番の親友にも呼ばせたことのないような渾名で呼ぶのをやめてほしい。それやめて、と言っても彼は三歩も足を動かせば忘れるようだ。
などと一番の親友に報告したら、彼は実に朗らかに笑った。人の気も知らないで。
「笑いごとじゃないんだからね、ニール君。せっかくこっちでのんびりお金稼ごうと思ったのに、面倒なことになったものよ」
「エイマルちゃん、意外に人見知りだもんね。突然フレンドリーにされたらびっくりしちゃうか」
「そんな可愛いものじゃないの」
文句を言うあたしを、風まで爽やかに吹き過ぎて宥めようとする。エルニーニャの夏は、ノーザリアより気温が高いけれど、まだ過ごしやすい。
そんな日に親友と食べるアイスクリームは格別で、これで話題が楽しければ最高だったはず。
「しかもね、サウラ君って運動が苦手みたいで。軍に入りたいのに、ちょっと絶望的なくらい動けないんだよね」
大きな溜息に、アイスクリームも溶ける。あたしが仰せつかった訓練とは、サウラ君の運動技能訓練なのだ。しかし彼は実際、酷い運動音痴だった。
走ればもたもた、縄跳びは三回跳んだところで派手に転んだ後で「三回も跳べるなんて調子が良い!」と喜ぶ。他にも色々やってみたけれど、できることはよろよろとした重量上げとやたら時間のかかる持久走くらいだった。
「それでなんで軍に入ろうと思うのよ。しかもずっとへらへらしてるの。あたしがはっきりと『酷い』って言っても!」
「言ったんだ……」
ニール君は苦笑いして、それから「でも」と言葉を次いだ。
「持久力はあるようだし、重いものも大丈夫なんだよね?」
「体力はやたらあるの。全部全力でもたもたしてるのに、全然疲れてない。こっちがくたびれちゃった」
「それってすごい能力だと思うな。ねえ、彼はどうして軍に入りたいの?」
あたしが困っていることを、ニール君は褒める。良い方の見方を教えてくれる。こういうとき、彼が親友で良かったと思う。うじうじと愚痴ばかりの、格好悪いあたしでい続けなくて済むから。
「ええと……兵じゃなく軍医になりたいんだって。でも、軍医でも少しは動けなきゃ試験に受からないから、訓練をしてるの」
「なるほど。じゃあ、彼に合ったものを身につけられるように手助けすればいいんじゃない?」
ユロウさんも棍を使えるでしょう、と言うけれど、叔父さんは運動の機会と体力がないというだけで、運動音痴というわけではない。そう返すと、ニール君は注目するのはそこじゃなくて、と続ける。
「つまり、軍医として入隊する場合に大事なのは、医者としての能力といざというときの特技なんだと思う。特技は一つでもいいんだ、身を守れさえすればね」
「じゃあ、とりあえず一芸を身につけさせればなんとかなるかもね。できれば、だけど」
「エイマルちゃんの腕の見せどころだね。頑張って!」
応援してくれるのはありがたいけれど、あたし、指導員でも軍人学校の教員でもないんだよね。
ところで、今日の目的はニール君に愚痴を言うことではない。あたしがこっちに戻ってきた理由のひとつは、この訪問のためだ。
随分ご無沙汰してしまっていたインフェリア邸の呼び鈴を鳴らし、シィレーネおばさまの歓迎を受けて、中へ通される。
「エイマルちゃん、久しぶりだね。元気そうで良かった」
リビングのソファに腰掛けるイリスちゃんが片手を挙げて笑ってくれる。もう片方の手は、傍らの揺りかごの中だ。
「イリスちゃんも元気で良かった。本当はもっと早く様子を見に来たかったんだけど」
「いやあ、今が一番良いタイミングだよ」
おいで、と招かれ、そうっと揺りかごに近づく。生後二週間ほどといったか、小さい子供が寝かされていた。
「あたし、こんなちっちゃい赤ちゃん見たのって、何年ぶりかなあ。最後はたしかアーシェおばさまのとこのノールとジュードだった気がする」
あれはもう十四年も前になる。緊張して手が伸ばせない。赤ん坊は触れたら折れるのではないかというくらい細く短い指で、イリスちゃんの指先を掴んでいた。
「ああ、もう、なんでこんな空気抵抗を全身で感じるような動きをするの」
「ずっと動いてるんだよね。体力が有り余ってるのはわたしに似たのかな」
