鏡は映す。

それ故に愛され、憎まれる。

心は映す。

それ故に愛し、憎む。

真実を映すからこそ、痛い。

真実を映すからこそ、優しい。

 

もうすぐカレンダーに印のついた日になる。

今年はゆっくり祝ってやれそうにもないな、と溜息をついた。

「不良、こっち手伝え」

「不良って言うんじゃねぇ」

呼ばれて向かう。気にかかったまま。

嵐の前の静けさ、とでも言おうか。

あれから「組織」は全く動きを見せない。

軍を誹謗した情報も消え、事態は沈静化していた。

「ノーザリアはなんか言ってるか?」

「いや…オヤジもカイゼラもイタズラ電話しかかけてこねぇ」

「イタズラ?」

「バカだの何だの…いいかげんにしろってんだ」

結構な重量のダンボール箱を担ぎ、カスケードとディアはツキの待つ第二資料室へと向かう。

資料室はほとんど物置状態だが、今回の事件の調査のために整理している。

「ツキ、持ってきたぞ」

「そこ置いといてくれ。…全く、酷い散らかりようだな」

「図書館の資料室ばっかり利用されてるから、こっちまで見ないんだろ」

新しい資料は大抵図書館へまわされる。現在利用されているのは第一資料室くらいだ。

第三資料室は閉鎖され、今は誰も入ることができない。

「カスケード、これ持ってって」

「十五年前からの事件ファイル?よくこんなのあったな」

ツキが渡したのは色あせた青いファイルで、十五年前から五年前までの十年間分の書類がまとめられていた。

「五年前のって結構最近だよな」

カスケードは中身にざっと目を通し、ファイルを閉じた。

十五年前――カスケードはまだ八歳だった。

親に軍人になれと言われ、反発しながらも従っていた子供時代。

その頃はすでに父が軍を辞めていて、よく稽古から逃げながら妹サクラの見舞いに行ったものだ。

「不良は十五年前何してた?」

「十五年前?…五歳ん時だろ?兄貴と姉貴にかまわれてた」

「言うこと聞かずに怒られてたんだろ」

「いや、溺愛されてた」

「嘘付け」

信じてもらえないのも無理はない。これ以上言うのは諦め、ツキにふる。

「ツキはいくつだったんだよ」

「十歳。フォークはまだ二歳だったな」

「昔から触角あったのか?」

「どうだったっけなぁ…」

話しながら棚を整理しているうち、ファイルが落ちてきた。

ツキが元に戻そうとして持ち上げると、意外と重い。

「これ何のファイルだ?」

「…あぁ、調査対象企業リスト。怪しいとことかそれに全部載ってるんだ。当然…」

アーシャルコーポレーションも、と言おうとして、やめた。

カスケードが言わずとも、他二人はわかっている。

ツキはそのままファイルをカスケードに渡し、片付けを再開した。

 

事件リストと企業リストを調べるために仕事場に戻り、さっきまでいなかった者に気付いた。

「グレン、アクト、どうだった?」

「カスケードさん…なんとか入手できましたけど、本当にこれで良いんですか?」

グレンが差し出した黄色のファイルを受け取り、ぱらぱらと捲る。

頷いてファイルを閉じ、笑って見せる。

「これだ。サンキュ。…で、アクトはなんかわかったか?」

「何も。やっぱりこれより詳しい資料はないみたい」

アクトが持っているのは、先日ディアが持ち帰った書類。

くしゃくしゃになってはいるが読めないわけではなく、これと照合して資料を探していたのだ。

クローンやキメラに関する資料を。

「グレンちゃん、ちょっと…」

ディアがこっちに来いとジェスチャーを見せたので、グレンは溜息をつきながら歩み寄った。

「ちゃんはやめてください」

「硬いこと言うなって。…アクト何でもなかったか?」

「アクトさん?…別に変わった事はありませんでしたけど…」

ディアの言わんとしている事はわかる。グレンも事情は聞いている。

帰ってきた日以来、アクトの精神状態は少々不安定のようだ。

ディアと話をして一度は落ち着いたが、完全に割り切った訳ではないらしい。

「何でもねぇならいいんだけどよ…図書館の資料室、結構明るいだろ?」

「はい」

「当分暗くて狭いとこには連れて行けねぇんだよ。昔のこと思い出しやすくなってるんだ」

グレンは少し考え、あ、と声をあげる。

「暗所恐怖症?…狭い所だから、閉所も?」

「軽いけどな。だからお前と図書館行かせたんだけど…」

軍施設内の資料室はまさに暗くて狭い。ディアなりの配慮なのだろうが、グレンとしては納得がいかない。

「だったらディアさんが一緒に行けばよかったじゃないですか。こういうときこそ傍に…」

「あいつが俺に言ったんだよ、こっちに残れって。重いものはバカに運ばせるべきだとか」

「わかりました。わかりましたから落ち着いてください」

苛立ってきたディアをなだめつつ、なんとなくアクトの気持ちがわかる気がした。

一緒にいるとどうしても寄りかかってしまうから、そうならないように。

グレンが訊けばそう答えてくれるだろう。

「…強がりだな、あの人も」

「あ?」

「…いえ、何でもないです」

時計が昼休みを知らせた。

 

ラディアは最近病院の往復が多く、疲れていた。

「力がなかなか回復しないんですよ…」

落ち込んだ様子でそう言うわりには、昼食は大盛りだ。

「そんな時もあるよ。…でも最近、本当に怪我が多いよね」

リアが知る限りの、今年の一連の事件を思い返す。

もともと怪我が多い職業ではあるが、今年は特に多かった。

特にカスケードたちと知り合って以降、痛々しい場面に立ち会うことはしばしばだった。

それでも知り合わないほうがよかったとは思わない。

知り合って得たものの方が大きかったから。

「結局、助けられっぱなしだよね…」

リアの呟きに、ラディアは手を止める。

「私っていつでも助けられてばっかり。カスケードさん達にも、グレンさん達にも、恩返しできてないなぁ」

「そんなことないです!」

ラディアが机を叩いて立ち上がる。周囲が驚いてこっちを見るほどだ。

「ら…ラディアちゃん?」

「私、リアさんに助けられました!だから今こうして軍人やってるんです!

