簡単な挨拶を交わして別れ、そこから歩いて向かう。
地図の通りに行けば、大きなコンクリートの塀が見えるはずだ。
端が見えない、重い壁が。
「あれか…」
灰色が視界に広がる。近くに民家は無い。
あるのは工場と交番。
交番には数名の軍人。
――とうとう来てしまった。
灰色が導くのは、不安と痛み。
一昨日アクトのもとに届いた二通の手紙のうち、一通はこの中央刑務所からのものだった。
用件は「面会」。
ここにはアクトの叔父と叔母がいる。
アクトの身体と心に大きな傷を与えた者達が。
「すみません、面会なのですが…」
「身分証明書はありますか?」
「こちらからいただいた文書と…これが証明書です」
会いたい訳ではなかった。ただ、話をしたかった。
はっきりと言わなければならないことがあった。
だからここに来たのだ。
「…はい、確かに。では少々お待ちください」
受付を終えると、狭い個室に通された。
白い壁に囲まれた部屋に、小さなテーブルとソファが一セット。
扉が閉められて独りになると、壁がこちらに迫ってくるような感覚に襲われる。
いつだっただろう、狭い場所が苦手な自分に気付いたのは。
狭くて暗くて寒い地下室で過ごした記憶に縛られていることに気付いたのは。
あまり良く覚えていない。
コツコツ、とノックの音が響いた。
「入ってよろしいかな?」
ドアの向こうの声に、小さな声で短く返事をする。
音を立ててドアを開いたのは、三十代ほどと思われる男性だった。
背丈は「薬屋」と呼ばれる知り合いと同じくらいで、痩せ型。
彼は優しく笑い、右手を差し出した。
「はじめまして、アクト・ロストート君。私はここの職員でモンテスキューという者だ」
「はじめまして」
アクトも右手を伸ばし、彼の手を握る。
「君は軍人だそうだね。私の姪も軍人なんだが…今はそんな話をしている場合じゃないな。
こちらから出した文書、読んでくれたようだね」
「はい、急で驚きました」
「そうだろうな。…それで、君の叔父さんと叔母さんなんだが…」
モンテスキュー氏が話したのは、この十年の間の彼等の様子だった。
何度も捕まり、今は更生プログラムの下で社会復帰を目指している事。
たまに訪れる娘との会話もだんだん落ち着いてきた事。
「娘さんは君が面会するのに反対していたよ」
「…知っています」
彼等の娘はアクトにとって従姉にあたる。彼女の名はマーシャといい、幼い頃から何度も助けられた。
アクトを軍に逃がしたのも彼女だ。だから面会に反対するのは当然のことだった。
昨日の電話でもそう言われた。
「…でも、反対されても話はしたかったんです」
「そうか。…それじゃ、行こうか?」
「…はい」
狭い部屋から抜け出しても、重苦しい空気は変わらない。
移動中にモンテスキュー氏が何か話していたが、ほとんど聞いていなかった。
本当に行く気なの?どうせまた辛い想いをするに決まってるわ!
それでも行きたいの?
それなら、もう止めない。
でも、これだけは覚えておいて。
私はアンタが傷付くのは絶対に嫌だからね。
――ごめん、マーシャ。だけど、どうしても話したいんだ。
――はっきりさせなきゃいけないことがあるんだ。
いつのまにか辿り着いていた部屋は長机一つと椅子六つのセットを中央に置いていた。
こちら側の二つに、アクトとモンテスキュー氏が座った。
「もうすぐ見えるよ」
「はい」
手が震える。けれども、握ってくれる者はいない。
今頃はもう飛行機だろうか。
自分の手で震えを抑えながら、ドアの開く音を聴いた。
四人入ってきて、向かいの四脚に座る。
両端には職員が座り、
中央には痩せた男女が座っていた。
「…お久しぶりです」
震える声でそう言うと、相手の女性は返してくる。
こちらを見て、怯えた形相で。
「何しに来たんだい?!…この亡霊!」
彼女の隣に座っていた職員が取り押さえようとするが、モンテスキュー氏は首を横に振った。
女性は叫び続けた。
「兄さんを奪って、今度はどうしようっていうの?!
あなたの所為で私がどれほど辛い思いをしたか…!
挙句の果てにあんな子まで作って、亡霊が今度は何をする気なの?!」
彼女は錯乱している。無理も無いが。
アクトが言葉を返す間もなく、男性の方も口を開いた。
「テレーゼ…来てくれたんだね…。あの男よりも僕の方が良いだろう?
漸くわかってくれたんだね、テレーゼ…」
彼も錯乱していた。アクトの方に手を伸ばそうとして、職員に阻まれた。
二人とも同じ間違いを犯し、違う想いを抱いている。
薬物のためか、ここでの生活が辛いのか。
どちらにせよ、言わなければならないことは変わらない。
「叔父さん、叔母さん、おれは違います」
震える声と、震える手。
しかし、これを言わなければここに来た意味はないのだ。
「おれはテレーゼじゃなくてアクトです。母さんじゃなくて、息子なんです」
幼い頃虐げられた原因はこれだ。
実母であるテレーゼにアクトの容姿がそっくりなために、叔母は辛くあたり、叔父は犯した。
しかしその時は二人ともわかっていた。
アクトはアクトであって、テレーゼではない。
今のように錯乱したりということは無かった。
ただ、取り憑かれてはいたのかもしれない。
「解りますか?…おれのこと」
「…アクト…あの売女の息子かい…」
叔母は思い出したようだった。しかし叔父の錯乱状態は続いていて、結局どこかへ連れて行かれてしまった。
部屋には四人だけが残り、冷たい空気が充満している。
「上着、着ても良いですか?」
「良いよ」
モンテスキュー氏に断りを入れ、暖を取る。
それでもまだ寒いのは何故だろう。
「売女の息子が何の用?人の夫まで寝取っておいて、まだ何か奪う気かい?」
叔母は項垂れたまま口を動かす。言葉の一つ一つが鋭い棘を帯びている。
「奪いに来たんじゃなく、ただ話がしたかっただけです」
「お前に話すことなんか無いよ、淫売!どうせ今も身体売ってるんだろ?!
