窓から冷たい風が吹き込み、部屋を冷やす。
誰もいない個室のベッドは、まだほんの少し温かい。
「…行ってしまわれたようですわ」
病院からの連絡を受け、メリテェアは溜息をついた。
あの人はすぐどこかに行ってしまう。
「でもブラック中尉ついてってるんだろ?だったらまだマシだよ」
「マシではありませんわ。二人とも別の目的があるはずですもの。
すぐに単独行動を取って、もしかするとアルベルト少佐のように…」
クライスの言葉を簡単に信じられない。
いつもならすぐに「そうですわね」と言えるのに。
「メリテェア、コーヒーでも飲んで落ち着いたら?疲れてるのよ」
クレインが優しく声をかける。しかしそうしながらもキーボードを打つ手は止まっていない。
気になることがあった。
メリテェアはずっと気にしていた。
だからずっと調べていたのだが、どうしても掴めなかった。
「バカ兄、五十三年前の資料持ってきて」
「なんだよ、扱いがぞんざいだぞー」
「いいから早く。それとメリテェアにコーヒーも」
「オレだって調べてるのに…」
クライスが給湯室にたった後、クレインは漸く手を止めた。
項垂れるメリテェアの側へ行き、その背を優しく叩いてやる。
「重圧が大きすぎるのよ。いくら准将でも、私と一歳しか違わない女の子なんだから」
「…でもわたくしがやらなければ」
「それが駄目なの。確かに今回はカスケード大佐には頼れないけど、私たちがいるんだってこと忘れないで。
私だって中佐だし、あのバカ兄でさえ少佐…ううん、階級なんて関係ない。誰にでも頼ればいいのよ、メリテェアは」
「…クレインさん…」
普段感じなかったプレッシャーが、この事件でとても重くのしかかってきた。
自分の責任がいつも以上に重大になり、眠れぬ日も続いた。
「わたくし…」
「はいはい、もう責任は良いから。今くらい寝ておけば?私とバカ兄が何とかするから。
カスケード大佐が帰ってきたら百科事典で思い切り殴ってやればいいのよ」
「…それは少々やりすぎでは…」
「コーヒーお待ち〜!…あれ?クレイン、仕事は?」
元気よくドアを開けて入って来たクライスに呆れつつ、クレインは仕事机に戻る。
「クレインさんはわたくしの話を聞いてくださってたんです。
…良い香りですね、このコーヒー」
丁寧にお辞儀をして、メリテェアはコーヒーを受け取った。
クレインはクライスから手渡されたフロッピーをパソコンにセットし、目にも止まらぬ速さでキーボードを叩いた。
クライスも机に向かい、キーボードに触れようとした。
が、触れることはなかった。
すぐに立ち上がり、クレインのほうへと向かう。
メリテェアもディスプレイを覗き込み、息を呑んだ。
「…ありましたわね」
「五十年以上も前だからまさかとは思ったけど…どうりで見つからなかった訳ね」
「マジかよ…名前違うけど、確かに…」
五十三年前、当時の大佐がある事件の指揮にあたった。
結果その事件は時間がかかったものの解決し、ある人物が逮捕された。
マカ・ブラディアナ、当時十七歳。
エルニーニャ中央刑務所に送られ、釈放後は詳しくわかっていない。
しかし、どうなったか想像はつく。
白眼視され、指弾され、穏やかな人生など送れなかっただろう。
それが犯罪を犯したものへの、一番の罰だ。
資料を読み進めていくとさらに詳しいことが判る。
「当時の大佐…カスケード・インフェリア?!」
「わたくしたちが知っているカスケード大佐ではありませんわ。
おそらくお祖父様あたりではないでしょうか」
「そうね、代々軍人の家系でって言ってたし…」
真相が漸く見えた。
しかし、それを伝える術はない。
「戦えないかもしれませんわね。カスケード大佐にとって、この人は…」
「メリテェア!」
ドアが勢いよく開けられ、肩で息をする男性が見えた。
かなり焦っている様子で、メリテェアが駆け寄ると漸く深呼吸する。
「ツキさん、どうかなさいましたの?」
「南方から…スクロドフスカ大佐から…連絡が…」
「?!なんて仰ってました?」
「…って…」
「え?」
よく聞き取れない。
良い情報なのか、悪い情報なのかも判らない。
「ツキさん、はっきり言って!」
「ちょっと待ってくれ…水…」
クライスがペットボトルを渡すと、一気に飲み干した。
「で、何だよ?」
「あぁ、…南方、決着ついたって」
「終わったんですの?!」
漸く一つ幕が降りた。メリテェア達はそう思った。
しかし、
「良い終わり方じゃない。ボトマージュと…ディアの兄姉やアスカって子のクローン、それとアクト・カッサスが死亡。
ディアとアクトは怪我してるし…」
「死亡したのはカッサスで間違いない?ロストートは怪我だけね?」
「あぁ、それは間違いない。ただ、無線にも出られないほどショックを受けている」
「そうですの…」
「今もう一つ確認取ってるんだ。それで今回の正確な死者数が出る」
「確認?」
「グレンたちが西方に向かった。テレーゼ・ヒルツのクローンの生死を確かめに」
「テレーゼって?」
「アクトの母親」
淡々と語られる報告は、無線の向こうがいかにひどい状態であったかを表す。
しかし、状況はそれを考える時間を与えない。
「ツキさん、ありがとうございます。
…今このときに申し訳ないのですが、こちらを見ていただけます?」
メリテェアにディスプレイを示され、ツキはマウスをスクロールさせる。
マカ・ブラディアナの顔写真が目に入る。
「…おい、これって」
「えぇ、クレインさんがたった今見つけましたの」
「待てよ…五十年以上も前だろ?何でこの人が…」
「子孫ってことも考えられますわ。もしこれが動機なら…」
「…ったくあの馬鹿大佐!自分の祖父さんの事件くらい調べとけよ!」
催眠波が送れるような、比較的近い場所。
そして誰にも知られない場所。
「この建物くらいだな」
つい最近使われなくなったものだ。軍もマークしていない。
普通に使用していれば気付かれる。おそらく本拠地は…
「カスケード」
ブラックが地下室への扉を見つける。
目立たない。これなら出入りしても気付かれないだろう。
「でかした黒すけ!」
「黒すけって言うな」
「そう言うなって。…そういや、お前いつから俺のこと呼び捨てするようになった?」
「しらねーよ」
子供が秘密基地に使えるような場所を見つけたときのようだ。
そんな状況ではないのに、そう振舞わなければ気が狂いそうで。
「アル、無事だよな」
カスケードが扉を開けながら呟く。
間を空けずにブラックが答える。
「死んだフリしてどっか行くだろ。そういうやつだ」
嘘。
「どっかから出て来るんじゃねーの?案外もう帰ってたりしてな」
嘘。嘘。
ブラックの知る兄は自分から死を受け入れてしまうタイプだ。
自殺は絶対にしないが、殺される時は抵抗しない。
カスケードへの言葉を自分に伝えたことからして、すでにそのつもりだったのかもしれない。
「黒すけ」
「何だよ」
