繰り返される場面はいつもと同じ。

殺され、殺して。

今日はそれだけでは終わらない。

殺され、殺して、奪われた。

「………っ!」

跳ね起きてみると、さっきまでのおぞましい場面は白い壁に変わっていた。

自分を取り囲んでいた闇は、柔らかな布団になっていた。

「いて…っ」

右肩が痛む。

思わず手をやって、そこに巻かれているのが包帯であると気付く。

何時の間にか服も変わっていた。

きょろきょろと辺りを見回して、ベッドの横の棚も一つ一つ開けて調べた。

何もかかっていない胸元に手を当て、溜息をつく。

「黒すけ、大丈夫か?」

部屋に入ってきた知り合いを見る。

海色の瞳がこっちを見ていた。

「ここ…病院か?」

「あぁ。お前が寮のエントランスで倒れてるって聞いたときはびっくりした。

怪我もしてるし…」

カスケードは椅子に腰掛け、ブラックを真っ直ぐ見る。

「…一人だし」

ブラックは目を逸らし、入院着の胸の辺りを掴む。

そこには何もない。

「何があった?」

すぐには答えられなかった。

答えようとすると、理性が邪魔をする。

感情を出すまいとする。

カスケードもそれをわかってか、何も言わずに待ってくれた。

「…あの、さ」

漸く言葉は出たものの、語れそうにはない。

「どうした?」

「あいつの上着は?」

「さっきまで調べてた。…そろそろ手元に返せる」

「…そうか」

「ロザリオはここ」

「!」

ブラックがカスケードに目を向けると、十字が輝いた。

その向こうに笑顔が見えた。いつもの笑顔だ。

「何で…」

「お前、ずっと握ってたからな。よっぽど大切なものなんだと思って。

取るの大変だったんだぞ」

「取るんじゃねーよ」

急いでカスケードの手からロザリオを奪い、首にかけた。

傷が残る十字が揺れる。

「どうしたんだ?それ」

「アンタには関係ねーよ」

「アルに貰ったんだろ?」

「…?!」

あっさり答えを出された。これなら訊くこともないのではと思うほど。

ブラックの反応を面白がりながら、カスケードはさらに追い討ちをかける。

「お守りなんだろ?お前にとって大事なものなんだよな」

「…うるせー」

ブラックが赤くなるのが珍しいので、余計に面白がる。

そっぽを向いてしまったブラックに、カスケードは改めて言った。

「アルは…それに賭けたんだな」

何があったかは知らない。しかし、一つの事実はわかっている。

ここにアルベルトはいない。

昨夜戻ってきたのはブラックだけだった。

「黒すけ、腹減ってないか?」

「…別に」

「待ってろ、今持って来るから」

ブラックの言葉などほとんど聞かずにどこかへ行ってしまった。

相変わらずだ、この男は。

ブラックは溜息をつく。が、さっきの溜息とは全く違うものだ。

今何時だ、と思い時計を見ると、七時半だった。

自分が目覚めたのは七時過ぎだろう。いつもとそう変わらない時間だ。

こんな状態でも体内時計は狂わないらしい。

空は澄んでいる。虚しいほどに。

 

メリテェアが昨日の一連の事件について調べている所へ、クライスとクレインが報告書を持ってきた。

「簡単にまとめてあるわ。これだけでもかなりのことがわかるはずだけど」

「ありがとうございます。…ところで、昨日の騒動ですが…」

「あの時オレ達帰ってたからな…よくわかんない。ただ、関連してると思う」

軍批判情報と、ということだろう。

メリテェアは頷く。

「それはなんとなくわかっていましたわ。ご苦労様でした」

二人が持ち場に戻った後、メリテェアは報告書にざっと目を通した。

後でカスケードと話し合う必要がある。

できるだけ、上層部にはバレないように。

「ここからが問題ですわね…」

昨夜の一件でカスケードは疲れているはずなので、今日は休みを取らせてある。

人手が足りない中で半強制的な処置を取ったため上層部からは非難されたが、大したことはない。

メリテェアは年齢こそ低いが、准将なのだから。

――わたくしがやらなくて誰がやる、ですわ。

気持ちの強さは十分だ。

 

いつもと変わらず仕事を続けるリアを、グレンとカイ、ラディアは心配そうに見ていた。

昨日のことで相当なショックを受けているはずなのに、それを表に出さない。

「リアさん、大丈夫なんですか?」

「え?…大丈夫よ。なんで?」

ラディアが尋ねても、このような答えしか返ってこなかった。

昼休みになってから、食堂でグレンがそれとなく訊いてみた。

「リア、無理してないか?」

「無理…ですか?」

「あんなことがあって、本当に平気なのか?」

グレンは本気で心配していた。しかし、リアは笑っていた。

いつもと同じ笑顔を見せていた。

「私は平気ですよ」

グレンが怪訝な表情をすると、リアは少し困った表情をした。

どうして、と聞かれる前に、自分から話す。

「…だって、カスケードさんの方がきっと辛いから…。」

親友とあんなことになったのだ。

ニアが本物でも、偽物でも、辛いに決まっている。

生きていても死んでいても辛いという思いを、リアはよく知っていた。

「グレンさん、皆にも言っておいてください。私はなんともありませんから」

リアは強かった。自分達が思っているより、ずっと。

グレンはホッとして食事を始めた。

 

昼休みを利用して、ラディアはブラックの治療のために病院を訪れた。

ただしラディアだけだと何をしでかすかわからないので、上司同伴だ。

「だからって何で俺なんですか、カスケードさん」

カイは当然不機嫌だったが、カスケードは特に気にしていない。

「手が空いてるのがお前くらいだったんだよ。頼むぞ、薬屋」

「ブラックとなんか会いたくないです」

「カイさん、行きますよ!ブラックさんの傷早く治してあげないとグレンさんがお見舞いに来ます」

「あ、それは阻止しなきゃな」

そんな会話をしながらも病室に辿り着き、戸を開ける。

「黒すけ、傷治すぞ」

「あ?…ってなんでカイがいるんだよ!グレンにしろ」

「それを阻止するために来てやってるんだよ」

「ハイハイ。肩見せてくださいブラックさん」

ラディアによる治癒中はブラックも大人しくしているようだ。

段々傷が癒されてきて、ラディアが手を翳すのを止めた時には、もう楽に肩を動かせた。

「痛くないですか?」

「あぁ。…どうも」

ブラックがそう言うと、ラディアは目を丸くし、首をかしげた。

「何だよ」

「…ブラックさんにお礼言われるなんて意外でした」

「あぁそう」

「普段礼も何もないもんな、ブラックは」

「黙れバカイ」

「何だと、このまっくろくろすけ」

「ケンカするなよ、病院なんだから」

カスケードが間に入って言い合いは終わり、ラディアとカイは司令部に戻った。

後に残ったカスケードは椅子に腰掛ける。

「楽になったか?」

「一応」

「そっか、良かったな」

そうだ、良かったんだ。

なのに物足りない感じがするのは何故だろうか。

「アルがいたら泣いて喜ぶな」

カスケードはわかっている。

この空虚感の原因を、知っている。

話さなければならない。

アルベルトがどうなったかを伝えるために戻ってきたのだから。

カスケードの置かれている状況を知らせるために走ってきたのだから。

「…アイツの、ことだけど…」

「ん?」

言わなければならない。

なのに、邪魔をするものがある。

おぞましい記憶が、思考を止めさせる。

「…やっぱり、いい」

さっきから何度繰り返しただろう。

どうして言えないんだろう。

「少しずつで良いさ。その間にアルが帰って来るかもしれない」

何度この台詞を聞いただろう。

その度に自分らしくない考えを持つ。

申し訳ない、と。

 

