戻ってくるには辛すぎたはずの場所へ戻り、何もない場所を見た。
助けられたものに礼を告げ、再び荒野を走り出す。
後部座席に大剣を、左耳には銀色を。
やはりあの村には何も残っていなかった。
森の中にあったはずの小屋は、最初から無かったようにきれいに消えていた。
どこにいるのだろう、彼女は。
あんなに大きく強大な物と共に、どこへ行けるというのだろう。
全くあてがない状態で、ただひたすらに車を走らせる。
「やっぱ無理があったか…」
今更自分の無計画を責めても、どうしようもない。
出て来た時から、後に引けないことはわかっていた。
だから、前へ進むしかないのだ。
「軍に行ってなきゃいいんだけどな…」
独り言を呟きながら、ハンドルを握り締める。
向こうの方に村が見えてきた。何か情報を得ようと思い、向かう。
昼時で空腹感に襲われながら。
カスケードが軍人寮を出てからこれまで、何の情報も無い。
あの村にしか寄っていないのだから当然のことではある。
次の地で得られるとも限らない。
しかし自分が軍に留まっていれば、彼女は必ず軍を襲う。
少しでも他のものから遠ざけ、決着を付けたい。
だから本来村などに寄るのも避けたいのだが、情報無しでは遠ざけるどころか彼女に会うことすらできない。
会わなければならないのだ、ビアンカ・ミラジナに。
自分の過去との決着を付けるために。
「…ここは休憩所か」
到着した場所は、旅人の休憩所として利用される小さな村。
いろいろな地方から集まった者たちが、酒場で言葉を交わしている。
カウンターの空いている席に座ると、酔っ払った男が傍の女の腕を掴んでいるのが見えた。
「俺の旅の話を聞いてくれよぉ。一緒に来ても良いんだぜぇ?」
「あ、あの…放して下さい…私もう行かなきゃ…」
「そんなこと言わずにさぁ〜」
たちの悪い者に捕まってしまったらしい。こういう光景には腹が立つ。
酒を飲みに外に行くのはよくあることで、こんな光景もよく見る。
その度にツキやディアと一暴れしていたが、ここではそうもいかない。
「やめとけよ」
こう言って男の腕を掴むくらいだ。
「嫌がってるだろ」
「うるせぇ!野郎には興味ねぇんだよ!」
「この子もお前に興味ないみたいだから、放せ」
「いてぇ!」
掴む腕に力を込めると、男の手が女性から離れる。
カスケードが目配せすると、彼女は小さく頭を下げて去っていった。
「てめぇ!せっかくの楽しみを邪魔しやがって!」
「お前しか楽しめないだろ?そういうのは迷惑だからやめとけよ」
男の腕を解放してやり、店の主人に昼食を頼む。
男は舌打ちし、恨めしそうにこちらを見ていた。
それを無視して、考えるのはこれからの事。
どうしたら全て上手くいくのか。いや、全て上手くいくことは無いのかもしれない。
自分は傷付くだろう。傷つけなければならないだろう。
辛そうな表情を見ることになるだろう。
せめて、誰も消えないようにはしなければ。
出された昼食を礼を言って受け取り、分厚いサンドイッチに齧り付く。
昔のことを思い出した。
軍人寮の食堂で、親友と共に食事をしていたときの事を。
朝食はサンドイッチで、自分の分を一つ譲ってくれた彼はその時も眩しい笑顔だった。
いつもあの笑顔に救われていた。しかし、もう頼っていられない。
あの笑顔は返ってこないのだから。救われるのではなく、自分が救わなければならないのだから。
でなければ、戦えない。
親友の形をした物とは、戦えない。
死してなお戦わされる細胞体を、自分が救ってやらなければ。
「…マスター、ここに来た客のこと覚えてる?」
カウンターの中にいる、がっしりとした体つきの男に訊く。
彼は頷いて答える。
「ここに来た奴等は大体覚えてる。記憶力は良い方なんだ」
「じゃあ、わかるかな…赤い髪の女なんだけど…」
「女?」
「ウェーブのかかった髪を後ろでこう…ポニーテールにしてる」
自分の髪を指しながら言う。マスターは記憶をたどっているように口元を右手で覆う。
「そりゃてめぇのコレかぁ?もうヤったのかぁ?」
先ほどの酔っ払いが小指を立てて話し掛けてくる。
「ヤらねぇうちに逃げられたかぁ?だらしねぇなぁ」
「お前には訊いてない」
一言だけ返し、マスターの答えを待つ。
そういえば、と言葉が発せられる。
「赤髪のポニーテールなら来たけど、ほとんど何もせずにすぐ出てったな」
「本当に?!」
「あぁ…でもアンタの探してる女かはわからねぇな」
「いや、それで十分だ。ありがとう」
それだけでもわかれば大きな収穫だ。ここに立ち寄ったかもしれないという可能性がある。
