泣いている。誰よりも明るく振舞おうとしていた彼女が、大粒の涙をとめどなく溢れさせている。
僕はそれを止めたらいいのか、あるいはそのままにしてやればいいのか、わからない。やるべきことを選べない。
「わたしのせいだ」
彼女は繰り返す。何度も何度も。
「お姉ちゃんがいなくなっちゃったの、わたしのせいだ」
どう返事をすれば正解なのか、もしくは正解など存在しないのか。僕は黙って見ていることしかできなかった。
二十五歳、あるいは二十六歳、二十三歳の春。
僕らはあの日全員が、人生の岐路にいた。
リッツェ家の者は文武両道であるべし、と何代か前の家長が言った。そのため我が家の教育環境と人生設計は面倒なものになっている。
九歳までは教育水準の高い小学校で普通教育を受け、中退して一年間を軍人養成学校で過ごす。その後軍に入隊し、二十歳前後で退役、大学に進んで何某かの研究に携わる。それが昔からの決まりなのだといわんばかりに押し付けられる。
僕には武の才能がないから、早く軍を辞めて学校に行くようにと、兄たちから散々言われてきた。だがそれは今日まで拒否し続け、遂に軍人として二十五歳の年を迎えた。僕の誕生日は年の瀬だから、満年齢は二十四になったばかりなのだが。
長兄のアルトは、ゼウスァート大総統閣下にすっかり絆されており、さほどうるさくはなくなった。だが次兄以下はいまだに心配性のままであり、とうとう僕の人生に他人を巻き込む手段に出た。
「素敵なお嬢さんで、お前のことも一目で気に入ったそうだ。軍を辞めて結婚しなさい。そしてこちらのお嬢さんのお家で働かせてもらうといい」
次兄は突然訪ねてきて、僕に見合い写真と釣書を押し付け、帰って行った。
途方に暮れて、軍人寮の自室でぼんやりしていた。仕事があれば逃げられたのに、その日は運悪く久々の休みだったのだ。
「フィン、どうした? 部屋の電気もつけないで、具合でも悪いのか」
同室であるルイゼンが、帰ってくるなり心配してくれた。察しの早い彼は、僕の置きっぱなしの荷物を見て「兄さんか」と呟いた。
「軍を辞めて、結婚相手の家業に従事しろと」
「結婚?」
「僕が、その写真の女性と」
「ふうん……あ、連絡先あるな。断れよ」
彼が有無を言わせぬ物言いをするのは、僕が「断りたい」という気持ちを全身で表していたからだろう。そうでなければきちんと相手の話を聞いてくれる。その強く優しい性分に、僕はずっと憧れていた。彼のようになりたかった。
ルイゼンのような強さがあれば、僕も兄たちを振り切って自由になれるのではと思っていた。そう思い続けているだけでこれといった前進はできないまま、時間ばかりが経ってしまった。
「結婚はともかく、僕は二十五歳になる。そろそろ軍を辞めるタイミングは考えなきゃならない」
この国の軍人は若い。三十代前後で引退を考えるのが普通だ。それ以上在籍しているのは余程の力がある将官か、大総統とその側近くらいなものである。
三年前、将官室長だったタスク・グラン大将が退役した。当時三十一歳、一般的なタイミングだった。彼は東都ハイキャッシに生活の場を移し、現在は妻と娘と共に暮らしている。後任にあれだけ煙たがっていたルイゼンを指名し中央司令部に波紋を呼んだのが、昨日の事のように思い出される。
彼を参考にするなら、あと五、六年といったところか。しかしながら情報処理室長という立場にいつまでも居座るのは後輩たちの出世の妨げになるだろうし、その肩書きを手放した僕に価値があるかどうかは疑わしい。
「辞めるタイミングか……。まさかフィンからもその言葉を聞くとは」
「ルイゼンも誰かに言われたのか」
「リチェの親父さん。身を固める気があるのなら、危ないことは辞めてくれって」
万が一娘が遺されるようなことがあっては可哀想だという、その親心はわかるけど。ルイゼンは彼のベッドに寝転び、苦笑した。
「俺はもうちょっと頑張りたいんだよな。退役しても軍には関わっていたいし」
「ルイゼンは根っからのエルニーニャ軍人だな。いっそ大総統にでもなったらどうだ」
「そうだな、そういう手もあるな」
