コンクリートの壁が剥き出しの天井は、重苦しい感じがする。

独りで過ごす夜は痛い。

アルベルトが眠れずにいると、ドアが開いて黒い影が入ってきた。

「起きてる?」

「起きてます」

感情を込めず、一言だけ返す。

ニアはアルベルトに近付き、ベッドに腰を下ろした。

「何でリアちゃんと接触するように言ったか、わかる?」

歌うような声は、きっと全ての者を惑わすことができる。

アルベルトはニアと出会ってからそう思っていた。

「わかりません」

「わかってると思うけど。

…カスケードやブラック君だと君を引き止めるだろうし、他の人は状況を完全には把握していない。

ある程度のことを聞いていて、君に逆らえない人物が良いと思ったんだ」

「逆らえない?マクラミーさんが?」

「前に助けたんでしょう?彼女はそれを忘れてるけど、意識にはあるだろうから」

人差し指に長い髪を巻きつけながら、ニアは言葉を続ける。

「何故忘れたか…それは彼女を助けた時の君の表情が悲しそうだったから。

同情で付き合っていくのが嫌だから、彼女は自分で記憶を消したんだ」

知らなかった。リアがあの日のアルベルトを忘れていることは知っていたが、その理由までは知らなかった。

自分のためにそうした。自分から消した。

ショックで言葉が出ない。

しかし、

「…でも、どうしてそれをジューンリーさんが?」

そう思わずにはいられなかった。

本人から聞けるはずは無い。周りが話すわけも無い。

どうしてこんなことがニアに知れる?

あの方が教えてくれたんだ」

「…あの方?」

「そう。何でも知ってるんだよ。こちらに都合の良いことは全部教えてくれるんだ。

あの方は僕等の味方。理想郷だって、僕等が住み易い世界のことなんだよ」

理想郷――犠牲を作ってまで成し遂げようとするもの。

アルベルトには納得がいかず、ずっと訊きたかった事。

「何が理想なんですか?」

「社会から外れた人間とクローンの世界」

ニアはアルベルトの方をまったく見ずに、語り始める。

「エルニーニャは周りの国を同意の下で取り込み、大きくなっていった。

どこも反対しなかった。大国の一部となることで、自分達も強大な力に守られることになるから。

そうやってこの大陸で最も大きな国として君臨するようになったんだ」

「…知ってます」

昔――アルベルトが幼い頃、家庭教師がそう言っていた。

この国の誰もが知っていることだ。同意の下で成り立った国家だから、平和で、争いが無い。

それがこの国の特徴であり、誇りだ。

「でも、おかしいと思わない?全てが同意したって、本当かなぁ?

犯罪件数が多くて事件も大きい国が、本当に平和だと言える?

