鍋にフライパン、まな板に包丁、泡立て器。あたしのいとこは料理が得意だ。
「うわ、どうしたのよこれ。随分大きいミキサーね、ひとり暮らしなのに」
「引越し祝いだって、父さんのお得意様がくれた」
 歴史物にSFにミステリー、不条理で陰気なホラー。あたしのいとこは小説が好きだ。
「まだこの陰気な小説読んでるの? もっと明るいエッセイとかを読みなさいよ」
「面白いんだよ、それ。人が何読もうと勝手だろ」
 あたしとは何もかも正反対のいとこは、ママのお姉さんの息子だ。けれども実の子ではないから、あたしたちには共通するものは何も無い。
 でも九年前の秋に突然現れて以来、トビはあたしのいとこであり、弟分であり、親友なのだ。


 東の都ハイキャッシ――エルニーニャ王国東部の主要機関はこの町に集まっている。あたしが生まれ育ったのは、軍の東方司令部の近所だ。
 ママは東方司令部所属の軍人だった。罪を犯してしまった若い人たちのための更生プログラムなどを担当し、退役してからも軍内外で慕われている。
 パパはあたしが生まれるまで、中央司令部で将官室長をしていた。軍家の生まれで、本当は首都にある家を継がなければならなかったらしい。けれどもパパは、ママとあたしと一緒に東都で生活することを選んだ。
 お祖母様、つまりパパのママは、パパの選んだ人生にまだ納得ができていないようで、よくこちらに文句を言ってくる。だからあたしはお祖母様が少し苦手だ。
 付き合いたいと思う親戚はママの実家の方。東方では有名な剣術であるミナト流の宗家であり、曾お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、そしてママへとその技は受け継がれている。
 それからママのお姉さん。あたしが親しみを込めてエトナさんと呼ぶその人は記者。夫であり、あたしの伯父様である人は、なんと前大総統。偉い立場にあったのに気さくなこの夫婦が、あたしは大好きだ。
 七歳の秋まで、あたしにはきょうだいもいとこも存在しなかった。ただ仲の良い友達がいて、そのうち一人が首都の学校へ行くために春に町を出てしまっていた。寂しくはないけれど、ほんの少しだけ物足りなかった日々に、彼は現れたのだった。
 大総統を引退したと、挨拶に来てから一ヶ月。再びあたしたちの家を訪れた伯父様は、エトナさんと、それから子供を一人連れていた。
 痩せっぽちで、おどおどしていて、あたしより背が低い。着ている服と、伏せた睫毛の下に見える眼ばかりが妙に綺麗だった。
 左目は瑠璃、右目は紅玉のようで、肌の白さも手伝って、まるで人形みたいな子だと思った。
「あたしたちの息子なの」
 エトナさんは見知らぬその子を指して、そう言った。
「ヨハンナとはいとこってことになるかな。よろしくね」
 小さく頭を下げた子は、しかしこちらを見ない。第一印象から間を空けずに得た第二印象は「無礼な奴」だった。
 伯父様が旅先で保護したのだという彼は、名前をトビという。命名は伯父様だというから、その前は名前が無かったか、ろくでもない呼称で扱われていたのだろう。
 このようなことは珍しくはない。あたしの友達も、今の親に保護された子供たちだ。様々な理由で新しい人生を始める子供たちがいて、一方で始めることのできない子供たちもたくさんいる。そういうことはママやママの先輩から教わった。
 トビが保護された経緯は伏せられていたけれど、酷い目に遭ってきたのだということはいでたちから明らかだ。
「ねえ、あんた」
 あたしが話しかけると、トビは怯えたような目をして固まった。手はしっかりと伯父様の服の裾を掴んでいる。
「トビ、楽にしていいよ。ヨハンナは強くて賢くて優しい子だ」