それなら文句もないだろう、と彼が言うので、頷いた。実現が不可能な未来ではない。ルイゼンならば大多数が納得するだろう。
僕も彼のようなら、という詮無い思いが再び過ぎり、すぐに打ち消した。
かつてリーゼッタ班として、ルイゼンをリーダーとしたチームを組んでいた僕たちだが、現在はそれぞれに任された仕事をしている。ルイゼンは将官室長、僕は情報処理室長、イリスは相変わらず大総統補佐。メイベルは訓練指導や任務の指揮といった上官らしい役目を担い、カリンも事務方軍人の指導を行なっている。
特にあのメイベルが、と以前の彼女を知る者は口を揃えて言う。中央司令部のアウトロー、気に入らなければ上司や同僚にも銃口を向けて毒を吐く問題児。そう思われていた彼女の指導は、意外にも後輩たちに人気がある。
厳しいには厳しい。だがメリハリがあってやりやすい。よく見ると彼女は美人である、という実力とは何ら関係の無い評価まで手伝って、わざわざ教練監督を頼みに来る者もいるようだ。
現場指揮も、上官からの指示をまるで無視して行動していたメイベルの割には、上手くやっているという。というのも、彼女の「指示」は最低限であり、あとは実動の軍人たちの判断に任せているそうだ。つまりゼウスァート大総統閣下やルイゼンがメイベルを起用するとき、彼女に対してしていたように。
信用されてるんだなって思うんです、と後輩のひとりが嬉しそうに言っていた。そのような感想が出てくるということは、信用と信頼の関係が相互にできているということだ。
たとえメイベル本人が単にあれこれ言うのが面倒だからという真実があっても。
そのメイベルだが、今日は妹のカリンとともに休みを取っている。家のことでちょっと、とカリンが言っていた。
イリスも朝に会って挨拶を交わしたのだが、その後早退したらしい。慌しいが静かな中央司令部だ。
「室長、端末を一台お借りしてもよろしいですか」
「用途は」
「会議です。第一会議室で使います」
事前申請に漏れがあったようで、申し訳ございません。丁寧に頭を下げた少年に、僕は申請書を差し出してできる限りの笑顔を作る。
「君が悪いわけではないから、謝ることはない。本来なら使用する当人が来るべきところだ」
彼は申請書を受け取り、にこりともせず呆れたように息を吐いた。
「そうですよね、僕もそう思います。想像以上に中央司令部には怠惰な人間が多い」
「……その態度、僕以外には隠せよ。エスト曹長」
二年前に養成学校を経て入隊したセンテッド・エストは、知人の子だということもあり、元リーゼッタ班の面々に対しては生意気ぶりを正直に表している。久しぶりに学卒から入隊試験首席が出たということで、周囲の期待は大きい。それ故に僕らを使って息抜きをしているのかもしれない。
「僕から見て、まともなのはルイゼン大将かあなたくらいです。ああ、それからカリン中佐も」
「それはどうも」
「だからあまり早くに辞めたりしないでくださいね。僕の出世に関わります」
彼は何気なく軽口を叩いただけなのだろうが、今の僕には刺さる言葉だ。まだ辞めないよ、とすぐに返せば良かったのだが、笑って誤魔化すしかできなかった。
辞めずに残って何ができるのか。センテッドはああ言うが、彼は要領がいい。順調に昇進し、自分が教育した部下を率いるようになるだろう。僕が辞めても彼の人生に支障はない。
僕の勝手な理想としては、ルイゼンが大総統となり、イリスが補佐を続け、メイベルやカリンも重要ポストに就けばなおいい。だがそれはさすがに偏りすぎか。いずれにしても、僕の席は見当たらない。僕自身がそれでいいと思っている。
それなら軍を辞めて、新たな場所で再スタートをきるのも、悪くはないのでは。兄たちの良いようになるのは納得できないので、自分でやりたいことを、やれることを見つけて。
「まあ、そういうのもありじゃん? フィンの人生だし、色々考えてみなよ」
元々用事があって出向いた大総統執務室で、世間話ついでに考え事を零すと、レヴィアンス・ゼウスァート閣下はあっさりとそう言った。
「やりたいことというのも特段見つからないんですが」
「改めて考えると思いつかなかったりするよね。オレも大総統辞めたらどうしよっかな。ねえ、レオはそういうの考える?」
