いつもよりずっと静かな部屋は、やはり物足りない感じがする。

仕事をしていても落ち着かず、窓の外を見る回数は自然と増える。

心配もあるし、自分自身の心の問題もある。

「大丈夫ですよ、心配しなくても」

そう言う部下の表情も、同じ感情を隠し切れていないようだ。

「リアちゃん、正直に言って良いんだぞ?」

「え?」

「心配なんだろ、あいつらの事」

彼女はその言葉に、少し間をあけて頷いた。

「当然です。…大切な仲間ですから」

カスケードはその言葉に安心し、ゆっくりと息を吐いた。

「…しかし、あいつらがいないとこんなにデスクワークが面倒なのか」

「皆さん真面目ですから」

「不良は不真面目だけどな」

どこかからくしゃみが聞こえてきそうな気もして、つい笑みがこぼれる。

気を取り直して書類の山に向かい、ペンを握った。

「そういやグレンたちは?」

「グレンさんはメリーちゃんと話してるみたいです。

カイ君はクレインちゃんの手伝いしに行って、ラディアちゃんはアーレイド君とハル君と三人で先月分の書類整理してます」

「ツキ忙しいと思うか?」

「ツキさんは今フォーク君が来てるから手が離せないって。クライス君も一緒みたいです」

「何だよ…。クリスも今どっか行ってるし、俺と一緒に仕事してくれるのはリアちゃんだけ、か」

「私じゃ不満ですか?」

「いや、寧ろ大歓迎」

その言葉にリアが笑うと、カスケードは心の中でアルベルトに謝った。

外は粉雪が舞っていて、訓練場の方から届く喧騒を吸収していた。

静かだ。こんなに静かだと落ち着かない。

だから何度も窓の外を見る。

「ほら、カスケードさん!仕事早く終わらせましょう」

リアに急かされ、謝りながら書類を片す。

しかし十枚も終わらないうちに、メリテェアがそれを中断させた。

「大佐、お忙しい所申し訳ありませんが…」

「どうした?メリー」

そっとドアを閉め、上品に歩いてくる。机の前で止まり、微笑んだ。

「お客様ですわ。…覚えていらっしゃるかどうかわかりませんけれど…」

「客?」

書きかけだったものにサインをして、カスケードは席を立った。

リアとメリテェアをその場に残し、駆け足で面会室へと向かう。

ドアの閉まる音が、静かな室内に響いた。

「…カスケード大佐、退屈そうですわね」

メリテェアが机の上の書類を手に取る。

サインがいつもより丁寧になされている。

「やはりケンカ相手は必要なのですわね。もしくは見ていて飽きない相手が…」

「そうみたい。カスケードさんったらさっきから上の空で、ちっとも進めないし…」

リアはクスクス笑って、窓の外の粉雪を見た。

「…大丈夫かな」

誰に宛てるわけでもなく、呟く。

ディア、アクト、アルベルト、ブラックのことを詳しく把握している者はごく少数だ。

正確にはカスケードとメリテェアの二人だけで、他は「大事な用があって」くらいしか聞かされていない。

ただ、その台詞を言ったカスケードの表情がいつもの楽天さを欠いていたため、何かあったのだとわかった。

リアは先ほどカスケードを問いただし、「危険な目に合うかもしれない」と聞いた。

どうしてそうなのかはわからなかったが、わかったところでどうすることもできないのだと思いそれ以上は聞かなかった。

「メリーちゃん」

「何ですの?」

「もし…もしも、だよ?誰かが傷付いて帰ってきたり、最悪戻ってこなかったりしたら…」

できることなら誰にも傷付いて欲しくはない。

元気な姿を見せて欲しい。

けれども、胸騒ぎが止まないのだ。

不安で仕方ないのだ。

「大丈夫ですわ、リアさん。彼等はタフですし…」

それに、と続けようとした所で、グレンとカイが入ってきた。

何やら不穏な雰囲気を伴っている。

「どうかしましたの?…グレンさん、先ほど頼んだものは済みまして?」

「終わった。…それよりこっちを見てくれないか?」

カイが手にしていた紙の束をグレンが抜き取り、メリテェアに渡した。

束といっても十枚に満たないので軽い。

「これは…どうしてこんなものが…?」

しかしメリテェアの表情を厳しいものに変えるには、十分な重さの内容だった。

 