お前にはそれくらいしかできないだろ!」
身を乗り出して罵声を浴びせる叔母を職員が押さえようとする。
叔母も連れて行かれそうになり、アクトはとっさに立ち上がった。
「待ってください!今日じゃないとだめなんです!今日話さないと…」
「今の状態では無理だろう。君も辛いはずだ」
「でも…っ!」
「君の叔母さんの精神にも負担がかかるんだ。落ち着きなさい」
モンテスキュー氏は冷静に言った。
こういうことには慣れているのだろうか。
何も返せないまま、叔母の後姿を見送った。
「今日でなければならないのは、何故だい?」
一番初めに通された部屋で、モンテスキュー氏は尋ねた。
紅茶のカップがテーブルの面とぶつかる。
「…父の友人に会いに行くんです」
「お父さんの?…お父さんは君の叔母さんのお兄さんだね?」
「はい。両親のことを知るために会うんです。
その前にちゃんと話しておかなきゃと思って…」
予想はしていたが、昔と同じ言葉を聞くとやはり辛い。
身体を売っていると言われても否定できなかった。
「でも、あの人にとって…おれはずっと盗人のままなんですね」
多くを奪って生きてきた。
叔父と叔母からは特に多くを奪った。
あんな言葉を浴びせられても仕方がない。
「…アクト君、君は中央司令部の軍人だよね」
「そうですけど…」
「売春してる訳じゃないだろう?」
「…今は」
「だったらそれで良いじゃないか。今は昔と違うんだ。
変われたんだろう、君は」
モンテスキュー氏は柔らかな笑みを見せ、語り始めた。
「姪が良く話してくれるんだがね、中央司令部は”変われる場所”だそうだ。
周囲のおかげで自分が変わろうと思える場所だと言っていた。
君も軍人になって、何かに触れて、変わったはずだ」
彼の姪も変われたのだそうだ。あの場所で、大切なものに出会ったから。
「知ってるかな?姪が一番好きな言葉で、上司に聞いたそうだが…
大切なものは何が何でも守りぬけ、って」
「あとで後悔しても遅いんだ、ですか?」
「そう、それだよ。やはり中央司令部では有名な言葉なのかな?
それはともかく、私は”大切なもの”で人は変われるのだと思う。…君にも大切な人がいるかい?」
何度も聞いたその言葉で何度も思うのは、相方の事。
今感じているような不安も、全て忘れさせてくれる人。
自分を救い、変えてくれた人。
「…そうですね。大切な人のおかげで変われました」
「だろう?だから君は胸を張って言って良いんだ。“違う”ってね」
モンテスキュー氏の差し出す紅茶のカップを両手で包むと、温かさがじんわりと体中に染みていった。
もしも両親が生きていたら、父親はこんな風に自分を諭してくれただろうか。
何かあったときは、優しく語り掛けてくれただろうか。
写真を見る限り、あまり頑固そうではなかった。
雰囲気がどことなく上司に似ていたような気もする。
モンテスキュー氏と話した後は、上司と彼を足して二で割ったような感じかもしれないと思った。
「今日はもう面会は無理ですよね」
「君の叔母さんも叔父さんも落ち着きそうにないな。すまなかったね、話があまりできなくて…」
「良いんです。…おれと会うのは彼等も辛いでしょうし…」
結局彼等が見ていたのは母親だった。アクトを見ているわけではない。
「もう会わないつもりです。…おれが彼らにとって悪いものなら」
「もし彼等が会いたいと言ったら?」
「その時は会います。自分から会おうとはしません」
「そうか」
終わることはないのだろう。心の傷は簡単には癒えない。
モンテスキュー氏と挨拶を交わし、アクトは部屋を出た。
駅はいつもと変わらず混雑している。
以前乗る時も一人だった。
ただ一つ違うのは、以前ほど独りが辛くはない事。
西へ向かう列車は走り出す。
余り込んでいない車内で席につくと、いつだかのことを思い出した。
あの時、列車は南へ向かっていた。
――そっか、またディアはノーザリアなんだ。
あの時と似ている。ただしシチューションだけ。
「ねぇ、どこまで行くの?」
声をかけられるところまで、本当によく似ている。
無視しようかとも思った。けれども、この声は。
――何だろう、どこかで…
横目で相手を見る。なるべく気付かれないように。
そこには金髪を後ろに流した、いかにもガラの悪そうな男がいた。
どこかで、見たような。
「オレのこと忘れた?」
男は手を伸ばし、アクトに触れようとする。それを軽く叩き、アクトは相手を睨みつけた。
「…思い出した、自称サディスト」
「正解」
いやらしく笑う、不法地帯マルスダリカの町長御子息。
アクトはこの男と結婚しそうになったことがあった。
「アンタ男だったんだって?聞いたとき信じられなかったぜ。
もったいねーな、こんな美人…」
「黙れ。ヤージェイルだっけ?うるさいからあっち行ってて欲しいんだけど」
「こえーな、アンタ。そういや旦那どうしたの?」
「あっち行け。うるさい」
偶然とはわからないものだ。忘れていた相手と巡り会う。
全然会いたくなんかなくても。
「アンタの名前は?性別しか聞いてないからさぁ」
無視すればそのうちどこかへ消えるだろう。
窓の外を見ているふりをしてやり過ごす。
「へぇ、アクトっていうのか」
「?!」
思わず振り返ってしまう。
何かわかるようなものでも盗られたか。
それともカバンに名前でも書いてしまっただろうか。
しかしヤージェイルは考えの全てを裏切っていた。
「やっと反応したな。…本当は知ってたんだよ」
マルスダリカの事件の後、ヤージェイルは「闘う花嫁」に興味を持ったそうだ。
そして自分なりに調べてみた結果、花嫁が軍人だということを知った。
「簡単だったぜ、あの傷の男のおかげで…軍では有名らしいな、傷の喧嘩屋ディア・ヴィオラセント。
そこから辿ってけばアンタの身元もすぐわかったぜ、アクト・ロストート中佐」
やはりディアは外での仕事には向いていないようだ。あの傷は目立ちすぎる。
それでも外にまわされるのは実力ゆえ。
アクトは呆れてため息をついた。
「判ったのは名前と階級だけ?」
「いや、誕生日と血液型も。身長体重もバッチリ。スリーサイズが惜しかった」
「あぁそう」
なんて奴に目をつけられてしまったんだ。
思っていたよりもできるようだ。
「ただのバカかと思ってた」
「オレは執念深くてね。あんなに重い一発喰らわされてそのまんまなんて我慢できねーんだよ」
傷の男に腹部を殴られて気を失い、気がついたら花嫁は消えていた。
納得のいかない展開がヤージェイルを動かし、現在に至る。
「そのうち会いに行こうと思ってたけど…偶然にカンシャだな」
「おれは会いたくなかった。お前最悪だし」
「ひでー女…じゃなくて男か」
列車の速度が落ちてくる。そろそろ次の駅だ。
ヤージェイルは降りる気配を全く見せず、喋り続けている。
いつまで続くのだろうか、このマシンガントークは。
もはや騒音公害にしかならない。