「私は閣下のお側に仕える今しか考えておりません。しかし適性としては、やはりどなたかのお世話をするのが合ってるかもしれませんね」
大総統補佐であるレオナルド・ガードナー大将は安定の回答と共に、適性というヒントをくれた。しかし僕の適性とは。またひとつ悩みが増えてしまう。
「ねえフィン、もしいくら考えても思いつかなかったらさ。とりあえずここにいたらいいんじゃない?」
適性でいえばここが良いよ、と閣下は言う。兄たちとは真逆の考えだ。そういえばいつぞやも、僕を班から外すときに、この人は僕の適性に合わせた仕事を任せてくれたのだ。
「もちろんとりあえず辞めてみるってのもありだけどね。ふらっと旅に出てみるとか」
「そういう思い切りのいいことは、僕にはなかなか」
何の解決にもならなかったが、話してみると案外すっきりした。閣下と話すと、心がふっと軽くなることがある。彼は僕らを縛らない。選択肢をあれこれと提示しつつ、こちらにその妥当性や実現可能性などを考えさせてくれる。
もう一度じっくり考えてみよう。時間はあと五、六年はあるのだ。その前に答えが見つかればいい。
そのときはそう思っていた。その日何が起きていたのか、僕は知らなかったから。
翌日の昼、メイベルが突然、僕らの前から姿を消した。
何でよ、とイリスが繰り返す。これで何度目だろうか、もう数えるのも諦めた。
昼食を一口も食べずに席を立ったメイベルは、そのまま戻ることはなかった。将官執務室で彼女を見たという者は、突然何かを書き始めたと思ったらすぐに出ていった、と証言した。午後の教練指導や明日以降に予定していた任務は担当者の名前が変わった。
僕ら――メイベルを除いた元リーゼッタ班員は大総統執務室に乗り込み、短時間で何が起きたかを知ったのだった。
「メイベルなら辞めたよ」
「辞め……レヴィ兄、何よそれ。全然意味わかんない」
何でもないよくあることを言うように閣下が言い、イリスが突っかかる。あるいは閣下にとっては誰かが突然辞めるなんて日常茶飯事であり、本当に何でもないことなのかもしれなかった。
「何で?! どうしてベルが辞めるの?!」
「本人曰く軍にいる理由が無くなったって。いや、首都にいる、だったかな」
「それって中央司令部からってだけじゃなく、レジーナから出ていったってこと? わたしたちに何も言わずに?」
「メイベルにはメイベルの考えがあるんだろ。オレとしては補佐が一人突然長期の休みを取るのと何も変わらない」
そう返されると、イリスは何も言えなくなってしまった。先程、彼女は結婚の準備のために長期休暇を取るのだと、僕たちに言ったばかりだった。
イリスの結婚に驚いている場合ではなかった。それを聞いたメイベルが何を思ったのか、僕はようやく考えるに至った。
「でも、まさかイリスの結婚でそこまで」
「わたしのせいなの? どうしてよ。相手がウルフだから? あの仕事熱心なベルが、同僚が嫌いな相手と結婚するくらいで辞める?」
「さすがにそんな奴じゃないだろう。閣下、メイベルは他に何か言ってませんでしたか」
「聞いてない。ただ自己都合だし、処理したいことがあるから、給与や退職金については後で改めてってことだったな」
処理したいこと、と聞いたカリンが一瞬瞠目した。何か心当たりが、と尋ねる前に、彼女は僕たちと閣下の間に入った。
「まあ、ほら、お姉ちゃんは気まぐれですし。きっとやりたいこととか思いついたんですよ。イリスさんのせいじゃありませんから、そんなに心配しないでください」
「でも、カリンちゃんにも何も言わないなんて」
「昔からお姉ちゃんはそうですよ。軍人学校に行ったのも、お父さんを捕まえたのも、全部そう。それで今までやってこられたんだから、大丈夫です」
わたしたちは仕事に戻りましょう。カリンは困ったような笑顔で、僕たちを部屋の外へ押し戻す。閣下に一礼して、自分も出た。
まだ寮にいるかも、とイリスは走って行ったが、間に合わなかったらしい。意気消沈して戻って来て、「ベルの荷物が減ってる」と呻いていた。大きなものと本は残されていたが、生活必需品は持ち去られていたらしい。