軍が必要な国が、何の問題も無いと言える?」

「…それは……」

確かに犯罪や事件の件数は他の国に比べて多いが、それは国土面積が広いからだとされている。

遠い所で何かが起こっても、国境の内側ならエルニーニャで起こったこととしてカウントされる。

だから他の国とそんなに変わらないと、軍ではそう統計している。

しかしこれは統計上であり、軍部側の言い訳に過ぎない。

どこで起ころうと、それは「起こったこと」なのだ。

軍に来る仕事量、任務の多さから見ると、決して安全とは言えない。

人に言われて、アルベルトは初めてその深刻さについて考えた。

ニアは少し間を置いて、語りを続ける。

「豊かだとそれ以上のものを求めるのが人間の欲。貧しいと豊かさを求めるのも人間の欲。

だけどこの欲には大きな違いがある」

この国に貧富の差は無いと言われている。

生活水準の低いものは国からの援助を受け、財閥は積極的に彼等を保護しようとする。

そうして均衡を保っているというのが、政府と軍の言い分だ。

「アルベルト君、貧しい人が盗みを犯した時と、豊かな人が盗みを犯した時…どちらが罪が軽いと思う?」

「…貧しい人でしょうね。生活水準の調査結果を裁判に適用できるはずですから」

「そう思うでしょう?でも生活水準の調査結果が無い人はどうなるの?」

「まさか…そんな人いる訳が無いですよ。この国は全ての人に調査が行き届いているんですよ?」

月毎に国で一斉調査が行われているはずだ。どの世帯も余すことなく、平等に。

それは国で定められている法律だ。

しかし、ニアは首を横に振る。

「全てに行き届いているっていうのは嘘だよ。この国だけじゃない。どこもそうなんだ」

「え、でも…」

「全てに行き届いているなら、僕はどうして地下にいなきゃいけないの?」

無表情の問い。

すぐに答えは見つかるが、言葉にするのが憚られる。

「それは…ジューンリーさんが、クローンだから…」

「ほら、クローンの人権は認められてないじゃない。存在しているのに、いないもの扱いだ」

「クローンの存在は世間一般には知らされてないからですよ」

「知らせたところで気味悪がられるだけだよ。…違法だって言われて消されるかもしれない。

都合が良いことは臓器移植や身代わりかな。どちらにしても死ぬための存在だよ」

何も返せない。返せるような立場じゃない。

アルベルトは国の立場から、軍人の立場から物事を見ている。

そんな人間が何か言った所で、クローンの苦悩は晴れない。

それから、とニアは言った。

「人間でもマイノリティーがいる。少数民族でもともと小国の奴隷扱いだった人々は、小国の決定に従うしかなかった。

つまり、彼等はエルニーニャ国民になりたくてなった訳じゃない」

エルニーニャは国家を統合してから、少数民族問題も解決を図っていった。

虐げられた人たちは解放し、保護し、生活補助を行った。

結果的に彼等は助けられたはずだ。

「なりたくなくても結果的には良かったと思う人たちもいた。

けれど状況が変わらなかった人たちもいるんだ。

出身がマイノリティーというだけで差別する人はまだまだいる。

法律ではそういう人たちを罰することができるけど、証拠が無ければ全て無かった事になる」

知らないこと、というより、知られないよう隠されてきた事。

そんなことは誰も教えないし、聞いてもその場でしか考えない。

「差別の無い、争いの無い、平和な国…同意の下といっても、結局は違うものを寄せ集めた国。

思想が違う。文化が違う。受け入れろとは言うけれど、受け入れられない人もいる。

本当に全部が仲良しかって訊くと、誰もイエスとは言えないんだよ」

本当の意味での解決など、人が個々の意思を持っている限りありえない。

思想や言論を一本化することはできない。

それは許されないことなのだ。

あの方は社会に虐げられるマイノリティーや人権の無いクローンに国を与えてくださるんだ。

僕等はこんな地下じゃなく、地上を自由に歩ける。

同じ苦しみを持つマイノリティー達は本当の幸せを知っているから、それを実現しようとする。

汚れた人間はすべて排除し、本当に幸せな世界を作るんだ」

ニアは笑っていた。

しかし、アルベルトにはそれがどうしても冷たく見える。

自分の中におかしいという気持ちがあるから、そう見えるだけなのかもしれない。

そう、おかしいのだ。

希望に満ちた理想郷を作るなら、なぜ排除しなければならないものがあるのか。

マイノリティーやクローンも、苦しみは同じだが個々の意思がある。エルニーニャと同じ状況にならないとは限らない。

それに…

「そういう世界を作ろうとするあの方は…人を自分の思い通りに動かそうとしていますよね」

アルベルトの言葉に、ニアの表情が凍りついた。

笑みなど、無い。

「これはさっきジューンリーさんが説明してくれたことに矛盾します。

邪魔になったら消し、脅しながら物事を進めて…これじゃ独裁ですよ。

ジューンリーさんや他の人も、まるであの方の人形じゃないですか!」

目の前でイリーが消され、ボトマージュやオレガノは脅される。

アクト・カッサスは父に従い父のために動き、

ニアは完全にあの方の言いなりだ。

物事の矛盾も、自分の中でなかったことにしてしまうほどに。

「ジューンリーさんもわかってるはずです。こんなことでは理想郷なんて」

「アルベルト君に何がわかるの?!」

キッと睨んだ瞳は、恐ろしいほどに鋭くて、

そして、どこか悲しそうだった。

「居場所がある人は良いよね。辛くてもそこに寄りかかれる。

でも一度死んだ人間には居場所が無い。偽物だと言われて…斬られてしまう」

悲しそうなのではなく、悲しんでいる。

見えない場所で泣いている。

「居場所ができるなら、犠牲を払ってでも手に入れる。

それがどんなに辛くても、幸せになれるならどんなことだってする」

本当はニアだってこんなことはしたくないのでは、とアルベルトは思う。

ここに来て初めて話した時もそうだ。

ニアはいつも悲しそうで、辛そうで、痛そうだった。

「ジューンリーさん、本当は大佐のこと」

「カスケードは嫌い。大嫌い。明日必ず消す」

言葉を遮って、さっさと部屋を出て行くニアの背中が、

自分の言おうとした言葉を肯定しているような気がした。

 

明日ニアとともに司令部へ行き、命令されたことを遂行しなければならない。

アルベルトの任務は、ブラックを――。

 

「頼む!見張りをつけるから、許してくれ!」

懇願するカスケードに、メリテェアは溜息交じりに返す。

「いけませんわ。部外者ですもの」

「そこを何とか…最近物騒だし、もし何かあったら…」

「こっちの方が物騒ですし、寮が危ないならセレスティアさん達も全員司令部に連れてこなければなりませんわ」

「セレスさん今日出かけるから危ないんだよ。サイネちゃんをここに置いてくれ!」

カスケードがサイネを心配する気持ちもわかる。

しかし、最近軍には事件が多いだけに部外者を置いておく訳にはいかない。

「大体、サイネさんはいつまでいらっしゃるんですか?

今までの相手の動向から見て、サイネさんはもう大丈夫だと思いますわ」

「それなんだけどさ…」

メリテェアの厳しい言葉に、カスケードも申し訳なさそうにする。

「サイネちゃん、帰る所無いみたいなんだ。だから…」

「では一生置いておく気なのですか?カスケードさんは面倒見きれるんですか?」

「いや、それは…」

いつになく情けないカスケードに、メリテェアは言葉が尽きた。

サイネが現れてから、この人は少しおかしい。

ショックが重なっているのは確かだが、それにしても一人の少女に振り回されすぎではないか。

「カスケードさん、わたくしは反対ですわ。

でもそこまで言うのなら、わたくしの見張りの下で司令部にいることを許可します」

「小娘だから」などとは言ってられない。自分がしっかりしなければ。

それに、サイネについて気になることもある。

「サイネさん、今日はわたくしの監督の下での行動となりますけれど、お許しくださいね」

丁寧に頭を下げて挨拶すると、サイネはいつものように笑った。

「わかってます。部外者は本当はいちゃいけないんですよね」

「えぇ。ですからなるべく動かないようにしてください」

メリテェアはサイネを監視しながら、素性について訊こうと思っていた。

いくらなんでもこんなに長期間軍にいるだろうか。

帰る所が無いとは聞いたが、それまではどうしていたのだろうか。

訊かなければいけないことはたくさんあるのに、タイミングがつかめない。

サイネはメリテェアが話し掛けようとすると、それをかわすように自分から関係のないことを話す。

天気がいいですね、とか、皆忙しそうですね、とか。

何も訊けないまま途方にくれていると、呼び出されてしまった。

『リルリア准将、至急第二会議室まで…』

「呼ばれてますよ、リルリアさん」

「…そう、ですわね。ちょっと待ってください」

サイネを一人にはしておけない。誰か代わりの者を呼ばなければ。

そこに通りかかったのがグレンとカイだった。

「グレンさん、カイさん、ちょっとよろしいですか?」

「どうした?メリー」

「この方についてて欲しいんですの。部外者を一人にしておくわけにはいかないので」

「部外者?」

カイはサイネを見て、首を傾げる。

「何で部外者がいるんですか?」

「カスケードさんが、彼女が心配だからって。お願いしてよろしいかしら?」

「かまわない。俺たちもちょうど休憩だし…」

「ありがとうございます。宜しくお願いしますね」

メリテェアはそっとグレンの手を握り、そう言った。

そして小走りで行ってしまった後、グレンとカイがサイネに挨拶した。

「初めまして。噂は聞いてるよ。…サイネさん、だっけ?」

「はい。あなた達は?」

「俺はカイ・シーケンス、ここの少尉。こっちはグレン・フォース大尉」

流石はカイだ。すんなり人に話し掛けられる。

グレンは黙ったままで、二人の様子を見ていた。

メリテェアがさりげなく残していったメモを、握り締めながら。

「カイさんもグレンさんも、カスケードさんからお話聞いてます。

とっても頼りにされてるんですね」

「カスケードさんそんなこと言ってたの?なんか照れますね、グレンさん」

「…あぁ」

メモのことはカイには知らせないでおこう。自分だけが知っていれば良い。

そしてタイミングを見計らって、訊けば良い。

「カスケードさん、いろいろなこと話してくれるんです。

でも大抵部下の方の事ばかりで、とっても楽しいお話なんです」

「あの人は部下思いだから。ね、グレンさん」

「あぁ、だから人に頼られる。…素性不明の人間にも、な」

憎まれ役は自分だけで良い。

「サイネさん、カスケードさんはあなたにいろいろ言っているようですが、あなたは何か話しましたか?

