こうなることはわかっていた。

触れてはいけないものに触れ、

侵してはならぬ領域を侵し、

多くを失い、

そして、得てきた。

これは罰だ。罪に対する罰なのだ。

 

窓から見えたのは、初雪だった。

「わー、綺麗ですねー!」

エルニーニャ王国中央司令部の事務室で仕事を終え、ホッと一息ついていたときだった。

「ラディアちゃん、外出てみる?もうお仕事終わったし」

「良いんですか?じゃあ行ってきます!」

とたとたと走っていくラディアを見送りながら、リアは安心する。

今日も平和だ。

一ヶ月前、カスケードが大怪我をして帰ってきた。

一時は心停止に陥ったが奇跡ともいうべき復活を果たし、今は隣で仕事をしている。

「カスケードさん、私もお先に…」

リアは言いかけて、言葉を失う。

振り向くと仕事をしているはずの者が、書類を枕にして寝ていた。

今日中に仕上げなければいけない書類が、まだ三分の一ほど残っている。

「起きてください!仕事終わりませんよ!」

こんな時に限ってグレンとカイは別方面の仕事中、ディアとアクトは休み。

ふと思ってしまうのは、かすかに残る記憶。

「ニアさんがいれば起きたかな…?」

昔自分を助けてくれたのがカスケードとその親友ニアだったことを知ったときは驚いた。

後で考えた時に嬉しさと切なさがこみ上げてきた。

恩人に再会していたことと、礼を直接言えない事。

せめてその分役に立とうと思った。

今目の前にいる恩人を起こすべきか、否か。

疲れているのはわかるが、このままでは叱られるのはカスケードだ。

「…起こすしかないよね」

そう言って、リアは机の上にあるファイルを手にとった。

 

部屋の窓から見える雪に気付き、少し嬉しくなった。

雪は故郷を思い出させる。勿論故郷の方が積雪量は多いが、ただ降っているのを見るだけでも良いものだ。

だから、ディアは冬が好きだ。

窓際でボーっとしていると、玄関から声が聞こえた。

何やら文句を言っているようだが、よく聞き取れない。

ドアが開いて入ってきたのは、買い物に行っていた相方。

「何で雪なんか降るんだよ…これ以上寒くなったら死ぬ」

「お帰り。…つーかこんくらいの雪で死んだらとっくに人類絶滅してるだろ」

この国では珍しいほどの防寒装備を解除したアクトが真っ直ぐ台所へ向かうのを見る。

もう何年見てきただろう、この姿を。

「アクト、誕生日何欲しい?」

「酒」

「…色気ねぇな」

昔から変わらない関係。

正反対な部分ばかりだが、似ているところもある。

だから惹かれたのだろうと今は思う。

「…あ、忘れてた。ディア宛てに手紙きてたんだ」

「俺宛?誰だよ」

「フィリシクラムさん。久しぶりだな、手紙なんて」

薄い灰色の封筒は、ディアの故郷ノーザリアの郵便局で発行しているものだ。

懐かしく思いながら開封すると、育ての親のごつごつした字が目に入る。

「…アクト、正月にノーザリア行く気ねぇか?」

「何で?」

「オヤジが来いって。お前が寒くなければだけど」

躊躇うかと思った。

アクトはとにかく寒がりなので、北国ノーザリアに極寒の時期に行くことは絶対に嫌がるだろうと思ったのだ。

しかし、答えはあっさりと帰ってきた。

「行く」

「…マジで?」

「フィリシクラムさんが呼んでるなら行く。…だから、誕生日は上着欲しい」

「じゃ、オヤジに返事出すぞ。上着は自分で選んどけよ」

意外にもいい返事が得られ、雪の所為もあってディアは浮かれていた。

だから、そのときは気付かなかった。

アクトの声の調子が、いつもとなんとなく違うことに。

 

第三休憩室前の自動販売機の前でもめる兄弟二人。

九ヶ月前の距離を置いたぎこちない会話は、もう無い。

「ブラック、まだ〜?」

「うるせーんだよ馬鹿!財布の中身ぶちまけて人に取らせてんじゃねー!」

「だってブラック、頼んだら何だかんだ言ってやってくれるから…」

「…もうやらねーからな」

確かにブラックは文句を言いながらも、自動販売機の下に転がった五百エアー硬貨を一生懸命取ろうとしている。

アルベルトと一緒に過ごすうち、彼に逆らえなくなってきたというのが本当のところだ。

「…取れた」

やっとの思いで取り出した硬貨を、放るようにアルベルトに渡す。

「ありがとう!…じゃ、ここは僕がおごるから」

「当然だ。…って馬鹿!何買ってんだよ!」

「え、だからコーヒーを…」

「砂糖いらねーんだよ!」

「…ブラックだから?シャレ?」

「黙れ、この馬鹿!…畜生、二つとも砂糖とミルク入ってやがる…」

中央に来る前のブラックなら、周囲を相手にしなかっただろう。

中央に来る前のアルベルトなら、周囲に相手にされなかっただろう。

今は周りがあって、互いがあって、初めてそこに存在する。

昔なら考えられなかった自分達が、そこにいる。

「じゃあもう一つ買うから。…今度はちゃんと無糖でね」

「甘いのはお前が二本とも責任持って飲めよ」

「わかってるよ」

片親の血のみ繋がった、初めて会ってから九ヶ月しか経っていない兄弟。

忌々しいと思っていた血が流れる者。

元凶がなくなった今も、自分達はその血で生きている。

考えないように生きるのではなく、背負っていこうと決めていた。

ただし、背負い方を変えた。

一人のものにせず、二人で背負っている。

「…馬鹿、また砂糖入ってるぞ」

「あ、ボタン間違えた…」

傷の痛みも二人で分ければ、半分で済む。

 

