夜のとばりが声をあげ、俺は一人目を細めていた。
静まり返った深夜の街。
街頭にたかる蛾の集団は、少しも邪魔にはならず。
俺は仕事帰りの帰路を手の中に落とした紙切れをただ、何の感慨も――いや、家族とこの国の事を思って、その文を読んでいた。
「キルストゥ……」
暗殺を生業として国に仕え続けた一族。
国を追われ、結局は守り続けた国を裏切った世界の敵――。
「災厄を及ぼす者。果たしてこの国にいるのか――?」
俺は紙の下半分に目を向け、足が地面についたところで停止した。
「ほぉ。まさか軍に入っているとはな」
思わぬ収穫に、俺は口元をほころばせた。
「これは、面白い。
すべてはこの国のため、俺自身のため。闘ってみるか――」
そう思ってから、一日経った月夜の晩。
「ここで何があるんだか」
嘆息を吐いた青年、ツキは車から降りると、岩山ばかりで何も無い場所に来て頭を振った。
その姿を、突き立った岩山から見下ろして、俺は内心の高まりを必死に堪えていた。
「本当に、あんなので来るとは……」
違うのかもしれない。
昨日の夜見つけた紙を信じて、俺は早速家で上司が部下に命令をするときの文書を製作し、彼のロッカーに入れておいた。
確証はなかったし、こんな手段で本当に来るとは思わなかったが自分で出した手前、来ようが来なかろうが待っていなければならなかった。
それが行動した責任だったから。
「まぁ、なんでもやるべきものだ」
呆れていた心を目を閉じる事と一緒に振り払い、腹に送り込むように深く息を吸った。
そして、軽く握った手を開いて息を吐いた。
一連の動作を数回繰り返すと、体の邪気が払われたようなすがすがしさが全身を満たしていた。
「さて、と」
言葉と共に背負っていた長槍を軽く手の甲で回すようにして手中に収めた。
そして、目標をそらさず、視界におさめ続けた。
月光が照らす岩肌の台地の中、俺は構わず大地を蹴った。
弾力のある感触は、俺を宙へと押し出してくれた。
そして、下は空気の世界。
普通の人間ならこのまま落ちれば大怪我もしくは即死だろうというほどの高さを持つ場所から飛んだのだ。
だが、俺は暗殺や諜報に赴くため、血のにじむような努力を繰り返して作り上げた体には、このくらいどうってことはなかった。
ただ、問題なのは目標の男に直接攻撃できないというところだ。
つまり、これは暗殺にはならない。
暗殺とは、相手に気づかれずに殺すという事。
今の俺はまだ修行が足りないから、それを成功させた例がない。
内心で舌打ちしつつ、俺はすかさず槍の先をツキへ真っ直ぐ向けた。
このまま彼が動かずに当たればそれはそれでいいのだが。
面白くは無い。
だから半分、動いてくれと祈った――。
しかし、ツキは全く気がついていないらしく、俺は目を見開いた。
そして今更ながら思考が走った。
本当に、彼だったのか、と。
自問しても始まらないが、相手に聞く事も無理だろう。
狙いはずれていない。
このまま動かなければ、その脳天にこの槍が突き刺さっただろうから。
彼が俺の方を見て驚愕の顔をした。
それはそうだろう。
まさかこんなところに呼ばれてわけもわからず殺されるなんて、誰もが信じられない事だろう。
――人を殺すというのは、こんな気持ちなのだろうか。
なんとなく淡々と、感情を殺した俺。
悪いとも思わない。
心が真っ白に、色の無い世界へと変貌していく。
あるのはただの目標の姿――
影が映った。
「――ぁああああっ!」
気合の声が、全てを跳ね返そうとする意思が下から押し寄せてきた。
俺は思わず力が入り損ねてそれに槍が流された。
いや、わざと流して手の内から離れ去るのを止めた。
そして刹那、何も無い後方へと跳び殺気を避けた。
正確に突き出された刃の切っ先は、微動だにしていなかった。
「え――?」
「馬鹿野郎。死にたいのか」
あきれた感じの声で刃の持ち主は後方にいるツキへ言い放った。
それはここにいることへの怒りさえも感じられるもので、俺は眉をひそめた。
親戚一同はいなく、肉親は弟ただ一人となっていたが――
こんな闘気を放つ知り合いの話など今日調べた限りでは聞いた事も無かった。
軍属の者でも知らない――。
「シーザライズさん、どうしてここに」
シーザライズと呼ばれた刃持ちの長髪の男は、すっと立ち上がってツキの方を見た。
「だから、馬鹿っつってんだろーが」
「だから、と言われても思い当たる節が全くわからんのですが」
困ったように目を点にして訴えるツキに、シーザライズはぽりぽり頭をかいた。
「今朝変な手紙受け取っただろ?」
「ええ」
「それ読んでここに来た、と」
「はい」
「馬鹿」
「う、酷い」
ツキの心に針を刺したシーザライズは、完全に馬鹿にした目つきだった。
「あのなぁ、どうみても人気の無いところに呼んだ手紙なんて『怪しいです』っつたよーなもんだろーがぁっ!」
「え〜、でもいないと書いた人が可哀相」
「自分の事心配しとけぇっ!
