車を家の前で停めて、ゆっくり降りた。
薄く雪の積もった我が家は、昔と変わらないはずなのに少し小さく見えた。
「行かねーのか」
「行くよ。…だからブラックも降りて」
昔よりもずっと世話役は減った。
だけど母は、出て行った人に申し訳ないと言うばかりだ。
「アルベルト、コーヒーにお砂糖入れるのよね」
「はい」
「ブラック君はいらないのよね」
「…いらない」
辛い思いをしてきたはずなのに、アルベルトの母ハルマニエは笑顔だった。
自分達を迎えてくれる時は、いつも。
「…おかしいわね」
「どうかしたんですか?母様」
こんな困った笑顔も含めて。
「だって、アルベルトはアルベルトって呼ぶのに、ブラック君はどうしても君ってつけちゃうの。
アルベルトの弟なのにね」
「仕方ねーよ。オレはアンタの子じゃないし」
「確かに私が産んだ子じゃないけど…」
挽きたてのコーヒーの良い香りがする。
インスタントとはやはり違う。
「あなたの誕生日に言ったでしょう?あなたのことは、私がブルニエさんから頼まれてるって」
出されたコーヒーを、ブラックは見つめるだけ。
アルベルトはブラックを見つめるだけ。
ブラックの誕生日に、アルベルトは初めてブラックを実家に連れて行った。
母とブラックはこの日初めて会ったのだ。
「あなたが、ブラック君?…私はハルマニエ・リーガル。アルベルトの母親です」
ハルマニエはそう言ってから少し考え、
「この言い方じゃおかしいわね。…あなた達の、母親です」
そう言って、笑った。
「オレはアンタの息子じゃない。ブルニエ・ダスクタイトの」
「わかってるわ。でも、私がブルニエさんに頼まれたの。…アルベルトも聴きなさい、大事な話だから」
二人はそうして真実を聞くこととなった。
自分達が幼い頃、ブラックの母ブルニエ・ダスクタイトが殺害された後、何があったか。
ブラックが所有している母の日記には決して書かれることのなかった物語。
「ブルニエさんが亡くなった知らせを、私は病院からの電話で知ったの。
それと同時にブラック君が施設で育てられることを知ったわ。
その時はまだ、私にも覚悟ができていなかったの。夫が他で子供を作っていたことも信じたくなかったから」
しかし、ブルニエは真実を伝えにブラックが生まれる前にハルマニエに会いに来た。
それを考えると、ハルマニエ自身も段々考えが変わってきた。
その結果、アルベルトは軍に入れ、自分は夫リーストック――本名ラインザー・ヘルゲインに隠れて、ブラックのいる施設と連絡を取った。
心を閉ざしたブラックと通じることはできなかったが、看護士からいくつかの情報は手に入れた。
ブルニエの死の詳しい状況も、その時知った。
ブルニエが「もし私に何かあったらリーガル財閥のハルマニエ嬢に連絡してください」と、看護士への手紙に書いていたことも。
そのうち手紙の内容を全て知ることができた。
ブルニエは看護士を通して、ハルマニエにメッセージを送り続けていたのだ。
「ブルニエさんは、ブラック君が真実を知ったときに私と会うことを望んでいたの。
その時までに私が夫と決着をつけていることを条件に、ね。
でも決着をつけたのは私じゃなく、あなた達だった」
ラインザーの死によって全ては終わった。ハルマニエはブラックと会い、この話をするつもりだった。
「できればあなたも私の子に、と…そう言っていたらしいわ」
「それってリーガルの養子になれってことかよ。オレはダスクタイトの子だ」
「そうね。私はそれが一番いいと思うの。あなたはお母さんに誇りを持っている。だから名を継ぐべきよ。
だけど私はあなたを息子として見たいの。だって、アルベルトの弟ですもの」
そんな会話があってからもうすぐ二ヶ月。しかし、未だ完全に息子として接することはできていない。
ハルマニエはごめんなさいね、と言ってブラックを見る。
「謝らなくていい。オレはアンタの子じゃないから無理に子どもとして扱わなくても…」
「いいえ、あなたは私の子供です。勿論ブルニエさんの子だけど、今は私の子でもあります。
私はブルニエさんのようにはなれないけれど…」
ハルマニエはブルニエを尊敬していた。真実を知りながら、子供には愛するものとして接していたことは勿論だ。
それだけではなく、愛した男の正妻である自分を恨むことなく、寧ろ頼ってくれたことに感謝していた。
「ブラック、君は僕の家族だよ。母様も…君のお母さんもね」
「随分な大家族だな」
