両親は飛行機墜落事故、兄は首吊り、姉は狂って家に火をつけた。

残された七歳にもならない少年がとった行動は、年齢を詐称しての軍への入隊。

戸籍ははっきりしていなかったし、何より彼自身が年齢よりも上に見える。

軍人ディア・ヴィオラセントは、生きていくためにあえてこの道を選んだ。

 

軍に入って一週間。

本来ならば十歳からである軍に、年齢を偽っての入隊。

それでも実力は十分あった。階級が上の者から妬まれるほどに。

売られた喧嘩は買う。

それがディアが軍に入ってから一番最初に覚えたことだ。

現に彼は強かった。

上官との喧嘩は絶えず、彼は誰からも恐れられる存在になっていった。

「ディア、評判悪いぞ」

休憩時間に芝生に寝転んでいると、そう声を掛けてくる者がいた。

「…別に気にしてねぇよ」

ディアはそう答え、起き上がる。

「いきなりこの調子じゃ、昇進に差し支えるだろう」

「昇進なんかしたくない。興味ねぇよ」

「十分上に行ける力があるのに、もったいないだろう。まだ一週間なのにこれじゃあ…」

「うるせぇよオヤジ!」

ディアは相手を睨む。しかし相手はそれに慣れているようで、落ち着いたままだ。

灰色の髪を後ろに流した男性――ノーザリア王国中央指令部大将、フィリシクラム・ゼグラータは。

彼は試験の際にディアの実力を認め、軍に入れてからも親代わりとして接していた。

喧嘩っ早いディアに世話を焼き、教え諭す。

ディアは彼のことを、親しみを込めて「オヤジ」と呼ぶ。

何も知らない者から見れば、二人は本当に親子のようだった。

 

ノーザリア王国は、かの大国エルニーニャ王国の北にある国だ。

国王に統帥権があり、軍のみを見て最も高い地位は大将。

国王の言うことが全てのこの国は、はっきり言ってあまり「自由」がない。

ディアはここで生まれ育ち、軍にいる。

フィリシクラムも同様で、生まれてからの三十年間この国を出たことは数回しかない。

その数回も大抵はエルニーニャとの何らかの交渉や会議のためで、娯楽では一度もない。

「そういやオヤジ、今度また行くんだろ?隣国」

「あぁ。ディアの土産も買ってきてやろう」

「マジ?!」

「マジだ」

軍きっての喧嘩屋三等兵も、やはりまだ子供だ。

自分がここに入ってきてから初めての、フィリシクラムの遠征任務。

今回は軍の入隊状況を伝えるために行くのだが、どうやら少し時間ができそうだということだった。

「だから喧嘩は控えろよ」

「…結局それかよ」

不満顔のディアにフィリシクラムは笑いかけ、小さな頭を軽く叩く。

 