「イリスさん、明日からお休みでしょう。ご結婚されるんでしたら、笑顔でいなきゃ。お姉ちゃんのことは、妹であるわたしに任せて」
カリンに説得され、イリスはひとまず黙ることにしたらしい。混乱はしているだろうが、その後の仕事に大きな支障はなく、翌日から予定通り休みに入った。
ルイゼンは閣下の言葉で納得しておくことにしたらしい。何かあればちゃんと連絡はするだろう、少なくともカリンには。僕らに言ったようで、実際は自身にそう言い聞かせているのだろう。付き合いが長いとそういうことがわかってしまう。
僕はといえば、次々と起こる事態に頭が追いついていなかった。イリスの結婚を飲み込みきれないうちに、メイベルの無言の失踪を流し込まれ、窒息しそうだった。その状態で一晩を越したのだ。
翌日ももちろん引き摺り、よく眠れなかったためか「顔色悪いですよ」と何度も指摘された。ルイゼンは具合が悪いなら休めと言ってくれたが、僕としては動いて気を紛らわせたかった。
その晩、ルイゼンは急な出張が入り、寮の部屋には僕一人だった。だからこそ彼女は、その日のうちに僕を訪ねて来ることができたのだ。
「フィネーロさん、お時間よろしいですか」
カリンは既に泣きそうな笑顔をしていた。
彼女を部屋に通し、何か飲み物をと冷蔵庫を開けた。しんどかったら糖分でも補給しておけ、とルイゼンが置いていってくれたゼリーがあったので、それを出した。
「メイベルのこと、何かわかったのか」
その話だろうと思い、先に質問してしまった。せめて彼女がゼリーを一口でも食べてからにすればよかった、とすぐに後悔した。きっとルイゼンならそうする。
カリンは首を横に振り、俯いた。
「行方に関しては何も。でも、役所で確認はしてきました。お姉ちゃんはそうするだろうって、何となくわかったので」
「そうするって?」
役所に何の用があるというのか。ああ、転居ならまず届出をするか。だが事実は、僕の想像を超えていた。
「お姉ちゃん、もうブロッケン家の人じゃないんです。籍を抜いて、新しい戸籍を作ってました」
詳しくは本人の意向で教えられないそうです。カリンの言葉が、なかなかうまく理解できなかった。
しかし彼女曰く、ずっと考えていたのではないか、ということだった。
メイベルたちの家庭がこの国の生活水準としては低い方にあることも、特に長子である彼女がつらい立場にあったことも、僕は昔から知っている。家を出ることを考えていた、それ自体に疑問はない。
問題はタイミングだ。どうして今になってなのか。それとも、今だからこそだったのか。答えは後者だと、カリンは語った。
「ブロッケンの家は、取り壊して土地を売ることにしたんです。お姉ちゃんとは実は結構前から相談してて、やっと見通しがついたんです。末の弟も職人さんの家に住み込みで働けることになって、あの家が必要な人はいなくなるから」
「お母さんは」
「母は施設に。わたしと弟妹たちで費用を賄うようにして、お姉ちゃんには負担をかけないことにしました」
だってあんまりじゃないですか、と声が鋭くなる。カリンが感情的になることは滅多にないのだが、怒りの表出だとわかった。
「お母さん、お姉ちゃんに色々してもらってるのに、ずっとお姉ちゃんのこと邪険にして。どんなに暴力をふるっても、悪いことをしても、お父さんの方が大切で、それを奪ったお姉ちゃんはお母さんの敵なんです。この十五年、ずっと変わらなかった。変えられなかった」
わたしが、と声が滲む。わたしが変えられたら、と滴が落ちる。
「お姉ちゃんを解放しなきゃって思ったんです。自由になってほしいって。もう好きなように生きていいんだって。でも、それはわたしがちゃんとお母さんを説得していたら、違う選択ができたかもしれない。こんな、……お姉ちゃんを追い出すようなこと、しなくても」
自分たちでできるから大丈夫、とメイベルを家庭の負担から外した。その言葉はメイベルを楽にしたのか、それとももう自分は用済みであると思わせたのか。カリンは後者だと、そうメイベルには聞こえたのかもしれないと考えているようだった。