あ〜も〜誰に似たんだ?レンか?弟譲りか?」
「弟譲りって……う、それってかなり情けない」
「……お前は情けないんだ、ツキ。自覚持っとけ」
弟譲りを肯定しているからすでに認めているのでは?
と俺は内心でのみ突っ込みつつ、シーザライズがこちらへとその闘気を放つ目を受け止めた。
「さ、こいつを殺すならまずはおれをやってみな、坊主」
自信過剰なほど余裕に満ちた声と、馬鹿にした言葉。
安っぽい挑発だ。
俺は長髪男の目を見据えた。
相手の目は、夜の闇の中でもはっきり見えて、それが持つ感情がすぐにわかった。
それは、常人が持ち得ない、闘気のみをたたえた戦人の目。
日々の日常よりも、刹那の生死に生まれる緊張感を好む、異質の瞳。
自分の実力を推し量るには、丁度いい相手かもしれない。
先輩方も、必ず一人はそんな人間と戦っていると聞いた事があった。
行くぞ――
自分を奮い立たせるため、相手への布告のため。
そして最初の一歩を踏み出すために、俺は心の中で呟いた。
足が動いた。
目線は変わらない。
シーザライズといった男、ただ一人。
不意に、奴の表情が歪んだ。
「さぁ、やろうぜ坊主」
それが挑発なのか、本心からなのか、という疑問を打ち消して、俺は槍を翻す。
奴は、その場から動こうともしない。
ただ、神妙で変わらぬ顔のまま、俺を見ていた。
間合いに入った。
腰をかがめ、槍を握っている方の腕を勢いに任せて突き出した。
動かなければ、奴の胴を穿つ穂先。
奴は動いた。
あまりに微かで、よっぽど注意してみないと判らないほど、ほんの小さな移動。
それは俺の一撃をかわし、なおかつ伸びきった俺の腕を握れるほど余裕のある行為に結びつけたのだった。
「動きがわかりやすい」
はっきり言い切る様は、俺の神経を逆なでした。
思わず目に力を込めて、奴の顔をねめつける。
奴は月光に反射する顔を嘆息交じりに変えて、
「何故か判るか?その表情だ」
表情――そういわれても全くぴんと来なかった。
「ほらわかる。お前、本当に国お抱えの諜報集団の一員か?」
「なっ!」
そういわれて恥ずかしさと怒りが同時にわいてきた。
お前にはわからないさ――
俺は無理やり掴まれた腕を奴の手からひったくり、数歩離れて奴と距離をとった。
その様子に何故かあっけに取られている奴は、軽く笑みを見せた。
「ま、らしくていっか」
奴の呟きが微かに届いた。
何がらしくていいんだ。年相応とでも言いたいのか?
