シンプルなノートに、綺麗な字で綴られた物語。ベースになっているのは神獣信仰だろうか、怪物が主人公の前に立ちはだかる。けれどもこれは冒険活劇ではなく、描写のひとつひとつが動悸と鳥肌を誘うホラー小説だ。
文章は、普段読む本に比べれば拙い。プロが書いた文章ではないのだし仕方がないが、同年代の書く作文よりはレベルが上なのは間違いない。
書き手の彼はもうすぐ十四歳。読んでいる私は十歳になる前で、この感想がとても生意気だということは自覚している。
「面白かった。お話はすごく良いと思う」
「本当?」
「でも、表現とかはもっと良くなる。怖さを出すなら、例えばここはあっさりすぎるから間をもたせるとか。それからここ、ちょっと矛盾がある」
私の年下のくせに偉そうな指摘も、彼は真剣な表情で頷きながら聞いてくれた。メモまでとって、最後にはふわっと笑って言う。
「ありがとう。やっぱりマリッカちゃんに読んでもらって良かった。身近に誰か読書家はいないかなって考えたとき、真っ先に思いついたんだ」
真っ先――それがとても嬉しかった。私はこの人の一番なのだと噛み締めた。
けれども本当は一番ではなくて、私の指摘を活かして完成した作品は手紙となって外国へ飛んだ。
それでもおさげ髪だった私は、既に彼に想いを寄せていたのだ。それからも、長く。
「私は逞しい人がいいかな」
友人は馬鹿正直にそう言った。適当にごまかせばいいものを、どうやら嘘が吐けないようなのだ。どちらにせよ、思ったことがよく顔に出るのだが。
年が明け、雪が薄く積もった休日。新年の挨拶がてら、私たちは先生の家に集まった。教師でも医者でもない、小説家の先生だ。
私は先生の担当編集者。国内大手のアメジストスター出版に勤めている。しかし先生との関係は、ただの担当というだけではない。
「マトリさん、逞しいって筋肉がついてるとかそういうこと?」
「そうそう。私、がっしりした人が好きなの。背中が厚くて広いと素敵じゃない?」
先程からはしゃいでいる友人も、先生の担当編集者だ。サフラン社という、うちよりは若いが良い本を作る出版社に勤める彼女は、マトリ・アンダーリュー。
彼女に「好きな人のタイプとかあるの?」なんて迂闊に尋ねたのは、グリンテール・インフェリア。今年十歳になる少年は、先生の従弟だ。
「じゃあ、ルーさんとか好みなんだ」
「素敵な背中だよね。初めて会ったときの印象も良かったから、ああいう人が他にもいてくれたらなって思うよ。ドネス先輩も初めて会ったときには良いなって思ったけど、すぐに既婚者だってわかっちゃったんだよね……」
恋愛運はないみたいだし、もう独り身でいいかなあ。そう言ってテーブルの上のお菓子に手を伸ばす彼女は、自分をずっと気にしている存在に気づいていないらしい。
私の隣でずっとそわそわしているのは、双子のきょうだい。私たちは互いを対等だと思っているので兄でも弟でもない彼は、センテッド・エスト。クールを気取っているけれど、きっと今夜からトレーニングのメニューが増えると思う。背筋を重点的に。
「なあ、先生は? どんな人が好き?」
グリンが台所に向かって問いかける。余計なことを、と思ったけれど、ここで止めると怪しまれる。ぐっと我慢して返事を待つ。
「どんな人って……」
苦笑しつつお茶のおかわりを運んできたのが、当の先生、レナ・タイラス。本名はニール・シュタイナーという。つい先日発売された新刊で初めて正体を明かした、元覆面作家だ。
髪は烏の濡れ羽色、瞳は月の金色。少々眠たげな瞼の眼差しは穏やかで、声は人を和ませる優しい響き。細身で身長も高くはないが、背中がきれいに伸びている。
儚げな見た目とは裏腹に、綴る作品は全て夢に出そうなくらい恐ろしいホラー。でも最後まで読みたくなる中毒性があり、老若男女を問わず大人気なのだ。
「僕はそんな、他人をああだこうだ言えないよ」
この謙虚さも良いと私は思うのだけれど、双子のきょうだいが眉を歪めて身を乗り出す。
