えっと、何がいったいどうなってこうなったのかしら。

わたしは自分の狭苦しい部屋の衣服の入っている棚を開けながら、ふと思った。

今日は思ったよりも晴天、空の青さが目に染みるくらい晴れ晴れとしている。

そういえば、朝食時にあのバカ兄が『今日は最高の日だ』とか真面目にいってたから思わず叩いたんだっけ。

まったく、本当にどうしてこうバカ兄はフォーク君が関わるとこう、能天気というか情熱バカ系というか、ともかくそういうキャラに変身する。

「ったく。そもそも勘違いから始まったんじゃない」

呆れてしまうが、まぁ、思い込むとそのまま走っていくような兄だ。

それはちっちゃい頃からの性格で、きっとこれからも変わらないだろう。

ただ、フォーク君と出会ってからというもの、恋わずらいにあって憑き物でも取れたかのような豹変ぶりには驚いた。

「一夜明けたらあのくそ真面目で機械的とさえ思ってた兄がバカになって帰ってきたんだもん。……いったいどんな魔法使ったらああなるのか知りたいわ」

あの日の朝のことはもう何ヶ月も前のことだけれども、まだ鮮明に思い出せる。

それだけ印象深く頭に残った年間思い出ベスト3の中ぐらいには納まってる。

くっ、あれは不意打ちも不意打ち。

軍人になるといったあの日よりも驚きは大きかった。

って、こんなこと考えてる暇はないわね」

軽く頭を振って浮かび上がってきた思いを振り払う。

早く昔使ってたエプロン見つけないと。

ちらっと顔を上げてクローゼットの上にかけてある丸い時計を見やる。

「って、やばっ!」

あと5分もしたら出発の声がかかる。

ほんと、フォーク君についてなら容赦ないからな、あのバカ。

それまでに、この服の海から見つければいいんだけれどな、エプロン。

帰ってきたらこれ片付けるのにだいぶ手間取りそう。

下手したらこれで一日が終わる。

「……はぁ」

なんでフォーク君の家に遊びに行くなんて約束、頷いちゃったんだろう。

これもあれもツキさんがわたしのいるところで『フォークが明日遊びに来て欲しいってさ。エプロン持参で』なんていうから、あのバカが調子に乗って『じゃ、お言葉に甘えて、おれたち2人でくるから(にっこり)』とかいったのが原因なんだから。

まぁ、別に誰かとなにか約束してたわけでもないし、ちょうど時間を持て余すところだったけれど。

「エプロンがないなんて死角中の死角だわ……」

はぁ、と自分の失態にため息をついて、ここは潔くきっぱりとないこと宣言するしかない。

誰だって、一つや二ついつの間にかなくしたりすることがあるもの。

こんこんっ

「クレイン、もうそろそろ行くぞ?」

ドアをノックしているのは例のバカ兄。

こう見えても一応エルニーニャ王国の軍人である兄、クライス。

かくいうわたしも軍に籍を置いている身。

この国の軍に入るには、年齢が10歳以上であればなんら問題はない。

でも、普通の親が子を軍に入れるなんてことはあまりない。

しかし、親が元軍人とかそういう一族とか、その他にいろいろと公にはいえない理由なんかで軍に入る輩は多い。

ちなみにわたしは前者の方に入るけれど、あくまで自分の意思で決めたこと。

父が元軍人だったとか言うけれど、わたしには関係のないことだし、それで人生を決めたわけではない。

9歳か10歳の頃にあった旅の女性の言葉が忘れられなくて、もう一度、会いに行く、そんな、ただまた会いたい一心で自分磨きに軍に入った。

かなりつらかったけれど、それは兄がフォローしてくれたところもあって、なんとか軍に入れたのだ。

たんに憧れだけじゃなくて、もっと、立派になったわたしになって彼女に、あの女性に会いたくて。

そんなあてもないものではあるけれど、わたしにとってそれが一番大切なものだから。

これからはわからないけど。

「クレイン?起きてるか?」

心配になったその声と共にまた戸を叩く音が響く。

「起きてるっ!すぐ行くから!」

とりあえず意思表明だけはしておくとして。

「……フォーク君の家に服がたっくさんあるって話だったし。借りればいいかな」

服でごった返しになった部屋に恨みはないが。

見つからないものは見つからないとここはきっぱりとあきらめよう。

「悔しいけどね」

あの兄にまた何言われるかわからないけれど、これ以上待たせるのも悪いからね。

……しっかし、起きてるかなんてきく?朝ごはん一緒にとったじゃない。

居眠りとでも思われてるんだろうか。

「ったく。今度目覚ましでも狂わせようかしら?」

地味だけどこれが間接的によく効くの。朝が弱いから誰かに起こされないと一生寝てそうだし。

そんな他愛のない仕返しを考えながら立ち上がると、ベッドの上に置いておいた茶色の手提げかばんを引っつかむ。

そして服を踏まないように注意しながらとんとんっと床を叩いてドアを開く。

今日の私の一日は、そこから始まった。

 