 伯父様があたしをべた褒めするので、少し照れてしまう。どうやらあたしは照れると顰めっ面になるらしく、トビは余計に怖がった。
「伯父様、この子は何か好きなこととかあるの? 運動ができるようには見えないから、読書とか、絵を描くとか」
「まだ何もやったことがないんだ。文字の読み書きもこれから覚える」
 運動もできるようになるんじゃないかな、と伯父様が笑いかけると、トビは口元をもごもご動かした。でも喋るわけではない。
 これからいとことしてどう「よろしく」すればいいのか、初対面のときは想像することもできなかった。

 次にトビに会ったのはその三ヶ月後。エトナさんと伯父様に連れられて、年始の挨拶に来たトビは、以前とはまるで様子が違っていた。
「今年もどうぞよろしくお願い致します」
「はい、よろしくね。トビ君、ちょっと見ない間に随分しっかりしちゃって」
「ご挨拶はきちんとするようと、両親に教わりました」
 丁寧なお辞儀、自然かつ上品な笑顔。これがあの怯えきっていたトビと同一人物なのか。驚きすぎて言葉も出ないあたしにも、トビはにっこりして挨拶をした。
「ヨハンナさんもよろしくお願いします」
「……よろしく。あたしにはさんとか敬語とかいらないわよ」
 同い年でしょう、と言うと、トビは一瞬困った顔をした。多分、同い年くらい。伯父様があたしとトビを較べ、そう判断して戸籍を登録したというだけで、実際のところはわからないのだ。
 それでも「ヨハンナさん」なんて他人行儀に呼ばれるのはむず痒く、あたしはトビに口調を改めるよう要求した。彼は呑み込みが早く、戸惑いながらではあったけれど、その後は言う通りにしてくれた。
 文字の読み書きができなかったはずのトビは、このときにはもう読むことは十分にできるようになっていた。書くのはまだたどたどしく、自分の名前をゆっくり丁寧に書いて、伯父様に上手だと褒められていた。
 口をもごもごさせていたのが、嬉しいけれど笑顔を上手く作れなかったせいなのだとわかったのは、このときだ。
 体もだいぶ動かせるようになっていて、伯父様に格闘技を習っているという。トビの成長の著しさに、ママやパパも感心していた。
「でもさ、クラウンチェットには同じくらいの歳の子供があんまりいないんだ。だから複数人での遊び方を、まだ知らないんだよ」
 あたしが伯父様に託された役割は、トビに同年代の友達と遊ぶことを教えるというものだった。いつもは一人で読み書きの練習や児童書中心の読書をしているというトビを、あたしは外へと連れ出した。
 前年の春までは、あたしたちに遊びや勉強を教えてくれる兄貴分、サウラ君がいた。けれども彼は首都に行ってしまい、現在はその妹たちと引き続きつるんでいる。
「ヨハンナ、誰か連れてきたの?」
「あ、もしかして、前に言ってたいとこの子?」
「可愛いねえ! ええと、男の子だよね? 将来イケメンになるよ、きっと」
 長女のフタバちゃん、次女のアンナちゃん、三女のミヨ。あたしとミヨは同い年だから、トビともそうだ。姉妹はみんなそれぞれの事情で今の家に引き取られた子供なので、顔は全然似ていない。だが性格や表情は、一緒に暮らしていると似てくるらしい。
 三人ともトビをまじまじと観察し、可愛い、眼が綺麗、華奢だなどと口々に言う。トビはすっかりたじろいでしまっていた。
「ねえねえ、ハナちゃん。トビ君も入れて何して遊ぶ?」
「そうだなあ……。あ、羽根つきの道具って出してる?」
「出してるよ。じゃあ、私が審判やるね。サウラ兄がいたときはやってくれてたし」
 フタバちゃんが持ってきてくれた板と羽根について、アンナちゃんが懇切丁寧に説明すると、トビはすぐにルールを把握した。今回は二対二、あたしとトビ、アンナちゃんとミヨに分かれての勝負だ。