家はどこ、とか、今までどうしていたか、とか…」

「そんなことより、もっと楽しいお話しましょう?私のことなんて」

「重要なんです。…最近の一連の事件は、あなたが来てから起こっている」

「グレンさん」

カイはグレンを止めようとして、彼の眼に気付く。

真剣になっているときの強い光。

この銀色は止められない。何を言っても。

「厳しいことを言うようですが、俺はあなたにも責任があると思ってるんです。

怪しまれたくなければ話してください」

強い口調で言われ、サイネの表情が歪む。

しかしすぐに落ち着き、困ったような表情で尋ね返した。

「あの…言っている意味が分からないんですけど。

一連の事件って何ですか?何かあったんですか?」

「…知らないんですか?」

「えぇ、何も。カスケードさんは部下の方のこととかしか話さないんです」

カスケードならそうかもしれない。

サイネは「組織」に追われた被害者だと思っているはずだから。

わざわざ辛くなるようなことを聞かせたりはしないだろう。

「そうですか、わかりました。疑うような事言ってすみません」

「何がなんだかわからないから良いです。どちらにしても私には関係ないことだと思いますし」

サイネはそう言って笑っていたが、こちらを不審がっているということはすぐにわかる。

まずいことを言ってしまった。

「サイネさん、いつまでここにいるの?」

軽い調子でサイネに尋ねたのはカイだった。

先ほどまでの重い空気が消える。

「いつまでって…」

「もう結構いるよね。カスケードさんの所に毎日行ってるらしいし…

そろそろ家帰らないと家族の人心配するんじゃない?」

笑顔でそう言うカイに、サイネは少し戸惑っているようだった。

そして、グレンも。

カイの方をちらりと見ると、視線が一瞬返ってきた。

大丈夫ですよ。俺が何とかしますから。

そう語りかける、黒い瞳。

「カスケードさんは何も言わないかもしれないけど、俺達はちょっと心配なんだよね。

軍って結構危ないから、巻き込まれたりしないかなって」

サイネの表情が再び歪む。

苦しそうに胸を押さえ、小さな声で言った。

「…私…家族、いないから」

「…いない?」

「この世界に帰る場所なんて無いの。どこにも居場所は無いの。

だから…ここにいたい」

俯いて話す彼女の声は、かろうじて聞き取れる程度に細い。

家族がいなくて、帰る場所がない。

カイはその痛みを知っている。

神を恨んだあの頃を思い出しかけて、拳を握る。

「カイ、大丈夫か?」

隣からの声に頷き、笑ってみせた。

「大丈夫です。今は俺よりサイネさん、でしょう?」

痛みは知っている。けれど、今の自分には帰る場所がある。

こんなにも、暖かい場所が。

だからサイネがここにいたいという気持ちはわかるのだが、軍人ではない彼女の居場所としてはあまりにも危険すぎる。

「サイネさん、今までどうしてたんですか?」

「一月前までは旅をしていました。それから部屋を借りて、一人で住んでいました。

そこはもう契約を切ったので戻れません」

「何で契約きったの?」

「脅迫状が届くから、嫌になったんです」

そういえばツキがそんなことを言っていた。

カイが少し考えていると、サイネは少し顔を上げた。

「あの、どうしてそんなこと訊くんですか?」

こちらを不審に思うのは変わらないらしい。

「いや、ちょっと話の流れで。ごめん、詮索しちゃって」

これ以上は聞き出せそうにない。しかし、情報は得た。

メリテェアが戻ってきて再び交代した後、グレンとカイは仕事に戻ることにした。

「カイ」

「なんですか?」

「…ありがとう」

「俺は何もしてませんよ」

いつものように、苦手なデスクワークへ。

 

