両親は目の前で、包丁で自らの腹を裂いた。

母は死ぬ間際に、か細い声でこう言った。

「あなたは生きて、幸せになりなさい」と。

 

父は小さな会社を持っていて、事業に失敗した。

これ以上は生きていけないと、母と心中を実行したらしい。

あとに残された子がどうなるかも知らないで、二人は勝手に逝ってしまった。

 

アクト・ロストート、三歳。

両親がこの世を去った後、父方の親戚に預けられた。

叔母は「家系に泥を塗った」と言い、アクトを見るたびに嫌悪に満ちた目をする。

彼女はアクトの母、つまり兄の妻を初めから嫌っており、この心中事件はあの女の所為なのだ、と言っていた。

容姿が母にそっくりなアクトは叔母の言葉や行動によって攻撃され、食事もろくに貰えずに地下室に閉じ込められた。

気候が穏やかなエルニーニャの中心部だが、この家の地下室は異常なほど寒かった。

その中で三歳の少年が生きるのは難しかったが、手を差し伸べてくれる者がいて何とか生きていた。

地下室へ降りてくる足音は、唯一安心できる音。

「アクト、毛布とパンを持ってきたわ。…これでいくらか寒くなくなるわよ」

そう言って物資を置いて行く少女は、この家の娘マーシャだ。

「ごめんね、こんなことしか出来なくて」

申し訳なさそうに笑うマーシャに、アクトは頷く。

そして小さく笑い返す。

「そうだ…ママがね、アクトが上に行く事を許してくれたの。

…掃除とか洗濯とかしなきゃいけないけど、ずっとここにいるよりはマシなはずだから」

マーシャがいてこそアクトの存在は成り立っていた。

この暗闇の中で、彼女は唯一の光だった。

彼女のおかげでアクトは地下室にいる時間が減り、家で掃除や洗濯、マーシャの指導と監視の下での食事作りをしていた。

叔母は毒入りではないかとしきりに心配していたが、マーシャが監視することでその心配もなくなった。

しかし外にいる時間が増えた分、攻撃も増える。

マーシャのおかげで直接的なものはないが、傷は確実に増えていった。

そうして四年がすぎ、アクトは七歳になった。

 

家族が寝静まった真夜中、地下室への階段を降りてくる音が響く。

マーシャではない。マーシャならば女の子らしく、もっと軽やかに降りてくる。

真夜中に来るというのもおかしい。

アクトは起き上がって、扉を開けた者を見た。

それは普段ここには来ない、叔父だった。

「…何か、不備でもありましたか?」

アクトは恐る恐る尋ねる。

叔父は何の反応も示さず、ただアクトを見つめていた。

「あの…?」

「…似ている」

「え?」

叔父はアクトに近付き、腕を掴んで引き寄せる。

「テレーゼ…愛しいテレーゼ…」

懐かしい母の名を呼ぶ叔父に押さえつけられる。

身動きが取れない。

「違います!僕はテレーゼじゃ…母さんじゃありません!」

「テレーゼ…何故あんな男と…こんな子供まで…」

叔父はわかっている。錯乱しているわけではない。

しかしその行動は、あまりにも狂っている。

服は剥ぎ取られ、押し当てられる唇の感触に寒気を覚える。

「やだ…っやめてください…!」

抵抗もむなしく、動かない身体には痛みが走る。

どんなに叫んでも、誰も来てくれない。

マーシャさえも。

叔父が去った後、嫌な感触と、痛みと、涙が残った。

さらにその行為は毎晩続き、次第にエスカレートしていった。

性交の最中に、刃物で身体を傷つけられる。

傷痕は増え、服の上からも目立つようになり、

ある夜、とうとう叔母に全てを知られてしまった。

「…何をしているの?」

そう尋ねる声は、何よりも冷たかった。

彼女の後ろには呆然としている少女が――マーシャがいた。

それからは叔母からの暴行が激しくなり、身体の痛みと言葉の痛みがアクトを襲った。

激情に任せて身体を蹴りつづける叔母は、同じ言葉を何度も繰り返す。

「淫売!お前もあの女と同じなんだ!お前も死んでしまえばよかったのに!」

マーシャは傍で見ているだけだった。もう母親を止めようとはしなかった。

それどころか、彼女もアクトを凍るような冷たい目で見ていた。

叔母に行為が知られても、叔父は夜になるとアクトのところへ来た。

傷つけ、精を吐き出し、戻っていく。

アクトはもう、感情を忘れていた。

そして、こう思い込むようになった。

「苦痛は自分にとって快感だから、どれほど傷つけられても平気だ」と。

 