憎くて腹正しくて、どんな手を使ってでも一泡ふかしてやりたい。
全身から余裕のオーラを放つ奴に、俺は俺の力で、軍部の諜報部に配属されているという事を見せ付けてやる。
その一途な想いから、俺は迷わず正眼に槍を構えた。
それに答えてか、やっと奴が動き出した。
それはほんのわずかな、しかししっかりと戦闘のための構え。
微かに変わった空気は、戦いを知るものにしかわからない気迫がこもっていた。
それを目指して、俺は短く息を吸うのと同時に地を蹴り、かがんで突っ込んだ。
「様子見かい?」
嬉しそうに声を弾ませた男の目は本当に楽しくて仕方ないと語っていた。
槍を使う――と見せかけて、正拳を静止している男へ叩き込む。
奴は避けなかった。
顔面を叩いたそれは、衝撃が届いてないかのように奴には効いていなかった。
俺の腹に入った正拳が、それを証明していた。
「か……」
息が途絶えて、俺は宙で一瞬停止した体が大地に吸い寄せられたと判った。
奴の拳はその一回きりだった。
しかし、それで実力の差が見えた。
「軽いってのはいいが、逆に打たれ弱くなるもんだ」
鼻歌交じりにいった奴はにっと歯を見せて笑った。
その様子がありありと頭に浮かび、咳き込む俺は悔しさでいっぱいだった。
届かなかった。
俺の拳は奴には届かず、奴の拳は俺を貫く凶器だった。
それを見せつけられて、俺は悔しくて仕方なかった。
「なぁに、お前が弱いって訳じゃねえよ」
はっきり言った奴の言葉に、俺は呼気が整った顔を上げた。
月光に照らされた表情は、まるで教師のような優しさをも内包していた。
「ま、まだまだ俺には程遠いが、仕事柄、それくらいで丁度いいかもな」
「何を、知ったような――」
「残念。知ってるさ」
奴は弱々しい瞳の輝きで、天上の世界を見上げた。
「こう見えても元軍の人間でね。そういう仕事もちっとはかじった事がある」
「だ、からか?」
空には光を飲み込む闇と、点在する星々が見えている。
「……本当に気が狂ってる奴は、国のためにも生きやしない」
質感のこもった声に、俺は気圧された。
その言葉の後ろにある広大な世界に触れてしまった。その罪悪感が俺を満たしていくのが判った。
「自分のため……いや、凶器が産んだ狂気に満ちた場を求めてる」
「だから、なんだ」
俺は何とか片膝をついたが、殴られた部分はかなり痛みを伴っていた。
これでは満足に動けるかどうかが問題だった。
「お前はまだそんなとこにはいないってことだ」
「意味がわからん」
「わかるようにはいってないからな」
ならなんで?という疑問は、視界からかき消えた奴の姿を目で探す俺を襲った衝撃のために、消失してしまった。
「……だよ、起きて」
暗い意識下の元、女の子のようなきいた事のない声が耳に届く。
「朝だよ、遅れるよ。ぼくもだけど」
体が揺れている。声の主が揺らしているのだろう。
「ねぇ、ぼくもがっこーがあって、行かなきゃならないから、お〜き〜て〜!」
耳元でどんどん大きくなっていく声に、俺はようやく眠気の殻を破って瞳で世界を見た。
そこは見たこともない清楚な部屋で。
「あ、目、覚めた?」
茶色い髪にヘアバンドが愛らしい、少女の顔がそこにあった。
心配そうに、嬉しそうに。
なんとでも読みとれるその表情に、俺は胸に今まで感じたことのない熱いものを感じた。
「……どうかした?顔真っ赤だよ?」
俺を心配してかけてくれた声。
それが頭の中で反芻して、俺の頭の中は大混乱していた。
自分でも驚くくらい、何も考える事はできなくなっていた。
いや、たった一つだけ、目の前で愛らしく首をかしげている少女の困ったような顔だけが、俺の頭の中を支配していた。
心臓が心拍数をどんどん上げていく。それがまた恥ずかしくて恥ずかしくて、もう押さえきれないほど聞こえていたらどうしようと考えるくらい恥ずかしい事で。
「だ、だいじょうぅ」
言葉になってない事は自覚しつつも、その少女の前で平常心なんて保っていられない。
その心をくすぐるやわらかい表情、ちょっとぼぅっとしているのがまた可愛さを強調している少女の顔は、俺を俺でなくする。
「熱あるよっ!」
やたら大慌てで叫んだ少女は、すぐにでも部屋を飛び出していきそうだった。
「あ、だ、大丈夫、だ」
この熱は、多分彼女を見ているから発生するもので。
けっして、自然発生のものではないことだけは確かだった。
「き、きみは、一体?」
