もうすぐ冬がくる。
とはいえ、この国の気候は温暖なので、まだ美しい紅葉が光に透けている。
幼い頃、親友と落ち葉の音を楽しみながら歩いた道を、今は一人で歩く。
ここ最近大きな事件が続いたために、こんなのんびりした時間は久しぶりのように感じられる。
そうだ、今だからこそ、あの場所へ。
そう思い、足は自然と歩みを進める。
親友が眠る場所――軍人墓地へ。
「うわ…すごい散らかりようだな…」
思わず声に出てしまうほど、墓地は落ち葉に埋め尽くされていた。
枯葉に埋まった墓石は、どことなく寂しそうだ。
その中の一つの前で足を止め、しゃがみ込む。
「ニア、久しぶり」
親友の名を呼ぶ。
「悪いな、最近の事件の処理に追われてなかなか来れなかったんだ。
今日は不良たちに押し付けて…じゃなかった、休みが取れたから散歩がてらってとこだ」
返事が返ってくるわけでもないのに、話し掛ける。
解ってはいるのだが、そうでもしないとここには辛くていられない。
「もう十一月だな。一年経つのはホント早いよな…」
今まで起こったことを思い返しながら呟く。
思えばこの春から夏にかけてはいろいろな人物と関わりを持ち、夏から秋にかけては大きな事件が頻発した。
出会いの中から起こった出来事、事件から起こった出会い、全てあげれば数え切れない。
しかし、どんなに思い返しても、そこに親友の姿はないのだ。
「ニア、お前にはいつも助けてもらってるよな。…見守ってくれてて、本当に感謝してる」
親友の姿が消えたのは、彼の異変に気付かなかった自分の責任だ。
それを償うために自分は今こうして軍人をやっている。
勿論、それだけではないのだけれど。
「そろそろ行くから。また来るからな」
挨拶すらも返ってこない、現実。
丸一日休暇を取った次の日は、部下からの視線が恨みがましい。
それも今現在の「楽しい日常」の一つだ。
「カスケード!お前よくも大量の書類押し付けて…」
「悪いな、不良。…で、お前の保護者はどこ行った?」
掴みかかるディアにいつもの笑顔で応え、さらに質問までする。
カスケードのマイペースさには慣れているので、ディアはもう諦めていた。
「アクトは下等兵指導行ってるぜ」
「単独でか?珍しいな」
「だろ?だから今見に行くんだよ」
ディアの笑みはいつも何かを企んでいる。
今回はその企みがはっきりしているだけ、いたずらっ子のように見える。
「俺も見たいな。…というか、アクト一人で指導とかできるのかどうかを見たい」
「それなんだよな。俺と組む時だっていつも無関心だし…」
カスケードとディアが初めて話したのは、確か五月の初めだ。
半年という短い間で、互いの事は大体わかってきた。
他の者についても同じで、これから会いに行く人物もしっかり当てはまる。
「アクト、どうだ?調子は…」
声をかけると振り向く、女性のような顔立ちの青年。
「カスケードさん!…で、ディアもいるんだ」
「何だよ、その態度の違いは」
半年間ずっと見てきたこの二人のやり取りも、相変わらずといったところだ。
カスケードはこれを見る度に自分とニアが幼かった頃のことを思い出す。
喧嘩はしなかったが、それは自分がニアに押されていたからだ。
普段は大人しいのに、自分の芯は通す人物。
それにあの笑顔には敵わなかった。
そんなことを考えていると自然に口元が緩み、その表情を見つかってしまう。
「何ニヤけてんだよ、いやらしい」
ディアに言われて、カスケードは苦笑する。
アクトはというと、ディアに強烈な肘うちをお見舞いする。
腹を押さえて蹲りながら、ディアは苦しそうな声を出す。
「…お前なぁ…」
「カスケードさんはいやらしくない。いやらしいのはディア」
「何でそうなるんだよ」
「今までの行動を思い返してみろ、単細胞」
「単細胞言うな!」
このやり取りは平和な証拠だ。事件があればそうはいかない。
平和な時が続いてくれればいいのだが。
「アクト、仕事はどうした?」
「今練習時間。走って攻撃して戻ってくるだけなのに遅いんだよ」
「そのうち慣れるだろ。…大体、お前が速すぎるんだよ」
「そう?」
他愛もない会話が貴重だなんて、本当は望むべき状況じゃない。
何事もなく時が過ぎれば良いのだが、そうはいかないのがこの軍人という職業だ。