荒んだ日々が三年近く続き、その年の冬が来た。

アクトはもうじき十歳になろうとしていた。

寒い地下室で蹲り、一点を見つめる。

ここ一週間、何も食べていない。

周囲の音が全く聴こえない中、ふと気配を感じた。

視線を上へ向けると、そこには少女がいた。

十四歳になったマーシャが、アクトを見下ろしている。

昔のように笑いかけたりはしない。ただ、冷たい目で見ているのだ。

「アクト、私、アンタを許さない」

久しぶりに聞いた声は、透き通ってはいるが、重い。

「アンタがお父さんと交わった所為で、お母さんは狂ってしまった。うちはもうめちゃくちゃ」

呟くような、静かな音。

アクトはマーシャに顔を向けていたが、どこか別のところを見ていた。

「アクト、この家から出て行って。アンタがいるからこうなったの」

マーシャはアクトに一枚の紙を差し出す。

それは、軍の入隊希望書。

「試験を受けて軍に入ったら、もう戻ってこないで」

アクトは何の反応も示さない。

マーシャはしゃがんでアクトの手をとり、無理矢理名前を書かせる。

「…これで、もうアンタは戻って来れない。だって、アンタは試験に受かるでしょう?」

マーシャの声が震える。頬を雫が伝い、アクトの手に落ちる。

「受かってよ。じゃないと、アンタは行くところがなくなる。ここには戻って来たくないでしょう?」

マーシャはアクトを抱きしめる。昔のように、優しい温かさが体を包む。

アクトの眼に、光が戻る。

「マーシャ…」

自分を抱きしめてくれるただ一人の人の名を呼ぶ。

「軍人に、なればいいの?」

「ならないと困るのはアンタよ。一般常識くらいなら私が教えるし、アンタは頭がいいから大丈夫。

十歳の誕生日が来たら試験を受けて、軍に入るの」

非情になりきれなかった少女の示した道。

アクトはその道を行った。

誕生日にマーシャと共にこっそりと家を抜け出し、試験を受けに行く。

力が弱く、見た目も痩せていて、筆記だけは一応出来ているという状態。

しかしアクトは身柄の保護という形で軍に入った。

マーシャが自分の家を告発したためだった。

彼女の両親は処罰を受け、マーシャ自身はどこかへ消えた。

アクトが正式に軍人となったのはその三ヵ月後で、その頃にはもう十分な実力がついていた。

しかし、彼の苦しみはまだ終わったわけではなかった。

 

実の母親に良く似た容姿は、一部のものに目をつけられるには十分だった。

最初は三人ほどからの輪姦を受けた。

しかし、泣くことも喚くこともしなかった。

もう慣れてしまっていたし、自分は苦痛が快感なんだと言い聞かせていたから。

そのうち自分から受け入れるようになり、都合の良い性奴隷としての扱いを受けるようになった。

すでに傷が大量に残っている体にはさらに赤が刻まれ、それさえも受け入れる。

それだけではなく、普段も罵声に怯えることなく、寧ろそれを楽しんでいるように見られた。

彼につけられたあだ名は「マゾヒスト」。その後もずっと言われつづける言葉だ。

全てを拒まずに受け入れ、階級は順調に上がった。

三年後には軍曹という地位につき、表の仕事と裏の仕事を両立する毎日が続いた。

毎日が倦怠感から抜け出せないまま過ぎていく。

マーシャのことを思い出そうとするが、思い出せなくなってきた。

 

記憶障害をもったまま、軍に入って三年が経過する。

桜の散り始めた頃、上官に仕事を申し付けられた。

新しく入ってきた三等兵の教育。

それを異動してきた曹長とともにやれということだった。

訓練場に移動すると、初々しい新兵の姿があった。

自分のように荒んだ眼をしたものはいないようで、少し安心する。

周囲から聞こえてくる声は、威勢の良いはっきりとした調子。

表ではこうでも、裏では何をしているかわからない。

アクトは何も信じないと決めていた。

軍に入りすぐに輪姦を受けたあの時から、自分の味方はこの世界にはいないのだと感じていた。

苦痛を受け入れて生きていく。本心は誰にも見せない。

軍人になってからずっとそうしてきた。

だから、今度も信じない。

共に仕事をしているこの曹長も、自分とは何の関係もないのだ。

左頬の大きな傷が印象的な彼は、新兵に罵声を浴びせている。

泣きそうな顔をする彼らを、アクトはただ見ていた。

感情のない者は一人もいない。そんな者は自分だけで十分だ。

訓練の時間が終わって上官に呼ばれ、何か語っているのを聞く。

上官の質問に適当な答えを返して部屋を出ると、傷の曹長はアクトに話し掛けてきた。

自分を苛めようとしている彼が、別れても気になった。

誰も信じない。誰も要らない。

そう思ってきた心に、暖かい春の風が吹いてきた。

 

生きて幸せになれとあなたは言った。

けれど、幸せなんてどこにあっただろう。

自分が待っているだけじゃそれは来ないと気付いたとき、

本当の何かがわかった気がした。

 

廻り続ける運命に、何かが入り込んでくる。

自分は今、始まったばかり。

 

Fin