メイベルがこれまで、妹弟のために尽くしてきたことは知っている。カリンが軍に入ること、危険にさらされることに難色を示し、厳しい態度をとったこともある。その下の弟妹たちの生活費や学費の工面、就職先の世話などをするために、自らに「労働をしない者は悪である」と言い聞かせてまで働いていた。
軍人学校で出会ったとき、メイベルは既に一生をそうして過ごすつもりだった。だがそれは唐突に終わった。
ここにいる理由は、無くなったのだ。
「わたしのせいだ。お姉ちゃんを家から追い出しちゃった。お姉ちゃんの気持ちも聞かずに、勝手に決めちゃった」
カリンの膝に、握りしめた手に、ぱたぱたと大きな滴が落ちる。泣くんじゃない、と叱る姉はいない。
「お姉ちゃんがいなくなっちゃったの、わたしのせいだ」
ずっと我慢してきたはずだ。ハレの日を迎えるイリスの前では泣くまいと。ルイゼンや閣下に心配をかけてはいけないと。家族の前でもそうだったかもしれない。
それを泣くなとは、僕には言えない。それ以外の言葉も見つからない。気が利かない僕に経緯を教えてくれたのは、ここで泣いているのは、僕がカリン以外では最もメイベルとの付き合いが長いからだ。
何か聞いてはいないか、知りはしないかと期待もしたかもしれない。だが、僕にも情報はない。メイベルが今どこで、何をしているのか。それは僕自身も知りたいことだった。
「……カリン。今日はルイゼンもいないから、いくらでもここを使っていい。僕はどこかに泊まりに行くから、好きなようにしていいよ」
彼女をひとりにしてあげる、というよりは、ただ僕がどうしたらいいのかわからないから逃亡しようとしただけだ。カリンに涙を拭くための紙を渡し、立ち上がろうとした。
すると袖を引かれ、留められる。
「行かないで。……置いてかないで」
何のために来たのかわかんないじゃないですか、と彼女は言う。僕は彼女の隣に座り直して、何をするでもなく、言うでもなく、そこにいた。
イリスの結婚相手であるウルフの唯一の家族、バンリ・ヤンソネン氏の葬儀が全て終了した翌日。早くも彼女の結婚披露宴の日が知らされた。
「もうちょっと時間あけたら、って言ったんだけどね。ウルフは『早くない、間に合わなかったんだ』って」
溜息混じりに言うイリスの左手薬指には、シンプルで美しい指輪がある。彼女の兄が手掛けたのだという。
間に合わなかったのは人を呼ぶ披露宴だけで、誓いの儀式はバンリ氏の病室で、近親者のみで執り行った。お父さんが大号泣して大変だった、と当日中に報告を受けている。
「披露宴の招待、ありがとう。この日は大きな事件が起こらないといいな」
「本当だよ。レヴィ兄にも写真たくさん撮ってもらわないとね。……それでさ、フィン」
言いにくそうにする彼女の次の言葉を、僕は簡単に予想することができた。誰もが同じことを考えているだろう。
「メイベルの居場所なら僕はわからない。連絡もついていない」
「だよねえ……。ベルにも来てほしいんだけど、やっぱり無理かなあ」
失踪からまもなく一ヶ月が経過しようとしていた。イリスの結婚披露宴は来月。それまでに何らかの連絡があればいいが、いずれにせよメイベルは出席しないだろう。これは幼馴染の勘だ。
「イリス、僕も聞きたいことがある」
「何?」
「君は、僕が君をずっと好きだったことを知っているか」
彼女の大きな目が見開かれる。赤い眼の持つ力の制御が甘くなったのか、少しくらっとした。
「……なんで今、そんなこと言うの」
「知ってたかどうか確認したかっただけだ。でもその分だと知らなかったんだな。ならそれでいい」
忘れてくれ、と立ち去ろうとして、腕を掴まれた。そして力づくで彼女と向き合わされる。忘れないよ、とはっきりとした響きが言う。
「知ってるよ。なんとなくだけど、わかるようになってきてた。好きでいてくれて、でも言わないでいてくれた。わたしを困らせると思って、そうしてくれてたんでしょう」
「言ってたらどうした」
「ちゃんとふってた」
「……だろうな。僕がそれを恐れていただけだ」
君のせいじゃない、と言ってから、でも、と続ける。
「メイベルの気持ちは? 彼女も君を想っていた」
「……やっぱり、そうだったんだ」