確かに、何もないことは退屈でもあるのだが。
「そろそろ再開するから、またな」
「おぅ、がんばれよ!」
「下等兵に肘打ちくらわせんじゃねぇぞ」
「ディア以外にはしない」
走っていく後姿と、隣で舌打ちする人物。
両方とも、失いたくないものだ。
事務室に行くと、待っているのは書類。
それだけではないから、頑張れる。
「カスケードさん、昨日何してたんですか?」
隣のパソコン机で書類を作成しながら尋ねてくるカイの手は、一向に止まることがない。
作業をしながら会話ができるこの器用さがうらやましい。
カスケードも出来ないことはないが、コンピュータというものが苦手であまり触らない。
「昨日は散歩してた」
「どのあたりですか?」
「軍施設の外周一周。あとはいつもの場所だな」
「やっぱり」
エンターキーを叩き、やっと作業が終了したようで大きく伸びをする。
「後は印刷するだけ…と。じゃ、俺は先に失礼します」
「あぁ、お疲れさん」
入れ替わり立ち代り、事務室の面々は変わる。
書類をチェックして、修正して、判を捺している間にも気がつけば周りが変わっている。
「…よし、終わり」
立ち上がって次に交代すれば、すでに時間は昼になっていた。
昼食は食堂で取るのが日課で、今日もそうするつもりだった。
しかし、予定は簡単に崩れ去ってしまうものだ。
「インフェリア大佐」
名前を呼ばれて振り返れば、偉そうな態度の上官。
「急だが、任務だ。…先方が、君を是非にと言っている」
全く、ありがたくもあり迷惑でもある。
応接室に入ると、見慣れた上官の顔と客人の姿があった。
「カスケード大佐、すみません」
「いや、いいんだけど…」
階級が一つ上だが、メリテェアとは気軽に接することができる。
そして、今回の依頼人とも。
「…で、何しに来たんだ?ビアンカ」
気軽というには少し気まずい。
数年前に軍を去った知り合いは、無理して笑みを作っている。
「久しぶりね、カスケード」
ただの知り合いではない。かつては付き合っていたこともある女性。
記憶は五年前に遡る。
ニアの葬儀のあと、カスケードは何もする気になれなかった。
親友の死が、未だに信じられない。
棺に眠る彼を見たはずなのに、まだ隣にいるような気さえする。
一人になってしまった部屋のドアがノックされると、必要以上に反応する。
「ニア?!」
思わずそう叫んでドアを開けると、そこにいたのは上司のマグダレーナだった。
「…すみません」
「いいのよ、カスケード君…一番辛いのは貴方だものね。
あのね、酷な話になるんだけど、これは一緒に埋められないから…」
彼女が手渡したのは、ニアの耳にいつも光っていたカフスだった。
幅の広い指輪をそのまま流用したようなデザインが印象的だ。
「これ、ニアの…」
「えぇ、これは貴方が持っていたほうが良いわ。それから大剣も…貴方が使いなさい」
「俺が?」
「無理にとは言わないけど…でも、そのほうがニア君は喜ぶんじゃないかしら」
マグダレーナがカフスをカスケードの手に握らせ、それをそっと包み込んだ。
「彼の死を無駄にしちゃ駄目よ」
そう言って部屋を出て行き、後にはドアの音の余韻が残る。
手のひらで光っているのは、本来ここにあるべきではないもの。
「…俺が…殺したんだよな…」
ニアは目が見えなかった。
突然のことではあったが、気付かなかった自分が悪い。
気付いて任務から外してやれば、こんなことにはならなかったはずだ。
「殺した奴が…持ってて良い筈ないだろ…」
自分以外の誰かに渡すべきなのだ。
しかし、ニアには身寄りがないために家族という選択肢はない。
捨てることも出来ずに、カフスはニアの机の上に置いた。
今頃は棺に土がかけられているだろう。もう永遠にニアに会うことは出来ないのだ。
先程見た棺の中のニアは、今にも目覚めそうだった。
最期に笑ったあの顔が、今も忘れられなかった。
「俺が…殺した…ニアを…」
気付かなかった。守れなかった。後悔だけが残った。
しかし、それももう遅い。
広すぎる二人部屋には、まだニアの名残があった。
翌日、部屋でぼうっとしているとノックの音が響いた。
もう応える気力もないので、ただ宙を見つめていた。
ドアは勝手に開き、寮母のセレスティアが入ってくる。