「泣きたい時は泣けよ」
「…は?」
どうしてこんな時に。
全く話がかみ合わない。
「何で泣かなきゃいけねーんだよ」
「そうじゃなく、無理するなって事。
アルと黒すけは足して二で割ってやっとちょうど良い。
…いや、二人とも結構素直じゃないからどうかな…」
何を考えているんだ、この男は。
「お前、怖くねーの?」
「んー?」
重い扉の向こうに、下りの階段が見える。
空気が冷たい。
「頭ん中で納得しちまったら、戦いにくくねーか?」
この下には苦しむ者がいる。
救うべき者がいる。
「ニアのことか?」
「それしかねーだろ」
「ブラックは怖いのか?アルと戦うの」
「………」
言える訳がない。この男に弱みを見せたら、そこから崩れていきそうだ。
保ってきた自分が壊れそうだ。
それをわかってか、カスケードは語りだす。
「ニアは…ニアの記憶を持って、ニアとして存在してる。お前にそういわれた時、右手が動かなくなった。
人を助ける軍人を目指してたはずが、それと全く逆の事をしていた。
苦しんでる奴を余計傷つけて、何が”大切なものは何が何でも守り抜け”だよって…
結局自分を後悔に追い込んで、自分から失っていくんだ」
硬い足音が壁に反響する。僅かな音でもとらえて、大きくしてしまう。
「戦いたくない。やっとそこに辿り着けた。
許してはもらえなくても、俺はニアを助けたい。
ブラックだってそうだろ?…だから怖いんだ」
吐いた息が白かった。
気温はおそらく、秋のノーザリア程度。
最短ルートで西方に到着、住宅街が見えた。
現地軍に気付かれないようにするため、使用した車は陰に隠す。
「…武器、持ったか?」
「私とラディアちゃんは持ってます。…カイ君は無理ね」
「薬のポーチだけ持っていきますよ」
南方大佐から「確かめたいことがある」と連絡を受け、グレン、カイ、リア、ラディアの四人はこの地に来た。
場所の説明は受けているし、そのとおりに行けば着くだろう。
「アクトさんが産まれた家…か。あの人も大変だな」
「アクトさんってレジーナの人じゃなかったんですね」
「いや、両親は中央出身らしいから…」
ラディアとカイが小声で話し、
「こっちみたいですよ」
「そうか」
リアとグレンは目的である家を捜す。
人々が寝静まっている、静かで不気味な街。
「ここだ…」
使われた形跡があるが、人の気配がない。
外見も聞いたものと一致する。
「窓…割れてますね」
ヤージェイルが壊したものだろう。
覗くと荒らされた居間が見えた。
「ドア開いてますよ」
「鍵が壊されてるな。グレンさん、入りますよ」
「あぁ」
暗闇の中で目が慣れてくると、凄惨な様子がはっきりとわかる。
家具は倒れ、引出しは開け放され、物色されている。
金品を奪い去ったという感じだ。
「二階も見てきましたけど、誰もいませんよ」
「クローンだからな…痕跡が残らないよう持ち帰ったのかも」
テレーゼ・カッサスの安否確認のために来たのだが、これではわからない。
生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない。
「オレガノ・カッサス宅も見に行かなければならない。引き上げよう」
この場所はそのうち現地軍が調べるだろう。
自分達の痕跡を残さないよう、注意深くその場をあとにした。
オレガノ・カッサスの家はそのすぐ近くにある。
戸締りがしっかりとなされていて、普通の人なら入ることは不可能だ。
「…っと。鍵開きましたよ、グレンさん」
「カイ、お前どこでそんな技を…」
「気にしない、気にしない」
鍵をこじ開け、玄関から入る。
室内は片付いていて、どうみても普通の家だ。
本当にここで「組織」の一人が暮らしていたのだろうか。
「リアさん、面白いものありましたよ」
「駄目よラディアちゃん、勝手に…あ、これって…」
ラディアの見つけたものを、リアは手袋を嵌めてそっと手に取る。
くすんだ黄色の表紙。分厚い本のように見えるが、開くとそれが何なのかわかる。
「…アルバムね」
「あるばむ?…って写真を貼るアレですか?」
「そう。この人がアクトさんのお母さんかしら。そっくり…」
見知った者と同じ顔の女性と、彼女に抱かれる赤ん坊。
それが幼いアクトである事はすぐにわかった。
「アクトさんにもこんな時代あったんですね」
カイが後ろから覗き込む。
「こうしてアルバムを持ってるってことは…やっぱりオレガノって人はアクトさんと戦いたくなかったんじゃないかな」
「…そうね。本当は誰も戦いたくなんかないのかも。
ニアさんだって、きっと…」
リアの記憶に残るニアは、優しく温かい人だった。
それがたとえクローンであっても、そう簡単に変わるものだろうか。
彼は自分の事を覚えていた。
ならば、カスケードと過ごした日々を忘れている訳がない。
「戦いたくないのに戦わなければならない…どうしてだろうな。
ブラックだってアルベルトさんと戦いたくないだろうに」
「何でブラックの名前が出てくるんですか。
心配しなくても、ブラックは狡賢いから何かしら考えてますよ」
しかめっ面で反応するカイだが、グレンにはその表情が笑っているようにも見えた。
「何だかんだ言って、お前もブラックのこと認めてるんだな」
「な…っ!誰があんなまっくろくろすけなんか…」
今頃はどうしているだろう。
もしかするともう病院を抜け出しているかもしれない。
戦いは始まっていて、もうすぐ終わる。
地下室は「冷蔵庫」という言葉がそのまま当てはまるようだった。
凍りはしないが寒く、脇の扉を開けるとそこには必ず培養中のクローンが並ぶ。
「これ全部作られたのか?」
「そうらしいな。…全部悪用されたら確実に軍はやられる」
「あの男もこうやって量産されたのかよ…気味悪い」
寒気がするのは室温のせいだけではない。
想像と目の前の光景、そして、
「ここで何やってるの?」
後ろの気配。
「勝手に開けちゃ駄目だよ、カスケード」
氷のように透き通った声、北風が吹いたような笑み。
「ニア…」
「いらっしゃい。わざわざ消されに来てくれてありがとう」
手には冷気を帯びた大剣が、左耳には銀色の光が。
「ニア、アルはどこだ」
「アルベルト君?余計なことした罰を受けてるよ。何されてるのかは知らないけど。
二つ先の部屋でブラック君を待ってるらしいから、早く行ってあげたら?」
「……っ!」
ニアの脇を黒い風が過ぎていく。
ブラックの後姿を冷たい眼で見送り、ニアはカスケードに向き直った。
「これで邪魔はなくなった。…さぁ、これで最後だよ」
大剣を構えるニアを、カスケードは何もせずに見つめる。
銃は持ってきていない。
持ってくるつもりなどなかった。
だから、今しなければならないことは一つだけ。
「そうだな…最後だな。もう戦うのはやめだ。
俺は戦いに来たんじゃない。ニアに会うために来た」
「何言ってるの?そんなこと言って、僕を殺す気なんでしょ?