「カスケードさん、いらっしゃい。…頭、どうかしたの?」

いつものように夕飯時に現れたカスケードが頭をさすっているのを見て、アクトは尋ねる。

「いや、ちょっと居眠りしてたら…。寝たら叩いてでも起こしてくれって言ったのは俺だけど…」

「?」

首を傾げつつも気にしないことにして、カスケードを中に通す。

居間の様子を見たカスケードは目を丸くした。

「あれ、アルと黒すけも来てたのか?」

居間にいたのはディアだけでなく、見慣れた二つの同じ色。

「はい、お邪魔してました」

「黒すけって言うなっつってんだろ」

「だって黒すけは黒すけだろ。不良、休み有意義に使ったか?」

「不良って言うんじゃねぇよ!…いや、今日は怒らないでおいてやる」

いつもならこの後に暴言がくる筈だが、今日はそれが無い。

よほど良い事でもあったのだろうか。

訊く前に答えは出た。

「フィリシクラムさんから手紙が来たんだよ。正月休はノーザリアに行くから」

「アクト、勝手に言うなよ」

「へぇ、あの人か。通りで浮かれてる訳だ」

「それだけじゃねぇよ。病的寒がりのくせにアクトも行くって」

「…死ぬなよ」

「ディアに高い上着買ってもらうから大丈夫」

「オイ、財布の中身次第だからな」

いつもと同じテンポの会話、いつもより二人分賑やかな食卓。

「黒すけ、それは俺のだからな」

「ブラック、カスケードにはやるなよ。それは俺のだ」

「どっちにもやらねーよ」

「ブラック、これあげるよ。好きでしょ?」

「余計なお世話だ、馬鹿」

「あ、ずるいぞ黒すけ!」

「アルベルトはブラックに甘すぎねぇか?!」

「お前らいいかげんにしろ!まだあるんだから落ち着いて食べろよ」

そういえば、いつもこの五人だった。

気がつけば一人と二人が三人に、三人と二人が五人になっていた。

それだけではない。他にも多くの人の助けを得て、自分達はここまでやってきた。

ずっと一緒に、ここまで歩いてきたのだ。

 

「…あ、そうだ…カスケードさんとディアには話しておかなきゃならないんだ」

食器を片付けながら、アクトが突然そう言った。

「何をだよ」

「俺だけじゃなくカスケードにも?」

「僕たちお邪魔ですか?」

「いや、アルベルトとブラックにも、一応聞いて欲しい。もしかしたらおれの仕事がそっちに回るかもしれないし」

仕事が回るようなことがあるとすれば、休みか、それとも。

「…軍辞めるとか言うなよ」

「言わないよ。…そうじゃなくて、明後日から何日か休みが欲しいんだ」

「何かあるのか?」

「…うん」

アクトの表情は、なんとなく辛そうだった。

アクトの辛そうな表情は、ディアにとっても辛い。

自分が泣かすのなら良いが、人に泣かされるのは嫌なのだ。

「何があるんだ?」

「手紙がきたんだ。…二通あって、一通は刑務所から」

「刑務所?!」

カスケードとアルベルト、ブラックは驚いているようだったが、ディアはそうでもなかった。

理由がわかっていたから。

「…面会か?」

「うん」

「ちょっと待てよ、面会って…」

「あ、カスケードさんたちは知らなかったよな。おれの叔父と叔母は刑務所に入ってるんだ。

一回出てきたんだけど、その後また色々あったみたいで…」

アクトが話すところへ、ブラックの言葉が割り込む。

「何で刑務所にいるんだよ?」

「ブラック、そういうことは…」

アルベルトがたしなめるが、アクトは首を横に振った。

「良いんだよ。全部話すから。

…まずはおれの生い立ちから説明した方が良いかな」

 