皆もそう思ってます!リアさんは十分恩返ししてるし、私にとっては余るくらいで…っ」

ラディアが初めてリアに会った時、自分の治癒能力を卑下していた。

しかしリアの言葉に救われた。だからこそここにいる。

人の助けになれる事に、誇りを感じられた。

「だからリアさん、助けられっぱなしじゃないです。リアさんはちゃんと…」

「ラディアちゃん…」

ラディアの想いがリアの胸に響く。強くて激しくて、だけど優しい。

自分のためにこんなに必死になってくれる。

「ラディの言うとおりだぞ、リアちゃん」

「カスケードさん!…いつから?」

「ラディの行動に食堂全体が注目してたんだぞ。…で、」

カスケードが視線で示す周囲は、

「皆ラディと同じ気持ちだ」

とても暖かかった。

「いやぁ、やってくれたなバラ姫。これで司令部中のお姫様だ」

「おひめさま?愉快ですねー」

いつもの調子に戻るラディアに、リアは笑みをこぼす。

いつだって自分は助けられてきた。そして、また助けられてしまった。

自分にできることは何だろう。今すぐにできる事。

「ラディアちゃん」

「はい?」

感謝の気持ちを表せる方法は…

「ありがとう」

リアは笑った。

心からの、本当に綺麗な笑み。

ラディアもそのまま返す。

食堂が和やかな雰囲気になったところで、カスケードはその場を後にした。

リアの笑顔が見られて本当によかった。

しかし、カスケード自身が本当に見たい笑顔は――。

 

鏡が目に付いた。

映るのは自分のはずだ。

それなのに、本当に自分なのか疑ってしまう。

「アクト」

名前を呼ばれた。自分の名前のはずだが、本当にそうだろうか。

鏡の向こうが呼ばれたのではないか。

「何」

「何じゃねぇよ。昼飯食ったか?」

目の前にいる男は自分をアクトだと言ってくれた。

自分を愛すると言ってくれた。

それは信じられる。大切な人だから。

それ故に、依存してはいられないと思う。

「昼食べてない。腹減ってないし」

「何だよ、いつも三食食わねぇと体壊すとか人に言っといてよ。

さっき食堂すごかったんだぜ、ラディアが…」

目の前の男は言いかけてやめた。

顔を覗き込み、どうした?と訊いてくる。

「どうもしない。…ディアは食べたのか?」

「いや、お前捜してた。ほら食いに行くぞ」

優しすぎる。だから離れられない。

昔からそうだ。依存させる。

「ディア」

「あ?」

「……やっぱりいい」

「何だよ」

依存していてはいけない。

もしまた離れても、一人で戦えるようにならなければ。

ナイフはもう手元にないのだから。

 

午後から会議で使われる予定になっている第三会議室。

一人の青年が入っていき、中からは暫く物音がしていた。

青年が出てきて、何事もなかったようにどこかへ消えた。

周囲が見ていたのは、金髪。

 

一連の事件とこれから起こりうる事を全て考慮し、対応を練っていく。

心身への被害はより少なくしたい。あまりにも辛すぎるから。

それを踏まえた上で、第三会議室では限られた者による会議が行われていた。

「わたくしが心配しているのはアルベルト少佐のことですわ。

勿論カスケードさんや他の皆さんのことも心配です。

でも、安否不明は彼だけ。このままではこちらから動くこともできませんわ」

メリテェアの言うことは誰もがわかっていることだ。

しかし今のままでは何も進展しない。向こうから現れるのを待っていては、また被害が大きくなるかもしれない。

一人か、大勢か。

いつだか聞いた言葉を、また思い出すことになろうとは。

「これじゃいつまでも解決しねぇぜ?どうすんだよ」

「そんなのわかってる。…ブラック、お前はどう思ってる?」

カスケードに問われて、ブラックは俯く。

アルベルトは無事だと思う。向こうは彼を必要としていたはずだから。

しかしこっちの動き次第では「不必要」になるかもしれない。

知らない誰かに殺させたくない。

「オレは…」

ブラックが言いかけたとき、視界がぐらりと揺れた。

自分だけではない。周りの全員が感じている。

「じ…地震か?!」

「伏せろ!早く!」

「メリテェア、早く机の下に!」

クレインが叫ぶが、メリテェアは直立したままだ。

窓の外を見ながら、驚愕の表情で。

「…メリー?」

「………わ」

「え?」

揺れはまだ続いている。メリテェアだけが何も感じていないかのように立ち尽くしている。

天井の電灯が、がちゃりと音を立てた。

「メリー!危ない!!」

カスケードがとっさにメリテェアの腕を引っ張り、直後に落ちてきた蛍光灯の破片から守る。

揺れは段々落ち着いて、漸くおさまった。

「メリー、大丈夫か?」

「わたくしは大丈夫ですわ。ありがとうございます」

メリテェアはそう言いながらも、どこか別の方を見ている。

蛍光灯の破片を避けながら、窓の方へと歩いていった。

「…地震じゃありませんわ、今の」

「地震じゃ…ない?」

「えぇ。…信じられないかもしれませんけど、外の人は普通に歩いていました。

それを見つけてから、わたくしも揺れを感じなくなって…」

蛍光灯まで落ちたのに、外は何もなかったようだ。

いつものように人が歩いて、笑っている。

「蛍光灯は?」

「それはわかりませんわ。…でも、揺れていたと感じたのはこの部屋にいた方々のみのようですわね」

一体、何故。

誰にもわからない。

不可解な現象の後には、確かな証拠。

散った破片だけがここであったことを物語る。

「…そういえば、蛍光灯の他に被害がないな。

本や書類の方が散らかっててもおかしくないはずなのに…」

机の上に広げてある資料が元のままであるのに気付き、グレンは口元に手をあてて考え込む。

「集団催眠って奴ですか?蛍光灯はわからないけど、それなら…」

「でも、誰がどうやってかけたの?」

「それは…」

リアに訊かれて、カイも悩んでしまう。もしこの説が正しいとしても、方法が解らない。

「クライス、ノーザリア危機の時のマインドコントロールは機械だったんだよな?」

「そう、大体カスケード大佐くらいのでっかい機械。それに一人一人突っ込まれて洗脳されるって仕組み」

ディアの思い当たったことも、ここでは通用しない。

ブラックも一つ思い出したが、それもここでは役に立たないだろうと思い言わなかった。

「…あれ?なんかおかしくないですか?」

蛍光灯の外れた天井を見ていたクリスが、カスケードを引っ張る。

「見てください、接続部分」

「接続部分?」

見上げると、確かに少しおかしかった。

削れているような気がする。

いや、あれは明らかに削られている。

「ハル、肩車してやるからちょっと見てくれ」

「はいっ」

カスケードの肩に乗せられたハルが、接続部分の傷をじっくり見る。

暫く首をかしげていたが、何かに気付いたらしく声をあげる。

「アーレイド、この前おじいちゃんが見せてくれたヤスリ、覚えてる?」

「ヤスリ?…あぁ、あれな」

ハルの祖父は刀鍛冶だ。金属類はしょっちゅう見ている。

当然、この傷も。

「カスケードさん、アーレイド肩車できますか?」

「無理。…一応やってみるか?」

「心の底から遠慮します。…椅子に上れば何とか…」

アーレイドも傷を確認し、頷いた。

「間違いないな。ヤスリで削られてもろくなってる」

ある程度の衝撃を加えれば簡単に落ちてしまうようになっている。

かなり器用でないとできないほど、精密に。

「誰がこんなこと…」

「おれだよ」

「あぁ、そうか…って、あ?」

何かおかしい発言がなかったか。

全員一斉に声のほうを見る。

見て、言葉が出なかった。

出るはずがない。

 