フィリシクラムがエルニーニャ王国から戻る日、ノーザリア軍はある話題で持ちきりだった。

国王も大変喜んでおり、フィリシクラムは盛大に迎えられた。

騒ぎの中をやっとのことで家に戻ると、ディアが待っていた。

「オヤジ、新聞見たぞ!」

こちらも嬉しそうに駆けて来る。フィリシクラムはその頭をいつものように軽く叩き、笑う。

しかし、いつもよりもずっと辛そうな作り笑顔。

「そうか…少し寝かせてくれないか?疲れてしまった」

「…年だな」

「年だ。だからあっちへ行ってろ」

軽口を叩きながらもディアは従う。

手元にある新聞を見る。そこには大きく載った記事。

エルニーニャ王国中央部であった放火事件で、フィリシクラムが子供を助けたという記事。

エルニーニャとの国交はますます良くなるだろうと書かれているが、そんなことはどうでも良い。

フィリシクラムはやっぱり立派な人だったのだと、ディアはそれだけ思った。

だから彼が疲れて帰ってきたのも、人に酔った所為だと思ったのだ。

しかし夕食のときにその話題を出すと、フィリシクラムは再び疲れた表情になった。

「俺今回は正直にオヤジの事すごいと思うよ。尊敬した」

「…ディア、私は尊敬されるような人間じゃない」

辛そうに笑ってから、フィリシクラムは食べるのをやめた。

「どうしたんだよ」

「ディア、その記事を全部読んだか?」

「…いや、活字読むの面倒で見出ししか…」

「だろうな」

傍らに畳んであった新聞を広げる。そして、ある一文を指差した。

「見てみろ。この火事で助かったのはもうすぐ十歳になる少年ただ一人だ」

確かにそこには、両親は全員一酸化炭素中毒により死亡となっている。

「それがどうしたんだよ。」

「つまり、私は少年一人しか助けられなかったということだ。…こんなに犠牲を出しておいて、尊敬される人間とは言えない。

だからそんな言葉は私に言うべきではない。…わかるな?」

フィリシクラムが疲れて帰って来た訳が、漸く解った。

彼は罪の意識に苛まれている状態で囃し立てられていて、それが余計に苦痛だったのだ。

一人しか助けられなかったということで、自分を責めていたのだ。

「…なんか、違くね?」

ディアはスープをかき混ぜながら、口を開く。

「何がだ」

「だって、一人助かったんだろ?オヤジが行かなきゃ助かった奴だって死んでたかも知れねぇじゃん?」

スプーンとスープカップの壁がぶつかり、小さな音を立てる。

「オヤジは正しかったんだよ。そいつ、きっとオヤジに感謝してるよ」

「ディア…」

「とにかくさっさと食えよ!冷めたら美味くねぇだろ!」

ディアはスプーンを取り出して、スープを口に運ぶ。

食事の速度が速くなっている。

「…行儀が悪いな。ゆっくり食え」

「うるせぇ。…オヤジの分もらいっ」

「何をする!ワカメを取られたら私は何を食えば良いんだ?!」

「知るか!さっさと食わないほうが悪いんだよ!」

まだ十分残っている海藻サラダを巡って、二人の食事は騒がしいものになる。

フィリシクラムの中の罪悪感を、ほんの少しの間だけ拭い去ってくれる。

「そういや、助かった奴どんな奴だったんだよ?」

「あー…お前と同じくらいの男の子だったな。名前聞いたと思ったんだが…書いてないか?」

「たぶん書いてない」

「なんだっけかな…Nから始まるような…」

「ワカメもらい」

「…ってまた人の分を!ディア、朝飯抜きにするぞ」

「そんなこと言うなって」

 

北風が肌を刺す季節になった。

辺りは一面雪景色。積雪量が多く寒いこの北国の軍には、訓練の必須事項がある。

「オヤジ!置いて行くなって!」

「これが出来なきゃ軍には居られないぞ。足の一本くらい折るつもりで行け」

長年冬を経験しているフィリシクラムには容易い事だが、初心者のディアにはなかなか難しい。

とある民族から伝えられたというこの訓練は、雪国にはなくてはならないものだ。

雪山で遭難した者が出た場合は、これがないと話にならない。

「スキーくらい出来なくてどうする。お前は本当にノーザリアの軍人か!」

「その筈だけど、いきなりこんな急斜面無理だっつーの!」

先ほどからディアは文句ばかり言ってちっとも動かない。

フィリシクラムは呆れ、それでも熱心に指導する。

「良いからここまでは来い。自分が遭難したら自分で戻って来れるくらいにはなっとけ」

「それ遭難って言わねぇよ、オヤジ」

ディアはしぶしぶと前へ進む。

基本事項は口頭での説明のみだったため、実践するのは初めてだ。

靴に装着された板を少し滑らせると、そのまま進んでいってしまう。

「…っわぁあぁぁ!」

慌てて止めようとするが、そのまま派手に転んだ。

フィリシクラムはそれを見て大笑いする。

「笑うな!」

「いやいや、そのくらい転んでおいた方が良い。

だが暫く任務には出せそうにないな。せっかく二等兵になったのに、これじゃあなぁ…」

「うるせぇ!絶対上手くなってやるから、見てろよ!」

ディアは練習を再開し、フィリシクラムはそれを見守る。

練習の甲斐あってか、ディアはその数日後にはすでに全体訓練のトップに立つようになっていた。

 