「ねぇ、あなた達」

クレインとリア、そしてラディアが受付の側を通りかかった時、見知らぬ女性に声をかけられた。

彼女はエルニーニャ軍の軍服を着ていたが、中央では見たことがない。

「何でしょうか」

「インフェリア大佐ってどこにいるかわかるかしら」

優しく微笑む彼女の階級バッジは水色。つまりは大佐。

「カスケード・インフェリア大佐は第三休憩室にいます」

クレインが落ち着いて答える。

「案内しましょうか?」

「お願いするわ」

女性大佐とともに廊下を歩きながら、ラディアが尋ねる。

「あなたは誰ですか?」

「私は南方司令部大佐のスクロドフスカよ。あなたは…そう、たしかローズ曹長よね」

「何で知ってるんですか?!」

見知らぬ女性に名前を当てられ、ラディアは驚く。女性はさらに続けた。

「それから、あなたがマクラミー中尉、あなたがベルドルード中佐ね」

「どうして…」

「南方司令部の人が何故そこまで?」

リアは素直に驚きを表し、クレインは冷静に尋ねる。

スクロドフスカ大佐はにっこり笑って言う。

「だって、聞いてるもの。あなた達の大佐さんや、私の弟から」

「弟?」

リアは首を傾げる。自分の知り合いに、誰かの弟だという人は少ない。

誰に似てるわけでもなく、彼女の正体が余計に判らない。

「あの、一体どなたの」

「スクロドフスカ大佐!」

リアの質問を遮り、捜していた声が聞こえる。

視界には笑みを浮かべるダークブルー。

「リアちゃんたち連れてきてくれたのか。サンキュ」

「カスケードさん、この方は…?」

クレインの問いに、カスケードは当然のように答える。

「南方司令部のマーシャ・スクロドフスカ大佐だ。ちょっと用があって来てもらった」

「さっき弟さんがいるって言ってましたけど…」

「弟?」

カスケードは少し考えて、あぁ、と手を打った。

「スクロドフスカ大佐、また誤解を招く発言を…」

「私にとっては弟のようなものですもの」

二人のやり取りがリアたちにはまだ理解できない。

「弟のような」――つまり実の弟ではないらしい。

ラディアは特に気になっているようで、カスケードの袖を引っ張りながら訊いた。

「一体何のことですか?早く教えてください!」

「あぁ、悪いな焦らして」

スクロドフスカ大佐が頷いたのを確認して、カスケードはネタばらしを始めた。

「彼女はアクトの従姉。アクトに軍人になることを勧めた張本人、だな」

「え、アクトさんの?!」

「何でここにいるんですか?」

「言ったろ、俺が用あって来てもらったんだ」

じゃあな、とスクロドフスカ大佐を連れて行ってしまうカスケードを、女の子三人は首を傾げて見つめていた。

「用があるとすれば今回の事件についてなんだろうけど。…私たちは後の指示を待った方が良いみたい」

「そうね。…行こう、ラディアちゃん」

「あの人全然アクトさんに似てませんね。あの人どっちかって言うと可愛いです」

「…ラディアちゃん…」

カスケードに連れられて、マーシャは第三休憩室へ向かった。

今日は会議室が空いていないから、とカスケードは言う。

「でも休憩室は無用心じゃありません?」

「いや、意外と一番怪しまれないんです。小声じゃなきゃいけないけど…」

カスケードがドアを開けると、そこにはマーシャの見知った顔があった。

相変わらずね、と言うと、まぁね、と返ってくる。

「本当に久しぶりね、アクト。電話じゃ顔わからないから新鮮だわ」

「マーシャが元気そうで良かった。…ディア、挨拶」

「俺は子供か。…よ、マーシャ」

「こんにちは、ディア君」

和やかに挨拶を交わした後は、本題へ入る。

表情を変え、マーシャはカバンから書類ケースを取り出した。

今年の三月以前の、南方司令部の資料。

「インフェリア大佐から連絡がきたと思ったら、ヤークワイア・ボトマージュの情報をくれって言うんですもの。

あの人は軍にあまり情報残してないから探すの大変だったわよ」

南方殲滅事件の後、南方司令部の人間は全て入れ替えられた。

マーシャもその時南方に配属されたため、事件について詳しく知っているわけではない。

「未だに南方司令部って聞くと顔をしかめる人が多いのよね。信用取り戻すのは難しいわ」

「仕方ないですよ。あんなことがあっては…」

「全ての元凶の資料なんて見るのも嫌なんだけどね。…はい、これよ」

マーシャは一枚だけ資料を取り出した。

その一枚でボトマージュの大まかな人間像がわかる。

アクトが手を伸ばすと、ディアが先に奪う。

「南方指令部大将、ヤークワイア・ボトマージュ…か」

今年の三月、南方殲滅事件が起こるまではそうだった。

大将まで上り詰めた人間だけあって、その業績は大きい。

かつて中央に勤務していたこともあるという。

「強力な指導者として南方に配属、大将となる…か。

強力すぎていろんなもん壊してたけどな」

「養成学校出て、普通に階級上げて…それがなんであんなふうになるんだ?」

「それなんだけどね…アクト、そのケースの中の上から五枚目見てくれるかしら?」

「五枚目?」

マーシャの指示どおりに、ケースから書類を一枚抜き取る。

見たところ、さっきの書類よりも紙質が悪い。書いてある文字も読みにくい。

「これは?」

「南方司令部裏歴史」

「裏歴史?」

「そうよ。ボトマージュが来てからいなくなるまでの闇の歴史」

アクトは書類をディアに渡し、マーシャの話に耳を傾ける。

「あの人が南方に来てから、いろいろな事件が起こったらしいわ。

勿論中央には報告されず、極秘で処理が進められたの」

軍に、というより、自分に仇なすものはとにかく消す。

消された村はあの村だけではなく、本当はいくつもあったらしい。

部下は誰も彼に逆らえず、新入りは彼の思想を刷り込まれる。

「その書類は彼の部下だった人の遺書よ。解読するのに随分時間がかかったけど」

「何て書いてあるんだ?それ」

「マーシャが言ったことそのまま」

アクトの問いに簡単に答え、ディアは書類を机の上に戻す。

ボトマージュが大将を務めていた頃、南方司令部はまるで彼の独裁だった。

自ら命を絶つものが現れるほどに、厳しいものだった。

「マーシャ、他の資料は何の事書いてあんだ?」

「ボトマージュが関わった南方司令部の事件について。

…この報告書は彼がでっちあげたものだけれど」

「じゃあいらねぇ。直接行った方が早ぇ」

ディアは椅子から立ち上がって、カスケードに目配せした。

その視線に頷いて、カスケードはアクトに尋ねる。

「どうする?」

「行く。…向こうをおびき寄せることもできるかもしれない。

やっぱりこっちには迷惑かけたくないし」

「そうか」

マーシャと連絡をとった時から決めていた。

自分達の決着は、全ての始まりであったあの場所で。

「ディア・ヴィオラセント、アクト・ロストート、お前達の南方行きを許可する。

条件は、必ず生きて決着つけてくることだ」

「了解!」

これで終わらせる。本当の意味で、南方殲滅事件の決着を。

この長く辛い戦いを。

 

光を反射したロザリオが眩しい。

雪明りと重なって、目に突き刺さる。

ブラックの脳裏に響くのは、リアの台詞。

――あなたには、お兄さんは殺せない。

そんなことは解っている。自分にも、殺せない人間はいる。

それでもそうしなければならなくなった時、どうすれば良い?