「西に住んでるダチに会いに行くんだけどよ、アンタは?」
そしてこれは終点まで続くらしかった。
車内にアナウンスが響いた。
それを合図に人々は荷物を手にし、出口の方へと詰めていく。
列車の速度がゼロになると、車内の熱気は段々と冷めていく。
空気が通り、人口密度は小さくなり、流されながら外の空気にさらされる。
薄く雪の積もった町の景色と、中央よりも寒冷な気候。
「寒…」
「温めてやろうか?ベッドで」
「着いたんだからさっさと消えろ」
アクトはヤージェイルから早足で離れ、駅を出た。
彼のおかげで退屈はしなかったが、騒音が耳に残っている。
不安を少しでも忘れさせてくれたことについては、一言くらい礼を言うべきだっただろうか。
「…まぁ、いいか」
「何が?」
「?!」
進もうとしてぶつかる壁は、騒音公害変態男。
「邪魔。退け」
「何だよ、つれねーなぁ…」
しかも今度はストーカーときた。どこまでついてくるつもりなのか。
「しつこい!友達の所に行くんじゃないのか?」
「野郎と会ってもつまんねーじゃん。…あ、アンタ男か」
「……」
何を言っても通じない。こちらが遊ばれるだけ。
こうなったら完全無視だ。
地図と道順に神経を集中させ、歩みを止めずに目的地を探す。
その間足音と騒音はついてくる。
角を曲がれば角を曲がり、真っ直ぐ行けば真っ直ぐ進む。
目的を見つけても、ヤージェイルはなおそこにいた。
「…何のつもりだ」
「何のつもりでもねーけど?」
アクトが睨むと、ヤージェイルは悪びれもせず、むしろ当然だというような顔で言った。
「だってダチの家、ここだし」
目的の家の向かいの家を指差して。
邪魔者がいなくなると、妙に心細くなった。
呼び鈴を鳴らそうと思うが、腕は体側と宙を行ったり来たりする。
相手――オレガノ・カッサスは自分の事を覚えていた。
しかし、アクトは何も覚えていないのだ。
思い出せる両親関係のことといったら、目の前で腹を割って床を赤く染めるあの光景くらいだ。
その時母が言った言葉も覚えてはいるが、あまり思い出したくない。
子供一人残して「生きて幸せに」だなんて、身勝手すぎないか。
ずっとそう思ってきた。
その身勝手さのおかげで大切な人たちにも出会えたが、やはり納得がいかない。
何故両親は死ななければならなかったのだろう。
表向きは事業に失敗したことになっているが、この国でそんなことは珍しすぎる。
本当は、何なのだろう。
何度目かの腕が体側についた瞬間、からん、という音がした。
空気が正面の空間を通り抜ける。
はっとして顔を上げると、そこには住人と思われる男性が立っていた。
亜麻色の髪を短く刈り、口の周りには無精髭。
彼はアクトを見、優しい目をした。
「アクト君、だね?…テレーゼにそっくりだ」
「オレガノさん…?」
ずっと昔に見たような気がする。確かに会っているのだろうが、わからない。
オレガノは少し困ったように笑い、そうだよなぁ、と言った。
「君はまだ小さかったから、覚えていないだろうね。でも僕は確かに覚えているよ」
家の中に通され、ソファに座るよう勧められる。その言葉に甘えて、居間を見回した。
特に変わった所はない、普通の家。
「アクト君、軍人になったんだってね」
オレガノが紅茶を運んできて、テーブルに置いた。
アクトは言葉に頷きながら、勧められた紅茶のカップを引き寄せる。
「まだ未熟ですけど…何とか上手くやってます」
「そう…」
優しい表情を崩さずに、オレガノは言葉を続ける。
「でも、テレーゼとリヒテルは自分の子供を軍人にするのだけは嫌だと言っていたな」
「…そうですか」
テレーゼは母、リヒテルは父の名だ。
「軍に入れと言ったのはマリアかい?」
そしてマリアは、叔母の名。
「いいえ、マーシャが…従姉が勧めたんです」
「あぁ、マリアの娘だね。あの子もこんなに小さかったが…」
手紙によると、オレガノは父リヒテルの古くからの友人らしい。
両親の事を、最も知っている人。
「…オレガノさん、手紙に”話したいこと”とありましたが…」
「そうそう、そうだった。君は今いくつだっけ?」
「今は二十歳です」
「そう、二十歳だね。…テレーゼが君を産んだ歳だよ」
オレガノは一冊の本を取り出す。表紙はくすんではいるが、元は黄色だったようだ。
そっと開くと、写真が並んでいる。
「アルバム、ですか?」
「そう。…そして、この赤ん坊が君だ」
まだ薄い髪は確かに金髪だ。けれども、これが自分だと言われてもすぐには信じられない。
「この写真で君を抱いているのがリヒテル。…隣が僕だ」
赤ん坊を抱く男性はとても幸せそうな笑顔で立っている。
その隣で微笑んでいるのは、今よりもずっと若いオレガノ。
「そしてこっちがテレーゼだ」
示された写真には、アクトに良く似た女性。
美しい金髪は肩ほどで、軽く外にはねている。
幸せそうに赤ん坊を抱くその姿は、本当に綺麗だ。
「これがおれの家族なんですね」
「そうだよ。君はこの二人の間に生まれ、愛情の中で育った。…ご覧、歩けるようになった君と手を繋ぐ彼等を」
幸せな家族だ。これが自分の家だなんて、信じられないほどに。
この頃の自分には、まだ傷は一つもないのだ。
それを思うと、少し辛い。
「君は三歳までこの土地で育った。そしてその後はマリアに引き取られた。
マリアの家で何があったのかは知らないが、マリアとその夫は捕まってしまったね」
「…おれの所為です」
「君の?…何があったんだ?」
アクトは今までの出来事を簡単に話した。
なんでもないように見せるために、短い言葉で語る。
今声が震えても、手を握ってくれる人はいないから。
全て話し終えたとき、オレガノは溜息をついた。
信じられない、というよりは、やはり、といったような。
「マリアは耐えられなかったか…」
「え?」
「君がテレーゼにあまりにも似すぎているから、マリアは自分の感情を抑えられなかったんだ。
マリアの夫もそうだ。彼もテレーゼを愛してしまった一人だからね」
「………」
錯乱していた叔父と叔母を思い出す。
自分を母と思い込んでいた彼等は、正常な目をしていなかった。
「君を呼んだのは、テレーゼとリヒテルのことを話すためだ」
オレガノは傍らからもう一冊のアルバムを取り出し、開く。
先ほどのものよりもさらに古い。
「これは僕とリヒテルの学生時代のものだ。…僕らはレジーナ郊外の学生寮から、学校に通っていたんだ」
セピア色に笑う二人の少年。十七歳くらいだろうか。
今は四十をこえた本人が語る、アクトの知らない昔話。
リヒテルとオレガノは十五のときに学校で知り合った。
彼等はすぐに意気投合し、勉強やスポーツでは良いライバル同士だった。
そんな彼等が一緒に舞台を見に行くのも、そう珍しいことではなかった。
「リヒテル、会場はどこだっけ?」
「僕に訊かないでくれ。大体元はといえばオレガノが…」
道に迷うのは珍しかったが。
