窓から見えるのは散っていく木の葉。

手から伝わるのは布団のやわらかい感触。

聞こえるのは金属のぶつかり合うカチャカチャという音。

薬の匂いがするのは、仕方のない事。

「さて、お兄ちゃんの診察を始めますか」

北方司令部軍医のサクラは、兄のカスケードからの要請となると中央まで飛んでくる。

北方には軍医があと二、三人いるので、特に問題はないらしい。

「酷いわね、これ…」

彼女がカスケードの背中の傷を見ての第一声はこれだった。

 

昨日、カスケードは重傷を負って任務地から戻ってきた。

ラディアの治癒を拒否してまで傷を残し、サクラを呼んで傷の分析をしようとしていた。

しかし、そのサクラが言った言葉はこうだった。

「なんでローズさんに治癒してもらわなかったの!こんな酷いの痕残っちゃうわよ?!」

「んなこと言われても…」

残しておかなければ分析できないのだから仕方ない、と言おうとしたが、言えなくなった。

サクラがぽろぽろと涙を流しながら、傷に触れていたのだ。

「何でこんな無茶するのよ…お兄ちゃんが大怪我したって聞いたとき、私本当に心配したんだから…」

「サクラ…ごめんな」

自分が傷付くことで、多くの人に心配をかけた。

サクラはこのとおり泣いているし、周囲の反応もいろいろあった。

グレンは呆れ、

リアは明るく振舞いながらも物凄く心配し、

カイには傷を放っておいたことで叱られ、

ラディアは「治さなくて良いんですか?」を連発していた。

ディアには「ダセーなぁ」と言われ、

アクトは色々ご馳走してくれ、

アルベルトは傷を見て挙動不振に陥り、

ブラックは鼻で笑った。

ツキは何かと世話を焼いてくれ、

遊びに来ていたフォークはクッキーを振舞ってくれ、

クライスはリンゴを持ってきてくれ、

クレインはリンゴを剥いてくれ、

メリテェアは任務のことで責任を感じていた。

カスケードは全員に謝ったが、事情はまだ話していない。

話すのが辛いというのもあるのだ。

「…で、この板にあるのが大剣でつけた傷ね」

金属の板につけた傷とカスケードの背中の傷を比較しながら、サクラは真剣に分析をする。

まだ泣きながらではあるが、作業は正確だ。

「違いはあるけど、よく似てる…角度とか深さとか」

「…似てる、か」

嫌な分析結果だ。

あの時の事を現実だと認めざるをえなくなる。

一昨日、任務地でニアの姿を見た。

しかも大剣でカスケードに斬りかかってくるのだ。

認めたくない現実があり、カスケードは今どうするべきか悩んでいた。

 