なかなか触れられないのはイリスちゃんもで、驚くほどに表情が「お母さん」なのだ。なんだか神々しい。そう告げると、声を抑えながらもあたしのよく知るイリスちゃんの笑い方をしてくれた。
「そんなんじゃないよ。でも、ニールも似たようなこと言ってたよね」
「正直な感想です。グリンに接するときは明らかに表情が違いますよ」
そうか、この子の名前はグリンテールというのだった。戻ってくるよりも前に教えてもらって、早く会いたいと思っていた。
同時に、グリンがちょっと羨ましかった。この名前をつけたのは、お父さんだそうだから。産まれるときもずっと付き添ってくれていたらしい。
「エイマルちゃん、グリンを抱っこしてみる?」
不意にイリスちゃんが言う。いつのまにか指は解放されていて、揺りかごからグリンを抱き上げていた。こうして見るとさらに小さい。
「え、あたしが? 泣かないかなあ」
「泣くときは泣くよ、赤ん坊だもん」
戸惑っているあたしの隣で、ニール君がぼそりと呟く。
「僕も怖々だったのに、エイマルちゃんなら壊しちゃいそうで怖いな」
「失礼ね、そんなことしないよ。イリスちゃん、抱っこさせてもらっていい?」
対抗心はすぐに鎮火させ、イリスちゃんの腕からゆっくりグリンを受け取る。小さくてふやふやしているのに、想像よりもずっしり重い。大きさは平均くらいと聞いていたから、世の赤ん坊のほとんどはこんな感じらしい。
「首を支えてね。そうそう上手」
イリスちゃんの指示通りにしていても安心はできない。たしかにこれは、壊しそうで怖い。
けれども温かさはしっくりくる。抱き続けるのは無理だと思うのに、手放すのも惜しい。
泣かないかな、と顔を覗き込むと、口元がふにゃっと動いた。
「愛想いいなあ。ニールのときも笑ったんだよね」
「え、これ、笑ったの」
嫌そうに泣いたりはしていないけれど、笑っているとも思えない。イリスちゃんが言うならそうかもしれないと受け取っておく。
揺りかごに戻ってまもなく、グリンがぐずりだした。イリスちゃんが抱き上げると家中に響く声で泣き始める。これは眠いっぽいねーということだが、どうして落ち着いていられるんだろう。
代わろうか、とおばさまがグリンを受け取り、あちこち歩き回る。イリスちゃんはソファに座り、大きな溜息を吐いた。
「大変そうね」
「そりゃあね。でもめちゃめちゃ可愛いでしょ、うちの子。父さんと母さんも、二人目の孫にして初の新生児だから、構いたくて仕方ないみたい」
ニールが家に来たときのこと思い出すよ、と言うと、話題の当人は照れ笑いした。
結局、グリンは寝ずに泣きやみ、揺りかごに戻ってきた。ぎこちなく、忙しなく、動く手足に先程からの既視感がついこぼれる。
「動けてないのにこの無尽蔵な体力、サウラ君を彷彿とさせるなあ」
「エイマルちゃん、それは……」
当然ニール君は呆れたけれど、イリスちゃんは「それって」と身を乗り出す。
「下宿にいる子だよね。優しい子」
「知ってるの?」
「荷物を家まで運んでくれたの。首都に来たばっかりなのに、自分の用事そっちのけで」
三ヶ月前、サウラ君がこっちに到着した日のことらしかった。駅から下宿に向かおうとしていた彼は、荷物を抱えた妊婦のイリスちゃんを見止めると、すぐに手を貸してくれたという。それから下宿の場所を訊いて去って行ったそうだ。
「そのときちょっと話したんだ。軍医になりたいんだけど、入隊試験に合格できるほどの運動能力がないことに悩んでるって」
でも大丈夫だよね、お兄ちゃんみたいなタイプもいたんだし。イリスちゃんはそのときもさらりとそう答えたようだ。
そういえば、ニアさんは入隊当時は腕立て伏せが全然できなかったんだっけ。それでも得意なことを武器に、実技も筆記も上位で入隊を果たしたのだと、以前聞いたことがあった。
あたしの大切な人を助けてもらっているのなら、訓練を嫌がるわけにはいかない。道のりは厳しそうだけど、せめてまた旅立つまでは付き合ってやるか。
ところが問題は次から次へと発生するもので。サウラ君の弱点がもうひとつ発覚した。
夕飯の支度を手伝っているとき、あたしが不注意で指を切ったのを見た彼は、ばったりと倒れてしまったのだ。
「……実は、血を見るのが苦手で」