「ごまかすな、ニール。君にだって好みはあるだろう。美人だとか賢いだとか」
余計なことを。外に追い出してやりたい。
こんな奴も先生は律儀に相手をしてしまう。
「頭の良い人は魅力的だけどね。僕はどうも色々なことを躊躇してしまうところがあるから、引っ張ってくれる人や背中を押してくれる人はありがたいかな」
返答は私を絶望させるのに十分だった。その言葉がまるっと当てはまる人を知っている。そしておそらく彼自身も、その人を意識して発言している。
私が一番じゃなかったのは、その人がいたから。絶対に追いつけないし、指先も届かない。何もかも私と正反対の女性。
先生はたぶん、私の天敵のことがずっと好きだ。
マトリが寄り道をしようと言ったのは、センテッドがこの後夜勤であり、私が不機嫌そうにしていたからだろう。彼女ほどではないはずだけど、私も大概顔に出やすい。
通い慣れた喫茶店は、夜にはお酒も出す。私たちは冬限定のホットバターラムを頼み、冷えた体を温めた。
「ね、マリッカ。先生に告白しないの?」
「……どうして」
友人は私の気持ちをいつの間にか知っていた。自分に向けられる好意には鈍感なくせに、私の恋に口を出すのはずるい。
「だって、昔から好きなんでしょう。伝えた方がいいと思うけど」
「伝えない方がいい。困らせるのは嫌だし、仕事に影響が出るのも絶対に嫌」
「えー、マリッカも先生もそこは割り切れるタイプじゃない?」
振られてもこれまで通りに何事もなくって? できるはずだ、私たちは大人だもの。寧ろそれが悔しい。彼にとって私は特に気に留めるほどでもない存在だということがはっきりしてしまう。
「私のことは放っておいてちょうだい。マトリはどうなの、独り身でいいとか言ってたけど」
「あの場はね。実際問題、将来どうしたらいいのかなってのは考えるよ。お母さんを迎えに行きたいけど、独りじゃ難しいかもしれない。でも難しいことを結婚相手とかに負担させるのはどうかなって思うし」
「……シビアね」
能天気なようで、そんなことを考えていたのか。つまり彼女にとって重要なのは、恋愛ではなく結婚、その先の家庭なのだ。
「マリッカ。先生、今月末に三十歳になるよ」
「言われなくても知ってる。だから何」
「覆面作家じゃなくなったし、これからますます魅力的になっちゃう。現にうちの編集部に来たとき、みんなキャーキャー大騒ぎ。こんなイケメン、どうしてマトリが独り占めしてたのって」
独り占めはしてないけど、と笑ってから、ちょっと真剣な声を出す。
「後悔したくないよね」
残念ね、ちょっとずれてる。後悔するまでもなく、私の恋は最初から終わっていた。
彼は父の後輩の子で、初めて会ったのは私が四歳のときだった。彼は八歳で、それまでの生活が一変してまだ間もない頃。
そのときにはもう、彼の隣にはあの人がいた。くせっ毛がふわふわした赤茶色の髪に、ぱっちりと大きな瞳。九歳にしてはちょっと大人びていて、頭も良ければ運動もできた。強引な性格はおどおどしていた彼を支えるのに丁度良くて、誰もが認めるベストコンビだった。
エイマル・ダスクタイトは完璧な少女で、私から見てもかっこよくて少し憧れるようなお姉さんだったのだ。
彼女は十一歳から外国とこちらを行ったり来たりする生活を始めて、それもなんだか素敵だった。活動的な彼女に感化されたのか、彼――ニールも学校に通い出し、段々と社交的になっていった。
背すじが伸び、身長そのものも伸びていき、おどおどした彼を見ることは少なくなった。賢さを私たちの父にもかわれ、我が家に時折家庭教師としてやってきた。
勉強ができて、好きな本の話もできる優しいお兄さんに、幼い私は次第に憧れた。率直にいって初恋だった。
淡い想いはすぐに、短期留学から戻ったエイマルと砕けた口調で楽しそうに話すニールを見て、破れてしまったわけだけれど。
完璧なお姉さんに、何かひとつでも勝てないだろうか。私は自分が一番になれるものを必死で探した。勉強も頑張ったし、本もたくさん読んだ。運動では敵いそうになかったので早々に見切りをつけた。