アクトは元々エルニーニャ王国西部の生まれだ。

しかしそこには生まれてから三年しかいなかった。

アクトが三歳の時に両親は心中し、アクトは一人残されてしまった。

「…カスケードさんは知ってると思うけど、おれにはマーシャっていう従姉がいるんだ。

レジーナに住んでいたその両親がおれを引き取った。それがさっき話した叔父と叔母なんだけど…」

声が止んだ。話すのを躊躇ったというよりも、声が震えて言葉が続かなくなったようだった。

「…無理して話す必要ねぇんじゃねぇのか?」

ディアはそう言うが、アクトは首を振る。

「言わなきゃならないんだよ。…おれだけ何も話してないんだから」

カスケードは親友を失ったことを話した。

アルベルトとブラックは自分達の父親の事を知らせた。

ディアはノーザリアにいた過去を話した。

でも、自分はほとんど何も話していない。

辛いのに話し、乗り越えていった者達に、それはあまりにも失礼だと思ったのだ。

「話さねぇままでも良いだろ。辛いなら言葉にすることねぇって」

「これはおれのけじめなんだ。…おれだけ、自分の過去にけじめついてなかった。

でもやっと決着がつくんだ。わからなかったことがやっとわかるんだ」

「わからなかったこと…?」

アクトは頷き、ディアの服の裾を掴んだ。

勇気をくれとでも言うように、震えた手でしっかりと。

そこまでして話さなければいけないことなのだろうか。

ディアがきいたことのあるアクトの過去は、大きな痛みを伴ったものだった。

両親の心中に始まり、叔母による虐待、そして叔父からの性的暴力。

それを今ここで話すのは必要なことなのだろうか。

必要だとしたら、今できることはなんなのだろうか。

「手、握っててやるから」

「…ディア?」

裾を掴む手に、暖かな重みがかかる。

安心する感触。

「俺がついてる。だから大丈夫だ」

「…うん」

アクトはゆっくり息を吐き、カスケードたちをしっかりと見て、話し始めた。

「…叔父と叔母はおれにしたことでマーシャに訴えられて、刑務所に入った。

おれは軍に保護されて、マーシャは南に行った」

アクトが正式に軍に入る頃には、その頃のことはうっすらとしか覚えていられなくなった。

過去に頭部に受けた傷による、一時的な記憶障害だった。

しかし記憶はよみがえった。――ある新聞記事によって。

 

アクトが十四歳の時――ディアに会って少し経った頃だった。

新聞を読んでいて、偶然叔父と叔母の名前を見つけた。

本来なら二年程前に出所しているはずだったが、薬物に手を出して再び戻ったらしい。

その記事を見たときに、忘れていたことがはっきりと思い出された。

辛かった。痛みを全て思い出した。

それを乗り越えることが出来たのは、傍にいてくれる人がいたからだ。

「その後も何回も出所しては捕まるってことが繰り返されて、とうとう十年。

そろそろかなって思ってたんだ、面会も」

覚悟はしていた。来るべきものが来ただけだ。

正直、今も会うのは怖い。しかし、会わなければきっと終わらない。

「それはわかったが…どうして何日かの休みなんだ?」

「それが二通目。これは実の両親に関係することなんだ。

両親のことを良く知っている人からの手紙だった」

アクトは寝室へ行き、封筒を持って戻ってきた。

それをカスケードに見せ、再び座る。

「…オレガノ・カッサス?」

「父親の友人だって、手紙に書いてあった。

両親の写真と一緒におれの小さいころのことが書いてあったから、まず間違いないと思う」

手紙に記されていたのは、差出人の素性と昔のロストート家の事。一枚の写真が同封されていた。

男性と、赤ん坊を抱いたアクトそっくりの女性の。

「この人が父親で、この人が母親、でもって赤ん坊がアクトだな」

「多分。おれ覚えてないけど、この女の人は絶対母親だろうね」

「同じ顔だしな」

女性は本当にアクトに生き写しだった。

そのまま髪を短くすれば、全く見分けがつかないほどに。

「…それで、両親について詳しい事聞きたいから…オレガノさんって人に会いに行こうと思う」

「それで休みか?」

「そういう事。…その間ディアをこき使って構わないから」

「何だよそれ」

冗談でごまかしてはいるが、本当は怖いのだろう。

怖くて仕方ないくせに、アクトは一人で行く気でいる。

他を巻き込みたくないのだろうが、もしそれで傷付くようなことがあったら。

実際、カスケードのこともあった。送り出したら傷だらけで帰ってくるような事は、もう二度と見たくない。

ましてアクトがそのようなことになれば、ディアはきっと立ち直れなくなるだろう。

南方殲滅事件の時も暫く落ち込んでいたが、アクトが支えてくれた。

しかし今度は、その大きな支えとなってくれた存在が傷付くのだから。

「…アクトの言い分はわかった。俺が上に通しておくから安心しろ」

カスケードはいつもの笑顔で言う。

「ありがとう、カスケードさん」

「俺にできることはこれくらいしかないからな」

上司として協力し、無事を祈ることしか。

「アクト君の仕事が回ってきたら、僕とブラックが何とかします」

「何でオレまで…」

「悪いな、アルベルト。ブラック、嫌ならやらなくていいから。強制はしない」

自分の我侭をきいてくれる人がいる。

申し訳ないと思いつつ、頼りにしている。

恐怖から逃れ得る術は、ここにある。

「ありがとう。…本当に、感謝してる」

 