サクラに付き添われ、軍人墓地へと足を運ぶ。

一人で行くつもりだったが、「こんな傷で行けるわけないでしょ」とあっさり却下されてしまった。

確かに傷は痛むが、それよりも強いのは。

「…やっぱり、ニアの墓だよな」

確かめるように触れる墓石は冷たく、指でなぞる溝は親友の名前。

自分はニアの死の瞬間を見ている。棺に納められる彼を見ている。

埋葬するときは見ていなかったが、元上司のマグダレーナがそこにいたはずだ。

「お兄ちゃん、さっきから変よ?何があったの?」

サクラが怪訝そうに尋ねるが、返事はない。

仕方なく、兄の後姿を見ているだけにした。

「…サクラ」

漸くカスケードの声を聞き、サクラはホッとする。

「何?」

「キメラを作ることは、可能なんだよな?」

「キメラ?」

兄の口からそんな言葉が出ようとは思わなかった。

しかし、サクラは落ち着いて答える。

「キメラは作るものよ。

実際作った人は何人もいたようだし、お兄ちゃんだって事例は知っているでしょう?」

「あぁ…実際に戦っている」

「ね?ニアさんだってキメラに…」

サクラはそこで口をつぐむ。

これは今言ってはいけないことだった。

しかし、カスケードは静かに言う。

「良いんだ、そうなんだから。

…で、同じ要領で人間を作ることは可能か?」

「人間?」

「あぁ。細胞の研究で、人間を…」

サクラは少し考え、一つ思い当たる。

「難しいけど、細胞研究で人間を作るならクローンね。他の動物もできるわ。

キメラなんかはいきなり細胞をくっつけるよりも、細胞から合成物を作り出した方が上手くいくらしいけど」

「クローン…」

カスケードの目つきが変わる。

サクラはそこでハッとした。

確かあの大剣は、兄が親友から受け継いだものではなかったか。

そして今の話と、この目つき。

もしや、兄を襲った者というのは。

「お兄ちゃん、まさかとは思うけど…その傷…」

恐る恐る尋ねると、カスケードの表情が辛そうなものになる。

しばらく間を置き、ゆっくりと頷くのが見えた。

「多分…あれはニアのクローンだ。不可能なことじゃない」

つい最近までは無理だといわれていたが、裏では研究が進んでいたことが明らかになっている。

まして作ったのが彼女――ビアンカ・ミラジナならば、ニアの行動をそっくり真似させることだってできるはずだ。

大剣だって、カフスだって、似たようなものを用意することはできる。

「確かに、この傷はお兄ちゃんの大剣と似た傷だけど…」

「すべて知り尽くしていたなら、似た物を作るのは不可能じゃない」

漸く見えてきた。自分が見たものは、本当は何であったか。

あれはニアではない。作り物だ。

ビアンカの作り出した偽者なのだ。

「サクラ、俺はあの村に戻る」

「戻るって…この身体でそんなことできるわけないでしょ?!」

「一刻も早く調べる必要があるんだ!」

「だったら部下の人に任せて!安静にしてなきゃ駄目よ!」

「俺がやらなきゃ意味がないんだ!」

カスケードはサクラを振り切り、走り出そうとする。

しかし、背中に走る鋭い痛みがそれを妨害する。

「…ぐっ」

膝を崩し、その場に座り込む。気持ちだけが焦る。

「早く…行かないと…っ」

「駄目よ、痛むんでしょう?…無茶な事して死んじゃっても、ニアさんは待っててくれないわよ」

サクラの視線は墓石に向いていた。

静かにたたずむそれは、サクラの言葉に同意しているように見えた。

「…じゃあ、どうすれば良い?」

「分析は終わったんだから、ローズさんに治してもらって」

「それは出来ない。まだ終わってない」

「じゃあせめてシーケンスさんに痛み止めだけでも貰って。薬を拒む必要はないでしょ?」

「痛みも消したくないんだ」

「…子供みたいなこと言わないでよ」

サクラに呆れられながら、カスケードはゆっくり立ち上がって歩き出す。

背中は痛むが、それよりも強いのは真実への想い。

 

カスケードのいない昼の第三休憩室は、いつもより静かだ。

ポーカーをやっていても、なんとなく物足りない。

「ディアさん、また連敗記録更新してますね」

「…あぁ」

ディアにいたってはカイの言葉にもほとんど無反応だ。

いつもならここでカスケードが茶化して、ディアが暴れる。

茶化す者がいなければ、反応する必要もない。

「カスケードさんの具合は?」

ツキが尋ねると、傍で見ていたグレンが首を横に振る。

「何も聞いてません。…ただ、薬とか治療は頑なに拒んでるみたいですけど」

「何で拒むかな、あの人も…」

カスケードに何があったのか、知る者はいない。

メリテェアからの断片的な情報では、依頼人が関わっているということしかわからない。

「…カイ」

「何ですか?」

グレンから唐突に名前を呼ばれ、カイは少し慌てて振り向く。

「お前…死人が生き返るの、信じられるか?」

「…はい?」

普段のグレンが口にしないようなことを聞き、カイだけではなくその場の全員が目を丸くする。

「何ですか、急に…」

「カスケードさんが言ってたんだ。どういうことだと思う?」

「どういうって…」

死人が生き返ると言うことは、信じられない。あり得ない事なのだから。

仮死状態の者が息を吹き返すのならわかるが、それとは違うらしい。

「カスケードの身近な死人っていやぁ、あいつの親友だろ?」

ディアが言うと、一同は再び動きを止める。

「…ディア、もう少し気を使った言い方しろ」

アクトはそう言いつつも、何か別のことを考えているようだった。

死人が生き返る――確か似たようなことが最近なかったか。

「死んだと見せかけて、生きていた…?」

グレンがぽつりと言う。どうやら先に気付いたらしい。

「それだ。先月だと殺人鬼ラインザー・ヘルゲイン、その前だと…リアの父親、か」

「でもアクトさん、それは今回当てはまらないんじゃないですか?