そうしてやっと、ニールの書いた小説を真っ先に読めるという特権を得たと思ったのに。それも実は二作目で、一作目はとっくにエイマルの手元にあった。
しかしその経験は、私に決意をもたらした。ニールが三作目を新人賞に応募したときも、私は少しだけではあるが読んで指摘をしていた。そのときにはもう、もしかしたらこれは大人が書いたものよりも面白いのではないか、と思っていた。
直感に間違いはなく、ニールは新人賞を獲得し、サフラン社から担当編集者がついた。
私はそれにならなくてはならない。天啓ともいえる閃きが、その後の私の全てになった。ニールが小説を書き続けるなら、私は彼を担当する編集者になる。
たとえニールがエイマルに読んでもらうために物語を書いていたとしても、最初に読むのは間違いなく私であるように。
私は彼が好きで、彼の書く物語が好きだ。愛している。その想いに突き動かされ、遂に大手出版社で働けることになった。
それなのに、よりによってそのタイミングで。彼は文壇から姿を消したのだった。
心が深く傷ついた彼を、私はどうにかして再び奮い立たせることができないかと考えた。双子のきょうだいが自分の感傷でその邪魔をしようとしても、負けるものかと彼を訪問し続けた。
結局、彼は名前を変えて文壇に戻ってきてはくれたが、それは私の手柄ではない。
グリンが付き添ってくれたこともある。デビュー当時から付き合いのある編集者を信頼していたということもある。でも、その背中を押した最大の要因はこれだろうと、私は確信している。
再び書き始めた彼を訪ねたときに、テーブルの上の一枚の葉書を見た。
メッセージ欄に大きく書き殴った言葉に、私の頭まで強く打たれた。
『続きはまだ?』
外国の切手に外国の消印。何より知っている名前。――私は完全に敗北したのだと悟り、その日からエイマルは私の天敵となった。
私にできるのは仕事に邁進することで、叶わぬ想いを押し通すことではない。その気持ちは一時は新たな恋の好敵手かと思ったマトリが、先生に恋愛感情はなく、共に作品を作り上げる戦友なのだとわかったときから一層強くなった。
もちろんマトリは好敵手に違いない。同業他社の人間なのだから、仕事上の。
マトリが担当した新刊が飛ぶように売れているレナ先生だけれど、うちでも雑誌に連載を持っている。いよいよその最終回の原稿が、私のところに届くはずだった。
「マリッカ、悪いけどレナ先生のところに原稿取りに行ってくれ」
「え? 明日には到着しますよ」
打ち合わせではそういう手筈になっていた。昨年の夏までは先生の原稿は家に直接取りに行くのが当たり前だったけれど、今は編集部に荷物として着くようになっている。
つまりわざわざ取りに行かなくてもいいのに、どうやら今回は勝手が違う。
「調整しなきゃならないところが出てきたんだ。それでレナ先生の原稿だけでも早めに欲しい」
誰かが締切に間に合わない見込みなのかもしれない。別段珍しいことではない。
もう荷物を出してしまったかもしれないので、電話で確認する。応対したのはグリンだ。長く先生の電話番をしているので、受話器を取るのが早い。
「マリッカです。先生のうちの原稿、もう出してしまったかしら」
「まだだよ。これから散歩がてら行こうか、って話してたところ」
危ないところだった。今から行くから待機してて、と言うと元気な返事があった。受話器を置いて鞄を掴み、ホワイトボードに行先を書く。
こんな感覚は久しぶりだ。先生のところに行くというだけで高揚する。先日お邪魔したばかりだというのに、もう新鮮な気持ちだ。
ブーツの踵は高いのに、早歩きの足は軽い。広い庭の前に来て、胸が高鳴った。はたしてこれは原稿を直接受け取れるからなのか、それとも今日も彼に会えるからなのか。仕事中なのだから、後者は封印しなければならない。
庭を通り抜けて家の玄関に辿り着くと、待ち構えていたのかグリンがすぐに出てくる。