平然とした表情のアクトが、そこに居たのだから。

 

「…アクト、さん?」

「冗談ですよね?」

やっと声が出たものの、冗談でこんなことを言う人ではないことはわかっている。

「冗談じゃない。おれがやった」

冗談じゃなくても、こんなことをする人ではないことも。

「何言ってんだよ!お前がするはずねぇだろ!」

「目撃者もいたと思う。おれが昼休みにやったんだ」

「俺と一緒にいたじゃねぇか!…まぁ、図書館行くってすぐ行っちまったけど」

その後でも時間はあった。アクトならこの程度の加工はできるだろう。

しかし、何故アクトがこんなことをしたのか。

それは誰にも説明できない。―本人以外は。

「とにかくやったのはおれ。暗示かけたのもそう。この部屋に機械を仕掛けた」

「アクト、本気か?」

「本気だよ。…カスケードさん、あなたを殺すはずだった」

声も、顔も、アクトには違いない。

しかし、眼が違う。

色は同じだが、とても冷たい。

「お前…アクトじゃねぇな」

「アクトだよ」

「でも俺の知ってるアクトじゃねぇ」

ディアは彼の肩を掴む。

冷たい眼をして、こちらを睨む青年を。

「アクトはどこだ!」

何故今まで気づかなかったのか。

隣にいながら、何故。

「どういうことですか?」

グレンが尋ねると、カスケードは少し屈んで説明した。

「アクトにそっくりな奴がいるらしいんだ…敵側に」

「じゃあ、その人が?」

「…だといいんだが…」

胸を押さえ、痛みに耐える。

何かが刺さったような、鋭い感覚。

「やっぱり仲間の声で言われると、キツイよな…」

その呟きを「アクト」は聞き逃さなかった。

カスケードに近付き、かすかに笑う。

「ニアも言ってた。あなたの弱点は仲間だって」

「ニアが…?」

「馴れ合ってるから傷付く。一度傷付いたものを壊すのは容易い。

強くなるためには、仲間なんて捨てることだね」

聞きなれた声が、聞きなれない言葉を語る。

聞きたくない。

「ディアさん?!」

走って出て行く影を呼ぶ声。しかし、返事はない。

そんな余裕はない。早く見つけなければ。

「バカな奴…どこにいるかもわからないで」

「アクト」は冷笑のまま言う。

「傷の男…あれがディア・ヴィオラセントだよね。

ボトマージュさんが絶対殺すって言ってた」

「ボトマージュに会ったのか?」

「いやというくらい顔を合わせてる。…ここで僕があなたを殺せば、ボトマージュさんも消されるだろうね」

?誰か消されたのか?!」

まさかアルベルトが、と思ったが、冷笑は答えない。

「言う必要は無いよ。…あなたはここで消えるんだ」

動けないのは、見知った姿だから。

表情は全然違うのに。

一歩、また一歩と踏み出し、「アクト」は腰のポーチに手を伸ばした。

「やめろ!」

グレンがとっさに銃を手にした時、

「…っ?!」

「何…これ…」

視界が再びぐらりと傾いた。

今度は地震ではない。

意識が段々離れていく。

部屋の人間は一人、また一人と倒れ、

最後には誰一人立ち上がれるものはいなかった。

 

「おい、アクト知らねぇか?!」

その辺を歩いていた下等兵の胸倉を掴み、脅しつけるように尋ねる。

「ろ、ロストート中佐ならさっき第三会議室に…」

「そっちじゃねぇ!…チクショウ、どこに…」

下等兵を解放してやると、再び走り出す。

ディアの姿を見て、下等兵はぽかんとしていた。

「ヴィオラセント中佐、なんかあったのかな」

「ロストート中佐会議室だって言ってるのに…」

姿を見られているのはアクト・カッサスのほうだ。

アクト・ロストートを見た者は誰もいない。

「…?!」

ある部屋の前を通り過ぎて、違和感に気付いた。

今、ドアが開いていなかっただろうか。

使われていないはずの、第三資料室のドアが。

「まさか…」

隙間ができている。閉鎖されている部屋のドアが、何故半開きになっているのか。

ディアの頭に、答えは一つしか浮かばない。

ドアを開けて奥へ進む。

この場所にいるかもしれない。しかし、いるとすれば。

「アクト、いるか?!」

暗くて狭い資料室。さっきアクト・カッサスは軍服を着ていた。

中佐の階級を示す紫色のバッジもきちんとつけられていた。

嫌な予感がする。

六年以上前の、あの日のことを思い出す。

ディアと行動するようになるまで、アクトはここで――

「…アクトか?」

隅で膝を抱えて震える者は、その問いに頷いた。

膝はシャツにすっぽりと入れて、小さく丸まっている。

ディアは平気だが、使われていない資料室の気温はアクトには相当堪える筈だ。

「俺の上着着てろ。少しはマシになるから」

上着を掛けてやろうと手を伸ばすと、振り払われた。

六年前に戻ったようだ。

あの光のない眼が、また。

「…怖いか?」

「………違う」

小さな声。さっきまで聞いていたものと音は同じだが、響きは全然違う。

「体が…勝手に動く。自分の意思で動かせない」

「動かせねぇって…」

言いかけて、ディアはふとアクトの耳に目をとめた。

何か奇妙な、機械のようなものがはまっている。

「ちょっと動くなよ」

「…っ!」

取ろうとすると、また振り払われた。

力ずくで、と思いかけて、ここがどこだかを思い出してやめた。

ここでアクトを押さえつけては、余計にパニックに陥らせることになる。

過去、そうやって傷付いてきたのだから。

振り払われるのを覚悟で、もう一度手を伸ばす。

当然手には痛みが走ったが、片手が駄目ならもう片方をすぐに伸ばせば良い。

素早く耳から機械を抜くと、アクトの目に光が戻った。

「…ディア?」

「やっとちゃんと認識できたか。ほら、上着」

ディアに手渡された軍服に袖を通す。大きすぎる袖から手は出ず、仕方なくそのままでいる。

「ディア、カッサスが…」

「知ってる。会議室でカスケードたちが相手してる」

「あいつカスケードさんを狙ってるんだぞ?!なんで」

「あいつらなら心配ねぇよ。…行くぞ」

アクトを抱きかかえ、ディアはその場を離れようとした。

アクトは着替えさせなければならないし、すぐに会議室に戻らなければカスケードたちが危険だ。

しかし、

「どこへ行くんだ、ヴィオラセント」

行く手を阻むのは、いるはずのない者。

「…お前は…っ!」

 