「ぼく?ぼくはフォークだよ」
にっこり笑ったその顔が、オレの脳裏に深く刻まれた。
さらに頬に熱が入る。
「俺は、クライス、クライスだ」
「クライスくん。言い名前だね」
その言葉が、頭の中で反芻してどうにもできなくなっていった。
「いや、そんなことは、全然、ない」
俺は手をパタパタ振って否定を示した。
「むぅ」
ちょっと不機嫌になった顔が、また愛らしさを強調した。
それがどうにもいとおしくて、どうにもならなかった。
「で、学校とか、お仕事とかある?」
フォークさんは俺の顔を覗き込んで言った。
「あ、な、ないといえばないし、あるといえばある」
混乱していて自分の言ってる事がわけ判らなかった。
「ふ〜ん」
わかってないような感じの彼女に、おれは申し訳なく思った。
「ごめん、ある」
「うん。朝食作ったから、下に降りてきて」
そういった彼女に頷いて、俺はまずベッドから降りた。
「あ、服が、変わってる」
「ん、昨日の黒い奴だと寝る時暑そうだと思ったから、変えちゃったんだ。
丁度サイズの合う服があって良かった〜」
にこっと笑った彼に、俺も頭を縦に動かした。
この子にはお兄さんとかいるんだろうなと思いつつ、俺は彼女の後をついて涼しい廊下を歩いた。
「ここはぼくとお兄ちゃんの家だよ。昨日はお兄ちゃんがクライスくんをつれてきてびぃぃぃくりしたんだよ」
くすっと笑みをこぼした彼女の声に、俺は昨日の出来事を回らない頭で考えていた。
「昨日……は仕事をして、それからあの男を連れ出して……」
そこまで思い出して、昨夜の出来事がよみがえった。
それはぼけていた俺の頭を一気に冷めさせて俺はここにいる理由がわからなくなった。
考えようとした瞬間、あの男の顔も蘇り、思わず歯を噛みしめていた。
「ぼくは詳しい事聞かなかったんだけどなにがあったの?」
「ま、ちょっとな」
ちょっとどころの話でないことは表情には出さないでおく。
彼女を心配させたくなかったからだ。
「おにいちゃぁん、クライスくん起きたよ〜!」
「そーか」
中からは昨日のターゲットの男の声がした。
兄があいつだとすると、俺は昨日のシ−ザライズとか言う奴に気絶させられた後、ここまで運ばれたのか。
フォークさんに連れられて入った部屋は、ダイニングテーブルが置かれた食卓の場だった。
そこにはツキが座っており、他に2人分の食事が揃っていた。
「ん〜と、ここに座って」
とフォークさんにすすめられたので、早鐘を打つ心臓を意志力で静めつつ、ちらっとツキの様子をうかがった。
何も変わったところはなく、平然と箸を口に運んでいた。
「昨日何があったの〜?」
よっぽど興味があるのか、フォークさんは隣に座っているツキにたずねた。
ツキはさも何もなかったかのような顔をして、
「クライスを拾った」
と、あまりにも簡潔すぎて詳しい事が誰も判らなく言いのけた。
そればかりいわれているのか、フォークさんは頬を膨らませて、
「その前!過程を教えてよ〜!」
と懇願するのをちらっと横目で一瞥しただけで。
「クライスにきいとけ」
と、やっぱり一言で言い切って、それからは我関せずで黙々と朝食に手をつけていた。
それを聞いてすぐにフォークさんは真剣に輝く瞳を向けて、
「クライスさんとお兄ちゃんは一体いつ出会ったの〜?」
教えて〜と内心の声が聞こえてきたので、俺は小さく頭を動かした。
「それは昨日の夜に、偶然ぶつかってな」
俺の口からは滑らかに嘘がこぼれ落ちた。
ちょっと自分でも驚くような嘘に、俺自身が恥ずかしくなってきた。
心なしかこちらをツキがすごい形相で見ているのが判った。
ただ、俺はフォークさんの前では、兄を殺そうとしたなんて言えなかった。
言う事はできなかった。
そんな俺の作り話を彼女は真剣に聞いてくれていた。
正直俺は今一体何を話しているのかさえ記憶されてはいないのに、フォークさんはしっかり頭の中にしまいこんでいるらしかった。
それを見ていると俺がしようとしたことは、とても罪な事に思えてならなかった。
ごめん。
本当のことは口には乗せていなかった。……いや、のせてられなかったといった方が正しかった。
俺は本気で、彼女に恋をしてしまった。
きっと、これ以上の思いはないのではないか、という位に惚れてしまった。
もうこの事実からは目をそらさない。
俺は、今目の前にいる彼女を、フォークさんに……
本気で恋をしてしまった。