 バランスを考えてのチームにしたはずだ。あたしとアンナちゃんは動くのが得意で、このゲームも強い。ミヨは素早い動きが苦手なので、アンナちゃんにカバーしてもらいながら楽しむ。
 トビの能力は未知数だ。初心者だからあたしが助けなければと思っていた。しかし。
「おお、トビ君上手いね! 本当にやったことないの?」
 フタバちゃんが褒めまくるくらい、彼は運動神経が良かった。伯父様が格闘技を教えているのも、それに気が付いたからだろう。
「初めてです。楽しいですね」
「もー、トビ君が強いから、ミヨの顔が真っ黒になっちゃったよ。次はミヨと組んで!」
 負けた方は顔に墨でらくがきされるというルールも含め、トビはこの遊びを気に入ってくれたようだった。組み合わせを替えて何度か試合をし、最終的には全員真っ黒になって、大笑いした。
「筋がいいわ。トビ君、本格的に格闘やらない?」
「フタバったら。それなら私もミナト流に勧誘したいわよ」
 フタバちゃんは柔術が得意で、アンナちゃんはうちのママが師範をしている道場の門下生だ。二人とも東方司令部の軍人でもあるのだと教えると、トビは感心していた。
「ミナト流剣術はあたしも習ってるんだ。あたしも十歳になったら入隊試験を受けて、軍人になるの」
「そっか。ヨハンナならきっとかっこいい軍人さんになるね」
「トビもなれるんじゃないの。伯父様みたいに軍人になろうと思わない?」
 まだ痩せて心許ないけれど、運動神経は良いし、男の子なので筋肉もついてくるだろう。軍人としての心得も伯父様から教わることができるはずだ。
 しかしトビは首を横に振り、そのつもりはないよ、と言う。
「俺は写真屋の父さんしか知らないし、動くのは楽しいけど、やっぱり本を読むのが好きだ。静かな環境で色々なことを学びたい」
「そう? エトナさんも伯父様も活動的な人なのに、あんたは違うんだね」
「……やっぱり、違っちゃだめかな」
 違ったら、親子にはなれないかな。俯いてしまったトビを見て、しまったと思った。つい言葉がきつくなってしまうのは、あたしの迂闊でいけない癖だった。
「違っても親子は親子だよ。トビ君がご両親を好きならね」
 こういうときにすぐにフォローをしてくれるのが、フタバちゃんたちだ。トビに目線を合わせて、優しく語りかけてくれる。
「私たちもね、両親とは血の繋がりがないの。私とアンナとミヨ、それから一番上の兄も、みんな生まれはばらばら。好きな物も得意なことも違う。だけど私たちにはちゃんと繋がりがある」
「血が繋がってたって、好みや性格には違いが出るものよ。トビ君のお父さんとお母さんは、トビ君が自分と違うからって嫌な顔をしたりする?」
 アンナちゃんの問いを、トビは全力でかぶりを振って否定した。そういうことだ。トビはもう、完全にエトナさんと伯父様の子供で、家族になったのだ。
 安堵しながら、少し羨ましくもあった。あたしも親子関係には問題がないけれど、お祖母様とはあまり上手くいっていない。パパが首都を離れたことに、お祖母様は今でも嫌な顔をする。あたしがミナト流剣術を習うことにも。

 三姉妹に励まされて、元気になってクラウンチェットに帰って行ったトビが、次にハイキャッシを訪れたのは夏だった。
 エルニーニャでは涼しい方であるはずの東都も、やはり夏の暑さはある。それなのに茹だるあたしの前に現れたトビは、前髪を鬱陶しく伸ばしていた。
「ちょっと……なんで右目が隠れるほど伸ばしてるわけ? 暑苦しいし陰気」
「ごめん。でも、この方が落ち着くんだ」
「視力下がるわよ。それにせっかく綺麗な目なんだから、見えないと勿体ない」
 綺麗、という言葉にトビは苦笑した。それから少しだけ迷って、口を開いた。
「あのね、ヨハンナ。俺、そうやって言われるの苦手」
「はあ、なんでよ? 褒めてるんだから素直に受け取りなさい」