司令部施設内にいるほとんどの人間が意識を失っていた。

広範囲にわたる催眠術を施せるよう、特殊な電波を特殊なアンテナで送る。

「便利だね、この機械」

金属の表面に手を触れ、ニアが呟く。

「でもこれでアクトも眠ってしまった。…インフェリアを消すんじゃなかったのかい?」

機械を操作しながら、オレガノは静かに尋ねる。

「消すよ。…でもね、オレガノさん、カスケードは僕が倒すよ」

あの方の点数稼ぎか?」

「違うよ。ただ、他の人に消させたくないんだ」

ニアは笑う。氷のように冷たく。

「カスケードを嫌いなのは僕なんだから。…何も知らない人には譲りたくない」

軍施設の近くにある、ごく普通の建物の地下。

軍もマークしていないような所で、作戦は進んでいく。

「オレガノさんとアクト君は自分達のことをやりなよ」

「しかし、君がインフェリアを消すならアクトをロストートと入れ替わらせる意味が…」

「入れ替わるのが最終目的じゃないでしょ?アクト君の望みはオリジナルになることなんだから。

それともオレガノさん、今更殺したくなくなったの?」

機械のレバーが引かれ、電波の発信が止められる。

黙り込むオレガノに、ニアは子供に言い聞かせるような調子で言った。

「息子さんが大事なら、そんなこと考えちゃ駄目だよ?

敵に情けをかけた時点で奥さんも子供も失うって思ってね」

とても優しい声で。

 

静まりかえった司令部に足を踏み入れた青年は、真っ直ぐに第三会議室へ向かった。

催眠波のせいで全員眠っているはずだ。姿を見られることはない。

ドアを開けると、案の定全員が倒れていた。

その中に自分と同じ黒い髪を見つけ、近付いてしゃがみこむ。

「…よかった、怪我治して貰ったんだね」

彼の右肩に触れようとして、やめる。すぐに立ち上がり、知り合いにそっくりな姿を見つけた。

その体を支えて連れて行こうとしたところで、金髪の少女が目に入った。

近付きたかったが、そのままそこを離れた。

離れなければならない。自分はここの者ではないのだ。

「カッサス君、起きてください」

部屋を出てから、支えている者に声をかける。

呼べば目覚めるという、ありがちだが特殊な催眠術。

「ん……リーガル?!何しに来た!」

「迎えに来たんです。あなたのお父さんに言われて…」

「父さんが?!何で…もう少しで殺せたのに…」

悔しそうに唇を噛むアクト・カッサスを、アルベルトは複雑な思いで見る。

片方では殺せなかったと悔やみ、もう片方では守れなかったと悔やむ。

いや、アクト・カッサスにとってはカスケードを殺すことが父を守ることでもあるのだ。

何かを守るために、どうして戦う必要があるのだろうか。

「…行きましょう。まだボトマージュさんがいるはずです」

誰かが死ぬことで幸せを得られるなんて、アルベルトには理解できない。

殺してしまったことで悪夢に苦しむ者を見たから。

守れなかったことをずっと後悔している人を見たから。

「リーガル、ボトマージュはどこにいる?」

「わかりません。…発信機で調べますけど」

「貸せ!」

アルベルトの手からレーダーを奪い取り、アクト・カッサスは反応のある場所を確かめる。

ボトマージュの居場所が判ったとき、アルベルトに訊いた。

「第三資料室付近にも催眠はかかっているのか?」

「いえ、あの辺りに人がいることはないので…」

「都合の悪い…」

アクト・カッサスは呟いて走り出す。アルベルトが止めることなどできないほど疾い。

しかし、アルベルトには訊かずともわかっていた。

ボトマージュが第三資料室にいるということは、そこにディアもいるのだろう。

何故ディアがそこにいるのか。アクト・ロストートがいるからに決まっている。

アルベルトはアクト・カッサスを追う事ができず、仕方なく建物を離れた。

ブラックやカスケード、それにリアたちの無事が確認できればそれで良い。

ディアなら強いし、大切な人であるアクトのことは必ず守るはずだ。

――ディア君、アクト君、どうか無事で…

そう祈りつつ、ニアとオレガノのいる建物の地下室へ急いだ。

 

立ち塞がる影は不敵に笑っている。

その笑みの向こうに見えるのは、怒りと憎しみ。

「ボトマージュ…何でお前が!」

「今この司令部内の人間は全員眠っている。入り込むなど三流の泥棒でもできる」

ボトマージュはアクトを見、呆れたように息をついた。

「まだそんな荷物を抱えているのか。兄も姉も、罪のない少女でさえも殺してきた貴様が…」

「違う!」

アクトが言葉を遮り、ボトマージュを睨みつけて叫ぶ。

「アスカちゃんを殺したのはディアじゃない、お前だ!

罪のない人を虐殺したのはそっちだ!」

「虐殺?人聞きの悪い。彼等は視察に来た軍人を殺していく極悪犯だ。

あれは当然の刑罰なんだ」

「そんなことしていない人だっていた!何もわからない子供だってたくさんいた!