それを頼りに探せば辿り着けるかもしれない。
「あと…この近くに新しい建物が出来たとか聞かないか?」
「それはねぇな。こんな村だから、何かできればすぐわかるんだが…」
研究所は無いらしい。ここに留まってはいない。
「助かった。これで何とかなる」
「アンタ、何でその女捜してるんだい?」
何も乗せる物の無くなった皿を片付けながら、マスターが尋ねる。
カスケードは財布を取り出しつつ答える。
真っ直ぐな眼で、たった一言。
「決着付けなきゃいけないんだ。…そう言って出て来たんだから、そうするしかない」
カスケードが店を出た後、二階から女性が降りてきた。
赤いウェーブのかかった髪をポニーテールにまとめている。
彼女は出口の方を見ながらマスターに語りかける。
「行ったみたいね」
「あぁ…ここからは出て行くだろう。今追いかければちょうどいい所で会えるぞ」
「そうね」
ビアンカは上着を着、出口へ向かう。
「行ってくるわ。…必ず成功させるから」
彼女が出て行くのを見送るのはマスターと、酔っ払いのふりをしていた男。
あても無く荒野を走る自動車。
捜す者が今どこにいるのかがわからないまま。
「あっちの方行って訊いてみるか…」
この近くの村などは一通り回るつもりだった。どこかでビアンカに会えさえすればいい。
話し合いで済ませられれば一番良いが、そうはいかないだろう。
できるだけ早く決着を付けなければ、待っていてくれる者達も心配する。
焦りが生じるが、見つからなければ仕方がない。
カスケードは途方に暮れていた。
「…あ、まずい」
そんな状態の中で見たものは、風が暴れている姿。
砂を巻き上げ、視界を阻む。
向こう側はもう見えなくなっていた。
「タイミング最悪だな…不良よりタチ悪い」
同じ「暴れ者」でも、まだ知り合いのほうがマシだ。
この風が止むまで待つしかない。
独りの時間で思い出すのは、昔の事。
あれは八年程前のことだったか。
ニアは手に入れたばかりの大剣で訓練をしており、自分はそれを傍で見ていた。
自分が持っても重いと思う大剣を片手で振り回すニアに驚き、声が出なかった。
「…ふう、大分慣れてきたかな」
ニアが満足そうに言う。カスケードはそこでやっと我に返り、改めて大剣を見た。
ニアの身長ほどのものを、何故あんなに簡単そうに扱えるのか。それが不思議でたまらなかった。
「カスケード、どうしたの?」
ニアが顔を覗き込んできたので思考はそこで中断した。しかし、質問だけはしてみる。
「あのさ…そんなデカいものどうやって扱ってるんだ?」
「え、これ?」
ニアは大剣とカスケードを交互に見て、少し考えていたようだった。
暫くしてから、ちょっと笑って答える。
「秘密」
「何だよそれ…教えてくれてもいいだろ?」
「今はだめ」
そう言って舌を出してみせるニアは、可愛くもあり少し憎らしくもある。
カスケードは一瞬見惚れてしまったが、すぐに気を取り直した。
「お前なぁ…」
抗議しようとした瞬間、横殴りの衝撃を感じる。
わっという短い悲鳴が聞こえ、太陽に透けた緑の輝きが靡くのが見えた。
突風が通り過ぎたあと、顔を見合わせる。
「…すごい風だったね」
「あぁ…びっくりした」
今の風はどこから来て、どこへ行ったのだろう。
過去も未来もわからない存在が、自分達に触れていった。
出会う前の自分達とこれからの自分達が、現在の自分達と同じであるように、
あの風のことは知らないが、確かに自分達を巻き込み、通っていったのだ。
「カスケード、さっきのことだけどね」
ニアがいきなり話し出す。
「カスケードも、いつか使ってみればわかるよ。…いつかはわからないけど」
そのときは後三年でその時が来るなんて思わなかった。
別れがあんなに早く来るなんて、思っていなかった。
だから、自分達は永遠だと思えた。
いつまでも一緒にいられると思っていた。
突風のように時間が通り過ぎていくなんて、考えていなかった。
「さぁ、そろそろ晩御飯の時間だよ。…今日こそピーマン食べてよね」
この声が、ずっと聞けると思っていた。
「ピーマンなんて食ったら死ぬ」
「そのくらいで死んじゃってたら人類滅亡するよ」
このやり取りが、ずっとできると思っていた。
しかし待っていたのは気付いてやれなかった後悔。
その後も現実を受け止めなかった罪。
その全てを償わなければならない時が今なのかもしれない。
命を落としてもなお戦わなければならないニアを、自分の手で解放してやらなければならない。
ニアから受け継いだ大剣で、いくらか罪を償える。
それは幸せなのか、それとも哀しい運命なのか。
――俺にニアが斬れるか?