「悪くないでしょ、大家族」
アルベルトが笑いかけると、ブラックは目を逸らす。
ハルマニエの方からは少し染まった頬が見えて、微笑ましい。
「そういえば、今日はどうして来たの?」
自然とその言葉は出てくる。
アルベルトはなんと言ったら良いかわからなかった。
すでに終わったはずのラインザーが生きているかもしれないなんて、言える筈がない。
もともと言うつもりもなかったが、それに代わる言い訳もなかった。
「墓参り」
アルベルトが何も言わない代わりに、ブラックが口を開いた。
「…ブルニエさんの?」
「そう。だから寄った。…お袋はアンタを頼ったみたいだし」
「ありがとう」
アンタと呼ばれてもいい。ただ、ブラックが自分を認めてくれているということが嬉しい。
だからハルマニエは笑顔でいられる。
「…母様、片付け手伝います」
「いいのよ、アルベルト。ゆっくりしてなさい」
ハルマニエの笑顔に、アルベルトはただただ気まずさを覚えた。
これから戦いに向かう。場合によってはこれが母と会う最後になるかもしれない。
そんなことは考えたくないが。
「余計なこと考えるんじゃねーぞ」
不意にブラックが言った。やっぱり、わかっている。
「…うん」
弟であり、理解者である彼。
「それじゃ、いってきます」
区切りをつけて、アルベルトは席をたった。
ブラックもそれに続く。
ハルマニエは頷いたが、何故かいつもと違う想いが胸にあった。
何か言いようのない不安が渦巻いている。
このまま彼等を放したら、もう二度と会えないのではないか。
今まで一度も、そう思ったことはなかったのに。
「…帰ってきてね」
いつもなら別の言葉で送り出す。
忙しかったら無理しなくていいのよ、と。
けれど今は、どうしても約束して欲しかった。
「必ず帰ってくるのよ、アルベルト…ブラック」
また会えると、信じなければならないような気がした。
「わかってます、母様」
アルベルトは笑って答えた。けれど母にはぎこちなさが感じられる。
アルベルトが先に車に乗り込んで、ブラックはその場で立ち尽くした。
「…どうしたの?」
「別に」
ハルマニエの心配そうな声に短く答える。
目を逸らしたまま、離れながら、
小さな言葉が聞こえた。
「また来るから…母さん」
小さいけれど、エンジン音よりもずっと響いた。
遠ざかる影に、ハルマニエは涙を流した。
完全に見えなくなるまで、ずっとそこに立っていた。
墓地は荒涼としていた。身寄りのないものばかりが眠る小さなものだ。
ほとんど誰も訪れていないようで、多くの墓石は草に埋もれていた。
「来るなよ」
車から降りる時、ブラックはアルベルトに念押しした。
以前にも一回だけ二人で来たことがあったが、その時も一緒に来るのを拒んだ。
「わかってるよ。…待ってるから」
微笑んで見送ろうとして、あ、と引き止める。
「お花トランクの中だよ」
「わかってる」
バックミラーに開けられた車体の後部が見え、すぐに消えた。
墓地内に向かって歩いていく、白百合の花束を持った後姿。
荒れた墓地の中で、一部だけ草を刈られた所に彼女はいる。
貢がせ、愛し、裏切られ、その果てを深く愛した女性が。
――よぉ、お袋
心の中で呟く、彼女への想い。
冷たい墓石に横たわる、美しい白。
――さっき、あの人を「母さん」って呼んだ。
――お袋はお袋だけど、やっぱりあの人は母さんなんだよな。
どうしてそう呼んだのだろう。
自分を我が子のように思ってくれているからだろうか。
それだけではない。
認めたくはないが、不安を感じているのだと思う。
――オレ、お袋に感謝してるよ。
――だから、一つ頼みたいんだ。
こんなことを頼むのは、以前の自分ならば馬鹿げていると思うだろう。
だけど今は、素直にそう思える。
――頼むぜ。
立ち上がると、風が吹いた。
答えるような優しい風が、ブラックを包んだ。
一人残されたアルベルトは、ポケットの中身を取り出した。
二つのシガーケースは、餞別にと貰ったものだ。
昨日、職場の廊下で。
「アルベルト、お前も行くんだろ?」
「ディア君…そうなんですよ」
「じゃ、これ餞別な。持ってけ」
ディアに渡されたのはシガーケースだった。タバコを吸う彼なら持っているのは当たり前だが、それを渡されてもどうすればいいのかわからない。
「僕、タバコ吸えないんだけど…」
「あ?じゃあブラックにでもやれよ」
「ブラックは未成年です」