早く銃出して撃てば?」
「持って来てないんだ。やっぱり銃は使いにくい」
「じゃあ何持って来たの?」
「持ってきてないって。ニアと話したいだけなんだ」
目の前のこの男は笑みさえ浮かべている。
急に何?今更そんな事してどうなるっていうの?
「…ふざけないでよ。そこまで言うならお望みどおり終わらせてあげるよ!」
大きく振られた刃は銀色の軌跡を描き、冷気の断面がニアの髪を揺らした。
カスケードは間合いを取って、刃が届かないよう僅かに動く。
それ以外の動きは一切見せない。
「何で…何で戦わないの?!」
その一振りに培養カプセルが割れ、液体が染み出す。
ひびが広がって完全に壊れ、大きな音をたてて崩れるものもあった。
床に広がった水が急にかかった重さに跳ね、また溶けていく。
「僕だけ戦わせるの?!ずるいよ!」
「じゃあニアも戦わなければいい」
「君を消さなきゃいけないのに、そんなこと」
「消えるなって連中がいるんだ。…そいつ等に従うことにした。
そんでもって…」
リーチの長い大剣は、懐に入ってしまえば問題はない。
相手の手ごと柄を掴み、奪う。
「お前も連れて帰る。…また、一緒に生きよう」
二つ先の部屋で待ってる。
待っていた。
ただし、待っていたのはブラックをではなくて。
「何だよ、それ…」
「…ブラック、来ちゃったんだ…」
悲しそうに笑うアルベルトの手には、そう簡単には外れないような手錠。
片腕をつながれ、冷たい床に座り込む。
「来ないで欲しかったな…」
「何言ってるんだよ、馬鹿」
「…うん。ごめんね」
違う。こんな台詞が聞きたいんじゃない。
ブラックは刀に手をかけた。
とにかく手錠を外さなければ。
「動くなよ」
「待って!…壊しちゃ駄目だよ」
「何でだよ!」
「これを壊すと司令部がなくなるから」
アルベルトの眼は嘘などついていない。
冗談で言ってはいない。
刀を握る手に力が入り、汗ばむ。
「どう、いう…」
「起爆スイッチなんだ。僕が解放されると司令部に仕掛けられた爆弾が爆発する。
明日の朝…人が大体集まった頃だから、被害は甚大になる」
「お前を解放してから司令部に戻って爆弾捜せば良いじゃねーか」
「捜すものじゃないんだって。もともとそこにあったものだから…」
「もともとあった?」
どういう意味かさっぱり解らない。
ブラックは刀から手を外し、アルベルトに近寄る。
額に血の跡が僅かに残っていた。
「怪我したのか?」
「ちょっと頭打っただけ。心配してくれるの?」
「別に…」
目を逸らすブラックに、アルベルトは柔らかい笑みを見せた。
こんな状況なのに。
「ありがとう、ブラック。君は優しいね」
「何言ってんだよ…馬鹿…」
違う。こんなことをしている場合ではない。
どうしたら助けられる?
「爆弾っていうのはね、まず軍のコンピュータをウィルスで狂わせて自動機能に障害を与えるんだ。
そこから連鎖させて、次々とシステムを破壊し、最後には全員を建物に閉じ込めた状態にする。
室温調整機能の故障と武器庫の火薬の威力で、自動的に大爆発が起こる」
「そう上手くいくかよ」
「そのためにいろいろ仕掛けをしたらしいよ。”あの方”って言われてる人がそう言っていた。
軍の人から少しずつ情報を聞き出して、人間関係を調べたり司令部内に入ったりしたって」
「…”あの方”…情報を聞き出した?」
すでに軍に潜入していたというのか。
“あの方”とは一体何者なのだろう。
「そいつの顔、見たか?」
「ううん、顔も本当の声も知らない。性別も」
肝心なことがわからなければどうしようもない。
黒幕は一体誰なのか。
「そいつさえわかればこの機械も…」
「どうかな。どっちにしても僕はもう良いよ」
「良いって…」
「このままでいれば、何も起こらないんだ」
「一生ここにいるつもりかよ…馬鹿じゃねーの?」
何とか解除する方法はないものかと、その辺の物を一通り見てみる。
アルベルトはしばらくその様子を見ていた。
自分のために一生懸命になってくれているブラックに、これ以上痛みを与えたくない。
早くここから遠ざけなければ。
「ブラック、帰ったほうが良いよ。僕の事はもう良いから」
「お前連れて帰らねーと周りがうるせーんだよ」
「自分の命を大切にしてよ。一緒に死んじゃうよ」
「何言ってんだよ…馬鹿じゃ」
言いかけて、言葉が出てこなくなった。
ブラックの中で時が止まった。
目の前の時は確実に進行しているのに、
体が動かない。
「…何だよこれ…」
信じたくなかった。幻であって欲しいと思った。
しかし、それは真実だと証明されてしまう。
「爆発するんだ、それ。あと一時間半くらいかな」
「何で…」
「裏切ったから。軍も組織も裏切ってこうなったんだ。当然の報いだよ」
放っておけばアルベルト一人が犠牲になり、
助けようとすれば軍の全てが犠牲になる。
「だからブラックは逃げて。君は生きなきゃ…」
「馬鹿野郎!お前死んだら母さんになんて言えばいいんだよ!