「カスケードさん!大変です!」

午後二時ごろ、アーレイドがブラックの病室に現れた。

「どうした?病院なんだからもう少し静かに…」

「わかってますけど、そんなこと言ってられないんです!アクトさんが帰ってきました!」

「アクトが?」

どうしたのだろう。予定より早い。

早く話がついたということならば良いのだが、アーレイドの態度からして違うらしい。

「無事に帰ってきたか?」

「それが…怪我してます。今手当て受けてますけど…」

また当たって欲しくない予想が当たる。

ブラックが早く行け、と顎で合図したので、カスケードはアクトのもとへ向かった。

薬の匂いが充満する病院の廊下を進み、診察室の方へ。

アーレイドについていくと、椅子に見たことのある顔を見つけた。

「あれ?マルスダリカ町長の息子じゃないか?」

カスケードが声をかけると、その人物は反応した。

「…あ、中央の大佐?」

「そうだけど、何でここに?」

ヤージェイルが答える前に、アーレイドが言った。

「この人がアクトさん連れて来たんです。アクトさんの荷物はハルが部屋まで運びました」

「へぇ、お前がアクトを…」

何もしてないだろうな、と思わず訊いてしまいそうになるが、何とか抑える。

「サンキュ。…どういう経緯でそうなったのかは知らないけど、ここまで連れて来てくれた事に感謝する」

「あぁ。…傷の男いねーの?」

「あいつは出張中」

話している間に治療が終わったようで、アクトが診察室から出てくる。

医師も一緒に出てきて、カスケードを見つけると会釈した。

「アクト、大丈夫か?」

「うん…なんとか。カスケードさん仕事は?」

「メリーに休まされた。…何で怪我した?」

「…………」

これは答えたくないらしい。

ブラックと同じだ。

「ごめんな、無理して話さなくていい。…ちょっとこっち来ないか?」

「こっちって…」

「ブラック帰ってきてるんだ。ちょっと怪我してて入院してる」

「ブラックが?!…アルベルトは?」

「…こっちで話す。それじゃな、マルスダリカ町長息子」

「ヤージェイルだ。…じゃあな、アクト」

「ん…ありがと」

アーレイドもここで帰るらしく、カスケードはアクトだけを連れてブラックの病室に戻った。

「ブラック、大丈夫か?」

「どうってことねーよ、もう治ったし。お前は?」

「おれももう大丈夫。…アルベルトはどうしたんだ?」

訊いてからしまったと思う。

ブラックの表情から、アルベルトに何かあったのは明らかだ。

カスケードの方を見ると、それを肯定するように頷いた。

「…そうか」

なんと言ったらいいのだろうか。言葉が見つからない。

「お前は?」

「え?」

「何で怪我なんかしたんだよ」

さっき答えられなかった質問を、ブラックからもされてしまう。

黙って俯くことしかできないアクトの様子から、ブラックも察した。

「…カスケードさん」

「ん?」

アクトは質問に答える代わりに、一つだけ言った。

震えながら、しかし、はっきりと。

「カスケードさん、気をつけたほうが良い。…危ないから」

この言葉に反応したのがカスケードだけではなかった事に、アクトは気付かなかった。

 

メリテェアとツキが昨日のことについて話していたところに、カスケードが戻ってきた。

「カスケードさん!休んでくださいとわたくし申し上げたはずじゃ…」

「ちょっと電話借りるだけ。…良いよな?」

「それは良いけど…」

ツキの返事を待たずに、カスケードは受話器を取る。

国際電話に繋ぎながら、メリテェアとツキに話し掛ける。

「アクトが帰って来たの聞いたか?」

「あぁ、アーレイドに指示出したのメリテェアだからな」

「ブラックさんは大丈夫ですの?」

「今日一日は入院だ。でももう大丈夫」

電話が繋がり、カスケードの声が仕事仕様になる。

繋いだ先は、ノーザリア。

「もしもし、私はエルニーニャ王国軍中央司令部のカスケード・インフェリア大佐です。

カイゼラ・スターリンズ大将でしょうか?」

『エルニーニャのインフェリア大佐?初めまして、スターリンズです。

あなたのお話は名誉大将殿から伺っております』

ノーザリアの新大将はカスケードともそんなに変わらない年齢らしい。

この若さで大将に選ばれるほど有能な人物だということだ。

「ゼグラータ名誉大将殿にお話していただけるとは光栄です。これからも宜しくお願いします。

ところで、今そちらにディア・ヴィオラセント中佐は?」

『ちょうど来てます。何か急ぎの御用事でも?』

「えぇ、彼にとっては重大なことです。お願いできますか?」

数秒待ち、その間にツキの用意してくれた紅茶を一口飲んだ。

電話の向こうで何か聞こえ、続いて声がした。

『何だよカスケード』

相変わらず生意気な声だ。

しかし今はそれよりも。

「ディア、アクトが戻ってきた。…打撲傷つきで」

『何だと?!』

アクトのことになると声の調子がまるで変わる。

やはりずっと心配だったようだ。

「たいしたことはないらしい。…でも、何があったか詳しく話そうとしないんだ。

俺が危ないとか言ってるが、どういう状況でそれがわかったのかは言わない。

聞きだせるのはお前だけだと思うから、片付いたらすぐ戻って来い」

『チクショウ…こんな時に…!』

「何かアクトに伝えておくことはあるか?」

『…すぐ戻るから待ってろって言っとけ』

ディアらしい伝言だ。電話の切り方も、耳に響く。

カスケードは受話器を置くと、息をついた。

「サンキュ。じゃ、俺は一旦戻る」

「カスケード、危ないって…昨日の事と関係あるのか?」

電話の内容を聞いていたツキとメリテェアは、心配そうな面持ち。

「それはわからないけど、とにかく待ってみるさ。

そのうち話してくれるかもしれないし、ディアが帰ってくればアクトも何かしら言うだろ」

カスケードが部屋を出た後、メリテェアがポツリと呟いた。

「寝てませんわね、あの顔…」

休みの意味がないが、この際仕方ない。

どうせ今休めといっても無駄なのだ。

 

カスケードが病院に戻ってくると、自販機の前にアクトがいた。

無糖のコーヒーを選んでボタンを押し、暫く待つ。

「アクト、何やってるんだ?」

「カスケードさんお帰り。ブラックが喉渇いたって言うから…」

「そっか。…何か言ってたか?」

「何も」

進展はない。そう簡単に進むものではない。

「さっきディアと話した」

「帰ってきたの?」

「いや、電話。お前に伝言預かってきた」

コーヒーを取り出し、次にミルクティーのボタンを押す。これは自分の分だ。

「カスケードさん、何か飲む?」

「いや、いい。…すぐ戻るから待ってろってさ」

「言われなくても待ってるよ。謝らなきゃいけないこともあるし」

ミルクティーが作られていく過程を見ながら、アクトは暫く黙っていた。

完成品を自販機から取り出し、漸く声を発した。

「カスケードさん、…おれ、アクトだよな?」

「え?アクトはアクトだろ?」

「…そう、だよな」

この不可解な質問のわけも、ディアが帰ってくればわかるのだろうか。

喧嘩相手の帰りを、今ほど待ちわびたことはない。

 