「…あの馬鹿…」

冷たい風が吹く。温暖な気候とはいえ、寒いものは寒い。

リアの台詞と重なって、頭の中に嗚咽が響く。

聞いたわけではないのに、感じ取ったものが。

ロザリオを握り締め、白い息を吐く。

「あ、黒い人だーっ!」

さくさくと雪を踏む音が近づいてきて、ぶつかった。

「…ってーな!何すんだよ!」

「ごめんなさい〜。黒い人は何してるの?」

ツキの弟のフォークだ。ブラックとは二つしか違わないはずだが、彼の方がずっと幼く見える。

「黒い人じゃねー。…何なんだよお前は」

「お兄ちゃんにお昼届けにきたんだよ。黒い人も食べる?」

「だから黒い人じゃねーって」

今まで数回しか話した事はない。しかしフォークは誰とでもすぐに打ち解けるらしく、ブラックにも気軽に話し掛ける。

ツキの所へ向かうまでの道のりを、二人で行くことになった。

「今皆忙しいみたいだから、お弁当届けたらすぐ帰ることにしてるんだ。

黒い人は忙しい?」

「だから……もう良い。オレだって暇じゃねーよ」

「そうだよね。お兄ちゃん、家に帰ってきてからずっと何か考えてるし…」

フォークも弟として心配なのだろう。

ツキはたった一人の肉親だ。だから余計に気になる。

「黒い人は?」

「何が」

「アルベルトさんいなくて、寂しくない?」

ツキかクライスから聞いたのだろう。余計なことを、と思ったが、言わなかった。

黙ったままのブラックに、フォークは首を傾げる。

「寂しくない?アルベルトさん、ブラックさんのお兄ちゃんだよね。

お兄ちゃんがいないと、僕は寂しいよ」

それはフォークがツキの事を好きだからだ。

ブラックはアルベルトが好きなわけではない。嫌いでもないが。

しかし、あの日から何か物足りないとは思っている。

「フォーク、お前…」

「ん?」

「…いや、なんでもねーや」

訊くまでもない。

フォークならきっと、誰も傷付かない道を作る。

選ぶのではなく、作るのだ。

今までずっと何かを傷つけてきたブラックには、作れない道。

作ろうとすると上手くいかず、結局何かを壊してしまう。

それが怖い。

今までは躊躇わなかったのに。

「電話したんだ」

「?誰に〜?」

「アイツの母親に」

「…アイツって、アルベルトさん?」

「あぁ」

彼女は電話の向こうで、気丈に振舞っていた。

いや、気丈に振舞おうとしていただけだ。

声は所々途切れ、電話が切れる間際には声になっていなかった。

アルベルトが帰ってこない。

でも、無事だから。

それだけを伝えた。

戦わなければならないなんて、実の親に言えるはずがない。

「オレは何かを壊す事しか出来ねー。

今までずっとそうしてきた。

だけど…」

電話の向こうに垣間見た表情、別れ際に語られた言葉、

そして、暖かな約束。

このまま自分が進んでしまえば、全てが壊れてしまう。

「ブラックさん、アルベルトさんのこと好き?」

フォークの声で我に返り、言葉の意味を理解する。

「好きじゃねーよ!」

「でも、嫌いじゃないんだよね?」

黒い人が赤ーい、と笑うフォークを、ブラックは小突いた。

「むむ〜…なんで叩くの〜」

「余計なこと言うからだよ、チビ」

「チビじゃないもん!…って、そうじゃなくてね、」

フォークは歩みを止め、ブラックを見上げた。

真っ直ぐで素直な瞳。ブラックにはなかった時代。

「大事な人は助けなきゃ!助けられるなら、助けなきゃだめ!

あとで後悔しても遅いんだよ!」

しかし、これから作ることができる。

なかったものだから、作らなければならない。

たとえ上手くいかなくても、

「…お前まで青大佐みたいなこと言うのな」

「お兄ちゃんも言ってたから。僕も覚えちゃった〜」

手伝ってくれる人がいるから、今度は大丈夫。

やっと、そう思えた。

 

それなのに

 

一台の車が南方を目指して出て行き、「組織」も動きを見せた。

「間違いない。ディア・ヴィオラセントだ。アクト・ロストートもいる。

南方で奴を討つことができるとは…」

ボトマージュは不気味に笑い、オレガノはそれを見て溜息をつく。

「ボトマージュ、追う気ですか?」

「追う。そして今度こそ奴を殺す。

貴様とてロストートを…」

「そのつもりですよ。…アクト、行くかい?」

「行きます。今度こそ僕がオリジナルになるんだ!」

建物の地下には、三人だけがいた。

 

ディアとアクト、そしてマーシャを送り出した後、カスケードは漸くサイネと会った。

サイネは彼の姿を見つけて嬉しそうに手を振った。

「カスケードさん、お仕事は?」

「客が今帰った。他の用事は済ませたし、あとはサイネちゃんといられる」

「本当に?」

嬉しそうに笑う少女。隣にいたメリテェアは複雑そうな表情をしている。

グレンとカイから話は聞いた。彼女の遍歴への疑問は止まない。

人の過去をあまり詮索しないカスケードにそれを言っても、聞いてくれるだろうか。

「サンキュ、メリー。じゃ、俺は昼食とってくる」

「まだ召し上がってなかったんですの?」

「あぁ、南方の大佐がきてたんだ。ディアとアクトは南方遠征って事になったから」

「わかりましたわ。それじゃわたくしは…っ?!」

がくん、という感覚。

周りが揺れ、立っていられない。

この感覚は、確か昨日も。

「また…なんですの…?」

「何これ…私…」

「メリー!サイネちゃん!」

サイネは気を失い、メリテェアは力を振り絞って訴えた。

カスケードの服の袖を掴み、朦朧としながら。

「ここから…出て下さい……は…やく…」

かかる力が軽くなる。

床に身を横たえた何人もの人間を残し、

カスケードは窓を破った。

睡魔が襲う。立っていられなくなるほど。

「…どこだ…どこにいるっ!」

叫んだ所で、視界は真っ暗になる。

今度こそどうにもならない。

何も、できない。

 

「カスケード、起きてよ」

 

懐かしい声だ。しかし、聞きたい声ではない。

目を開けると微笑む青年がいる。

光に透かした濃緑が輝いた。

「ニア…」

「おはよう」

冷たい笑顔。

また会ってしまった。

「俺が寝てる間に攻撃しなかったのか?」

「しないよ。…させてくれないんだ」

カスケードが立ち上がろうとすると、ニアは巨大な影を振るう。

カスケードがよく見てきた、大剣。

「君がいる限り…この身体はそういうことはできないんだ!」

遠心力とてこの原理。

簡単なことだ。勢いさえつけば、この大剣は簡単に扱える。

華奢なニアにも。

大きく振られた刃を避け、カスケードは軍服の上着から素早く銃を取り出した。

銃口をニアに向ける。が、撃ちはしない。

間合いを取りつつ、口を開く。

「お前は…本当にニアなのか?!」

「ニアだよ。…そう呼ばれてる」

「クローンなのか?!本当のニアなのか?!」

銃口と刃。

かつての自分達が脳裏に甦る。

ニアは不敵に笑い、再び大剣を構えた。

「そんなのどうだって良い事だよ。僕が君を消すのには変わりないんだから」

風を切る音に、靡く緑が重なる。

風の壁を貫く銃弾が、青い光を放つ。

あの日までは、二つの色は同じ方向に走っていた。

今は逆を行き、互いにぶつかり合う。

あの日までは、こんな時がくるなんて考えてもみなかった。

今はその時の中で、命がけの闘いをしている。

「カスケード、しばらく銃使ってなかったんだよね。

そんな腕で僕に当たると思ってるの?」

確かに実戦で銃を使うのは久しぶりだ。いつもはニアの手にしている大剣を握っていた。

しかし今は、それがないから。

「当てようなんて思ってない。お前が本物なら、当てる必要無いからな」

「へぇ、そう…」

澄んだ緑の氷が光る。

「確かに、クローンは斬ってたよね。

酷かったなぁ、あの時のカスケード…」

薄く曇った空から、白い花が落ちてきた。

「本気で戦ってよ。…僕だってクローンなんだから」

冷たい風を、巨大な刃が切り裂いた。

 