もし仮にニアさんの事を言っていたのだとしたら、カスケードさんは亡くなった時に居合わせていたわけですし」

グレンとアクトが推理を展開させていると、休憩室のドアがノックされた。

クライスがドアを開けると、そこには見知らぬ女性が立っていた。

年齢は二十代だろうか。ブロンドの美しい髪を持つ、長身の女性。

「あの、どちら様で…」

「あぁ!!」

クライスの言葉を遮って叫んだのは、ディアとアクト。

二人だけが、この女性を知っていた。

「久しぶりね。ディア君、アクト君」

女性はにっこり笑って、言った。

「どちら様ですか?」

クライスが尋ね直すと、女性は答える。

「私はシェリーカ・ホワイトナイト。元軍人で、旧姓はマグダレーナよ」

 

シェリーカ・マグダレーナ元准将――彼女は三年前に軍を寿退役した。

それからは普通の主婦として子供もいるはずだが、今ここにいる彼女は軍人だった頃に戻っていた。

「カスケード君の話は聞いたわ。さっき現女性准将の話も聞いてきたし」

「メリテェアに会ったんですか?」

「会ったわ。…えぇと、貴方ツキ君よね」

「そうですけど…」

どこで名前を知ったんだろうと思いながら、返事をする。

「良かった、合ってて。一応全員名前は知ってるのよ、カスケード君がよく手紙くれたから」

いつの間に手紙なんか書いていたのかと、一同は少し不思議に思いながら聞く。

マグダレーナ元准将は話を元に戻し、続けた。

「それで、依頼人がビアンカ・ミラジナだったようね」

「誰だよ、それ」

「知らない?彼女、五年前まで軍の科学部にいたのよ」

「知らねぇよ」

「ディア君、言葉遣い直しなさいって言ったでしょう。

…そんなことより、彼女は五年前軍を辞めて単独研究を始めたの。

依頼の内容はその研究の成果が軍に通用するかどうかを見て欲しいって事だったみたいね」

依頼の内容なら、メリテェアに聞いて知っていた。

しかし、依頼人のことについては初めて聞いた。

マグダレーナ元准将は続ける。

「確かに軍に通用したみたいね。十三年在籍しているベテランをぼろぼろにするんだから」

「ただ単にあいつの力が足りなかったんじゃねぇの?」

「あら、カスケード君は入隊時、筆記は最悪だったけど実技はトップクラスだったのよ」

「…マジかよ」

再び横道に逸れ始めた会話を軌道修正し、語りは続く。

「彼女が何をしたかはわからないけど、現場の村が彼女の故郷だったっていうのは引っかかるわね。

ニア君のこともあるし、最悪の事態も想定しなきゃいけないかも…」

「ニアさんのこと?」

グレンが思わず訊き返すと、マグダレーナ元准将は少し辛そうな表情になる。

しかし、落ち着いて次を語る。

「あの村はね、ニア君が亡くなった場所でもあるの」

「そう…なんですか?」

そういえばあの村にいた婦人は「村を救ってもらった借り」と言っていた。

あの村で何かがあったことは確定した。

「こんなこと訊くのもなんですけど…どうして亡くなったんですか?ニアさん」

「あの村に怪物が出るっていうことで、カスケード君とニア君が視察に行ったの。

そしたらその怪物に会っちゃってね…ニア君はそれで怪我して、そのまま…」

あの傷では、痛みは尋常ではなかったはずだ。それなのに彼の表情は安らかだった。

それを思い出すと、今でも辛くなる。

「…ここまで言えば、最悪の事態の意味も解るわね?」

「なんとなく…」

今回カスケードを傷つけたのも、そして、ニアの命を奪ったのも。

おそらく両方とも、そのビアンカという人物なのだろう。

しかし、一つ解らないことがある。

カスケードの言っていた、言葉の意味が。

「マグダレーナ元准将」

「何?グレン君」

「あの…ニアさんが生き返るって事は、あり得ないんでしょうか」

空気が止まった。

周りが無音状態になり、マグダレーナ元准将の唇が震える。

「…生き返るって…そんな、事…」

「カスケードさんが言ってたんです。死人が生き返るなんて信じられるかって」

「そんな…そんな事…」

マグダレーナ元准将は勢いよく立ち上がり、

「そんなこと信じたくないわよ!」

その喉から出されているとは思えない声で、叫んだ。

「…マグダレーナ、さん…?」

「そんなこと信じたくないわ!そんな辛いこと、あっていいはずない…!」

手が震え、涙が溢れていた。