面会時間が終わり、アクトを寮の部屋へ送っていった。

今日は結局何も聞くことができなかった。

仕方ないことではあるが、やはり気になる。

「…あれ?」

自分の部屋の前にいる者に気付いた。

栗色の髪の少女が立っている。

「サイネちゃん?」

「カスケードさん…良かった、やっと帰ってきた」

首をちょこんと曲げて、サイネは微笑んだ。

「どうしたんだ?」

「会いたかったんです。今日はほとんど一人で寂しくて…」

「セレスさんは?」

「忙しいみたいで…仕方ないんです」

サイネと部屋に入り、明かりをつける。

寝室のドアを見て、そういえばあまり寝ていないな、と思う。

また寝る暇がなくなってしまった。

「なんか飲むか?」

「お構いなく」

サイネはそう言ったが、カスケードはもう紅茶を棚から出そうとしていた。

アップルティーの缶に手を伸ばしかけて、やめた。

「なんとかって花の紅茶あるけど、大丈夫か?」

「お花ですか?私大好きなんです」

「そっか、良かった」

アップルティーは淹れる気にならない。

その思い出は、幻だから。

「ちょっと待ってな」

「はい。…ありがとうございます」

明るい色がじんわりと広がる。

見つめていると、思い出してしまう。

昨夜のできごとの一部始終が頭の中を巡る。

「カスケードさん、今日女性の方に話をしたんです」

サイネの声に我に返り、慌てて取り繕う。

その態度はサイネには気付かれなかったようだが。

「女性?」

「はい。…リルリアさんと仰る方です」

メリテェアだ。多分昨日のことについてだろう。

「持ち物を調べられました。…そしたら、発信機がついていたらしくて…

これも私を狙ってる人たちがやったんでしょうか?」

実際にはカスケードを狙うために仕組まれたことだったのだが。

しかしそれは言わないでおき、カップに紅茶を注いだ。

「リルリアさんはそうだって仰ってました。私、怖くて…」

「心配するなよ。サイネちゃんは俺が守るから」

「…はい、あなたは私を助けてくれるって、わかってます」

紅茶は花の甘い匂いがした。

サイネはカップを手で包み込んで、一口飲んだ。

「…美味しいですね」

首を曲げて微笑み、もう一口。

「お腹減りません?私作りましょうか」

「いや、大丈夫。今来ると思うから…」

「?」

サイネが台所へ立とうとするのを制止したところで、ノックの音がした。

「カスケードさん、おれだけど」

「入って良いぞ。…サイネちゃん、座れよ」

サイネを無理矢理座らせ、玄関でアクトを迎える。

耐熱ガラス製の器を持っていた。

「グラタン。…ちょっと焼けすぎたけど」

「美味そうだから良し。もう一人いるけど良いか?」

「もう一人?」

居間を見て初めて気付いた。女の子がいる。

栗色の髪の、可愛らしい少女。

「…こんばんは」

少し戸惑った表情で挨拶する彼女に、アクトは会釈で返した。

「…誰?」

「サイネ・ポインセチアさん。訳あって今保護中」

「へぇ…カスケードさんの彼女じゃないの?」

「違う」

アクトはテーブルの上にグラタンの器を置き、台所に入っていった。

慣れた様子でてきぱきと動く様子を、サイネは不思議そうに見ている。

「あの人…どなたですか?」

「アクトっていうんだ。俺の部下」

「綺麗な女性ですね」

さっそくお決まりのパターンだ。

アクトは気にしないふりをしながら作業を進め、カスケードは笑いを堪えつつ説明する。

「サイネちゃん、あいつ男な」

「え、そうなんですか?私てっきり…」

驚いてはいるが、謝りはしない。

大抵の人はここで必死に謝るのだが、サイネにはそれがない。

「…できたよ、飯」

「あぁ、悪いな」

少しだけ不機嫌になったアクトに、二つの意味を込めて言う。

アクトは準備を終えるとすぐ玄関に向かった。

「ここで食わないのか?」

「邪魔しちゃ悪いからいい。…普通の女の子だろうし」

「は?」

さっさと姿を消してしまう青年に何も訊けないまま、カスケードは仕方なく夕食を始める。

サイネも勧められて手をつけた。

「何だったんですか?今の人。ご飯作りに来ただけですか?」

グラタンを自分の皿によそいながら、サイネが尋ねた。

「いや、本当は一緒に食ってくはずだったんだけど…」

疲れているのだろうか。無理はないが。

それにしても、出て行くときのあの言葉の意味は何だったのか。

「普通の女の子だろうし」…それ以外に何があるというのか。

ツキもそうだったが、どうもサイネは疑われているような気がする。

しかし彼女にはどこも変わったところはない。

「あ、美味しいんですね、これ」

「だろ?あいつの料理美味いんだ」

今頃一人で食事をとっているのだろうか。

以前ディアがいなかったときはカスケードのところに来ていたのに、今日はなぜ帰ってしまったのだろう。

「…誤解されたかな…」

違うとは言ったが、ああいう風に思われても仕方ないのかもしれない。

余計な気を使わせてしまった。

食事の後暫くして、セレスティアが部屋を訪れてサイネを引き取っていった。

風呂に入ってさっさと寝てしまおう。

そう思って共同浴場へ行く準備をする。

何度も気を失いかけて、時間がかかった。

「…疲れてるのかな」

呟いてみて、当然だと思った。

ほとんど寝ていない上に、一日中動き回っていたのだ。

病院ではほとんど座っていたが、慣れない場所というのは落ち着かない。

部屋から出て歩いている間にも、足取りがふらついていた。

「カスケードさん、大丈夫ですか?」

後ろからカイに呼び止められ、笑って見せる。

しかしやはり疲れが見えるようで、余計心配されてしまった。

「駄目ですよ、休まないと。ブラックのところなんか行かなくて良いんですから」

「カスケードさんは部下のことが心配なんだよ」

「グレンさん、そんなこと言ってたらこの人休みませんよ?」

「俺だってリアやラディアが怪我でもすれば同じ事をする」

「グレンさん、俺は?」

「お前は別だ」

相変わらずの軽口に、カスケードは少しだけ和んだ。

いいかげんにしろよと言いながら、ホッとしていた。

共同浴場は今日に限って混んでいて、ゆっくり入っていることはできなさそうだ。

溜息をつきながら、左耳に手をやる。

「…あ」

そうだった、と手を下ろす。

何もなかったんだった。カフスも、大剣も。

全てもとの持ち主に戻ったんだということを忘れていた。

自分は幻の中にいたのだ。幻は消えてしまったのだ。

ただ、それだけだ。

 

独りの食事を終え、独りで片付けて、独りでテレビを見る。

しかし面白くなかったのですぐに消し、まだ痛みの残る身体を起こして風呂場へ行った。

後で貸した器を取りに行かなければならないなと思いつつ、服を脱ぐ。

カスケードはいいと言ったのに、無理に夕飯を作って持っていったのが悪かった。

「余計なことしたな…」

本当は話もしなければと思っていたのだ。少し落ち着けば、自分の身に起こった事も話せるかもしれなかったから。

けれどあれでは無理だ。

少し熱めの雫が連続して身体を伝っていくのを、アクトは意識の外で感じていた。

ディアは無事だろうか。

ブラックは怪我をして帰ってきて、アルベルトは安否不明。

ディアに何もなければいいのだが。

帰って来たら、何から話せば良いだろう。

身体に新たに刻まれた痣の言い訳?

ナイフを失くした言い訳?

どちらも簡単に話せそうにはない。

ノーザリアに着いた時の感想?

フィリシクラムに会った感想?

兄姉に会った感想?

そんなのはディアから話すことだ。

会いたいはずなのに、会ったらどうすれば良いかわからない。

ディアの前では泣きたくない。

たとえ、辛いことを思い出しても。

そもそも自分にディアに会う資格などあるのだろうか。

もう一人のアクトが本物ならば、自分は何者でもないのだ。

ここに戻ってくることも、許されていないはずなのに。

「おれ…何だっけ…?」

傷だらけの自分に対し、何の傷もない「アクト」。

あっちが存在するべきもので、自分は消えるべきもの。

同じものは二つもいらない。

捨てるなら、当然傷がついたものを捨てる。

きっとあいつも、そうする。

書き損じた始末書を丸めて放り投げるように、自分も捨てられてしまう。

自分と「アクト」を並べれば、絶対に「アクト」を選ぶ。

わかっているのに、こんなに苦しい。

苦しくて、動けない。

 

月明かりが窓から射し込んでくる。

ブラインドは閉まっているのに、部屋は幾分か明るい。

ブラックはロザリオを首にかけたまま横になっていた。

何故かはずせなかった。はずそうと思わなかった。

「…何してんだよ、アイツ…」

傷付いた十字の感触を、指で確かめる。

昼間喉が渇いたと言ってアクトに買って来させた無糖コーヒーが、妙に苦かった。

砂糖とミルクの入った甘ったるくて飲めないコーヒーが、少し懐かしかった。

もう、懐かしいと思っていた。

アルベルトは去る時にブラックを撃たなかった。

ロザリオを狙って引き金を引いたのは確かだ。

意識は残っていたはずだ。それなのに行ってしまった。

――これがお前の言う「守る」かよ…。

人の悪夢を増やしておいて、「君は僕が守る」なんてふざけている。

結局何もわかっちゃいない。

僕は守るからね。君が必要としなくても、僕が必要なんだ。

必要なら何故離れる?矛盾している。

――そういうところが嫌いなんだ。

本人に直接言ってやりたい。

しかし、今は叶わない。

眠ればまた悪夢を見るだろう。

それでも睡魔が襲うのは、罪に対する罰だ。

あの時殺されてしまった方が良かった。

いっそ消えてしまった方が楽になれた。

そんなことを言ったら、やっぱりアイツは怒るだろうか。

泣きながら叫ぶだろうか。

それとも、冷静に諭すだろうか。

どちらにしても、苦手な反応には変わりない。

 

夜中に電話が鳴り、睡眠は中断される。

痛む頭を押さえながら、受話器を取って慣れた台詞を言う。

「…インフェリアですが」

『夜分遅く申し訳ありません。ノーザリア大将スターリンズです』

ノーザリア…スターリンズ…?