泣いてたんだぞ、あの人…」
誰かがいなくなるのも、誰かが悲しむのも、
もう見たくないのに。
「ブラック、一人と大多数どっちかしか救えなかったらどっちを選ぶ?」
「………」
そんなこと訊くな。
お前の答えはわかってる。
「僕は大多数を選ぶ。…消えるのが僕一人で良いなら、そうする」
非情なカウントダウンは続く。
大剣は床に横たわり、手には懐かしい温もりがある。
「一緒にって…」
だけど、何故だろう。
「あぁ、一緒に」
信じたいのに、信じられない。
「何を都合良い事言ってるの?今まで僕のこと偽物とか言ってきたくせに…」
「アルに聞いたんだ。ニアが苦しんでることとか、」
「人に言われなきゃわからないの?!
直接聞いたわけでもないのに、僕の気持ちがわかったようなこと言わないでよ!」
初めからわかっていて欲しかった。
ビアンカに作られた自分が斬られた時も、
自分が撃たれた時も、
あの時気付いてくれればこんな辛い思いはしなくてよかった。
「何もわかってないよ。カスケードはいつも気付かない。
僕のことだって、アルベルト君が言わなきゃわからなかったでしょ?」
「………」
否定はできない。できるわけがない。
言われるまでは、このニアをクローンとしか、偽物としか思っていなかった。
「カスケードは僕を見てくれなかった。見ようとしなかった。
過去ばかり見て、今の僕の気持ちなんて考えてくれなかった!」
どうして気付いてくれないの?
どうして見てくれないの?
痛くて痛くてたまらない時に、どうして助けてくれなかったの?
「君に殺されて…痛くて…痛くて…
辛いのが嫌で、殺されないうちに殺さなきゃって思った。
でも記憶が邪魔をするんだ。僕がニアである限り、君を殺すことはできないんだ」
触れられる大きな手すら、今は痛い。
自分がクローンで、偽物だから。
だから本当に欲しいものが得られない。
「…ニア」
名前を呼ばれることすら怖い。
すぐ後に否定の言葉が伴うのではないかと怯える。
「ニア、俺は…ニアはたった一人だと思ってたんだ。
十八まで一緒にいた、あのニアだけだと思ってた」
「………」
「だけど…お前もニアなんだよな。
俺の事殺さないでいてくれる、ニアなんだ」
「違う!何度も殺そうと思った!殺さなきゃ殺さなきゃって、ずっと思ってた!」
「でも殺さなかった。ニアである限り俺を殺せないんだろ?」
カスケードは落ち着いている。
取り乱したニアの手を、ずっと握っている。
どうしてそんなことができるの?
何もわからなかったくせに。
「俺は確かに何もわかってなかった。五年前から何も成長してない。
ニアに嫌われても当然だ」
「そうだよ…当然だよ」
当然のはずなのに、「大嫌い」という度に痛かった。
記憶の中で、ニアはカスケードを想っていたから。
「ニアは、カスケードのこと親友だと思ってた。
ずっとずっと、大好きな親友だって…。
でもそれはニアの話。僕は…」
温もりをそっと外し、距離を取る。
一歩下がり、片方の手でもう片方の袖を握る。
カスケードの顔を見ることなんてできない。
こんなこと、面と向かって言えない。
「僕は、そう思うなって…そう言われて作られたから」
感情を捨てろ。全てを敵だと思え。
クローンとして生成された時、そう言われた。
同時にもう一体別の人に自分が作られていることを知って、その結末を見た。
記憶の中で一緒に笑っていた親友が、もう一人の自分を殺していた。
所詮友情などこんなものだ。この男を始末してしまえ。
スピーカーの声は、そう言った。
だから殺さなければと思った。
親友だったからこそ、自分の手で消さなければと思った。
親友と思うのをやめようとした。
そこに自分の居場所はないのだと、言い聞かせ続けた。
「僕に居場所はない。全て絶たれてしまった。
何もできなかったら、”あの方”に消されるんだ」
前にも似たようなニュアンスの言葉を聞いた。
それが全ての黒幕。
しかしニアが苦しんでいるのはその人物の所為ではない。
カスケード自身が、ニアを長い間苦しめ続けている。
「ニア、俺、お前の居場所を潰した。お前を苦しませてた。
今も苦しんでて、俺を殺さなきゃお前が殺されるような状況にまでなった」
償いの方法なんてない。過去に帰ることはできない。
ならば、今自分に何ができるか。
「俺を殺して助かるなら俺を殺した方が良い。
でも、お前はニアだからそれができない」
親友のために、今自分がしなければならない事。
「もう一度チャンスが欲しい。
今度こそ…何が何でも守り抜く」
馬鹿なことだとはわかっていても、今はそれしか思いつかなかった。
自分で壊してきたものだから、今度は絶対に守りたい。
元に戻れるなんて思ってはいない。
ただ、大切な者を守りたいだけ。
相手の気持ちを考えない我侭だ。
だけど、時にその我侭に縋ってくれる人がいる。
それが、救い。
「ラストチャンスだよ…次はないんだから」
時間だけが過ぎる。
考えれば考えるほどわからなくなる。
「もう諦めたら?」
「黙ってろ」
どちらかしか救えない時、どちらとも救うにはどうすればいいのか。
「諦めろって言われたら諦めたくなくなるんだよ」
「じゃあ諦めないで」
「当然だ」
「諦めて逃げてよ」
「自分の弟負け犬にする気か」
「僕のこと兄だと思ってくれてるの?嬉しい」
「オレは全然嬉しくねーよ。なんでお前が兄貴なんだか」
「じゃあ早くここから出なよ」
「嫌だね」
どうしたら良い?
会話の間にも時間は進んでいる。
どうしたら止められる?