「そうできればいいんだけど。父さんに保護される前まで、左右の目の色が違うせいで、色々あったんだ」
 詳細を知るのはもっと後のことになるが、それまでトビの目を綺麗だと褒めたのは、悪い人ばかりだったようだ。珍しい眼を利用された結果、トビは深く傷つくことになったのだ。
「だからあんまり見られたくない。暑苦しいかもしれないけど、勘弁して」
「わかった。でも、変な日焼けしそうね」
 実はもうしてるんだ、とトビはあたしには前髪の下を見せてくれた。日焼けの跡がくっきりとついて、それでもやはり目は綺麗だった。
 トビが秘密をひとつ明かしてくれたかわりというわけではない。でも、あたしも抱えているものを打ち明けた夏になった。
 剣術の稽古を見学したトビは、あたしを大袈裟なくらいに褒め称えた。照れて浮かれていたあたしは、しかし、その日の夕方には叩きのめされた。
 お祖母様から、電話があったのだ。
「ヨハンナ、あなたはまだ東方の剣技なんかやっているの」
 当たり障りのない挨拶をしただけなのに、お祖母様の機嫌は良くなかった。きっとパパが首都に顔を出さないからだ。
「あなたはグラン家の娘なんですから、田舎の剣技なんておやめなさい。首都で立派な先生について、腕を磨き、グラン家を継ぐのです」
「でもお祖母様。あたしはミナト流を極めて、軍に入りたいと」
「早めに首都に来なさい。軍に入るのなら、東方司令部からなんて遠回りをすることはありません。中央で上位入隊してこそ、グラン家の跡継ぎです」
 こうなれば何を言ってもさらに機嫌を損ねるだけだ。至極丁寧な返事をして、あたしは電話を切った。
 お祖母様はパパが家を盛り立ててくれることを期待していたらしい。でもそうならなかったから、孫のあたしに期待をしている。
 あたしが生まれたときも、男の子ではないことを惜しみつつ、首都で自分が育てると言い出したそうだ。英才教育を施して、偉い軍人に育て上げるのだと。――田舎の人間であるママには任せられないと。
 パパが軍を辞めて東都に住むことを決めたのは、それが大きな要因だったという。
「ヨハンナ、顔色良くないよ。水分はちゃんと摂った?」
 電話を終えて居間に戻ったあたしを、トビが心配そうに迎えた。差し出してくれたコップを受け取り、一気に飲もうとして止められた。それは身体に良くないからと。
「そういうのもエトナさんたちから教わるの?」
「これはばあちゃんから。あ、首都にいる父さんのお母さんね」
 トビは事実を述べたまでだ。でもあたしはつい較べてしまい、勝手に苛立った。
「いいね、トビの父方は。優しいし、理解ありそう」
「うん。……ヨハンナの父方は違うの?」
「違う。あたしのことなんかどうでもいいみたい。パパのことだって。いつもいつも、グラン家がどうのこうのって話ばっかり」
 ママは道場で当番の門下生と後片付けをしている。パパは軍の関連施設で仕事をしていていない。エトナさんは別室で仕事をしていて、伯父様は知人に挨拶をしに出ている。
 夕方の涼しい風が吹き込み、ヒグラシゼミが鳴く声が響く、子供が二人きりの居間。堰を切ったように、あたしの口から恨み言が湧いた。
 パパを縛り付けようとしていて、ママのことが気に入らなくて、あたしの生まれ育った場所を悪く言うお祖母様のことが、どうしても好きにはなれない。だから遠ざけていたいと思うのに、そうしているとお祖母様はさらにあたしたちを悪く言う。
 そんな楽しくもない話を、あたしが嫌いな愚痴を、トビは黙って聞いていてくれた。
「そんなに言うけど、大嫌いではないんだね」
 あたしの言葉が続かなくなってからしばらくして、トビはぽつりと言った。
「俺なら、父さんや母さんに文句を言う人はすぐ嫌いだなと思っちゃう」
「それは極端じゃないの。お祖母様は困った人で好きにはなれないけど、すごいなとは思うのよ」