「カスケード君、朝御飯持ってきたけど…」
「…いらない」
一言だけ返すと、セレスティアは息をついて言う。
「駄目よ、食べなきゃ。…気持ちはわかるけど、そんなことじゃニア君も浮かばれないわよ」
食事を置き、ちゃんと食べるように念押ししてから出て行く。
食事に手をつけず、うつろな目で壁を見る。
正確には、壁に立てかけてある大剣を。
ニアはあの細腕で大剣を振るっていた。
自分で手にするまでは、どうして扱えるのかわからなかった。
てこの原理と遠心力の応用で誰にでも扱えると知ったのは、血に染まる親友の代わりに大剣を振るったとき。
こんな気付き方なら、気付かない方がマシだ。
「カスケード、いる?」
再びノックの音が響き、声が届く。
女性の声だが、マグダレーナでもセレスティアでもない。
「いるんなら返事くらいしなさいよ!」
いつのまにか室内に入ってきて、自分の傍まできていた。
「…ビアンカ?」
「はい、そうですよ。ビアンカさんですよ」
カスケードの低い呟きに、明るく答える。
ビアンカ・ミラジナは軍の科学部に所属する、カスケードより一歳年下の娘だ。
前にニアと一緒に用事で科学部を訪れて以来、親しくなった。
「ニアがいなくなってから元気ないね?やっぱり親友いなくなっちゃうと楽天家のカスケードもヘコむか」
場に合わない軽い調子の台詞が耳に届く。
「何しに来た?」
「慰めてあげようかと思ってさ。…辛そうなカスケード見たくないし」
隣に座り、寄り添う。ついこの前まで、そこはニアの場所だった。
今感じているのは、違う体温。
「…ねぇ、あたしじゃダメ?」
「何が」
「あたしじゃニアの代わりに…それ以上にはなれない?」
背に、腕に、違う体温が絡みつく。
違和感だけが存在する。
「好きだよ、カスケード。…あたしじゃ、ダメ?」
その違和感も、今はどうでもよかった。
代わりなんているはずがないのに、それすらも考えていなかった。
違和感を抱き返す。力は入らず、ただ触れるだけ。
しかし違和感は体にしっかりと絡んで、離れない。
「あたしと付き合おうよ。…そうすれば、きっと…」
身動きが取れない。体が言うことをきかなくて、動く術もなかった。
しばらくその状態が続いた後、ビアンカは急に離れた。
立ち上がり、テーブルの上の食事を持ってくる。
「ゴハン、食べてなかったんだね。…あたしが食べさせてあげるよ」
「いい。いらない」
「ダメ、食べて」
ビアンカは食事を自分の口に運び、カスケードに近付いて、顔を上げさせる。
顔を両手で包み込んだまま、無理矢理に口付ける。
口内に流れ込んできたコンソメ味の液体を飲み込むと、それを確認したようにビアンカが離れた。
「食べなきゃ死んじゃう。カスケードは死んじゃダメだよ」
ビアンカの赤い髪が揺れた。
自分は何をしているのだろう。
大切なものも守れないで、こんなところで生きている。
自分は何のために存在しているのだろう。
自問の後に自答がない。永遠に問われ続ける。
「どしたの?カスケード」
不意に視界に現れる少女は、どうしてここにいるのだろう。
シャワーを浴びてきたばかりの濡れた髪と、バスタオルを纏っただけの身体。
そんな姿でも彼女は気にしていない。
気にすることもないのだ。さっきまで交わっていたのだから。
どうしてこんなことになったのかはわからないが、結果だけははっきりしていた。
「どうする?もう一度しよっか?」
「…しない。早く服着ろ」
「何さ、冷たいなぁ…」
少し拗ねるが、そう見せているだけだ。
すぐに彼女の態度は変わるのだから。
「ねぇ、初めてだったんだね。あたしもだけど」
恥じることなく台詞を吐く。
「やっぱ聞くのとするのとでは違うんだねー。
あ、でもそれってお互い初めてだったからかな?」
笑いながら言うビアンカと、何の反応も出来ない自分。
ベッドの上で黙っているだけ。
「…ちゃんと答えてよね。あたしをちゃんと見てよ」
「…ごめん」
誰に対して謝ったのだろう。
謝るべき相手が多すぎて、わからなくなった。
七ヶ月が過ぎた。
これまで一度も墓地には行っていない。辛くて行けないのだ。
マグダレーナやセレスティアなどは「一度は行きなさい」と言うのだが、ビアンカは「行かないでいい」と言う。