「スターリンズ大将殿?!どうかされましたか?」

目が覚めた。ノーザリアとはほとんど時差がないのにこんな時間に電話してくるなんて、普通じゃない。

ディアにも何かあったのだろうか。

尋ねる前に電話の声は語った。

『今エルニーニャに到着しました。朝になってからヴィオラセントをそちらへ送ります』

「送るって…何かあったんですか?」

『ヴィオラセントが負傷しました。胸部から腹部にかけて深い傷を負い、背中にも数箇所刺し傷があります』

「意識は?!」

以前ノーザリアで起こった事件では、何日か意識を失っていた。今回の方が酷そうだ。

しかしスターリンズ大将の声はあっさりしていた。

『とんでもない。あれだけ深手負ってるのに大暴れしてますよ』

「…大暴れ?」

『えぇ、操縦士に文句言ったり到着するなり走り出したり。

おかげでせっかく縫った傷がまた開きました』

なんて奴だ。ディアには痛覚というものがないのだろうか。

あるにはあるのだろうが、やっぱり普通ではない。

「…バカですね」

『バカです』

だが、そこがいいところでもある。

「今どこですか?行きます。」

『朝になったら送りますよ。バカも寝かしつけてしまいましたから』

大怪我はしているが、帰ってきたものの中では一番元気だろう。

安心して再び眠りにつく。

あと一人だ。あと一人、安否がわかれば。

「アル…どうしたんだよ一体…」

自分が犠牲になろうとするタイプだ。最悪の事態を想定しなければならないのが辛い。

 