自分達の部屋に戻ろうとするアルベルトを呼び止めたのは、寮母のセレスティアだった。

少し焦っている様子で、その手には封筒を持っていた。

ブラックは先に部屋に入り、アルベルトだけが廊下に残る。

「アルベルト君、手紙が届いてたんだけど…」

セレスティアの表情が心配そうなのが少し気にかかる。

「あ、ありがとうございます」

アルベルトはそれを受け取り、差出人を確認しようと封筒を裏返した。

そして、表情を硬いものへと変えた。

セレスティアが焦っていた理由も、その宛名にあった。

「いたずらだと良いんだけど…もし何かあったら、他の人に相談した方が良いかもしれないわね」

「…そう、ですね…」

セレスティアが戻っていった後、アルベルトはもう一度宛名を確認し、部屋に入った。

ブラックは共同浴場へ向かう支度をしていたらしく、バスタオルを引っ張り出していた。

「何かあったのか?」

「…え?」

作業に没頭していると思っていたが、アルベルトの異変には気付いていた。

そう思うと嬉しく、ブラックを可愛いと思ってしまう。

「気にしてくれるの?優しいね」

「そんなんじゃねーよ。いつもみたいな情けない面じゃねーから…」

「ありがとう。でも、なんでもないから。お風呂行くなら行っておいでよ」

「人の話聞けよ」

ブラックは文句を言いながら部屋から出て行った。

アルベルトはその後姿を見ながら少し笑う。

相変わらず素直じゃない弟が、可愛くて仕方がない。

可愛いからこそ、伝えたくないこともある。

封筒の宛名をもう一度見て、いたずらであることを祈りながら封を切る。

中にあるのが絶望ならば、今度は一人で背負うつもりだった。

 