面会室にはツキがいて、カスケードの姿を見ると片手を挙げた。

「なんでお前が?フォークは?」

「クライスとなんか話してる。お客はちょっと化粧室に」

「へぇ…どんな客?」

「来たら説明する」

ツキが微笑んでいる所を見ると、仕事関連ではないらしい。

おそらく、知り合いだ。

「誰だ?サクラか?」

「サクラさんじゃない。確かに女性だけど」

ちょうど軽いノック音が聞こえ、ツキが戸を開けた。

何か話して客を室内に通す。

「こんにちは、インフェリアさん」

「…あ、君…」

カスケードには見覚えがあった。

少し小柄な女性は、一月前に会っていた人だ。

とある場所の休憩所で酔っ払いに絡まれていた――

「あの時の!」

「覚えていてくださったんですか?良かった…」

女性はにっこり笑った。首をちょこんと曲げるのが可愛らしい。

「なんだ、知ってたのか」

ツキは女性を椅子に座らせ、自分は立ったまま言った。

「カスケードが大怪我した時、この人が軍に連絡をくれたんだ」

「そうなのか?!」

流石にこれは知らなかった。あの時通りかかったのが彼女だったとは。

朦朧とする意識の中、軍に連絡するように頼んだ相手。

「びっくりしました。だって、血だらけで倒れてて…中央司令部って聞こえたので慌てて連絡したんです。

無事に回復したと聞いたので改めて御礼を言おうと思って…」

「いや、礼を言わなきゃならないのはこっちだ。ありがとう、…えっと…」

そういえば名前を聞いていなかった。彼女もそれに気付いたようで、謝りながら一礼した。

「サイネです。サイネ・ポインセチア」

「サイネちゃんか。いい名前だな」

「ありがとうございます」

笑う時に首を曲げるのは癖なのだろうか、何であっても可愛く映る。

しかしサイネはその後目を伏せ、俯いてしまった。

「…どうした?」

「いえ…あの、今日はお礼もあるんですけど…依頼もあるんです」

この言葉にはツキも驚いた。どうやらそこまで聞いていなかったらしい。

「依頼って、どういう?」

「えぇ、あの…」

彼女は暫く言いにくそうにしていたが、右手でスカートをきゅっと握って少しずつ語り始めた。

「…インフェリアさんと会った日以来、誰かに追われてるんです」

 

サイネによると、あれ以来何者かに常に見られているような気がしているらしい。

気のせいだと思って普通に振舞っていたものの、ある手紙がそれは現実だと伝えた。

ワープロで作成されているそれは彼女を怯えさせ、ここに至らせるまでになった。

「何通も届くんです…全部同じ内容で」

サイネが差し出した封筒をカスケードは受け取り、中身を丁寧に取り出す。

横からツキが覗き込んで、表情を変えた。

「うわ…すごいなこれ」

「…………」

角張った文字が不気味さを持ち、率直な文章が痛い。

棘を隠さず見せびらかしているのに、何故か触れたくなる。

余計ナコトヲシタ、オ前ヲ殺ス。

意図するものは、おそらく…

「俺の所為、だよな。サイネちゃんが俺を助けたから…」

「違います!インフェリアさんは傷だらけでした。できることをするのは当然です!

こんなことする人が悪いんです。だから…」

カスケードの言葉を強く否定し、サイネは再び俯いた。

「インフェリアさんは何も悪くないんです。

でも私、他に頼れる所がなくて、ここに…」

サイネの栗色の髪を、カスケードは優しく撫でる。

守るしかなかった。

自分の所為で辛い目にあっている人なのだから。

況して以前自分を助けてくれた人なのだから、当然だ。

「もうサイネちゃんを危険な目にはあわせない。俺が守る」

「インフェリアさん…」

「カスケードで良いって。セレスさんに頼んで寮の部屋用意してもらうから安心しろ」

太陽のような笑顔に、サイネも少し落ち着いたようだった。

少し笑って頷き、零れかけていた涙を拭いていた。

しかしツキは腑に落ちなかった。

サイネの言動も、カスケードの態度も。

「じゃ、サイネちゃん寮まで送ってくる」

「待て。…サイネさんは他の人に任せて、ちょっと話さないか?」

ツキに引き止められ、カスケードは仕方なく内線に繋ぐ。

「ちょっと待ってな、今メリーかリアちゃん呼ぶから…」

しかし事務室に繋いだはずの電話に出たのは、情報処理室で仕事をしているはずのクレインだった。

「はい、こちら事務室です」

「あれ、クレインちゃん?何でそこに?」

「カスケードさん!今まだ面会室ですか?!」

「あ、あぁ…」

カスケードの声を認識した途端にクレインの声色が変わった。

焦っているような、怒っているような。

「面会終わったならすぐ来てください!大変なんです!」

何が、と訊いても答えてくれそうにない。

わかった、と電話を切り、カスケードは面会室から飛び出そうとする。

「どうしたんだ?」

「悪い、後でな!サイネちゃん送っておいてくれ!」

ツキを残し、カスケードは出て行ってしまう。

本当に忙しい人だ。

「…行こうか、サイネさん」

「はい」

 