それから五年以上経ち、ディアは十二歳になっていた。

しかし年齢をごまかしている為、データ上は十五歳となっていた。

フィリシクラムが家に帰ってくると、先に帰ってきていたディアは部屋から出てくる。

「オヤジ、遅かったな」

「あぁ…ディア、話がある」

「それよりメシにしようぜ。俺腹減った」

「話が先だ」

仕事中と同じ表情をしているフィリシクラムに、ディアは嫌な予感を覚える。

フィリシクラムと向かい合って座り、「話」が始まる。

「ディア、寮に行け」

発せられた最初の言葉は、これだった。

「…寮?」

「あぁ、軍人寮だ。お前ももう十五だし、軍曹だからな」

今まではフィリシクラムの家で一緒に住んでいた。それなのに、急に。

「何でだよ?そんなに俺が邪魔かよ」

ディアは冗談のつもりだった。

しかし、フィリシクラム本人は、真剣に答える。

「あぁ。はっきり言って邪魔者以外の何者でもない」

時が止まったように、周りのものが何一つ動かない。

時計の音さえも聴こえない、気の遠くなるような静けさ。

「寮の手続きは済んでいる。今日中に荷物をまとめて、明日には出て行け」

自分がずっと信じてこれた、唯一の人。

本当の親のように接してくれた人。

その人の言葉は、あまりにも辛くて。

「…オヤジ…」

「その呼び方もやめろ。私はお前の親じゃない」

今までの全てから、絶たれてしまった。

乱暴に立ち上がったため、椅子は大きな音をたてて倒れる。

心の何かが崩れる音とよく似ている。

「…わかったよ、出て行けば良いんだろ!」

走り出して向かう先は、自分の部屋。

明日からはもう、そうではなくなる場所。

泣きそうになるのを必死で堪えながら、衣類などを詰め込んだ。

 

寮に入ってからというもの、ディアの素行はますます悪くなっていった。

喧嘩で人に怪我を負わせることなど日常茶飯事で、謹慎処分を受けることもあった。

フィリシクラムはそれについて何も言わないどころか、ディアと話そうともしない。

それが余計にディアの神経を逆撫でし、攻撃的にする。

自分より階級の低いものへの接し方はほぼ虐めと言って良いくらいで、上官へは自分から喧嘩を売って殴り合いになった。

タバコや酒はやらずとも、誘われてではあったが娼館に行った事があった。

自分よりも年上の女が居て、誘う。

「ねぇ、キミ、初めて?」

服を脱ぎながら尋ねてくる。

「アタシ十六歳なんだけど、遊ぶお金欲しいのよね。

…だから、楽しんでってね」

長い爪を真っ赤に染めた手で、肌に触れてくる。

ディアはそれを振り払い、女を押し倒した。

「…痛いの好き?」

「え?」

わけがわからないという顔をした女に、傍にあった果物ナイフを突きつける。

「ちょっと…何よ…」

「痛いのもそのうち慣れるだろ。…声出したら切るから」

荒んだ眼と、乱暴な行為と、ナイフの刃の光。

全ての行為が終わった後、女は真っ青な顔で罵った。

「…何よ、アンタ…このサディスト!」

しかしディアには、罵声とはとれない。

「金欲しいんだろ?…お褒めの言葉、どうも」

まだ精通さえ来たばかりの、十二歳の子供。

肉欲を知ったが、こんな女には興味がない。

壊し甲斐がないものは、いらない。

これ以降「サディスト」という言葉使われ続ける。

フィリシクラムの耳にも当然それは届いていたが、何も言わなかった。

 