機械を壊せば軍が全滅、
壊さなければアルベルトが死んでしまう。
「…おい」
「何?」
「お前右利きだよな」
「うん」
束縛された利き手を見る。
機械を壊さず、アルベルトを助ける方法。
一つだけ見つかった。
「左利きに転向できるか?」
「僕、元々左利きだから。両方とも使えるんだ。」
「だったら問題ねーな。軍人は続けられなくなるかもしれねーが、命は助かる」
手錠のかかっている手を切り落とせば、そこから逃れられる。
機械を壊さず、司令部も無事だ。
「…そっか、そういう結論か。それでも良いよ」
アルベルトはそう言って微笑んだ。
これで同意は得られた。
後は切り落とせば良いだけ。
そうすれば。
「寒いからすぐに血は止まる。安心しろ」
「うん。ブラックの実力なら大丈夫だって信じてる」
腕の一本くらいなんだ。命の方が大切だ。
生きていれば良い。生きて帰せば。
刀を鞘から解放し、構える。
このまま振り下ろせば良いだけだ。
それで全てが解決する。
「行くぞ」
今まで散々斬ってきた。
躊躇う必要などない。
鏡で見るものと同じライトグリーンが、じっと見つめている。
落ち着いた表情で、ただ見ている。
「…そんな目で見るな。気が散る」
「じゃあ目は伏せてる」
ライトグリーンが見えなくなる。
しかし、視線はまだ残る。
背に、腕に、頭に、足に、いたるところに突き刺さる。
自分が今まで斬ってきた亡者の眼差しか。
脳裏に声も響く。
人殺し。まだ刀を振るうのか。
自分だけ五体満足のまま生き続けるのか。
「……い」
冷たい床に金属音。
凍える手は震える。
「斬れない…」
肝心な時にできない。
自分には救えない。
壊すことしかできない。
今斬ってしまったら、アルベルトは生きていても軍人を続けることはできない。
現場に出ることは二度とできなくなってしまう。
たとえ腕を繋ぐことができたとしても、障害は残るだろう。
ブラックが今まで見てきたアルベルトは、もういなくなってしまう。
それに、それ以前に、
兄に手を下すことができないのは、もうわかっていたのだ。
すでに立証されている。
「オレ…助けられねーよ…
散々人殺してきて…今になって、無力で…」
雫が床に落ちる。
持っていた熱は一気に冷えていく。
いくつも簡単に壊してきたのに、たった一つを救えない。
そんな悔しさを知った。
「出会わなきゃ良かった…お前となんて、会わなきゃ良かった…」
そうすれば、非情なままでいられたのに。
涙なんて、一生流さずに済んだのに。
「…ブラック、泣かないで。男の子でしょう」
こんな声も、聞かずに済んだのに。
「泣いてなんか…」
「泣いてるじゃない。…僕はこのままで良いから。君は苦しまなくて良い」
「どっちにしても嫌なんだよ!お前が死ぬのも、斬るのも、どっちも!」
「どっちの方が苦しい?」
また一滴落ちる。
アルベルトは自由な手で、ブラックの頬に触れた。
「君にとって、どっちの方が苦しい?」
寒い部屋にいるのに、温かい。
「どっちって…」
「君の苦しみが軽い方を選べば良い。僕は君に任せるから」
どんなことになっても後悔しない。
そう言って笑うことができるアルベルトは、ずるい。
「全部人任せにしやがって…」
「選択肢を増やしたのは君。だから君が決めなきゃ」
そんなこと選べるわけがない。
普通の状態なら、選べるはずがない。
時は刻まれていく。
決めなければならない。
階段を下りてくる足音は、ゆっくりで、しかし軽やかで。
髪がふわりと揺れ、口元は笑っている。
全てに終わりをもたらすために、漸く姿を現そうとしていた。
冷たい空気が栗色の髪を撫でていく。
「”あの方”っていうのがニアを作って、それと同時にビアンカもニアを作ってたんだな?」
「うん。ビアンカは組織の研究員だったんだ。だけど感情に走ったから殺された」
全ては”あの方”が語った事。ニアは聞いただけだ。
この記憶力が恨めしい。殺されたことばかりを考えていたのに、はっきり覚えている。
「殺した人たちは君に顔を見られてるから、戻ってきてすぐに僕が消した」
全ては”あの方”の意思。作られた存在であるニアは従うしかなかった。
従順な部下として動いていれば殺されることはなかった。
クローンとして、”あの方”の作る新しい世界に生きられるはずだった。
「居場所」を作ってもらえるはずだった。
「でも、アルベルト君が言ったんだ。”あの方”の理想郷と言動は矛盾しているって。
僕だってわかってたはずなのに、わからなきゃいけなかったのに、無視してた」
このままでは”あの方”の独裁に陥る。そんなことは明らかだった。
けれども、矛盾を無視してでも手に入れたかったものがあった。
失ってしまったから、必要だった。
「ニアは…そこまでして居場所が欲しかったんだな。それなのに俺は…」
「酷いよ、カスケードは。…でも、迷ってたんだよね」
記憶を手繰り寄せる。
確かにあったはずなのに、なかったことにしようとしていた記憶。
「ビアンカのニアを殺した時、辛かったんでしょ?
僕はそれを知ってたはずなのに、自分の痛みばかりにとらわれてた」
苦しそうだった。謝っていた。
泣いていた。
真っ直ぐに記憶の中のニアを想っていたから。
「カスケードがニアを大切に思ってることは知ってる。僕の記憶にあるから。
だから僕は余計に辛かった。
僕はニアにはなれないんだなって…なのにどうして記憶だけあるのかなって…」
相手のことを忘れてしまいそうになるほど、胸の痛みが大きかった。
畳み掛けるように語るスピーカーが、傷を深く大きく広げた。
「僕が本当に消したかったのは僕。カスケードに認められない僕なんだ。
だけど認められないっていうことが辛くて、僕は君を嫌おうとした。
そうすれば居場所も手に入るし、痛みの原因も取り除けるって思ってた」
しかし結果的に傷は痛むばかりで、得たものは銃創という絶望。
そして、
「カスケードがアルベルト君に撃たれたとき、今までのどんな痛みよりも痛かった。
アルベルト君がすごく嫌な人に見えたんだ。
嫌いって言い続けてきた人が傷付いたのに、何でこんなに苦しいんだろうって思った」
どうしてカスケードにこだわるのか。
どうして記憶を消したいのか。
「アルベルト君は僕の傷を暴いたけど、広げはしなかった」
好きだからじゃないのか。
親友だと、心から想ってたからじゃないのか。
「だから…この数日は、痛いけど救いがあったのかな。
アルベルト君に、僕はカスケードを見てたんだ。
小さい頃にニアを救った、君を見ていたんだ」
「…俺を?」
「うん。ニアは火事で両親を失って、それから火と煙が怖いのは知ってるよね?