肉や魚を処理するのも難しいんだ、と弱りながらへらへらする。へらへらしている場合じゃないのに。
「軍医になりたいんだよね?」
「うん。やっぱりかなり問題だよね」
血を見るのが駄目なのに、どうして軍医を目指すのか。ますます彼がわからず、あたしは頭を抱えた。
そこに何故か差し出されたのは、銀色の小さな丸いケース。
「マルちゃん、さっきの傷にこれ塗っとくといいよ」
「何これ。薬?」
「そう、よく効く傷薬。俺が作った」
訓練に根気よく付き合ってくれるから、お礼に。そう言ってサウラ君の口元が笑う。口しか見えないのだけれど。
蓋を開けると、薄い緑色をした軟膏が詰められている。鼻を近づけると青っぽさとスパイスのような刺激が混ざった独特の臭いがするけれど、気になるほどのものではない。
「叔父さんに教わったの?」
「ううん、東にいたときに勉強した。俺があまりに凝るから、親父さんが中央で勉強しろって薦めてくれたんだ」
師匠のこともそのとき聞いた、と彼は台所の方に目をやる。師匠とは現役の軍医であるユロウ叔父さんのことだ。
「親父さんは、師匠のことをすごく信頼してる。俺のダチの弟は超名医なんだぜって」
「ダチの弟? あなたのお父さん、あたしのお父さんの友達なの?」
「あれ、師匠から聞いてない? 出会った瞬間からガンを飛ばし合い殴り合った大親友だよ」
そんな話は聞いたことがないけれど。そもそもお父さんから友達がいるという話も出ない。
あたしのお父さんは北の隣国ノーザリア軍の大将だ。最も得意とし執着しているのが、危険薬物に関わる事件。こだわるようになったきっかけは、弟が危険薬物を投与され、陽の下に長時間いることができなくなってしまったこと。
兄は軍人として事件を追い、弟は医師となり被害者の治療にあたる。これがあたしのお父さんとユロウ叔父さんの現在の関係だ。
「じゃあ、サウラ君が軍医になりたいのは、危険薬物被害者の治療が目的?」
それなら軍医にならなくても、と言いかけて遮られる。
「治療だけじゃなく、最前線の情報をいち早く手に入れたい。俺は動けないから、現場で直接戦うことはできない。でも危険薬物の情報を把握して、即現場に還元することはできる。そこに行けばやれる」
厚い前髪の奥で、瞳が光っている。見えないのにそうだと確信できる。声色は真っ直ぐで自信に満ちている。自分ならその未来を実現できると断言している。
息を飲んだ。あのへらへらしていたサウラ君と、目の前の彼は本当に同一人物なのだろうか。
「どうしてそこまで……」
呟いたあたしの手を、サウラ君が指さした。
「もしマルちゃんに時間があれば、傷を洗って薬を塗って、それからまた話をしよう」
長くなるからね、とまたへらっと笑う。台所から叔父さんが「飲み物を用意しようか」と問いかけた。
サウラは十三歳になるまで、薪や肥料、農薬などを売ることを生業としている父と一緒に暮らしていた。母はサウラが六歳の時に亡くなり、以来、父は男手ひとつで息子を育てていた。
父を手伝い、よく働く子供だった。運動神経は鈍いが、重い荷物をいくらでもいつまでも運ぶ術を身につけ、近所の大人たちにも重宝され可愛がられていた。
ところが父が殺害された。売り物を置いていた倉庫で発見された遺体は斧で頭を叩き割られ、四肢も千切れる寸前の状態。それを最初に発見したのはサウラだった。
近所の人に助けを求め、軍に連絡した。父を殺した犯人を早く見つけてくれと泣きながら訴えた。だがその願いが叶えられるのは、サウラを襲う困難とひきかえだった。
現場となった倉庫を調べた軍が発見したのは、犯人に繋がる情報であると同時に、父の秘密を暴くものでもあった。――危険薬物が大量に見つかり、父が使用者であり売人でもあったことが発覚したのだ。
そのことが明らかになると、近所の人々は手のひらを返してサウラを非難し始めた。本来感情を向ける対象であるはずの父がいないために、彼らの目や言葉は全てその子供に刺さりぶつけられたのだ。
――物を売るとき、腹の中では何を考えていたんだろう。
――よくものうのうと私たちの生活に入り込んで。
――あの子供もどうせ、親に似てろくでもない人間に育つんだろう。
