暗闇の中を彷徨う、幼い自分。

闇は怖い。全てを呑みこんでしまうから。

――僕はどこにいるの?

――誰かいないの?

歩いた末に壁に触れる。見上げると、微笑む女性。

――母様…!

声を出そうとするが、声が出ない。自分以外のものが音をたて始める。

『アルベルト、まだなの?』

女性の唇の形と少しずれて、声が聴こえる。

『まだあの人を止めてくれないの?』

――待って、母様。もう少しなんです。もう少しで…

『いつだってそうなのね。あの人を早く止めて。これ以上の犠牲は…』

――わかってます。わかってるんですけど…

『そのために軍を利用するのか?』

別の声が聴こえた。振り向くと、海色の瞳。

――大佐…!

『そのために俺たちを利用するのか?』

――違います!違うんです!

『自分の目的のためなら手段を選ばねぇってか』

『最初からおれ達はお前の捨て駒だったんだな』

別の方向から聴こえる声は、傷の男とその横の金髪の青年が発す。

――ディア君、アクト君…捨て駒だなんて…

『そうでしょう?俺たちに隠して計画を進めて、最後は自分ひとりが生き残るつもりなんですよね』

『全部演技なんですよね。そうすれば後から言い逃れもききますし』

『結局のところ全てを巻き込むんでしょ?私も皆もぜーんぶ』

銀髪の少年と、黒髪の少年と、黒髪の少女。

――フォース君に、シーケンス君、ローズさんまで…

幼い目線を自分よりもずっと大きなものに向ける。

暗闇と軽蔑の眼差しに圧倒され、しゃがみ込む。

『それでも軍人ですか?』

声を見上げると、金髪に淡いブルーの瞳の女性。

――マクラミーさん…違う!僕は…皆を巻き込もうなんて…!

『違わないです、リーガル少佐。どうして否定するんですか?』

暗闇の圧迫、言葉の棘、不信の目。

金髪の女性の唇が動き、声が降ってくる。

『うそつき』

 

目が覚めて、自分が汗だくになっていることに気付いた。

夢の内容は鮮明で、痛みと重さを伴っている。

アルベルトは体を起こし、ゆっくり息を吐いた。

こんな夢を見たのは何度目だろう。最初は母の場面だけで終わり、人と関わるにつれ自分を責める声は増えていった。

こんな夢を見ても仕方ないと思う。自分はそれだけの事をしているのだから。

「違う…僕は…」

声に出して言ってみる。けれども、何が違うというのだろう。

自分に否定する権利はあるのだろうか。

「…僕は…」

布団を掴む手を握り締める。

否定する権利などとうの昔に放棄し、失ったのだ。

 