未だに迷いがある。あれはニアでは無いと割り切ったつもりだったが、そうはいかなかった。
クローンであるということは、ニアの細胞が生きているということだ。自分に生きたニアの細胞を斬ることができるのか。
覚悟を決めなければならないのは、自分だ。
しかし答えが出ないうちに運命というものは回転していく。
砂嵐の中に大きな何かが見えた。
「…あれは…」
猛禽類の頭を持ち、背には巨大な翼がある。胴は獅子。
「この悪条件で戦えってか…」
始まりを告げる咆哮が、風の音を掻き消した。
いや、告げているのは始まりではなく、終わりだ。
終わりにしなければならないのだ。
カスケードは車から降り、大剣の柄を握り締め、
ゆっくりと構えた。
「ビアンカ、どこにいる!」
捜していた名を呼ぶが、返事は無い。
「出てこないなら…仕方ないな」
獣を睨むと、鋭い眼光が返ってくる。
低く唸った獣は一声吼えて、飛び掛った。
巨体は頭上に影を落とし、前足を降らせる。
「さすが獣…ワンパターンだな」
横に飛び退けば簡単にかわせる。砂の地面に足をつけた獣は、素早くこちらに方向転換する。
右に左に、大剣の重みを支えたまま駆け抜ける。
身を翻す獣から、自らを遠ざける。
しかし離れることは許されず、かといって触れることもさせない。
とにかくかわし続け、獣の主人を待つ。
何度同じ行動を繰り返しただろうか。すでに息は切れ、これ以上動けばこの先の行動に影響が出るだろう。
そんなカスケードとは対照的に、獣は余裕の表情だ。
そう見える気がするだけだが、カスケードに舌打ちさせるには十分だ。
「そろそろ決着付けさせてもらうか…」
いつまでも現れない者を待つよりは、片付けて先に進んだ方がいいのかもしれない。
現れるための条件が、この獣を片付けることなのかもしれない。
唸る獣を見据え、精神を統一する。
飛び上がる獣を頭上に、大剣を右手に持ち、身体の左に構える。
砂を蹴って大きく一歩踏み出すと、獣の腹部に目印が見える。
五年前の傷痕が、くっきり残っている。
あの日、自分は確かに獣を斬ったのだ。
再生して生きているが、あの時獣は命を終えた。
終えたものをこのまま戦わせる訳にはいかない。
過去には戻れない。過去は変えられない。
捻じ曲げられた過去を、今こそ元に戻さなければならない。
振り上げた剣は弧を描き、刃は獣の腹に呑みこまれていき、
古い傷と交わって腹を割り、赤い雨を降らせた。
荒野に響く咆哮は風の音と重なり、振動を地面へ伝える。
紅に染まったダークブルーは、砂嵐の中に直立する。
僅かに動く獣に、濡れた切っ先を向ける。
「今度こそ眠れ」
獣の左胸に、重みを落とす。
心臓を捕らえた刃を引き抜くと、今まで無かったほどに色付いている。
見たくは無かった色に染められている。
「…すまないな、二度も殺して」
作られた魂でも、天へ昇るのだろうか。
そもそもこの獣に魂はあったのだろうか。
作った彼女は、その答えを知っているのだろうか。
「…出て来い、ビアンカ。今度こそ決着を付けるぞ」
あの日、上司から科学部に行く用事を言い渡された。
カスケードとニアは十五歳で、仲の良い少尉コンビだった。
「科学部に行って…何のサンプル貰ってくれば良いんだっけ?」
「もう、忘れないでよ!危険薬物レベルB系第四型種の識別番号16749でしょ」
「そんなの覚えられる訳無いだろ」
科学部の研究室は本部から少し離れたところにあり、長い廊下を渡って行かなければならない。
そんなに歩けば、言葉を口に出しながらでも途中で間違えてしまいそうだ。
頼まれ事が余りにも長い名称なので、頼んだ上司もメモをとっておけと言ったくらいだ。
しかしニアは一度言われただけで覚えてしまう。
暫く関係のない事を話していても、絶対に忘れたり間違ったりしないのだ。
カスケードはそんなニアに畏敬を持つ。
「ニアは頭良いからな。俺は全く覚えられない」
「覚えようとしてる?集中しなきゃだめだよ」
「集中しても覚えられないものはある。…危険薬物レベルDだっけ?」
「…早速間違ってるよ…」
呆れるニアと、必死で復唱しようとするカスケード。
遊んでいるようだが、その足は確実に科学部研究室へと向かっていた。
「すみません」
科学部の受付に声をかけ、反応を待つ。
すぐに少女が顔を出した。
ウェーブのかかった赤毛を、ツインテールにしている少女。
「どうされました?」
まだ幼い声に、カスケードが答える。
「えと…薬物Cとかっていうサンプルが…」
「え?」
少女の目が点になる。何を言われたかわからないというように首をかしげ、もう一度答えを要求する。
「あの、もう一度仰ってください」
「危険薬物レベルB系第四型種の識別番号16749のサンプルを、将官方に頼まれたんです」
今度はニアが、よどみの無いはっきりとした口調で答える。
少女はそれで気がついたようで、傍らの書類の山から何かを探し始めた。
その間にカスケードはニアからの小声の説教を受けていた。
「だから覚えときなよって言ったのに…」
「あんなに覚えられないってさっきから言ってるだろ。俺はニアと違って頭悪いんだよ」
「そうやって言わないの」
「…あの、良いですか?」
二人が話している間に、少女は書類を見つけたらしい。
少女の方に向き直り、書類を読み上げる声を聴く。
「危険薬物…レベルB系…第四型種…識別番号は…えと…」
「16749」
「…はい、そうです。16749ですね。中に通しますから、少々お待ちください」
少女の姿が見えなくなり、何か機械音が聞こえた。
廊下の突き当たりにある大きな扉が開くと、その中から先ほどの少女が顔を出す。
「こちらへどうぞ」
彼女に従って、二人は扉の内部へと足を運んだ。
「…うわ、すげー…」
機械に囲まれた周囲を見回しながら、カスケードは感嘆の声をあげる。
見慣れぬ装置が並び、その奥にまた扉が見える。
「科学部って面白いな」