ディアは喧嘩に明け暮れる日々、一度も負けたことがなかった。

下級の者や同級の者には勿論、上官にも。

フィリシクラムの家を出たあの日以来、彼は狂ったように暴れまわった。

その日も上官と喧嘩をしていた。

ぶつかって、睨んで、殴り合いになって。

それがいつしか「戦争」になる。

上官の手に握られているのは、軍支給のナイフ。

怖くはなかった。だから向かっていった。

拳はかわされ、バランスを崩したディアの目に入ったのは、

近付いてくる刃。

冷たいものが左頬に当たったかと思うと、地面に崩れ落ち、砂利に思い切り突っ込む。

ナイフに深く傷つけられた頬に砂利が擦れ、細胞を破壊する。

血まみれの自分を気にも留めず、すぐに立ち上がって殴りかかる。

腹部に加わる衝撃に上官は倒れ、泡を吹いて気絶する。

赤黒く染まった左頬には、痛みを感じなかった。

ぐちゃぐちゃになった傷の痛みよりも、信じていた人からの言葉の方がずっと痛かった。

その痛みを打ち消すために喧嘩に明け暮れ、誘われれば娼館にも行った。

しかし言葉を上回る痛みはなかった。そんなものはあるはずがなかった。

顔を洗うと傷口に水がしみ、鋭い痛みと赤い水が残った。

血で汚れたタオルをそのまま捨て、傷は放って置いた。

処置が乱暴だったためにその傷は一生残ることになる。

しかしそんなことは、あの辛い言葉に比べれば。

 

いつもの年より積雪量が多い冬の日。

フィリシクラムのもとに届いた知らせは、国中を揺るがした。

皇太子が出かけたまま戻ってこない。この吹雪の中、たった一人で外にいる。

遭難の可能性が極めて高い、と。

「軍で一斉捜索にあたる!スキーができるものは捜索隊として外へ行け!」

軍の中では最も強い権力を持つ大将の命により、軍人一同が出動する。

ディアは勿論捜索隊で、一小隊隊長に任命された。

軍曹として極めて稀なケースではあるが、それだけ腕は買われていたのだ。

目標地点に到達すると、一斉に捜索が行われた。

皇太子はまだ七歳で、吹雪の中に一人で居るのは危険すぎた。

必死の捜索が続く中、ある一人が子供の泣く声を聞き取った。

「ヴィオラセント軍曹!子供の声が向こうから…!」

ディアはその知らせを聞き、声がしたというほうへ近付く。

よく目を凝らすと、確かに居た。

谷の下に、小さな子供の姿が。

「遊んでて落ちたんだな。行くぞ」

「しかし、もう少し待ったほうが…」

「援軍待ってたら凍え死ぬだろうが。そんなこともわかんねぇのかその頭は」

毒を吐きつつ、谷を滑り降りる。かなりの急斜面だが、ディアにとっては何てことない。

そのときふと脳裏に思い浮かんだのは、まだ軍に入ったばかりの頃の自分。

フィリシクラムにスキーを教えてもらっていた、幼い自分。

「…クソッ」

浮かんだ光景を振り払おうと、呟く。

そんなことは昔の話だ。今、フィリシクラムは傍にはいない。

自分もあれから変わったのだ。

冷たい風が、大きな傷の残った左頬を刺激する。

皇太子のもとに辿り着き、その小さな身体を担ぎ上げる。

後は、崖の上からの助けを待つのみだ。

そう思っていた時、不吉な音が響く。

何かがこちらへ向かってくる。

「雪崩か…!」

ここは谷だ。このままでは死んでしまう。

いや、死なない。死なせない。

皇太子も、自分も。

自分にはまだやらなければいけないことがある。

上官をことごとく殴り倒してきたディアが、まだぶっ飛ばしていない者がいる。

フィリシクラム・ゼグラータ大将が。

皇太子を一度降ろし、腹に抱えて蹲る。

目の前が真っ暗になり、身体を冷たく重いものが覆った。

 