見に行った舞台は俗に言うお嬢様学校が主催するミュージカルだった。
何のために見に行ったかというと、ミュージカルが特に好きだったというわけではない。
ただ、女学校の子と知り合いになりたかっただけだ。
十七歳の彼等が異性と仲良くなりたいと思うのは普通の事だ。ただ、そのためにここまでする必要があるのかどうかはわからないが。
「リヒテル、こっちに控え室があった。会場を訊くか?」
「…とか言って女の子と話したいだけだろう」
「お前もだろ?」
「…それはそうだ」
二人がドアをノックしようと腕を上げたその時、
「何してらっしゃるの?」
凛とした美しい声が背後から聞こえた。
「い、いえ、あの、ちょっと道に迷って…」
「決して怪しいものでは…」
慌てて言い訳しようと二人が振り向くと、声の主と目が合った。
紫の瞳は透き通るように美しく、白い肌と美しい金髪が儚げな少女。
年頃は自分達と同じくらいだろうか。
二人の感想は同じく、「すごい美人」。
「道に迷ったんですか?」
少女が確認すると、二人は頷いた。
彼女は少し考え、にっこりと笑って言った。
「じゃあ私が案内します。ミュージカル、見てくれるんでしょう?」
道に迷ってよかったと、心から思った。
彼女の正体はすぐにわかった。パンフレットに写真が大きく出ていて、舞台の上ではヒロインを演じていた。
美しい歌声は観客を魅了し、微笑みは全ての目を惹きつける。
「テレーゼ・ヒルツ…歳は僕達と同じだ」
「あとで声をかけてみようか?さっきの礼を口実に」
「オレガノ、お前って奴は…」
リヒテルは呆れつつも、オレガノの提案に賛成だった。
もう一度、あの紫の瞳を近くで見たかった。
ミュージカルが終わって人々が会場から出て行くと、二人はこっそり楽屋へとまわった。
「いるか?」
「…いた」
ドアの隙間から覗くと、美しい金髪が見えた。
ヒロインの衣装を着ているので、まず間違いないだろう。
「リヒテル、お前がノックするんだ」
「何でだ」
「僕はシャイだからね」
「嘘吐け」
そうは言いながらも、リヒテルは楽屋のドアを軽くノックする。
ドアの向こうから足音が聞こえ、ドアノブがかちゃりと回った。
「どちら様…あら、さっきの」
「急にすみません。どうしてもお礼がしたくて…」
リヒテルが言うと、テレーゼはくすっと笑った。
「お礼なんてよろしいのに。私はミュージカルを見て欲しかっただけですから」
「いや、僕達は恩は返さないと気が済まないんですよ。なぁ、オレガノ」
「そうそう。だからお礼させてくれない?」
馴れ馴れしいオレガノをリヒテルが小突く。
それを見て、テレーゼがまた笑う。
「面白い方ね、二人共。…それじゃ、お友達になっていただけます?」
「友達?」
「ええ。私、異性の友達っていたことないの。だから、恩返ししてくれるなら…ね?」
声をかけることが目的だったが、まさか友達にまでなれるなんて。
リヒテルとオレガノは顔を見合わせ、笑いあった。
「光栄です」
この日から、三人が始まった。
「君のお母さんは綺麗で、歌も上手だった。よく君に子守唄を歌っていたんだよ」
オレガノの言葉に、アクトはふと気がついた。
そういえば、いつも自然に浮かんでくるメロディーがあった。
歌を歌うのは嫌いじゃない。でも、歌うことなんか滅多に無かった。
相方の前でさえも歌うことは少なかった。
その少ない中で歌っていた、元がわからないメロディー。
――もしかして、これが…?
子守唄なら、きっと間違いないだろう。
「覚えているかい?」
「…はい」
昔の記憶などとうに無くなっていると思っていた。
けれど、歌は鮮明に残っている。
歌っていた者の声は覚えていないが。
「…続きを話そうか」
オレガノは再び語りだした。
リヒテルとオレガノ、そしてテレーゼの三人で会うことは多くなっていった。
友人関係が一年続き、彼等はそれぞれの道を歩む時期を迎えた。
「僕は企業に就職が決まった。…オレガノは?」
「今日はそれを伝えるために、久しぶりに集まったんだろう?」
カバンをあさりだしたオレガノを、リヒテルとテレーゼは不思議そうに見る。
最近オレガノは忙しそうにしていたが、それと関係あるのだろうか。
「…見て驚くなよ」
そういって差し出した封筒は、エルニーニャ西部にある大学の入学許可証だった。
「すごいわ、オレガノ!受かったのね!」
「僕らと会っていながら、よく勉強できたな」
「試験が簡単だったんだ。よくリヒテルと競い合っていたおかげで、僕にもそれなりの力がついていたってわけさ」
学校よりも軍に入る率が高いこの国だが、教育施設も十分すぎるくらい整っている。
大学の試験などは難しく、入れるものは稀だった。
「リヒテルも受験すればよかったのに。お前なら余裕で入れたと思うぜ」
「いや、僕はもう学校はこりごりだ。…ところで、テレーゼはどうするんだ?」
リヒテルがテレーゼに話を振ったとき、彼女は一瞬笑うのをやめた。
慌てて作った笑顔も、どことなく寂しそうだ。
「…どうかしたのか?」
「うん…二人だから話すけど、私、これからは家にいなくちゃいけないの」
「どういうことだい?」
テレーゼが語ったのは、厳格な家のことだった。
自分が一人娘であるため、父が後継ぎを探している事。
女学校を卒業したら、家を継げるような人と見合いを重ねなければならない事。
そのため自由が制限される事。
「こうやって会うこともできなくなるわ。男性と会っていたら、父はきっと怒るでしょうから。
でも、そうなる前にリヒテルとオレガノに会えてよかった。この一年、本当に楽しかったもの」
ありがとう、とテレーゼは言う。
さよならと同じ意味を含む、その言葉。
「…どうしても、か?」
「どうしても、なの。ヒルツの家が長く栄えるには、私がこうするしか…」
「そんなのおかしいだろう!リヒテル、僕らでテレーゼのお父さんを説得して」
「いいの!いいのよ、オレガノ…ありがとう。リヒテルも…」
哀しそうな笑顔。リヒテルもオレガノも、テレーゼの明るい笑顔が見たいのに。
これからも、ずっと。
「…僕は待つよ」
リヒテルがゆっくり口を開く。
「僕はテレーゼに会えるまで、ずっと待ってる。…だから、忘れないでくれ」
「リヒテル…」
テレーゼは呟き、
「…約束よ」
いつもの微笑を見せた。
「それから僕は進学のためにここへ移り、リヒテルはレジーナで働き、テレーゼは言ったとおりだ。
僕はその後二人がどうしていたかは詳しく知らなかったが、あとで再会した時にたっぷりと聞かされたよ」
そこにあったのは純粋な友情だった。
両親は自分とは全く違う――それこそかすりもしないような人生を歩んでいた。
二人が生きていたら、自分はどういう人間に育っていたのだろう。
アクトが今のアクトではなかったであろうことは確かだ。
「どうして父さんと母さんは結婚することに?」
ここまでの話では、ただの友人同士でも全くおかしくない。
それなのに何故自分は生まれたのか。