どこにでもある二階建ての一軒家。

別に柵で囲まれているわけでもなく、裏に小さな菜園ができる場所があるだけなんだと思う。

住宅街の中でもはずれ、商店街に近い位置にあるフォーク君たち兄弟の家。

もともとは両親そろっての四人住まいだったと聞いたことがある。

でも事故で亡くなられてからは二人で仲よく生活しているとか。

兄のツキさんは現在軍で働いており、たしか事務系の仕事で頑張っているとか。

それまでは運にまかせたギャンブルで生計を立てていた……とかいうけれど、本当かどうか疑わしい。

と思う方が大変多かろうけど、実際その運の良さはお墨付き。

わざとやってるんじゃないかと疑いたくなるほどよく当たる。ばしばし当たる。

百発百中、必ず勝つ。

といっても最近は仲間内のポーカーくらいでしか発揮してないらしい。

もったいない。というか反則的な運の良さだわ。

と物思いにふけっているうちにチャイムが鳴る音が聞こえた。

それはバカ兄が勝手に鳴らし、しかもなぜかすぐその玄関への扉の取っ手をにぎっていた。

その後の行動は容易に想像できる。

「ってバカっ!せめて人が出てきてから入りなさいよっ!」

「勝手知ったる他人の家」

きっぱりとこれが反論だと言いたげだ。

その頭の悪さに思わずため息が漏れる。

いや、だからこそクライスって兄だけど。

ん、でもフォーク君に会う前まではもっと常識があったような。

「恋って侮れないわ……」

職場でもそういう人たちはいたようないなかったような、微妙な線行くけどね。

「って言ってる場合じゃない」

はっと我に返るとあのバカの後を追う。

本当に、どうしてこう、バカみたいに突進するようになっちゃたんだろう。

嘆息しつつもその兄が入っていったフォーク君ちの玄関へお邪魔した。

するとちょうど兄の悲鳴が聞こえた。

と思ったときにはドスンっと大きなものが地面に落下する音が聞こえた。

ここからは今への目隠しになっている暖簾が邪魔で見えないけれど、たぶん兄がこけた音。

……まったく。いったい何やってるんだか。

考えただけで頭痛がしてくる。

おおむねフォーク君の方に行こうとして突然(にクライスが見えるだけ)の罠にひっかかったところだろう。

まったく。情けないといったらありゃしない。

「クレインいるんだろ?入っていいぞ」

とはツキさんの声。

ここの家主がいいというのだから遠慮せずにあがってしまおう。

「お邪魔します」

と聞こえてないだろうけど一応、礼儀として声をかける。

それからすたすたと暖簾をくぐり――

兄の死体を見た。

まだ生きてるみたいに痙攣してるけど、気にしない。

「あ、クレインちゃんこんにちは〜」

と、屈託のない笑みを浮かべて明るい挨拶をしたのはエプロン姿のフォーク君。

「こんにちは」

といつもどおりの挨拶を返す。

「ところでこれ、どうしたの?」

地面に伏したクライスを指さしながら近くにいたツキさんへ視線を送る。

するとツキさんは悪戯心満載の笑みを浮かべて、

「走ってきたから足出して、そしたら勝手に引っかかってこけた」

とただ状況だけ説明してくれた。

わたしはただそうなんだ、と頷くだけにしておいた。

反射神経までなくなるとはおそるべし、恋の力。

……まぁ、もう過ぎたことだけど。

「クライスくん、大丈夫?」

フォーク君が心配そうに表情を曇らせる。

絶対大丈夫だと思うけど。

そのわたしと意見を同じくするやからが一人。

「フォーク、クライスがこんなことくらいでくたばるか?」

「……くたばらないとか、そういう問題じゃないよ〜?」

むぅ、と怒りをあらわにするフォーク君にツキさんはそっぽを向く。

「じゃ、もうそろそろ鍋洗い再開するから。あとはよろしくな〜」

と自分で起こしたことの後片付けを弟に押し付ける悪い兄。

可愛いものほどいじめたくなるとはいっても……。

「仕方がない」

ちょっとまって〜。とツキさんに叫ぶが彼はとうに聞く耳持たず。

そのまま台所に姿を消してしまい、フォーク君が泣いている。

「うぅ〜、お兄ちゃんがクライスくん殺してった〜」

あー、うちのバカ兄フォーク君にも死体扱い決定されてる。

このまま起き上がったりしなかったら警察呼ばれないかしら。

「う……生きてる。生きてるから」

さすがに耐え切れなくなったのだろう、バカ兄が生存を訴えた。

それに気付いたフォーク君が花開いた輝かしい笑顔を浮かべた。

そしてよっぽど嬉しかったのだろう、倒れているクライスの上にダイブした。

あまりにも突発的な彼の行動に、わたしは目を丸くした。

「ぎゃぁっ……って、フォーク! 乗るなっ! 潰すなっ! 死ぬ!」

本気で叫ぶ兄の悲鳴にもかかわらず、フォーク君は気にも留めていない。

「よかった〜。これでみんなでシュークリーム作れるね☆」

にっこり笑うフォーク君に、わたしは唖然として頷いた。

「作れね〜って。フォークどいてくんなきゃ」

「へ? あ、ごめんねっ」

べた〜と仲良くくっついていたお二方は、フォーク君がぴょんっとかえるが跳ねるように飛びのくことで解決した。

それに遅れて兄は腕立て伏せの要領で起き上がると、じと〜とした目でフォークを睨んだ。

「いや、一番悪いのはツキだ。ツキの野郎だ」

ぎりっと奥歯をかんで兄が一番恨めしいものの名を告げた。

でもそれは自業自得の結果だ。

「お兄ちゃんも悪いけど、クライスくんも悪いよ。勝手に入ってきてさ〜」

口を尖らせたフォーク君に、ばつが悪い顔になる兄。

へぇ、人並みの引け目はもっていたんだ。

「はは、早くフォークに会いたかったんだ」

と歯に衣着せずに本人の前で告げるバカ。

フォーク君は嬉しそうに、にこっと笑みを浮かべるとまたバカ兄に抱きついた。

ったく。照れとか恥じらいとかを遠く彼方に捨ててきたな、あのバカ兄は。

なんてやりとりは止めないといつまでもいつまでも続きそうだった。

「フォーク君、悪いんだけどエプロン貸してもらえる?」

「あ、おれも。結局見つからなくてさ〜」

といいながら申し訳なさそうに頭をかく兄。

「うん、いいよ。可愛いのと普通のと動物のとどれがいい?」

ぱっとクライスから離れてフォーク君が尋ねてくる。

「わたしは……普通ので」

「おれは動物で頼むっ」

わたしたちの意見を聞くと、フォーク君は笑顔でわかった〜っと言う代わりに手を振った。

そしてそのまま今を抜け、玄関の方へ走っていった。

きっと二階の衣装室とかから持ってくるんだろうと思うけど。

「クライスも忘れたの?」

内心聞いたときには驚いた。

のに、当の本人はなんでもないことのようにああ、とだけ言った。

「クレイン、うちにエプロンなんてあるんだろうか。家の全ての引き出し開けて回ったけど見つかんなかったぞ」

……。あ、まあいいんだけど。

「家の全ての引き出し……?」

その単語が妙に引っかかる。引っかかるどころではないかもしれない。

わたしの険悪な空気に気付いてか、兄は慌てて手を振り、

「いや、目に見えるとこ、え〜と居間とかそこらへんだけだってば。個人の部屋になんか入ってないって」

と言葉を付け足した。

「ふ〜ん。そうなんだ」

こうみえてもクライスは真面目で嘘が下手だから、これはきっと本当だろう。

ただ目的のためになら手段を選ばず、みたいなことが染み付いてるから心配したけど。

と放しているうちにとたとた走ってくる音が聞こえた。

それはだんだん大きくなり、暖簾をくぐってフォーク君がやってきた。

「はいパスッ!」

と言って抱えて持っているように見えたエプロンをばっと投げる。

反射的にひらひら落ちてくるオレンジと茶色のそれぞれのものを掴み取る。

「茶色が動物さん、オレンジが普通のだよ」

といつのまにか台所の入り口に仁王立ちしているフォーク君。

元気が良いととらえるべきなんだろう。

「お、犬か〜」

と茶色のエプロンを持って悦に浸る兄。

動物なら何でも悦に入りそうだけど、犬が一番好きだとか言ってたかな。

「ふふ、クライスくんの好きなものくらいは把握済みっ!」

ぐっと親指立ててアピールするフォーク君。

「その発言は問題あるな」

とは台所から戻ってきたツキさんの言葉だ。

その手には二つ取っ手がついている鍋で、白いふきんに包まれていた。

「むむ、友達の好みを把握は当たり前では?」

とツキさんと対峙するように構えるフォーク君。

「いや、クライスに言うからこそだよ」

と力なくため息をついた。

そしてちらっとクライスの方を見ると、また肺の空気を押し出すようにため息をついた。

「おれは嬉しいから問題ないぞ〜」

と、勘違いな声を上げるバカ兄。

そういう問題じゃないってわかって言ってるんでしょうね……。

「ないぞ〜」

とやけに嬉しそうにフォーク君もつられて言ってるし。

「はぁ、頭痛いな」

とツキさんが鍋を持って台所へと消えていく。

その姿を見守ってから、クライスににこにこ笑顔を送っているフォーク君に向かって、

「ところで、ツキさんも作るのかしら?」

と鍋が気になるのでつい口にした。

するとフォーク君は表情を一変させて、そこは立ち入らないで欲しいと顔で言った。

彼がそんな顔をするのは非常に珍しいので、悪戯心が芽生えた。

「そうだよな。なんで鍋持ってるんだ?」

わたしと同じ思いでいたのか、兄のクライスが的確にわたしの言葉を代弁してくれる。

「う、ちょ、朝ごはんの片づけしてるんだよ〜」

とごまかしているのが目に見えてわかる様子が微笑ましい。

ちょうどわたしたちもエプロンつけ終えたところだし。

「じゃあ、もうそろそろ台所にいかない?」

ここの家は台所が広く、食卓用のテーブルが置かれている。

揚げ物を作るときなどはなかなか使いやすくてよく、当然お菓子作りでもそこを使う。

「あ、うん、でも水洗いはきっとお兄ちゃんが占領してるから使えないよ」

と硬い表情のままフォーク君が伝えてくれる。

うん、よっぽど切羽詰っているみたい。

そんなに嫌なことに繋がるのだろうか。

ツキさんが鍋を洗うということ。

きっとその謎は、台所に行くことで解決の糸口をつかめるかもしれない。

なんだかとても心配そうに表情を曇らせているフォーク君が気になるし。

「んじゃ、いきますか」

と、兄がくすっと面白いことに胸をはせているような笑みをこぼした。

どう考えても、フォーク君と料理ができる……からというだけではなさそうだ。

そう、きっとその心はわたしと同じものだと断言できる。

料理のことでフォーク君がこんなにわかりやすく戸惑うことは珍しい。

彼の領域と言えるくらいに精通した分野。

兄に当たるツキさんはその恩栄に預かるだけで、手伝いは後片付けのみという徹底振り。

ただ単に手伝ってないだけとは言ってはいけない。(ことになっている)