結局あの日からずっとニアの墓石を見ていない。
ビアンカとの関係は相変わらずだった。
ビアンカは執拗にカスケードを求め、カスケード自身はそれをただ受け入れるだけ。
手をつなぐのも、口付けるのも、性行為も、ただの単調な作業に過ぎない。
想う事は、昔の思い出のみ。
ニアと過ごした日々だけが見えていた。
こんな自分と一緒のままではビアンカが傷付くだけだと思った。
自分はビアンカに対し愛のない行為しかできない。だから、話を切り出した。
「何それ…意味わかんない」
彼女の唇が震えていた。それでも、言わなければならない。
「何でいきなり別れるとか言うの?!意味わかんない!」
「俺はビアンカを幸せには出来ない。あんな事しておいて今更って思うけど、俺は…」
本当に申し訳ないと思っている。これは償いにはならないとわかっている。
けれども、彼女には本当の幸せを掴んで欲しいから。
「俺は…ビアンカを愛してはいない」
目を逸らし続けた。合わせることが出来なかった。
「…あたし、ダメだった?あたしじゃカスケードに好きになってもらえない?」
「ダメじゃない。でも、違うんだ」
「違うって何?やっぱりニアじゃないとダメなの?あたしがニアならいいの?」
「他の奴がニアにはなれない!代わりなんてどこにもいないんだ。ニアはもう…」
言葉にするのは、現実を認めること。
でも、いつかは認めなければならない事。
「もう、いないんだよ…」
いつも傍にいた。自分のせいで消えてしまった。
その上他の者も傷つけた。
もっと早く認めなければならなかった。
「だから、ごめん。ビアンカのことは愛せない。元々そういう感情はなかったんだ」
「…そう。じゃあ、さよならだね」
ビアンカは背を向け、歩き出す。二、三歩歩いたところで立ち止まって、振り向いた。
「やっぱり、あたしのモノにはならなかったね」
それが彼女の最後の言葉だった。
その翌日、ビアンカは何も言わずに軍を去った。
「懐かしいなぁ、変わってないんだね」
中庭を歩きながら、二十二歳になったビアンカが言う。
「あれからもう五年かぁ…時間が経つのは早いね」
「あぁ…そうだな」
あの日のことを忘れたように、ビアンカは明るく笑う。
カスケードはただただ彼女の態度に戸惑う。
「それで、依頼の事だけど…」
「やだなぁ、もう仕事の話?それともあたしと話すの嫌?」
「いや、そうじゃない。俺は…」
「わかってるよ、軍人さんは仕事が第一。あたしだって軍にいた人間だもの、わかるよ」
微笑みながら話すビアンカと、彼女とどう接したらいいのかわからないカスケード。
漸く彼女が話を切り出したとき、少しホッとした。
「あたし、軍辞めてから一人で研究してたの。科学部にいたときからどうしても気になっていたことがあったから」
ビアンカは自分の故郷に帰り、研究を続けていた。
その研究の成果が軍に貢献できるものかを見て欲しいのだという。
「カスケードが大佐でよかった。これならお願いするの一人でいいもの」
「俺だけ連れて行く気か?」
「うん。カスケードに見て欲しいの」
カスケードはしばらく考えた。
ビアンカとは昔色々あったが、これは今回の任務とはあまり関係のないことだ。
研究の成果が軍に通用するかどうかを確かめれば良いのだ。
「わかった。この任務、引き受けるよ」
「本当?!やったぁっ」
子供のように喜ぶビアンカを見ながら思う。
これは任務だ。個人的なものではない。
けれども何故かもやもやした感じが胸に残った。
「それじゃ、今すぐ行こう。早く行かないと意味がないの」
「ちょっと待ってくれ。少し時間を…」
「ダメ。今すぐ行くの」
仕方なく、メリテェアに事情を話してすぐに車を出した。
いつもなら任務に行く前は墓地に寄るのだが、それが出来なかった。
車は走る。
あまり向かいたくはない場所に。
車に乗り込んでビアンカの故郷を聞き、初めてそう思った。
その村は前に訪れたことがあるから。
「まさかあそこだとはな…」
「うん。知らなかった?」
「全然」
五年前の春、カスケードはそこを訪れた。
視察という名目の「怪物退治」で、鳥の頭と翼を持った四足歩行の獣が相手だった。
その獣に、ニアの身体は引き裂かれた。
「やっぱり行ってくれば良かったな…」