開けた穴から光が差す。

吹雪は止んでいて、青い空が見える。

あれからどのくらい経ったかはわからないが、すでにどうでも良かった。

皇太子の小さな身体を抱えて雪の上に立ち、降ろしてから無線のスイッチを入れる。

「聴こえるか?…皇太子生存。今は雪だるま作りに精を出している模様」

もうだめだと諦めていた捜索隊の間に、歓喜が起こった瞬間だった。

ディアはこの皇太子遭難事件によって、国王から二階級昇進の命を出された。

軍曹から一気に准尉へ。

この人事は当然上層部や年上のものからの反感をかった。

しかし、何かを言われるとディアは決まってこう言った。

「自分より若い奴が准尉じゃ悪いかよ」と。

ここから喧嘩に発展することがしばしばだったが、これはディアにとって胸を張って言える事だった。

フィリシクラムはその様子を目を細めて見ていたが、ディアには知る由もなかった。

 

二年の歳月が流れた。

フィリシクラムは国王に呼ばれ、王宮へと出向いていた。

「どのようなご用件でしょうか」

フィリシクラムが尋ねると、国王は言った。

「隣国リジーデンに攻め込む。…戦争だ」

耳を疑った。

まさか、いきなり戦争だなんて。

「しかし国王、何故…」

「そろそろ土地を広げたい。それにリジーデンは所詮小国。わが国に取り入れたところで周囲に影響はない」

「しかし、多くの犠牲が…」

「構わぬ。何かを得るためには犠牲はつきものだ」

「しかし…」

フィリシクラムの申し立てを、国王は机を叩くことで遮る。

「しかし、しかしと煩い!国王は私だ。私に統帥権がある!」

フィリシクラムは強制的に司令部へ戻され、このことを発表した。

隣国リジーデンに攻め込み、領土を広げること。

それが国王の絶対命令で、逆らえないこと。

他の国は条約上干渉できないこと。

戦争で喜ぶものと、反対するものの二つに分かれる。

フィリシクラム自身は反対だ。しかし、国王の命令は絶対だ。

人が死ぬのは見たくない。人を殺したくない。

犠牲を出したくない。

軍部全体に騒ぎが起こる中、司令部を抜け出した者がいた。

その人物は王宮の護衛を殴り倒し、直接国王のもとへと走った。

「何だね、君は」

国王はそう言うか言わないかのうちに、その人物に殴られ、吹き飛んで壁にぶつかった。

「何をする!…軍の者だな?戦争反対者か」

「当たり前だろ。人間殺して何が楽しいんだよ!」

怒声が王宮に響く。

「領土を手に入れればいいだけの話だ。…しかし、その顔の傷…覚えがあるな」

国王はゆっくりと起き上がりながら言う。

少年兵はたじろぐことなく、はっきりと言った。

「中央司令部准尉、ディア・ヴィオラセント!二年前二階級上げてもらった軍人だ!」

国王はその言葉で全てを思い出し、嘲笑う。

「軍人に何ができる。私は活躍の場を与えてやったまでじゃないか。

…息子を助けてくれたことは感謝している。だからこそ君にはリジーデンに赴き、私のために働いて欲しい」

「誰がお前のためなんかに…!」

再び振り上げた拳は、国王には届かなかった。

腕を押さえたのは、懐かしい感触。

「准尉、やめろ」

「…!」

フィリシクラムを始め、軍の者が王宮に揃っていた。

護衛からの連絡を受けて、ここまで来たのだ。

「ヴィオラセント准尉、この国の統帥権は国王にある。…それはわかっているだろう?」

「でも…」

わかってはいる。

しかし、ディアの脳裏に浮かぶのはあの日のこと。

エルニーニャ遠征から戻ってきたあの日、フィリシクラムは苦しんでいた。

ただ一人しか助けられなかったことへの罪悪感で苦しんでいた。

それを知っているディアだからこそ、多くの犠牲を出すようなことは、

フィリシクラムに人殺しをさせることは、許せなかった。

「おい、イルセンティア・ダウトガ−ディアム三世!これ以上人を殺したくない奴を…オヤジを苦しめるんじゃねぇ!」

その叫びを最後にディアは取り押さえられ、軍の拘置所に送られた。

フィリシクラムはその姿を、見えなくなるまで見送った。

 