早朝の司令部は上官が忙しく動き回り、尉官以下が話し掛ける隙は与えられない。

佐官の彼らも例外ではなく忙しい。

「不良、これ大総統行き書類な」

「不良って言うな!…アクト、そっちあったか?」

「あった。カスケードさん、判子投げるから取ってよ」

「今手が離せないから不良に投げてくれ」

「俺だって今お前に渡された書類で…」

朝のうちに書類を片付けて、すぐに任務地へ赴かなければならない。

最近は高度な任務が多くなり、佐官以上の多忙ぶりは尋常ではない。

そのサポートに回る尉官も同様だ。

「アクト、リアちゃんとラディ呼び出せ。不良は銀髪と薬屋」

「今向かってるって連絡入ったけど」

「グレンちゃんとカイは別口行ってる。…つーか不良って言うな!」

カスケードは机の上の書類の山を見て溜息をつく。

これをあと一時間ほどで片付けなければならない。

「なんだってここ最近忙しいんだよ。やっと南方の処理片付いてきたと思ったのに…」

五ヶ月近く経って漸くほとんどの処分が決まった南方殲滅事件処理だが、それに続いて別の件が入ってきたのだ。

詳しくは将官以上しか知らないが、そのうちはっきりするだろう。

この書類とはあまり関連がないとは聞いているが、それもどうだかわからない。

「秘密事項多すぎるんだよ、軍ってのは…」

書類に印を捺す速度は自然と速くなり、少しずつ薄くなっていく。

「これ捺してあんのかよ?見えねぇぞ」

「あぁもう貸せ!どのくらいある?」

「こっからここまで」

「うわ、こんなに…早く言えよ!」

単調なデスクワークはアウトドア派にとっては辛いことこの上ない。

絶対今日の任務終わったら遊んでやる、と思いつつ、印を捺していく。

「すみません、遅れました!」

ドアが開いて女性軍人二人が入ってくる。

片方は金髪に淡いブルーの瞳、片方は黒く美しいウェーブのかかった髪に同じ色の瞳。

「悪いな、呼び出して。こっちの書類、事務通して欲しいんだ」

「わかりました。…ラディアちゃん、悪いんだけど先行っててくれる?」

「はい」

書類の束を抱えて、ラディアは部屋を出る。その後にリアがカスケードに話し掛ける。

「あの…さっき第一会議室の前を通ってきたんですけど…」

第一会議室では今頃将官が会議中のはずだ。

「何か言ってたか?」

「…他国から、要請があったそうです」

カスケードは一瞬表情を変え、すぐにもとに戻した。

書類の束をリアに預けて明るく言う。

「リアちゃん、今晩食事でもどうだ?」

「え?」

「普段世話になってるし。それとも用事あるか?」

「ありませんけど…」

「だったら決まりだな。不良と保護者にはアルに内緒にするという重要任務を与える」

いつもの「楽天家のカスケード」がそこにいた。場に不釣合いなほどの陽気さで。

 