主に包丁を持ったフォーク君は殺人鬼並に怖いと当の兄が語っている。

かなり失礼だと思うけれど、きっとそういう以外に正しい言葉が見つからないんだと思う。

そう、それくらい恐ろしいのだろう。

フォーク・キルアウェート。

彼に刃物を持たせてはならないと、暗黙の了解で決まっている。(らしい)

が、今回のこととはそれは関係ないだろう。

しかしながら、今日は来客があるとわかっているはず。

その上、フォーク君はいつも朝早くから起きて朝ごはんの支度をしているのだ。

いくらツキさんが寝ぼすけで休日に昼まで寝ているような人でも、もう片付けくらいは済ますものだろう。

だからこそ、怪しい。

ちょっとどきどきを隠せていないフォーク君の後に続いて台所に入った。

そこに広がるのは大きな窓によって大量に光が取り入れられている部屋。

台所の核となる水場はツキさんがせっせと洗い物をしていた。

耳をすませばごしごしと磨く音がする。

食器を洗うにしてはその音は長すぎるから、きっと鍋かそういった調理器具を洗っているのだろう。

これからフォーク君と作るシュークリームには使わない……とはいっても今洗うこともないのではなかろうか。

ぽんぽん、と不意に肩を叩かれて我に返る。

すると不機嫌な顔のクライスが作るぞ、と険しい顔が言っていた。

わたしはごめん、と謝罪を述べて水場から少し離れた食卓のテーブルに向き直る。

窓からの明かりを存分に受けているテーブルの上には、材料がずらっと並べられている。

「ん、と。薄力粉にバター、水卵生クリーム砂糖バニラエッセンス、と。皆そろってるね」

調理雑誌とにらめっこしながら、彼は元気よく告げた。

わたしも一通りテーブル上のものを眺めて、全部そろってることを確認した。

「シュークリームって、久々に食うな」

と、クライスが材料を見ながらそんなことを口にした。

それを聞いたフォーク君は嬉しそうに笑った。

「うん、ぼくも久々〜!」

と言いながら近くにあった銀色のボールを手に取った。

そしてクライスとわたしの顔を交互に見ると一つ咳払いをし、

「では、これからシュークリーム作りを始めますっ♪」

と号令をかけたのだった。

 

 

昼の陽気が心地よい昼下がり。

わたしたちは今、フォーク君の家にお菓子作りのためにやってきた。広い台所にテーブルは、たった二人だけの食事では大きすぎると思う。けれど、こうして大人数で料理をする分にはちょうど良い広さだ。

「まずは材料をはっかろーね」

と声を弾ませて、フォーク君はとことことツキさんのいる流し場へと向かう。何をしにいくのかは図りかねたけれど、流し場に縁のあるものを取りに行ったに違いない。そう考えて、これから使う木目の浮き出たテーブルに視線を落とした。

そこには白い粉が見える透明の容器が3つほど置かれていた。今日のシュークリームに使う粉なんだと思うけれど、どれが何かはわからない。どれも同じようにしか見えないから。でもそれってすごく問題があるかもしれない。

「これを機会に、勉強でもしようかしら」

「ん、クレイン料理でもやるのか?」

 ひょこっと後ろからのぞいてきたクライスに、心臓がどくんっと跳ねた。肩越しに見える表情は、何も知らない子猫が興味を持って覗き見たという風だ。

「う〜ん、できればやりたいところだけど……」

「時間なんか作ればいくらでもあるだろ。やっぱ、一人立ちするならちゃんと知っといたほうが良いぞ」

一番料理と縁遠いクライスが偉そうに告げた。

「そうね。そうしたらフォーク君に習おうかしら?」

「む。 ……そ、そういうことならおれが監督になってやってもいいぞ?」

下心が丸見えというのもどうかと思う。

「監督じゃなくて試食派でしょう?」

「う、そ、それは単に偶然という世界の摂理が生み落とすっていや、睨まんでくれクレイン、怖い」

睨んだつもりは全くないのだけれど、さっきより大また一歩くらい開いているあたりどのくらい恐怖心を抱いているのかが伺えた。

「そんなに引くこともないじゃない」

「いや、なんか機嫌の悪さが伺えいやなんでもない」

一体何を言いたいのか視線で攻めてみたけれど、うまくかわされたというかかわし切られたというか。とにもかくにも深追いをしない方針を打ち立てたんだとわかった。

「どうかしたー?」

何があったのかわからないよ、と顔に書いてあるフォーク君が両手にそれぞれ軽量カップとガラスの大きなボールを持ってやってきた。

「あ、フォーク。何も無いけれど、どうした?」

「それはこっちのセリフだよ。まったく、一体何考えてるの〜! もう、遊んでたらぼくが一人でやっちゃうよ。暇で死んじゃうからね!」

頬を膨らませてクライスに当たっていくフォーク君だが、言っていることははちゃめちゃだ。

「暇すぎても死にはしないから」

わたしらしく冷静に突っ込みを入れておく。するとフォーク君は手に持っていたものを置きながら痛いところを突かれたとでも言いたげに口を閉ざしていた。

「死んじゃうもん」

「いじけるなよ。フォークらしいけれど意味ないしな」

なんで余計に胸を刺す言葉を連呼するかなこのクライスは。慰めるとかそういった行為をすれば良いのに。

「……薄力粉、砂糖、OK」

力ない言葉ではあるけれど、わたしが見ていたものの確認をしていた。一つだけのけものにされたものもあるが、それは必要ないのだろう。少し物寂しく見えるけれど。

それは置いといて、わたしはボールを二つに分けて置き、その近くに薄力粉とかを持ってきたフォーク君を静かに見つめていた。クライスも同じように、何をしたら良いのかわからなさそうで、同じようにその行為を意味もなく見つめていた。

すると、フォーク君はまたすたすたと移動して、オーブントースターの台になっている棚をがちゃっと開いた。

「何出すんだ?」

「はかり〜!」

相変わらず間延びした言葉を返すと、フォーク君はゆっくりと立ち上がった。開いた棚の中身が見えたまま、彼は振り返るとその手には重さを量るはかりが握られていた。それを見て、わたしはこれから粉の量をはかるのか、と納得がいった。

「ふふふ。これはお母さんが結婚してからお父さんにプレゼントしてもらった始めてのものなんだ。もう二十数年は使っているんだよ〜」

嬉々として笑顔を絶やさずに高々と持ち上げるフォーク君。そのひまわりの花を連想させる表情に、クライスも父親みたいに緩やかな表情を見せていた。

「物持ち良いんだな〜。おれならそんなに大切できないな〜?」

おどけたようにフォーク君へ告げたクライスに、わたしは微笑みをこぼした。

「確かに、クライスはすぐ物壊すんだから。ペンとかプレゼントしても一年も立たずにゴミ箱行きにしちゃうんだから」

ねー、と同意を求めてクライスの苦笑している横顔をのぞいてみる。実話だから否定できないようで、笑ってごまかすのに必死のようだった。

「クライスくん。もっと物は大切に使わないとだめなんだからね〜」

「あ、そうだよな、そうだな、はは」

笑い方に感情がこもっていなかった。相当動揺させてしまったようだ。

「うん、だからこのシュークリーム大切に作るからな」

心の内を隠すように大きく、そして一瞬に計量カップを手に持った。

「これって何に使うんだ?」

「えっと、水を五十のメモリのところまで入れてきて〜!」

「ああ、任せろ〜♪」

にこっとわざとらしく微笑みを浮かべるクライスは、言うが早いかさっさと背中を向けて、ツキさんのいる台所へと向かっていってしまった。

「あ……ったく」

「ふふ。じゃ、クレインちゃんも一緒にぼくと材料はかろ!」

鮮やかな笑顔と共に差し出されたボールと白い粉の入ったものを受け取ると、わたしは頭を縦に振ったのだった。そのときのフォーク君の表情は、無垢で元気な男の子、という言葉がぴったり当てはまるものだった。

 