時間が少し遅いため、浴場には自分一人だ。

広すぎてなんとなく違和感をおぼえつつ、ブラックは湯に浸かる。

そろそろカスケードあたりは来るかも知れない。

それまでは、この静けさの中だ。

「…何だったんださっきの…」

セレスティアは封筒を持っていて、明らかに焦っていた。

その後部屋に入って来たアルベルトは、あの時と同じ表情をしていた。

父親の事件を調べていた頃に書類に向かっていた、あの時。

真剣で、しっかりとしていて、しかしどこか辛そうな表情。

何がアルベルトをそうさせたのだろう。あの封筒はなんだったのだろう。

「…違う、心配なんかしてねー!」

思わず声に出してしまう。

自分が他人を心配するなんて。

けれどやはり変わっているのだ。アルベルトと過ごして、多くの者と出会って、

他人のことを考えるようになっていた。

それは面倒な感情だけれど、そう悪いものでもない。

カスケードが死にかけたときなど、本気で叫んでいた。

いつのまにかこの空気に馴染んでいて、その空気がないと物足りなくなっている。

「お、黒すけ!」

浴場の戸が開く音と一緒に、自分を呼ぶ声。

気軽に接してくれる言葉。

「黒すけって呼ぶなって言ってるだろうが」

「そう言うなって。…あれ、アルは?」

「知らねーよ」

カスケードが人にあだ名をつけるのは何故なのだろう。

初めは鬱陶しいと思っていたが、いつのまにかそうでもなくなっている。

この男には何か不思議なものがあるような気がしてならない。

「…お前さ」

「ん?」

髪を下ろした後姿が振り向く。

話し掛けられるといつも相手をきちんと見ている。

向けられる海色には、何か逆らえないものがある。

「どした、黒すけ」

「…なんでもねーよ。ていうか黒すけって呼ぶな!」

「黒すけは黒すけだろ。何にも染まらない黒」

聞いた、というよりも見たことのある言葉。

何故知っているのだろう。

「あの馬鹿に聞いたのか?」

「何が?」

「何にも染まらないって…」

今まで自分の名前の由来はアルベルトにしか話したことがない。

他の者が知っているはずはないのだ。

「確かに、お前の名前の由来はアルから聞いたけど」

「…ったく、余計なこと喋りやがって…」

いつもそうだ。余計なことを言って、ブラックが怒鳴っても懲りない。

けれどその「余計なこと」は、最終的に悪い方向へ繋がっているということはなかった。

結局自分はアルベルトのペースの中にいたのかもしれない。

「でもいい名前だよな。お前のお袋さん、立派な人だ」

「………」

いや、アルベルトだけではなく、周りのペースに巻き込まれているのかもしれない。

決して逆らうことのできない流れの中にいて、それによって自分が構成されている。

「アルが黒すけの事話してる時、すごく幸せそうな顔してるんだよな」

「…幸せ?」

「あぁ。…あいつにとって黒すけは、自慢の弟なんだな」

自分を構成する新しい要素は、昔をどんどん浄化していく。

浄化されるその瞬間、体が熱くなる。

「オレはあの馬鹿を兄貴だなんて思ってねー」

「照れるな、照れるな。お前だってアル兄ちゃん好きだろ?」

「好きじゃねーよ!あんな馬鹿なんて…」

好きじゃない。でも、嫌いでもない。

ここで出会った全てがそうだ。

「もう出るのか?」

「テメェと一緒になんか居られるか」

素直な気持ちなんて自分でもわからないのだから、伝えようがない。

浴場を出て、部屋へ向かう。

いつもならもっと賑やかだ。

今日は本当に静かで、部屋の電気さえ消えている。

――寝たのか…。

アルベルトは部屋の風呂を使ったらしかった。通りで来ない訳だと、一人納得する。

ふと、あの封筒のことを思い出した。

テーブルの上に見当たらないということは、おそらくアルベルトの机の引出しだろう。

普段勝手に引出しを開けたりという事はしないのだが、今回はどうしても気になった。

――あの馬鹿があんな表情するからだ。

そう言い聞かせて罪悪感を抑え、アルベルトの机に向かい、

引出しを静かに開けた。

――これか…

いたって普通の封筒に、アルベルトの名前が書いてある。

差出人は裏に書いてあるようだ。

ブラックは封筒を裏返し、差出人の名を確かめる。

「…なんだよ、これ…」

いたずら、にしても手が込んでいる。

信じろといわれても信じられない。信じたくない。

第一この名前をもつ人物は…

「何やってるの、ブラック」

「!」

寝ているはずのアルベルトが、いつのまにか後ろに居た。

机の引出しは開けたまま、封筒を手にした状態で、ごまかしはきかない。

いや、ブラックにはごまかす気もなかった。

「なんで…どうなってんだよ!何なんだよこの手紙!」

「…ブラックには見せたくなかったんだけど…」

「どうして見せねーんだよ!…こんなこと、あるはずねーからか?!」

差出人の名は、ブラックが自分の手で殺したはずだった者。

歴史に残る犯罪者で、史上最悪の連続殺人犯。

そして、アルベルトとブラックの実の父親。

「…畜生…何だよこれ…」

ラインザー・ヘルゲインの名が、調査書類で見たものと同じ筆跡で書かれていた。

「…あの男がオレ達の父親だってことは、誰も知らねーはずだろ」

「大佐とディア君、アクト君…それからリルリア准将と…マクラミーさん達くらいかな。

あとの人は殺人鬼だってことしか知らないはずだよ」

「じゃあ何でこれがここに届くんだよ!」

「…ブラック、中身読んだ?」

アルベルトが静かに尋ねる。先ほどから高揚が全く無い。

ブラックは首を横に振り、封筒をアルベルトに渡した。

アルベルトは封筒から中身を取り出し、感情をいれずに読み始めた。

 

差出人の名はラインザー・ヘルゲインとありますが、それはあなたの興味を引くためであります。

しかし、名前を書いたのはラインザー本人です。

ラインザーは生きている。

あなたの弟さんがトドメをさしたとお思いでしょうが、それは大きな間違いです。

ラインザーは不死身です。殺されても、何度も何度も復活します。

彼に会いたければ、指定の場所まで来ることです。

 

「不死身…だと…?」

「そう書いてあるね。…僕とブラックの関係を知っていて送っているみたいだし、あの人が生きているのかどうかは別としても、僕達を呼び出したいことは確かだよ」

「お前一人に宛てたものじゃねーのか?」

手紙には「あなた」とあり、封筒の宛名はアルベルト一人分だ。

なのにアルベルトは、これを「僕達」と解釈している。

「違うよ。…指定された場所を見れば、これが僕ら両方に宛てられたものだってことがわかる。

正確な住所が書いてあるわけじゃないからね」

「正確じゃねーって何だよ」

「この場所は君にしかわからない。…ここにもと住んでいた、君にしか」

アルベルトは便箋をブラックに渡した。ブラックは受け取り、便箋の下のほうに記された文字列を見る。

「レジーナ郊外、旧ダスクタイト家…」

十七年前の忌まわしい記憶が、ブラックの頭の中を駆け抜けた。

 

朝日が部屋に差し込み、目が覚める。

昨夜は遅くまで起きていたために、頭が少しぼうっとする。

客が帰った後、アクトはディアと話していた。

自分がいない間の事や、手紙の詳しい内容について。

ディアは本当に心配してくれて、申し訳ない気もするほどだった。

「…ありがとう」

寝ているものには聞こえない、小さな声。

今日一日はなるべく一緒にいよう。

昼食は必ず一緒にとろう。

帰ったらできるだけ豪華な夕食を作ってやろう。

そう思い、ベッドから抜け出した。

しかし、手だけが離れない。

「…起きてたのか」

「今日は早く目ぇ覚めちまったんだよ」

手首を掴む、少し冷たい手。

「…朝飯、何が良い?」

「アクト」

「もう少し寝てるか?寝かせてやるけど?」

「わかったから!ちゃんと胃に入るもん言うから!」

「グリンピースは決定だな」

「いや、それ勘弁」

この会話も、暫くできなくなる。

一言一言を覚えておかなければと、口調は自然とゆっくりになる。

朝食を終えてそろそろ職場へ向かう時間になった頃、電話が鳴った。

「もしもし」

アクトは防寒装備中なので、ディアが電話に出た。

偶然にも、それは正解だったらしい。

『ディアか?』

流れてきたのは、久しぶりに聞く声。

「オヤジ?!どうしたんだよ電話なんて」

『元気そうだな。手紙は着いたか?』

「着いたけど…オヤジも元気そうで良かったよ。で、何の用だ?」

『あぁ、急な話なんだが…』

マフラーを巻くアクトの耳に入ってきたのは、ディアの驚愕の声だった。

暫く怒鳴って、急にトーンが落ち、そのまま電話の切れる音。

マフラーはするりと床に落ち、後の静寂が不気味だった。

 