カスケードたちが任務に出た後はアルベルトとブラックが引き継ぐ。

書類に判を捺し、事務を通して大総統のもとへ流してもらう。

作業要領はカスケードから聞いてわかっているが、アルベルトは挙動不審だ。

おそらく、リアが手伝いに来ているためであろうが。

「こっち持っていきますね」

「え、あ、はい!お、お願いします!」

リアが書類を持って部屋から出て行くと、ラディアがそれに続いていく。

ブラックと二人になったため、アルベルトはふぅ、と息をつく。

「マクラミーさんいると緊張するなぁ…」

「さっきの挙動不審ぶりとえらい違いだな」

「そう?変わらないよ」

「変わってるだろ、明らかに」

情けない表情が消え失せたアルベルトに、ブラックは冷静に言う。

性格が一転することなどいつものことだ。もう慣れている。

アルベルトは自分の追っている事件に関係する資料や事象に向かう時、性格が変わる。

挙動不審で情けない雰囲気から、一瞬でしっかりとした目つきの青年になる。

「…つーかなんで今性格変わってんだよ」

「わからない?これ全部関係書類だよ」

「何だと?」

ブラックは書類を一枚、真剣に見詰める。ただの報告書だ。

「これのどこが関係書類だよ」

「押収品リスト。これ全部危険薬物関連なんだ」

「危険薬物?」

それがどうしたというのか。ブラックは押収品リストに目を通し、薬物を確認する。

「イリュージョニアじゃねーか。…マルスダリカの事件と同じだろ?」

先月、マルスダリカという町で危険薬物騒ぎがあった。薬物の流通が行われているということだったが、結局それは近くの村がマルスダリカに罪をきせていたのだった。

そこで押収された薬物が「イリュージョニア」という強い依存性を持つものだった。

「イリュージョニアともう一つあるよね。その下に書いてあると思うけど…」

「あぁ、ウィルドフェンスがあるな。それがどうかしたのかよ」

ウィルドフェンスはイリュージョニアと効果が似ているが、さらに強い依存性を持つ危険薬物だ。

「イリュージョニアはともかく、ウィルドフェンスはユィーガを含む東の国では全く手に入らないんだ。

なのにそれが押収されたのは東方、しかも国境に限りなく近い。

さらに押収されたときの状況はそれを持って国境を越えようとしていたらしいから…」

「あの男が関わってるかもしれないって?」

「そう」

アルベルトは頷く。話している間にも書類の捺印が進んでいた。ブラックは書類を移動させ、場所を空ける。

「その考えは単純すぎねーか?」

「単純でも、賭けてみる価値はある」

アルベルトはそう言った後に、判を捺す速度を落とした。

直後小さく足音が聞こえてきて、七秒ほどで戸が開いた。

「次くださーい」

ラディアが入ってきて、その後ろからリアがついてくる。

「終わったのこっちですか?」

「は、はい!そ、それと…こっちも…」

「わかりました」

リアとラディアは再び部屋を出て行く。足音が小さくなったところでアルベルトは再び判を捺す速度を上げる。

「…こっちから見てると違和感あるんだけど」

「そう?…ところでブラック、今日はやけに大人しいんだね」

「はぁ?何だよそれ」

「いつもならすぐに僕に突っかかってくるのに、それがないから」

言われて初めて、ブラックは気付く。

そういえば自分はアルベルトのことが大嫌いではなかったか。

なのにいつのまにか普通に会話し、普通に接している。

未だに兄とは認めていないが、以前ほど嫌悪感はなくなった。

「どうだって良いだろ」

「…そうだね。ブラックはブラックだし」

書類の捺印が完了し、アルベルトは伸びをする。

ブラック以外の者に見せる挙動不審な彼と、事件に関係する書類を前にした冷静な彼。

本人はどちらも同じ自分だと言っているが、とてもそうとは思えない。

「…ブラック、今夜確かめようか」

「何をだよ」

唐突に話を切り出すアルベルトに、ブラックは何だかわからないというような表情をする。

しかしそれはすぐに「もしや」になり、「やはり」に変わった。

「新しい情報を手に入れて、危険薬物とあの人の関係を確かめる」

「…お前、どうやって…」

言いかけて、外からの足音を聞く。

どうやらリアとラディアが戻ってきたらしい。

ドアが開いて、驚いた表情が見える。

「もう終わったんですか?」

「え、いや、あの…」

対人仕様に戻ったアルベルトに呆れつつ、ブラックはリアに言う。

「オレがやったんだよ、コイツ遅ぇから」

「ダスクタイト中尉が?珍しいですね、ちゃんと仕事するなんて」

「コイツがトロいからイライラしてやったんだよ」

「あ、あの、とにかく…その…」

「わかってます。これで最後なんですよね」

リアはラディアと書類を分けて、再び廊下へ戻る。

足音が遠のき、室内の声は調子を変えた。

 

「カスケード・インフェリア大佐、ただいま戻りました」

上官に挨拶し、今回の任務の報告をする。

危険薬物についての事件が多い。マルスダリカの時のように大規模ではないが、確実に事件件数は増えていた。

先月から今月にかけてはほぼ毎日のように出動命令が出るほどだ。

「今回もイリュージョニアと…ウィルドフェンスです」

「またか…何故だと思う?インフェリア大佐」

「…私の意見を述べさせていただいてもよろしいのですか?」

仕事仕様のカスケードは普段よりずっと怖い。真剣な目で見下ろされると、大抵の者は話を切り上げて逃げ出す。

「意見は今度の会議で言ってくれ。…本日の任務、ご苦労だった」

この上司も例外ではなく、それだけ言うと去っていった。

カスケードは溜息をつき、寮に戻る。すぐに支度をしなければならない。

上が何を考えているのか知る必要がある。

自分の部屋に戻り、鍵を開ける。室内は片付けたばかりでさっぱりしている。

「…と、何着ていけば良いんだ?」

普段外に食事に行くことはない。軍施設には食堂もあるし、ディアとアクトの部屋へ行けば夕食は済ませられる。

そういえばどこへ行くかも決めていなかった。

「俺準備悪すぎ…」

独り言を言いながら、いつもと同じようにシャツとレザーパンツを引っ張り出す。

リアの意見を聞いてから考えようと思い、これ以上考えるのをやめた。

着替えて女子寮の方へ行くと、何故か何度も引き止められる。

「大佐、どこ行くんですか?」

「誰かと付き合ってるわけじゃないでしょうね?」

「付き合ってるわけじゃないけど…とにかく、急いでるから後にしてくれよ」

爽やかな笑顔でその場を切り抜け、やっとの思いでリアとラディアの部屋に来た。

 

女の子らしいインテリアが印象的な、リアとラディアの部屋。

家具はほとんどリアの趣味だ。

「ねぇ、ラディアちゃん…本当に大丈夫?」

「大丈夫ですよ。私子供じゃないんだから、留守番くらいできます」

「…そうよね…」

そう返すものの、今までのラディアの行動からはとても安心しきれない。

援軍を呼ぼうかとも考えたが、ラディアの気持ちを考えてやめた。

「リアさん、何でカスケードさんと食事なんですか?」

ラディアが尋ねると、リアは首を横に振る。

「わからないわ。とにかく行ってくるから」

嘘を言った訳ではない。偶然会議を聞いてしまったくらいなら、話は休憩室やそれぞれの部屋でもできる。

何故いちいち外へ連れ出す必要があるのかはリアもよくわからない。

丁度ノックの音が聴こえた。リアはラディアに軽く手を振り、廊下へ出た。

 