それぞれがボールやカップの中を満たし終えた頃、テーブルの上は完全に調理台と化していた。わたしは分量をはかったのだが、フォーク君はその間に所狭しと行っては戻り、テーブルに置いたかと思えばまた行ってしまったり。せかせかと働くありみたいに、とても忙しそうだった。

それがひと段落着くと、クライスがなにやら考え事をしている顔つきで帰ってきた。

「どうかした〜?」

「いや。……フォーク、問題ないか?」

不意に、仕事の土壇場にいるような真剣な瞳でフォーク君を射抜くクライス。あまりに場違いな表情に、わたしも、そして名指しされたフォーク君も言葉を失った。

「な、にが?」

クライスの空気に押されたからだろう。唾を飲む音が聞こえる。心なしか雰囲気を和らげようとして、頭を軽く肩のほうへ傾けていた。

その様子を見て、クライスはしばしの間言葉を失っていたようだった。しかしながら、すぐに思い直したのか、はあ、とわざとらしく息をつくと、ぱっと目を閉じた。

「いや、なんでもない。フォークは、フォークだもんな」

何か煮え切らないものを吹っ切るように、自身に言い聞かせるようにクライスが意味ありげなことを言った。そんな言葉を聞いたら気になるわ。

「うん。ぼくはぼくだよ」

と、目を瞬かせてみるフォーク君に、わたしは軽く息をついた。詳しく考えてはいなかったようだったから。

らしい、といえばらしいけれど、もう少し言葉の意図を深く考えても言い年頃だと思う。

「じゃあ、まずは何をするんだ?」

クライスがテーブルの上に並べられている数々の調理器具を丹念に眺めがなら尋ねた。するとフォーク君は、さっとふところから調理雑誌を取り出した。さっき計量するときなどもそれを見ていたものだ。

「えっと、じゃあクライスくんはバターを溶かしてもらって。ん……と、あ、皆で交替してやろう。そっちのほうが疲れないしね」

「それがいいわ」

さすがにこういったお菓子の料理はクライスもきつかろう。軍の訓練とかでは野外で作ったことはあるときいたが、それとはまた勝手が違うというものだ。

「ああ。おれもそれで良いぞ」

そう頷くのを確認して、フォーク君はガラスの空のボールにバターをお皿から落とし入れた。底に着くが早いか、彼は用意していた木ベラをクライスに渡した。

「これで、頑張って溶かしてくだされ」

口調がおじさんちっくだがそうでもないのかもしれない。というのは良いとしても、クライスは頭を縦に振って木ベラを持った。そしていざバターへ木ベラを向けて、バターをつついていた。

「……えっと、これでいいのか?」

上からつつかれると上へ少し移動するにはするが、あまり解けている感じがしないというのはおかしい。それを見てあわてて料理長のフォーク君が止めに入る。

実際、止めるほどではないだろうが。

「えっと、ん〜。どうだろう。これでもいいのかな? ぼくもこうやってバター溶かすの苦手だから、上手いアドバイスができないんだけれども……」

と、眉を寄せて怪訝な顔でじっとクライスがつつき続けるバターを見つめていた。

「あ、まだバター固いのかな。ならもう少し溶けたら押しつぶしたり、端を意識してかき回したりするといいよ。なんとなくそれでいい感じになるしね」

「へぇ。そうなんだ」

本当に感心したのか、口の中でフォーク君の言葉を反芻した。

「で、さ。まだかな?」

「やわらかさならまだまだだよ。もっとここがバターの黄色いのが溶け出さないと。木ベラでちょっとつついてみて。固いでしょ」

と指示に従ってクライスは木ベラの先端をバターの上部にくい込ませる。そして軽く瞳孔を見開いて、

「あ、ほんとだ」

「そうそう。もっと頑張ってぐるぐるぐるぐる回して〜回して〜飛んでって〜」

不意打ち並みの危険を伴ってフォーク君が突如踊り出した。それは本人は気付いていないのか、止まるという概念が欠落している。

「あ、フォーク踊るな!」

とんとんと回転するごとにクライスの腕に当たっている。確かに、今のクライスはボールを片手で押さえながら木ベラを握っている。その状態でのタックル(?)はかなり危険なものにしか見えない。

「フォーク君」

わたしは責めるような強い語気で彼の名を呼んだ。しかし、悦に入っているような転がし出した雪玉みたいな彼を一体誰が制止できよう。さすがに、ここは実力行使しかない。心なしかクライスが止めてくれとアイコンタクトを送ってきている気もしなくもない。

クライスの背後を通ってフォーク君の肩をむんずと掴む。それは丁度扉を固定する止め具みたいな役目だったが、みごとに果たせた。

フォーク君の回転が無理矢理止められて、彼は眠りから覚めたようにぱっと大きく目を見開いた状態だった。

「あれ?」

「危ないわ。まだ木ベラだからよかったけれど、これが包丁だったらさすがのクライスも指切り落としてるかもしれない」

「いや、クレイン。それは大げさすぎるだろ」

突っ込みを入れるクライスの顔が、真剣だ。さすがに切り落とすは刺激が強かったのかもしれない、とちょっと反省する。けれど、その分の効果は果たしたみたいだった。フォーク君はなにやらよくわからないと顔に書いてはいるものの、申し訳なさそうだった。

「言いすぎちゃったよね」

「ん……ま、な。でも、フォークらしい喩えといえば、らしいと思うけど」

ぷいっとそっぽを向いたクライスに、フォーク君は少し苦しそうに、けれどもゆっくりと優しい表情を浮かべていた。

「ありがとう」

「わたしに対してもこれくらいの気遣いはあっても良いと思うんだけれどなー?」

わたしはわざとらしく不満に満ちた声を上げてクライスを見やる。すると、クライスは頬を掻きながら視線を宙に泳がせていた。その先には何もないというのに。

「え〜と、それはまた違う問題でだ、な」

なんともつらそうに言葉をこぼすクライスに腹が立たないこともない。まったく、一体どうしたらそんな性格になるというんだか。反論したくなったけれど、そこは大人、ぐっと堪えることにする。

「そうね。今は、頑張ってバターとかしてね、お兄ちゃん」

頬の表情を崩してわたしが告げると、クライスは喉に餅でもつまらせたような顔をした。失礼だと思うけれど、クライスだから仕方がないか。そう考えをめぐらしつつ、ボールの中を上下するバターをじっと見つめることにした。

 

それからは、腕がつりそうになっているクライスを見かねたわたしがバターをまわした。そしてさすがに普段使っていない筋肉を働かせるということになると、すぐに腕の筋肉が悲鳴を上げてしまった。そのため、フォーク君に木ベラを受け渡した。その彼が軽快で力強い音を奏で出したときには目を疑った。さすが百戦錬磨の料理人。その腕前は素人を驚嘆させるほど。パフォーマーといっても過言じゃないと思う。

「うへぇ〜。よくそんなにできるなー、フォーク。腕痛くない?」

クライスが真夏の陽光照りつける中必死に走りまくったような顔で尋ねていた。調理台ことテーブルの上にのしかかっている姿はだらしない。

「うん、痛くはないよ。でも、ちょっと疲れちゃう」

「疲れる、か。わたしたち以上にハイペースでかき混ぜていたのにそれだけで済んじゃうんだから。すごいわね」

わたしが褒めると、フォーク君はひまわりのような笑顔で喜んでくれた。その幼さが満面に残る表情は、とても年上とは思えない――ということは内緒だ。

「しかし、料理ってけっこうハードだよな……」

軍事訓練に比べたらよっぽどましだと思うのだけれど。

仕事で身体鍛えてるような人が言う台詞とは思えない。けれど、そうとう性に合わないんじゃないかと疑ってしまう。いや、そうに違いない。

「うん。なかなか凝っちゃうといろいろかさんでもぅ大変なんだよー。いくら買ってもすぐに材料とか、調味料とかなくなっちょうから買いだめしようとしても一週間も持たないもん。二人でも」