フォークは倒れていて、持ってきたという弁当は離れた所に転がっていた。

立ち上がって見たものは、自分と同じ色だった。

「…お前…」

優しげに、悲しげに、

「久しぶり、ブラック」

微笑みながら銃を構える、兄。

「ロザリオ、つけてくれてるんだ」

「…今はそんなこと関係ねーだろ」

刀に手は伸ばせない。

銃口は、こちらに向いているのに。

「なんで敵側にいる。何で戻ってこねーんだよ」

「一度向こう側に行ってしまったら、軍に戻ってくることはできないよ」

「リアがどんな想いしてるかわかってんのかよ!」

アルベルトは俯いた。ブラックがさらに叫ぶ。

「約束したんだろ?!戻ってくるって…

だったらさっさと戻ってきやがれ!」

彼女は誰よりも仲間を想っていたから。

「あの人…母さんも泣いてた。

約束しといて守らねーのはお前らしくねーだろ!」

電話の向こうの声は震えていたから。

「お前はこっち側の人間だろーが!なんでそっちにいるんだよ!」

アルベルトは銃口を地面に向け、ブラックを見た。

ブラックの気持ちが胸に刺さる。

想いと行動を、別にはしたくない。

しかし、今そうしなければ結局同じだ。

全てが消えてなくなってしまう。

それなら、自分の手で。

「ブラック、僕は…約束を全部破棄するために来たんだよ。

全てなかったことにするんだ」

「は?!どういう…」

言いかけて、爆音にかき消される。

狙いをはずされた銃弾は、フォークのすぐ側で動きを止めた。

「フォーク!おい、大丈夫か?!」

かすってもいない。しかし、目を覚まさない。

リアによると、名前を呼べば起きるはずだったのだが。

「どういうことだ…?」

「ちょっとだけ強力になったんだ。

どうしたら起きるかは教えられないけど、名前だけじゃだめだっていうのは確かだよ」

「……っ!」

ブラックは拳を振り上げてアルベルトに向かうが、あっさり止められる。

当然だろう。今まで何度も見てきたものを、止められないはずがない。

しかも相手はアルベルトなのだから。

「僕はこちら側には戻れない。君や…他の人を全部消さなきゃいけないから」

「何だと?!」

「君を倒したら他の人を撃つ。フォーク君は軍の人じゃないけど…ここに来ちゃったんだからしょうがない。

一緒に消えてもらわなきゃ…」

「フォークは関係ねーだろ!大体他って…リアやカスケードたちもか?!」

「うん。…でも大佐は別かな。大佐はジューンリーさんが今…」

「今って…」

最悪の状況。司令部の命運が、全てブラックにかかってしまう。

今までこんなことはなかった。人の命を、一人で背負うなんて。

――今まで散々奪ってきたのにな…

今度は奪われないように。

「オレは…もう覚悟はできてる」

刀に手をかけ、居合の構え。

一瞬で終わらせる。

「決めたんだよ。お前はオレの手で始末するってな!」

相手を苦しませないためではなく、

自分が苦しまないように。

 

足をやられてまともに動けず、カスケードは苦戦する。

目の前には冷たい笑みのニアが――いや、クローンがいる。

銃口を向けると、親友の記憶を語りだすクローンが。

「どうしたの?撃たないの?」

「……っ」

「僕はクローンだよ?カスケードは一回僕を殺してるじゃない。

それがもう一回増えただけなんだよ?」

「…そうだ…でも………」

ニアの姿が、ニアの記憶が、どうしても撃たせない。

「カスケード、君が撃たないなら僕が斬るまでだよ」

向かってくる刃をギリギリでかわし、傷を僅かに受ける。

足を引きずりながら銃を構えると、ニアは語りだす。

昔の、カスケードの中では大切な思い出として残っていることを。

「やめろ…ニアの声で、ニアの記憶を語るな!」

「語るな?…僕だって思い出したくないんだよ」

笑顔が消える。

暗い闇が、瞳の奥に見える。

カスケードでもぞっとするほどの深さで、こちらを睨む。

「僕が何で君を消したいかわかる?記憶を消したいからだよ」

「記憶を…?」

「そう。だって、僕が経験したこともないのに記憶として残ってるんだ。気持ち悪いでしょう?

僕は君が嫌いなのに、…」

ニアは頭の上に大剣を振り上げて、思い切り振り下ろした。

「ぐ……っ」

赤が散る。

右肩をやられた。銃を撃つことも難しくなってしまった。

冷眼は傷に刺さり、全身を束縛する。

「だから君は僕の手で消すことに決めたんだ。記憶を消すために。

君との事なんか、なかったことにするために」

カスケードの精神は限界に近かった。

疲れと、心身の痛み。目の前にニアがいるだけで辛いのに。

「僕は君が嫌いだ。大嫌いだ。大嫌い大嫌い大嫌いっ!」

振られる刃をかわす術も尽きてくる。

足へのダメージが最も大きく、ただ移動するだけでも苦しい。

「…いくら記憶が残ってても…お前はニアじゃない。

偽物なら…撃つ!」

鋭い痛みがブレを生じさせる。

真っ直ぐ狙うことはできないが、動きを止めるくらいなら。

銃口をニアに向け、カスケードは引き金を

力を込めて、引いた。

 

甘かった。

一回でしとめるなんて、この男相手にできるはずがなかった。

かすりもしない刀を手に、ブラックは疲れきっていた。

どんなに疾く攻撃しても、アルベルトは全て避けてしまう。

息を乱す様子も全くなく、何の変わりもなく立っている。

「もう終わり?」

「まだ…だ!」

「それ以上は無理だよ。ブラック、疲れてるじゃない」

「うるせー!」

負けられない。しかし、このままでは確実に負ける。

負ければ、全てが終わってしまう。

「…これで、終わりだ」

ブラックの構えを、アルベルトは正面から見ていた。

確かに最後だろう。これが当たろうと外れようと、ブラックはもう限界だ。

これ以上は動けない。

「…じゃあ、僕もこれで終わりにする」

辛い思いはさせたくない。楽にしてやらなければ。

自分の、手で。

銃口と細い刃が、決着をつけようとしていた。

風の音だけが聴こえた。

銃声がそれに溶け、布の裂ける音はかき消された。

地面に触れた雪はその姿を消し、

その上に影が落ちた。

「…ブラック、何で?」

落ち着いた声。

地面に膝をついたブラックに、そっと語りかける。

「なんで、斬らなかったの?」

「お前こそ何で外した?」

刃も、銃弾も、まともには当たらなかった。

外すはずがないのに、外した。

「殺せばよかっただろ」

「殺せないよ。君には頼まなきゃいけないことがある。…君は?」

いつもと変わらない調子。

敵だなんて、思えない。

「オレの事はどうでも良いだろ。…それより頼みって何だよ」

「大佐に伝えて欲しいんだ」

「カスケードに?」

アルベルトは頷き、語る。

事件の裏の辛い想いを。

本当は、誰よりも辛い思いをしている者の事を。

ブラックに全てを託し、背を向ける。

「…頼んだよ」

「お前はどこ行くんだよ」

「僕は戻る」

再び離れていく背。

「何言ってんだよ!死にに行く気か?!」

止めなければ。

あの時も今も、体がまともに動けば。

「行くなっ!」

叫んで手を伸ばす。あともう少し。

もう少しなのに。

「ブラック、マクラミーさんにも伝えておいて。

約束守れなくて、ごめんなさいって」

もう少しなのに、見たくもない笑顔に阻まれる。

「…笑うんじゃねーよ」

届いたかどうかはわからない。

しかし、今届かなければ、

一生届くことはないかもしれない。

 