――ご覧、あのぎょろぎょろと大きくて恐ろしい目を。父親にそっくりじゃないか。
たしかにサウラは、父親の若い頃によく似ていた。被害者から一転、悪人として新聞にも顔写真が掲載された父と。関係者であることは明白だ。
このままではまともに生きていけない。かといって目を潰したり顔を傷つけたりして人相を変えてしまうほどの度胸もない。他人に顔をまじまじと見られないよう、基本は家に引きこもり、外に出るときは俯いて歩いた。
近所の人が誰も訪ねなくなった家には、捜査に来た軍人だけが出入りを続けていた。しかしそれもそろそろ終わるらしい、そんなある日。
「こんにちは。サウラ君、少しお話をしませんか」
いつも来る軍人とはちがう、桃色の長い髪の女性がやって来た。ジャケットは女性軍人が身につけるものだが、その下にはゆったりとした無地のワンピースを来ている。彼女は俯くサウラに、それでも穏やかな微笑みを向けた。
「あたしの名前はクレリア・グラン。東方司令部所属の中将です。若い人と話をして、その人が今後どのように生きていくのか、考えるための手助けをするのが仕事です」
今はそんなこと、考えたくもない。心の中で言い返した。こんなことになって、身寄りもなくて、生きていけると思うのか。その気持ちは、どうやらクレリアには正確に通じたようだった。
「あなたは困って、いいえ、絶望しているでしょうね。世界が一変して、居場所を無くしてしまったような気持ちかもしれない」
だからね、と彼女はこちらに手を伸ばした。
「ここ、離れませんか。新しい生活を始めたらどうかしら」
大切な思い出もあるだろうから、もちろん無理にとは言わない。けれども再び生きることを始めるには、新しい場所の方がいい。その説得は尤もだと、サウラも納得した。
ただ、場所を変えたところでこの思いも状況もそう簡単に変わるわけがないという考えも強かった。
「どこに行くっていうの」
「ハイキャッシです。東方司令部や、他にも大きな施設があるのはご存知?」
「……まあ、一応は」
このエルニーニャ王国東部地域で、最も大きな町だ。当然人はたくさんいる。新聞記事に載った写真だって、見た者は多いはずだ。
でも、みんな知らない人だ。昔から親しくしてくれた人が突然態度を変えたことに傷つくなど、そういった痛みはない。
かくしてサウラは、その日のうちに最低限必要な荷物だけを持って、クレリアと共にハイキャッシへと向かったのだった。
「サウラ君、先日お誕生日だったんですってね」
道中の車内で、クレリアが言った。生年月日等の個人情報は、聴取の際に軍に教えている。彼女が知っていても不思議ではない。
十三歳になった。父はできる限りのご馳走で祝ってくれた。だがよりによってその翌朝に、彼は倉庫の冷たい床に、ぼろぼろになって横たわっていたのだ。
あのご馳走を用意するための金は、真っ当な商売で得たものではないのかもしれない。だとしたら呑気に料理を頬張っていた自分も、同罪ではなかろうか。それなら近所の人たちがサウラに厳しい言葉を浴びせるのも仕方がないのだ、きっと。
「お父さん、お祝いしてくれましたか?」
声は優しいが、クレリアも軍人だ。咎められるに違いない。覚悟をして頷くと、しかし、予想もしなかった返答があった。
「良かった、見立ては間違いじゃなかった。お家の様子から、お父さんはあなたのことをとても大切にしていたはずだと、あたしは思っていたんです」
「……わかるんですか、そんなこと」
「問題のある家庭には、意外とわかりやすい特徴があるものです。あなたのお父さんは問題を抱えてはいたけれど、それをあなたにぶつけるようなことはしなかったのでは」
その通りだ。サウラから見て、父はずっと強く優しい、頼りになる男だった。ずるいことはするな、正々堂々と生きろと教えられ、サウラは育ってきたのだ。
父自身は悪事に手を染めていたが、サウラを巻き込むことはしなかった。そう信じたい。
「あたしたちの今のところの調べでは、お父さんが亡くなったのはあなたを犯罪に巻き込むまいとした結果だったのではと考えられています」
思いを肯定するように、クレリアは語った。