司令部第三会議室の空き時間を狙い、カスケードとアルベルト、ブラックは昨夜届いた手紙について話していた。

「これが実物なんですけど…」

「中見て良いのか?」

「はい」

カスケードは封筒の差出人を確認し、中身を丁寧に取り出した。

広げた便箋に書いてある文章を何度も読み、眉を顰めた。

「…行くつもりか?」

「はい。ブラックと一緒に、事実を確かめて来たいんです」

「オレの家だからな。それに…あの男が生きてるなら、今度こそ…」

あれで全て終わったと思っていた。本当にラインザーが生きているのなら、それが悪である限りは倒さなければならない。

殺す、殺さないではなく、とにかく終わらせる。

「…わかった。でも今日はやめておけ。明日からだ」

「どうしてですか?」

「頭を冷やすためだよ」

カスケードはアルベルトとブラックを交互に見る。

二人とも少し前の眼に戻っていて、特にアルベルトは以前よりも厳しい表情をしていた。

このままだと、今度はアルベルトが人を殺すことにもなりかねない。

そうでなくとも、怒りに任せていては冷静な判断ができずに自滅することも考えられる。

「少し今日一日で頭を冷やして、落ち着いてから行け。

今のお前達に必要なのは、そういう時間だ」

「…わかりました」

アルベルトとブラックが席をたったのと同時に、第三会議室のドアが勢いよく開いた。

「カスケード、いるか?!」

「不良、どうした?」

「話がある。…今、いいか?」

立て続けに来るを不審に思いつつも、カスケードは頷いた。

アルベルトとブラックが部屋を出、会議室にはカスケードとディアだけが残った。

「あいつらもなんかあったのか?」

「まぁな。…で、お前は何だ?」

ディアは珍しくカスケードを真っ直ぐ見た。

普段ならあまりしないような、相当真剣な表情。

「明日から、暫くエルニーニャを出る」

そう言った声は、重かった。

「出るって…何でまた」

「今朝、オヤジから電話があった。俺自身信じられねぇことなんだが…」

暫く言葉は出てこなかった。

カスケードは黙って待っていたが、先へは進まずにただ時間が経過した。

ディア自身も話がまとまっていないのだろう。

暫しの沈黙の後、漸く声を聞いた。

「俺の兄弟が、ノーザリア中央司令部に来たらしいんだ」

「兄弟?!」

ディアに兄弟がいるということは、以前アクトから聞いて知っていた。

しかし、確か彼等は。

「でも、お前の兄弟ってもう亡くなってるんじゃなかったか?」

「あぁ、兄貴も姉貴も死んだはずなんだ。俺は自分で見て確認してる」

兄は首吊り自殺、姉は家に放火しそのまま。

ディアは両方の死体を見た。

それなのに何故今更現れるのだろう。

彼等はノーザリア中央司令部に人捜しに訪れ、それがフィリシクラムに伝わったのだという。

事の経緯をディア本人から聞いて全て知っているフィリシクラムがそれを不審に思ったのは当然だった。

すぐに事実確認をするためにディアに電話をし、連絡を受けたディアは詳しいことを知ろうと思いノーザリアに行くことを決定したのだという。

「もし本当に兄貴と姉貴だったら、それは多分偽者だ。

…嫌なこと思い出させるかも知れねぇけど、お前の親友だってそうだっただろ?」

「ディア、お前まさかクローンだと思ってるのか?」

「十分考えられるだろ?そうじゃねぇことを祈りてぇよ」

当然だろう。本人が死しても細胞が利用されているなんて、考えたくない。

カスケードは実際にその辛さを知っている。

「…まさか、ラインザーも…」

「ラインザー?ラインザーも生きてんのか?!」

「いや、まだわからない。でもアル達のところにそういう情報が入ってるんだ」

「一体何が起こってんだよ…」

カスケードに心当たりが無い訳ではない。

裏の組織が動き出したのだとしたら、という考えがある。

しかし、今の時点では不用意なことは言えない。

「ノーザリアに行くなら俺が届出しておいてやる。

…万が一手におえないと思ったら、ノーザリアの軍に任せてすぐ戻って来い」

「…わかった」

もし読みが当たってしまっていたら、カスケードが負った痛みと同じものを抱えてしまうかもしれない。

あんな辛い思いは部下にはさせたくない。

 