まだ明るい夏の夕方、レストランの窓から見えるのはいつもの町並み。

「悪いな、急に…」

「いえ、カスケードさんのことだから、何か理由があるんでしょう?」

「まぁ、あると言えばあるけど…」

店員がメニューと水を持ってくる。リアに先に選ぶよう言って、カスケードはコップに触れる。

「リアちゃん」

「何ですか?」

「どうだ?あれから…」

リアの動きが一瞬止まるが、なんでもないというように再び手を動かす。

「大丈夫です。…私、立ち直り早いんですよ?」

「そうか」

数週間前、アーシャルコーポレーションの社長が逮捕された。

それは死んだと思われていたリアの実の父親で、リア自身大きなショックを受けていた。

リアの過去に少しではあるが関わっていたカスケードにとっても衝撃だった。

「…もしかして、食事に誘ったのってそのこともあるんですか?」

「いや、大丈夫ならいいんだ。…本題は今日言ってた事だから」

店員がオーダーを取りに来て、メニューを回収する。

後姿を見送って、カスケードは声をひそめる。

「他国要請って、何があったんだ?」

「…あまり聞き取れなかったんですけど…東の小国で連続殺人事件が起こってますよね?」

「あぁ」

あまりにも残酷なそれは、当然エルニーニャにも伝わっていた。

現地軍が調査を進めているはずだが、それでは手におえなかったという事か。

「それの調査の手伝いか?」

「いえ…少し違うみたいなんです。以前エルニーニャでも同じ手口の殺人事件が起こっているって…」

「ここでも?」

そんなことは聞いた覚えがなかった。少なくともカスケードの記憶にはない。

昔の新聞をあされば出てくるかもしれないが、それよりも。

「関連性を調べるのか?」

「はい、そんなような事を言っていました。…よほどの事件なんですね」

「まぁな…」

今までこちらに送られてきた情報では、被害者は全員体中を切り裂かれ、腹を割られ、女性は死姦を受けていた。

ネクロフィリアによる犯行かとも思われているが、定かではない。

薬物といい、殺人といい、最近東の方ではろくなことが起こっていない。

「他に何か聞いては?」

「いないです。私が聞いたのはこれで全部です」

「そうか、サンキュな」

タイミングよくサラダセットがテーブルに届けられる。

よく見ると店員はニヤニヤしていた。

「…何か勘違いされてるみたいですね」

「仕方ないな。こんな状況だし…俺は別に嫌じゃない」

爆弾発言をしつつ、食事を開始した。

他愛もない話をしつつも、カスケードの思うことは一つ。

過去に起こった事件のことを調べる必要がある。

「…リアちゃん、話戻して悪いんだけど…」

「何ですか?」

「事件って、確か東の小国のいくつかにまたがってるんだよな?」

「はい。…主な国は確か…ユィーガだったような気がします」

カスケードはふと思い出す。以前にもこの国名を聞いてはいなかったか。

あれは確か、三ヶ月ほど前だ。自分は資料を見た。

何のために見たのか。

その前にも「小国の殺人事件」という言葉を書類で見た。

その書類は、確か。

――まさか…

あり得ない事ではない。ただ、他が信じそうにないだけで。

 