父を殺害した犯人は、そもそも危険薬物を納めに来たらしい。父はそれを売りさばいて、金を彼に渡さなければならなかった。
だが、父は「前回の分は売っていない」「渡せる金はない」と言ったのだそうだ。それが殺人事件の引き金となった。
「あなたのお父さんはね、何でもひとりで頑張ろうとして、その気持ちを悪い人に利用されていたの。薬を使えばもっと精力的に、休まずに働けると唆され、手を出してしまった。危険薬物は依存性が高くて、値段もやはり高いもの。薬を使い続けるために自らも売人となり、売っては買っての繰り返しになってしまった」
「そんな……それじゃあ、悪い事をしたお金は」
「家庭には入っていないはず。あなたはお父さんの良心によって育てられたと考えていいと思う」
父にあんな結末をもたらした、最初のきっかけは自分かもしれない。その暗い意識から逃れることはできなかった。
だが、父はたしかに息子を愛し、慈しみ、育てていた。それだけは間違いない。
誰が何と言おうと、サウラはそう受け取る。そうしていなければ父は浮かばれないし、自分も救われない。生きるためには、そう考えるしかなかった。
「あのね、さっきの事だけど」
しばらくの沈黙の後、クレリアがぽつりと言った。
「お父さんはあなたを愛していたと思う。でも、あなたがそれを愛として受け取るかどうかは、あなたが決めていいことよ。許せなければ許せないでいいんだからね。愛は相互のものとして見られやすいけれど、実は一方通行の思いだから」
少し寂しげに笑った彼女の手は、その腹に触れる。
「でも、もしも愛として受け取れるのなら、それはできる限り大事にしていて」
独り言のような響きのそれは、後になって思い出すと、きっと懇願だった。
ハイキャッシに到着したサウラは、養護施設への入所を勧められた。身寄りのない子供たちを保護するのはもちろんのこと、子供たちの出自はみんなよく似ていた。すなわちそこは、軍が扱った事件の遺児たちのための施設なのだった。
ところが手続きを進めようという段階で彼と出会い、サウラの人生は拓かれた。
「クレリア、そいつが新しく保護した子供か。大きいな、いくつだ?」
「ええ、十三歳になったばかりです。サウラ君、この人は薬物依存治療施設の人よ」
施設の人ってなんだよ、と苦笑する男性は、赤い髪が逆立って鶏冠のように見えた。はじめまして、と挨拶をすると、改めてにかっと笑う。
「ちゃんと挨拶ができるのは感心。俺は東部薬物依存治療センターの所長、レックス・ナイトだ。ちょっとだけ軍の東方司令部長だったこともある」
よろしくな、と指を鳴らすと、その指先に突然花が咲いた。サウラは驚いて思わず目を見開き、ハッとして手で覆った。
「どうした、そんなに手品に驚いたか?」
「それもそうですけど、……あの、この目は」
ぎょろぎょろしていて、恐ろしいらしいので。消え入るような声で言ったが、レックスはちゃんと聞いていたようだった。
「ふうん? 俺は羨ましいけどねえ、ぱっちりした目は。目つき悪いってよく言われるんだよ」
不思議そうで軽い口調にも、サウラは俯いた顔を上げられなかった。故郷の人々の声が、耳について離れない。
レックスは返事がないとわかると、クレリアに向き直った。
「こいつは施設に入れるのか」
「はい、これから手続きをします」
「じゃあ、それやんなくていいわ。こいつは俺んとこで引き取る」
薪をきれいに割ったときのような音が、頭の中に響いた。単語の意味をひとつひとつ確かめながら、サウラはおそるおそる顔を上げた。
「引き取るって……レックス兄さん、あなた」
「俺も施設に用があって来たんだ。カヅキと話して、家族を迎えることにした。ただあまり小さいとカヅキも大変だから、ちょうどこいつくらいの子供を希望してる」
「でも、サウラ君の気持ちも聞かずに決めるのはいけないわ」
目の前で起きていることに、サウラ自身はまだ困惑している。突然現れた知らない男が、急に家族だのなんだのと言い出す。これははたして、現実なのか。
「なあ、サウラ」
上げた目が、レックスと合った。たしかに目つきの悪い男だ。だがそこに宿る光は、
「うちに来ないか。俺たちにはお前が必要だ」
どこか父に似ていると思った。