「マリちゃん、待ってたよ。今日は急だったな」
「こちらの都合よ、ごめんなさい。先生は?」
「リビングにいる」
グリンに通されてリビングに向かったのに、誰もいない。部屋かな、と言われて一瞬だけ躊躇したけれど二階へ上がった。
廊下の突き当たりが先生の部屋。ドアは開いたままだった。
「先生、何やってるんですか」
「あ、ごめんね。来てくれるならついでに渡そうと思ってた物があって」
「今度でいいです。急いでるので」
言ってしまってから、しまった、と思った。つい口調がきつくなってしまう癖が、幼い頃から直らない。
「そうだよね。ごめん、仕事中に。原稿はリビングのテーブルにあるから、グリンから受け取って」
「……はい、そうします」
振り向いた表情が見えたのはほんの僅か。申し訳なさそうな笑みは、私が見たかったものではない。
会うのを楽しみにしていたのに、今日はこれでおしまい? でも仕事中だし、実際のところ急ぎの用事だ。
もやもやしたまま階段を下りようとして、足元が疎かになった。
「――――っ!」
段のある若干急な傾斜を、体が滑り落ちていく。まさにその瞬間というのは、自分では何が起こったのかわからないものだ。
音に驚いたグリンが下から、先生が上から駆けつける。「マリちゃん」「マリッカちゃん」と叫ぶ声がする。体中の痛みは混乱の後から追いかけてきて、起き上がるまでの時間で一気に恥ずかしさが込み上げてきた。
「マリちゃん、動けるか?」
「マリッカちゃん、待って。じっとしてて。頭は打ってない? どこか捻ったりは?」
世話を焼かれると余計に惨めになる。首を横に振って、平然と立ち上がって見せなければと足に力を込めた。
ところが、捻ったような感覚もないのに、力が入らない。全身がいうことをきかない。どういうことだろうとさらに混乱していると、先生の顔が近くなった。
「え、なに」
「マリッカちゃん、ごめんね。移動させるね」
言葉を頭の中で繰り返し、その意味を捉えようとするけれど、間に合わなかった。膝裏と背中の感触に戸惑う間もなく、私の体が浮き上がる。
抱き上げられたのはほんの僅かの間だけだ。階段の下から、リビングのソファの上まで運ばれただけ。顔が熱いのは情けない姿を晒した羞恥のせい。動悸は突然の事故にショックを受けたから。
じゃあ、後から湧いてきたこの感情は何。――温かくて、嬉しかった、なんて。
「打撲の程度……は、僕がみるわけにいかないし。グリン、サウラ君に電話を」
「しなくていい! 私は大丈夫。受け身は取るの上手いのよ、これでも」
こんなことで医者まで呼ばれるわけにはいかない。それに一応は軍家の娘だ、言葉に嘘はない。
「痛むところは? 立てなくなってたから、足とか」
「打ったけど問題ない。内出血が後でグロテスクになるだけ。恥ずかしいけど、腰が抜けたの」
やっと冷静になってきて、自分の状況も把握しつつある。ソファから立ち上がって見せると、グリンが大きな溜息を吐いた。
「良かったー……。マリちゃんが怪我するの、嫌だもんな」
「見くびらないで……なんて、階段から落ちておいて言えることじゃないけど。平気だから、もう行くわね。原稿をちょうだい」
仕事を済ませなくてはという使命感はもちろんあるけれど、何より一刻も早くここを離れたい。そして先生には一切を忘れて欲しい。
だってこんなの、格好悪い。嬉しいと思ってしまったことも含めてだ。彼女は、エイマルは、そもそもこんな下手をうたない。階段から足を滑らせたとしても、華麗に着地くらい決める。
「早く、原稿」
「ううん、渡せない」
伸ばした手に、けれどもいつまで経っても要求したものは渡されない。
先生を見上げると、いつになく厳しい顔をしていた。
「……私の仕事よ。あなたのでもある」
「だから、責任持って会社まで送るよ。僕が今持っていけば同じでしょう」
留守番よろしくね、とグリンに言い、先生は支度を始めてしまう。つまり、二人で会社に向かうと?