しかしオレガノはその質問に眉を寄せた。
「…そうか、君は何も知らなかったんだね。無理も無いな、小さかったし」
「どういうことですか?」
「テレーゼとリヒテルは結婚してはいないんだよ。戸籍上はね」
テレーゼは親の言うとおりに見合いを繰り返したが、どれもまとまらなかった。
当然だろう。彼女は全て断っていたのだ。
相手がどんなに言い寄っても、テレーゼは首を縦に振らなかった。
家のためだとわかっていても、どうしても受け入れられなかったのだ。
「寂しいわ…」
一人呟く言葉は、いつも同じ。
「リヒテルやオレガノと話しているときが一番楽しかったな…。
お見合い相手の人は誰も私の内面を見てはくれないもの」
自分を思って話してくれたのは、あの二人だけだった。
話せないと、途方もなく寂しい。
「お嬢様、お手紙ですよ。学生時代のご学友の方から」
ドアの向こうから聞こえる声に、テレーゼは立ち上がる。
手紙をくれるような学友などいただろうか。
「ありがとう、アレグラ。…どなたから?」
「リル・ロート様とおっしゃる方です」
聞き覚えがない。しかし、一応受け取らなければ。
そう思い手紙を手にとると、封筒はすでに開けられていた。
「…旦那様が、先にお読みに…」
「わかってるわ。ありがとう」
こんなことはよくあることだ。メイドのすまなそうな顔もよく見る。
自分は束縛されている。この家の一人娘である限り、そこからは逃れられないのだ。
ドアを閉め切り、開いた封筒から丁寧に便箋を取り出す。
「誰かしら、リルって…」
学生時代、そんな名前の知り合いはいなかった。
しかし文面を見て、差出人の正体はすぐにわかった。
「…これって…」
テレーゼに笑顔が戻る。久しぶりに笑った。
手紙は特に変わったところがないものだ。
「お元気ですか」から始まり、「ごきげんよう」で終わる。
しかし、テレーゼにはわかった。文章の下に、罫線と見紛うような点線が引かれている。
それは信号だった。かつての友人達と遊びで使ったことがある。
――でもどっちがくれたのかしら…
信号を解読しただけではわからない。共通する事柄が多すぎる。
見分けられるような事柄は書かれてない。
「差出人…リル…ロート…?…あぁ!」
封筒を見ていて、漸くわかった。
リヒテル・ロストートから最初と最後をとって、リル・ロート。
しかし彼は待っていると言ったはずだ。
「どうして手紙なんて…」
不思議に思ったが、それよりも喜びのほうが大きかった。
久々に友人が語りかけてくれたのだから。
テレーゼは同じようにして返事を書き、それをこっそり出した。
するとまた返事がきて、それが繰り返される。
『待っていると言ったのに、このような真似をしてすまない。
でも、どうしても君と話がしたかった』
『私もよ。あなたが元気そうでよかったわ。
オレガノはどうしているのかしら?』
『奴は今生物学を学んでいるよ。きっと良い学者になる』
文通は続き、その度に想いは募った。
もう一度会いたい。会って話がしたい。
この状況では許されないが、もしも抜け出せるのなら。
自由になれたなら。
「何をお考えですか?」
テレーゼは声をかけられて我に返った。
――そうだった、お見合い中だったんだわ。
目の前には茶髪の男性がいて、髪よりも少し濃い瞳でこちらを見ていた。
「すみません、ボーっとしていて…」
「ボーっとしていた?私にはあなたが何か重大なことを考えているように見えましたが…」
今日の相手は妙に鋭い。いつもの見合い相手と同じように財閥の御曹司だったはずだ。
「何かおありですか?今は私たち以外誰もいませんから、話しても大丈夫ですよ」
どこか安心させるような雰囲気をもっている。この人なら話しても大丈夫だと思わせる。
「…あの、先に謝っておきます。私、あなたと交際することはできないんです」
「えぇ、わかってましたよ」
テレーゼの言葉に、彼は優しく答えた。
「あなたは想っている人がいるんだ。だけど、会えないんでしょう?」
「…はい」
「だったら手伝いますよ。あなたはこんな所で私と話している場合ではない」
彼の言葉に、テレーゼは頷いた。
そして、ずっと思ってきたことへの覚悟を固めた。
――自由になろう。私はヒルツの家の人形じゃない!
その場に備え付けてあった電話でリヒテルに連絡しようとして、見合い相手の男性に止められた。
「私がかけます」
「…お願いします」
テレーゼの安全まではかってくれ、リヒテルとも話してくれた。
その場から連れ出してくれ、会わせてくれた。
彼女にとって、最も大切な人に。
「リヒテル!」
「テレーゼ!…本当に君なんだね?」
久しぶりに見たリヒテルは、以前よりも落ち着いた様子だった。
社会に出て大人っぽくなったみたいだとテレーゼは思う。
「…ありがとうございます」
ここまで協力してくれた見合い相手に深々と頭を下げると、彼は微笑んで言った。
「幸せになるのが一番ですよ。…あとは私が何とかしますから、安心してください」
彼が去った後、リヒテルはテレーゼをそっと抱きしめた。
久しく感じなかった、人の温もり。
「急に連絡があったから、急いで駆けつけたんだ。まさか本当に君だなんて…」
「疑ったの?」
「…ごめん」
親友の域を越える。ずっと想っていた。
漸く、直接伝えられる。
「テレーゼ、僕は君を愛してる」
「リヒテル…ありがとう」
テレーゼは家に戻らなかった。
リヒテルはそれからすぐに勤めていた会社に異動願いを出し、レジーナを発った。
妹夫婦が暮らす北の地へ、テレーゼとともに向かった。
兄の連れてきた女性に、マリアは眉を寄せた。
兄にこんな女性がいるなんて知らなかったし、第一兄は自分のものだと思っていた。
レジーナを発ってここに来た時、どれほど辛かったか。
それなのに兄はそれをまるでわかっていない。
「兄さん、あの人と結婚するつもり?」
「…無理だと思う。彼女の家族に許しを得てないからね」
リヒテルの答えに、マリアは唇を噛んだ。
「愛してるの?あの人」
訊きたくないことを訊いてしまった。返ってくる言葉はわかっている。
「あぁ、愛しているよ」
いやな答えだ。大好きな兄を、とられてしまった。
自分は結婚して、子供ももうすぐ三歳になる。夫とだって上手くいっていないわけではない。
けれども、結婚した後も夫に兄を見ていた。
テレーゼが現れたことにより、自分と兄が引き裂かれるような気がした。
「少しの間置いてくれないか?迷惑だとはわかっている。でも、行く場所がないんだ」
じゃあこの女をどこかへやってよ、とは言えず、マリアはただ首を縦に振るしかなかった。
リヒテルは稼いだ金をマリアたちにも分けていたので、出て行けとは言えない。
それよりも兄がそばにいることはマリアにとって幸せなことだった。
――あの女さえいなければ、ね。
娘のマーシャがテレーゼに近付こうとすれば阻止し、何とか関わらないようにしようとしていた。