廊下を歩く足音が聞こえる。

いつものような乱暴な歩き方ではなく、静かで落ち着いた、威厳のある歩みだ。

「ディア、処分が決まった」

昔と同じように自分を呼ぶ、フィリシクラムの声。

ディアは少し笑って、頷いた。

「で、何だって?」

「国王の命令により、国外追放に処す」

「…軽いじゃん。」

あんな騒ぎを起こした割には軽い。

しかし、ある意味では重い。

「後三日もすればここから出て、一生この国には戻って来れなくなる。…そうなれば、さよならだな」

「そっか…もうオヤジと会えなくなるんだ」

「あぁ」

窓を隔てて話す二人は、昔に戻ったようだった。

しかし、あの頃にはもう戻れない。

「ディア、私がお前を家から出したのは、私と一緒にいることがお前の昇進を妨げるからだった」

「知ってた」

よく考えれば、すぐにわかることだった。

最高責任者と一緒にいることでひいきされていると思われれば、その後の昇進に大きく影響する。

フィリシクラムはディアが上へ行く事を望んでいた。初めからその素質を見抜いていたのだから。

「全部オヤジのおかげだな。…戦争も、しなくて済むんだろ?」

「あぁ、国王も変わるそうだ。条約も改正される。平和じゃないと、国とは言えない」

フィリシクラムはカバンから書類を取り出した。それを窓の隙間からディアに差し出す。

「…何だよこれ」

「軍の入隊希望書だ。…エルニーニャ王国のな」

「エルニーニャ?!つーか軍って…」

驚くディアに、フィリシクラムは笑いかける。

「お前のような奴にできるのは軍人くらいしかないだろう。

エルニーニャの軍はノーザリアよりも設備が整っているし、過ごしやすい」

「でも、俺…」

「ディア、私を信じろ。…私を誰だと思っている?」

ディアは暫く考えた後書類にサインをし、隙間からフィリシクラムへと戻した。

「…オヤジはオヤジだろ」

「大将といって欲しかったんだが」

二人は笑いあう。本当の親子のように。

いや、血が繋がっていないというだけで、本当の親子だった。

 

四月、エルニーニャ王国軍中央司令部第三会議室で面接が行われていた。

「ディア・ヴィオラセント…十四歳?」

面接官を担当している上官が不審そうに言う。

「曹長からという推薦を受けているのだが…」

ここに推薦してくれたのは勿論フィリシクラムだ。

書類にサインをした後、ディアは本当の年齢と生年月日を彼にだけ明かした。

フィリシクラムはそれを聞いて怒ったりはせず、寧ろ笑い、呆れた。

軍部に対する詐称で罪が重くなるぞ、と冗談で言っていた。

そして誕生日については、いつか本当の誕生日に祝いをしようと話した。

国を出るときには結局会わなかったが、寂しくも悲しくもなかった。

それほどまでの絆と言うべきか。

「構わないでしょう。実技もノーザリアの大将殿のお墨付きだというし」

「マグダレーナ中佐、真剣に考えているのか?」

「真剣よ。…ディア・ヴィオラセント、貴方をエルニーニャ王国軍中央司令部曹長に任命します」

紺色の学生服風の軍服と、国章と、階級を表す赤いバッジ。

彼が全てを受け取って会議室を出たとき、廊下を歩いていた少年とぶつかった。

光を受けて緑の輝きを持つ黒っぽい髪に澄んだ緑の眼、左耳に銀のリングをつけている。

「あ、ごめんなさい!」

彼はそう言ってすぐに去っていったため、ディアの記憶には残っていない。

彼こそが七年前フィリシクラムに助けられた少年だということは、さらに七年経つまでわからない。

その後、ディアは三等兵の教育という仕事を貰った。

ノーザリアにいた頃とあまり変わらない、苛めに近い接し方。

そのとき共に仕事を任された、無表情のまま傍にいた金髪の軍曹が少し気になったが、三等兵にかまっていると気にしている暇はなくなってくる。

彼との関わりは、その何時間か後に漸く始まることになる。

 

滑走する運命の流れを掴め。

そして、自分の望んだ未来を手に入れろ。

 

 

Fin