ディアは十七歳の時から飲酒喫煙が日常になっていたらしいが、弟にはそんな不健康なことはさせたくない。
返すにも返せない状況で、シガーケースは横から取り上げられた。
「あ、アクト君…」
「ディア、いいかげんにしろよ。不良を増やしてどうする」
「不良って言うんじゃねぇ」
アクトは取り上げたものを自分のポケットにしまい、代わりに別のシガーケースを取り出した。
「アルベルトとブラックはこっち。これなら大丈夫だろ?」
「え…あ、はい」
見た目はさっきのものと変わらないが、重さが違う。アクトに渡されたものの方が重い。
中身を確認して、これなら、と安堵した。
独りの車の中で、アルベルトはそのシガーケースの中身を口に含んだ。
少し苦くて、やはり甘い。
そうこうしているうちにブラックが戻ってくるのが見え、ドアのロックを解除した。
「おかえり」
「何食ってんだよ」
「シガレットチョコ。ブラックの分もあるよ」
もう一箱をブラックに渡し、アルベルトはエンジンをかけた。
乾いた音の後にエンジンの重い音が響き、アクセルを踏み込む。
ゆっくりと動き出す車と、ブラックの怪訝な表情。
「おい、馬鹿」
「馬鹿って言わないでよ…」
定番の台詞の後に、太陽の光を反射して光るもの。
「これ何だよ」
ブラックの手に、十字に輝くもの。
「ロザリオ」
「んなこと見てわかる。何でこんなもの一緒に渡すんだよ」
シガーケースと重なってブラックの手元に来たそれは、とても新しいものだ。
少しも汚れておらず、傷もついていない。
「それはね、お守りなんだ」
アルベルトが前を向いたまま言う。
「それが君を守ってくれるといいなって。
…勿論、それだけに任せたりしないよ。君は僕が守る」
「返す」
「返品不可。ブラックが持ってないと意味ないんだから」
笑顔としかめっ面の対比。
溜息をつくブラックと、ひたすら微笑むアルベルト。
「…人に守られるほど弱くねーよ。ましてお前になんか守られてたまるか」
「ブラックが僕をいつも助けてくれるから、僕も何かしたいんだ」
「自販機の下の小銭取るくらいだろ」
「もっといっぱい助けてもらってる。君がいなきゃ、僕は…」
静かな地から、一旦市街地に戻ってくる。周囲の喧騒が言葉をかき消す。
聞き取れなかった語尾をもう一度聞く事もせず、ブラックはロザリオを首にかけた。
「これで文句ねーか」
「…ありがとう、ブラック」
赤信号に引っかかり、車は停止する。ロザリオが軽く揺れた。
「今まで大分殺してきたのにロザリオか」
「ブラックはちゃんと償えてるよ」
「償えねーよ、絶対」
ブラックは今まで多くの殺人犯やその他の犯罪者を殺してきた。
所業が赦せなかった。父の行いと重なって、復讐心のもとで斬り捨てた。
今思えば、父のことへの八つ当たりかもしれなかった。
ロザリオは救いなのか、それとも戒めなのか。
アルベルトは「お守り」と言ったが、自分は本来守られていい人間ではないのだ。
「ブラック」
「何だよ」
「今、自分を責めてたでしょ」
「…………」
再び走り出した車が向かう先は、罪の残りなのだ。
「僕は守るからね。君が必要としなくても、僕が必要なんだ」
何をしてでも償いない罪のはずなのに、自分は生きている。
「君は死んじゃいけない。僕が死なせない」
生きて、普通に生活して、
ごくたまに時間が過ぎてしまうのを恐れる。
それもきっと周囲の所為だ。
隣でハンドルを握り、自分に向かって台詞を吐く、
この男の所為だ。
喧騒は再び遠ざかる。
道は段々粗くなる。
車体が揺れるたびに、ブラックの胸元が光る。
「見えた」
「え、どこ?」
「そこ」
木々の陰から僅かにのぞく、小さな家。
近付けば近付くほど、心臓は暴れようとする。
ブラックが幼い頃、ほんの僅かの間だったが暮らしていた場所。
「ブラック、大丈夫?」
「何がだよ」
「顔、青いから」
嫌な指摘をされてしまった。
見られたくなかった。
「何でもねーよ。変なこと言うんじゃねーよ馬鹿」
「馬鹿って言わないでよ…」
停車すると、目の前に蔦の絡まった壁が構えている。
窓やドアの部分だけ蔦が切り取られ、人の気配を感じさせる。
「…覚えてる…」
つるは今にも自分に巻きつきそうで、
「二歳の頃なのに?」
「あぁ…はっきりとな」
窓の向こうの闇は、今にも自分を飲み込みそうで。
「…入る?」
アルベルトの問いに、ブラックはただ黙るのみ。
――そんなわけあるか…
――このオレが”怖い”だと?