メリテェアは書類に目を通すと、溜息をついた。

ネットワーク上で公開されていたものだとグレンが説明し、遅れてやってきたクレインが事の次第を細かく話してくれた。

先月までの事件記録をラディア達がまとめていた書類と照合していた所、偶然見つけたのだという。

「ここまで出回っていては…軍の信用にも関わりますわね」

「それだけじゃない。個人名は伏せてあるが、こんなことは調べればすぐにわかることだ。」

「どうしてこんなに軍に都合の悪いことばかり載せてあるんでしょうね」

グレンとカイがコピーを覗き込み、重々しく呟いた。

「どうした?!何があった!」

「カスケードさん!これ…」

差し出された書類を見て、カスケードは驚愕した。

二枚目、三枚目と次々に捲り、苦い顔をする。

「どうして…」

「これは深刻な問題ですわ。…今年の事件だけでなく、かなり前のものもあります。

前の物の方が隠蔽していたと言われやすいので心配ですわ。

個人の名誉にも関わりますし…」

軍の不祥事が誇張して書かれた文章。公にしていない情報までも。

「何故犯罪者の関係者を軍においておくのか…か。酷い書かれようだな」

明らかにリアの父のことだとわかる実例。

俯くリアの背を、クレインがそっと支える。

「私…迷惑かけてますよね」

「リアちゃんの所為じゃない。誰がこんな…」

リアだけではない。犯罪者を殺した者としての例や、罪のないものを殺害したとされる例も多々ある。

「元探偵だった者を犯罪者だからと殺害…俺がキースを殺したときの、だな」

グレンが呟く。以前ある事件で主犯だったキースという男を、グレンは殺してしまっていた。

「でもあれは正当防衛ですよ!やらなきゃこっちがやられてたんですから、グレンさんは…」

「グレンだけじゃない。育ての親を含む民間人数名の殺害…数多くの犯罪者を独断で殺害…民間人の少女を銃殺…

誇張して書かれているが、これも…」

カスケードとメリテェアは立場上部下の関わった事件や素性を把握している。

見てすぐにわかるものの方が多く、胸が痛む。

口には出さなかったが、大量猟奇殺人鬼であった父を殺害、というものもあった。

これだけ並べられれば、軍は人を殺すためにいると思われても仕方がない。

誇張されているためなおさらだ。

「こんなものがネットワーク上に流れていれば、軍の信用は確実にガタ落ちですよ」

「個人が非難される危険もあるわね。見つけたのが私たちだったから良いけれど、もし上層部だったら…」

「バレるのは時間の問題だ。その前に何とかしなきゃな」

しかし事態は悪化の一途を辿る。

最悪のシナリオは、すでに用意されていた。

 

「そんなことあったの?!お兄ちゃんたち大変だね…」

アクトがいないので、カスケードはツキの家で夕食を取っていた。

寮母のセレスティアが用意してくれるものを、とも思ったが、ツキが誘ってくれたので甘えることにした。

「大変は大変だけど…カスケード、俺達のことは何も書いてなかったか?」

「ツキ達のことは大丈夫だ。…多分」

ツキとフォークにも家の事情などがあったが、それに関してはカスケードも知らないので本当に大丈夫かはわからない。

しかしそれらしいことは無いとクライスが言っていたため、問題無いと判断した。

「クライス君来るって言ってたのにまだ来ないね。どうしたのかな…」

フォークが食器を並べながら言う。

クライスはあの後クレインに事情を聞いて、まだ調べているらしかった。

他の者はクレインによって無理矢理帰されたようなものだ。

「もう少しかかるだろ。…フォーク、先に食べてよう」

「うん」

フォークが再び台所へ戻った所で、ツキはカスケードに向き直った。

黒と海色がかち合う。

「…カスケード、昼間の…サイネさんのことだけど」

「あぁ、送ってくれてサンキュ」

「それは良いんだ。ただ、気になることがあって」

ツキはいつも以上に真剣だった。

いつかカスケードが一人で戦いに行こうとしたときと、同じ眼をしている。

「おかしいと思わないか?常に脅迫されてる人物が無事に軍に来れるなんて。

普通はそういう行動に出た時点で危ないだろ」

「…何が言いたい」

「あの人には不自然な点が多すぎる。確かにカスケードを助けたけど、そこに裏があるような気がしてならないんだ」

恩を仇で返すような発言をしていることはわかっている。

しかし、サイネの話を聞いているときに感じたものはこうでもしないと伝わらない。

「ツキ、サイネちゃんに何があるって言うんだよ」

「あの子が裏に関わっているようなことがあれば、あんたが余計に危なくなるって事だよ」

「それでサイネちゃんが安全ならそれでいいだろ」

「あの子もあんたを殺そうとしたらどうするんだよ!」

「ツキ!!」

台所にいたフォークも驚いて走ってくるほど、

ツキが思わず動きを止めるほど、

普段の楽天ぶりからは想像もつかないようなカスケードが、そこにいた。

普段滅多に聞かない怒鳴り声と、服の襟を掴む手。

「お前、今なんて言った?サイネちゃんが俺を殺す?何言ってんだよ!」

「思ったことを言ったまでだ。あの子は敵かもしれない。

あんたには敵が多いんだ。緊張感って言葉知ってるか?」

感情的になるカスケードに、ツキはあくまでも冷静に返そうとする。

しかし言葉はついきつくなる。

「ネットのあれだってあの子が関係ないって証明できるものは何もない。

向こうがああいうふうにスパイを送り込んでくる可能性だってあるんだってことわかってるか?」

「どうしてそう疑り深いんだよ。サイネちゃんは俺のせいで危険な目にあってるから助けるんだ。

大体関係あるって証拠もないだろ!」

「なんとも言えない状態だから言ってるんだ!少しは気をつけないと今度こそ死ぬかもしれないんだぞ!」

「お前サイネちゃんに恨みでもあるのか?!どうしてそんなにこだわるんだよ!」

「あんたが女性に甘すぎるんだよ!すぐそうやってカッコつけるんだな」

「カッコつけてなんか…っ」

「やめてよ!お兄ちゃんもカスケードさんもやめてっ!!」

フォークが叫んだ所で、やっと一瞬の静寂が訪れる。

ツキとカスケードは両者とも我に返り、フォークの方を見た。

肩で息をしながら、フォークは両者に訴える。

「やめてよ…ケンカなんかしないでよ!お兄ちゃんもカスケードさんもいつもと全然違っちゃってたよ!