そうしているうちに、兄から話を切り出された。
「会社の合併の関係で、西へ行くことになったよ」
「西?!」
「あぁ。今までありがとう、マリア」
突然の別れだった。
「…そう。西に行ったら、どうするの?」
「マリアも知ってるだろう?オレガノ・カッサスがいるから大丈夫だよ」
行かないで。そう言おうとしても、口が開かない。
「あの人も行くのね?」
「当然だろう。やっとテレーゼと二人で住めるよ」
マリアの目には、テレーゼは兄を奪った泥棒としてしか映らない。
そしてマリアの夫には、妻よりも愛しいものとして映っていた。
マリアはそれをまだ知らなかった。
「オレガノ、久しぶり」
「リヒテル!…それに、テレーゼ…?」
オレガノは来るはずのない来訪者に驚愕した。
「久しぶりね、オレガノ。…痩せたわね、あなた」
「僕が痩せたとかそういう事はどうでも良い!一体どうして?」
「リヒテルと一緒に逃げたの。…リヒテル以外の人と、結婚したくなくて」
オレガノは一瞬絶句した。かつての友人達は、もう友人ではなくなっていた。
取り残された気持ちになりながらも、オレガノは笑って言った。
「リヒテル、君は誘拐犯だな。どうして捜索願がでていないのか不思議だ」
「それは手伝ってくれた人がいたからなの」
他愛もない話、笑いあう三人。
しかし、あの頃とは違う。
それを深く実感したのは、それから数ヵ月後のことだった。
「オレガノ!」
勢いよくドアを開けて叫んだリヒテルに驚き、つい飲んでいた紅茶を吹き出しそうになる。
「何だ?リヒテル…そんなに慌てて」
「子供が!僕らに子供ができたみたいなんだ!」
「子供…?」
嬉しそうなリヒテルを見ながら、オレガノは複雑な思いを抱いていた。
しかし、この言葉は出てきた。
「…そうか、おめでとうリヒテル!テレーゼは今家にいるのか?」
「あぁ、ちょっと具合が悪くてね。一緒に来て励ましてくれるか?」
「良いとも。…僕らは親友だろう」
親友だが、あの頃とは違ってしまう。
オレガノにとってテレーゼとリヒテルは親友だが、テレーゼとリヒテルは互いに愛し合っている。
子供まで授かるほどに。
「きっとリヒテルとテレーゼに似て聡明な子になるな」
「オレガノもそう思う?私はともかく、リヒテルに似ればきっとそうなるわ。
聡明で活動的な子に、ね」
「テレーゼに似れば聡明で美しい子になるだろうな。僕に似てもそんなにいい事はないよ」
「何を言ってるのよ。あなたに似た方がいい子になるわ」
「そこまでにしておけよ。…全く、君たちは本当に仲が良いな」
あの頃には戻れない。三人で親友として笑いあった頃には。
複雑な気持ちだった――それは本当のことだろう。
「だから、心から祝えたってわけじゃなかったのかもしれない。
ごめんよ、君の両親のことなのに…」
「良いんです。おれもきっと同じ立場なら…」
オレガノ視点から見た自分自身の両親。
自分の知らないことを語ってくれただけで良い。
嘘を吐きながら、ごまかしながら話すよりは、本当の気持ちを語ってくれた方が良い。
「…そうだ、君が生まれたときの話だけどね、
何故テレーゼとリヒテルが君をアクトと名づけたか、わかるかい?」
「理由あるんですか?」
「意外と単純な理由だったけどね。
テレーゼが考えたんだよ、君の名前は」
アクトの母テレーゼは、夫を心から愛していた。
愛するものにちなみ、愛を注ぎたい。それが彼女の想いだった。
「聡明で活発で、行動的な子になるように。…学生時代のリヒテルのように」
雪の降る日だった。生まれた日も、その一年後も。
親友の子供の誕生日には、オレガノも招待された。
「アクト、ちょっと待っててちょうだい。今できるから」
すっかり母親らしくなったテレーゼ。
「アクト、こっちにおいで。父さんと遊ぼうか」
良い父親になったリヒテル。
オレガノの目に映る幸せな家族。
「…ん?」
袖を引っ張る一歳の子供は、母親にそっくりだ。
オレガノが頭を撫でてやると、にっこり笑った。
「アクト君、女の子と間違われないか?」
「よく間違われるよ。写真を撮りに行ったら危うくドレスを着せられる所だった」
「でも似合いそうだな、テレーゼに似ているし」
「そっくりだろう?アクト、誘拐に気をつけろよ」
「リヒテル、オレガノ、アクトに変なこと教えないでよ。アクト、こっちへいらっしゃい」
まだやっと立ち上がれるくらいで、言葉も満足に話せない。
それでも両親に可愛がられるのは、我が子だから。
この時間はいつまでも続くと思っていた。
時計が時を告げた。
外はすっかり暗くなっていて、月が高かった。
「もうこんな時間か。アクト君、夕食にしようか」
「準備手伝います」
「しかし…」
「料理得意ですから。やらせて欲しいんです」
こんな時間まで話していたなんて、信じられない。
オレガノは話すのに夢中で、アクトは真剣に聴いていた。
周りの様子にも気付かず、互いに熱心だった。
「手馴れてるね。軍では寮生活じゃないのかい?」
ジャガイモの皮がほどけていくのを、オレガノは感心して見ている。
「寮なんですけど、自分で作ってるんです。食べてくれる人もいるし」
「そうか。…友人とかかい?」
「そう…ですね。寮の部屋に大勢集まることもあります」
あまり広くはない部屋なのに、二十人近くいることもある。
それが賑やかで楽しくて、だから食事を作るのも楽しい。
それをオレガノに言うと、彼は懐かしそうに言った。
「テレーゼと同じだね。彼女も料理が好きだった。
大好きな人の喜ぶ顔が見たいんだと笑ってたよ」
ジャガイモの皮が落ちた。きれいに一本の筋になっている。
「そっか…おれ、やっぱり母さんに似たんですね」
大好きな人たちは、今何をしているだろうか。
置いてきた仕事はどうなってるだろう。きっとデスクワークの嫌いな部下が四苦八苦しながらやってくれているだろう。
上司はまた年上の部下と話でもしているかもしれない。
自分のことに決着をつけに行ったあの兄弟は無事だろうか。
それからあいつは…ちゃんと事実を確かめて、これからのことを決めただろうか。
「どうしたんだい?」
「何でもないです。ちょっと軍の事を思い出してただけで…」
「…軍に入って、良かったと思うかい?」
オレガノの問いに、一瞬答えるのを躊躇った。
両親はアクトを軍には入れたくないと言っていたらしい。なのに今それに反している。
けれども、入らないほうが良かったとは思わない。
「良かったと思います。色々な人に色々なことを教わって、少し成長できましたから」
何を言われても、胸を張って言える。
「テレーゼとリヒテルは、君を危険な目に合わせたくなかったんだろう。
けれど今の君を見たらきっと褒めるだろうね」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
台所に良い匂いが広がり始めた。
月明かりは部屋を照らし、明るくてなかなか寝付けない。