午前九時、仕事中のカスケードをメリテェアが心配そうに見ていた。

「本当に大丈夫ですの?お疲れなのでは…」

「大丈夫だって。メリーは心配性だな」

「…何を言っても無駄ですのね」

メリテェアが心配なのはカスケードだけではない。

ブラックもさっき退院したばかりなのに無理矢理復帰しているし、アクトも身体が痛むはずなのに動いている。

ディアも昨夜帰ってきたらしいということを聞いた。

何かを隠したいがために無理しているように見える。

できれば無理にでも休ませたいのだが、本人たちが納得しない。

「このままじゃメリーちゃんが倒れちゃいますよ」

リアの言葉に、カスケードは動きを止めた。

「メリーが?」

「心労っていうのもあるんですよ。カスケードさんが怪我して帰ってきたあの日から、メリーちゃんずっと…」

リアが言うこともわかる。しかし、動いていないと思い出してしまう。

――あぁ、また自分のことしか考えてない。

わかっている。このままじゃいけないということは。

またツキに怒られるな、と息をついた。

「カスケードさん、カスケードさんっ」

いきなり名前を呼ばれ、声の主を探す。

裾を引っ張られて、やっとその存在に気付いた。

「ハルか。…悪い、小さくて見えなかった」

「…カスケードさん酷い。アーレイドに言っちゃおっかなぁ…」

「だからごめんって。アーレイド怖いから言うなよ。

…で、どうした?」

「お客様だそうです。えと…カスケードさんみたいに青い人」

「青い人?」

自分以外にその言葉が適用される人がいるとは。

面会室にいることを確認し、駆け足で向かった。

この場所を一番利用しているのは自分ではないかと思うほど、この扉を開けるのには慣れてしまった。

「私がインフェリアですが…どなたですか?」

「会うのは初めてですね、インフェリア大佐殿」

そう言って微笑んだ相手は、明るい青の髪に水色の瞳。

なるほど、確かに「青い人」だ。

「ノーザリア大将のカイゼラ・スターリンズです」

「あぁ!あなたが…!初めまして、カスケード・インフェリアです」

スターリンズの伸ばした手を、カスケードが握り返す。

挨拶が済んだところですぐに本題に入る。

「ディアは…ヴィオラセント中佐は?」

「騒がしいので一旦置いてきました。名誉大将殿が一緒にいるので大丈夫です。

こっちに着くなり大騒ぎですよ。あなたがどうだの、アクトという人がなんだのって…。

夜中だからやめろと名誉大将殿が寝かしつけました」

気絶させたと言うべきでは、とずっと思っていたが、口には出さなかった。

「あいつが心配してるアクト・ロストート中佐はとりあえず無事です。

塞ぎこんでるのが気になりますが…」

「だからヴィオラセントは帰ってきたんです。傷の手当てもろくにせずに。

バカは感情に振り回されるからいけない」

「…そんな言い方はないでしょう」

スターリンズの言い方に、カスケードは反感を覚える。

しかしそれは一瞬のことだった。

スターリンズの表情が、それが奴のいいところだ、と言っている。

「では、どんな言い方をすれば?」

「自分に正直、と言ってやってください」

正直すぎるのも問題ですが、と付け加えると、スターリンズは笑った。

「ヴィオラセントも良い上司を持ったものだ。…あの喧嘩バカがここまで成長したのがわかった気がします」

行きましょうか、とスターリンズが立ち上がり、カスケードも頷き、続いた。

メリテェアに断りを入れなければと思い仕事場に戻ろうとすると、スターリンズもついてきた。

「見学は認められていませんか?」

「…部下自慢しますよ」

「大歓迎です」

私服であるためか、誰もカスケードと一緒にいる男がカイゼラ・スターリンズだとは思わない。

まだ知名度が低い所為もある、と本人は笑っている。

「メリーは?」

ちょうど通りかかったクリスに尋ねる。

「事務処理室にいますよ。…それにしても真っ青ですね」

クリスは笑みを浮かべながら行ってしまう。

いつもこうなんです、と言い訳し、事務処理室へ向かう。

「メリテェア・リルリア准将」

「どうなさいましたの?インフェリア大佐」

周りに他の上司がいたため気軽には呼ばず、メリテェアだけを部屋の外へ呼ぶ。

小走りでやってきたメリテェアは、スターリンズを見て丁寧にお辞儀をした。

「お客様でいらっしゃいますの?」

「カイゼラ・スターリンズ大将。…ノーザリアの」

「まぁ、こちらが?」

「初めまして、スターリンズです」

「初めまして、リルリアですわ。

…ということは、ディアさんは帰ってらっしゃるのですわね」

メリテェアはそう言ってから少し考え、頷いた。

「ディアさんのところに行くなら構いませんわ。いってらっしゃいませ、カスケードさん」

「サンキュ、メリー」

先ほどとは一転してフレンドリーな会話にスターリンズは驚いたが、これがディアのいた環境かと思えば納得する。

「…で、アクト連れて行きたいんだけど」

「アクトさん?お呼びしますわね」

メリテェアは再び事務処理室に戻り、アクトを構内放送で呼び出した。

その間にスターリンズはカスケードに話し掛ける。

「インフェリア大佐殿、アクトさんはどのような人なんですか?」

「ヴィオラセント中佐のパートナーですよ。あいつとは正反対の冷静沈着な奴です」

「大切な人と言っていましたよ」

「…まぁ、大切でしょうね」

メリテェアが部屋から出てきて、三人で少し話した。

ディアの安否は勿論、ノーザリアやフィリシクラムについても。

「まだ軍の信用は低いです。しかし名誉大将殿のおかげで少しずつ回復してきてはいるんです」

「素晴らしいですわね、ゼグラータ名誉大将殿」

「ノーザリア軍の信頼もすぐ戻りますよ。スターリンズ大将もいますし」

「メリー、カスケードさん、一体何…あ」

到着したアクトは、すぐにもう一人に気付いた。

一歩下がって慌てて頭を下げる。

「すみません、失礼なことを…」

「アクト、頭上げろ。…スターリンズ大将殿、アクト・ロストート中佐です」

カスケードの言葉にアクトは少し頭を上げたが、もう一歩下がった。

「…怖いかな?」

スターリンズが苦笑して言う。

「そうじゃないんです。あの…すみません」

「ちょっと人見知りなんです。アクト、ノーザリアのスターリンズ大将殿だ」

「ノーザリアの?!…ディア、帰ってきたの?」

ノーザリア、と聞いた瞬間に表情が変わった。

緊張しているような、怖がっているような表情から、

驚いているような、嬉しいような表情に。

「あなたがロストート中佐殿ですか。ヴィオラセントから話は聞いています」

「…初めまして。あの…ディアは無事なんでしょうか」

「それなんだけどな、アクト…これからディアの所に行くけど、一緒に来るか?」

カスケードはアクトがすぐ頷くと思っていた。

きっと会いたいだろうと思っていたのだ。

しかし、予想は裏切られる。

「…おれ…ディアに会う資格ありません」

「え?」

全く予想していなかった言葉で。

「資格って…」

「ロストート中佐、ヴィオラセントはあなたのために帰ってきたんですよ」

「でも、おれ…ディアに会っても、なんて言えばいいかわからなくて…

それに、ここにいないってことは無事じゃないってことだろ?」

アクトの事だからそれはすぐにわかるだろうと思っていた。

しかし、会わないというのはおかしい。

カスケードはもう一度説得にかかる。

「ディアはアクトに会う為に帰ってきたんだぞ?それを」

「おれはアクトじゃない!!」

説得は、悲痛な叫びにかき消される。

意味を捉えられず、カスケードとメリテェア、スターリンズは顔を見合わせる。

アクトじゃない――どうしてそんなことを。

「アクト、どういうことだ?」

「アクトさん、何がありましたの?」

「違う…アクトじゃないんだ。おれはアクトって呼ばれる資格ない。

…だから、ディアにも会えない」

何がそこまで言わせる?

何がそうさせる?

このままではここから動けない。

「…ロストート中佐、私はあえて命令しよう。

私と一緒に来たまえ」

カスケードはこうするしかなかった。

あまり仕事仕様の言葉は使いたくない。個人を潰してしまうような気がしたからだ。

けれど今、その個人が自分自身を否定している。

どうしても来て欲しかった。

ディアのためでもあるが、アクトのためでもある。

パートナーになら、辛いできごとも話せるはずだ。

楽になって欲しいのだ。今が辛くても、きっと楽になる。

無理強いすることは良くない事だと知っている。

それでもあえて無理に連れて行こうとする。

このやり方は間違っていると自覚している。

カスケード自身が嫌われるのは構わない。

しかし、ディアとアクトにはパートナーでいて欲しい。

「…行かなければ、いけませんか?」

「あぁ、義務だ」

「…わかりました」

暗い表情のままのアクトを引っ張るように連れて行く。

行き先は、昨日もずっと居た場所。

 

白い壁、長い廊下。

見慣れてしまった、とはあまり言いたくない。

「ここです。少々お待ちください」

スターリンズが先に入り、中で何か話した。

その直後、

「マジか?!もったいぶってねぇでさっさと呼べよ!」

病院に似つかわしくない、大声。

「…聞こえましたか?」

スターリンズが戸を開けて訊くと、カスケードは苦笑した。

「…ほら」

アクトの背中をそっと押し、病室へ進める。

渋りながらも部屋に入ってきたアクトを、フィリシクラムが笑顔で迎えた。

「久しぶりですな、アクトさん」

「…お久しぶりです、フィリシクラムさん」

笑顔が作れない。フィリシクラムも怪訝な表情だ。

「どうかしましたか?」

「いえ、何でも…」

アクトの背をもう一度押して、カスケードも入ってきた。

フィリシクラムは同じようにカスケードにも挨拶し、カスケードも普通に返す。

「ディアはどうですか?」

「さっきの声のとおりです。…ディア、来たぞ」

フィリシクラムがベッド周りのカーテンを引くと、上半身が包帯まみれの、満身創痍の傷の男がいた。

それを見たアクトの表情が変わるのを、カスケードは見逃さなかった。

「よぉ」

片手を挙げて笑うディアの方に、カスケードはアクトを押し出す。

アクトは暫くカスケードを見ていたが、頷いて、歩き出した。

そして、やっと一言発した。

「…ミイラ男」

「第一声がそれかよ!泣かすぞお前!」

ディアは怒鳴ったが、アクトはやっと少し笑えた。

怪我はしているが、ディアはディアだ。変わらない。

「…ただいま」

たった一人しかいない、ディアだ。

「…お帰り」

他三人はこっそり部屋を出て、廊下の椅子に座った。

あとは「若い二人にお任せ」だ。

「…あいつらに任せるとやばいような気もするけど」

カスケードの呟きは他二人には聞こえなかったようだ。

もしくは、聞き流したか。

「ところでインフェリア大佐殿、ロストート中佐はどうしてあんな格好を?」

スターリンズ大将が不思議そうに、

「男性の軍服着て、一人称おれで…何かあったんですか?」

それでいて大真面目でいう。

フィリシクラムは必死で笑いを堪え、カスケードは笑いながらも慣れた調子で言う。

「スターリンズ大将、アクトは男ですよ」

「…え?」

毎度おなじみのパターンだ。本人だけでなく、周囲も諦めはじめた。

 