「先生、行ってもひとりで帰ってこられるの? 私には構わないでいいから」
「僕が二階で余計なことをしていなければ、こんなことにはならなかった」
こうなったらこの人はもう譲らない。長年見てきたのだから、間違いない。
私が歩けるかを気にして歩調を合わせ、自分は車道に近い側に立つ。社屋がいくつも立ち並ぶ通りは、休憩で外に出た人が多い。混んだ道はストレスになるはずなのに、先生は背すじを伸ばして前を向く。片手に私の鞄、もう片方に原稿の入った封筒をしっかりと抱えて。
「具合、悪くない?」
「マリッカちゃんこそ痛まない? つらかったら僕の腕を掴んでていいから」
微笑む顔が少し青い。私よりも自分の心配をしてほしい。普段買い物に行くときだって、途中で立ち止まりながら、グリンと一緒にゆっくりまわるのだと聞いている。
「もう、ここまででいいから。グリンに迎えに来てもらって、帰って」
「どうして。アメジストスター出版の社屋って、もうすぐそこでしょう」
たしかに近くまでは来ている。せめて到着したら、一階のカフェで休んでもらおう。編集者が作家の健康を損ねるわけにはいかない。
「……ごめんなさい、私が迂闊だったばかりに」
「マリッカちゃんは謝る必要ないよ。サフラン社には挨拶に行ったから、こっちも来なきゃと思ってたんだ」
こんなきっかけじゃなければ、どんなに嬉しかっただろう。今は気遣いも重い。
社屋を目の前にして、つい口をついて出た。
「もし責任をとるつもりでこんなことをしてるなら、今後はやめてください」
また言い方がきつくなってしまった。先程それで痛い思いをしたばかりじゃないか。いたたまれなくなって俯いた。
「責任をとって私と結婚しろとか言われたらするんですか、しないでしょう」
先生の表情を見ることなく口走る。ただ自分の胸に蟠るものから目を逸らしたかった。
本当に彼を気にしていたら、こんなことは言わなかった。
「そういう冗談は言わない方がいいよ」
何を言ってるんだ、と自分を戒める前に、平坦な声が低く言った。
あまり聞かない声だ。彼の声はいつも柔らかく耳触りがいいのに、たった今隣から聞こえたのは硬く冷たい。
あ、怒らせたんだ。そう思ったら、もう何も言えなかった。
原稿は間に合った。先生と別れるときには事務的に挨拶をかわせた。仕事はできているのだから、これでいいはずだ。
念のためグリンに確認して、先生が無事に帰り着いたこともわかった。きっと私が思うより、彼の状態は良くなっているのだ。いつかのエイマルの判断こそが正しかった。
どうせまたしばらくは顔を合わせない。次回は何食わぬ顔でいればいい。そうすればいつか自然に忘れて、なかったことになる。
「それならどうしてうちに来て飲んでるの」
マトリは呆れながらも笑っていて、仕方ないなあと子供の言うことを受け入れる母親というのはこんな感じなのかもしれない。
たまらなくなってマトリに連絡をし、終業後に彼女の自宅を訪ねた。テーブルにお酒の瓶とおつまみを広げ、今日の出来事を洗いざらい喋った。
階段から落ちた話をしたときに、痣になってないかどうか見るよ、と一時中断した以外はずっと喋り通しだった。
「忙しい一日だったね。先生が絡むと、マリッカは冷静になれないみたい」
「もともと冷静なんかじゃないもの。ちょっと表情が乏しいだけ」
「うん、私もそうなんだなってわかってきたよ。私の友達は可愛いなあ」
揶揄わないで、とひと睨みしてもマトリは怯まなかった。初対面の頃から随分と逞しくなった。こちらは弱点ばかりが露呈しているというのに。
「とにかく忘れておしまいにする。振られたんだし」
「振られた? いつ?」
「そういうことでしょう。冗談でも私と結婚なんて聞きたくもないんだから」
怒るほど嫌なのだということがわかったのだから、諦める以外にない。空いたグラスに手酌でお酒を注ぎ、すぐにあおる。
「先生はそんな人じゃないと思うなあ」