クレリアの判断により、まずは数日一緒に暮らしてみることになった。もちろん、サウラの了承が前提だ。
レックスの家は大きかった。玄関も、屋内に伸びる廊下も、全てが広い。そして扉は全て引戸で、付けられていない場所もあった。
その理由はすぐに明らかになった。レックスに紹介された彼の妻という人に会って。
「はじめまして。私はカヅキといいます。来てくれてありがとう」
切れ長の目の美しい人が、サウラを見上げた。彼女は車椅子に乗っていた。
「はじめまして。……あの、足にお怪我を?」
「ああ、ちょっと違いますね。これはね、筋力が衰えてしまって、自力で歩くことが難しいんです」
こともなげにそう言う彼女から目を離せないでいると、サウラの背後でレックスが同じくらいの調子で継いだ。
「危険薬物の副作用だ。彼女は昔、犯罪に巻き込まれて利用され、危険薬物を使用させられていた。手は細かい仕事ができるまで回復したけれど、足の力を戻すのには限界があった」
「……そんなことって」
「そういうことなんだ、危険薬物を使うってのは。副作用から逃れるために、使う量もどんどん増える。だからお前の親父さんの取引に関わらないという決断は、相当勇気がいるものだったはずだ」
どうしてそれを、と振り向く。言った本人の表情は穏やかで優しく、さらにサウラを戸惑わせる。
「東部で起きた危険薬物関連の事件の情報は、全部俺に集まってくる。それから大陸全土の軍や被害者救済のためのチームと共有する。このシステムはダチと一緒に長い時間をかけて構築した。カヅキのようにしんどい思いをする人を減らし、増やさず、いつかはゼロにすることを目指してな」
でもシステムだけがあっても、目的の達成にはまだ遠い。サウラや父のような者がいるということがその表れだ。
父は命を落とした。もう取り戻せない。だがサウラは生きている。若く、未来がある。
「十三歳、良いじゃないか。知識を吸収し、経験を積む時間がたっぷりある。俺たちは共に歩み、その後の未来を紡いでいく人間を求めている」
「……それはつまり、あなたが欲しいのは家族になる子供じゃなくて」
後継者となる人材、ということなのだろう。少なくともレックスは親ではなく、上司に近い存在なのだ。
「レックス、ここでは仕事の話じゃなくて家庭の話をしてください」
重くなった空気を断ち切ったのは、カヅキの切れ味の良い声だった。
「サウラ。レックスはあんなふうに言いますけど、私たちは本当にあなたを家族として迎えたいと思っているんです。私は子供が産めませんから、子供好きの彼に申し訳なかった」
「申し訳なさなんか感じる必要ない」
語気の強いレックスの言葉に、カヅキは微笑んで頷く。それからそっとサウラの手を握った。
「あなたが良ければ、ここを家だと思ってくれませんか」
まだサウラにはわからない。ここを家と思えるのか、この人たちを家族と思えるようになるのか。
それでもこれからどうしていきたいか、生きる理由として何を設定するかは決まった。自分の痛みを、父の苦しみを、広げたくはない。無くせるものなら無くしたい。
ここにいれば自分が役に立てる方法が見つかるはずだ。
「よろしくお願いします」
契約の言葉を口にしたそのとき、サウラ・ナイトの人生は始まったのだった。
叔父さんが淹れてくれたコーヒーはとうに冷めてしまった。あたしはほとんど口をつけることができず、サウラ君の話に聴き入っていた。
「それからは親父さんの手伝いをしたり、学校に通わせてもらったり。お袋さんのリハビリやマッサージに付き添って、やり方を勉強させてもらったりもした。そのうち俺と似た境遇の子が家に増えて、今の俺には三人の妹がいる」
語り手は意外にもリラックスしていて、カップの中は空だ。おばあちゃんが用意してくれたお茶菓子も、ほとんどサウラ君のお腹に収まってしまっている。
「人に顔を見られるのは今も怖いし、血を見るとどうしても父親の遺体を発見した時のことを思い出す。こういう思いを他の人にはさせたくない。だから俺は危険薬物と関係する犯罪を撲滅したい。親父さんとその話をすると、いつもノーザリアのヴィオラセント大将の話を聞かされた」
「お父さんの……。なんて?」