「んと、あの手で持つと持ち手がくい込んでくるくらい大きいビニール袋を両手に提げて。……おいおい、それって相当きつくないか?」

「? どういうこと?」

クライスはよくフォーク君に犯罪的なくらいべったべったとくっついているからわかるのだろうけれど。わたしにとってすればその解説だといまいちぴんとこない。そのことをちらっと横目で見ただけで理解してくれたフォーク君は、

「つまり、両腕がつりそうな重い〜おも〜ぉいビニール袋を持って、ちょっと遠いスーパーまで買いに行ってるの。それに比べたらこのバター君は楽だよ。皆も手伝ってくれたし」

それは皆でやると決めたからだ、とは口に出して言わない。なにせ、フォーク君のこれこそ致命的な一撃とも言えるくらい、大きな攻撃力を持つ瞳がすごくパンチになった。

「何を今更。皆でやるって決めただろ?」

とても得意げに語るクライスはかっこいいといえばかっこいい台詞を吐いた。しかし壁に大きくもたれた姿だ。……やっぱっり情けないと思う。

「うん。じゃあこれでバターも溶かし終わったから後は」

とそこで言葉を切ると、フォーク君は木ベラをボールの上に置き、ふところからまた調理雑誌を取り出した。いつの間にそこにしまっていたのかわからない。すごいと褒めるべきなのか。それとも、実は四次元ポケットとかそんなアニメのオチとか。

「クレイン、そんな真剣にフォークを睨まなくても良いんじゃないか?」

心配そうにわたしの顔をのぞきこんできたクライスに指摘されて、気がついた。相当顔の筋肉が凝っている、という事実に。

「ん、気がつかなかったわ。集中しすぎたみたいね」

そういいながら、苦笑する。そんな睨むつもりは欠片もなかったから、心の中で謝っておく。幸いにして、フォーク君は調理雑誌の記事に夢中でこちらには気がついてなかったみたいだから。クライスがなんだか不機嫌そうにわたしを見ているような気がするけれど、それは無視するに限る。構っていたら喧嘩に発展しかねないから。

「ああ。たまには休まないと、後から返ってくるぞ」

そう告げるが早いか、クライスは不自然にフォーク君の方を向くと、じっと見つめはじめた。それはわたしにとっては不自然な行為にしかみえなかった。

わたしに向かっていったのか、それともフォーク君へ向けたものなのか。

どちらにしろ、心地いいものじゃないのはわかっているから、肘で腰を打ってやる。それから何事もないように視線を逸らした。心なしか、どこからか痛い視線が突き刺さるような気がする。

「わかった〜。次は電子レンジ対応の大きなボールに小麦粉……の前に水とバターを入れてから、薄力粉を小さじ1入れます」

指で文章をなぞりながら読んでいるフォーク君に、わたしたちは頭を縦に振った。

「ところでさ、薄力粉ってなんだ?」

きょとんと首をかしげたクライスに、わたしもさすがに目を点にした。

「小麦粉の種類を現しているの。だから、言ってしまえば小麦粉のこと」

「うん、そういうことだよ〜」

にこっと幼くとも温かい笑顔を浮かべて丸をくれると、さすがのわたしも笑顔がこぼれる。たしか年はそんなに離れていなかったはずだけれども、わたしより年下に見えた。

「小麦粉っていろいろあったんだ」

本当に知らなかったのだろうか、とわたしは勘ぐってしまう。しかし、その様子を見ると予想が当たってしまったと言葉がなくてもわかってしまい、苦笑した。

「まったく、そのくらい知っておいてよね」

「ははは。買い物くらい行かないとだめかなー」

と目線を逸らして答える彼に、わたしは無言で頭を縦に振った。仕事に必要はなくとも、生活する上でその程度のことは知っていて欲しかった。

「あ、じゃあ今度一緒に買い物行こうよー」

行こう行こうと目をらんらんに輝かせている姿は、どうして十七の高校生に見えようか。いや、見えない。

「ん、それいいな〜。フォークと二人っきりってのがなんとも」

アルコールも入ってないのに舞い上がる兄はバカだ。今にも片足で体を支えてくるくる回ってしまいそうな勢いだ。

「ん、クレインちゃんもどうかな?」

バカ兄にばかり気にしていないのがフォーク君のいいところだ。ちゃんと周囲の人にも気が回る彼は立派だと思う。それにわざわざ話を振ってくれたから私も答えないわけには行かない。

「そうね……日にちによるわ。開いている日なら問題ないんだけれど」

「そっか〜。じゃあきちんと考えないとね」

ふむふむと納得したように瞳を閉じたフォーク君に対して、バカ兄は目を修羅のようにとがらせていた。まさしく邪魔者め〜っという怒りを無言で放っている。別に問題はないけれど。

「ありがとう」

素直に感謝を込めるとフォーク君もくすぐったい笑顔を浮かべて頭を縦に振った。

「ううん、どういたしまして〜♪」

あ、フォーク君も踊り出してしまいそうに浮き足立っている。それはそれで問題ないか。

――ってそんなこともないと気がついたのは一瞬後。視界の中に放置された哀れなボールたちを見た。

「ボール」

と呟くと同時にクライスの驚きの声が上がった。

「おおっ、て忘れてた!」

目を大きく見開いた彼は、慌てた様子でフォークの顔に瞳を向けた。はっと気がついたフォーク君も現実へ召還されてあわわと混乱した様子で頭を抱えた。

「えっと、それじゃあぼくが電子レンジ対応のボール持ってくるから、二人は他のよろしく!」

びしっと司令官らしく指示を残すや否や、さっと風のように流し場へと向かった。といっても距離はさほど離れてはいないからそこまで大げさにすることもないけれど。

「他のって、なんだ?」

すっとぼけたことを平然と口にする。

「あのねぇ。これ見て次の仕事決めるってことしない?」

フォーク君のおきみあげ、もとい料理雑誌を手にとってバカ兄に提示した。すると、手をぽんと打って納得したようだった。

「ん……と。特にないみたいだな」

きっぱりと告げた兄に、わたしも頭を縦に振った。どう読んでも、しばらくは電子レンジ対応とやらのボールがくるまでお預けとある。ちょっと悔しい。

「そうね。早くフォーク君来ないかしら」

と口に出した瞬間だった。

ばたんっと尻餅をつく音が耳に届いた。それを聞いた途端、クライスがすぐに駆け出した。

わたしはしばしの間動けずに、瞬きを繰り返すしかなかった。数秒たって、やっと体が動いてくれた。そしてなるべく早足で現場である台所へと向かった。

そこには、ボールを手に両手を上げたフォーク君の姿があった。きゅう、と頭を床の上に乗せて、目を回しているようにも見える。その傍らに兄が心配そうに声をかけていた。

「大丈夫か?」

「うん、大丈夫〜」

と口では言っているものの、目がくるくる回っている。その姿に、わたしはどこも大丈夫ではないのでは、と突っ込みたくなった。

「ボールは割れなかったよ」

「フォークの頭が割れたらどうするんだ!」

と心配のあまり力んでいる兄に、わたしは軽く溜息をついた。

「そう簡単に割れたら大変でしょう。それよりどうしたの? こんなところで背中から倒れるなんて」

なんだかありえない光景を見せられたようで、わたしは軽く息をついた。

「えーと、たぶんぼーっとしてたから」

ぼーっとしていたからといって、背後から倒れる理由にはならない。そう心の中で突っ込んでおき、わたしは軽く溜息をついた。

「それなら普通前に転ぶでしょう……」

呆れて言葉を吐くと、フォーク君は目を丸くして固まってしまった。そのまま石像になってしまう勢いを感じる。がしかし、後ろに倒れこんだことはいいとして。

「今日、どうかしたの?」

何をどう見てもおかしいことばかりの彼に、わたしは遠慮なく問いかけた。それについてはクライスも頭を縦に振っている。

「まったくだ。後ろに転んだことは褒められるけど、ふつーに考えて料理中にフォークがこけるなんてことがありえないだろう? 命の次に料理が好き、みたいなやつなんだし」

言いながら真剣に目を見て言葉を紡いでいく。彼を知っている人にとってみれば、どじばかり踏む彼はおかしいことこの上ない。

それを感じ取ってくれてのだろう。フォーク君は口を閉じて目を伏せた。

「来るのわかってたのに、寝ちゃったんだもん」

拗ねた幼子のような言い方に首を傾げる。しかし、そんなわたしとは打って変わって、兄はじっと視線を逸らさなかった。一字一句聞き逃さない姿勢はみごとだった。

「クライスくんたちが今日来るって知ってたのに。ぐっすり寝ちゃったらなんだかごちゃごたしちゃって」

「ごちゃごちゃかごたごただろうな。ってよくわからんが……。

なんだ、そんなことで慌ててたのか」

あっさりと告げるクライスに、フォーク君はむっと明らかに機嫌を損ねたようだった。

「そんなことってないでしょー! そんなことって!