異常な反応に、誰もがどうすればいいのかわからなくなっていた。

「マグダレーナさん、落ち着いて」

「…ごめんね…」

操るもののいなくなった人形のように、椅子に腰を落とす。

片手で顔を覆い、息をつく。

そして、小さな声で語りだした。

「…あっていいはずないけど、不可能とは言えないわね…」

「え?」

「裏が進めていたクローン技術の応用で、人間が生成できることがわかっている。…あとは教育すればいいだけ。

科学部に居た彼女なら…可能かもしれないわ」

だとしたら、この事件はあまりにも残酷すぎた。

カスケードを傷つけたのは、かつての親友ということになる。

それはおそらく本人ではないが、同じ姿をしているのだろう。

カスケードの傷は背中の傷だけではない。

 

見出した可能性の残酷さと、現実に広がる暗い闇。

夜色の空に浮かぶ月は欠け始めていた。

「久しぶりね、カスケード君」

「そうですね、ホワイトナイト夫人」

「軍に戻ればマグダレーナよ」

カスケードの部屋は先ほどサクラが片付けたために、かなりさっぱりしていた。

散らかりがちなので、片付け上手な人がいると助かる。

滅多に使われない台所から、甘い匂いが流れてきた。

「…あら、アップルティー?」

「今でもたまに買ってくるんだ」

「ニア君、淹れるの上手だったわね。…で、今は妹さんが?」

「あぁ」

食器の揺れる音がこちらへ近づいてきて、テーブルのところで止まる。

サクラは盆からテーブルの上へカップを移し、マグダレーナに勧めた。

「どうぞ」

「ありがとう。…サクラちゃん、やっぱりお兄ちゃんに似てるわね」

「色だけです。お兄ちゃんより無茶してません」

「お前なぁ…」

湯気が空気に溶けて、暖かい空間を作っていく。

マグダレーナは茶を一口飲み、ゆっくり息を吐いた。

「サクラちゃん、貴方、好きな人いる?」

「え?!」

突然の問いにサクラは過剰な反応を示す。

顔を真っ赤に染めて、しどろもどろに答える。

「あの…好きっていうか、少し気になるだけで…恋とかそういうの全然で…」

「気になる人はいるのね。…お兄さん、どう思う?」

「…フクザツ」

昔はお兄ちゃんのお嫁さんになるーとか言ってくれたのになぁ、と呟くと、マグダレーナは笑いサクラはふくれる。

もう一度カップに口をつけた後、マグダレーナは続けた。

「カスケード君はね、自分の気持ちに気付かなかったのよ。

いつも一緒にいるからわからなかっただけなのかもね。

やっと気付いたのは失ってからだもの」

「…そういう人が傷付くようなことを…」

カスケードは苦笑し、マグダレーナは謝る。

「ごめんなさいね。…でも今は人の気持ちがわかるようになったでしょ?」

「そう…か?」

「まあまあ鋭くはなってるわよ。自分の気持ちにも正直だし」

「どうだろうな…」

「…だからでしょう?」

マグダレーナは手を止め、カスケードの眼を真っ直ぐ見る。

軍人だった頃の、あの眼だ。

「だから貴方は、大切なことを言えずにいるんだわ」

何もかも解っているのだろう。

だからここを訪れたのだ。

「…何から聞きたい?」

「初めから全て。皆心配してるのよ。…もっとも、頭のいい子達にはほとんどわかってるわ。

それでもまだ仮説に過ぎないけれど、とっても有力な仮説よ」

「…そうか」

サクラはその場に居辛くなり、台所へたった。

しばらくの間をあけて、カスケードは語りだした。

あの村でキメラに襲われ、そのとき一緒にニアの姿を見たことを。

あれはクローンだと思う、と言って、語るのをやめた。

「…カスケード君、初めから全てって、私は言ったの」

マグダレーナの口調が厳しくなる。

「途中から少しだけ、よね?どうして初めから語らないの?」

「それは…」

「解り切ってる事じゃないの、ビアンカちゃんが貴方を連れ出したことは」

問い詰める。真実を語ってもらわないと、意味がない。

辛いことだろうが、それで見つめなおしてもらわないと意味がないのだ。

「…でも、それは俺の所為なんだ。俺がビアンカを辛い目にあわせたんだ」

「現に逆のことも起こってるわけでしょう?今はビアンカちゃんが貴方を苦しめている」

「当然の報いなんだ。傷つけた分が自分に返ってきただけだ」

「そうやって彼女の罪を正当化しないで!貴方も彼女も罪を犯しているからこそ、ここで許しちゃいけないの!