「危険薬物事件に対する執着の凄まじさで一国軍のトップに上り詰めた恐ろしい奴だって。手段を選ばないことにかけては随一だから参考にして、でもけっして見倣うなとも」
見倣うな、のところで叔父さんとおばあちゃんがふきだすのが聞こえた。たしかにね、真似はしちゃ駄目だ、と囁き合う声も。
実際、褒めてはいないのだろう。でも、畏怖は感じる。同時に親しみも滲んでいる。
「そういうわけで、俺なりの手段として軍医を目指すことにしたんだ。親父さんのおかげで生き方と、罪の償い方を見つけられた」
「罪って、サウラ君は何もしてないのに」
「父さんが誰かが傷つくようなことに加担したのは間違いないし、当人はもう傷つけてしまった相手に何もできない。代わりに何かしたいんだ、俺のエゴだけど」
だから頑張るよ、とサウラ君は笑う。こちらからは見えない目も、矛盾なく細められているのがわかる。
叔父さんはとっくに彼の事情を知っていたはずだ。そうして彼に「師匠」と呼ばれることを受け入れたに違いない。
あたしに言わなかったのは、直接聞いて判断しなさいということだ。
「……サウラ君。あたしね、長いこと軍人をやってた友達がいて」
「うん」
「その人によると、どうやら持っている能力がずば抜けて高くて、軍に必要だって判断されれば、入隊の加点になるらしいの」
イリスちゃんを訪ねたとき、ついでに聞いたのだ。先程貰った薬のことを考えると、サウラ君には十分な力があるのではないか。あたしが手出しをしなくても。
「それじゃ、マルちゃんに鍛えてもらえば、もっと条件が良くなるね」
「……まだ訓練するの?」
「そりゃあするよ。加点分だけで入隊できると思えないし」
だからさ、と手が差し出される。よく見ると傷や火傷の痕がうっすらと残っていて、皮膚も硬そうな手だ。これまでの努力が刻まれた、立派な手。
「これからもよろしく、マルちゃん」
あたしも自分の手を伸ばす。彼ほど明確な目標や努力はないけれど、傷を重ねてそれなりに皮が厚くなった手を。
「マルちゃん、ちょっと手荒れしてるね。よく効くハンドクリーム、作ってあげるよ」
授業料の代わりとして、と言うので、仕方ないな、と頷いた。
それからのあたしの生活も、あっちこっちを行ったり来たり。サウラ君に会うのは、たまに故郷に帰ってきたときだけだ。
彼は何度会ってもやはり運動音痴で、でも体力はさらについたし、体型もがっしりしてきた。
出会ってから二年経って、ついに軍医になったのだと報告してくれた。おめでとう、と言おうとしたけれど、彼の生やし始めた髭が気になって、そちらに文句を言うのが先になってしまった。
着実に自分の道を歩んでいく彼。付き合いはもう九年になった。
「マルちゃん、もう行っちゃうんだ」
今回のエルニーニャでの用事を終え、荷物を片付けているあたしを見て、サウラ君は残念そうな声を出した。二十九歳の彼はより大人になり、けれども長い前髪は未だに切られていない。
「出す予定の本も出版社に任せたし、ニール君が巻き込まれた事件も落ち着きそうだからね。危険薬物関係の捜査はサウラ君もするんでしょ?」
「そう、任された。マトリちゃんのお母さんの治療計画もね」
「よろしくね。マトリさんが元気をなくしたら、ニール君たちもおろおろしちゃう」
初めて会ったときはへらへらしていて頼りないと思っていたけれど、今は彼がいれば安心できる。ニール君が憔悴していたいつかも、健康面はサウラ君が見てくれていたそうだ。
「マルちゃん、これ」
呼びかけと同時に、こちらに何かが放られる。構えたあたしの手にきれいに収まったものは、銀色のケースだ。
「傷にもいいし、保湿もできるよ。荷物は少ない方がいいんだよね?」
「ありがとう。このハンドクリーム、使い勝手良くて助かるんだよね」
あたしはどこにでも行く。彼はここで頑張る。関係は師弟のようなものから友人へと変わった。
「帰ってくるのと、次の情報も待ってる」
「任せといて。有用な情報を持ち帰るから」
友人であり、協力者でもある。あちこちを探検すると同時に、各地の危険薬物関連情報を集めるのもあたしの仕事なのだ。
あたしはあたしの道を。大切な人たちもそれぞれの道を。交わったときに、また共に歩こう。