――そんなことは絶対に…
言い聞かせても、鼓動が耳に響くのは抑えられない。
脳裏によみがえる光景は、止められない。
「やめようか」
アルベルトは呟いた。
「何でだよ」
「ブラック、辛いでしょ?だから一旦車に戻ろう?」
「勝手に決め付けんな!辛くなんか」
「汗。…この国の気候でも、何もしてないのに冬の屋外で汗なんてかくわけないよね」
ブラックの手にハンカチを握らせ、アルベルトは先に車に戻る。
ハンカチは手にしただけなのに、すぐに濡れた。
「ブラックってどんな子だったの?」
寝られるように座席を倒しながら、アルベルトは言った。
ブラックも同じようにして、寝転んでからだるそうに返す。
「近付きがたいって…異常な眼で見られることが多かったな。
施設にいた頃は看護師以外の奴と話したことなかった」
「近付きがたいなんてことないのにね」
「お前に何がわかる」
「わかるよ」
少し間があく。
シガレットチョコを口に含んだのは、偶然にも同時。
真似すんな、とブラックが言うと、
真似してないよ…、とアルベルトが困ったような笑顔で言う。
「お前は?」
「え?」
「どんなガキだったんだよ…大体想像つくけど」
「僕は…」
よく母親や世話役に言われたことは、いくつか覚えている。
賢い子、おりこうさん、素直な子…
けれどどれも自分では当てはまらないような気がした。
自分はもっと愚かなものだ。
褒められていいものではない。
どうしても、そう思ってしまう。
「…僕は、周りの言うことを素直に聞く良い子だったよ」
「自分で言うことか?」
「褒め言葉じゃないよ」
自分の意思で行動したことは数少なかったのではないか。
全て言われるまま。そうすれば褒めてもらえると知っていたから。
そうすれば、悪い子にされなくてすんだから。
そうすれば、父親が自分と言葉を交わしてくれると思っていたから。
「結局あの人は僕のことなんかどうでも良かったみたいだけどね。
それがわかったのは軍に入ってから」
母からの手紙で知ったのは、父親の本当の姿。
今まで自分が求めてきたものは、自分を拒絶していた。
「何も知らずにただ言うこときいて、勉強して、軍に入って、その結果…。
それを何とか挽回しようとして自分から動けば、相手に伝わるのは僕の嫌な面。
だから中央に来た時、僕は全てを隠そうとした。
でもそれって、結局不可能なことだったんだよね」
辿り着いた場所は、あまりにも暖かすぎた。
辿り着いた場所に、真実を知ってから求め始めたものがあった。
心から守りたいと思うものに出会えた。
命をかけても愛したいと思う人ができた。
「僕は嫌な人間だけど、そんな僕でも暖かい場所にいていいんだなって…
そう思える場所なんだ、中央司令部って」
今、アルベルトは幸せだ。
周囲に恵まれている自分が好きになれた。
その幸せが壊れるのは、本当に怖い。
「…あ、ごめん…話それちゃったね」
「別に…」
ブラックも同じだ。
多くの人を仕事という名目で殺してきたが、そういう罪深い自分を知っていて受け入れてくれる人がいる。
人との交流の中で初めてわかることがあることも知った。
独りじゃないということが、怖くないということだとわかった。
だからそれが壊れるのは――
「何だ、もう来てたんじゃないですか」
低く響いた声は、心に重い衝撃を与えた。
アルベルトとブラックは即座に起き上がって戦闘体制をとろうとする。
車の外にいる人物が危険だということは、直感でわかった。
「…誰ですか?」
シルクハットに、スーツと蝶ネクタイ。
帽子からのぞく表情は、無気味に笑う。
「君は知らないでしょうね、アルベルト・リーガル。だが…」
男はブラックに視線を向け、
「君は知っているはずだ。…ブラック・ダスクタイト」
笑うのを止め、車のドアに手をかけた。
「出てきて下さいよ…人殺し」
「……っ」
ブラックは眼を背けていたが、その表情は顕著に物語る。
この男を知っている、と。
「人殺しってなんですか!ブラックはそんな」
「黙れ馬鹿…コイツの言うとおりなんだよ」
ドアは開かれる。
「オレは殺した。…この男と、同じ顔の奴を」
東方軍に勤めていたブラックは、凶悪犯罪者を手当たり次第殺害していた。
当然の処置だという者とやりすぎだから罷免にすべきだという者がいた。
ブラック自身はなんと言われようとも自分のやり方を変えようとは思わなかった。
犯罪者が――父親が赦せなかったからだ。
こうして殺していればいつか関係するものが現れて、向こうから殺されに来るんじゃないかという思いもあった。
その殺された中の一人がアリー・クライムドという名の連続強盗殺人犯だった。