そっちは確証が持てなかったんだよね、とイリスは俯く。もしかして、と思ったのは先日の僕の発言からだった。最もあからさまなアピールをしていたはずなのに、近すぎて見えなかったのだろう。
「わたしの結婚、そんなに嫌だったのかな」
「そうじゃない。僕が思うに、君はメイベルの憧れだったんだ。恋心もあっただろうが、それよりも……人が月に抱くようなものに近いんじゃないか」
もしかしたらいつかは、研究や技術の進歩を重ねたなら届くかもしれない。そう思い続けていたけれど、もうそれも叶わないのだという確信。それを得たメイベルが離れるという選択をしたのなら、イリスの門出を見届けることはないだろう。
それはもう、知らないこと、知る必要のないことなのだ。
「なんか難しくてよくわかんないけど、ベルと連絡が取れても、披露宴に来てほしいとは言っちゃ駄目ってこと?」
「駄目ということはないが、残酷だと僕は思う」
「そっかあ……フィンもごめんね……」
「僕はもういいんだ。君が幸せになるなら、それで」
僕の幸せは僕が決めて、掴み取らなくてはならない。メイベルも同じだ。僕はあの日の彼女の急な選択を、あと少しで全て納得できそうだった。
イリスの結婚披露宴まで一週間を切った日。ルイゼンは実家に戻り、リチェスタとの結婚について話をするらしい。寮の部屋には僕ひとりだった。
電話をかけてきたのは、忘れ物をしたルイゼンか、再三の説得を試みる兄か。そのあたりを予想していたのだが、受話器から聞こえた声に裏切られる。
「フィネーロ、暇か」
こちらをぞんざいに呼ぶ、ハスキーな声。脳裏によみがえる、琥珀色の長い髪を鬱陶しそうに払う彼女の姿。
「メイベル、今どこにいる」
衝撃の割に、問いたかったことはするりと喉から出てきた。
「荒野の向こうだ」
「ふざけないでくれ。地名を教えろ」
「その必要は無い。どうせここもすぐ離れるんだ」
あちこちを転々としているんでな、と言う向こう側の音を聞く。誰かの話し声、ガラスや陶器、金属のぶつかる音。どこか食事のできる場所らしいということはわかった。
「何をしているんだ。僕たちに何も言わず、突然姿を消して。せめてカリンには一言告げて行ってもよかったんじゃないか。彼女は君がいなくなったのは自分のせいだと言って泣いたんだ」
次第に感情が滲む僕の言葉を、しかしメイベルは変わらぬ調子で受け止めた。
「とんだ勘違いだな。これは私が決めたことで、誰のせいでもない」
「だったらそう伝えてやってくれ」
「お前から伝えればいい。同じことを言うのは手間だ」
「手間って。カリンの気持ちも考えたらどうなんだ。君は彼女の姉さんだろう」
「私はもうブロッケンの人間じゃない」
語気を強めると、メイベルの低い声が重なった。――僕の知っている響きだ。苛立っているわけではない。
「私にはもう、そこにいるだけの価値がない」
事実をこちらに言い聞かせている。そういう響きであると、きっと僕かカリンにしかわからない。
「カリンと話す資格がないとでも?」
「そういうことだな。お前に連絡を取った意味を察してくれるとありがたい」
誰でもなく、僕を選んだ。軍を離れるときに本来伝えるべきであったルイゼンや、自らの幸せに生きようとしているイリス、身を引いてしまった家に残したカリンではない。
僕の立場だけが、メイベルにとって変わらない。変えずにいてくれた。
「伝えてくれ、幼馴染のよしみで」
いや、変えようがないのだ。僕たちの間柄は、そういうものだった。
「……わかった、カリンには伝える。僕からも知っておいてほしいことがあるんだが」
「何だ」
「イリスの結婚披露宴が来週執り行われる。一瞬でも戻ってくる気は」
「無い。せいぜい幸せになれ。これは伝えなくてもいい」
了解、と返事をすると、用事は以上だと言う。声が少し遠くなったので、このまま切られてしまうのだろう。
「また連絡を」
咄嗟に叫んだ言葉は届いただろうか。電話が切れた音がして、僕も受話器を置いた。
確実なことがある。彼女は無事でやっていて、まだ妹弟のことを気にかけているということだ。すぐに伝えなければと、僕はカリンの部屋に電話をかけた。