時間は守らないと」

「友達だろ? フォークが時間破ったって待てりゃいい話だろ?」

それが当たり前と言うように、彼は微笑みを浮かべた。

「えっと……。でも」

「時間に遅れそうになったからって、怒るわけねえだろ? 買い物じゃあるまいし」

「まったくね。居間で待たせてもらうなり、手段はいくらでもあるから」

とりあえずまともに励ましているクライスに便乗して、言葉を付け足す。バカ兄とは違って、フォーク君はしっかり者だから。多少そういう日があったっておかしくともなんともない。

そう、バカ兄ではないんだもの。

「クレイン、さっきからなんか痛いんだが、何かが」

ぼそっとクライスが言ったようだけど、気にしない。

「気のせいよ」

とさらりと受け流しておく。これで完璧だ。

とても不満げに口を尖らせてる兄がいたが、そんなことにいちいちかまっていられない。

「ふふ、仲良しさんだね」

くすっとフォーク君が機嫌よく笑ってくれた。しかし言葉の意味が深い。どこを見たらそう思えるのか今度ためしに聞いてみようかしらと考える。

「あーだといいな。ほら、フォーク。ボール持っててやるから立てよ」

あっさりすぎるほどあっさりとフォーク君の手の中のボールを引っつかんだ。からっぽになった手をしばし見つめてから、フォーク君は起き上がってゆっくり立った。

「ありがとう、クライスくん」

てへへ、と笑みを浮かべながら放たれた言葉は極上だった。それにクライスは大人気なく照れたようだ。そうしていればそれなりに年相応なのに、変に気張るからかたっ苦しく見えるのよ。

「じゃあ続きいきましょう。早くしないと夕方になるわよ」

真面目に冗談を言ってみたのだけれど。二人とも頭を縦に振って同意した。至極真面目な返答に、わたしの方が困ってしまう。

なんだか期待はずれで寂しいというか敗北感が込みあがってくる。うう。悔しいけれど忘れてやる。

そう心に誓いながら、わたしは二人より先に調理台代わりのテーブルへと戻っていった。

 

テーブルの上に持ってきたボールを置くと、わたしはフォーク君とクライスの二人を見つめた。料理が得意のフォーク君は、今日は珍しく不調。そして、料理なんて食べる専門といわんばかりの兄。そして、どちらかというと料理は初心者のわたしの3人で、フォーク君の家でシュークリームを作っていた。

「で、次は何をすればいいんだ?」

「さっき言ってたでしょう? 水とバター、そして薄力粉を小さじ1だけボールに入れる」

わたしがそう告げると、クライスはふむふむと納得したように頭を縦に振った。そして、フォーク君が出してくれたボールの中に、バターと水を入れる。

……何か、こうやってボールの中で混ぜた瞬間、違和感を覚えた。しかし、それが具体的にはわからないので、わたしは首を横に振って気にしないようにした。

「なんか、水が多いような」

じゃぼじゃぼとボールの中で揺れるバターの油を浮かせた水。

「って、どうみても多いってことか? このままシチューとか作れそうだしな」

「笑い事じゃないけれどね」

はははっと笑みをこぼしたクライスに釘を刺してから、わたしは息を軽くついた。

「だいぶ減らした方がいいと思うわ、これ」

「なんなら一からやり直す……?」

と、大胆な提案をしてきたのは、テーブルに隠れようとしつつ頭を出していたフォーク君だった。

「それ指示したのぼくだし。それに、その……やり直した方がいいと思うんだけど」

「でも、それってもったいないだろう? 単にこれから水減らせばいいだけの話だぜ?」

クライスが珍しく気の利いたことを口にしていた。その言葉にはわたしも頭を縦に振った。

「そうよ。多少分量違っても、材料無駄にするよりはましでしょう?」

「う――ぅん、そうだね」

そこまで言ったからだろう。フォーク君もさすがに納得してくれたようだった。

「じゃあ、まず水を3分の2くらいになるまでとらないと」

「それは、このスプーンでやっちゃっていいよな?」

すっとどこにしまっていたのか。新品の銀のスプーンを取り出した。

「わたしも手伝うわ。水を入れるお皿はこれ使っていいかしら?」

「うん。これがいいかな? 深いし、たぶんだいぶ入ると思うから」

「じゃあ決まりだな。ってことで、水すくいっ! やるぞ〜!!」

気合を入れて張り切ってボールから水をすくい出すクライスを見つめつつ、わたしはさりげなくお玉を入手してからそれに参加した。わたしの道具に目を見開いて驚いたようなクライスを尻目に、わたしは遠慮なく水をすくってはフォーク君が用意したお皿の中に移し変えていった。わたしの使った道具が優秀だったせいだろう。その作業は思っていたよりもずいぶん早く終了した。

「これでたぶん大丈夫。だからあとはこれに薄力粉をほわ〜っと入れて」

フォーク君が小さじのスプーンですくった白い粉をバターと水の中へそそいだ。

「そして、電子レンジで沸騰するまで、過熱します」

「おー」

と返事をしながらクライスはボールを持ってレンジの蓋を開いて中へと入れた。

「時間はいくつだ〜?」

「一応3分で〜」

雑誌に目を落として告げたフォーク君の言葉通りにクライスが時間をセットした。そして、スタートの合図のようにうぃーんとレンジが音を出した。

「この間に次の準備をしよう。えっと、絞り袋が必要なんだ」

「あのケーキのデコレーションに使うやつだよな?」

「どこにあるのかしら?」

 わたしがきょろきょろと辺りを見回すが、特にそれらしいものは置いてないようなので、フォーク君の指示を待つ。

「んと、ここに入ってるかな?」

といってレンジの下にある棚を開いて、中のものを取り出しながら目的のものを探す。

「これ一度やってみたかったんだよな〜!」

と嬉々として告げるのはクライスだ。いつの間にか雑誌をのぞきこんで期待に胸を膨らませていた。

「でも、デコレーションじゃないからね、やるにしても」

「む、そっか」

残念そうに呟きを漏らしたクライスは溜息をついた。わたしも軽く息を吐いてから、デコレーションという言葉で新たにやることを見つけたような気がした。

「フォーク君、シュークリームにクリーム挟まないと」

「あ、忘れてた!」

と叫ぶと同時に立ち上がると、フォーク君は急いで絞り袋をぽん、と置いた。

「そのために用意したものもたくさんあったよね。えっと、じゃあクレインちゃんに頼めるかな? このページに書いてあることを参考にしてもらえればできるから」

「ええ。やってみるわ」

フォーク君の言葉に頭を縦に振り、わたしはざっと載っていることに目を通した。

「とりあえず混ぜればいいって話ね。あと金属製のボールと氷を入れた水があればいいのね」

やることを口にして確認していると、ちんっと音が鳴って時間の終わりがきたことを告げられた。それでフォーク君たちが動き出す姿を横目に、わたしは金属製の大き目のボールをテーブルの上に置いた。そしてそれよりも一回り大きいボールを探して辺りを見渡したが、特にめぼしいものはテーブルの上には見つけられなかった。

「ないわね……」

呟いてから、顔を上げる。その先にはフォーク君が薄力粉をボールの中に注ぎ込んでいるところだった。そして、木ベラを持ったクライスがしゃかしゃかかき混ぜ始める。ちょうど、フォーク君の手が空いたところだった。