火事の現場を見て動けなくなったニアを寮まで連れ帰ったのはカスケードだった」
しっかり手をつないで、何度も振り向いて呼びかけてくれて、
優しい笑顔と言葉があった。
「僕には絶対に向けられない表情が、記憶の中に残ってた。
その記憶とアルベルト君がたまに重なってたんだ。
僕は酷いこと言って、酷い事したのに、彼は僕を気にしてくれた」
「…そうか、アルはそんなにニアのこと…」
初めて会ったはずなのに、親友だったはずのカスケードよりニアのことをわかっていた。
辛い思いを理解して、自分にも知らせてくれた。
「何やってんだろうな、俺…。
アルがいなきゃ何にもわからなかったんだよな…」
「そうだよ。何やってるの?
…でも、君は正しかったのかもしれないな」
「え?」
正しいって、何が。
不可解な言葉を追究したかった。
しかし、それは阻まれる。
入り口にゆらりと立った人影に、言葉など失ってしまったから。
「こんばんは」
鈴のような声が鳴る。
先々代の大総統カスケード・インフェリアはすでにこの世にはいない。
しかし、彼は若い頃に多くの功績を残した。
その中の一つがマカ・ブラディアナ事件である。
マカ・ブラディアナという十七歳の少女が、親の遺産を継ぐために邪魔だった姉を殺した。
事件当時は親戚が犯人だとされて捜査が進められていた。
しかし当時大佐だったカスケード・インフェリアは視点を変えて事件を追い、真犯人を暴き出した。
被害者の妹は最終的に罰を受けることとなったが、刑務所からは数年で出てきた。
それからというもの、彼女の人生は悲惨だった。
親戚からは見捨てられ、周囲からは「姉殺し」と言われ、
自殺しようにも恨みが募ってただでは死ねなかった。
せめてこの恨みを忘れずにいたい。自分を陥れたあの男に復讐を。
しかし相手が死んでしまうとは思わなかった。
だったら家を絶やしてしまえ。
孫が生まれているはずだ。そいつさえ殺せば。
老体では何もできないから、若い自分を作ろう。
技術なら裏世界で学べる。
自分の記憶と意思をもったクローンが、その役目を果たしてくれる。
後は任せて、楽になれる。
マカは死んだ。
しかし、その意思は生きて、
恨みの血筋の前に立っていた。
栗色の髪、鈴のような声、
首をちょこんと曲げて笑う仕草。
「カスケードさん、ここにいたんですね」
「サイネちゃん…?どうしてこんな所に…」
荷物をまとめて出て行った、とリアが言っていた。
彼女がこの場所にいるのは不自然だ。
「どうしてって…決まってるじゃないですか」
服の裾から何かがのぞいた。
サイネがそれに手をかけようとした瞬間、
「カスケード、伏せてっ!」
ニアに引っ張られて、床に倒れ込む。
乾いた音とともに頭上を何かが走り、後ろの壁にめり込んだ。
「ニア、余計なことをするな」
「…サイネちゃん?」
いや、サイネだとは思えない。
あの小さなサイネだとは、とても。
「…あなたが僕を作ったんですか?」
ニアの声が、耳に入った。
その後に鈴が鳴る。
「そうよ」
冷たい空気に響き渡る、残酷な音色。
「どうして…」
床に広がった液体が、膝を濡らす。
冷たさは身体の隅々まで、一気に広がっていく。
「カスケードさん、あなたが色々話してくれたおかげで組織は円滑に動かせました。
軍の内部のこともわかったし、馬鹿正直って本当に近付き易いですね」
いつもの仕草で微笑む。
栗色の髪が揺れる。
部屋で話していた時と同じだ。
「あなたが僕たちを動かしていたんですね」
「そうよ。大変だったんだから、性別わからないように話すの」
何かちょっとした事について冗談でも言うような口調。
彼女の全てが、手にしている銃と合っていない。
「それはいいとして、これで私の目的がやっと果たされるのね。
親友の手で討たれるっていう感動的なストーリーも見たかったけど…」
引き金を引くと、銃弾がカスケードの肩を掠める。
ニアがその傷にそっと手をやり、サイネを睨んだ。
カスケードは豹変したサイネをじっと見つめる。
自分を助けてくれたはずの彼女を。
「どうしてなんだよ…嘘だって言ってくれよ!」
今すぐ全ては冗談だと言って欲しかった。
驚かせただけだと、そう言って欲しかった。
しかし肩を掠めた銃弾は本物で、
彼女の言葉も現実なのだ。
「嘘よ。…あなたと過ごした私は、ね」
笑みが変わった。
可愛らしいものが、一転して邪悪さを持つ。
怨念の表情。
「あなたを助けたのも、ビアンカのシナリオが面白くなかったから。
感情のないクローンはやっぱりリアリティに欠けるもの。
あなたがあそこで死んでたら諦めたけど死ななかったから、私が作ったの。
軍を潰すのに利用しようと思っていたニアを使って、あなたの死のシナリオを…」
サイネはニアに目をやる。
自分を睨む、自分の作品を。
「裏の世界をまとめるのはちょっと大変だったかな。でも私頑張ったの。
ボトマージュを脱獄させて、オレガノを利用してクローンを作らせて…
使えない奴はいらないからニアに殺させたわ。
軍の人間も一人は必要だと思って一番利用し易いリーガルをつれてきたけど…これは失敗だったかな」
銃口がカスケードからそれた。
向けられたのは、彼女にとって「もう不要になったもの」。
「ニアも失敗だったみたいね。記憶を残した時点で予想はしてたけど、ここまでは面白いものが見られたわ。
親友同士の殺し合い…最高のショーだったわ!」
高らかに響く鈴の音。
その音をカスケードは未だに信じられない。
助けたのは計画のうち?
こうなるために生かされていた?
全てはシナリオ?