昼休みの第三休憩室は、普段のような明るさを失っている。

ラインザーのことを除いた簡単な事情説明とこれからの仕事の分担についての話をし、不可解な事態を思う。

「…とにかく、明日からの仕事はグレンたちに頑張ってもらう。

何かあった時は俺とメリーに言う事」

「それはわかりましたけど…」

カイは不安げに口を開く。

「本当に大丈夫なんですか?カスケードさんのこともあったし…」

「大丈夫…だと良いな。今のところははっきりしたことは言えない。

そういう事だから、明日から頼んだぞ」

カスケードはそう言っていつもの笑顔を見せるが、やはりどことなく心配そうだ。

「これで解散。メリーとツキとグレンだけ残ってくれ」

「…わかりました」

メリテェア、ツキ、グレン、そして当事者達のみを残し、他は部屋を出払う。

「事情を知る者」には別の話をしなければならない。

「わたくし達だけ残すということは…そういうことなのですわね?」

メリテェアの問いに、カスケードは静かに頷く。

「そういうことってなんだよ?」

ディアは「事情」を知らない。アクトも、アルベルトとブラックもだ。

一ヶ月前カスケードに起こった事の詳細を知るのは、残ることを要求された三人のみ。

「まだ確定じゃないから、話すのはどうしようかと思った。

でも…こうなれば話すしかないと思う」

海色が深くなる。

その奥にあるものを見せようとしている。

海底の痛みを、感情の無い言葉に変える。

「一ヶ月前、俺はビアンカの作ったニアのクローンと戦った。

ビアンカは一人でそれをやったわけじゃない。その裏があった」

「裏?!」

「あぁ。…クローンが出てきた時点で予想は付いてただろうが、ビアンカは裏組織の人間だったんだ」

思い出すのも辛い。今も彼女の最期が脳裏によみがえる。

自分が鮮血に染めたニアの身体が、目に焼きついて離れない。

全ては裏社会の人間の陰謀だった。カスケードをはじめとする軍の人間が裏に深入りしすぎたためだ。

「ラインザー・ヘルゲインの事件の時、俺は裏を通じて奴のことを調べていた。

その他にも原因はいくつかあるが、俺の行動に問題があったのは確かだ。

あの時はビアンカを通じていたからターゲットは俺一人で済んだが、今回はそうもいかないらしい」

「大佐、今回も裏が関わっていると?ラインザーがクローンだとでもいうんですか?!」

アルベルトの言葉にカスケードが頷くその前に、グレンが反応した。

「ちょっと待ってください!アルベルトさん、ラインザーってどういうことですか?!」

「フォース君はラインザーが僕らの父親だということを知っているよね?

昨日、僕宛にラインザー名義の手紙が届いたんだ。

それでその内容の事実確認をしようと思ったんだけど…」

「でもラインザーは死んだはずじゃ…」

「だから納得いかねーんだよ!オレが殺したのに…」

ブラックの舌打ちは、悔しさだけを表している訳ではない。

たとえクローンだとしても、終わらせたものがまだ終わっていないのは気持ちが悪い。

「…そうだとすると、ディアもアルベルトもブラックも危険だよな」

「アクトの言うとおり、危険すぎる。だから頼みたいんだ」

カスケードはメリテェア、ツキ、グレンを見回し、言った。

「メリテェア・リルリア准将、あなたには私と共に裏の調査をお願いしたい。

グレン・フォース大尉、今回のことは信頼できるもの以外には内密にしてもらいたい。しかし、君には事態が軍本部に及んだ場合に働いてもらうことになる。

ツキ曹長、君は…」

一度言葉を切り、腹部の以前撃たれた個所に手を触れた。

心配されたことを思うとあまり言いたくは無いが、言っておかなければどうなるかわからない。

「君は、私に何かあったときに…後を頼みたい」

「カスケード大佐…」

年長者で、日頃から世話になっている。

今回も世話をかけるかもしれない。もしかすると、今まで以上に。

だからこそ、先に言っておきたかった。

「…何かあった時って何だよ。あんたまた無茶する気か?!」

「そうじゃない。今回こうなったからには再びあのようなことが起きるとも限らないから…」

本当は自分も全てを否定したい。もう二度と周りを傷つけたくない。

しかし、これは闘いだ。おそらく、最後の。

「…わかった。何かあったら、だな。でも何かなんて無い。起こさせない」

意志の強い黒眼と、深い海色がかち合う。

「あんたや他の人があんなことにならないように、俺も戦う。

大切なものは何が何でも守り抜く。…あとで後悔しないように」

一度失いかけた。もうあんな思いはしたくない。

それは皆同じだ。失う覚悟ではなく、傷付いた時に代わりに闘う覚悟をしたい。

「…サンキュ、ツキ」

いや、すでに覚悟はできている。

「俺も闘います。…失うのを恐れてる奴らを絶望させたくないですし」

「私も、できることは全てしますわ。大佐を上からサポートできるのは私くらいですものね」

「グレン、メリー…頼んだ」

「おいおい、今回危ねぇのは俺たちだろ?」

「そうですよ。…何があっても負ける気はありませんけど」

「どんな奴でも邪魔ならオレが殺す」

「無茶するなよ、お前等。…それから、アクト」

「何?」

今のところ裏との関連性はなさそうだが、アクトの場合は十分傷付く可能性がある。

ディアが傍にいないため、深い傷を負った時のことが不安だ。

「辛いことは一人で抱え込んだりするなよ」

「カスケードさん…」

アクトは目を伏せ、息をついた。

一人で行動するというだけでこんなに心配されるとは。

確かに不安で、怖い。

昔のことを思い出して震えた。

けれど、そんなことはディアが向かうかもしれない危険に比べれば。

「大丈夫だよ。マルスダリカの麻薬事件のとき、おれを囮にしたのはカスケードさんだっただろ」

「確かにそうだったが、今回は…」

「おれはおれの決着をつけるだけなんだから。いつまでもディアに依存してる訳にもいかないし」

綺麗で、けれども強さを持つ笑顔。

だけどどこか、壊れてしまいそうに儚い。

「カスケード、お前こいつの強さわかってねぇな」

ディアはそう言ってニヤリと笑う。

「アクトは強い。昔からいろんなもんに耐えてきたから、ちょっとやそっとのことじゃびくともしねぇんだよ。

俺なんかいなくたって、こいつは闘えるんだ」

マルスダリカの時だけではない。南方殲滅事件の時だって、ディアを励ましたのはアクトだった。

その前からずっと、アクトは強かった。

「俺はこいつの強さを知ってる。ずっと前から、な」

ディアだからこそ、言える言葉。

「…そうだな。俺がちょっと過保護すぎた。アクト、しっかりな」

「わかってる」

背の後ろで震えるアクトの手をこっそり握るのも、ディアだからできる事。

 