偶然現行犯として捕らえることができ、全て吐かせたあとに斬り捨てた。
首を斬ったのだ。生きているはずはない。
なのに今目の前で笑っている。あの笑顔は忘れられない。
自分のやってきたことを不気味な笑みで、さも嬉しそうに語る。
見ているだけで虫唾が走る。
「何故生きている?」
「生きていません…兄さんは死にましたよ。あなたに殺されてね」
「兄さん…だと?」
「えぇ。私はアリー・クライムドの双子の弟、イリー・クライムドです」
帽子を取ったその姿は、死んだはずのアリーにそっくりだった。
本人そのものかと思うほどのつくりに、ブラックも息を飲む。
アルベルトだけが何も知らないまま、目の前で対峙する彼等を見ていた。
「呼び出したのはお前か」
「そうです。君のことを調べていたらいろいろと面白いことがわかりましてね。
君の過去、君の父親、そして…」
イリーの人差し指がアルベルトに向けられる。
「そこにいる、君の兄のことも」
母親は違うが、父親の血が双方に流れている。
父親と同じ髪と同じ眼を持ち、父親を追った。
素性を他の者が知るのは、そう難しいことではない。
「アルベルト・リーガル…リーガル財閥の御曹司で、母はハルマニエ・リーガル。
西方で父ラインザー・ヘルゲインを追い、それから中央に来た。現在の階級は少佐。
…これで間違いないですね?」
ラインザーのこと以外の項目は、容易に手に入る情報だ。
アルベルトは椅子の下に置いておいた銃に、気付かれないようゆっくりと手を伸ばした。
「そしてブラック・ダスクタイト。君の母親はラインザー・ヘルゲインの愛人だった。
捨てられて君を産み、二歳まで育てた。
それからラインザーに殺されたんだったね」
イリーは再び無気味な笑いを浮かべた。
「その現場がこの家…君の生家というわけだ」
「黙れ!」
白く光る刃が輝きを残像に走った。
しかしブラックの振り上げた刀をイリーは容易にかわし、続くアルベルトの発砲もブラックの陰に入って未然に防いだ。
「やはり弟は撃てないようですね、リーガル」
「…当然でしょう。ブラックは僕が守る」
「フッ…麗しい兄弟愛ですね」
嘲笑はどこか悲しそうで、懐かしそうだ。
イリーは少し離れて、再び語りだした。
「私の兄は素晴らしい人だった。金と殺戮の道に堕ちるまでは、とても立派な人だった。
もう一度話がしたかった。再び優しい兄に会いたかった。
しかしその願いは君に蹂躙され、叶わなくなってしまったんだよ!ダスクタイト!!」
イリーは復讐だけを見ていた。
奪われたことへの報復のみを考えていた。
少し前までのブラック自身に似ていた。そこには恨みしかない。
「しかし私は君を殺しません。君には同じ苦しみを…いや、それ以上の苦しみを与えましょう。
私が兄を奪われたように…」
剣が抜かれる。目線はブラックに向けられ、しかし切っ先はアルベルトに向けられている。
「君の兄を、私が利用させてもらいます」
「コイツを?!」
「…僕を、利用…?」
何に、と訊く前に剣がアルベルトを突こうとして、宙を裂いた。
とっさに屈んだアルベルトはすぐに体勢を立て直し、イリーに銃口を向ける。
しかし撃つ間を与えずにさらに突いてきた。
ブラックはそれを止めようと刀を振るうが、簡単に止められてしまう。
「ブラック、下がって!僕が何とかするから!」
「馬鹿、そいつはオレの敵だ!オレが…っ!」
「そうやって互いを助けて…懐かしいですねぇ!」
イリーは再びアルベルトを突こうとして、
急に方向を変え、
「ブラック!」
「!!」
ブラックの肩を貫き、赤を散らせた。
「………っ」
「ブラック、大丈夫?!」
アルベルトが駆け寄り、着ていた上着をブラックの肩に巻きつけた。
「じっとしてて」
「このくらい何でもねーよ」
「駄目。…じっとしてて」
アルベルトの目つきが変わるのがわかった。
口調が重くなり、怒りがはっきりと感じ取れる。
「じっとしてないと…ブラックを撃つかもしれないから」
瞳は標的を――イリーを睨み、手には銃をしっかりと握る。
「僕を本気で怒らせたのはあなたが二人目です、イリーさん。
ブラックに怪我させるなんて、絶対に赦さない」
「私もそのように兄に庇ってもらったことがありますよ。
…その全てをぶち壊してくれたのはリーガル、君の弟なんですよ」
「黙れ!」
銃口は標的を捉えるとすぐに銃弾を送った。連続して何発も。
しかしイリーは全く避けず、伏せもせず、ただそこに立つのみ。
「怒りで我を忘れているようですが…よく御覧なさい、リーガル」
いや、立って壁の役割を果たしていたのは…
「…やっぱり、用意してたんですね」
かつて、軍人でいる目的だったもの。