いつも仲良いのに…なんでケンカするの…っ」

実年齢より幼く見える少年の訴えは、心に痛い。

その場にいたら余計に傷つけてしまいそうで、カスケードは上着を脇に抱えて玄関へ向かう。

ツキは目を逸らし、止めようとしない。

「…帰る」

「え、カスケードさんご飯は?!」

「いらないんだろ」

「お兄ちゃん…」

二人の間にできた溝を、フォークは切なく見つめていた。

初めてできた溝は、大きく深く見えた。

 

一人の部屋から見る月は、あまりにも冷たすぎた。

誰もいないということがこんなに寂しいものだったとは。

久しくこんな状況にはならなかったため、忘れていた。

「…馬鹿」

誰でもない、自分自身に。

一つのことにとらわれ、周りを見失っていた自分自身に。

ツキは自分の心配をしてくれていたのだ。

戒めてくれていたのだ。

互いに言い過ぎた。明日謝らなければ。

口をきいてくれるかどうかはわからないが。

どっと疲れが出てきて、もう寝ようと思い電灯のスイッチに手を伸ばしかける。

が、それを阻むノックの音。

昼間聞いた調子とよく似ている。

「…誰だ?」

「サイネです。お話したいことがあるんですが…」

鈴のような声にカスケードは戸を開けた。

首をちょこんと曲げて、サイネがぺこりとお辞儀をした。

「サイネちゃん…どうかしたのか?」

「寮母さんからこちらだと伺いました。今よろしいですか?」

「いいけど…」

サイネを招き入れ、戸を閉める。

静かな部屋に、気配が増える。

「話って?」

「…怖いんです、一人でいるのが」

サイネの小さな手が、カスケードの服の裾を握る。

震えているのが伝わってきて、何かしてやりたいと思う。

彼女をこんな状況に立たせてしまったのは、自分なのだ。

「サイネちゃん、セレスさんのところまで送るから泊めてもらうといい。

何かあったらって事前に頼んであるから大丈夫だ」

「いや!カスケードさんの傍にいるの!じゃないと…怖くて…」

縋ってくる小さく細い身体。

肩を抱きかけて、手が止まる。

「…サイネちゃん、俺だって男だから…」

「………」

かつて抱いた女性を思い出す。

彼女は結果的に傷つけてしまった。

過ちを犯す前に何とかしなければと思うのだが、縋る彼女は本当に弱く見えた。

「…気が済むまでいて良い。だからちょっと離れてくれないか?」

これは優しさではない。甘さだ。

「…はい」

また傷つけるかもしれない。

今は自分を抑える事しかできない。

――こんな時にあいつらがいれば…。

つい思ってしまう、虚しい希望。

「カスケードさんは、好きな人いるんですか?」

何度も聞いた台詞。

冗談半分のものもあれば、そうでないものもある。

答え方も人によって違う。

サイネには話そうと思った。そうでなければ自分を抑えられないから。

「いる。…ずっと一緒に居たかったけど、できなかった人が」

疲れている。肉体的にも、精神的にも。

普段ならこんなに辛い思いをすることはない。

度重なる事件と、喧嘩と、小さな手。

自分の事なのに難しいと感じる。

 

その気配に最初に気付いたのはグレンだった。

まだ乾ききっていない髪を拭きながら部屋をうろうろしていて、異様な空気に気付いた。

「カイ、窓の外見てくれるか?」

「窓?」

読んでいた本を置き、カイはカーテンを除けて外に目を向ける。

暗い中に雪の明かりが見えるだけだ。

「何もありませんよ」

「開けてもっとよく見てみろ。誰もいないか?」

「開けたら寒いですよ」

「いいから言うとおりにしろ」

風邪引きますよ、と言いながらも言うとおりにする。

やはり何も見えない。誰もいないどころか、小動物さえ見受けられない。

「何もいませんよ。…全く、グレンさんってば怖がりなんだから」

「怖がってなんかない。ただ変な感じがするだけだ」

何かが来るような圧迫感。

他に誰も感じていないのだろうか。

タオルをベッドの上に放った時、電話が鳴った。

受話器を取る手が、何故か焦る。

「もしもし」

『グレンさん?わたくしですわ。メリテェアです』

「メリー…どうしたんだ?」

『寮の方、何か起こってはいませんか?』

メリテェアは心配そうに言った。

やはり何か感じている。自分だけではなかった。

「今の所何も起こっていない。でも…気配はする」

『やっぱりそうですの?わたくしは先ほどから不安で…

よろしければどなたかを連れて見回ってくださいませんこと?』

「わかった。…カスケードさんは?」

『連絡していませんの。これから電話してみますわ』

受話器を置き、クローゼットを開ける。

早くこの違和感の正体を確かめなければ。

「カイ、着替えろ」

「どうしたんですか、いきなり」

「外に行くからお前も来い」

カイの着替えを放って、自分も急いで着替える。

急がなければならないような気がした。

「早くしろ」

「わかりましたよ」

時刻はもうじき十時になろうとしていた。

いつもより冷たい風が吹いていた。

 