なのに全部…全部焼き払ったお前こそ極悪犯だ!」

甦るのは赤く染まる村。そして、少女の笑顔。

「お前が悪いんだ!アリストをそそのかして、あんな」

「やめろアクト…もういい」

アクトを床に降ろし、ディアは低く語る。

「俺がアスカを殺したのは事実だ。アリストが村に復讐しようと考えたのも事実だ。

お前がいくら庇っても、それは絶対ぇ揺るがねぇんだ」

「違う、お前は」

「違わねぇよ。俺は人殺しだ。本当ならアリストやアスカに憎まれても仕方ねぇんだ。

あいつらお人好しだったから俺に何も言わなかっただけだ。

…でもな、」

ディアの眼が、本気になった。

ボトマージュを睨みつけ、腰のホルスターから軍支給の四十五口径銃を取り出す。

「あいつを許せねぇのは俺も同じだ。…同罪なんだ、あいつとは」

ディアの眼を見て、ボトマージュは愉快そうに、いやらしく笑う。

「その眼…私を楽しませてくれそうな眼だ。そこから絶望に突き落とすのが最も良い方法だ。

ヴィオラセント、やはり貴様の相手は私ではない方が良い」

ボトマージュは無線を取り出し、聞き覚えのある名に語りかけた。

「ジューンリー、ナンバー47を頼む。…すぐにだ」

無線から相手の声が漏れた。

47?もう使っちゃうんだ。…すぐに行くから待ってて』

透明感のある、綺麗な少年の声。

ディアもアクトも聴いた事のない声だ。

いや、ディアはいつだかに聴いていた。ずっと昔、この中央司令部で。

「ヴィオラセント、その銃では不便ではないか?あのライフルを持ってくる猶予を与えてやる」

ボトマージュの声で我に返り、返事をする。

「いらねぇよ。これで十分だ」

「いつまでそんなことが言ってられるか…」

ちょうどその時だった。

全てが眠ったはずの建物に、こちらへ向かう足音が響いてきたのは。

 

「ボトマージュさん!」

「…カッサスの息子か」

綺麗な金髪と、冷たい紫の瞳を持つ青年。

アクトは彼を見て、ゆっくりと立ち上がる。

「アクト・カッサス…」

「アクト・ロストート、どうだった?闇と冷気に満ちた場所は」

「カッサス…お前、よくもアクトを!」

「ディア!」

アクト・カッサスに掴みかかろうとしたディアを制止し、アクト・ロストートは首を横に振る。

「お前の敵はそっちじゃない。…こいつと決着付けなきゃいけないのはおれだ」

「よくわかってるね、さすがオリジナルだ。…いや、もうコピーかな?」

アクト・カッサスは笑いながらナイフを取り出す。

銀色の、十字をかたどったナイフ。

「少し長かった髪も切ったし、このナイフも、君がつけてたドッグタグとポーチもさっき手に入れた。

全てを手に入れた今は、僕がアクトで、君が消えるべきものなんだよ」

ナイフを振り上げ、アクト・カッサスは素早くアクト・ロストートを切り付けにかかる。

ギリギリでかわすものの、方向転換のスピードも半端じゃない。

アクト・ロストートがいつも使っている軍支給のナイフは奪られたポーチの中にあり、使いやすい武器は今手元にない。

使いやすいものは、だ。

ディアの軍服の内ポケットには常にもう一丁銃が入っていることを、彼は知っていた。

素早く取り出し、引き金を引く。

「…くっ」

反動が大きく、手が痺れる。使い慣れていないせいもあり、狙いも大きくはずした。

動けぬ間に、アクト・カッサスに追い詰められる。

アクト・カッサスがこちらへ向ける刃は、いつもは自分を守るものだった。

しかし、今は自分を狙う凶器。

「これで終わりだよ。…やっと僕がオリジナルになれる」

「それはどうかな」

「…何だって?」

この状況でアクト・ロストートが笑みを見せる。

苦し紛れの強がりか、それとも。

「お前はまだおれの全てを手に入れてなんかない。

…お前は知らないだろうけど、」

手は痺れているが、まだ使えるものはある。

アクト・ロストートは、アクト・カッサスに思い切り足払いをくらわせた。

「…っ?!」

とっさに床に手をついて体勢を立て直そうとするが、すでにアクト・ロストートに見下ろされていた。

目の前には、銃口。

「今のおれを構成してるものは、三十パーセントがディアで、残り七十パーセントが他の仲間なんだ。

…お前に奪えるはずはないんだよ」

引き金が引かれる。

終わってしまう。

ぎゅっと目を瞑ったアクト・カッサスの額を、汗が流れ落ちた。

「……?」

いつまで経っても、音が響かない。

痛みも全くない。

そっと目を開けると、アクト・ロストートはまったく別の方を見ていた。

ディアの所に現れた、少女の方を。

――今だ!

アクト・カッサスはその隙を見て立ち上がり、

漸く自分を見たアクト・ロストートに、

銀の刃を思い切り突き立てた。

「……っ油断…した…」

「駄目だね。あれが誰だか知らないけど、気を取られるなんて…。

やっぱりオリジナルは僕だ」

「…いや」

引き抜いたナイフを見て、アクト・カッサスは愕然とした。

血が少量しかついていない。胸をあんなに深く刺したはずなのに。

「バカな…」

「バカなんだよ、…この上着の持ち主が。だからいつもメモを持たせるようにしてる。

お前は浅い傷を一個増やしてくれただけ」

アクト・カッサスの背に、強烈な肘打ちが入る。

呼吸困難になり、思わず屈む。

「…かは…っ」

アクト・カッサスの身につけていたポーチを素早く取り上げ、アクト・ロストートは言う。

「おれはマゾヒストなんだよ。痛みが快感なんだ。

そのくらいで苦しむようじゃ、おれには絶対なれないよ」

取り戻して、視線をディアに戻す。

ディアが向かっているのは、姿は違うが、明らかに知っている少女だった。

 

彼女が現れた時、ボトマージュは本当に愉快そうだった。

彼女を見たからではない。

彼女を見て歪んだ、ディアの表情を見て、だ。

「どうかね?死者の成長を見た感想は」

いつかと同じ調子で訊かれ、記憶はさらに鮮明になる。

「貴様が殺さなければ、彼女はもっと普通に成長することができたのだ。

貴様が殺したからこそ、彼女はこうすることでしか生きられなくなってしまったのだ」

薄い紫の髪は編まれ、瞳も虚ろだがいつかのままだ。

しかし、その姿は少女と言えども、十五、六に見える。

「これが…アスカだって言うのかよ…!」

「そうだ。だからライフルを取って来いと言ったのに…」

「ふざけんじゃねぇ!」

ボトマージュを狙って拳を振るうが、狙われた方は落ち着いていた。

不敵に笑い、一言放つ。

「アスカ、奴を止めろ」

その声に反応した少女は高く飛び上がり、

ディアの背に回り、強い衝撃を与えた。

「ぐ…っ…何…」

「ただの蹴りだ。いくらか増強してはあるがね」

「この…クソ野郎…っ!」

命を終えたはずの少女を蘇生させ、成長させ、戦わせる。

惨すぎる手口に、ディアは叫ぶ。

「やり方が汚ぇぞ!自分で戦え!