部屋に響くキーボードのタイプ音と、画面から漏れる光。

素早く動く指は確実にゲートを潜り抜けていく。

「さすが軍だね。何重にもロックされてて、なかなか入り込めない」

そう言いながらも物凄いスピードで侵入していくアルベルトを、ブラックは後ろから離れて見ている。

「ハッキングなんか出来たのか、お前」

「前にもやったことがあるんだ。その時は猟奇殺人犯が相手だったけど…」

確認音が聞こえ、データ情報の入手に成功する。

「…今は軍が相手だから、バレたら大変だね」

これも裏切り行為になるのだろうか。自分の所属するところのデータをハッキングし、それを利用する。

以前カスケードを利用したときは後悔の念に襲われたが、今はそうでもない。

相手がコンピュータだからであろうか。

「あった。ユィーガと中心とする小国で起こっている問題について…」

読み始めて驚愕する。

すでに危険薬物と殺人事件は関連性が指摘されていて、エルニーニャにも協力の要請がきている。

これはチャンスでもあるが、目的を達成できる可能性を減らしている。

自分達の手でけじめをつけるという、目的。

「…どうする?ブラック」

「どうするって…」

「こうなってしまっても、君はあの人を殺すつもり?」

おそらく実行は不可能に近くなる。

実行出来たとしても中央に来たからには軍人として存在することは不可能になるかもしれない。

「…オレは…オレの手であの男を殺す。何があっても、だ」

「そう…やっぱり改めてはくれないんだね」

「当たり前だ。オレは復讐のためにここまできたんだ」

それだけを見てきた。だから軍にいる。

あの男を殺してしまえば軍にいる必要はない。

「…ブラック、データは手に入ったから…後は軍よりも先に…」

「お前は手を出すな。…これはオレの復讐だ」

ブラックは部屋から出ようとする。しかし、アルベルトはそれを止めた。

「君だけじゃない」

「…は?」

「君だけじゃないよ。…僕もけじめをつけなきゃいけないんだから」

侵入した形跡を完全に消しにかかる。作業をしながら話し続けた。

「夢を見るんだ。母様が僕に、まだあの人を止めてくれないのって言ってくる」

「…それがどうした」

「母様だけじゃないんだ。誰も彼も皆出てきて…皆は僕を軽蔑してる。

軍を利用して自分の目的を達成しようとする、悪人だって。

僕は必死で否定して、最後にマクラミーさんに言われるんだ。…うそつきって」

アルベルトの手が止まる。侵入経路は完全に塞がれていて、おそらく穴はない。

「確かに僕はこうして軍を利用して、自分の利益しか考えていない。

それが結果的に皆を巻き込むことになるだろうって事はわかってる。

だけど…」

コンピュータの電源が切れ、画面が光を失う。

「…これならいっそ、嫌われて軽蔑された方がいいのかもね」

ドアが閉まる音が響いた。

薄暗い部屋にアルベルトは独り取り残された。

 