「そうですか?それなら良かったです」
少女は明るく微笑み、前へ進む。
歩きながら、何かを思いついたように振り向いた。
「そういえば、あなた達の名前は?」
まだ互いに名乗っていなかった。少女の問いにカスケードは明るい笑顔を返し、ニアは優しく微笑む。
「俺はカスケード・インフェリア、少尉」
「僕はニア・ジューンリー…同じく少尉です」
「年齢は?」
「俺ら両方とも十五」
それを聞き、少女は嬉しそうに言った。
「じゃあ同じくらいだね!あたしはビアンカ・ミラジナ。十四歳だよ」
宜しく、と差し伸べられた手を、カスケードは握り返す。
解放された手を、ビアンカはもう片方でそっと包み込んだ。
「…ねぇ、またここに来てくれる?」
薬品庫のカギをあけながら、ビアンカは尋ねる。
がちゃり、と音をたてて、薬品庫の扉が開く。
カスケードは問いに笑って答えた。
「また来る!ここ面白いし、ビアンカもいるし。…な、ニア」
「うん。僕もまた来たい」
「…ありがとう!」
ビアンカはそう言って、カスケードに抱きついた。
それが、ビアンカとの出会いだった。
それから八年、ウェーブのかかった赤毛はポニーテールに結ばれ、明るく笑っていた表情は冷たい笑顔になっていた。
カスケードも成長し、あの頃よりもずっと強い海色でビアンカを見ていた。
そしてビアンカの隣にいるニアは、八年前よりは成長しているものの、五年前から全く変わっていない。
いや、彼から表情が消えている点では、変わったと言えるのか。
「また倒されちゃったね、グリフィン」
八年前よりもずっと大人っぽくなった、ビアンカの声。
そこに感情は含まれない。
「さすがカスケードだね。…もうこの子は生き返らせる必要無いかな」
獣をちらりと見て、すぐに視線をカスケードに戻した。
「…ここからが本番だよ。ニアを斬れる?」
弾んだように聞こえる声には、楽しそうな調子はない。
カスケードは大剣を握り直し、ニアを見る。
あの頃あった笑顔は、どこにも無い。
「ビアンカ、俺が憎いか?」
ゆっくり口を開く。答えはすぐに返ってくる。
「どうだろうね。…少なくとも、今あたしが求めてるのは一つ」
ビアンカの手がそっと挙がり、
ニアの背を軽く押した。
それを合図に、ニアは大剣を構えて走ってくる。
カスケードめがけて、一直線に。
「あたしが求めてるのは、カスケードとニアの争い」
左から右へと振られる巨大な刃は、高く飛び上がることでやっと回避できる。
飛び上がった後に降り立つ場所を誤れば、結局はダメージを負う事になる。
「…くッ!」
着地地点をどこに見定めようとも、ニアは必ず相手を捉える。
それは昔から知っている。
だから、ここで足をやられることはわかっていた。
「まずは足を封じて、それから決め手の一発…そのままニアのやり方だな」
わかっていても防げないのは、ニアが強いから。
そして、自分の中で覚悟ができていないから。
ニアは容赦なく大剣を片手で振り回し、カスケードを追う。
周囲に壁が無いおかげで追い詰められる心配は無いが、傷付いた足が行動に制限をかける。
何も言わず、無表情のまま襲い掛かるニア。そこから逃げるだけのカスケード。
「しまったッ!」
引きずった足を窪みに引っ掛ける。身体を支えきれずに転倒し、目の前に刃を振り上げたニアが立つ。
大剣が風を斬る音が聴こえ、とっさに右手に力が入る。
ガキィィィンッと表せるような、それよりももっと激しい音が響き、分裂した風は元の塊に戻る。
大剣が大剣を止め、振り払う。
カスケードは立ち上がり、剣を構え直す。
「決めさせない。…こっちも負けられないからな」
大剣の扱いなら、こちらの方が有利だ。ニアはてこの原理と遠心力の応用で力不足を補っているが、カスケードは力を備えている。
「勝負だ、ニア!」
相手はかつての親友。過去の組み手はいつも引き分け。
ならば今日、勝てば良い。
刃はぶつかり合い、金属音が荒野の風に運ばれる。
しかし風は、ビアンカの呟きまでは運ばなかった。
「それじゃダメ…カスケードの負けだよ」
初めのうちはカスケードもニアも一歩も引かず、攻防戦が続いた。
ニアが大剣を振ればカスケードがかわし、カスケードがニアを押せば体勢を立て直して返してくる。
その繰り返しだった。
しかし、時が経つにつれ戦況は変わっていった。
カスケードは二戦目であり、初めに受けた足の傷に加えて背中の傷の痛みもある。
疲労と傷の痛みで、体力の消耗は早い。
一方のニアは無傷な上、「攻撃を受けていない」のだ。
正確に言えば、「攻撃らしい攻撃は全くされていない」。
相手をニアだと捉えてしまった為に、カスケードは無意識のうちに傷つけることを躊躇っていたのだ。
ニアはそうではない。相手を「殺さなければならない者」として捉え、次々と攻撃を繰り出してくる。
カスケードにとって、完全に不利な戦況が出来上がっていた。
弧を描くニアの大剣はカスケードに傷を加え、血を流させる。
「ぐ…ぁッ…!」
右肩から左脇腹への大きな衝撃を受け、カスケードは遂に倒れた。
背中には砂の感触、視界には刃の輝き。
――そうだった、これは違ったんだ。
――俺は自分で言って来たんじゃないか。
自分で、あれはニアじゃないと判断したはずだ。
なのに自分は何をやっていたのだろう。
昔を懐かしむだけで、今のこの状況には少しも目を向けようとしていなかった。
目の前にいるのはニアではない。
大剣も、左耳の銀色も、全て偽者だ。
それすらも、さっきまでの自分は忘れていたのだ。
振り下ろされた刃をかわし損ない、痛む背中に再び傷を受ける。
よろよろと立ち上がり、今戦っている相手を見た。
陽に透けて緑に輝く髪、澄んだ色の瞳。
外見も、身のこなしも、全てニアと同じだ。
しかし、明るい笑顔は無い。
自分を呼ぶあの声も、瞳の光も無い。
そこにいるのはニアの姿を借りた、ただの人形。
――俺は何をしていた?何を考えていた?