関係ない奴巻き添えにしやがって!」

「関係ない?貴様が殺したのだろう。彼女が貴様に復讐する権利は十分にある。

さっき貴様自身が言ったではないか。憎まれても仕方ないと」

間違ってはいない。復讐されても当然だということはわかる。

しかし、甦ってまで戦いたいと思うだろうか。

彼女はアスカだ。屈託なく笑っていた、あのアスカ・クレイダーなのだ。

――でも俺は、そのアスカを…

全て事実だが、今のアスカの本心は読み取れない。

虚ろな眼で、ただボトマージュに従っている。

それがアスカの本心だとは、ディアには思えない。

ただ逃げているだけかもしれない。自分の罪から逃れたいのかもしれない。

しかし、彼女がアスカ・クレイダーなら。

死に際にありがとうと言ってくれた彼女なら、こんなことは望んでいないはずだ。

「楽に…してやらねぇと…」

ライフルを握り締め、銃口は少女へ。

あの時は偶然だった。しかし、今は故意に、確実に。

自分は彼女を殺そうとしている。

引き金が引けない。それだけだ。

それすら出来れば。

――あいつもこんな風に苦しかったんだろうか

死なせてしまった者をもう一度殺そうとする。

痛くて、逃げたくて、戦いたくなくて。

――あいつの方が苦しかったんだろうな

人差し指に力を込める。

直立したままの少女は、じっとこっちを見ている。

そして、かすかに口を開いた。

「ディア…サン…」

「!」

変わらぬ声で、記憶が引き出される。

「ドウ…シテ…」

笑顔も、赤く染まった姿も、

「ワタシヲ…」

遠くでそれを見ている自分も見えた。

「ワタシヲ…コロスノ…?」

一生消えることのない傷が、深くえぐられる。

「…できねぇよ…」

銃口は床に向けられ、苦しむ者は項垂れる。

「俺にはできねぇ!…あいつみたいな覚悟、俺には…」

親友を討った時、あの男はどんな気持ちだったのか。

今ならわかる。しかし、わからない。

「無様だな、ヴィオラセント…その絶望の表情、やはり貴様によく似合う」

低い声が、重くのしかかる。

「殺せ、アスカ」

その声に、少女は銃を取り出した。

銃口はディアにぴたりと押し当てられ、彼女はなんの躊躇いもなく引き金を

「やめろぉっ!!」

引く前に、爆音とともに銃を弾かれた。

少女はそのまま動きを止め、ボトマージュが憎らしそうに銃弾を送った者を見た。

「ロストート…邪魔をしないでくれたまえ」

「お前の邪魔はしてないつもりだ」

痺れる手を下ろし、アクトは必死に呼びかけた。

「アスカちゃん、君は殺しちゃいけない!君に人殺しはさせたくないんだ!」

「バカな…クローンに届くはずがなかろう」

「君はそんなことをするべきじゃない!アリストが…お兄ちゃんが悲しむよ!」

届いて欲しい。あんなに辛いことはもうたくさんだ。

悲しみを増やしてはいけない。苦しむ者を見るのはごめんだ。

「そこまでだ、ロストート」

腕を掴まれ、アクトは振り向く。立ち上がったアクト・カッサスが、銀色のナイフを突きつけていた。

「君の相手は僕だ。…あんなのにかまっている暇はないだろう?」

アスカはボトマージュの指示で再び銃を手にし、アクト・ロストートは身動きが取れない。

ディアはすっかり気力を無くしていて、ボトマージュは不敵に笑う。

万事休す、か。

 

誰かに呼ばれている。

それは確かに自分の名前だが、姓だ。

姓で呼ばれることはごく少ないけれど、何故か何度も呼ばれたような気がする。

目を開けると、何度も見た色。

そして、漸く会えた色。

「…リーガル少佐…?!」

リアの瞳は確かに、アルベルトを捉えていた。

「しっ…静かに」

「…戻ってきたんですね」

アルベルトの袖を掴み、リアは必死で訴えかける。

「どうして戻ってこなかったんですか?!皆心配して」

「静かにしてください。…僕は、本当は戻ってきたくありませんでした」

口調が違う。いつもの挙動不審なそぶりなど見せない。

まるでアルベルトではないようだ。

しかし、この口調を全く聞いたことがないというわけではない。

どこで、どのように聞いたのかが、はっきりとは思い出せない。

「命令されたからここにいるだけです。一度しか言いませんから、よく聞いてください。

今、司令部中の人間が催眠術で眠っています。起こすにはその人を名前で呼ぶんです」

「え、じゃあ…」

「今は駄目ですよ。僕の姿を見られたくない。

僕がここから去ってから、大佐と弟以外の人を先に起こしてください。

特に、弟は最後にお願いします」

「どうして?」

「どうしてもです。…それから、ディア君とアクト君が怪我をしている可能性があるので治癒を頼んでおいて下さい。

…お願いします、マクラミーさん」

真剣な瞳。リアは頷くしかなかった。

この人に従った方が良い。その方が良いような気がした。

「リーガル少佐」

袖を掴む手を緩め、小さな声で語りかける。

涙を零さぬよう、気をつける。

「帰ってきてください…必ず」

ここで引き止めれば、他の者の名を呼べば、アルベルトが行ってしまうことはない。

しかし、リアは引き止めることもできない。

「約束しますよ」

この優しい声を、ここで引き止めてしまったら、

もう二度と聞けなくなるような気がした。

「約束します。必ず戻ってきますから」

離れていく影を、何も言わずに見送る。

どうして自分を起こしてくれたのだろう。

どうして自分に託してくれたのだろう。

今できることは、ただ一つ。

考えるより、行動する事。

 

銃声は聞こえなかった。

痛みもなかった。

あるのは、足音と声だけ。

「そこでやめておいてね」

光を透かした濃緑の髪。こちらを見る濃緑の瞳。

「タイムリミットだよ。もう起き始める」

左耳に光る銀色に、見覚えがある。

「ニア…」

「ジューンリー、貴様邪魔をするつもりか!」

憤るアクト・カッサスとボトマージュに、ニアは冷たく笑いかける。

あの方からの命令なんだ。…それに、催眠術も解け始めてる頃だからね。

向こうでアルベルト君と合流して、行こう?」

ニアの台詞に名前を聞いた。

合流――ここに、いる?