「…あぁ、わかった。今から見てくる」

メリテェアからの連絡を受け、カスケードは窓の外をちらりと見た。

怪しいものは何一つ見えないが、グレンは何かを感じ取っていたらしいので念のため確かめに行く。

「サイネちゃん、セレスさんのところ行くか?ここには置いてあげられないんだ」

「どうしても、ですか?」

「どうしてもだ」

サイネはしぶしぶながらも承諾し、カスケードと一緒に部屋を出た。

カスケードは大剣を背負い、銀色を左耳に光らせた。

普段よほどのことがない限り大剣は持ち歩かないのだが、今は何故か手にしていた。

サイネを寮母の下に送り届け、カスケードは冷たい空気に入っていった。

グレンとカイの姿が見え、そこへ走る。

「グレン!薬屋!」

「カスケードさん…メリーから?」

「あぁ。何かあったか?」

「いえ、何も」

どちらにしろカスケードには何も感じられない。

何もないなら一通り見回って戻ろうと思い、一歩踏み出した。

「…何だ?」

踏み出した途端に、空気が変わった気がした。

何か嫌な物がまとわりつくような感じがする。

「何なんだ、これ…」

「カスケードさん、何か来ます!」

グレンの声に振り返ろうとしたとき、すぐ横に気配を感じた。

とっさに屈むと、頭上で風が引き裂かれた。

短剣を手にした、黒い服の人間。

顔は面で隠しているが、冷たい視線が向けられているのがわかる。

「何だ…っ?!」

黒装束から離れ、体勢を立て直そうとする。

が、そこで同じような格好の者に囲まれていることに気付いた。

グレンとカイも同じ輪の中にいて、二十人ほどの黒装束と睨み合う。

「グレン、カイ、大丈夫か?」

「問題ありませんよ」

「カイ、気をつけろ。…こいつら全員殺気立ってる」

グレンが銃を握り締める。カイもグレンに持たされたため自分の剣を持っている。

カスケードは大剣に巻いた布を素早く剥がし、柄を強く握った。

黒装束は囲むだけで、先ほどのように攻撃はしてこない。

いや、それどころか少しも動いていないのだ。

「こいつら…おかしいですよ」

「確かにな」

まるで人形のように固定されている。

先ほどまでの殺気はまるで消え失せ、戦う意思どころか考えることを知らないようだ。

「何もしてこないうちは攻撃するなよ」

「わかりました」

攻撃しても三対二十では分が悪い。せめて誰か来てくれれば。

しかし闇の向こうには何も見えない。このまま戦うしかない。

張り詰めた空気の中、澄み切った空の下。

黒装束が僅かに揺れ、得物を握り締める手に力が入る。

 

「怖がらなくても大丈夫だよ」

 

不意に響く、済んだ声。少年のようだが、大人っぽさも含んでいる。

カスケード、グレン、カイは一斉に声の方に目を向ける。

黒装束の円の外側に、もう一人の黒装束がいた。

他の者と同じように面をつけていて、顔はわからない。

けれども他とは違う雰囲気をもっていた。

穏やかで、落ち着いていて、

氷のように冷たい。

「怖がらなくても大丈夫。僕の指示がないと動かないから」

黒装束の円を指して言う。

いつでも撃てるように引き金に指をかけたまま、グレンが口を開く。

「…誰だ」

「誰だろうね。少なくともグレン君とカイ君は僕の事知らないはずだよ」

顔と名前を知っている。

当たり前のことであるように言葉を口にする。

「僕は君たちが邪魔しないなら危害を加えるつもりはないよ。だからこうして攻撃しない」

黒装束の円は微動だにしない。彼の言うとおり、指示がないと何もしないのだろうか。

「でも、邪魔するなら君たちも一緒に消えてもらうよ」

彼は細い剣を取り出した。それほど大きくはなく、刃が月の光を反射する。

形状がよく見るものに似ていた。身近にはいないが、使っている者を見たことがある。武器庫でも同じものを見た。

軍支給の剣の一つと全く同じもの。

彼は面の奥で冷たく微笑んだ。

「カスケードと一緒に、ね」

澄んだ響きは、耳の奥で記憶と重なる。

 