「どこに?」
「墓地」
車は走る。砂煙をあげ、風の吹く荒野を抜ける。
「…墓地、行ってるの?」
「忙しいときでも月に一回は行くようにしてるんだ。ビアンカと別れた後、初めて行った」
あの後、現実としっかり向き合う為に墓地を訪れた。
そこにはニアの名前のある石があり、花が添えられていた。
花を置いたのはマグダレーナか誰かだろう。自分はこのくらいのこともしてやらなかった。
墓石の前で泣いた。自分が情けなくて、叫んだ。
何度も何度も謝った。墓石に点々と雫が残った。
「その時誓ったんだ。…もう誰も失わないようにしようって。
俺が大切だと思うものを、俺の手で守ろうって」
失って後悔しても、遅い。
だから今度は後悔しないように、今を生きていこうと。
今の大切なものを、何が何でも守り抜こうと。
「…カスケード、ニアの事好きだった?」
ビアンカが小さな声で尋ねる。
「何だよ急に」
「答えて。好きだったの?ただの親友だったの?」
少し間を置き、息を吐く。
「…今も好きだ。気付いたのはつい最近だけどな」
「そう…好きなの」
「あぁ」
墓前で告白したのは、大佐に昇進した二月の終わりだった。
暖かかったために雪は早く融け、空の青と木の葉の緑が溶けあっていた。
こんなに早く葉が出ることは、いつもの年ならあり得なかった。
「最初からあたしの想いは叶わなかったんだね」
「…ごめんな」
「謝らないでよ、惨めになるでしょ」
村が見えてきた。
景色は五年前と変わらず、あの時の事を鮮明に思い出せた。
家から美味しそうな匂いが漂ってくる。
丁度夕食時で、楽しそうな笑い声が響いていた。
「こっちよ」
ビアンカの後についていくと、森に入った。
その奥に小屋があり、ビアンカはそこに入っていく。
「ここがあたしの研究所。…まぁ、元実家なんだけどね」
「元?」
「うん。あたしの両親はここ出てったきり行方不明になっちゃったから。
両親を探すために軍に入ったけど、わかったのは二人ともすでに死んじゃってたってことだけだった」
小屋は普通の生活空間のように見えたが、よく見ると奥にある本棚が異様だった。
本の立て方が不自然なのだ。
「あれって…」
「うん、隠し扉みたいなもの。すぐわかっちゃうから意味無いんだけど、ちょっとした遊び心、かな」
ビアンカがパンを持ってきたので、二人で食べた。
食事中に何度か手を止め、会話する。
「どう?軍の最近の動きは」
「新聞読んでたらわかるだろ?麻薬捜査にアーシャルコーポレーションにノーザリア危機に殺人事件」
「ノーザリア危機かぁ…行ったの?」
「行ってきた。大将殿にも会ったしな」
「アーシャルコーポレーションのって何がきっかけだったの?」
「外部の奴には言えない」
「酷いなぁ…あ、南方殲滅事件は?」
「あれはもう大丈夫だ」
相手の目を見ない会話が続く。
食事が終わってからも、話題は尽きない。
「部下の人ってどう?」
「頼りになる。しっかりしてる奴もいれば、なかなか安心できない奴もいるな」
「カスケードに会う前に見たんだけど、傷の人とか仲良いの?」
「あぁ、あれは不良だ。結構曲者だな。保護者いないと暴れるし」
「他にどんな人いるの?」
「尉官にすごい奴等がいるんだ。仕事速いし頭良いし」
「へぇ…」
陽が落ちて、外は暗い。
夜がきた。
「さて、そろそろ研究の成果を見てもらおうかな」
ビアンカは椅子から立ち上がって、奥の本棚に手を伸ばした。
本を傾けるとカチリという音がして、本棚を横から押すと簡単にスライドした。
「ここが研究室。…さて、これは何の研究でしょう?」
明るい口調で言うビアンカだが、その眼は笑っていなかった。
その眼はまるで、魔性。
「…ビアンカ…嘘だろ?」
「本当よ。これが現実」
研究室には巨大な培養カプセルがあり、その中には巨大な獣がいた。
鳥の頭部と翼に、四足歩行の獣の身体。
それは明らかに、五年前のあの獣だった。
「ほら、見てよ。このお腹の傷が、ニアのつけた傷よ。
後ろから見ればわかるけど、足にはカスケードが撃った傷があるの。
それからこれ…一番大きな胸からお腹にかけての傷。これは確かカスケードがニアの大剣でつけたモノ」
カプセルに触れて、指しながら説明する。
ビアンカの声が、研究室に淡々と響く。