マトリはおつまみの皿をこちらへ押しやってくる。何がわかるの、と言いかけてやめた。案外彼女の方がわかっていることもある。
「じゃあなんだって言うの」
「ただ、結婚とかそういうのを自棄や自嘲で言ってほしくなかっただけだと思う。先生、真面目だから」
たしかにその方が先生らしい。私とマトリの立場が逆だったら、その考えに辿り着けたかもしれない。けれども自分のこととなると、なかなかいい方向には考えられない。
「ただ、私もちょっと気になってはいるんだよね。先生、黙っちゃったんでしょう」
「ええ。その後は会社に着くまで、どちらからも一言も話さなかった」
「先生って、何か伝えたいことがあるときは言葉を尽くそうとするから、口数が増えるじゃない? そうじゃなかったのはどうしてなのかな」
そんなところまで見ていたのか。やはりマトリの方がわかっているようで、少し悔しい。
加えて、改めて黙り込んだあのときのことを思い出してしまい、胸が苦しい。言葉を尽くす人が口を噤む理由は、私と話すことを不快に思ったからではないのか。
知らず唇を噛んでいると、マトリの家の電話が鳴った。
気にしないで寛いでいて、と家主が小走りで向かい、受話器を取り、応答するまでの音を聞きながらまたお酒を注いで一口飲む。そろそろ瓶が空になりそうで、勿体ないことをしてるなと自己嫌悪が重なる。
溜息を吐いて手を皿に伸ばしかけた。
「すみません、遅くに。ちょっと話を聞いて欲しくて」
かけた、のだが。手に糸を搦め引っ張るように、動きを止めさせる声がした。
電話のスピーカーを通しているのでくぐもってノイズも混じるが、明らかに今一番聞くのがつらい声だった。
どうする、と声を出さずにマトリが私に尋ねる。すぐさま携帯していた手帳を取り出し、一緒にしていたペンで返事を書きなぐる。
応対していい。でも、私がいることは言わないで。
指で丸を作ってこちらに向け、マトリは電話の相手と話し始めた。
「大丈夫ですよ。先生が私の家にかけてくるなんて珍しいですね」
「考えた結果、こちらにかけるのが一番だと思いまして」
スピーカーは切らないようだ。固唾を飲んで、レナ先生の声に耳を傾ける。傾けてしまう。
「今日、僕の不注意で、マリッカちゃんに怪我をさせてしまったんです」
いつもの優しい声に、後悔が滲む。始まった懺悔に、マトリは短く相槌を打っていた。
「仕事で来るのはわかっていたのに、しかも急だったのですぐに用事を済ませてあげるべきだったのに、『ついで』を思い出してしまって。浮かれたりなんかせずに、きちんと仕事をしなきゃいけなかった」
浮かれていたのか。ちょうど外出前だったから、少し浮き足立った状態のところに私が来てしまったのだろう。
「二階まで来てくれた彼女は、階段で足を踏み外してしまったようで。……本当に申し訳ないことをしました」
単に私がドジを踏んだだけなのだから、気にしないでいいのに。原因だって、私がぼんやりしていたからだ。
「それだけじゃないんです。とにかく何かしないとと思って、彼女を会社まで送ろうとしたんですが、途中で大人気ない態度をとってしまって」
大人気ない、とマトリが繰り返す。私の認識と齟齬があるのでは、と彼女も思ったらしかった。
「僕がマリッカちゃんと一緒にいるのって、義務や責任からじゃないんですけど、そう思われてるのかなって思うことがあったんです。それでつい、言い返してしまって。しまったと思ったら、それ以上言葉を継げなくなって」
へえ、と言ったマトリの表情といったら、驚いたような、でも納得しているような、さらににやけるのを堪えきれないというようなもので、絶妙に気持ち悪い。
しかし、私も本人から聞いたことで納得しかけている。どうやら互いに、感じていたことが噛み合っていない。
「雰囲気を悪くしたまま別れてしまったので、気になっていたんです。……今、謝ってもいいかな。いるんですよね、そこに本人が」