翌日、アルベルトは第三会議室にいた。

カスケードに書類整理を頼まれ、それぞれを月別に分ける作業をしていた。

「アル、捗ってるか?」

「はい。…あ、こっち五月なのに…」

五月と六月が混ざってしまっていて、そこはやり直さなければならない。

アルベルトが慌てて直していると、カスケードは正面の席に座って書類を手に取った。

「あのさ、アル…」

「何ですか?」

そう言って顔を上げて気付いた。カスケードの表情が、いつもの明るいものではない。

何かを言わなければならないが言えない、という感じだ。

「あの、僕また何か失敗してましたか…?」

「いや、そうじゃないんだ。…あのな、アル」

恐る恐る尋ねたことを即座に否定し、カスケードの表情が真剣なものになる。

「…お前、ラインザー・ヘルゲインって知ってるか?」

それは確かに知っていることだった。

二十年以上も前に一家惨殺を含む連続殺人事件を起こし、川に身を投げて死んだとされている人物。

「正直に答えてくれ。…お前が知らないはずはないよな?」

死んだように見せかけて、エルニーニャの財閥に入り込み、巨万の富を手にした人物。

「お前は追っているんだろ?そいつを」

アルベルトとブラックの髪と目の色と、全く同じ色を持つ人物。

「ラインザーはお前の」

「大佐」

カスケードが正面に見たのは、冷たい金属の筒。

軍支給四十五口径の姿。

「…どうして…調べたりしたんですか?」

そしてその向こうの、冷たい目をした部下。

「…アル…やっぱりお前」

「どうして調べたんですか!」

いつものアルベルトからは考えられない口調だった。

挙動不審さも大人しさも消え失せ、そこにあるのは絶望と怒り。

「…最近起こっている連続殺人事件の調査の協力要請が出ているんだ。

事件の中心はユィーガ、お前が前に調べていたのも…」

「わかっているのはそれだけですか?」

「いや、東の小国で起きた一連の事件と同じ手口の事件が、エルニーニャでも起こっているという話を聞いてな。

それを調べていたら…被害者がわかった」

積まれた書類の一番下から数枚抜き取る。

それは紛れもない、十七年前の事件の資料。

「レジーナから少し外れたところに住む女性が、全く同じ手口で殺されている。

彼女の名前はブルニエ・ダスクタイト。息子が一人いて、当時二歳」

向けられる銃口に全く怯まず、カスケードは淡々と語り続ける。

「…被害者は、ブラックの母親だな?」

「……」

アルベルトは何も答えず、ただ銃を構える。

「お前は前にブラックとは腹違いの兄弟だと言った。

ブラックはお前の父親の愛人の子だ。そしてお前はリーガル家の子。

父親の名前はリーストック・リーガル。その前はリーストック・リンシェイン。

そしてその前は」

「ラインザー・ヘルゲイン」

アルベルトが、漸く口を開く。

「…そうですよ、一連の事件は全てあの人の仕業です。

僕はあの人が許せなくて、ブラックはあの人に復讐しようとしてるんです。

あの人は殺すことに快感を覚えている。死体を犯すときはおそらく生きている人間よりも…」

普段のアルベルトが言わないようなことを、このアルベルトはさらりと言う。

銃を握る腕は下がることなく、カスケードをしっかりと捕らえたままだ。

「…それにしても、よくリーストックからラインザーに辿り着きましたね」

「色素はごまかせないだろ。整形の記録なんて探せば出てくる。

たとえ廃棄していたとしてもネットワークでデータなんかどうにでもなる。

裏世界の医者だって裏切らないとは限らない」

銃口を無視して、ひたすら視線をアルベルトに向けて話す。

全く動じないその様は、まるで慣れているかのようだ。

「…敵わないです、大佐には」

そう呟き、引き金に触れる指に力を込める。

「そこまで解っている人は、僕達にとってあまり都合のいいものではありません。

だから…あなたには消えてもらいます」

「そうか」

「僕はともかく、ブラックの邪魔はして欲しくないんです。

これで僕が罰されてもブラックには関係ないことですし」

「そうだな」

「…何か言い残すことは?」

アルベルトがそう言うと、カスケードはいつもの調子で答えた。

「アル、クレインにハッキングしたのバレてたぞ。もっと上手くやれよ」

笑みさえ、浮かべて。

 

銃声が響いた。

その音に駆けつけた人々が見たものは、壁の弾痕。

「何をしている!」

上司の声が響く。室内にゆっくり立ち上がる者がいた。

「申し訳ありませんでした。…銃の点検をしていてミスをしてしまったのです」

無傷のダークブルーは、いつものように敬礼する。

「インフェリア大佐、君の部下は監督不行届きだな。ヴィオラセントといいリーガルといい…」

溜息をつきつつ、少将が床に座り込むアルベルトを見る。

「以後気をつけます。全て私が責任を負います」

「その台詞も何回目だか。…まぁいい、以後気をつけるように」

人の塊は一斉に第三会議室を退いた。

俯いて座っているアルベルトと、戸が閉まるのを見つめるカスケードだけが残される。

「…アル、良かったのか?」

「……」

黙り込んでいるアルベルトに近付き、しゃがみ込む。

「俺を殺さないで、後悔しないか?」

「…殺せる訳…ないじゃないですか…」

気をつけないと聞き取れないような声で、アルベルトは答える。

「大佐…僕を嫌いになったでしょう?

人を散々利用して、都合が悪くなったら殺そうとする。

…あの人と同じ事をしている僕を、軽蔑したでしょう?」

絶望と後悔を吐き捨てる。恐れが体温を冷たく変えていく。

が、背中に、温かいものが触れた。

「嫌いになんかならない。軽蔑なんかしない」

優しい光が、闇に射してくる。

「だって、お前は俺を殺さなかっただろ?たとえ殺したとしても、お前を恨んだりはしない」

「大佐…」

顔を上げると、カスケードは微笑んでいた。

何もなかったかのように、いつもと同じ笑顔をしていた。

「…どうして、嫌わないんですか?」

「そんなの決まってるだろ」

カスケードはアルベルトの頭を軽く叩く。

いつもと同じ感触が伝わる。

「俺は、お前の上司だからな。…そうだろ?アル」

夢は、正夢にはならなかった。

闇が裏返り、光が一つ。

 