「でもそれもお終いね。ニアが役に立たないなら、殺さなきゃ。
不要なものは消えなきゃ、ね?」
引き金にかかる指に力が入る。
今訊かなければ、答えが聞けない。
「一つ答えてください!”理想郷”は…僕等が生きられる世界は、嘘だったんですか?!」
ニアが欲しかった”居場所”は、どうなるのだろう。
「”理想郷”?…あぁ、あれね。
私、蔑まれて生きてきたの。その上クローンなのよね、この身体」
あぁ、そういうことか。
「“理想郷”はあなたの世界じゃないわ。私だけの世界よ」
自分の居場所のために戦ってたわけじゃないんだ。
無意味だったんだ。
「わかったら消えなさい。あなたが退かないとカスケード・インフェリアを殺せないの」
今まで何をしてたんだろう。
傷ついて、傷つけて、
本当にそれだけだったんだ。
「さよなら」
――僕には、居場所なんてなかったんだ。
乾いた音が響いた。
衝撃が走った。
いや、衝撃は音の前だ。
じゃあ、今のは?
顔を上げると、記憶の中で最も鮮明な色があった。
この色が大好きだった。
いつも見ていた、優しい海色。
「カスケード…」
「…大丈夫か?ニア」
ラストチャンス――確かにそう言った。
本当に、この人は。
「言ったろ…今度こそ、守るって」
「…うん」
だけど、傷ついて欲しくなかったな。
君の背中に滲む赤を、見たくなかったな。
「感動ね、親友を庇って負傷なんて。
私には声をかけてくれる人もいなかったのに…」
金属のぶつかる音が聞こえた。
「そういう人は奪われてしまったもの。
誰も私のことなんて相手にしなくなってしまった。
せっかく作った試作品クローンもボトマージュにとられちゃったし」
銃弾の装填を終え、銃口は再び視界に入ってくる。
「私は独りぼっちだった。私を孤独にしたのはカスケード・インフェリア。
あなたのお祖父さんが私の全てを奪ったの」
「じいちゃんが…?!」
そんなはずはない。祖父が死んだのはサイネが生まれる前だ。
ボトマージュにとられた試作品クローンというのも気になる。
それにさっきサイネはなんと言っていただろう。
自分はクローンだと、そう言ってはいなかったか。
「びっくりしてるの?じゃあ簡単に説明してあげる。
私の元の身体は生きていれば七十歳なの。
昔あなたのお祖父さんに捕まっちゃって、刑務所から出てきたら誰も相手にしてくれなかったの。
ずっと一人で寂しくて、インフェリア家を恨んだわ。
クローンを作れるようになってから私の復讐計画が始まったの。
インフェリアの血筋を絶やすためにあなたを狙ったの。
…これでいいかしら?」
「じゃあ試作品クローンっていうのは…ノーザリア人か?!」
「えぇ。…まさか彼等の弟がエルニーニャにいるなんて思わなかったけど」
糸が繋がっていく。
ふとあの男の顔を思い出し、無事だろうかと思う。
「サイネちゃん、君は…」
「サイネじゃないわ。マカ・ブラディアナ。
あなたが褒めたのは偽名よ」
こんなことになるなんて。
自分の家柄を気にしたくなくて、親や祖父母の関わった事件には一切目を通さなかった。
こんなことになるならちゃんと見ておけばよかった。
そうすれば何事もなかったかもしれないのに。
「俺軍人失格だな…」
「そうね、軍人らしくないなとは思ったわ。
あなたはインフェリア家の者とは思えないほど無用心でお人よし。
軍人は向いてないのよ」
「そうかもな…」
背中が痛む。
しかし、伸ばせない訳ではない。
しっかり立って相手を見据えることは十分にできる。
「カスケード」
「大丈夫。…お前が無事なら俺は立てる」
ニアが止めようとしても聞かない。
やり遂げなければならないことがあるから。
「サイネ…いや、マカ。お前は間違いを犯してる。
インフェリアが敵なら俺だけ狙えばよかったのに、お前は他も巻き込んだ。
それがどれくらい俺を怒らせることか…ちゃんと調べとくんだったな」
「あなたこそ、武器も何も持たずに何ができるか思い知りなさい!」
連続して放たれる弾丸は、全てカスケードの身体に当たる。
いや、一部ニアを狙って撃ったものもあったが、それも受け止めたのだ。
後ろにいたニアにはそれがよくわかる。
本当に、何が何でも守るつもりだ。
でも、このままでは守り抜く前に倒れてしまう。
「カスケード、これ!」
守ってもらうばかりじゃ駄目だ。
記憶に残るニアの夢は、一体なんだ?
「ニア…」
「使って。…これは、君の」
差し出された大剣の柄を、カスケードはしっかりと握り締めた。
巨大な刃は銃弾を防ぎ、ダメージを抑える。
ニアの夢は、人を助ける軍人になる事。
想いのこもった大剣は、全ての闇を斬り裂く。
「サンキュ、ニア。…これで終わらせる」
「…うん!」
人の心の闇さえも、その光で打ち砕く。
「立てるか?」
「足は無事なんだから立てるに決まってるよ。…ほら」
床は赤く染まり、手錠がその上に転がる。
機械の冷却用に使っていた氷を二つに分けて袋に詰め、片方にアルベルトの腕を、もう片方に分離させた手を入れる。
早くしなければ神経を繋げることはできないだろう。
「走れるか?…その出血じゃ無理だな」
「大丈夫だよ。ブラック、僕の西での二つ名知らないの?」
「しらねーよ」
「不死身のリーガル。…どんな危険な任務でも、必ず生きて戻ってきたから」
「…たいそうな二つ名だな。その不死身が死のうとしてたのかよ」
「結局死ななかったけどね。…腕くらい別に繋がらなくても良いよ」
「馬鹿、そんなこと言ってる暇があったら…」
言いかけて、耳に届く異様な音に気付いた。
あれは…銃声?