「フォーク君、ちょっといいかしら?」

「どうしたの?」

「この大きさより一回り大きいボールってあるかしら?」

そう告げると、フォーク君は眉を寄せてから目を閉じた。

「ちょっと待ってて」

と告げると台所へと向かう。わたしはその後ろをついて彼の行動を見守ることにした。

「ここにあったようななかったような……」

しゃがみこんで台所の下に顔を入れて、がさごそと探し始める。そして、ゆっくりと身を引いてばさっと顔を上げたフォーク君が手に持っていたものをわたしの目の前に示した。

「これじゃないかな?」

「――うん、たぶんこれでいいと思うから……ありがとう」

大きな同じ金属製のボールを受け取って、わたしは微笑んだ。するとフォーク君も嬉しくなるような笑顔を浮かべてくれたので、わたしも断然やる気が出た。それから冷蔵庫から氷をすくってその中に入れるとテーブルに戻る。そこでは、クライスがバターを溶かしたときみたいにボールをかき混ぜていた。

それを横目にわたしは用意してあった生クリームと砂糖をボールの中に入れる。そしてその中にバニラエッセンスをふりかけ、後は混ぜ合わせるだけ。

「っと、混ぜるものなかったわ」

「あ、クレインちゃんこれ使って〜!」

と振り返った瞬間、差し出された泡だて器にわたしは驚いた。その先にはフォーク君が自信に満ちた笑顔を浮かべていた。

「ありがとう」

「ううん、じゃあ頑張って!」

と言い残して彼はクライスの元へ向かった。その手の平の中には卵の姿があった。

「じゃあクライスくん、そのくらいでいいよー。次にまたレンジの中に入れるから〜!」

「ん、そうなのか?」

と首をかしげながらもクライスは手を止めて、ボールをレンジの中へ入れた。それを横目で見つめながらわたしはかちゃかちゃと材料をかき混ぜる。あまりよそ見をしているとこぼしそうで危険だからそこはちゃんと注意する。

レンジの作動音を耳にしながら、あわ立てていく。お菓子を作っている、という図と考えて簡単そうに想っていたけれど、自分の甘さに気づかされた。

「これって意外と難しい……」

「木ベラよりは簡単そうに見えるけどな、泡だて器って」

クライスがいつの間にか横に来てわたしが今まで思っていたことと同じことを口にした。

「じゃあ、クライスも混ぜてみる? 方向はこうだから」

「アイスじゃないから関係ないと思うけどな。じゃあ行くぞ」

わたしが泡だて器をクライスに貸すと、彼は軽快にそれを混ぜ始める。ボールを押さえる手つきといい、なかなか侮れないかもしれない、と思わせるほど綺麗に手が動いていた。悔しいけど、わたしより上手い。

「って、クライスはアイスなんてもの作ったことあったの?」

「ん、学校であったぞ? ちっちゃい頃だから忘れてたけど、アイス作ったことあったんだ」

「へぇ〜。氷の上でアイスの缶を蹴ったりした?」

フォーク君が興味深いと言いたげに目をらんらんと輝かせた。それにクライスはむぅ、と手を止めて思い出すように考え始めた。

「いや、しなかったと思う。外で遊んだのはたしか」

と口にした瞬間、ちんっとレンジの終了した音が響き渡った。

「おっと、もう出来たみたいだな」

「続きだねっ!」

そう言って去っていくクライスから泡だて器を返してもらって作業を再開する。だいぶ固まってきたようで、クリームっぽくなってきていた。

「さ、卵もほぐして……」

フォーク君がそういいながら卵を割っている音が聞こえた。かちゃかちゃとかき混ぜる音はクライスのものだろう。

「じゃあ入れるよ〜」

フォーク君の声と共にクライスがかき混ぜていたボールの中に卵が入れられる。それをよく生地と混ぜ合わせるように木ベラを動かし、それの繰り返しが延々と続いた。

その頃になるとわたしが作っていたホイップクリームも形になってきていた。これならもう充分大丈夫なような気もする。

「っと。これで最後だよ」

「ああ。一気に入れてくれよ」

その一言でフォーク君は中に入っていた黄身をすべてその中に流し込んだ。それはあっという間のことで、あとはクライスが少しつらそうな表情でぐるぐると木ベラを動かした。

「えっと、生地がゆっくり落ちて行くまでぐるぐる続けて〜」

「ああ。ってそれはなかなかきついな」

苦笑しながらかちゃかちゃと手を止めずに動かし続けるクライスを見つめつつ、フォーク君はぱらぱらとページをめくった。

「えーと。オーブンの余熱が必要なんだね」

指先で該当箇所をなぞりながら呟くとフォーク君はオーブントースターへ向かい、かちかちといじっていた。

「うん、ここはこれでいいとして。あとは……」

「フォーク、落ちるようになったからこれでいいかな?」

クライスが声を上げてフォーク君を呼ぶ。それを聞きながらわたしの方もだいぶ形になってきていた。

「うん、ゆっくり落ちていくからいい感じ。それじゃあ、次はこれの上に……アルミホイルをひいて」

フォーク君はテーブルの隅にいつの間にか置かれていたアルミホイルのケースを取り出すと引き出して、長くアルミホイルを取り出した。それをオーブンの中に入れるものの上に敷き、筆みたいなもので油を薄く塗っていく。

「これの上に絞り袋でその中身を入れるんだよ」

「これのか。じゃあさっそくやるか」

クライスが嬉しそうに告げると、フォーク君もいつの間にか絞り袋を片手に持っておう、と威勢のいい声を上げた。

「じゃあこのヘラでボールの中身を移していって」

そう言いながらフォーク君が広げた絞り袋の中にクライスはどんどん生地を流し込む。そうして絞り袋はどんどん大きくなっていき、クライスが最後の最後まで使おうとヘラでボールの中身をかきだして注いだ。

「これで最後、と」

「そうだね。これで後はしぼりだしまーす。はいクライスくん」

「おー、おれがやるのか」

と言いながら膨らんだ絞り袋を受け取ると、アルミホイルの上にそれを一つづつ落として行く。慎重な手つきから真剣に取り組んでいることが伺えた。一つ二つとできていく塊は、その数を増やしていき、とうとう7個の玉がその上に誕生した。

「えっと、これに水をぬらしたフォークで軽く押さえる、と」

工程を口に出しながらフォーク君は3つ又のフォークを水でぬらして、それをぽんぽんとその玉の上に押さえつけた。

「っと、これであとは余熱ができるまで待つだけだね」

「まだなんだな」

つまらないという様子のクライスを横目で見つめながら、わたしも手を止めた。

「あ、クレインちゃんそのくらいでいいよ〜。綺麗にできてるよ!」

とわたしがかき混ぜていたボールの中身をのぞき見てフォーク君が告げた。ただ、クリームに綺麗とかあるのだろうかと考えはしたけれど。

ちょうどその時、オーブンの余熱が終わった音が聞こえた。それに驚きと期待の表情を混ぜたフォーク君が振り返った時には、クライスが手にシュークリームの生地がのった皿をもって立っていた。

「もういれていいよな?」

「うん、お願いします」

フォーク君の言葉を聞くとがちゃっとオーブンの蓋を開き、中に皿を入れる。それを静かに見つめながら、わたしは泡だて器をボールの中に立てかけた。

「どれくらいで焼けるかしら?」

「ん……えっとたぶん2,30分はかかるかもしれないや」

あはは、と乾いた声を出してフォーク君は告げた。よくわかっていないみたいだけど、間違いはないだろう。

「ねえ、フォーク君。一ついいかしら」

「ん。どうしたの?」

わたしが一つ疑問に思うことを口にするとフォーク君は小さく首をかしげてわたしの方を見つめた。

「このクリーム作るの早すぎたわね」

「……あ」

「ごめんなさい。わたしもそこまで頭が回ってなかったわ」

「ううん、そんなことないよー」

ぱたぱたと否定するように手を横に振って、フォーク君が笑った。

「大丈夫だいじょうぶ〜! 冷蔵庫で冷やしておけば問題ないよ」

と自信満々に言ったように見えたけれど、その頬に冷や汗が流れた姿が見れた。

「とりあえず。今焼いてるものが焼けた後もまだ焼けるからその準備とかしないとね」

「やることたくさんあるんだな」

他人事のように告げるクライスを、わたしは手の甲で軽く小突いた。

「ほら、暇なら使用済みの食器とか洗うわよ」

「わかった」

いい返事をしているようでやる気のなさが行動にわかりやすく現れていた。ちらちらとフォーク君の姿に病み付きになっていた。そのなんとも情けない姿に溜息を漏らすと、わたしはクライスの腕を引っ張った。よっぽど動きたくなかったのかもう少しだけという呟きが聞こえていたけれど、わたしは気にしないでその身体を流し台まで連れてきていた。