メイベルの失踪――いや、この表現は相応しくない。居場所はわからないが、彼女は月に一度は必ず僕に連絡を寄越すようになった。
とにかく、無事であることだけを確認し、それをカリンに伝えるようになってから一年。その間にも僕らはやはり人生の岐路で、それぞれの道を慎重に、ときには勢いをつけて、選び続けていた。
ルイゼンはリチェスタの親ときちんと話をして、イリスの披露宴からそう経たないうちに自分も結婚した。式には僕も出席し、彼らの幸せそうな姿を目に焼き付けた。
軍は辞めない、ときっぱり言ったそうだ。それが俺の選んだ道だから、と。するとリチェスタも、自分もバイオリン演奏をしながら各地をまわるから構わない、と宣言したそうだ。彼女の実家であるシャンテ家は少々困惑したというが、結婚式では夫婦を心から祝福しているようだった。
イリスは結婚後も何か大きく変わるということはなかった。以前と同じように仕事をし、しかし時折メイベルに思いを馳せている。もっとあの子の気持ち考えてあげてたらよかった、と酒が入るたびぼやく。
会いたいな、とも毎回言う。今になって一番メイベルを恋しがっているのは、イリスかもしれない。本人が聞いたらどんな反応をするだろう。
カリンは実家の整理を少しずつ終え、子供の頃から軍に入るまでを過ごした家を取り壊した。諸手続きは弟たちに相談しながら進めていたようだが、一部は僕も手伝っている。
もっとちゃんと勉強したいな、と呟いた彼女の視線の先に、次なる目標がありそうだ。もしかすると、メイベルに続いて新たな人生を始めるのはカリンかもしれない。この姉妹はなかなか似ているのだ。
そして僕。次兄たちに軍を辞めるつもりはないと伝えようとしたら、長兄が加勢してくれた。もちろん手放しで協力してくれたわけではない。僕の展望を話し、納得してもらった上でのことだ。
ゼウスァート閣下の代では様々な新しいこと、進歩的なことに着手している。軍で独占してしまっていた技術や知識を文派や民間に提供し、共に研究を進め実践に移すということを、あらゆる分野に行なってきた。
僕は情報分野について、その第一線に立ちたかった。長兄の研究分野にも通じることであり、必ずエルニーニャの、そして大陸中の全ての人々に役立つ。僕は軍の側からそれを続けていきたいのだと、具体的なプランも提示しながら話をした。
計画には、軍のトップに近い立場になることも含まれている。心境に変化があり、そこに僕の席をつくらなければ望みを叶えることはできないと思うようになったのだ。
望みとは、すなわち、自分の手で成し遂げること。僕を縛ろうとする何ものにも、文句は言わせない。
仲間たちのように、僕も新たな道を切り拓くことを選ぼうとしている。
「フィネーロさん、もしかして疲れちゃいました? ぼんやりしちゃって」
声を掛けられ、隣に視線をやる。笑顔のカリンと目が合うと、僕の手に彼女の手が絡められた。
先程まで純白のドレスに身を包んでいたが、もう動きやすいパンツスーツ姿だ。これから荷物を持って移動しなければならない。
行先は僕らの新居。中央司令部に程近い、新築のマンションの一室だ。それから可能な限りの挨拶回りをしなければならない。
「まだまだ忙しいですよ。お疲れでしたらわたし一人でも」
「いや、君だけに負担をかけるわけにはいかない。そんなことしたらメイベルにだって撃たれる」
「あー……お姉ちゃんならやりかねないなあ」
今日は僕とカリンの結婚を家族や友人に祝ってもらった。彼女とは家庭の問題やメイベルの近況を話すために、あるいはそんな理由がなくとも、二人での食事や外出を重ねるようになったのだ。そうして僕が彼女に惹かれていると気づいた頃、向こうから告白してくれた。
僕の家族からは一度結婚を反対されたのだが、カリンが聡明かつ芯の強い女性であることはすぐにわかったようで、大人しくなった。そうでなくとも、僕は彼女を守るためならリッツェ家と縁を切る覚悟すらあったのだ。
そう伝えると、カリンは「あなたまでお姉ちゃんみたいなことしなくていい」と苦笑していた。
「僕は疲れているわけじゃないんだ。ただ、今回もメイベルは来なかったなと思っていただけで」