彼女を正当化することは自分が罪から逃れようとしていることなのよ!」

犯した罪と向き合うことは大切なことだ。

しかし、向き合い方を間違えば結局は自分の擁護になってしまう。

全て許すのが優しさとは言えない。

「カスケード君、私は真実を聞きたいの。…私の言ってること、解るわね?」

昔上司だったマグダレーナは、今も生きている。

カスケードは軍に入ったばかりの頃を思い出した。ニアに連れられて、初めて訓練に出た日の事。

そのときもマグダレーナに、同じ眼で叱られた。

「…上手く話せないけど、良いのか?」

「上手いか下手かは関係ないでしょう」

 

全て語った後、残ったのは胸の奥の痛み。

辛すぎる現実の存在に、マグダレーナも返す言葉がない。

カスケードがビアンカから聞いたことが全て真実なら、急にニアの目が見えなくなったということの説明はつく。

しかしそれだけでは納得のいかないこともある。

「…どうしてビアンカちゃんは、貴方を襲ったのかしらね」

やっと出てきた言葉はこれだった。

ビアンカはカスケードのことが本当に好きだったのだろう。

それがゆがんだものに変わった理由と今回の事件の動機がわからない。

ただの「復讐」では説明しきれない。

「彼女はこれからも貴方を狙ってくるでしょうね。…そして、今度こそ貴方は…」

このままでは殺される。

再び悲劇が繰り返される。

それを阻止するために、今できることは何か。

「ビアンカちゃんの居場所が判れば良いんだけど…あの村にはもういないでしょうね。

証拠も消している可能性が高いわ」

軍の力を最大限に利用すればすぐにわかるだろう。

しかし、ビアンカは元軍人だ。捕まらないよう上手くすり抜けていくことは可能だろう。

それに、軍全体を動かすことは、カスケードが許さないだろう。

これは自分の問題だからと、決して譲ろうとしないことはわかっている。

「…今日はここまでにしましょう、傷も痛むだろうし。

何かあったらセレスティアさんに言えば私につないでくれるわ」

マグダレーナは立ち上がり、ドアへと歩き出す。

その途中で台所に声をかける。

「サクラちゃん、お兄ちゃんを大切にね」

サクラは涙を流しながら、頷いた。

 