一人で寝るのは久しぶりで、落ち着かない。
――…オレガノさんが良い人で良かったな…。
ベッドの上に座って、ドッグタグを見る。
相方とペアの、お守りのようなもの。
「ディアは今頃何してるんだろ…」
ぱふっ、とベッドに倒れこみ、どこまでも繋がっている空を仰ぐ。
――また暴れてなければ良いんだけど。
思い、微笑する。タグを握り締め、胸にあてる。
皆無事なら良い。
願いはようやく眠りにおちていく。
朝食の後、アクトはオレガノに連れられて外へ出た。
「どこへ行くんですか?」
「君に見せたいものがあってね。…ほら、ここだ」
オレガノは一軒の家の前で立ち止まる。少し古い建物だ。
「…ここは?」
「ここは君の家だ。…三歳まで君はここで暮らしていた」
人が住んでいる気配はないが、片付いているのはオレガノが良く来ている為だろう。
大きな家具は当時のままだという。
「おれはここで生まれたんですね」
「そう。…そして、ここで君に重大な話をしなければならない」
カギを開けて中に入ると、その家独特の匂いがする。
それに混じって、僅かだが、
血の匂いがした。
「ここが現場だ」
オレガノが立ち止まった所だけ、床の色が少し違った。
僅かに黒っぽい。
「ここでテレーゼとリヒテルは…」
オレガノが言葉をつまらせても、アクトにはもうわかっていた。
幼い頃の記憶で、唯一鮮明に残っている場面。
血溜まりの中、倒れる父と、語る母。
――あなたは、生きて、幸せに…
「…覚えてます。」
しゃがんで床に触れる。
幼い自分が甦る。
「オレガノさん、おれ、ずっと不思議だったことがあるんです」
本当は、叔母に尋ねるはずだった。
自分を引き取った叔母なら、何か知っているのではないかと思った。
けれどもそれは叶わず、残された手段は彼のみ。
「どうして父さんと母さんは死んだんですか?」
ゆっくり立ち上がり、オレガノに向き直る。
「おれは父さんが事業に失敗した所為だと聞きました。でもこの国でそんなことあるでしょうか。
実際に調べてもそんな事実は見つからなかったし…」
「それを話そうと思ってたんだ。…君が軍人なら、なおさら」
オレガノはアクトをリビングへ通した。遠い昔、アクトが両親と過ごした場所。
「君が思ったとおり、リヒテルは事業に失敗した訳じゃない」
ソファに腰掛けると、腰が沈んだ。
すぐには立ち上がれそうにないほどだ。
「アクト君、アーシャルコーポレーションは知ってるね?」
「アーシャルコーポレーション?!」
数ヶ月前に軍に検挙された会社の名。そのきっかけにも僅かではあるが関わった。
「リヒテルはその系列の会社で働いていた。僕もその会社の研究員として、大学から派遣されていたんだ」
嫌な予感がした。途方もなく、嫌な予感が。
「アーシャルの裏の組織…系列会社はそれにも関与していた。
ただしアーシャルからほとんど独立した状態だったから、全く別物といって良い」
この続きを聞くのが怖い。けれど、止められない。
「リヒテルと僕はその会社の裏の姿を見た。そして関わることを要求された」
「…関わったんですか?」
訊きたくないのに、言葉は出てしまう。
どうか頷かないで欲しい。苦しんだものを見ているから、なおさら。
「関わらなかったよ。…リヒテルはこの話を持ちかけられた後、すぐに会社を辞めた。
そして生活はできるように、小さな会社を別に作った」
父は不正を許せなかったらしい。断り、辞め、家族のためにやり直そうとした。
しかし…
この続きはわかっている。
表に出てはいけないことを知ってしまったのだから、当然危険な目に合うはずだ。
あの心中の原因がそれなら、話はわかる。
「その会社の人に、父さんと母さんは殺されたんですか?」
「あぁ…ただし殺したのはリヒテルだけだ」
――あれ?今、おかしくなかったか?
――「殺された」じゃなく、「殺した」?
――そういえば、父さんがやめた後、オレガノさんは…?
オレガノはソファから立ち上がり、アクトを見下ろした。
アクトも立とうとしたが、立てない。
やわらか過ぎるソファに加え、
足が震えている。
「アクト君、今だから言えるが、僕はテレーゼを想っていた。
なのにリヒテルにあっさり奪われてしまったんだ」
立たなければ。手で支えれば何とか立てるかもしれない。
「リヒテルが邪魔だった。だから会社からの命令は好都合だったよ」
手にも力が入らない。
眼鏡の奥のオレガノの表情が読めない。
「リヒテルを殺したのが僕だとばれなければ、悲しむテレーゼを慰めることができただろう。
僕がリヒテルよりも優位に立てたはずなんだ」
「どうして…父さんはオレガノさんの親友じゃ…」
「親友だったさ。けれど、苛立ちも感じていたんだよ。
どんなに頑張っても、僕は彼より前には進めなかったんだ。
テレーゼのこともそうだ。結局彼女が愛したのはリヒテルだった」
オレガノはアクトの手首を掴み、ポケットから出した紐で両手の自由を奪った。
それだけでもソファから立ち上がるのは十分防げた。
「マインドコントロールというものがある。人の行動を支配し、思うように動かすことができる。
リヒテルにマインドコントロールを施し、自殺するよう仕向けた。
けれどそれを見たテレーゼが後を追うなんて、僕は予測していなかった」
抵抗できず、そのまま両足も束縛される。
ただそこで話を聞くしかない。
「テレーゼはそこまでしてリヒテルと一緒にいたかったらしい。僕は自分を呪った。
けれども社に逆らえば今度は僕が殺される」
オレガノはもう一度向かいのソファに腰掛け、アクトを真っ直ぐ見た。
「本当は君も殺そうかと思ったけど、君はテレーゼに似すぎていた。僕には手を下すことができなかった。
だからテレーゼを恨んでいるマリアに預けた。マリアなら君を殺してくれるかと思ったんだ。
…でもまさかマリアの娘が君を軍に入れてしまうとは…」
計画はことごとく狂った。罪人のさだめか、それとも。
「けれど全ては僕の味方だったよ、アクト君。
アーシャル系列の裏組織は得意なことがあるんだ。
髪の毛一本でも残っていれば、それは簡単に実行できる」
「…髪の毛…?…オレガノさん、何をしたんですか!まさか…」
細胞が入手できればあとは簡単に実行できる。
事例は身近に存在している。全てが辛いものだった。
そして、今回も。
「テレーゼ、来なさい」
二階から女性が降りてきた。
美しい金髪は、肩よりほんの少し長く、外側に軽くはねている。
――そんな…
前髪からのぞくのは、紫の光。
――だって、おれの目の前で…
「紹介しよう」
オレガノは彼女に近付き、その肩をそっと抱いた。
「僕の妻のテレーゼだ」
写真で見たままの、本来ならば若すぎる姿。
彼女は不思議そうにアクトを見つめ、首をかしげた。
「…あら?どうして?二階にいたのに…」
「大丈夫、二階にいるよ。呼んでおいで」
「えぇ」
呼んでくる?一体誰を?