ずっと追っていたもの。
確かに、消えたはずのもの。
無表情だが、確かに姿はそのままだ。
「よくできてるでしょう。…ラインザー・ヘルゲインのクローンですよ」
身体を撃ち抜かれてもなお立っている、何も感じないもの。
「それに手紙を書かせたんですか?」
「えぇ、時間はかかりましたけど」
苦しませずにと消した者は、恨みや憎しみよりも哀れみを抱かせる。
これがあの凶悪犯罪者の末路の…その先。
「利害関係が一致したんですよ、クローンの提供元と。
向こうは君たちを馬として利用したいみたいですが」
「馬?」
「知っているでしょう、東方に伝わる言葉です。
“将を射んとすればまず馬を射よ”と」
それがどういうことなのか、考える間を与えずにラインザーが攻撃を開始する。
アルベルトは後方にブラックの姿を確認し、
ナイフを手にして突進してくる無表情の眉間を的確に撃ち抜いた。
赤が散る。あの日見た色と同じ色。
地面に転がる人形は、全く表情を変えていない。
「説明してください。…僕らが馬なら、将は誰なのか」
イリーを睨みつけるアルベルトの後方で、ブラックもよろめきながら立ち上がる。
肩の痛みが激しい。けれど、そんなことを言っている場合ではない。
「誰なのか…ですか?」
イリーの不気味な笑みは止まない。
「その質問は彼等を倒してからにしてください」
急に周囲が気配に満ちた。
人間の気配ではない。感情や生気を全く感じない。
「…気持ちわる…」
傷を押さえる手に力を込め、ブラックは周囲を見渡す。
アルベルトも眉を寄せたまま、現れた無表情の群を見た。
「趣味悪いですね…それともバリエーションがないのか…」
銃弾を装填し、いつでも一掃できるように構える。
さっきと同じようにすればいい。あの日と同じようにすればいい。
全てラインザーのクローンなのだから、そうやって消せるはずだ。
「もうあまりこの人とは戦いたくないけど…
ここまでたくさんいたらそうも言ってられないね」
「さっさと消す。…寒気がするんだよ、こんなに同じ顔並べられると…」
円の外側で笑みを浮かべるイリーと、大量のラインザー。
本当に、虫唾が走る。
全てが同じ行動を同時に取るため、ある意味ではやりにくい。
一斉にナイフを振り上げ、一斉に突撃してくるのだ。
「ブラック、肩大丈夫?」
「なめんじゃねー」
円は小さくなり、
一瞬で破壊される。
正確に眉間に風穴を開けた人形が、
地面にボロボロと首を落としていく人形が、
数秒で全て動きを止めた。
乱射された銃は硝煙を残し、
振り上げられた刀は刃を赤く染め、
円の外にいた者は楽しそうな笑みを見せる。
「そうですよね…そうでなきゃ面白くありませんから」
一人呟き、背を向けた。
――今なら…!
その背にアルベルトが引き金を引いた。
しかし、
「無駄ですよ」
弾道は剣に阻まれた。
あっさりと一瞬を見切る。
「…速いですね」
「速くなきゃクローンなんて与えられませんよ」
先ほどからイリーは裏に何かあると思わせる発言を繰り返している。
“将”に関して問いたださねばなるまい。しかし、今のままで聞けるとは思えない。
「ダスクタイト、君の家に入ったらどうですか?」
言う気もないらしい。
埃が取り払われているのはイリーの所為だろう。
ブラックがいたあの頃から、そのまま持ってきたようだ。
伏せた写真立てをそっと持ち上げると、アルベルトの知らなかったブラックが、綺麗な女性と一緒にいた。
「…ブラックの、お母さん?」
「!」
ブラックはアルベルトの手から慌てて写真立てを取り上げ、元のように伏せた。
「勝手に触るんじゃねーよ!」
「綺麗な人だね、お母さん」
「…水商売だったからな」
冷淡さの中に、もう一つの感情が見える。
アルベルトは黙って奥に進んだ。
ブラックがイリーに従って家の中に入ったのでアルベルトもその後を追ったのだが、隙さえあればイリーを攻撃しようと思っていた。
ラインザーのクローンを一発で撃ち殺したあの感覚が残る今なら、躊躇うことなくできそうな気がした。
――何考えてるんだ僕は…
あれほどブラックに「殺してはいけない」と言っていた自分は、今ここにいなかった。
ブラックの怪我を見た瞬間、そんな思いは消えてしまった。
いや、ラインザーの死んだあの夜から、自分は人の死に対し麻痺してしまったのかもしれない。
あの日ラインザーを撃ったのは、アルベルト自身だ。
とどめはブラックがさしたが、自分の方がより残酷なことをしたのだと思う。
怒りは自分を見失わせる。だから上司も「頭を冷やしてから行け」と言ったのに。
――僕は何に対して怒りを抱いているんだろう。
ブラックを傷つけたイリーに?