その日の夕食はディアとアクトの部屋でとる事になった。

カスケードが強制的にアルベルトを連れて、ブラックは巻き添えをくらう形になる。

「アルも黒すけもリラックスしろよ。そんなに固くなるなって!」

「いや、ここ俺たちの部屋だから」

明るく笑うカスケードにツッコむディア。

台所からは食欲をそそるいい匂いが流れてくる。

「少しは手伝え!食器出すくらい出来るだろ!」

忙しそうに動き回るアクトがディアの頭を叩いて言う。

「痛ぇ!叩かなくても良いだろ!」

「叩いた方が頭良くなる」

「ならねぇよ!」

文句を言いながらもしぶしぶ従うディアが、アクトと共に台所へ移動する。

その隙にカスケードがアルベルトとブラックに話し掛ける。

「お前らが来てからそろそろ半年だな。慣れたか?」

「…はい」

昼間の件を引きずっているため、アルベルトはぎこちなく答える。

あんなことをした自分が、この人と普通に話していいものなのか。

どうしてカスケードは平気でいられるのだろう。

「黒すけは?」

「黒すけって言うな」

ブラックは別の意味でカスケードに疑問を持つ。

どうして人とこんなふうに関われるのだろう。

あだ名をつけたり、声をかけてきたり、接し方は軽い。

しかし付き合い方は相当深いものであるということが周囲から解る。

この男は人を疑うということがないのだろうか。

これが本気なら馬鹿だし、上辺だけなら偽善者だ。

「中央には慣れたか?」

「…別に」

「答えになってないぞ、黒すけ」

「黒すけって言うな!」

いつのまにか人を自分のペースに巻き込んでいる。

カスケードと話していると、自分も馬鹿になりそうだ。

しかし自分は、そう思いながらも嫌悪を感じないのだ。

復讐だけを目的に軍に入り、人を遠ざけ、邪魔なものは壊し、消した。

中央への移動が決定したときも、そうしていくつもりだった。

なのに何なのだろう。

「お、今日は豪華だな」

「冷蔵庫にあったものをかき集めただけ。…アルベルトとブラックもこっち来い」

「…はい」

「へぇ、アンタ意外とやるんだ」

何なのだろう、この感じは。

今までに感じたことのない、この気持ちは。

「俺グリンピースいらねぇから」

「子供みたいなこと言うな。…アルベルト、ボーッとしてると無くなるぞ」

「あ、はい。…いただきます」

正体は、わからないまま。

 