「やっぱり撃つんだね」

肩に血を滲ませ、忌々しそうに言うニア。

大剣を振るうことはこれで困難になる。

「クローンは人間じゃないものね。殺しても何の支障もない。

…カスケードは、そう思ってるんだ」

「…違う」

「違わないよね?現に僕を撃ったじゃない。

だから嫌いなんだ、人間なんて」

大剣を握りなおし、ニアは再びカスケードを斬りつける。

カスケードは足を引きずりながらもかわし、引き金を引く。

銃弾は刃に跳ね返り、その役目を果たさず落ちる。

「カスケードも僕が嫌いなんでしょ?だから撃ってくるんだ。

僕を殺したいなら早く殺せばいいじゃない」

「違う!…嫌いじゃない。でもニアの身体をそれ以上使うな!」

「使うな?人間の勝手な都合で作られた僕に、どうしろって言うの?!」

弧の軌跡を描く光と、あとに続く赤い飛沫。

カスケードは切り刻まれた重い軍服を脱ぎ捨て、赤く染まったシャツを露わにする。

寒さが痛みに与える影響は大きいはずだが、そんなことを気にしてはいられない。

「記憶も感情もあるからやりにくいが…俺はニアを眠らせてやりたいんだ!」

「そうだよね。君はニアが大切なんだ、昔から」

金属のぶつかる音が雪に吸収される。

「昔を見てるから、今の僕には居場所をくれない。僕は行く所がない。

だからあの方に頼るしかないんだ」

赤い色に、白は消える。

「だから命じられたことはやらなきゃいけない。

それが僕の…存在できる唯一の道だから!」

雪明りと、反射光と、

白と赤に倒れるダークブルー。

「……っ」

立てない。これ以上は動けない。

以前自分がクローンを斬った時と、逆。

「とどめだよ。…じゃあね、カスケード」

大剣は心臓に突きたてられるのだ。

そして、自分は終わる。

終ワルンダ。

「ジューンリーさん!駄目です!」

 

久しぶりに会えた。

本人が好きでは無いと言っていた漆黒の髪と、ライトグリーンの瞳。

いつもの穏やかさはないが、確かにアルベルトだ。

「アル…?!」

「アルベルト君、何しに来たの?もう終わったの?」

ニアもアルベルトに意識を向け、カスケードから離れていく。

カスケードは体を起こしながら、アルベルトに語りかけた。

「アル、無事か?!どうしてここにいるんだ?!」

「全部ブラックに話しておきましたから、ブラックに聞いてください。

…ジューンリーさん、僕は誰も殺せませんでした」

カスケードは冷たく突き放し、ニアには冷静に報告する。

「ブラック君も、他の人も?」

「はい。僕にはできません」

あの方に逆らうってことでいいんだね?」

「かまいません」

カスケードからは遠い所で話が進む。

断片的に内容が聞こえる。

何か、不吉な言葉を聞いたような気がする。

「アル…」

また失ってしまうのか。

また守れないで終わるのか。

「アル…っ!」

これ以上繰り返すのは、もう嫌だ。

「アル、行くな!」

ライトグリーンの瞳が、叫びに応える。

ゆっくりとこちらを向く、感情の読めない眼。

「アル、戻って来い!皆心配してる…リアちゃんも、ブラックも、皆…」

「知ってます。ブラックから聞きました」

「じゃあ…」

「戻りません」

唇の動きが、スローモーションがかかったように見える。

はっきりと告げられた言葉は、柔らかさも棘も持っていない。

「戻れないんです。僕は裏切り者だから」

「そんなこと…」

「さっき僕は司令部の人を皆殺しにしようとしていました。

勿論マクラミーさん達も例外ではありません」

「でも、しなかったんだろ?だったら」

「ジューンリーさんが大佐の相手をしなければ、僕がしていました。

いつかは撃てなかったけれど、今度は確実に撃ちます」

挙動不審な彼ではない。

しかし、冷静な彼でもない。

今まで見てきたどれにも該当しないアルベルトがいる。

「アルベルト君、あの方に君の処分について話す。戻ろう」

「わかりました」

背を向けて、距離を離していく。

「待て!ニア、アルを連れて行くな!」

止めなければ。それしか頭になかった。

銃口は確実にニアをとらえる。

「!」

「駄目です!大佐――っ!!」

カスケードが引き金を引くより早く、

向かいからの銃弾が、

右胸に深く、突き刺さる。

雪は再び、赤に消える。

「…アル……?」

「だから…言ったじゃないですか…

今度は確実に撃つって」

煙が空気に触れて揺れる。

読めなかった表情が、やっと読めた。

辛くて、痛くて、どうしようもない。

軍と「組織」の間で、ずっと苦しんでいた。

「アル…お前、やっぱり…」

言葉が続かなかった。

痛みで気が遠くなる。

視界も霞んできた。

呆然と立ち尽くすニアが見えた。

 

遠くで、声が聞こえた。

 