「どういうことだ!どうしてあのグリフィンが…」
「簡単なことよ。この子はあたしが作ったの」
赤い髪から覗く、冷たい笑顔が見えた。
「作った…?」
「そう、この子はあたしの作品第一号。もっとも一度死んじゃったけどね」
カプセルを愛しそうに撫でながら、ビアンカの声は続ける。
「わかったでしょ?あたしがしていたのは細胞の研究。
鳥とライオンでグリフィン作ったりもするし、他のこともできるよ。
小さい頃から憧れだったのよね、物語の動物」
昔本で見た生き物は、大きくて強そうで。
ページを開く度に強くなる憧れは、彼女を科学者にした。
「物語の動物作ってる人は他にもいっぱいいたわ。
ずっと昔からやってる人なんかは、作った動物が”神獣様”と呼ばれたりした。
最近ではケルベロス作って散歩させてた人とかもいたみたい」
ビアンカは細胞の研究を続け、とうとう一匹作り上げた。それはとても小さなグリフィンだった。
若き天才はもっと多くを手に入れるため軍に入り、そこで出会った。
もう一つの、目的に。
「軍に入ってからカスケードに会ったとき、あたし一目惚れしちゃったのよね。
だからいつも一緒にいるニアがうらやましかった。
あたしがあの場所に…カスケードの隣に立ちたかったの」
どんなに近くに行っても、自分は気づいてもらえない。
想いを寄せる人は、いつも一人だけを見ていた。
「だからあたし、どうしたらいいかなって考えた。どうしたらあたしを見てくれるかなって。
休暇を貰ってこの家に帰ってきて、自動装置で培養していた小さなグリフィンを見て思いついちゃったの」
自分だけを見てくれれば良い。自分のものになれば良い。
計画を立てて、上手くいくようにして、そうすればきっと手に入る。
「この子をもっと大きくして、村を散歩させる。ご飯も自分で取ってもらう。そうすれば軍が動くでしょう?
後は”怪物退治”の仕事を特定の人物にやらせれば良いんだもの」
ビアンカはにっこり笑って、カスケードに向き直った。
今までの話が全て本当のことだと言うならば、結末は聞きたくなかった。
本当ならば、この話の最後は決まっている。
自分の見た事に繋がってしまう。
「あたしは科学部だもの。”検出されない遅効性の毒薬”なんて作るのは簡単よ。
後はそれを前日の夜にこっそり投与して、任務に送り出すだけ」
――やめろ…それ以上…
「そうすれば後はこの子がやってくれるわ。あたしは確認のためにここに一日戻ってくるだけでいいの。
ね、簡単でしょう?」
――それ以上…言うな…
「ねぇ、カスケード…」
ビアンカは笑うのをやめ、冷たく言い放った。
「ニアは、こうやって死んでいったのよ」
言葉は脳に直接響くようで、重い頭痛を伴った。
過去のことが次々と思い出され、消えていく。
あの日の最期の笑顔が見えて、消えていった。
最期の言葉が響いて、余韻を残さずに途切れた。
もう二度と帰ってこないものが、遠く遠く離れていく。
「ビアンカ…嘘だろ…?」
最後の希望は、この問いの肯定。
望みが帰ってくれば、悪い冗談はやめろと怒鳴るだけで済む。
しかし、視覚と聴覚が感じたのは「現実」という光と音の波。
「ううん、本当のこと。…このグリフィンが何よりの証拠でしょ?」
巨大な獣の姿は、いやでも目に入ってくる。
希望を打ち砕く声は、鼓膜を震わせ脳に届く。
「そんな…事…嘘だ…」
「嘘じゃないってば。何なら近くで見せてあげようか?」
ビアンカの指が後ろにある機械に触れる。するとカプセル内の培養液が下へ吸い込まれていった。
完全に液がなくなると、カプセルが上に持ち上げられる。
束縛するものの無くなった獣は、ゆっくりと目を開け、
「さぁ…行きなさい」
主人の言葉で覚醒した。
低い唸り声も、高らかな遠吠えも、
向かってくる足音も、こちらを見る猛禽類の眼も、
記憶に生々しく残るものと同じ。
「…っ嘘だあぁぁぁぁ!!」
叫びは現実にならない。ただ響いて、目の前の否定に負けるだけ。
そのまま獣に踏み潰されてしまえば終わっていた。
こんな辛い現実も、全て終わっていたはずだ。
しかし軍人の性はそれを交わし、外へ向かう。
車の中に武器がある。それで今度こそしとめる。
今までずっと戦ってきたためか、自然と選択してしまう行動。