 パパの実家でお祖母様が守ろうとしているグラン家は、軍での不祥事がきっかけで落ち目の軍家になってしまった。やり方はどうあれ、お祖母様はその家を再興させようと、受け継がれてきたものを守ろうとしている。それも大切なことだと、あたしはパパから教わった。
 ただ、パパにはより大切なものができて、そちらを優先しようと決めた。お祖母様とは考えが食い違っただけなのだ。
 それからもうひとつ、お祖母様を嫌いではない理由がある。あたしはトビを自室に招いた。
「わあ、きれいだね。これは絵?」
「刺繍よ、知らない? 針と糸で、布に絵や文字を入れるの」
 部屋の壁には大きな刺繍作品を飾っている。ベッドカバーにも草花の丁寧な刺繍がしてあり、どれもあたしのお気に入りだった。
「これ、お祖母様が作ったのよ」
「そうなんだ。針と糸でどうやってこんなにきれいな模様が描けるんだろう……」
 トビは刺繍を興味深げに眺め、何度もきれいだと褒めてくれる。お祖母様の作品なのに、さっきまで憂鬱だった原因の人が刺したものなのに、あたしは自然と笑顔になっていた。
「繊細で、丁寧で……お祖母様の作ってくれるものは好きなの。厳しくてこだわりの強い人だから、作品にも妥協しない」
 そういうところはすごいと思う。大雑把なあたしの憧れるところだ。だから嫌いではないのだと、トビも納得したようだった。
「人には色んな良いところとそうじゃないところがあるんだね。俺も勉強になった」
「何よ、真面目ね。……そういうわけで、お祖母様のことは嫌いになりたくないの。でも言ってることは正しくないし、どうすればいいのかわからなくて」
 難しいね、とトビが言う。難しいのよ、とあたしが言う。同い年の子供が二人だけでは、まだ正しい答えが見つからない。
 だけど心を打ち明けあったことで、ほんの少し息がしやすくはなったのだった。

 翌年秋、いよいよ入隊試験の準備が本格化しようとしていたあたしのところに、再びトビがやってきた。
 暗い色をした表紙の本を抱え、暇さえあれば開いて熱心に読んでいる。文字だらけで使っている言葉も難しいような本を、トビはすらすらと読み、深い理解ができるようになっていた。
 暇ではないときというのは、あたしが絡みに行ったとき、大人たちの手伝いで台所に立つとき、それから生まれたばかりの弟にかまうときだ。その年の夏の終わり、トビには弟ができたのだった。
「サシャが母さんのお腹にいるときは、ちょっと不安だったよ」
 庭で焚き火をする間、トビはこっそりあたしに話してくれた。
「俺は父さんが連れてきてくれた子供だけど、サシャはちゃんと父さんと母さんの子供だ。血とか遺伝子とか、そういったものが分けられてる、本当の子供。生まれてきたら、もう俺はハイルの家にいらないんじゃないかって思った」
 あたしも含めて、親戚や周囲の人々のほとんどは、伯父様とエトナさんの子供はトビだけになるだろうと思っていた節がある。現在四十歳である二人が実子をもうけたことに、誰もが驚いていた。高齢出産になるから慎重にと言われた、とエトナさんは笑い話にしていたけれど、あたしのママなんかは気が気じゃなかったと言っている。
 トビはどう思っているのだろう、というのはあたしの心配事でもあった。様々な場面で弟が優先されることになり、親との繋がりを見失ってしまわないかと。
「でも、そうやって俺が不安になってたのを、父さんも母さんもわかってくれてた。長男は俺だって、サシャと同じく大事だって言ってくれた」
 寂しい思いはさせない、そう感じたら正直に言ってほしい。エトナさんと伯父様は、トビにそう伝えたのだった。
「良かったね。あんた、幸せ者よ」
「本当にね。ヨハンナは良いことあった?」