「大佐?」
「違う…あいつ銃は持ってきてないはずだ」
ニアのことを話したら、銃はいらないと言って置いて来た。
護身用に、とは言ったのだが、どうしても聞かなかった。
だから銃声が聞こえるはずがない。
「確かに少し音が違う…大佐じゃなかったら誰だろう…」
「行くぞ」
嫌な予感がする。
しかしカスケードのもとに行っている暇はない。
こうしている間にもアルベルトが助かる可能性は低下している。
部屋を出て、長い廊下を早足で通る。
銃声は近付いてくる。
耳を塞ぎたくなる。
部屋をひとつ過ぎ、音ははっきりしてきた。
初めに立ち寄った部屋の前に漸く辿り着く。
目の前にあったのは、栗色の髪。
そしてその向こうのダークブルーと、視界の端の黒に近い濃緑。
「たい」
「呼びかけるな…あいつの気が散る」
アルベルトの口を塞ぎ、急いで通り過ぎようとする。
しかし、それをマカが気付かない訳はなかった。
「…リーガル!」
「!!」
しまった。
今攻撃されたら。
「アル?!」
「アルベルト君…その腕…っ!」
腕にも気付かれた。
面倒なことになる前に去らなければ。
「待て、リーガル!どっちつかずの裏切り者!」
マカが銃を素早く構え、撃つ。
「…ったく、面倒なんだよ!」
ブラックがマカの前に出て、銃弾を受ける。
「ブラック!」
「お前は自分の心配だけしてろ。…オレは無事だ」
銃弾はブラックには当たらなかった。
ロザリオの傷を、増やしただけ。
「行け、ブラック!」
カスケードの声に、アルベルトを担いで走り出す。
時間がない。
舌打ちするマカだったが、不意に背に違和感を感じて動きを止めた。
「インフェリアぁ…」
「油断するとこうなる。…軍人の心得な」
よそ見をしていたマカに大剣の切っ先が触れる。
後ろを取られ、身動きが取れない。
リーチが長い大剣なら逃げることも可能なはずなのだが。
「感情のあるクローンの面倒な所だよね。…恐怖も絶望も、ちゃんと感じる」
ニアの一言と一発で、勝負は決まった。
首の後ろを打たれて気絶したマカを、カスケードは軽々と担ぐ。
「…さ、行こうぜ…ニア」
大剣を持ったままの手が差し伸べられる。
柄と一緒に握り、出口へと歩き出す。
歩き出そうと、した。
アルベルトを担いだまま階段を上り始めると、一気に足が重くなった。
「大丈夫?下ろしても良いよ」
「今下ろしたら…歩けなく…なるんだよ…っ!」
しかし立ち止まっている暇はない。
一刻も早くここを出なければ。
一刻も、早く。
「…おい、さっきのって…時限爆弾…なんだよな」
「うん」
「時間…後どのくらい残ってた…?」
「見てない…」
機械は壊れていないので、カウントダウンは続いたままだ。
もしかして、このままでは。
「…大佐!大佐が危ない!」
「暴れるんじゃねー…!アイツなら…心配ねーだろ…」
「でも…っ!」
「馬鹿。…お前も…わかってるだろ…っ」
階段は残り六段。
一歩踏み出し、あと五段。
「アイツは…っ」
あと四段。
「オレ達の…上司だろ…っ!」
あと三段。
ドオオオオオオオォォォォォッッッッッ
地鳴りが足元を崩しかける。
何とか転ばずに残り三段を駆け上がり、後方を見た。
赤い。
火が、燃えている。
「…爆発したか…」
「大佐は?!」
「大丈夫だっつってんだろ。…行くぞ」
信じるしかない。
信じられる。
信じられなきゃ、部下なんてやってない。
突然の熱風と崩れ行く瓦礫。
そして、炎。
何が起こったのかわからず、奥のほうに見入ってしまう。
「…なんだこれ…」
「何かが爆発したみたい…火が…」
「…ニア?」
カスケードは立ち上がり、ニアの手を引く。
しかし、ニアは立ち上がろうとしなかった。
立ち上がれないのだ。
炎の記憶も、鮮明に残っているから。
「…やだ…やだよ…」
「ニア、大丈夫だ!」
「怖い…燃えちゃうよ…」
「ニア!」
担いでいたマカを横たえ、大剣を置く。
昔火事の現場を見たときは、手をつないで、ずっと言い聞かせていた。
「…怖くない。俺がついてるから」
今は、怯える身体をそっと抱きしめる。
「俺がずっと、ついてるから」
温かい腕。ほっとする体温。
記憶のニアが長い間触れていなかった、懐かしい温もり。
この身体が初めて感じたもの。
「…カスケード…僕…」
温かくて、嬉しくて、
やっと居場所ができると思った。
でも、いつまでもここにいるわけにはいかない。
「僕…君のこと大好きだよ」
もう少し触れていたい。
でも――
「君がニアの親友でよかった。僕も親友になりたかった」
「何言ってるんだよ。お前は親友だ。
ニアは俺の大切な親友だよ」
「…ありがとう」
そっと離れて、左耳からカフスを外す。
「もっと一緒にいたかったけど…もうお別れなんだ」
「…え?」
カスケードの手にリングを握らせ、ニアはもう一度海色を見る。
「僕はクローンだから…感情とか記憶とか、そういうものを含むクローンって延命処置が必要なんだ。
身体に負担がかかりすぎるんだって。
ここが燃えちゃったらそれも出来なくなるから」
「そんな…そんなこと…」
こんなこと話したくなかった。
話せば、笑えなくなってしまう。
「僕は…笑ってお別れできるうちに、お別れしたいんだ。
ただの細胞の塊になってのお別れじゃ、嫌だから」
「何で…一緒に生きようって…」
「ごめんね。でも、僕は君の側にいる。大剣も、カフスも、君が持っていれば僕はいつも側にいる。
ニアはその前からずっと君の側にいたはずなんだ。だから、何も変わらないよ」
「何が何でも守るって言ったのに…何で…」
泣かないで。
君が泣いてる顔は、見たくないよ。
「ほら、泣かないで。男の子でしょ」
記憶に残っている台詞だから、君は余計に泣いてしまうかもしれない。
でも、僕は君に笑って欲しいんだ。
「笑ってお別れしよう、カスケード。
僕は、君の笑顔が…太陽みたいな笑顔が、好きだから」
大好きな笑顔を見たい。
一番最初のお別れのとき、君は泣いていたから。
だから、今度こそ。
「ね、笑って…」
僕が笑えば、君は笑ってくれる?
僕、ちゃんと笑えてる?
「…ニア…やっぱり、お前の笑顔…俺の太陽だ」
カスケードは握り締めたカフスを左耳にそっとつけた。
大剣の柄を握り締め、もう一度言う。
「ニアは、俺の太陽だ」
ニアの記憶の中にある、大好きな笑顔で。
「ありがとう、カスケード。
…君が親友で、本当に良かった」
幼い頃笑いあったように。
一緒に過ごしながら笑いあったように。
その笑顔を、永遠に忘れないで。
「また会おうね…カスケード」
天井が崩れて、全ては瓦礫の下に。
To be continued…