食事を終えた後、カスケードに「話があるから」と部屋に呼ばれた。

ディアとアクトの部屋を出て、カスケードの部屋へ向かう。

確か今は一人部屋だったはずだ。

「…ちょっと待ってろ、今電気つけるから」

光が灯り、アルベルトとブラックは部屋に入る。

ブラックは初め嫌がっていたが、アルベルトの様子から嫌な予感がしたために従った。

「悪いな、部屋まで来てもらって」

「いえ…」

「もったいぶらねーで早く用件言えよ」

ブラックがそっぽを向いたままそう言うと、カスケードは話し始める。

「実は、今度の任務のことでな」

「任務?」

「あぁ。昨日も行って来たんだが、最近多発している麻薬関連の任務だ」

ブラックはその言葉に僅かに反応する。

アルベルトは何も答えず、ただ俯いている。

「なかなか大事になってきてな…調査規模が少しでかくなったんだ」

カスケードは机の引出しから封筒を取り出し、中身を出した。

任務関連の書類らしい。

「それで少し遠征することになった。メンバーは俺とディアとアクトと…」

書類の束から一枚抜き取る。

「…アルベルトとブラック、お前達だ」

俯いていてはっきりとはわからないが、アルベルトの表情が変わっていた。

ブラックはそれに気付き、口を開く。

「何でオレまで行かなきゃならないんだ?佐官の奴等に混じって行くのなんかごめんだ」

「そうか…まぁ、決定権はお前らにあるから良いんだけど。アルはどうする?」

「こいつに出来るかよ。挙動不審で何の役にも」

「俺は今アルに訊いてるんだ」

言葉を遮る強い口調。上司の威厳がそこにある。

「…どうする?アル」

静かな声が、重い。

「だからコイツはどうしようもない挙動不審だって」

「ブラック、もう良いよ」

再び遮ったのは別の声だった。

聞き慣れてはいるが、この場で発することは無いはずの声。

「良いんだよ、ブラック。…大佐はもう、知ってるから」

聞くはずの無い、台詞。

「知ってるって…」

「何もかも知ってるんだよ。君の過去も、僕のことも、」

一呼吸おいて、

「あの人の事も」

嫌な台詞が耳に届く。

「何だよそれ…」

自分の築いてきたものが崩れていく。

「何やってんだよ!全部無駄にしやがって!」

アルベルトの胸倉を掴み、今にも殴りかかろうとしたその手を、

カスケードが止める。

「やめろ、ブラック。…アルの所為じゃない」

「放せ!放しやがれ!」

「アルを放したらな」

ブラックは仕方なく、アルベルトから手を離す。

アルベルトは俯いたまま、黙っている。

「どういうことか説明しろ」

黙り込む者に、問う。

「待て、ブラック」

「テメェには訊いてねぇよ!」

カスケードを怒鳴りつけ、再びアルベルトに向かう。

「説明も出来ねーのかよ?いつものお前はどうしたんだよ!」

浴びせる言葉に感情がこもる。

この怒りは、誰に対してのものだろう。

「…僕は…」

アルベルトの唇が動く。

「僕は、もう少しで大佐を殺すところだった」

思いもしなかった言葉が流れる。

ブラックは動きを止めた。

「いつかはわかることだったんだよ、全部同じ手口なんだから。

大佐が少し早く気付いてしまっただけなんだ。

勿論、大佐を利用しようとした僕の責任でもある。

ブラックが怒るのは当然だよ」

アルベルトは笑みを浮かべるが、それは自嘲だ。

「全てわかってても僕を部下だと言ってくれた大佐に、本当に感謝してる。

だから僕は、この任務に参加する」

「……」

何も言えなかった。

罵ることも、睨むことも無く、ただ見つめていた。

自分と同じ色の瞳に、同じ色が重なっていた。

「…任務は、あの男に関係しているんだな?」

やっと出た言葉に、アルベルトは頷く。

「ブラックより先に資料を見せてもらったんだ。…やっぱりあの人も関わってる」

カスケードに目で尋ね、頷きが返ってくると資料を抜き取る。

「ユィーガでの殺人事件の最近の傾向なんだけど、遺体から薬物反応が出てるんだ。

その薬物が向こうでは手に入らないはずのウィルドフェンス。

この前の読みは多分当たってる」

「薬を密輸して、薬漬けにして殺したってか?」

「そうだと思う。…そして、だんだんと拠点がユィーガの外へ向かっている。

多分もうすぐユィーガを離れるんだと思う」

アルベルトが顔を上げ、ブラックを見た。

よく知っている強い瞳が向けられている。

「どうする?」

もうわかっている。

この眼は嫌いだが、どうしても勝てない。

「…わかったよ」

どんなに反抗しても、結局は従うことになってしまう。

復讐の意思に関する以外は、強制的にそうなる。

「…だそうです。大佐、宜しくお願いします」

アルベルトはカスケードに向き直り、頭を下げる。

「あぁ。…で、アルはこれからどうするんだ?」

「どうするって…」

「対人用か、対事件用か」

あ、と短く言って、アルベルトは再び俯く。

出来れば「対事件用」――「許せない自分」はあまり見せたくない。

しかしここでいつもの挙動不審な自分に戻れば、カスケードとの付き合いはぎこちないものになるかもしれない。

そのことを察したのか、カスケードは穏やかな笑みを浮かべる。

「心配しなくても良い。どんなになっても、アルはアルなんだから。

俺は今までと同じように付き合っていく」

「大佐…」

この人が言うと信じられるのは何故だろう。

本当に変わらない気がする。

「…ありがとうございます。僕は…」

 

翌日、晴天。窓から射し込む光。

いつものように支度をして部屋を出、寮母に挨拶をしてから玄関を出る。

外にはいつものように、待っていてくれる人がいて。

「よぉ、アル」

「おはようございます」

カスケードと挨拶を交わすと、後ろで聞きなれた声がする。

「だから、何度も言ってるだろうが。俺はやろうと思ってやったんじゃねぇんだよ」

「その結果が器物損壊なら同じだろ。大人しく始末書書いて来い」

やり取りを聞いていたカスケードが、ふきだしながら片手をあげる。

「朝から元気だな、不良」

「不良って言うんじゃねぇ!ったく朝っぱらから…」

「おはよう、カスケードさん」

「よぉ、アクト。朝から保護者ご苦労さん」

「おはようございます」

「よ、アルベルト」

「おはよう」

いつもと同じ朝の光景。

「あ、ブラック!」

エントランスから出てくるブラックを見つけて、アルベルトが声をかける。

「邪魔だ、退け」

「酷いよブラック〜…」

アルベルトが情けなく言う。

「あんまりアルを苛めるなよ、黒すけ」

「黒すけって言うな!」

「アルベルトはもっとしゃきっとしねぇと、軍じゃやっていけねぇぜ?」

「何で少佐やってるのか不思議だな」

「ディア君もアクト君もそんなこと言わないで下さいよ〜…」

これが彼の選んだこれからだった。

「許せない自分」より、「情けない自分」を選んだ。

どんなに馬鹿にされても良い。この自分が好きだから。

そして、いつものように二分の道のりを行く。

 

ねぇ、ブラック、

僕、昨夜はあの怖い夢、見なかったんだ。

不思議だよね。これが「安らぐ」って言うんだろうな。

そういえば、あの怖い夢、君は最初から出てこなかった。

全てを恐れていた僕が、君を夢に見なかったのは、

きっと君が僕の味方だからだね。

…え、違う?やっぱり僕のこと嫌い?

…いいよ、嫌いでも。僕は君のこと嫌いじゃないから。

もう、うざったいとか言わないでよ…ブラックの意地悪。

 

To be continued…