「アルベルトがここにいるのか?!」

アクト・ロストートの反応に、ニアは僅かに驚いた表情を見せた。

しかし、すぐに冷笑に戻る。

「いるよ。今頃会議室でリアちゃんを起こしてるんじゃないかな。

でも彼は返さない。まだまだ働いてもらわなきゃいけないからね」

急に大人しくなったアクト・カッサスとボトマージュ、そしてアスカを連れて、ニアはその場から離れようとした。

「待て!」

それを止める声は、今まで失っていた気力をほんの少し取り戻していた。

「お前がニアなら、何でカスケードを狙うんだよ!親友じゃなかったのかよ!」

ニアは振り向いて、ディアとアクト・ロストートを交互に見て言った。

「親友?何それ?僕はカスケードが嫌いなんだ。あの方の邪魔をするから」

聞いていた話とは随分違う。

自分たちの聞いた「ニア・ジューンリー」は、太陽のような笑顔で和ませてくれる、優しい人だったはずだ。

人を守る軍人を目指した、カスケードの唯一無二の親友だったはずだ。

「ニアさん、カスケードさんはあなたのことを」

「アクト」

ディアがアクトの言葉を遮る間に、ニアは消えていた。

他の三人もいない。

急に消えてしまい、後に残るのは痛みだけ。

 

アルベルトに言われたとおり、リアは会議室の人間を一人一人起こしていった。

勿論、カスケードとブラックは最後に、だ。

「ありがとう、リア。…皆無事でよかった」

グレンはそう言ったが、リアは暗い表情のままだった。

「どうかしたんですか?」

ラディアが尋ねると、リアは首を横に振った。

「何でもないよ。…ちょっと、会っただけだから」

「会った?」

リアは頷くと、ブラックの傍に行った。

真っ直ぐ前に立つと、ブラックは困惑する。

「…何だよ」

「ブラック君、私さっきリーガル少佐に会ったの」

「…アイツに?!」

「リアちゃん、確かか?!」

カスケードも、他の者も驚いたようだった。

リアは強く答えた。

「確かです。私に催眠術の解き方を教えてくれて、また行ってしまいました。

止めることができなかったのは私の所為です。…ごめんね、ブラック君」

ブラックは溜息をついて、傍の椅子に座り込んでしまう。

右手で顔を覆い、低い声で呟いた。

「なんでお前が謝るんだよ…謝るのはアイツじゃねーか」

何があったかは解らない。また行ったということは、完全に裏切ってしまったということだろうか。

しかし、無事なのはわかった。

どうやって連れ戻すか。それができなければ、どう始末するか。

ブラックは戦わなければならないだろう。自らの、兄と。

「アル、他に何か言ってたか?」

「ディアさんとアクトさんが怪我をしているかもしれないって。

それから…必ず戻ってくるって、約束してくれました」

離れていく影は寂しそうだった。約束が果たされることを、ただ信じるしかない。

リアに、仲間にできることは、信じて行動することだ。

 

急いで寮に戻って着替えて、また司令部へ戻ろうとする。

その間にも頭の中を巡る、「何故」。

「大丈夫か?」

ディアはアクトの手を握り、訊く。

「まだ少し痺れてる」

「だろうな。無理しねぇで休んでろよ。軍服もねぇんだし…」

「問題ないだろ。カスケードさんたちの無事を確認しなきゃ」

私服で出て行こうとするアクトを、ディアは後ろから抱きしめた。

温かさが、さっきまでの痛みを和らげてくれる。

「怪我してんだろ、お前も。大人しくしてろ」

自分の方が大きな痛みを抱えているくせに、この男は何を言っているのだろう。

しかしそれがディアなのだということは、アクトが一番良くわかっている。

「ディア、…何であの時、止めたんだ?」

「あの時?」

「おれがニアさんにカスケードさんのこと言おうとした時」

カスケードの気持ちを聞けば、ニアも考え直すかもしれないと思った。

それなのに止められ、ニアを逃がしてしまった。

ディアはアクトの思いがわかっていて、わざとそうさせたのだ。

本当は訊かずともわかっている。

「ああいう事はカスケードが直接言うことだろ」

アクト自身そうだと思った。ディアに止められた、その後に。

「…ほら、お前は休んでろ。カスケードたちが無事かどうかは俺が見てきてやるから」

「駄目だ。カッサスがいたのにおれがいなかったら不安がられる」

それに、まだ疑問が残っている。

解き明かさなければならない謎が、多すぎる。

 