「来ねぇのか?」

さっきの距離から近付こうとしないアクト。

当然ディアは不審に思う。

「おいアクト…どうかしたのかよ」

「…違うんだ」

「あ?」

違うって何が、と言う前にアクトが答える。

震える声で、俯いたまま。

「おれ…アクトじゃ、ない」

言葉の一つ一つを整理し、意味を捉えようとする。

しかし、どう考えても目の前の存在と矛盾する。

「お前がアクトじゃなかったら何がアクトなんだよ」

「いるんだ、別に。…おれじゃないアクトが。

だからおれは、アクトじゃない」

「お前がアクトじゃなくて、アクトがお前じゃない?」

段々混乱してくる。何がどうしたというのか。

「とにかくこっち来いよ。最初から話せ」

「…行けない」

「来いっつってんだろ!」

腕を掴まれ、引っ張られる。

乱暴だが、心地良い。

次の瞬間には包帯がすぐ目の前にあって、

温もりを感じていた。

「傷開いて痛ぇんだから…あんまり動かすんじゃねぇよ」

「…放せ」

「誰が放すか。お前は俺のもんだ」

強く抱きしめられる。

こんなに温かい感触だったかと、疑ってしまう。

「叔父とか叔母には会えたのか?」

「…少し。結局淫売とか言われて終わった」

「別に身体売ってる訳じゃねぇだろ。気にすんな」

ベッドの上に座って、話を続ける。

距離はゼロのままで。

「両親の事何かわかったか?」

「一応は。…でも…」

「でも、何だよ」

「…おれ、アクトじゃなくなった」

「何で」

「もう一人、いたから」

「は?」

ディアがわからないのはそこだ。

アクトがアクトじゃなくなった理由。

もう一人、とは何なのか。

「もう一人って…」

「母さんがいたんだ。アクトは…オレガノさんと母さんの子供だ」

「は?!お前両親とも…」

「死んでるよ。…あそこにいた母さんは、オレガノさんの作ったクローンだった」

「クローン?!」

アクトだけは関係ないと思っていた。

ディアやブラック、アルベルトは情報があったためにクローンの可能性も初めから考えていた。

しかし、アクトまでもがそうなっていたとは。

「…もう一人のお前は、クローンの子なのか?」

「オレガノさんはそう言ってた。

アクトは二人も要らない。アクト・カッサスはオリジナルになりたがってる。

だから…おれが消えることに…」

「何でお前が消えるんだよ!アクトはお前だろ!」

「でもあっちもアクトだ!だから傷物のおれが消えるのは当然なんだ!おれは…」

シーツを握る。感情を抑えろと、理性が言う。

「…おれは、アクトじゃない」

泣きたくない。ディアの前では絶対に。

弱さを見せたくない。

「…アクト」

「だからおれはアクトじゃな」

見せたくないのに、どうして、

この男は、暴こうとするんだろう。

顔を上げた瞬間に塞がれた唇と、

そっと握られる、シーツを掴む手。

優しさは残酷だ。

見せたくないのに、さらけ出させる。

唇が離れ、再び抱きしめられる。

優しさは罪だ。

絶対に見せたくなかった表情にさせる。

「お前がアクトじゃなかったら、俺は誰にこういう事してるんだよ。

俺はお前以外の奴にこういう事しねぇぞ」

「………」

「俺が好きなのはお前だ。お前がアクトなんだ。

二人いようが三人いようが、俺のアクトはお前なんだ」

信じていいのだろうか。

信じたい。

「…ディア」

背にそっと腕をまわし、包帯の手触りを指に感じた。

「ありがとう」

頬を伝い、雫が落ちる。

もう何年も知らなかった雫。

「おれも…好きだ」

アクトでいていいんだ。

アクトと呼ばれて、名乗って、

アクトとして生きていていいんだ。

愛する人がそう呼んでくれる。

愛する人がそう認めてくれる。

「やっと泣かせられた…って言いてぇけど、カウントしないでおいてやる」

「…もうないかもよ?」

「良いぜ、それでも」

辛い時には仲間がいる。

ディア・ヴィオラセントという恋人もいる。

そういうアクト・ロストートは自分一人だ。

 

「そうか、お前の父さん、親友に殺されたのか…」

カスケードが呟くと、アクトは目を伏せて頷く。

「だからカスケードさんには言いたくなかったんだ。

親友に殺されるなんて悲しすぎて…」

ディアのおかげで、アクトはカスケードに全てを話す決意をした。

単純といえば単純だが、ディアはやはりアクトに必要なんだと改めて思い知らされる。

「オレガノさんは母さんのクローンを作って、自分達の間に子供を作った。

多分おれと同じくらいの歳にわざと成長させたんだと思う。

…そのアクトが、おれになりすまそうとしてるんだ」

アクトはカスケードを真っ直ぐ見た。

今度はちゃんと言える。

手は震えるけれど、支えてくれる人がいる。

「おれを殺して、おれとして司令部に潜入し、

…カスケードさんを殺そうとしてる」

「何だと?!」

カスケードよりディアの方が反応が強い。

アクトはそれに驚き、カスケードが意外と冷静なのにも疑問を感じた。

「アクト、それマジか?!」

「アクトが…アクト・カッサスがそう言ってた。

だからカスケードさんが危ないって思って…」

「俺も同じ事言われたんだよ!カスケードが狙われてるって!」

「同じ事って…誰に?!」

アクトが訊くと、答えが返ってくる。

ディアではなく、スターリンズから。

「三月にエルニーニャ南部で起こった南方殲滅事件の首謀者、ヤークワイア・ボトマージュだ」

「南方…ボトマージュ…?」

この言葉で、カスケードはやっと動きを見せた。

「ボトマージュは刑務所にいるはずだが…まさか、今いるのは…?」

「クローンかもしれません。もしくはクローンに全てを託し、わざとヴィオラセントに姿を見せたか…」

「どっちにしても、ボトマージュもオレガノって人も…裏の人間なんだな」

カスケードはゆっくり息を吐き、ディアとアクトに言った。

「実は、お前等がいない間にもう狙われてたんだ」

「え?!」

「マジかよ!!」

「マジだ。…相手は二十人くらいの黒装束。そしてそいつ等を指示していた奴…」

言葉を切り、顔をしかめる。

語りたくはないが、語らなければならない。

「…指示してたのはニア・ジューンリーだった」

「それって…」

「カスケードさんの親友の?!」

カスケードが頷くと、二人とも信じられないと言う表情をする。

「そのときに大剣もカフスも持ってかれた。…気付かなかったか?」

「そういえば…」

カスケードの左耳には何もない。

今まで気付かなかったのが不思議なくらいだ。

「俺を狙っているのが本当にニアなのか、それともクローンなのか、それはわからない。

ただ、言葉も表情もはっきりしてて…作りものだなんて思えなかった」

「そんな…」

間に合わなかった。

カスケードは傷付いた後で、これからもっと敵が来るかもしれなくて。

「とすると…後はブラックだな。何があってアルが帰ってこないのか…」

「アルベルト、帰ってきてねぇのか?」

「あぁ。ブラックだけが怪我して帰ってきた」

段々見えてきた。

カスケードが狙われていることは確実だろう。

アクトの話から考えると、それらは全て繋がっている可能性が高い。

アーシャルコーポレーション系列だが、そこからは独立した別の組織。

それが今の敵のもと。

「ブラックがまだ話せるかどうかはわからないから、じっくり待つつもりだ。

だからそれまで待ってくれないか?」

「そんなことしてたらまた来るぜ」

「話すことでアルが危なくなるのかもしれないだろ」

今は推測だけだ。ブラックの話さえ聞ければ、今後の動きは決められる。

そしてもう一つ、サイネのことがある。

彼女を危険に晒すことは、もうしたくない。

 

カスケードは司令部に戻り、フィリシクラムとスターリンズも帰らなければならなくなった。

「いつまでも代役を立てておくわけにはいかないからな。じゃ、頑張れよバカ」

「バカバカうるせぇんだよ」

「アクトさん、バカ息子をまたよろしくお願いします」

「バカは任せてください」

「お前らまでバカとか言うんじゃねぇ!」

最後までこんな調子だったが、ディアにはその環境が合っているらしい。

向こうでもこっちでも似たようなものだ。

「ディア、今日は病院だろ?」

「あぁ…病院嫌いだから帰りてぇ」

「付き添い許可下りたから我慢しろ」

「マジ?」

「恥ずかしかったんだからな。子供でもないのに付き添いとか…」

口ではそう言っているが、表情がそうでもない。

やっぱりアクトだ。ディアが良く知っているアクトなのだ。

「…あ、そうだ」

アクトが不意に声をあげ、ディアに向き直って頭を下げた。

「な、何だよ…」

「ごめん、お前に貰ったナイフ無くした」

「は?…あの銀の奴か?」

「うん。アクト・カッサスにとられた」

「いいから頭上げろよ」

ディアに言われて頭を上げ、それから隣に座る。

「…ごめん」

「謝るなって。とり返せば良いじゃねぇか」

「どうやって」

「向こうはこっちを狙ってんだろ?だったらまた会うに決まってるじゃねぇか」

「…戦うのか?」

できれば戦いたくない。

敵になってしまったとはいえ、オレガノは父の親友だった人だから。

「嫌なもんだな、戦うってのは…必ず誰か傷付くんだからよ」

ディアは喧嘩はするが、こういうのは好きじゃない。

勝っても負けても傷付くようなものはおかしいと思う。

特に人の生死がかかっているのは辛い。

「でも…お前はともかく、ボトマージュとは決着つけなきゃならねぇと思ってる」

「…そうだな。あいつは許せない」

かつて南方の小さな村を焼き払った、最悪の男。

何人もの人が犠牲になり、ディアも加害者となってしまった。

「アクト、…お前がショック受けるだろうと思ってさっきは言わなかったけどよ、でもやっぱ言っとく」

「何?」

ディアが誤って撃ってしまったのは、幼い少女だ。

十歳くらいで、薄い紫の髪をみつあみにしていた。

笑顔が可愛く、最期まで自分の兄を想っていた少女。

自分を撃ったものにも、ありがとうと言った。

「…アスカがいた。ボトマージュが作ってるクローンとして、アスカがいたんだ」

「アスカちゃん…?!」

南方殲滅事件で無くなってしまった村にいた少女。

彼女との思い出は、楽しく、辛い。

あんなに辛い思いをしたのに、どうしてまた辛い思いをしなければならないのか。

「ボトマージュは、アスカちゃんを何に使う気だ?」

「俺に見せるためだけに作ってたんならまだ良いんだけどよ。

でももし戦いに使うようなことがあれば…」

静かに眠ることさえ許されないのか。

この戦いは一体どれほどの者を巻き込んでいるのだろう。

あまりにも大きく、あまりにも残酷だ。

 