背中の痛みに耐えながら、司令部の廊下を歩く。

いつまでも休んでいられないからと、無理に出勤してきた。

勿論サクラは止めたが、大丈夫と言って出てきてしまった。

「カスケード大佐!もう出てきて良いんですの?」

メリテェアが心配そうに尋ねるが、笑顔で返す。

「全然大丈夫だって。…心配かけてごめんな、メリー」

「…無理しないで下さいね」

全員に何かしら迷惑をかけている。とにかく笑顔で振舞おうとした。

仕事中は気を紛らわせることができる。昼だって、誰かと話していれば痛みなんてどうってことない。

ただ、周囲が心配の所為でぎこちなくなっているだけだ。

「カスケードさん」

「グレンか。どうした?」

「無理してませんか?傷だって完全に塞がった訳じゃないんでしょう?」

「大丈夫だって!俺は丈夫だから平気だ」

「それだけじゃないです。本当は精神的にも辛いんじゃないですか?」

マグダレーナは言っていた。「頭のいい子はわかっている」と。

カスケードはとにかく明るく振舞って見せる。

「俺は楽天家だから精神的にも問題ない」

「楽天家とかそういう事は関係ないでしょう」

「そうか?…とにかく全然平気だから心配するなって」

部下にも気を使わせてしまい、情けないと思う。

だからこそこれ以上気を使わせないよう、いつもと同じように振舞えばいい。

痛いだの辛いだの言っている暇があったら、押し付けていた分を取り戻すべきだ。

「…と、ツキの所行かなきゃな」

一般からの情報電話を受け付けているツキから、情報のまとめを受け取らなければならない。

本来カスケードの仕事ではないが、動き回りたかったので引き受けた。

しかし、そこで待っていたのはツキではなかった。

「アルに黒すけ!何やってんだ?ツキは?」

「黒すけじゃねーって何度も言ってるだろうが」

「あ、あの、ツキさんには了解とってあります。…少しお話、よろしいですか?」

この二人が一緒にいるのはそう珍しいことではなくなったが、何か違和感がある。

ブラックはあまり変わらないのだが、アルベルトの態度が少し違う。

「…わかった、話すか」

「じゃあ第三会議室な。そのほうがこの馬鹿が話しやすいらしいから」

ブラックが提示した場所は、以前アルベルトがよく仕事に使っていた場所だ。

ここから近いので、あまり身体に負担をかけなくて済む。

相変わらずほとんど使われないこの部屋で、アルベルトは話し始める。

「あの…傷の具合は…」

「全然平気だって。皆そんなに心配しなくて良いのに」

「能天気だな」

隅の方の席に着き、一息つく。

座っていた方が痛みは楽らしい。

「…大佐、僕達が話したいことは一つです」

さっきの違和感の正体はこれだ。アルベルトが仕事仕様になっている。

挙動不審さは消え失せ、怖いほど真面目な表情になる。

「大佐がその傷についての詳細を未だに語らないのは、それを自分だけの問題だと受け止めているからですね?」

「…あぁ」

認めるしかなかった。こっちのアルベルトにごまかしはきかない。

「以前の僕等と同じですよね。自分達の問題だから、自分達でけじめをつける。

大佐もそういう考えを持っているんですよね」

「…そうだな。」

この表情のアルベルトと初めて対峙した場所もここだった。

あの時は銃口を向けられていた。

壁にはまだそのときの跡が残っていた。

あの時の強い眼は、忘れられない。

そして今、再びその眼に向かっている。

「大佐はあの時言いましたよね。もう二人だけの問題ではなくなった、軍全体の問題になってしまった、と。

…今のこの状況も、僕は同じだと思うんです」

「アル…あの時は犠牲者が多かったからだ。今は俺一人だろう?」

「一人でも多くても同じです。…何も知らない僕が言える事ではないかも知れませんけど、よく考えてください」

一度味わったことがあるからわかる。

決定する苦しみも、自分を情けなく思う嘲りも。

だからこそ言う。自分達はそれで助けられたのだから。

「あなた一人がいなくなることで、悲しむ人はたくさんいます。

自分を責めてしまう人だっているかもしれません。

だから…あなた一人で解決しようとして、悲しみを増やさないで下さい」

傷付いたものを、悲しむものを、無念を抱いて死んだものを見た。

命が一つ消えるだけで、多くが変わってしまう。

辛い決断も、そうならないためのもの。

「偉そうなこと言ってすみません。…でも、僕は言いたかったんです」

広い室内に、一人の声だけが響いていた。

答えはそこにはなく、時だけが過ぎた。

 

情報書類を閉じたファイルを棚から取り出し、新しいデータを追加する。

少しだけ厚みを増したファイルを机の上にのせたまま、ツキはカスケードに向き直った。

コーヒーのカップを持ったまま、動かない。

何かを考えているような難しい表情のまま、俯いている。

いつもの明るさがあまり感じられない。

「カスケード大佐」

「え、あ、なんだ?」

名前を呼ぶと慌てて反応する。

「ファイル。…大丈夫か?」

「全然大丈夫。この台詞何回目だよ…」

「大丈夫に見えないから皆訊くんだ。…アルベルト少佐に何言われたんだ?」

直接訊くのは躊躇われたが、遠まわしに言うのも違う気がした。

どちらにしても反応は同じだっただろうが。

「…説教。前に俺が言ったことそのまま返されたよ」

以外にもあっさり返ってくる答え。

しかしツキは驚くことなく黙っていた。

「これは俺一人の問題だと思ってる。俺が全部終わらせなきゃいけないんだって…

でも、アルとブラックはそうは思ってないみたいだ。俺一人で解決しようとして悲しみを増やすなって」

コーヒーのカップが机の面と触れ、コトンと音をたてた。

ツキは椅子に座り、言葉を一つ一つ聴く。

「でもこれはやっぱり俺の問題だ。だから…」

だから、他を巻き込むわけにはいかない。

一人で行くつもりだ。

言葉は続いていなかったが、そう聞こえた。

「…カスケード、それって責任感?それとも単なる独り善がり?」

そう聞こえたから、言う。

「部下でも友人でもなく、年長者として言わせて貰う。あんた俺達の気持ち無視してるだろ。

すごく心配して待ってたんだ。それでまた心配かけるつもりか?