第三会議室は静まり返っていた。

倒れている訳でも何でもないのに、誰も言葉を発さない。

リアがアルベルトと会った事を話して、後から来たディアとアクトはほんの少しだけ驚いた。

しかし、それきりだ。

誰も何も言えず、時計の音だけが規則的に流れていく。

「ごめんな」

漸くカスケードが口を開く。

「元は俺の所為なのに、皆巻き込んで…」

「カスケードさん、違いますわ。わたくし達はそんな言葉は望んでいません」

メリテェアの言葉に、再び静寂は帰ってくる。

思っていても、誰も言えない。

また司令部は襲撃にあう恐れがある。今回は催眠術で眠らされていて、誰一人事態に気付いていなかったのが幸いだった。

しかし、次もそうだとは限らない。

相手が軍に知られるのを恐れなくなったら、何も打つ手はない。

向こうには核兵器があることも考えられる。

たとえ軍総出で戦っても、おそらく勝ち目はない。

「…あ、忘れてた」

沈黙が漸く破られる。今度はディアだ。

「これ、アクトの耳についてたんだけど…」

ポケットから小さな機械を取り出す。机の上に置くと、全員が集中した。

「何だこれ…イヤホンか?」

カスケードが手を伸ばしかけた時、ブラックがそれを奪い取るように自分の元へ引き寄せた。

「ブラック?」

「…これは洗脳装置だ」

低い呟きに、ディアが訊き返す。

「洗脳装置だと?!…でもこんなんでできるのか?」

「アイツがこれで洗脳されて、向こう側へ行った」

淡々と語るブラックの表情は見えない。

リアは聞いていて、ふと違和感を覚えた。

「でもリーガル少佐、いつもと違ったけど洗脳された感じはなかったわよ?」

「多分洗脳されたふりをしてたんだ。アイツはそういう奴だ」

ブラックの表情が、今度はわかった。強い瞳は、リアが会ったアルベルトと同じだ。

「いいかげん思い出せ、リア。お前はあのアイツに前にも会ってるはずだ」

「おいブラック!リアさんはアルベルトさんの為に記憶を」

「カイは黙ってろ!今必要なのはリアの記憶だ。アイツを生かしておけるのはリアだけだ!」

こんなブラックは今までに見たことがない。

最近様子がおかしかったが、今のこの様子はいつもの彼と全く違う。

「…何で、私なの?」

漸くそれだけ言う。

「アイツはオレ以外とは闘わない。オレはきっとアイツを殺す。

お前が何と言おうとも、オレはアイツを始末する。

そうならないようにできるのはリアだけだ。リアがもし危険ならグレンやラディアや…カイもいる」

「答えになってない!ブラック君、何で私だけなの?」

「アイツはお前が大事なんだよ。大事な奴傷つけねーんだ、アイツは」

リアの脳裏に、ふと浮かぶ影。

悲しそうな表情が見え、強い言葉が聞こえる。

断片的にだが、徐々に記憶が戻っている。

割れた鏡の破片が全部集まるのに、そう時間はかからないはずだ。

「…ブラック君、私は私にできることをしたい。だから、私にできるならリーガル少佐を助けるよ。

でも、あなたはやっぱり間違ってる。

あなたには、お兄さんは殺せない。絶対にできない」

淡いブルーの瞳が、強い意思を語る。

「だって、こんなにリーガル少佐を想ってるじゃない。

こんなにお兄さんのこと、大切にしてるじゃない」

家族で殺しあうなんて、絶対にあってはならない。

大切な者を大切だからこそ消すなんて、そんな辛いことは起こってはいけない。

苦しんでいる人を知っているから、言える。

「ブラック君だけじゃない。カスケードさん、あなたもです」

「…俺も?」

話が自分に向くとは思わなかったが、向いてもおかしくないとは思い始めていた。

カスケードもわかっている。リアが何を言おうとしているか。

カスケードも闘いたくはない。相手は自分が親友だと思ってきた者だ。

しかし向こうが親友じゃないと、嫌いだと言っているのだから。

リアにもわかっている。カスケードが何を思っているのか。

「カスケードさんの場合は逆。自分を責めて、自分から倒されようなんて思わないで下さい。

…もうあんな思い、したくありませんから」

傷付いて、苦しんで、ここまで来てまた失う。

軍人という仕事をしている限り、失うことは多い。

しかしそれに慣れたくはない。守るために存在しているのだから。

本当に大切な者を、守れなくてどうする。

「大切なものは何が何でも守りぬけ…あとで後悔しても遅いんだ。

カスケードさん、自分でそう言いましたよね。

私たち皆、この言葉をいつもどこかにおいているんです。

巻き添えにしてください。私たち、巻き込んで欲しいんです」

仲間がいるから。傍にいるから。

一人で抱え込まないで。

「守りたいんです。大切な人を、何が何でも守りたいんです!」

頼りないかもしれないけれど、想うから。

一緒に戦うから。

仲間だから、信じている。

仲間だから、信じて欲しい。

 

机の上にはマイクとスピーカー。

いつもと同じように着席し、いつもと同じように会話する。

「ジューンリー、本当にあの方の命令だったのか?貴様、自分だけ寝返るつもりではあるまいな」

憤慨するボトマージュに、ニアは相変わらずの笑顔で応える。

「疑い深いね。だったらあの方に訊いてみれば?」

「今回は私も証人です。あの方は確かに戻るように指示をされた」

オレガノもニア側だ。オレガノがそう言えば、息子であるアクトも納得せざるを得ない。

「父さん、あの方はどうしてそんなことを?」

「タイムリミットだと…ただそれだけだ」

一体何の、と訊こうとした時、スピーカーから声が聞こえた。

重い、声が。

『ボトマージュ、私の考えに反するならばすぐにでも処刑してやろう。

造反者は私の理想郷には要らない』

「そんな!私は造反など…」

「でも文句言ってたよね」

「ジューンリー、貴様!」

『黙れ』

ボトマージュを制止し、声が続く。

ニアはずっと笑みを浮かべている。

『今回は見逃してやろう。ナンバー47も正常に働いているようだし…。

ナンバー0102も調整が終了しているのだろう?』

「はっ!…この次は必ずや司令部の者をまとめて…」

『貴様が相手をするのはヴィオラセントだけで十分だ。

インフェリアは支障が出ない限りニアに任せる』

「ニアに?!じゃあ僕はどうすればいいんですか!」

「アクト、君はオリジナルになればいい。それだけでいいんだ」

アクトに答えたのは、声ではなく父親だった。

「コピーを消して個人になる。それが目的だ」

「…わかりました」

奇妙な光景だ。馴れ合うなとは言っているが、完全にそうなってはいない。

しかしやることは互いに自分本位なのだ。

一人一人が感情のままに動き、目的を達成しようとする。

協調性はない。しかし、全くまとまっていない訳でもない。

アルベルトはこの部屋で起こることを複雑な思いで見ている。

どうしたらよいかわからないまま、そこから動けない。

『アルベルト・リーガル』

「…何ですか」

動けないのに、動かそうとする。

動きたくないのに、流れが強すぎる。

『余計なことは一切しないように。もしすればそこで全てが終わるものと思え。

君は賢いから、この意味はわかるはずだ』

「…わかって、います」

『わかったならよく聞きたまえ。君はニアと一緒に司令部へ行くんだ』

流されて辿り着く先は、

『そして、ブラック・ダスクタイトと…司令部の者を、全て消すんだ』

足をすくい、二度と抜け出せないように絡みつく、

底の無い、黒い沼。

 

カスケードが寮の部屋に戻ると、いつものようにサイネが待っていた。

首を曲げて笑い、部屋に上がり込む。

「今日もお仕事ご苦労様です」

「あぁ…今日はちょっと大変だったな。サイネちゃんは何も無かったか?」

「はい、特に何も」

ハーブティーを淹れて、僅かな時間語り合う。

なるべく司令部で起こったことは避け、今日のできごとは全く話さない。

サイネの無事を確認し、他愛の無い話をする。

「カスケードさんって、本当に周りの方を大切に思ってらっしゃるんですね」

サイネはカップを置き、息をつく。

「他人のために一生懸命になれるんですね、軍の人って」

「それが仕事だからな。それに、いい奴ばっかりだから」

そう、自分のために想いを叫んでくれる、いい奴ばかりだ。

今日も救われた。しかし、その分責任を感じてしまう。

彼等にここまで言わせてしまって、自分がこのままでいいはずは無い。

償いのことを、まだ考えている。考えないことは無い。

「…俺のことは良いとして、サイネちゃん、昼間何やってるんだ?

セレスさんに訊いてもわからないって言うんだけど…」

話題を変えると、サイネはちょこんと首を曲げて微笑む。

「本を読んだり、お話したりしてます」

「誰と話してるんだ?」

「内緒です。そのうち紹介しますね」

和みの一時が短く感じられる。

この戦いはいつになったら終わるのだろう。

戦いたくないのに。

 

鏡が映し出す希望は、あまりにも儚い。

鏡が映し出す絶望は、あまりにも深い。

鏡は未来を映さない。

 

 

To be continued…