「構わないから行きなさい」
主人の言葉に従い、グリフィンは家を半壊して外へ飛び出した。
車に積んであるのは、あの大剣。
変わらない柄の感触と、布を取り払った刃の輝き。
左耳のカフスも月明かりを反射する。
初めて墓地を訪れたあの日、受け継ぐ決意をした。
以来ずっと使い続けてきた。
ニアといっしょに戦っているような気がして、嬉しかった。
けれども今は辛さも混じっている。
「ニア…また力、貸してくれよ!」
踊り出た獣に刃を振るい、血飛沫をあげる。
獣は吼えてよろけるが、倒れはしない。
「…チッ」
体勢を立て直し、再び剣を構える。
獣の心臓を狙い、大剣を振るおうと力を込める。
しかし、それは背中への大きな衝撃に止められた。
後ろを見て驚愕したのは、その痛みのためでも、出血量のためでもない。
自分が持っているはずの大剣を振るう、自分が装着しているはずのカフスを左耳につけた、
そこにいるはずのない青年の姿を見たから。
「…ニ…ア……?!」
月明かりに透ける髪の色は、きれいな濃緑。
済んだ瞳は、髪と同じ色。
記憶そのままのニアが、そこにいた。
そこにいて、自分に大剣を振るっていた。
「…んな…バ…カな…」
ニアに気を取られていると、血に染まる背中に襲い掛かる気配を感じる。
踏み潰そうとするグリフィンの前足を大剣で受け止めると、再びニアからの攻撃を受ける。
「ぐぁ…ッ」
力が入らなくなり、足を崩す。間一髪でグリフィンの重みはそらせたものの、ニアの攻撃が待っていた。
大剣の構えも、扱い方も、あの頃のニアそのものだ。
こんなことは起こるはずがない。ニアはもうこの世にはいないはずだ。
背中のダメージが大きく、身動きが取れない。
その状態での前後からの攻撃は、防御不可能だ。
濃緑の髪を靡かせて斬りつけるかつての親友と、主人に従順な巨大な獣。
これを本当に現実と呼ぶのか。
「…ガハぁ…ッ」
何度目かの刃を受け、とうとうカスケードは倒れこんだ。
そこに近付くのは、赤髪の女性。
「カスケード、どう?ニアに斬られた感想は…」
「…どう、して…」
「どうしてだろうね。当ててみてちょうだい。
…まぁ、そこまで意識がまわるかどうかだけど」
ビアンカの表情は逆光でよく見えない。
それでも笑っているのだと感じるのは、声の調子の所為だろう。
遠のく意識の中、声が聞こえた。
「今日はトドメをささないでおいてあげる。だから、死んじゃダメよ?」
いたずらっぽく響き、重い足音と静かな足音と共に消えた。
後には、あの日とよく似た月明かりが残った。
目を開けると白く広がるものが見えた。
それが天井だと気付いたとき、子供の声が聞こえた。
「お母さん!お兄ちゃんが起きたよー!」
聞き覚えのある声だった。いや、あの頃はもう少し高かっただろうか。
少し離れたところから足音が聞こえ、近付いてきた。
その足音はすぐ傍で止まると、安心したように言った。
「あぁ良かった!酷い怪我だったから目覚めるかどうか不安だったよ!」
その婦人とは五年前に会っていた。子供とも、だ。
五年前のあの日に夕食を馳走になった家の者だった。
「あの…俺…」
「森の入り口に倒れてたんだよ。あの時の子みたいなことになってしまわないか心配だったよ」
すでに事切れたニアを寝かせてくれたのも彼女だった。
本当に、何度も助けられてしまった。
「ありがとうございます…」
「良いんだよ。生きていて本当によかった。…アンタはまだ友達のところにいくには早過ぎるよ」
婦人は食事を持ってくるからと部屋を出て行き、子供が残った。
子供はカスケードの手を握り、微笑んだ。
「おはよう、お兄ちゃん」
無邪気に笑うその子は、五年前よりもずっと大きくなっていた。
十歳くらいになっただろうか。出会ったばかりの頃のニアと、少し似ていた。
「…おはよう」
言葉を返すと、声が震えた。
頬を雫が伝っていくのがわかった。
「お兄ちゃん、痛いの?」
溢れる涙をぬぐう小さな手が愛しい。
昔悔しくて泣いた時、よくニアに言われたことがある。
それは子供の声と重なって、鮮明な記憶としてよみがえった。
「ほら、泣かないで。男の子でしょ」
今どうして自分が泣いているのかはわからない。
しかし、一つ思えることがある。