白い天井が見える。

ここがどこだかわかるまで、そう時間はかからない。

体を起こすと右胸が痛んだ。

「……って…」

また、生き延びてしまった。

「おはようございます、カスケードさん」

「…リアちゃん」

長い金髪の女性が微笑む。

作り笑顔だとすぐにわかってしまった。

「さっきまでメリーちゃんもいたんですよ」

「メリー?…そうだ、メリーは無事なのか?!」

メリテェアはカスケードの目の前で倒れた。サイネもだ。

怪我などしてはいないだろうか。

「大丈夫です。…ただ、ちょっと疲れてるみたいでした」

「疲れてる…か」

散々心配をかけてしまった。彼女に何かあれば、それは自分の責任だ。

「サイネちゃんは?」

「サイネさん?…メリーちゃんと話してた人ならさっき荷物持って出て行きましたよ」

「出て行った?」

どこに行くというのだ。彼女には帰る場所がないはずだ。

行くあてが見つかったのならいいが、また狙われはしないだろうか。

「ちょっと行って来る」

「何言ってるんですか!駄目です!」

「ラディが治癒してくれたんだろ?」

「それはそうですけど、胸の銃弾は除いただけです。

ラディアちゃんに感謝するなら安静にしててください」

「……そう、だよな」

また人の気持ちを無視する所だった。

冷静にならなければ。人を傷つけ続けて何になるんだ。

傷つけ続けて…

「リアちゃん、銃弾どうなった?」

「え?」

「俺の胸の…軍に渡ったりしてないか?」

「まだだと思います。どうかしたんですか?」

「軍に渡さないでくれ!あれを渡したら」

出かけた言葉をとっさに飲み込む。

言ってはいけない。また傷つける。

自分の中に封印しておかなければ。

「どうかしました?」

「いや、何でもない。…あの銃弾は軍に渡さないで俺にくれ」

「わかりました。伝えておきますね」

リアは不思議そうにしていたが、納得してはくれたようだ。

これでアルベルトのことが露見するようなことはないはずだ。

「あ、ブラック君」

リアの声にドアの方を見る。

確かにそこには名前の主。

「黒すけ、どうした?」

「来ただけ。…リア、席外せ」

来ただけではなさそうだ。でなければリアを追い出すようなことはしないはずだ。

「それじゃ、出てるけど…これからグレンさんたち来るんだけど、どうしたら良い?」

「外で待たせとけ。時間そんなにかからねーから」

ドアの閉まる音が響き、ブラックがカスケードの側に来る。

椅子に座り、溜息をつきながらこちらを見ている。

「お前が戻ってきた時と立場逆だな」

カスケードは笑いながら言う。

「…笑えねーよ」

ブラックはうんざりしたような表情で返す。

「その怪我…」

「あぁ、ニアのクローン…前に話したの、あれクローンだったんだ。

それでちょっといろいろあってさ」

「闘ったのか?」

「あぁ。こっちも何発か撃ったし、このくらいの怪我は当然だろ」

「…撃ったのか」

眉を顰めるブラックに、カスケードは首を傾げる。

そういえば、アルベルトはブラックに訊けと言っていた。

ブラックは何か知っているはずだ。

「アルから何か聞いてないか?」

「聞いてる。だから来た」

ブラックはズボンのポケットから小さなビニールのパックを取り出した。

その中には、銃弾が一つ入っていた。

「お前がニアって奴を撃ったから、アイツはお前を撃ったんだ」

ライトグリーンの瞳が、真っ直ぐに光を放っている。

「…アイツ?」

「あの馬鹿…アルベルト・リーガルだ。わかってんだよ、こっちは」

ごまかすな、と眼が言っている。

全てを知っているものには、何も隠せない。

「胸の傷、アイツがやったんだろ?アイツはニアを守りたかったんだ」

「ニアを?何で…」

「ニアだからだよ。…お前の親友だから、守ったんだ」

ブラックの胸でロザリオが輝く。

親友という言葉が、傷に響く。

「親友って…だってあれはクローンだぞ?俺の親友はもう死んで…」

「あのクローンはニアの記憶を持って、自分の意思で存在している。

お前が信じたくなくても、あれはニアなんだ」

右手が震えた。銃の感触がまだ残っている。

 

アルベルトは頭に鈍い痛みを感じた。

硬い壁に打ち付けられ、僅かに出血する。

しかし血を拭いもせず、正面の青年を見つめていた。

「なんでカスケードを撃ったの?」

怒りに満ちた濃緑。今まで見てきた中で、最も感情的な眼。

「僕が消すって言ったよね?!自分のやることやらなかったくせに、何で人のもの奪うの?!」

「………」

感情的なニアに対し、冷静な眼差しを向ける。

「カスケードを消すのは僕だ!僕なんだ!」

「どうしてですか?」

アルベルトが漸く口を開き、ニアの動きも止まる。

「どうしてって…」

「どうしてジューンリーさんは大佐にこだわるんですか?」

「それはニアの記憶を消すためで…っ」

「何で記憶を消したいんですか?」

ニアは黙り込み、アルベルトから目を逸らした。

これ以上聞きたくない。考えたくない。

言葉にしないで。

「記憶の中では…大佐のことが好きだからじゃないんですか?」

そんなことを、言葉にしないで。

「親友だって、心から想ってたからじゃないんですか?!」

「うるさい!何も…何も知らないくせに!

アルベルト君に僕の気持ちなんてわかんないよ!」

撃たれた傷の奥がじわりと痛んだ。

銃弾を取り除かなければ。

「こんな時に限ってオレガノさんもボトマージュさんもいないんだから…」

呟きながら奥へ行こうとすると、手首を掴む手に阻まれる。

舌打ちして振り払おうとするが、逃れられない。

「放してよ」

「本当の事言って下さい」

「君に話すことなんてない」

痛みが増す。銃弾を取り除いて、痛み止めを。

でも、それで本当に痛みがおさまるのだろうか。

「手伝いましょうか」

「…いい」

「一人でできるんですか?」

「ほっといてよ。…馴れ合いは不要だって言ったでしょ」

経験していない過去が見える。

幼い日に怪我をした自分を背負って歩く存在。

一緒に笑いあったことなどないのに、笑っていた。

 

ニアは記憶と現在の間で葛藤している。

記憶の中でのカスケードへの想いと、今命ぜられていることが違うために苦しんでいる。

アルベルトが語ったことを、ブラックがそのまま伝える。

「お前に撃たれた時も傷付いたんじゃねーか?

ニアの記憶にお前に撃たれたことも追加されてるんだ」

「…ニアの記憶、か…」

現在のニアはカスケードの知っているニアとかけ離れているように見える。

全く別の存在のような気がしていた。

しかしアルベルトが見たニアは、助けを求めていた。

居場所を求めていた。

「居場所がない…あいつ、そう言ってた」

居場所が欲しくてあの方に従っている。居場所があれば闘わなくて済むのだろうか。

自分はニアに居場所を作らなかった。余計に苦しませてしまった。

「俺って肝心な事気付かないで…傷つけたり、失ったりしてるんだな」

五年前に見たニアの最期と、一ヶ月前に見たビアンカの最期。

何もわかっていなかった。何も見えていなかった。

「ニアはお前を嫌いな訳じゃねーんだよ、多分」

ブラックはそっとロザリオを握り締める。

「ニアはお前に嫌われてるかもしれないと思ったんじゃねーの」

嫌いな訳じゃない。ただ、想うあまりに苦しんでいる。

苦しみから逃れるために、一番近くにあった糸を掴んだ。

その糸が更なる苦しみに繋がっているなんて、考えもせずに。

「助けに行くか」

「は?」

「アルと…ニア。黒すけはアル、俺はニア。

今頃ディアとアクトも頑張ってるだろうし」

重ねた罪を償おう。

償いなんて独り善がりかもしれないけれど。

赦して貰おうなんて思っていない。

自己満足を満たすだけしかできないけれど。

それでもできるなら立ち上がりたい。

「グレン達来たみたいだな。もう良いか?」

「あぁ、オレはどうでもいい」

少し回復したらすぐに出発しよう。大切なもののために。

 

『余計なことをしたらそこで終わりだと言ったはずだ。

特別にまだ処分はしないでおこう。…しかし、このままでは駄目だ。

こちらで計画を進めさせてもらう』

 

 

To be continued…