誰が二階にいたんだ?
「アクト、おいで」
凛とした声が響く。
自分の名前を呼ばれたが、こちらに向かって投げかけられた言葉ではない。
「オレガノ、連れてきたわ」
彼女に続いて降りてきたのは、
金髪に紫の瞳の、一瞬女性にも間違えそうな青年だった。
女性に間違えなかったのは当然のことだ。
髪は少し長いが、自分と全く同じなのだから。
「…父さん、やっと叶うんですね」
声もおそらく同じだろう。周囲が聞いた自分の声は、きっとこんな感じだ。
「あぁ、お前の願いは叶う。…テレーゼ、二階にいた方がいい」
「わかったわ」
女性が二階へ上がると、青年が近付いてきた。
身動きの取れないアクトの目線まで屈み、名乗った。
「初めまして、オリジナル。…僕はアクトだ」
聡明で、活発な子に。
この名は、母がつけた。
愛する父に似るようにと。
「…オレガノさん、どういうことですか?」
「僕とテレーゼの子供だ。…どうしてテレーゼに似るんだろうね、君も、アクトも」
オレガノはそう言って、笑った。
「アクト君、僕の息子のアクトにはずっと夢があってね。
自分がオリジナルになりたいとずっと願ってきたんだ」
足音が二階へと移動する。
目の前には、生きた鏡があるだけ。
「父さんの言った意味、分かるよね?この世にアクトは二人も要らないんだ。
大丈夫。君がいなくなっても、僕が君の代わりに軍に行ってあげる。
そして、君として任務を遂行してあげるよ」
ゆっくりと立ちあがり、アクト・カッサスはアクト・ロストートを見下ろす。
「僕の任務は軍の任務じゃないよ。父さんが命ぜられた仕事を、僕が代わりにこなすんだ」
自由のきかない身体は、自由な足にその背を思い切り蹴られる。
「うぁ…っ!」
ソファから落ち、床に転がる。
「僕の仕事を教えてあげる。どうせ君は今死ぬんだし。
僕は、父さんのいる組織の人を邪魔した人を殺さなきゃいけないんだ。
大丈夫、僕も君も罰せられることはないよ。僕は逃げられるし、君は死んでるんだから」
「殺すって…誰をだ…!」
「知ってるはずだよ?中央では随分慕われてるらしいから」
再び背を蹴られる。息ができない。
痛みと呼吸困難の中でも、その名はしっかり聞こえた。
「カスケード・インフェリアっていうんだって、その人。
随分と邪魔してくれたらしいから、消さなきゃならないんだってさ」
「…カ…スケー…ド…さん…?!」
まだ狙われていたなんて。どうしてあの人だけが。
「やっぱり知ってるんだ。これは好都合だ。近付き易いし…」
アクト・カッサスは手を伸ばし、アクト・ロストートのウェストポーチを外した。
「珍しいナイフ入ってるね。これ、軍での証明になるかな?」
ポーチを開けて取り出したのは、銀色のナイフ。
相方に貰った、大切なもの。
「返せ!それはおれのだ!お前のじゃない!」
「僕のになるんだよ。死ぬのに持ってても仕方ないよ?」
「それは駄目だ!それは…」
「しつこいな!」
三度目の蹴りは腹部に入る。内臓に響く衝撃に蹲りながら、ナイフに手を伸ばす。
「…それ…だけは…っ」
「いいかげん諦めなよ。君、もうアクトじゃないんだよ?
母さんだって、アクトと呼ぶのは僕だけなんだからさ」
アクト・カッサスがナイフを振り上げる。銀色の輝きが、かすんだ目に届いた。
「君がそこまで執着するなら、これで殺してあげるよ。
大切なものなら、最期に身体に収めるといい」
皮肉だな、お守りで終わるなんて。
持ってたらディアが傍にいるような気がして、独りでも耐えられたのに。
あぁ、でもこれってまだ依存してるってことか。
結局治らなかったな、依存症。
突如、窓が割れた。
いや、外側から割られた。
「アクト!いるのか?!」
声が響き、人がのりこんでくる。
黒い服の、男。
「…ちぇ」
アクト・カッサスは素早くどこかへ消え、後には蹲る不自由が残される。
窓から侵入してきた男は蹲る身体を紐から解放し、揺さぶった。
「おい、アクト!大丈夫か?!」
朦朧とする意識の中、途切れる声。
「…ディ…ア…」
気を失った身体を、男は舌打ちして担いだ。
気がつくと、身体には布の重さがかかっていた。
打撲傷が痛む。
「…ここ…」
見知らぬ家だ。けれどもオレガノの家に置いたはずの荷物はちゃんとあって、自分は布団に寝かされている。
「…と、たしか…」
思い出そうとして、腰に手をやる。
ポーチはない。
あの出来事は現実らしい。
「…そうだ、ディア!いるのか?!」
朦朧とする意識の中で見た影。
会えるなら、すぐに会いたい。謝りたい。
「やっと起きたか」
部屋のドアが開いて、声がする。
「ディア!」
ドアの方に目を向け、あ、と声を上げる。
髪は濃い赤茶色…ではない。
瞳の色も、知っているそれではない。
「誰がディアだよ…せっかく介抱してやったのに」
金髪を後ろに流した、ガラの悪そうな男がいた。
「…ヤージェイル…」
「ったく、助けに行った時も間違えたよな。
オレのハンサムな顔を見ろ。傷なんかこれっぽっちもねーだろ」
「ハンサムなんてどこにいるんだ?」
「…元気じゃねーか」
ヤージェイルはベッドの脇の椅子に腰掛け、足を組んだ。
こんな奴だが、どうやら自分を助けてくれたことには変わりないらしい。
「…ありがとう」
「へぇ、アンタでも素直に礼言えるんだ」
「…撤回」
どうしてヤージェイルをディアと見間違えたのか。
改めて考えると、恥ずかしい。
「ところでさ、何があったんだよ?空家見に行ったらアンタがいて殺されそうになっててビビった」
「殺されそうに…?」
ハッとした。すぐに司令部に戻って、伝えなければならないことがある。
「しまった…カスケードさんが!」
「カスケード?中央の大佐か?」
「早く戻らないと危ない!早く…!」
ベッドから出ようとして、背中と腹部の激痛に襲われる。
痛みが身体を貫いて、動けない。
「そんな身体で移動できねーって。ほら、送ってってやるよ」
ヤージェイルが背を向けて、乗れ、と言った。
「…良いのか?」
「オレ優しいから」
「…まだまだ、だな」
体を預け、荷物も託し、駅へ向かう。
戻ったら、しなければいけないことがある。
――でも、良いんだろうか。
あっちがアクトなら、自分は何なのだろう。
存在を問う。答えはない。
To be continued…