受話器を置き、リアはラディアの方を振り向いた。

「ラディアちゃん、メリーちゃんが見回り行って来てって。どうする?」

「見回りですか?私も行きます!」

メリテェアの声が心配そうだったため、リアは念のため外へ出ることにした。

グレンやカイ、カスケードがすでに連絡を受けているという。何かあってもこのメンバーなら大丈夫だ。

リアは上着を羽織り、ラディアの仕度を待って外に出た。

冷たい空に、月が綺麗だった。

こんなに綺麗だと、胸の奥の傷が少し痛む。

母が殺された日も、こんなふうに月が綺麗だった。

眩しいほどの明かりは、自分を救ってくれた人の髪を透かした。

とても綺麗だったことを、今でも覚えている。

「グレンさん達どこでしょうね」

「もうちょっと探してみようか」

寮の周りを一通り見てみようと、リアとラディアはゆっくり歩いていった。

声と音がするほうに、段々と近付く。

異様な光景に、歩みを進める。

「…何?この重い空気…」

「リアさん、あれ!」

ラディアが指差した方に、黒い壁があった。

壁の向こうに見えたのは、月明かりに光る銀色。

「グレンさん!カイ君に、カスケードさんも!」

囲まれている。壁は黒服を纏った人間だ。

その外側にもう一人黒装束がいる。

「グレンさんっ!」

リアの呼びかけがグレンの耳に届いた。

当然その声はカイやカスケード、

黒装束の彼にも、届く。

「リア!来るな!!」

グレンが叫ぶと、黒装束の彼は反応した。

リアのほうへゆっくりと首を動かし、面をつけた顔を見せる。

「リア…リア・マクラミー…?」

その名を、呟く。

「だ、誰?あなた…」

不審から自然に腰に手が行く。

しかし、いつもの鞭は部屋に置き忘れ、ここにはない。

――なんでこんな時に忘れてきちゃうのよ…私のバカっ!

僅かに後ずさりし、ラディアを庇うように背に隠す。

「リアちゃんに手を出すな!お前の狙いは俺だろ?!」

カスケードが叫ぶ。リアはその言葉をはっきりととらえた。

「狙われてるって…カスケードさんが?!」

「リアちゃん、逃げろ!」

よそ見をした数秒にも満たない間に、黒装束はもうリアの目の前に来ていた。

上着の裾を握る。隙があれば攻撃して離れ、囲まれている三人を助けようと決めた。

ラディアはリアから離れ、応援を呼ぼうとこっそり走り去る。

「リア…君が…?」

「…それが何?」

面の奥の表情が読めない。

怖い。

わからない相手ほど、恐ろしいものだ。

「そうか…そうだよね。もうそんなに経ってたんだ…」

自分の事を知っている。

一体、誰なのか。

「君の両親、殺されたんだよね」

「!!」

一瞬にして甦る記憶。あのおぞましい光景が脳裏に再生される。

「お前、そんなこと…っ!」

カスケードは円から飛び出そうとしたが、

「出ないで!」

黒装束の彼の言葉に反応し、円を作る黒装束の一人がカスケードの腹部を殴る。

「カスケードさん!」

「…大丈夫だ。それより、リアちゃんが…っ」

衝撃を受けた箇所を押さえながら、カスケードはよろよろと立ち上がる。

リアと黒装束の彼が見える。

「誰…誰なのあなた!」

「覚えていないかな?」

彼は面に片手を伸ばし、もう片方の手を被っているフードにかけた。

二つを取り去るのは同時で、月明かりがぱらぱらと広がる髪に透けた。

それはカスケードからも良く見えた。

とても、よく。

 

リアの脳裏に、優しい声が響く。

「怖かっただろう」と。

「もう大丈夫だからね」と。

 

月明かりに輝く綺麗な緑色は、夜の闇に浮かぶ。

澄んだ緑の瞳は、月よりも美しい。

 

「ニア!」

「久しぶりだね、カスケード。…あ、この前クローンに会ったんだっけ」

ニアはカスケードに向かって微笑むと、視線をまたリアに戻した。

「君とは何年ぶりかな。あの頃はまだ小さかったよね。

それにしても随分大人っぽくなったね」

「本当に…ニアさんなんですか?」

でもニアはいないはずだ。

自分を助けてくれたのがニアだという真実を知って以来、何度もカスケードと一緒に墓地へ出向いたはずだ。

じゃあ、目の前の懐かしい色は…?