ノックの音が耳に入るが、動く気になれない。

このまま居留守を使ってしまいたかった。

しかし、

「ブラック、いるのか?」

この声が、そうさせない。

「…グレン?」

「すまないな、急に」

玄関のドアを開けると、銀の輝きを持つ髪が見えた。

単独で訪ねてくるのは珍しい。…いや、ここに来ること自体まだ二回目だ。

以前来たのはアルベルトが軍に戻ってきた時だった。

そのときはカイも、他の何人かも一緒だった。

「自分から襲われに来たのか?」

「違う。…カイに見つからないように隙を見て来たんだから、言うなよ」

「言わねーよ」

部屋にあげるのは初めてだ。どう振舞えばいいのかわからず、ブラックはとりあえず台所へ向かう。

アルベルトが来客用にと用意していたものがあるはずだ。

「コーヒー飲むか?」

「…苦手だ」

グレンから見れば、ブラックが取っている行動の一つ一つが意外だ。

不思議と身の危険は感じない。

「紅茶淹れたことねーんだから文句言うなよ。残したら口移しで飲ませてやる」

「大丈夫だ、絶対残さないから」

十分に出ていないのか、薄い。

渋いよりはずっとマシだと思い、先に半分ほど流し込んでしまう。

「何の用だよ」

いつもの口調で話すブラックには、一見何の変わりもないように見える。

しかし、本当は相当まいっている筈なのだ。

ラディアに治癒してもらったとはいえ、怪我をして帰ってきたのだ。

さらにアルベルトはいない。その訳を語れずにいるのだから、よほどのショックを受けているのだろう。

「リアが心配してるんだ。アルベルトさんだけ帰ってこないから…」

「へぇ…あの女がアイツを?」

「仲間想いだからな、リアは。でも心配してるのはリアだけじゃない。他の皆もずっと気になってる」

気になっているが、訊けない。

ブラックは傷付いているはずだから。

しかしあえてそれを尋ねに来たのは、グレンだからだ。

ブラックの気持ちもわからないわけではない。しかし、待っている者の辛い気持ちを考えると、動かずにはいられない。

「俺はカスケードさんみたいに気長じゃないんだ。だから直接訊きに来た」

「…………」

あんなに頼りない奴なのに、何でこんなに。

答えはわかっている。

誰に訊いてもこう答えるはずだ。

一緒にやってきた仲間だから。

アルベルトは「仲間」の枠組みにちゃんと入っている。

でも、自分はどうなのだろう。

何故アルベルトを連れて帰ってこなかったのかと、責められているのかもしれない。

自分は恨まれるべき人間なのだ。

「アルベルトさん、どうなったんだ?」

言ってしまえば、今よりもっと恨まれるかもしれない。

言葉にすればきっとあの悪夢が甦る。

恐ろしくて、口を開くことができない。

感情を隠せ。恐れを見せるな。

そう語りかける声がある。

「…どうなった、だと?」

自分よりも小さな身体を、乱暴に床に押し倒す。

このまま頭を打ち付けて気絶してしまえば良いと思った。

けれどもそれは叶わず、覆い被さったままの状態で話し続ける。

「そんなことはオレが知ったことじゃない。アイツが勝手にどっか行ったって、オレには関係ない。

オレはアイツのことなんてどうでもいいんだよ」

同じように恨まれるなら、こういう恨まれ方の方がいい。

自分から嫌われて、また独りになればいい。

昔はそうだったんだ。また戻るだけだ。

「オレの部屋に来たお前の責任だ。…悪く思うなよ」

カイあたりは自分を心から憎むだろう。あの楽天家のカスケードだって、自分から離れるかもしれない。

それで良い。自分にはそれが似合いなのだ。

けれども、銀色の瞳は少しも動じなかった。

「悪くなんか思わない」

「…何だと?」

「震えてるぞ、お前」

そんなバカな。

震えているだと?このオレが?

感情は隠したはずだ。なのに、何故。

「怖くて仕方ないんだろ?…嫌われるのが」

「いいかげんなこと言うんじゃねーよ!!」

「いいかげんじゃない筈だ。お前にとってはこれが真実なんだろう?」

どうしてそんなことが言える?

どうして面と向かって話せる?

「怖いときは震えて良い。悲しいときは泣き叫んで良い。

隠そうとすると余計に辛くなるからな」

恨まれるべき人間に、どうしてそんな言葉が吐ける?

お前も、あの馬鹿も。

ブラックはグレンから離れる。グレンは起き上がり、座りなおした。

「カスケードさんとかカイに言われた言葉の受け売りみたいなものだ。俺も人のことは言えない。

でも一つ、受け売りでも何でもなく、全員共通の想いがある」

「アイツのことか?」

「アルベルトさんの事だけじゃない。…お前の力になりたいんだ」

銀色が強く光っていた。

眩しいけれど、しっかりと見ることができる。

近くにあって欲しい。

そう思える、優しい光だ。

「…オレの力になんてなれるのか?」

「なってみせるさ。…お前が話してくれればな」

「どうだか…」

信じていいのだろうか。

自分も「仲間」の枠組みに入っていると思っていいのだろうか。

ここで生きて、許されるのだろうか。

 

かつて殺した者の事、

その弟と名乗る者がラインザーのクローンを操っていた事、

そのクローンは「組織」が作ったものである事、

彼がその「組織」の一員であること、

そして、その「組織」がカスケードを狙っていて、

アルベルトがそれを阻止するため、自分から洗脳された事。

ブラックが語ったのは、これが全てだった。

「やっぱり…アルは敵側に行ったのか」

「あぁ。でもこれはアイツの意思だ。お前が気に病む必要はない」

こう言ってもカスケードは自分を責めるだろう。

無駄だとはわかっていても、ブラックはそう言わずにはいられなかった。

「それに、アイツ完全に洗脳されたわけじゃねーと思う。

だけど、もし駄目なら…」

そんなことにはならないと信じたい。

なって欲しくない。

「もし駄目なら、オレがアイツを始末する」

「ブラック、それは」

「駄目よ!リーガル少佐はブラック君のお兄さんでしょ?!」

カスケードの言葉を遮り、必死の声が届く。

息を切らして、泣きそうになりながら叫ぶ少女。

「リアちゃん?!」

「リア…いつからそこに」

「ごめんなさい、最初から全部聞いてました。

でも、駄目よ。兄弟でそんな…」

愛するものを殺さなければいけない辛さなんて、味わうべきではない。

失って後悔しても、そのときはもう遅い。

ブラックは暫くリアを見ていたが、そのうち立ち上がって近付いていった。

「リア、アイツは簡単に始末されるような人間じゃねーよ。

…アイツ、アンタのこと捨て身で守ったんだぜ?」

「え…?」

リアは覚えていないはずだ。

ラインザーに殺されかけ、それをアルベルトに救われたことを。

彼女自身が望んで記憶を消したはずだった。

しかしそれはただの暗示で、きっかけさえあれば…。

「ブラック、これからどうする?」

「下手に動くとヤバイ。あっちから動いてくるだろうから、様子を見る。

…アイツは簡単には死なないだろ」

カスケードとブラックが話すのを意識の外側で聞きながら、リアはある光景を脳裏に浮かべていた。

自分を襲った者と同じ色をもつ青年が、悲しそうに語りかけるのを。

 