いや、それだけではない。
真の怒りの対象は…
「…ブラック、どうしたの?」
ふと、ブラックの様子がおかしいことに気付いた。
一点を見つめて動かない。
正確には、ダイニングの壁を。
「ブラック…?」
「ここなんだよ、お袋が死んだのは」
低く、重い声。
苦しみから搾り出すような呟き。
「オレは今お前が立ってる場所に居て、全部見てた。
お袋の叫び声が聞こえてダイニングに入ってきたら、知らない男が居たんだ。
そいつは笑いながらお袋を…」
全部見ていた。
首に赤い線を引くのも、
腕を斬りつけるのも、
手首を切り落とすのも、
すでに気を失った身体をうつぶせにして背をボロボロにするのも、
足を切断するのも、
腹を割って中身を取り出すのも、
色を失っていく裸体が犯されていくのも、
全部記憶に残っている。
動けなかった自分が悔しくなったのはそれから何年も経った後で、
瞼の裏で再生されるものは消えなくて、
何度も何度も夢に見た。
「血の跡…全部残ってる」
他の部分と手触りの違う床を指でなぞり、脳裏に再生される全てがコマ送りになる。
「辛いですか?ダスクタイト」
イリーの声は天から降ってくるようで、地から響いてくるようで、
「辛いのはおかしいですよね…簡単に人の大切な者を奪う君が、奪われて辛いなんて思うはずがない」
心に闇を落としていく。
「黙れ!それ以上ブラックを傷つけるな!」
アルベルトが叫ぶと、イリーは肩をすくめて見せた。
「だってそう思いませんか?…リーガル、君は弟を想うあまり、考え方が自己中心的になっています。
落ち着いて考えてくれませんか?私は彼の被害者なのです。
大切な人を奪われた…幼いダスクタイトと同じなのですよ」
「違う!」
「違いませんね。ダスクタイトはラインザーと同じ事をしたんですよ」
「ブラックのお母さんは何も罪を犯していなかった!」
「罪を犯した人間は殺してもいいと?情状酌量の余地は犯罪者には与えられないと?
それとも自分の大切な人が無事なら、他の者が滅んでも良いというのですか?」
「そんなこと…」
思っていなかった、と言えるだろうか?
いや、言えるはずがない。返す言葉は何もない。
――僕は自分のことしか考えていない…
守るといいながら追い詰めていたのは、自分だ。
許せなかったのは、自分だ。
アルベルトの怒りは自身に向けられている。
「ダスクタイト、君は反論しないのですか?」
イリーはしゃがみ込んだブラックを見下ろし、再び声を降らせた。
「それとも、反論できないのですか?」
嘲るような視線を足元に向ける。
「…オレは人殺しだ」
低く響く声に、イリーは嘲い、アルベルトは叫んだ。
「ブラック!君はそんなこと」
「思わなくても良いって言いたいのかよ!
お前にはわかんねーよな、”良い子”なんだから!
自分の感情で何人も殺した奴に、そんなこと思うなだと?!
忘れられねーことを押さえ込んで、認めることも否定することもできないで生きてきた奴の気持ちなんか…
お前にはわかんねーよなぁ!!」
爪で引っ掻いても、床に染みた黒い跡は剥がれない。
どんなにもがいても、罪を犯した事実からは逃れられない。
「復讐されて、いっそホッとした。…でも、こんなのまだ復讐なんて言わねーんだろ?
オレを消したいなら消せよ。そこの馬鹿が軍の誰かに言っても、信じるのは一部だけだ」
「ブラック!」
「その馬鹿外につまみ出して、さっさとオレを殺せ!」
虚空に響く音は、壁に反響する。
それすらも消して、嘲笑が部屋を満たしていく。
「ダスクタイト、初めに言ったはずですよ。君は殺さない。同じ苦しみを味わわせる。
私が殺すならリーガルを殺します」
「そんな馬鹿殺して何になるんだよ」
「実際に殺す訳ではありません。…殺せない事情もありますし」
イリーはアルベルトの腕を掴み、力を込めた。
手首に痛みが走り、アルベルトは思わず声を漏らす。
「く…っ」
「何やってんだよ!そいつは関係ねーだろ!」
「あるんですよ。…リーガル、よく聞きなさい」
イリーは嘲笑を崩さぬまま、言葉を放った。
「君たちの上司…カスケード・インフェリアは組織に殺されるでしょう」
その名を反芻した後、後に続く言葉を一つずつ追う。
コロサレル。
――大佐が…殺される?