「ここから車で何分?」

「わかんねーよ。でもそんなに遠くない」

明日の準備をしながらの会話。

結局二人で背負うことになってしまう。

「…ごめんね、ブラック」

「何がだよ」

「本当は君を巻き込みたくなかったから」

できるなら、あれ以上辛い思いはさせたくなかった。

ラインザーにとどめをさしたのはブラックだが、その時彼を初めて「親父」と呼んだのだ。

本当はもっと話したかったのではないだろうか。きちんと決着をつけたかったのではないだろうか。

「お前はマジで馬鹿だな」

「え?」

「場所はオレの家なんだから、お前を勝手に入れるわけにはいかねーんだよ。

その時点で巻き込まれてんだから、お前が気にする必要ねーよ」

けれどもブラックは、アルベルトが考えていたことは抜きにして受け止めているようだ。

平気ではないだろう。しかし、なんでもないように振舞う。

「優しいね、ブラック」

「何がだよ。…意味解んねー」

アルベルトは何度もブラックに救われた。

本人にそのつもりがあるのかどうかは解らないが、ブラックのおかげで助かったことはたくさんある。

今もそうだ。

ブラックは弟である以前に、「理解者」だ。

「ブラック、君は…」

「あ?」

「…ううん、なんでもない」

「何なんだよ」

大切な人だから、傷付かないで欲しい。辛い思いはさせたくない。

生きて欲しい。何があっても。

 

電話の切れる音が聞こえた。

寝室に入ってくる足音と、しっとりと濡れた白。

「髪乾かして来い」

「ここで乾かそうと思って」

アクトの手には確かにドライヤーが握られている。

普段は布団に髪の毛が落ちるからと寝室で髪を乾かすようなことはしない。

「乾かしてやるか?」

「ディアは乱暴だからやだ」

「せっかくやってやるって言ってんのに」

「やだったらやだ」

そう言いながら髪を乾かすアクトは、やはり綺麗だ。

ディアはそっと近付き、後ろから抱きしめる。

「…邪魔」

「良いだろ、少しくらい」

「良くない」

そう言いながらも抵抗が無い。

乾かない髪にそっと口付け、強く抱きしめる。

「さっきの電話、マーシャか?」

「うん。…面会、行かなくても良いって言ってたけど…やっぱり行く」

「言わねぇでもわかってる」

明日から暫く触れ合えない分、少しでも距離を縮めておきたい。

体温を残しておきたい。

「こっち向け」

「こんなにきつく抱きしめられたら方向転換なんてできないだろ」

アクトは緩められた腕の中でディアの方に向き直り、

二人は静かに唇を重ねる。

何度もしてきた行為なのに、愛しくてたまらない。

このまま離れたくない。

「怖いか?」

「…だから手握っててもらったんだろ」

離れると不安でたまらない。前にディアがノーザリアに呼び戻された時も、寂しくて仕方なかった。

会いたくて、どうしようもなかった。

これから感じる痛みは、あの時以上かもしれない。

けれど傍にはいない。

だから今のうちに感じておく。

「…好きだ」

「何を今更」

「アクトは?」

「…帰ってくる時までとっとく」

自分達は傷付くだろう。傷はすぐには癒されないだろう。

けれど、いつかは依存を断ち切らなければならないのだ。

傷を一人で抱えなければいけないときは、いつかは必ず来るのだから。

ずっと一緒になんていられない。別れは誰にでも訪れる。

これはその時のための、第一歩なのだ。

 

「アル、黒すけ」

出掛けに呼び止める声は、心がほんの少し落ち着いた。

「大佐」

「黒すけって言うなって何度言わせるんだテメェは」

アルベルトとブラックは車に荷物を積み終えたところだった。

「出るの早いな」

「母様のところに寄って、それからお墓参りに行こうと思って」

「墓参り?」

カスケードははじめ解らなかったが、ブラックがアルベルトを睨むのを見て理解した。

「…そっか。それから行くのか?」

「はい」

母親に今回の事件のことを伝えるつもりは無い。ただ、顔を見せてから行きたいだけだ。

あまり考えたくは無いが、「もしも」ということもある。

「じゃあ、そろそろ行きますね」

「あぁ、無事で帰ってこいよ」

「お前も無茶するんじゃねーぞ」

「…優しいな、黒すけ」

「うるせー!黒すけって言うな!」

いつものやり取りとエンジンの音。

それに混じる、後方からの声。

「カスケードさん、アルベルト、ブラック」

「よぉ、アクト」

「アクト君もこれから?」

「うん…ディアに途中まで送ってもらう」

「肝心の不良は?」

「今来る。…無事でな、アルベルト、ブラック」

「大丈夫です」

別離の時は刻まれる。

会話と、車の振動。

「アクト、行くぞ」

「ほら、来た。…じゃ、行ってきます」

「おう。おい、不良!怪我するなよ!」

「不良じゃねぇ!…ったく、こういうときくらい名前で呼べよ」

「こういうときだからこそ、ですよ。ディア君、気をつけて」

「アルベルトもな。ブラックにも言っとけ」

「聞こえてるっつーの、馬鹿野郎」

「うるせぇんだよガキが!」

いつもと変わらないやり取りは、車のドアが閉まる音に終わる。

再び言葉を交わす時を向こうに見て、タイヤは地面を踏みしめる。

それぞれの道へと走り始める。

 

「無事で帰って来いよ」

 

全ての終わりが始まる。

ここにも始まりはやってくる。

 

 

To be continued…