――ニアを殺したのは俺じゃないか。
――気付かなくて何もしなかった、俺じゃないか。
目の前に姿を見て、自分の罪を勝手に許していた。
解放された気になっていた。
――ここにいるのはニアじゃない。
――ニアは俺が殺した。
――だから、ここにいるはずはない。
カスケードは大剣の柄を握り締める右手に力を込め、大剣を振り上げるニアに向かっていく。
「わあぁぁぁぁぁぁっ!!!」
喉がだめになるまで叫んでやる。
力尽きるまで走ってやる。
血が全て流れても良い。
自分の親友はただ一人だと、認めなければいけないんだ。
握り締めた右手は、
左上に刃を振り上げ、
叫びと共に、振り下ろした。
あの日ニアの身体を引き裂いたのは、獣の爪だった。
紅に染まる身体を抱き上げ、カスケードは叫んだ。
今ニアの体を紅に染めるのは、カスケードがニアから受け継いだ大剣。
白い服に紅いものが広がり、地面に倒れる。
あの日のことが脳裏によみがえる。
親友でいてくれてありがとうと言って逝ってしまった者を、
親友だからこそ、斬った。
光の無い眼は宙を見つめ、動かない。
近寄って、抱き上げても、言葉は何も返ってこない。
返ってこない代わりに、カスケードが言葉を紡ぐ。
「…この大剣はさ、世界に一つしかないんだよ。
これを作った人は亡くなって、その親友がずっと持ってた一点モノなんだ。
これはニアが使うべき物だって、その人も言ってた」
誰に語るでもない。自分に言い聞かせているのかもしれない。
「それと耳のカフスも…ニアの親父さんとお袋さんが、ニアのために作ったものなんだ。
これも世界に一個しかなくて、ニアにとっては死んだ両親から受け継いだ唯一の形見なんだ」
これらはニアのものだ。本来ニアだけが使うべきものであって、他の誰が持ってもいけないものだ。
しかし、それを受け継いだのは。
「今じゃどっちもニアの形見で、俺が受け継いだ。本当は受け継ぐべきものじゃないんだ。
でも、ニアはこれを通じて俺を守ってくれている。
だから俺は、ニアのことをずっと想っている義務がある」
義務じゃなくても想っていただろう。
けれど、葬儀の後のあのままの状態では、きっと中途半端な想いになっていた。
一生罪を背負わなくてはならない。
ニアからいろいろなものを奪ってしまった罪を。
そのために今できることは、ニアを一人にすることだ。
想いを、一つだけにすることだ。
「ニア…ごめん。お前を二回も殺して、謝って済むなんて思っちゃいないけど」
ニアの胸に突き立てた大剣を引き抜き、亡骸を見つめる。
すでに動かぬ人形になってしまったもの。
自分も血を流していることなんか、とうに忘れていた。
「…ビアンカ、俺は残酷か?」
後方で見ているだけの人物に問う。
声は返ってくる。
「残酷。…親友を切り刻んだ感想は?」
「すごく辛い。…でも、一つけじめはついたな」
振り向いてビアンカを見る瞳には、涙も怒りも無い。
真っ直ぐに視線を向けるだけだ。
「ビアンカ、本当にお前がニアの目を?」
「そうだよ。あたしがやったの」
「…じゃあ、やっぱり許せないな」
カスケードは大剣を地面に突き立て、ビアンカに近付く。
すぐ目の前で止まると、彼女の手をとった。
「一緒にレジーナに戻れ。…ニアの墓前で、謝ってもらう」
「…え?」
ビアンカは耳を疑った。
「謝れ」と、それだけなのは何故なのか。
本来なら、自分は恨まれて殺されるはずではないのか。
「何で?あたしを殺さないの?!」
「殺しても仕方ないだろ。ビアンカはまだ死んでないんだから」
「でも…あたし、ニアを殺したんだよ?!カスケードも殺そうとしたんだよ?!何で…」
ビアンカはその場で膝を崩し、座り込む。
砂の地面に、黒い点がぽたぽたと落ちる。
「何であたしを斬らないのよ…!」
砂嵐はいつのまにか止んでいた。
辺りには風の泣き声だけが響き、他はしんと静まり返っていた。
「ビアンカ、お前…俺を殺す気無かっただろ」
「!」
ビアンカの動きが止まる。蹲っていて見えない表情も、なんとなくわかる。
カスケードは続けた。
「最初の時、とどめは刺そうと思えば簡単にできたはずだ。
今回だって、グリフィンとニアのクローンを同時に出せば良かったはずだ。それに…っ…」
傷の痛みを感じた。正面にも背にも、鋭い痛みが走る。
血も流れすぎた。
それでも気にしないようにして、語り続ける。