 出会った頃に比べたら、見違えるように健康的になったトビ。背も伸びて、次に来たときにはあたしを追い抜かしているだろう。家族関係も良く、気負わずに良いお兄ちゃんでいられる。もしかしたら七年分の不幸を精算しているのかもしれない。
 トビが一気に禍福の精算をしている間、あたしは両者のバランスがとれた生活をしていた。今は稽古に励んでいるのだと答える。
「お祖母様からの文句はあるけど、あたしはミナト流を使う軍人になるよ。ママだけじゃなく、パパも協力してくれるんだ。実技も筆記も完璧にして、トップで入隊してやるんだから」
「ヨハンナなら実現しそうだね。俺は遠くから応援してるよ」
 手を叩き合い、互いの人生の健闘を祈る。そうして翌年、あたしは宣言通りトップで東方司令部の一員となった。

 あたしには仕事が、トビには家の手伝いが増え、それからは毎年顔を合わせるというわけにもいかなくなった。けれどもトビの妹のフェリシーが生まれた年には会って近況報告をした。また電話で話すこともあれば、トビが手紙を書いてくることもあった。
 七歳まで文字を書くことができなかったトビは、筆致にあまり癖がない。お手本みたいな綺麗な手紙は、読んでいると気持ちが落ち着いたものだった。
 陰気なホラー小説が好きで、毎日本を開いている。弟妹のお腹を満たすために始めた料理はどんどん上達しているらしい。明るいエッセイやファッション誌が大好きで、家事は全般的に苦手なあたしとは正反対のいとこ。そして弟分であり、親友でもある彼と、十六歳になる年に再会した。
 ハイキャッシでもクラウンチェットでもなく、首都レジーナで。

 そもそもあたしは中央にはあまり行きたくなかった。お祖母様の思惑通りになるのを避けたかったのだ。
 けれどもあたしの実力は最も仕事が多く過酷な中央司令部で大いに発揮されるはずだと、中央での研修、そして異動の打診があった。そういう評価をされているというのは悪くない気分だ。
「ハナちゃん、行っちゃいなよ。向こうにはお兄ちゃんもいるし、心細くはないはずだよ」
 東方司令部の医療部に所属しているミヨも、あたしの背中を押してくれた。頷いてはみたけれど、あともう少しだけ心を決める材料がほしい。そんな半端な気持ちのまま、中央司令部での研修が始まってしまった。
「ヨハンナ、こっちに異動になるの? 来るなら大歓迎だよ」
 中央で軍医をしているサウラ君は、喜んで迎えてくれた。でもお祖母様が、と言うとすぐにあたしの不安に納得してくれたけれど。
「そうだねえ、ヨハンナのお祖母様はここぞとばかりにグラン家を継ぐよう言ってくるかも」
「継ぐのは問題ないの。そのためにミナト流を捨てろって言われるのが嫌なのよね」
 最大の懸念が何なのかははっきりしてきた。あたしはお祖母様に、あたしの培ってきたものを否定されたくないのだ。
 誇らしさと憂鬱が複雑に入り混じっていたあたしの気持ちを、初対面なのに見抜いた人がいた。大総統補佐のリーゼッタ大将――パパの後輩だ。
「ヨハンナ・グラン准尉。君が推薦を受けたと聞いて驚いた。もちろん実力はこちらにも届いているから、推薦されたこと自体は納得したんだが」
 初対面ではあるが、パパとお祖母様について知っている人だ。だからあたしの心境についても、すぐに察することができたのだろう。
「中央で仕事ができるのは名誉なことなので。東方にいても構わなかったんですが、力試しくらいにはなるかと」
「そうか、存分に試してみてくれ。……しかしまさか、君もこのタイミングで中央に来るとは。トビ・ハイルとは連絡をとっているのか」
 パパの後輩であれば、当然前大総統の部下だったということにもなる。リーゼッタ大将が伯父様と懇意にしていたということも軍では有名な話だ。突然いとこの名前が出てきても、まったく奇妙ということはない。