「そんなこと…っ!」
「彼だけではないですよ。作戦が順調に動いていれば、ディア・ヴィオラセントもアクト・ロストートも…
グレン・フォースやリア・マクラミーも例外ではない」
「……!!」
どういうことか。
何が起こっているのか。
わからない。全く把握できない。
ソシキ…組織とは、何なのか。
「クローンも組織が作りました。私はダスクタイトに復讐したくて君たちのことは徹底的に調べ上げてましたから、組織は簡単に私を仲間に入れてくれました。
その代わり、彼等は私に条件を出したのです」
「条件…?」
訊き返したのはブラックだった。
アルベルトはすでに混乱で放心していて、言葉がない。
「単純な条件ですよ。リーガルを組織に入れることです」
「何だと?!」
「彼等は軍側の人間を欲しがっているんです。最も利用し易く、かつ高い能力を持っているもの…
それがリーガルだということらしいですね。
たしかにリーガルにはダスクタイトというエサがある。都合のいい人材ですよ」
「その馬鹿がそんなこと聞くわけねーだろ!」
「それはどうでしょうね…」
イリーはポケットに手を入れ、何かを取り出した。
イヤホンのような形の、小さな物体。
「これは小型の洗脳装置なんです。これをリーガルの耳に嵌めるだけで洗脳は完了する。
そうすればこちら側の人間だ。もし目覚めて反抗しても、人質はたくさんいる」
「オレに復讐するならオレだけで良いだろうが!その馬鹿が何の役に立つんだよ!」
「立ちますよ。現に君は自分の兄を守ろうと必死じゃないですか。
その感情はこちら側にとって非常に都合が良い」
ブラックは勢いよく立ち上がり、イリーに殴りかかった。
しかし容易に交わされ、傷の痛みも増す。
「…ったく、馬鹿が…!目ぇ覚ましやがれ!その手振り解いて逃げるくらいできるだろうが!」
ブラックの声にアルベルトは僅かな反応を見せるが、それはすぐに阻まれた。
「リーガル、君がこちら側の人間になれば犠牲は最小限ですむ。
ダスクタイトがこれ以上傷付くこともないし、君が研究に参加すれば軍だって無事に終わるかもしれない。
組織の第一目的は研究にあり、インフェリアはそれを邪魔しようとして狙われている。
だから君が組織に入れば彼が邪魔することもなくなり、平和に事を解決できるんだ」
イリーの囁きに、アルベルトは手を伸ばした。
ブラックの声は聞こえているのだろうか。
おそらく、聞こえているからこそ、
洗脳装置を自ら手にしたのだ。
「やめろおぉぉっ!!」
声をどれだけ響かせても、もう届かない。
虚ろな眼をした人形は、もう微笑まない。
「リーガル、行こうか」
イリーがアルベルトを引っ張って、外へ連れ出そうとする。
止めなくては、ととっさにブラックは刀を振り上げた。
イリーの背に振り下ろそうとしたが、
見慣れた銃の初めて向けられる銃口が、
胸をしっかり狙って撃ち、
意識が、遠のいた。
どこにいっちまったんだよ…
いつも脳天気に笑って、
どうしようもなくドジで、すぐ泣きついて、
だけど本当に真っ直ぐで…
そんな兄貴は、どこに行っちまったんだよ…?
暗闇の中にいた。
体を起こすと、腕に激しい痛みが走った。
生きている。
胸に受けた衝撃は、痛みになっていない。
「…ロザリオ…?」
真新しかったはずのロザリオに、傷がついている。
銃弾はロザリオに跳ね返ったらしく、床に触れる手がそれを捉えた。
普通の銃弾。ロザリオは特殊合金製らしく、傷だけのようだった。
「洗脳されてない…?いや、まさか…」
しかし、ありえないことでは、ない。
何せ、あのアルベルトなのだから。
頼りないようで、本性は…
――戻ろう。あいつは心配無さそうだ。
――大方仲間になったふりしてるだけだろ。
半分信じて、半分言い聞かせて。
――すぐに帰ってくる。
お袋、あいつのこと、守ってやってくれねーか?
どうしようもなく情けねーんだ。
何かあったら一人だけ犠牲になろうとするに決まってる。
だから…お袋が守ってやってくれ。
あいつ、あんなんだけど、
オレの兄貴なんだ。
夜道を痛みに耐えながら、伝えなければという使命感の下、車を走らせる。
辿り着いて知らせなければ。あいつならきっとそうするだろうから。
To be continued…