「それに…お前は自分で手を下そうとはしなかった。
自分の手で俺を殺そうなんて、思っていなかったんじゃないのか?」
俯いたままのビアンカに、穏やかに語りかける声。
先ほどまで戦っていたとは思えない。ボロボロに傷付いているとは思えない。
それがカスケードの強さであり、最大の弱点。
「…カスケードは優しすぎるよ…」
ビアンカは呟き、ゆっくり立ち上がった。
「だから…あたしは…好きだったのかもね…」
ビアンカはカスケードに笑いかける。
涙で濡れてはいたが、昔と同じ笑みだった。
「ありがとう。…でもね、あたしは一緒に行けないんだ。行っちゃいけないんだよ」
「…ビアンカ…?」
再び俯いたビアンカは後ずさりしてカスケードから離れ、
ポケットに手を入れ、
黒光りする金属を取り出した。
「ビアンカ、お前…!」
「あたしの役目はこれでおしまい。カスケードを殺せなかったら、死ななきゃいけないの」
銃口を自らのこめかみに押し当て、引き金に指を触れる。
「だめだ!ビアンカ、それを放せ!」
「来ないで!今来たら、カスケードも死んじゃうから!」
銃口は彼女のこめかみから、カスケードの方へと移動する。
しかし真っ直ぐではなく、微妙にずれていた。
「カスケードの言うとおり、あたし、殺したくなかった。
ニアを殺したのはあたしの判断だけど、カスケードは違うの。殺せって言われたから殺そうとした」
少しずつ後ずさりしながら、ビアンカは語る。
銃口の位置は段々とカスケードから離れていく。
「でも、できなかった。やっぱりあたし、好きな人は殺せない。
ニアが嫌いって訳じゃないけど…あたし、馬鹿だったんだね。今も馬鹿だし」
「ビアンカ、もう良い。もう良いから銃を放せ!」
カスケードはビアンカに近付こうと、早足で歩き出す。
しかし、
「来ちゃダメぇ――っ!」
歩みは銃声によって阻まれた。
銃弾はカスケードの左肩を貫き、出血量を増やす。
体はすでに冷えていて、これ以上は危険だ。
「…ビアンカ、だめだ…!死ぬな…!」
それでも叫ぶ。これ以上、失いたくないから。
もう二度と、後悔したくないから。
「カスケード…ありがとう…」
ビアンカは微笑む。しかし、とても哀しそうに。
そのとき、遠くで何かが光った。
光るものはビアンカに向けられている。
「?!…ビアンカ、伏せろ!」
カスケードの叫びに、ビアンカは首を横に振る。
そして、最期の笑顔で言った。
「ごめんね」
後に残ったのは、頭の中心を撃ち抜かれた、女性の遺体。
また、目の前で命が奪われた。
また、守れなかった。
「…ビアンカ…」
名前を呼んでも、応答は無い。
遠くから二人の人間が歩いてくるのが見えた。
一人は大柄でごつごつした男、もう一人はひょろりとした男。
彼等はビアンカの遺体をちらりと見て、それからカスケードを見た。
「よう、兄ちゃん」
酒場のマスターが、先ほどと変わらぬ態度でそう言った。
「テメェの女、死んじまったなぁ」
酔っ払っていた男が、笑いながらそう言った。
「…マスター…お前も…どうして…」
朦朧とした意識の中の驚愕は、途切れ途切れの言葉しか許さない。
「簡単さ。ビアンカ・ミラジナも俺たちも、裏の世界で働いている人間だってことだ」
「テメェ、いろんなことに関わってくれたらしいからなぁ。だから邪魔になったんで消そうと思ったんだ。
それなのにビアンカが失敗してくれちゃって…せっかく地下実験場まで提供してやったのに」
二人の男は同時に銃口をカスケードに向ける。
ビアンカとは違って、確かな狙いをつけて。
「だから俺たちで殺してやる。…天国で親友とビアンカと三人で遊んでな」
すでに逃げられるだけの力も残っていなかった。
男達は引き金にかけた指に力を込める。
このままでは、頭を撃ち抜かれて即死だ。
――終わり、か。
そのとき、雲間から日が差した。
斜めに落ちてきた光が、地面に突き立ててある大剣に届き、
偶然にも光を反射した。
反射した光は、男達の目を直撃した。
「うわっ!」
「いィィ?!」
目が眩んだ男達は狙いを外し、
銃弾はカスケードの頭ではなく、胸と腹に撃ち込まれた。
「…くっそぉ…今度こそ!」
再び銃口が向けられた時、車がこちらへ向かってくる音がした。
今のこの状況を見られてはまずい。
「おい、行くぞ!」
「ちっ」
男達はビアンカの遺体とニアのクローンを回収し、去った。