「最近はあまりやり取りがありません。トビがどうかしましたか」
「そうか、もしかして知らないのか。トビは今、首都にいる。文派特殊部隊の一員だ」
 短期のアルバイトだそうだが、と聞いてあたしは唖然とした。何も聞いていなかったから。そして、弟分だと思っていた彼にたとえアルバイトとはいえ先を越されたから。
 いつの間にかトビが、あたしを引き離していったような気がしたのだ。
 もやもやした気持ちを抱えたあたしに、リーゼッタ大将は直々に仕事をくれた。あろうことか、トビがアルバイトをしているという文派特殊部隊へのおつかいである。
「閣下からの手紙を、特殊部隊の隊長に渡してほしい。君も隊長に挨拶を」
「文派の隊長って、軍のことは嫌いなのでは? 中央の文派の人たちは特に軍人に対して当たりがきついと聞いてます」
「特殊部隊の隊長は軍出身だ。特殊部隊は文派だが軍との協力が多い。悪いようには絶対にならない」
 嫌がる素振りを見せても押し切られ、結局あたしは手紙を届けにやってきてしまった。文化保護機構の建物は修繕が入っているようだけれど古く、暖房もさほど効いていない。その中でも最も寒そうな一階に、特殊部隊の執務室があった。
 そして室内には、久しぶりに見る顔が確かにあったのだった。

 トビは父方の祖父母の家に滞在し、特殊部隊での一ヶ月間のアルバイトに勤しんでいるということだった。前年の秋にも一度、三日間だけアルバイトをしていたということで、今回も声が掛かったらしい。
 働くトビは活き活きしていた。伯父様を手伝う以外で、あんなに楽しそうに仕事をすることがあるなんて。勉強もできて、ときどき軍がやるような活動的な仕事もあるそうだから、トビに合っているのかもしれない。
 たとえそれが、身を危険にさらすことになっても。――トビはやはり、伯父様の息子だ。あたしが中央で初めて関わることになった大きな任務で、特殊部隊から参加したトビは体を張った活躍をした。
 通信の試験を兼ねていたために現場に行かなかったあたしは、その動向を彼の同僚であるスロコンブさんとのやりとりで把握していた。任務の直前に過去の傷を抉られるような出来事に遭遇し、任務中も危うく連れ去られそうになったトビを、あたしは意外と心配していなかった。
 やれるだろうと思った。彼なら乗り越えられるに違いないと。
 凄惨な過去を抱えながらも、それを前に進まない言い訳にしなかった。己の不幸に胡座をかいて嘆き留まるようなことをせず、常に挑戦し、できることを増やし、それでいて驕らず、優しい。それがあたしの知るトビ・ハイルだ。
 だからあたしは直感したのだ。あたしのいとこは、弟分は、親友は、必ず任務を成功させる。必ず無事で帰ってくる。
 果たしてその通りにやり遂げた彼に、あたしは大いに勇気づけられ、自分の道をはっきりと定めたのだった。

 中央司令部に正式に異動となったのは、研修から二ヶ月後。あたしは階級を一つ上げ、少尉として新たな第一歩を踏み出した。
 その足で向かったのは、文派特殊部隊。執務室を訪れたあたしを、大文卿の息子たちであるハルトライム兄弟は笑顔で、かつての戦友であったはずのスロコンブさんは眉根を寄せて迎えてくれた。
「ヨハンナちゃんだ! 中央司令部の所属になったんだね」
「ヨハンナちゃんだ! これからまた一緒に仕事をするかもね」
「はい、よろしくです! コンブさんもちょっとは愛想良くしてくださいよ」
「スロコンブだ。どうしてわざわざここに? トビ君はいないぞ」
 そんなことは当然わかっている。トビはあの任務の後、一ヶ月間のアルバイトを終え、クラウンチェットに帰った。そして現在は受験勉強に励んでいる。
 彼もここでのアルバイトで、何か思うところがあったらしい。今まであまり興味のなさそうだった学校に、秋から編入することを目標にしている。