事情は知らない。知ることもないと思ってる。でもまたあんたが傷付くんなら、それは覚悟しなきゃいけない。

あんたは俺たちが覚悟を決めるのも許さないのか?」

「ツキ…」

何も言い返せない。ただ、言葉を聴くだけ。

「俺たちだってそんなに強くないんだ。傷付くし、泣きたくなる。

覚悟を決めてるから、覚悟を支えられてるから耐えられるし、また立ち上がれるんだ。

覚悟を決めずにあんたが傷つくの見て、あんたっていう支えを失うのは嫌だ。

そんなこと、誰も望んでないんだよ」

他の者もそう思ってくれているのだろうか。

自分は他を無視して、傷つけようとしていたのか。

巻き込まないで傷を残すか、巻き込んで傷に耐えうることを求めるか。

「どうしたらいい?」

本当はこんなこと、他の人に訊きたくなかった。

でも、訊く事で他の傷を少しでも少なくできるなら。

本当は他に背負わせるべきではない。

けれども、自ら向き合おうとしてくれる人がいるなら。

「俺はどうしたらいい?」

答えは真っ直ぐに返ってきた。

優しい笑みと共に。

 

その日の夜はツキの家で過ごすことになった。

全員がほぼ強制連行のような形で集まり、テーブルを囲む。

ツキの弟であるフォークが夕食を作るのを、料理ができるメンバーが手伝う。

他の者は居間で、全員揃ってのポーカー。

「…十二連敗…」

「不良は相変わらず弱いな」

負け記録を順調に更新していくディアをカスケードがからかう。

「弱いって言うな!今度こそ…!」

「不良は不良なんだから諦めろ」

「不良って言うんじゃねぇ!」

いつもの調子だ。他のメンバーもホッとする。

「ディアさんはやっぱりこうでなくちゃ。そうじゃないと面白くないですよ」

「カイ、それは俺が負ければ良いってことか?」

「そうじゃないですよ。大体ツキさんがいる限り、俺たちが勝てるわけがないんですから」

「今日はカスケード大佐も結構強いし。どうしたんすか?」

クライスが訊いても、カスケードとツキは笑顔を返すのみ。

賑やかな時間が過ぎていく。

「メシ出来たけど…ディア、何連敗した?」

「そういう訊き方するんじゃねぇよ」

「アクトさん、ディアさんさっきから十三連敗ですよ」

「お前何言ってんだよ!そういう余計なことを…」

「もー、ゴハンだよー!お兄ちゃん、そこ退けて!」

フォークに言われ、トランプは撤収される。代わりに温かな鍋がテーブルの上へ移動してくる。

今日は特に気合いを入れたようで、フォークも自信満々に言う。

「いっぱい使ったから豪華だよ!さ、どんどん食べて!」

確かに鍋は具沢山で、とても美味しそうだ。

それなのに一緒に台所にいたメンバーは笑顔が引きつっている。

「フォークの包丁さばきはキツかったか…」

ツキが呟いた言葉は、誰にも聞こえなかった。

大量だったはずの中身はあっという間になくなっていき、争奪戦が勃発したりもする。

そのたびに騒ぎが起こるが、それは楽しいが故。

始終笑顔が溢れ、この時がこのまま続けばいいと思うほど。

しかし、そうはいかない。

時は確実に進んでいて、予測不可能な方向へ向かう。

かき消されかけていた不安は、大きくなっていく。

食事も後片付けも終わり、そろそろ帰ろうという時になって、それは始まる。

「あのさ、俺から話あるんだけど…良いか?」

カスケードが遠慮がちに語り始めると、その場が静まり返った。

何の話かはわかっていた。けれども、その答えはまだ聞いていない。

この人は答えを出せたのだろうか。

事情は知らない。あるのは仮説のみ。それでも、一つだけわかることがある。

この人がいかに苦しんだか。

「まず、話しておこうと思うんだ。…俺がどうしてこういうことになったのか」

五年前のあの日のことを語る。ニアがいなくなってから、自分がどのように過ごしたかも。

そして今回の事件の発端となった、依頼者である彼女の事も。