そのあとに車はカスケードを見つけ、運転手が駆け寄った。
「大丈夫ですか?!」
それは酒場で酔っ払い男に絡まれていた、あの女性だった。
「酷い怪我…!生きてますか?!」
「…生…て…。中…司令…」
途切れ途切れのかすかな声は、かろうじて理解できた。
彼女は近くに止めてあった車に軍用無線機を見つけ、カスケードの指示したとおりに繋げた。
「すみません、エルニーニャ王国軍中央司令部ですか?!あの、青い髪の人が…!」
彼女の声が僅かに耳に届いたあと、カスケードは意識を失った。
血を流しすぎた体は、完全に冷たくなっていた。
報せを受けたサクラが中央司令部付属の病院に到着したのは、銃弾の摘出が行われている最中だった。
「兄は?!兄はどうなってるんですか?!」
サクラはアクトの肩を掴み、揺する。
「落ち着いて、サクラさん…手術が終わったらラディアに治癒してもらうことになってる。だから…」
「私は今の兄の容態を訊いてるんです!」
「きっと大丈夫だから。カスケードさんならなんでもないって…」
アクトがサクラをなだめている間、グレンとツキが会話していた。
「やりすぎだよ、あの人」
「そうですね。…こんなに大怪我してこいなんて誰も言ってませんよ」
ツキはカスケードが出て行く前のことを思い出す。
怪我くらいの覚悟はしていた。しかし、それ以上は考えていない。
考えないようにしていたというのもあるのかもしれない。
「ツキさん」
グレンが口を開く。
「カスケードさん、俺達の”いってらっしゃい”無駄にしませんよね」
そうであって欲しい。そうだと信じたい。
誰もがそう願っている。
「あの人は人の気持ちを無駄にするような人じゃない。だから、必ず”ただいま”は聞ける」
そうでなければ、送り出した意味が無い。
「グレンさん、手術どうですか?」
カイとディアが到着し、カイは長椅子に腰掛ける。
「今のところは何とも言えないな。…リアは落ち着いたか?」
「もう少し時間がかかりそうです。ラディアはもう少ししたら来るって言ってました」
リアは報せを聞いて倒れてしまい、クレインとメリテェアがついているという事だった。
「アルベルトとブラックは部屋に閉じこもっちまってるし…
ったく、カスケードの所為でこっちは眠れねぇだろうが」
ディアはそう言いながらもかなり心配していて、落ち着かない様子だ。
「ディア、来た?」
アクトがサクラを支えながら、廊下の角から出てくる。
サクラは泣いていて、落ち着く必要がありそうだった。
「アクト…と、サクラ来たのか」
「ついさっき。おれはサクラさんと一旦寮に戻るから、あと頼んだ」
「あぁ、了解」
アクトとサクラがその場を去ろうとした時、手術室の扉が開いた。
医師と看護師が出てきて、神妙な顔つきでこちらを見る。
「手術は終了しました。」
「兄は?!兄はどうなんですか?!」
サクラが叫び、空気が固まる。
固まった空気は、凍てつく氷を落としていく。
「先ほど、心停止を確認しました。残念ながら…」
その場に響いたのは、絶望的な言葉のみ。
病院に他のメンバーも少しずつ到着し、改めて医師の絶望的な言葉を聞く。
「お前医者のくせに何やってんだよ!人死なせんのが仕事じゃねーだろうが!」
「ブラック、落ち着いてよ…お医者さんだって万能じゃないんだから…」
医師に掴みかかるブラックを、アルベルトが必死でなだめる。
リアは泣き崩れ、その場にいられなくなった。
ラディアはポツリと呟く。
「私…無力ですね。傷は治せても…生き返らせることはできないんですから…」
「ラディア、それを言うなら俺だって同じだ。薬作れても、こうなっちゃなんの意味も無い」
カイは昔経験したことと今の情景を重ねる。こんな結果をもたらす神など、いたとしても信じたくない。
「サクラさん、ここにいる?」
「一度外に出ます。…少し、考える時間を下さい」
全く意味の無い時間だとわかっているが、どうしてもこの場にいるのが辛い。
結局アクトに付き添われて、廊下に出た。
「…調子狂う」
ディアはそれだけ言って、あとは黙っていた。
「俺、アーレイド達と連絡とって来ますから。…グレンさん、大丈夫ですか?」
「俺のことは良いから行ってこい」
カイが出て行った後、グレンは口を開く。
「…ずるいですよ」
静けさの中、淡々と響く声。
「行ってくるって言って、行ってらっしゃいって言わせて、ただいまは無いんですか?