ラディアの治癒のおかげでディアも復帰し、司令部は何とか落ち着きを取り戻した。

残る問題は「組織」。それが一体何なのか。

アルベルトは「組織」に必要とされていたため、暫くは無事だろう。

「狙われているのは俺だ。…でも、向こうは周りを巻き込んで俺を落とすつもりらしいから、迷惑をかけると思う」

「そんなの最初から承知してる。…もう俺達の気持ち無視するなよ」

ツキはそう言って笑った。

ありがたかった。自分は幸せだと思った。

だからカスケードは考えはじめていた―これ以上迷惑をかけない方法を。

「いつでも戦えるようにしておかなきゃな。クレイン達も例の軍誹謗資料探ってるらしいし」

「あぁ…」

もうこんな戦いはさせたくない。

人を巻き込むなんて嫌だ。

「…あ、カスケード、サイネさんどうなった?」

ふと思い出した。ツキはあれからサイネに会っていない。

他の者も見かけたくらいで、サイネの行動は何も知らない。

「なんか寮帰ったら毎日俺の部屋来るけど…好かれたかな?」

「ったく、手出したりするなよ?」

「出せないって。…ああいう子には、そんなことはできない」

そう言いながらも、カスケードもサイネが昼間どうしているかなんて知らない。

寮母も忙しくてずっと見ているわけにはいかず、彼女の事は誰も知らないのだ。

彼女は何者で、どこからきたのか。

カスケードを助けただけで、どうしてあそこまで狙われていたのか。

そしてもう一つ、

昔の細かいことまではっきり覚えていたニアが、何故司令部に行くのに発信機で追ったのか。

発信機は指示されてつけたものらしいが、つけなくとも良かったのではないか。

彼女自身を追っていた可能性も考えられる。

とにかく不可解なことが多すぎる。

 

薄暗い部屋に机が円状に並ぶ。

その中心にはスピーカーとマイクだけがあった。

何人かの人物が入室し、机に向かう。

その中の一人――イリー・クライムドが、マイクに語りかける。

「やりました。アルベルト・リーガルを手に入れました」

イリーの隣には、表情のないアルベルトが座っていた。

スピーカーから機械で加工した声が響く。

『よくやったな、イリー…これで我等の計画成功に近付いた』

「ありがとうございます」

イリーはニヤリと笑い、他の者はそれを見て舌打ちしたり笑ったりする。

「調子に乗るなよ、クライムド。…私とてあの男を殺していれば…っ!」

「落ち着いてください、ボトマージュ。あなたにはまだチャンスがある」

「貴様とて計画を狂わせたではないか、カッサス!貴様が上手くやっていれば今頃軍の情報が入ってきているはずだ!」

「ボトマージュさん、父さんの所為ではありません。僕が失敗したんです」

「貴様は何も話すな!見た目も声も、間接的にヴィオラセントを思い出して吐き気がするんだ!」

憤るヤークワイア・ボトマージュ、

落ち着いているオレガノ・カッサスとその息子アクト・カッサス、

そして、

「うるさいよ、ボトマージュさん」

冷たい笑顔を浮かべる、ニア・ジューンリー。

「ジューンリー、貴様…っ!」

「駄目だよ、うるさくしちゃ。ね?」

子供に聞かせるような、大人にとっては神経を逆撫でするような口調。

ボトマージュはブツブツと文句を言う。

『賑やかだな。…しかし、そんな馴れ合いは不要なものだ』

スピーカーの声が重く響く。

『イリー、ご苦労だった。君の仕事はこれで終わりだ』

「…終わり?」

『そう、終わりだ。もう君には用がない』

スピーカーの向こうで、声の主が笑った。

『言っただろう?馴れ合いは不要。必要なものは使えるものだけだ』

「そんな!私が使えないと言うのですか?!」

『だからこそ不完全なクローンを与えたのだ。君は速いが、余計な行動が多すぎる。

言ったはずだ。アルベルト・リーガルを連れて来いと』

「だからこうして連れて来たではないですか!」

『無駄な御託を並べずにさっさと洗脳してしまえばよかったのだ。こちらが急いでいることは承知していただろう?

口答えも気に入らない。…君はもう消えろ』

スピーカーの声が途切れると、ニアが立ち上がった。

イリーに近付き、微笑む。

「そういうことみたいだから、さよなら。…せめてお兄さんと同じ方法で逝かせてあげるよ」

「…ひ…っ嫌だ…死にたくないっ!まだ私は…ダスクタイトに復讐を…っ!」

「アルベルト君が代わりにやってくれるよ。だって君より有能なんだから」

イリーが席を立とうとする前に、ニアは大剣を振るった。僅かな明かりを反射して、左耳のカフスが光る。

首の落ちるゴトリという音が室内に響いた。

『使えないものはこうなる。…ボトマージュ、オレガノ、君たちもだ。

良いクローンを作って、邪魔者を確実に消さないと…』

「はっ!承知しております!」

「今回の失敗、必ず取り返します」

その中でアルベルトは何も言わず、ただじっとしていた。

聞こえた声の一つ一つを、頭の中で整理していた。

気になったのは周囲の名前だ。

ボトマージュは確か南方殲滅事件首謀者として捕まった人物だ。

オレガノ・カッサスはアクトの父の友人。そして一緒にいる人物はアクトにそっくりだが、雰囲気がまるで違う。

そして、ジューンリー。

彼の持っている大剣は、そして、彼の耳に光るカフスは…

『今日は解散だ。…アルベルト・リーガル、イリーのカードキーで部屋に戻れ』

スピーカーがそう言うと、ニアがイリーの死体からカードキーを抜き取って、アルベルトに渡した。

「これ」

「………」

受け取って、カードキーを眺める。

さっきまで別人のものだったのに、もう自分のものになってしまった。

ボトマージュ、カッサス父子が先に部屋を出、ニアがそれに続く。

アルベルトはそれを追いかけるように、早足で部屋を後にした。

「ジューンリーさん」

声をかけると振り向き、笑った。

冷たく、刺すような笑み。

「アルベルト君、さっき言われたよね。馴れ合いは」

「あなたはニアさんなんですか?大佐の親友の…」

ニアの表情が変わった。笑顔など、もうどこにもない。

あるのは冷たい眼――暗いグリーン。

「クローンに親友なんかいないよ」

「…クローンなんですか?あなたは」

「一応ね。記憶とか全部残ってるから自分でもそんな感じしないけど」

そんなことより、とニアは進行方向へ身体を向ける。

「洗脳解けてるんだね。カスケードのこと大佐なんて言ったら、君も消されちゃうよ?」

「構いません。ここまで来てまだ生きたいなんて言いません」

歩きながら言葉を交わす。

廊下は暗く、寒い。

「どうして大佐を狙うんですか?」

「邪魔だから。カスケードがいる限り、あの方の理想郷は成り立たないんだ」

「でもあなたは大佐の親友なんですよね?たとえクローンでも、記憶が残ってるなら…」

「嫌いだよ、カスケードなんか」

「嘘です!…本当に嫌いな人は、名前も呼ばないんですよ。あなたは名前を言うだけの心がまだ残ってるじゃないですか」

「アルベルト君、君は何も知らないんだよ。

僕はあの方に作られたんだ。あの方に尽くすのは当然のことなんだよ」

ニアは立ち止まり、アルベルトに向き直った。

無表情。カスケードの言っていたニアとは、全然違う。

初めは、そう思った。

「アルベルト君、君に世界の全てがかかっていて、大切な人一人か他の大多数かどちらかしか助けられないとしたら…

君は、どっちを選ぶ?」

しかし、アルベルトには見えたのだ。

「僕は大多数を選ぶよ。…必ず失わなきゃいけないなら、その方がまだいい」

無表情の奥に、悲しみが見えた。

残っている記憶の叫びが、聞こえた。

――大切な人一人か、多数か、か…。

そんなことは本当に決められるのだろうか。

自分に全てがかかっているとしたら、どうすればいいのだろうか。

決断しなければいけないときは、近い。

 

雪が降っていた。

この向こうにあるものは、絶望なのだろうか。

それとも、信じていいのだろうか。

 

決断の時は、近い。

 

 

To be continued…