思わず肩が震え、その拍子にテーブルにぶつかった。どうして私がここにいると知っているのだ。
「あら、ご存知でした?」
「スピーカーの僕の声がこっちにも聞こえてますから、他に誰かがいるのかもしれないとは思いました。それからグラスの音が聞こえたので、これは間違いないのではと」
そういえばあの人は耳が良かった、と私たちが顔を見合わせる間に、それから、と続いた。
「以前ならわからなかったかもしれないですけど、今はマトリさんがいるので。マリッカちゃんなら頼るんじゃないかと思ったんです」
なるほど、と相槌を打ちつつ、マトリはにやにやするのを隠さない。少し腹が立ったので、立ち上がって近づき、その頭をはたいた。
ここまで来てしまったら観念するしかない。深い溜息の後、受話器を受け取り、呼びかけた。
「先生」
マトリがスピーカーを切り、テーブルに戻る。ここからは私たちだけで話をさせてくれるようだ。
「先生、ごめんなさい。私こそ態度が良くありませんでした」
「良かった、話せた。……こちらこそごめんね。一日のうちに君をたくさん傷つけてしまった」
穏やかで、優しくて、胸を温かくさせる声。涙が出そうになるのを堪えながら、相手に見えないのにかぶりを振る。
「私、すぐきつい言葉を使ってしまうから。反省してもまたすぐに繰り返す。相手を怒らせても仕方ないの」
「僕は何も怒ってないよ。ただ、その……これだけ覚えておいてほしいんだ」
何、とこちらから尋ねて、少しの間。深呼吸する息遣いが届く。
「僕は責任を感じて君といるわけじゃなく、一緒にいたいからいるんだよ。これからもいてくれる?」
どんな気持ちで、その言葉を口にしているのだろう。私の抱いている感情とは違うものだとしても、今は構わない。そういうことにしておいてあげる。
私はきっと、また諦めそこねた。この人のことを、どんなにつらくても、好きでい続けてしまう。けれどもそれは一方で、途方もなく幸せなことなのだ。
だって、あなたに関わること全てから、様々な想いと経験を得られる。私の糧になっていく。そうし続けてもいいのだと、あなたは許してくれるのよね?
「当たり前でしょう、ニール」
こちらこそ、どうぞ、どうか。
鏡を見る度に頬が弛んでしまいそうになるのを抑える私は、先日のマトリといい勝負で気持ち悪い。真面目な顔を作っても、どうやら機嫌の良さがだだ漏れているようで、職場でも訪問先でも「いいことでもありました?」と訊かれる。
ええまあ、とだけ答えるけれど、本当は先々で自慢したいくらい嬉しい。
あの後、改めて先生を訪問したときに、グリンが私に耳打ちした。
――マリちゃんを送って行った後、先生はちゃんと帰ってきたけど、しばらく家に入らずに庭をうろうろしてたんだ。何かあったんだろうなって思って、そっとしておいたけど。
大丈夫だった? と尋ねるグリンに、私は頷いた。もう何も問題はないのだから、そういうことでいいだろう。
それから先生は、いつものようにお茶とお菓子を用意してやってきた。早速仕事の話をしようとすると、その前に、と止められた。
――これ、先日渡そうとしていたもの。忘れるとまた焦るから。
可愛くラッピングされていたのは、鳥を模したピアスと羽根が彫られたバレッタ。見つけたときに似合いそうだと思った、と照れ笑いする先生を、何度も思い出している。
もはや好敵手や天敵がどうとか、そういうことはどうでもいい。彼がアクセサリーを見て私を思ってくれた、そのことで胸がいっぱいで、嫉妬の入る余地がない。
恋は実らないかもしれない、とはまだ思っている。彼は誰にでも優しくて、私へのプレゼントもその延長だ。私のために選んだのではなく、物に私が重なったというだけなのだから。
でも全く希望がないわけではないし、どんな長期戦だって私は構わない。長い間抱え育てた恋心だ、そう簡単にへこたれる気がしない。
耳と髪にお守りを。胸にあなたの声と言葉を。人と比べることはしないで、必要な勇気はもう少し。