お帰りなさいは言わせてくれないんですか?!」
何もできなかった自分が悔しい。こんなときこそ何が何でも守り抜かなければならなかったはずだ。
こんな状況を作らないために、何かをするべきだった。
「こっちの覚悟は出来てなかったな…確かにずるいな、あの人」
ツキが俯いたまま、呟いた。
そこはどこだかわからないが、なんとなく自分の部屋のような気もした。
辺りを見回すとやはり寮とはどこか違って、自分がどうしてここにいるのかはわからない。
――いつの間にこんなところ来たんだ?
一つ一つ記憶を追ってみようとする。しかし、何も思い出せない。
――そもそも何のためにここにいるんだ?
何も見えてこない。
――というか…俺、誰だっけ?
自分の存在さえも分からなくなっている。
このまま自分というものは消えてしまうのではないだろうか。
それでも良いかもしれない。何しろ記憶も何も無いのだから、特に大したことはないだろう。
しかし、その考えは声によって制止される。
『忘れちゃだめ!集中して!』
凛と響いたそれには、聞き覚えがあった。
いつか聞いて、ずっと聞いていなかった、懐かしい声。
――そうか、ニアだ!俺の親友のニア…!
『当たり』
振り向くと、懐かしい笑顔があった。
太陽のように明るい、ニアの笑顔。
『君の名前は?』
――俺の、名前…?
さっき忘れてしまったことだ。しかし、何故か思い出せた。
――カスケード・インフェリア…。
『そう、それが君の名前。忘れちゃだめだよ?』
子供に何かを教える母親のような口ぶりで、ニアは言う。
昔からちっとも変わらない。世話焼きで、しっかり者で。
――ニア、俺はどうしてここに…
『ここはまだカスケードが来るところじゃないんだよ。戻らなきゃいけないんだ』
――戻る…?
どこへ戻るというのだろう。自分は最初からここにいたような気さえしてきたというのに。
――ここにはニアもいるし、俺は他に戻るところなんて知らない。
『カスケード、君には戻るべき場所がちゃんとある。僕のところへ来るべきじゃない』
――でも…
言いかけたとき、頬に平手打ちが飛んできた。
今までニアに叩かれたことなど無い。これが初めてだ。
――何するんだよ!
『カスケードがわかってくれないからでしょ?!
君はここに来るべきじゃない。まだ僕みたいになっちゃいけない!』
ニアが叫ぶのも、滅多に聞いたことがなかった。
涙を流すのも、あまり見たことがなかった。
――…ニア、どうして泣いて…
『だって…僕は、カスケードに死んで欲しくないんだよ。
まだまだ生きて、笑ってなきゃいけないんだよ!
僕みたいになっちゃだめなんだよ!』
――死んで…?ニアみたいに…?
何か思い出しそうだ。何だっただろう。
そうだ、あれは五年前だ。あの日、ニアは…
――ニアは…そうだ、ニアはもう…
『そう、それで良いんだよ。だから、カスケードは僕と同じ所にいちゃいけない。
もっともっと、君にはやることがあるんだから』
優しい微笑が、思い出した過去と重なって苦しい。
何故笑えるんだろう。ニアはいつでも笑っていた。
そんなことを考えていると、ニアは軽く肩を叩いて言う。
『そんなに辛そうな顔してちゃだめ。僕はカスケードの笑顔が好きなんだから』
――ニア…俺、戻らなきゃいけないのか?
『当然。だって、皆待ってるんだよ?
カスケードに、おかえりなさいって言うために、ね』
お帰りなさいと言うために。
自分は送り出された。やらなければならないことがあって、それを成し遂げようとして、
ここに、来た。
『さ、そろそろ行かないと。…こんなに急がなくても、僕にはいつか会えるよ。
今は待ってる皆の事を大切にしなきゃ』
――そうだな。
戻らなければならない。そうじゃないと、送り出してもらった意味が無い。
必ず戻るからと約束したのだ。
『僕はいつでもカスケードのこと見守ってるからね』
そんな声が、聴こえた気がした。
最初に聴こえたのはサクラの泣き出す声。
それから、ドアの開く音。
「どうしたんですか?アクトさん」
「サクラ落ち着いたのか?そんな風には聴こえねぇけど…」
「そうじゃない!今、医者が来て…カスケードさんが…!」
呼吸を整え、落ち着いて伝える。
何を言われたのか分からない状態から、驚愕に変わり、
それは歓喜になった。
カスケードが、生き返った。
死後処理をしようとしていたところで、急に目を覚ましたのだという。
本来ならありえないことだ。心停止からかなりの時間が経っている。
「やっぱりカスケードさん、只者じゃないんですね」
「…まぁ、何はともあれ、だな」
もう少し経てば面会できるということなので、それまで仮眠をとることにした。
しかし、誰もが眠れずにいた。眠れる訳が無い。
面会できるようになった時、すでに朝だった。
「こちらになります。…良かったですね」
看護師の一人がそう言って、ドアを開けた。
白を基調とした病室に、ベッドが一つ。
そこにいる人物は、ダークブルーの髪を持つ男性。
彼はドアのところにいる集団を見て笑い、
「ただいま」
と言った。
「おかえりなさい」
To be continued…