「またクローンか?!この黒いのも裏の奴らなのか?!」

カスケードの声に、ニアは笑みを見せる。

あの頃の太陽のような笑みではなく、

冷たい嘲りを。

「その黒いのはそうだよ。僕の指示どおりに動く人形みたいなものだけどね。でも僕は違う」

リアから離れ、黒装束の円を崩す。

一歩一歩近付きながら、語りかける。

「あの時死んだのが本当に僕だって証明、できる?」

「どういう、こと、…」

「あの時もう入れ替わってたとしたら?そうすれば君の前で死んで見せることができるよね」

「そんな…」

目の前で止まる。

緑色が映る。

少し伸びた髪と、あの頃より大人びた顔つき。

ニアは成長していた。

「全部偽者で、僕が本物だったら…?」

上着からのぞく服の襟に触れ、外れていたボタンを丁寧にかける。

細い指の動きは、あの頃のニアと全く同じだ。

「まさか…そんなはず…」

「信じてくれないの?酷いなぁ…」

服から指が離れる。

「僕ら、親友じゃなかったの?」

切なげな表情に、何も返せない。

混乱する意識で、これだけはと思うことだけ言う。

「グレン、カイ、…リアちゃん連れて戻れ。ラディが誰か呼んできたら追い返してくれ」

「何言ってるんですか!リアさんのことはわかりましたけど、でも…」

「早くしろ」

静かな声は、僅かに震えている。

グレンはカイの手を掴み、リアのほうへ歩き出した。

「ちょ…っ何するんですかグレンさん!」

「カスケードさんの言うとおりにしよう。どっちにしろリアは連れて行ったほうが良い」

「でも!」

「俺たちに何ができるんだ!…今は何も言えないし、できない」

自分達は知らない。知らないものが何をしても、空回りにしかならない。

「リア、行こう」

「でも…私…」

「行きましょう、リアさん。カスケードさんとグレンさんがそう言ってるなら、従ったほうがいいです」

戻ってきたラディアと数名の軍人も追い返し、その場から離れる。

後に残ったのは、動かぬ人形と二人の影。

 

「ニア、お前…本当にニアなのか?」

「だからそう言ってるじゃない。証拠もあるよ。

…いつだったか、科学部へのお使いを頼まれたよね。あの時の薬品名、まだ言えるよ。

危険薬物レベルB系第四型種の識別番号16749…カスケードは覚えてないかな?」

「覚えてない」

しかしニアなら覚えていても不思議ではない。

「じゃあ、よく一緒に歌った唄…これは覚えてるよね」

ニアの唇からメロディーがこぼれる。

懐かしい響きが辺りを包む。

あの頃のニアそのままの音。

「…これでも、信じない?」

信じないわけではない。信じたくないのだ。

さっき聞いた言葉がニアの口から発せられたものだということを。

「ニア、どうしてこんな…」

「いろいろあってね。今はある人にお世話になってる」

「ある人?」

「うん。その人の言うとおりにすれば全部上手くいくんだ」

ニアの笑顔――何年も見ていなかった。

だけど、太陽とは言えない。

「だから今度もその人の言うとおりにしたんだ。

カスケードの所に行く女の人がいるから、その人に発信機をつけて後を追えって。

そしたらそのとおりになって、君と会えた」

「発信機?!」

おそらくサイネのことだ。まさか発信機までついていたとは。

いや、発信機をつけていたからこそ無事に辿り着いたのだ。

カスケードのもとに行くための、道具だったのだから。

「その人は言ったんだ。自分達は軍に邪魔されて、自由になれないって。

自由になるためには諸悪の根源を消さなきゃならないって」

まただ。

また聞きたくない言葉が並ぶ。

今度は親友の声で聞かなければならないのか。

「…それで、俺を消しに来たのか?」

大剣の柄を、祈るように握り締める。

 

「そうだよ…カスケードを消すために来たんだ」

 

親友の声で、親友の笑顔で、

無情に響く言葉。

「カスケードが邪魔なら、僕は消さなきゃならない。

あの人が言うんだから、それが正しいんだ」

ニアが手にしている剣を振り上げる。

柄にライオンのマークがついているため、軍のものであることは間違いない。

ニアが大剣を使う前に使用していたものだ。

「だから…さよなら」

刃は月の光で筋を作り、カスケードを狙う。

間一髪でかわし、次の攻撃は大剣で受け止めた。

金属のぶつかる、澄んだ音がする。

「ニア、お前が本当のニアなら考え直せ!俺はお前と闘いたくない!」

「君が闘いたくなくても、僕はやるんだ」

笑顔は完全になくなっていて、冷たく重い表情だけが見える。

互いに剣を振るい、何度も何度もぶつかる。

ニアは容赦なく、カスケードはニアを傷つけないように。

「その大剣だって僕のだよね…そのカフスも。

僕、君にあげた覚えはないんだけどな」

「今のニアには返せない。…昔のように笑うニアじゃなきゃ、返せない!」

再び金属音が響いた後、地面に何かが突き刺さった。

月の光を反射して、眩しい輝きを放っている。

ニアの持っていた剣が刃を失い、機能を果たせなくなっていた。

「…よく手入れしてるんだね。僕のだったから?」

「あぁ。ニアのだからずっと大事に扱ってきたつもりだ」

「そう…」

表情を無くしたニアが、カスケードを見る。

海色と、光を無くした森の色。

「墓穴掘っちゃったね…カスケード」

「?!」

カスケードが気付いた時には、黒装束が周りを囲んでいた。

二人がカスケードを取り押さえる。

「放せぇっ!」

逃れようともがけばもがくほど、押さえる力は強くなる。

人間の力じゃない。

「やっぱり返して欲しいな…」

ニアが近付き、笑った。

「僕が使うべきものだよ、それは」

取り押さえられてもなお大剣を放さない。

ニアは片足を上げ、勢いをつけ、

カスケードの腹部を蹴った。

「…が……っ」

先ほど殴られた箇所に再び衝撃が加えられる。

痛みは深く、強い。

「前から思ってたけど、親友親友ってなんか言ってて変な感じするんだ。

カスケードが親友だなんて思いたくないんだよ」

息ができない。頭が働かない。

声だけははっきり聞こえる。

「僕を殺したのは君だよ。最初も、その次も。

特にこの前のは酷かったよね。心臓を一突きだもん」

倒れようにも、押さえられているためにできない。

「君だって僕のこと親友だなんて思ってなかったんじゃない?