「温かい」と。
昼過ぎに軍の車が村に到着した。
婦人が彼等を連れてきて、子供と遊んでいたカスケードに会わせた。
「グレンにリアちゃん!ラディまで…何でここに」
「何でじゃないでしょう。散々心配かけておいて何やってるんですか」
「腹話術」
犬のぬいぐるみを掴んで口を開かず「ヤッホー」と言ってみせるカスケードに、グレンは呆れて溜息をつく。
「連絡を受けて俺たちがどれだけ心配したか…」
「グレンさん、もう良いじゃない。カスケードさんもこうして元気なわけだし」
ね?と言って笑うリアに、グレンは何も言い返せなくなる。
ラディアは子供と一緒にカスケードの腹話術を楽しんでいる。
「どうやってやるんですか?これ」
「ラディもやってみるか?」
「お兄ちゃん、わたしもー」
その光景に呆れつつもホッとしながら、グレンは婦人に頭を下げる。
「ご連絡ありがとうございました。介抱までしていただいて…」
「いいんだよ、この人には村を救ってもらった借りがあるからね。
それより応急手当しかしてないから、早くちゃんと治療した方がいいよ」
「それならご心配なく。ラディアちゃん、治癒は?」
リアは婦人に答え、ラディアを促す。
ラディアは頷き、ぬいぐるみを子供に返した。
「カスケードさん、傷診せてください」
「いや、それなんだけどなラディ…この傷、残しといて欲しいんだ」
「え?」
カスケードのこの言葉には、ラディアだけではなく周りも唖然とする。
こんな酷い傷を放っておけと言うのか。
「だめですよ!ちゃんと治さないと痛みも…」
「頼む、これはそのまま置いといてくれ。…まだ分析してないんだ」
「分析?」
ラディアとリアは訊き返し、グレンはその言葉から何かが起こったことを感じ取った。
分析しなければ真実がわからないほどの事態が起こっている。
そしてそれをカスケードは話したがらない。
少なくとも婦人と子供の前では口にしたくはないらしい。
「…わかりました。ラディア、この傷は戻るまで放置だ」
「痛くないんですか?カスケードさん」
「痛いけど…このくらいなら問題ないだろ」
なんでもないというように腕をまわし、笑顔を見せる。
いつもと変わらぬ様子に見えるが、どこかぎこちない。
傷の所為もあるだろうが、それだけではないような気がする。
「…行きましょうか、カスケードさん。カイが外で待ってるんです」
「おぅ。…じゃあな、お嬢ちゃん」
「うん。お兄ちゃん、怪我早く治してね」
手を振って別れ、村を後にする。
また来るかどうかはわからない。ここはもう、辛い思い出の多い場所になってしまったから。
カスケードの乗ってきた車に、大剣とリアとラディアが乗る。
カイが慣れない運転を引き受け、慎重に走っていく。
その前を行くグレンの運転する車の助手席にカスケードが乗る。
「何があったんですか?」
隣からの質問に、カスケードは言葉を詰まらせる。
「何って…」
「任務だったんでしょう?依頼人はどうしたんですか?」
良い言い訳が見つからない。正直に説明するとしても、どう言えばいいのか。
「…あのさ、グレン」
「何ですか?」
どうせ言い訳しても、この賢い少年にはすぐにばれてしまう。
正直に説明して、わかってくれるかどうかも不安だが。
「お前…死人が生き返るっての、信じられるか?」
「?!」
車が揺れた。動揺が明らかだ。
「あ、お前こういう話苦手だっけか?」
「…真面目に言ってるなら聞きますけど」
「いや、戻ってからにする。このまま事故られても困るし」
少し青ざめている運転手の横顔を見ながら、カスケードは考えていた。
何故あの場にニアがいたのか。いるはずがないのに、確かに姿を見た。
幻影ならば、実際にこんな傷がつくだろうか。
背中の傷は自分では見えない。他の者に診てもらうしかない。
「あっち着いたら、北方に電話したいんだが」
「北方…妹さんですか?」
「あぁ…傷の分析を、な」
それともう一つ、「細胞の研究」の可能性についても。
戦いはまだ、始まったばかりだ。
車はレジーナに入った。
司令部の建物が見える。
生きて帰ってきたことに感謝しながら、
不安を抱いて空を見る。
空の青と溶けるのは、もう緑ではない。
赤や黄色も散り始めていた。
To be continued…