「ですねえ。お姉ちゃん、結局仲間の結婚式には一度も顔を出しませんでしたね。フィネーロさんくらいは直接祝ってもいいのに」
「それなら君だろう。実の妹くらいは直接祝うべきだ」
メイベルはまだ家族に引け目があるのか、それとも仲間だった者に会いたくないのか。これまで三度あった機会のいずれにも現れていない。
連絡がついたときに話してはいる。当然カリンと僕の関係についても報告していた。だがいつも興味なさげな返事だけがあった。
元気にやっているならそれでいい、と互いに思っていた。だがそれは相手の不在を惜しんでいないということではない。
「会いたいな、お姉ちゃんに。話をするのも、ずっとフィネーロさんだけだったもの」
せめてカリンの想いだけは、汲んでやってくれないものか。価値とか資格とか、そんなものはどうでもいい。こっちが会いたがっている、ただそれだけなのだから。
会場を出て帰路につこうとして、こちらに向かってくる自動車に気が付いた。運転が乱暴なのでカリンを庇うようにして通り過ぎるのを待つ。
ところが車は僕たちの目の前で停まった。錆の浮いた古く小さな車体は見知らぬもので、僕とカリンは顔を見合わせる。
「聞いた通り、仲がよろしいようだな」
その声が聞こえるまで。
窓が完全に開き、運転手の姿を見ても、これが現実であるとすぐには捉えられなかった。
「カリン、そいつでいいのか? この世でましな部類の人間ではあるが、実家が酷く煩いぞ」
「……お姉ちゃん」
低くハスキーな声は電話よりもクリアだ。琥珀色の髪と若草の色の瞳はカリンと同じ。一年ぶりに見る彼女は、あまり変わっていないようだった。
「メイベル、式は終わったが」
「だから来たんだ。お前たちを祝う以外に余計なことはしたくない」
そう言って、車からは降りずに窓から花束を突き出した。カリンがそれを受け取ると、今度は僕に向かって厚みのある封筒が。
「祝儀だ」
「ありがとう。……妹のためなら来てくれるんだな」
「妹と幼馴染のにやけた顔を見に来ただけだ。じゃあな」
「待って! お姉ちゃん、もうちょっと話そう? わたし、お姉ちゃんに言いたいことがたくさんあるの。うちでお茶でも」
「いらん」
車にとびついたカリンを手を振って追い払い、メイベルはサイドブレーキを外しハンドルを握り直した。僕は慌ててカリンの手を引き、車から離れさせる。
「お姉ちゃん、怒ってる? わたしがお姉ちゃんを追い出したから」
「怒ってない。追い出されたとも思わない。私は私の人生を送っているから、気にするな」
答えたのは一つだけ。車は発進し、メイベルは再び消えた。
カリンはがっかりしてしまったのではないか。そう思い彼女の顔を覗き込む。
「……どうした?」
「うん? ……ふふ、良かったなあって」
笑っていた。カリンは目を潤ませながらも、嬉しそうに微笑んでいた。
「お姉ちゃん、自分の人生を送れてるんだ。わたしたちに縛られない、お姉ちゃんのための人生を。それがわかったから、安心した」
そうしてほしかったんだもの。そう言って姉が向かった先を見る彼女は、これまでで一番美しかった。
「わたしたちも、わたしたちの人生を送ろうね。大変なことはたくさんあるかもしれないけど」
「僕らなら大丈夫だろう。そうなるように、君を守る」
「わたしだってお姉ちゃんの妹よ。あなたが苦しいときは、わたしが守るわ」
僕らはいつだって、人生の岐路にある。この二十六歳、あるいは二十七歳、二十四歳の今から先も。
実際、この三年後に僕は再び大きな選択をすることになる。この手で守るべきものは広くなり、かわりにいくつも大切なものを取りこぼしてしまうことにもなる。
それでもこれは、僕が選んだ道だ。望んだ未来を掴むために、僕の意思で。僕が成せなかったことやこぼしてしまったものは、周りの仲間が掬ってくれる。
君もそうだろうか。君自身のために生きるその道程で、新たに大切なものを得たのだろうか。
きっとそうなのだろう。だから僕らは、また出会い、共に戦うことができるのだ。
「隊長、協力に感謝する」
「今度はそっちの情報は全部出せよ、閣下」
それぞれ選んだどの道でだって、僕らは自由で、最強だ。