「あたしは隊長に会いに来たんです。隊長はどちらに?」
「ここだ。騒がしいな、トビを見習って大人しくしたらどうだ、グラン少尉」
 特殊部隊のガンクロウ隊長は、資料室から呆れた顔を覗かせた。こちらの新しい階級を把握していてくれたのは、閣下か、あるいは補佐大将あたりから聞いていたのかもしれない。
「トビも大して大人しくないでしょう。普通の十六歳なんですから」
「まあ、そうだな。だが少尉は輪をかけてうるさい」
 この血圧が低そうな隊長を、あたしは前回の任務からかなり好きになった。トビを新たな目標に導いてくれた存在であり、そのことがあたしの進路決定にも繋がったのだから。
「で、今日は何の用だ。まさか異動の挨拶だけではあるまい」
「はい、また閣下からのお手紙を預かってきています。あたしはもう内容を聞いていますよ」
「ほう、ということは例の捜査に加わるのか」
 その通りです、と頷く。隊長は既に手紙に何が書かれているのか予想がついているのだ。何しろ今度の仕事は、これまでが長期戦だった。
 作家ばかりを狙った連続殺人事件。この捜査があたしの中央での最初の大仕事になる。特殊部隊にも協力の要請が出ると聞いて参加を申し出た。
「でも、捜査責任者のエスト准将って怖そうで。ずーっと機嫌悪そうに顰めっ面してるし」
「それセンテッド君のただの癖だから大丈夫」
「センテッド君は激甘党だから、お菓子でもあげるといいよ」
「え、あんなコーヒーは無糖派みたいな顔してるのに?」
 あたしが双子と上司の話で盛り上がっている間に、隊長はさっさと手紙に目を通したようだった。
「ところで少尉、軍人寮には入れたのか」
「バッチリです」
「そうか。それなら祖母とも適切な距離が保てるだろう。さすがにもう司令部に乗り込んでくるということはあるまい」
「隊長もご存知でしたか、お祖母様のこと」
 パパの在籍時には、息子を出世させろと、よく中央司令部に乗り込んでいたそうだ。中央では有名で強烈なエピソードだということは、配属になってから聞かされた。
 でもそれであたしが困るということはなく、寧ろお祖母様の話し相手をしていたかつての大総統、つまりトビのお祖母さんが今でもときどきお祖母様と会ってくれているという情報を得るきっかけとなった。
 あたしたちが出会ったのはそういう運命だったのかも。そんなロマンチックなことを、つい考えてしまった。現実的なあたしらしくもない。


 入試に合格し、晴れて高校生となったトビは、秋から首都でひとり暮らしを始める。特殊部隊でのアルバイトも長期契約となり、放課後と学校が休みの日に通うのだという。
 既に危険な連続殺人犯を捕まえた後の、その分だけは安全で、新しい案件が出てくる分は物騒なこの町で、トビが安心して学生生活を送れるようにするのがあたしの仕事だ。
「トビがいるなら、ここにご飯食べに来ようかな」
「ヨハンナには寮のご飯があるだろう。ていうか、そろそろ卵を割るくらいはできるようになりなよ」
「力加減が難しいのよね。こういうのはできる人がやればいいじゃない。あたしは軍人、あんたは学生且つ特殊部隊員。適材適所でさ」
「それは卵割るのと関係ないよ」
 いとこで、弟分にしてはしっかりした、あたしの大親友。これからは同じ町に住むご近所さんでもある。
「ヨハンナ、これからも末永くよろしく。俺は君とずっと仲良くしたいから」
 こちらから言おうとしたのに、先を越されてしまった。眉根を寄せるとトビに笑われる。
「あ、その顔。昔から照れると眉間に皺を寄せるよね」
「照れてないし。あたしが言おうとしたこと取られたから悔しいだけ!」
 あたしとは正反対の、あたしのことを誰より知っている、鏡みたいなやつ。言われなくても、遠かろうと近かろうと、ずっと仲良くしてやるわよ。