その彼女が語った言葉も、全て。

思い出すと辛くなるのは変わらない。それでも話し続けるのは、自分の想いを伝えたいから。

このことが自分の問題であることを、わかって欲しいから。

「言われたんだけどな、他のやつの気持ちも考えろって。

で、出した結論がこんなことで、結局また心配かけるかもしれないけど…」

それでも、決めたことだから。

これは、過去との決着だ。

「俺は一人で行く。もう一度ビアンカに会って、話さなきゃいけない。

巻き込むわけにはいかないけど、これだけは言っとけって言われた」

どうしても一人で行くというならば、これだけは言ってから行け。

そうすれば、覚悟は出来る。

そうすれば、信じて待ってるから。

「明日から行ってくる。…必ず、戻るから」

――大丈夫。だってあんたは、嘘がつけない人間だろ?

全員の前で誓ったからには、もう最後は決まっている。

必ず戻り、再び会おう。

 

荷物の中に詰めるのは生活用品一式と、痛み止めの薬。

使いたくはないが、お守り代わりにはなる。

軍に届も出してきた。しばらくは仕事を部下に押し付けることになるだろう。

すまないと思うが、それを言うといつものことだろ、と返ってきた。

「本当に行くの?まだ痛むんでしょう?」

サクラは心配しているようだが、引き止めようとはしない。

「そんなにかからないだろ。あっちも俺を狙ってるんだから」

「…お兄ちゃん」

「ん?」

サクラの声の調子が変わる。

静かで、しかし重みのある声。

「どうした?」

「…本当は、怪我して欲しくないのよ。私これでも医者だもの」

涙を堪える。泣くまいと決めたから。

信じて、笑って送り出そうと決めたから。

「いってらっしゃい、お兄ちゃん。…必ず、戻ってきてね」

自分にはそれしか出来ないから。

「サクラ」

名前を呼ぶ声に、

髪を優しく撫でる大きな手の温かさに、

もう一度会えるよう、祈ることしか出来ないから。

「…私、北に帰るね。今から行けば夜中の飛行機に間に合うし」

「あぁ。気をつけてな」

「お兄ちゃんこそ気をつけてよ」

どうかこれが、悠久の別れになりませんように。

 

サクラが出て行った後、ドアをノックする音が響いた。

五年前――ニアの葬儀の日に聞いた音と、同じ音。

ドアを開けると、そこにいるのは女性。

「マグダレーナ…」

「今度はニアって叫ばなかったわね」

「…そうだな」

あの日渡されたのは、ニアの形見。

辛くて持っていられなくて、机の上に置いた。

それは今カスケードの左耳にある。

大剣も、守ってくれている。

「カスケード君、最後の問いよ」

マグダレーナはゆっくり口を開く。

こちらを見つめて、言葉を紡ぐ。

「本当に戦えるの?ニア君を倒せる?」

この辛すぎる戦いを、本当に終わらせることができるのか。

カスケードは少し間をあけるが、目を逸らすことなく答える。

「倒すのはニアじゃないさ。…ニアはここにいる」

海色が、光を湛えてそこにある。

銀の輝きが傍にある。

「…それを聞いて安心したわ」

マグダレーナはにっこり笑った。

そして三年前までの軍人の眼に戻ったマグダレーナ准将が言う。

「行ってきなさい、カスケード。あなたは一人じゃないわ」

 

夜が明けて、一台の車にエンジンがかかる。

荷物を積み終え、乗り込もうとする一人の男。

そこに走ってくる少年が一人。

「カスケードさん!」

名前を呼ばれ振り向けば、そこには見慣れた銀髪。

「どうした?グレン」

「…まだ、言ってなかったんです。だから俺が代表で…」

「え?」

銀色の瞳の強い光が、真っ直ぐにこちらへ向かう。

言葉を一言継げて、風が吹いた。

男は少し笑い、片手を挙げ、

車に乗り込んだ。

 

「いってらっしゃい」

 

後に残るのは、巻き上げられた砂煙。

 

 

To be continued…