人のつながりなんて、いつでも使い捨てできる程度のものなんだよ。

いやになれば捨てれば良い。それで気が済まなきゃ殺せば良い。

いつだって、誰だってそうなんだ」

緩んだ手から大剣が抜き取られる。左耳から乱暴にカフスを奪われ、目の前でニアが装着する。

「だから僕も言えるよ、君への気持ち」

似合っている。だが、銀色の輝きは恐ろしく冷え切っている。

大剣の刃も、触れたものが砕けてしまいそうなくらい凶暴に見える。

「カスケード…大嫌いだよ、君なんか。今すぐ消えて欲しいくらい」

意識に突き刺さる言葉が、一番聞きたかった声で語られる。

 

――僕はニア・ジューンリーです。君と同じ三等兵。

 

――僕は、僕みたいな寂しい思いをする人を増やさないように…僕を必死で助けてくれた軍人さんのようになるために、ここにいるんだ。

 

――僕は…カスケードが、村を助けたから…助ける軍人に、なったから…嬉しいよ…

 

――ありがとう、カスケード。…親友で、いてくれて。

 

――僕はいつでもカスケードのこと見守ってるからね。

 

全部幻だったのか?

全部俺だけが見てたことなのか?

ニアは俺のことが嫌いで、俺だけが好きで…

笑える話だな、本当に。

ごめんな、ニア

俺、また気付かなかったよ。

 

大剣が振り上げられる。

視界の端に、大きな光が見えた。

 

「カスケード、何やってる!逃げろ!!」

 

来るはずのない声。

呼ぶはずのない声。

大喧嘩したはずの声。

「…ツキ…?」

急に身体を支えていたものがなくなり、カスケードは地面に倒れこんだ。

黒装束は散って、再び動きを止められた。

いつもカスケードを支えてくれる、仲間によって。

「カスケードさん、無事ですか?!」

「…メリー、何で…」

「心配で見にきましたの。グレンさん達に話は聞きましたわ」

「なんで…ツキが…」

メリテェアの向こうに、黒装束と闘うツキの姿が見えた。

「ケンカしたのに…何で…」

「ツキさんはああいう方ですわ。大切なものは何が何でも守るんです。…あなたのように」

黒装束は次々と倒され、最後の一人がグレンによって地面に伏せられる。

「メリー、カスケードさんは?!」

「無事ですわ。たいした怪我もないようですし…」

「カスケード!」

駆け寄る影。メリテェアがその場を離れ、代わりにしゃがみこむ。

「ツキ…」

「怪我はないな。どっか痛くないか?」

「腹」

「…多分内臓いってないから大丈夫だ。自分で立て」

「ひっでぇ…」

二人は互いを確認して、笑いあう。

言い合いなどすっかり忘れてしまったように。

「そうだ…グレン、ニアまだいるか?」

体を起こしながら尋ねる。

グレンは首を横に振った。

「見当たりません」

「そうか…」

カスケードは立とうとしてよろめき、ツキに支えられて漸く足に力を入れた。

一人で部屋に帰ることはまず無理だろう。

「カスケードさん…ニアさんって、どういうことですの?またクローンが?」

「わからない。でも…」

あれは本当にニアなのだろうか。

もし生きていたなら、残酷な救われ方だ。

 

部屋に辿り着いて時計を見ると、まだ一時間くらいしか経っていなかった。

あんなに永く感じられたのに、時計は忠実に時を刻んでいる。

「ツキ、サンキュ」

「気にするなよ、さっきの詫びだから。言い過ぎた」

「俺もだよ。少し考え足りなかったな。

でも、何でサイネちゃんが狙われずに来れたかっていう謎は解けた」

ニアから聞いた発信機の話をツキにすると、頷きながら聞いてくれた。

少し考えてから口を開く。

「そうか、あっちはあっちで彼女をここに来させなきゃならない理由があったのか」

「そうらしいな。サイネちゃんは無実だろ?」

「…被害者、だな…念入りな作戦に巻き込まれた。」

しかしまだ納得できない。口には出さなかったが、まだ彼女には何かありそうな気がした。

もしかすると、ただカスケードを助けただけではないのではないか。

他にも狙われるようなことをしてしまったのではないだろうか。

「どっちにしても、あまり情をうつすと…」

「わかってる。気をつけるよ」

「わかれば良い」

ツキは片手を挙げ、部屋を後にした。

何度も助けられている。

ツキのおかげで何度も救われている。

「親友は一人だけ…なんて決まりはないよな」

そう呟いてから、あ、と思う。

「ニアは…親友って思ってなかったんだっけ」

ニアが語ったことが真実なら、過去は全て幻。

見てきたものは全て偽り。

どこから幻になったのだろう。

いつから偽物になったのだろう。

 

痛みにまどろみ、疲れにおちた。

後は朝までこのままでいたかった。

しかし、それは許されない。

まだ終わっていないのだ。

 

寮のエントランスから、何かが倒れる音が聞こえた。

 

 

To be continued…