「さ、やるわよ。これくらいやらないと申し訳立たないでしょ」

「フォークに対してか? それはぁ〜」

その言葉に返答する前にわたしは流し台に置かれている汚れた食器や調理器具を見つめた。

「思ったより少ないみたいだから、さっさと終わるわ」

「あー、そっか」

「ぼくもなにか手伝いたいなー」

ひょこっと顔をのぞかせてきたフォーク君がちらっとわたしに視線を向けた。それに答えるようにわたしは微笑を浮かべた。

「フォーク君は、そうね。クライスが洗い終わったものを片付けてもらえない? 場所がどこかはさすがにわからないから。それまでやることないんだけど」

「そんなことでいいならお安い御用だよ。じゃあ、クライスくんが終わるまで待ってるからね〜!」

 そう言葉を告げるとフォーク君はクライスの後ろに立った。その姿を見届けて、わたしはスポンジを手に取り、洗剤でぬらしてからあわ立てる。確か油もののバターを入れた容器が混ざっていたから。それから次々に食器を器具を手に取ると泡で汚れを落として行く。

「お、手際がいいなクレイン」

「食事でさんざん手伝わされてるもの。嫌でも上手くなるわよ」

嫌味を一言付け加えてからわたしはクライスの仕事を増やしてやろうとさくさく手を動かした。クライスは苦笑しながらも手を休めることはなかったため、次々と流れ作業で食器類が片付いていった。

「っと、こんなところか?」

クライスが最後の一つとなっていた食器を置く頃には、わたしもすでに流しから離れていた。今は調理台として使っていたテーブルを水拭きしていた。

そのとき、軽快なベルを一振りしたような電子音が耳に入った。

「あ、できたでーきーたー!」

とやけに子どもっぽい喜びの声を上げると、フォーク君はオーブンに飛びついていた。その早業に目を瞬かせるけれども、がちゃっと音を立てて開いた中身に驚いた声が聞こえた。

「うわー。良い出来だよ〜!」

弾んだ声色がテーブルの上に焼いていたシュークリームの皮が入ったものを置いたことがわかった。

「できたのか?」

その声からして、クライスはテーブルからコンロの上に置かれたそれを覗き込んだようだった。それに答えて、嬉々とした雰囲気をまとった声が降ってくる。

「良い感じだよ〜!」

花開く笑顔が目に浮かぶ言葉に、わたしもふきんを片手に彼らの元へ向かった。

「あとは切込みを入れて、中にクリームを挟めばか・ん・せ・い!」

片目を閉じてぶんぶんと左腕を振り回すフォーク君は、見ていて飽きない可愛らしさを振りまいていた。

それを見ていると、やっぱりわたしより年上という事実がかすんで見えてしまう。フォーク君にとっても悪いことだと思うんだけれども。

「よし、じゃあ包丁か?」

「うん、でも普通のでもいいけどたぶんこのパンを切るときに使うやつがいいはず〜」

 るんるん気分で大地を蹴って行くフォーク君とクライスの後姿を見て、わたしは小さく息をついた。そしてちょうど私の近くにあった食器棚から、やけに可愛らしい熊たちが踊っているお皿を取り出した。その時二人も包丁片手に戻ってきた。この二人もやけに嬉しそうに笑みが転がっている。

「なんか、料理じゃなかったら危ない人ね」

「ん? なんか言ったか?」

聞こえていなかったようなので、わたしはなんでもないと言うように首を横に振った。なんだか、二人の姿を見ているだけでも楽しくなってくるから不思議だ。

用意したまな板の上に、熱を帯びているシュークリームの皮があつあつの状態のままそこに並べられていく。その様子を怯えとも取れる表情で凝視しているのはクライスだった。

その姿に軽く嘆息をつくと、わたしは楽しそうに皮を移していくフォーク君の横顔を瞳に写した。

「全部移すの?」

「ううん。少しづつやってくから……クレインちゃんは、クリーム挟むのお願いね。あ、クライスくんもだよー」

声を弾ませて告げる彼に笑みを返して、わたしはクリームを取りに行った。

「って、これだろ?」

とクライスが冷蔵庫に行く道を阻むように差し出したボールには、白いクリームが入ったボールがあった。

「ええ。これだけど。でもどうしてクライスが持ってるの?」

「あ、そこに置いてあったから」

そう言って指で示された方向は、どうみてもわたしが考えていた方向とは違っていた。どうみても、常温保存のテーブルのすみに置かれていたようだった。いくら誤魔化そうとしても、それはどうも変えられない事実のようだった。

「ぁう。ごめんなさい」

冷蔵庫に閉まっていた気になっていただけで、どう見ても放置してしまっていたようだった。これは、謝る以外のなにもできなかった。

「ううん。たぶん問題ないからだいじょ〜ぶっ!」

根拠の見えない肯定で励ましてくれるフォーク君。しかし、それはわたしの方が問題がある。

「大丈夫じゃないわ。さすがに置きっぱなしは悪くなる」

「大丈夫大丈夫。焼いてる間だけだから、それでお腹壊すほど弱くなければ問題は〜、ナッシング!」

ぐっと親指を立てて告げフォーク君にわたしは小さく溜息をついた。

「そうだな。食べるのおれたちだし。問題はねーな?」

にっと歯を見せて笑うバカ兄はそもそもフォーク君の言うことなら正しいと信じているに違いない。

確かに、料理にかける歳月も知識も知恵も、フォーク君には敵わないけれども。

「……でも、そうかもね」

「野菜や卵じゃないしね。一日置いたわけでも、真夏日でもないから大丈夫!」

思いっきり自信満々に告げる彼の笑顔を信じて、わたしは後ろめたいものをひしひしと感じていた。しかし、いつまでもそれにとらわれているわけにはいかないので、彼の手伝いをすることにした。

フォーク君の手の中には、しぼりの袋がしっかりと握られており、ヘラで中身を次々とクリームを詰め込んでいった。

「はい、クレインちゃん。これでクライスくんが今皮に切れ目入れてくれてるから、そこに……」

そこで意味深に言葉を切った彼は、しばらく探しているように視線を彷徨わせた。

「おいしそうに、はさんでぇ〜!」

頼んだっ! という意思がひしひしと伝わる言い方に、わたしは頭を縦に振った。

口で伝えられるものではないということも察することができた。だから、手に持ったしぼり袋を手に、シュークリームの皮の切れ目にその先端をさし入れる。そして胴体を握るように締め上げると、中からクリームがふわっと玉になって現れた。

「――これでいいかな」

どのくらいが正しいのかわからない。けれどものぞきに来たフォーク君がとても嬉しそうに微笑んでいるので、そのまま続けることにした。

なかなか一つ一つを丁寧に入れるには集中力が必要で、なかなか疲れるものだと感じる。

「よし、最後がこれで終わりだな」

と声を上げたのはクライスの、包丁が置かれる音と重なっていた。

「ってことで、これで最後だクレイン」

「わかったわ」

声だけで返事をしながら、あと半分のクリームを丁寧に差し込んでいく。

そうしてできあがっていくシュークリームを、一つ一つ大皿に移していく様子は、フォーク君らしかった。

甘い香りにくすぐられて、食欲がそそられる。

これは案外厳しいかもしれない、と内心で考える。お菓子だから食べ過ぎるとちょっとお腹にきついと思ったりはするのだけれど。

「へえ。上手くできたんだな」

兄の声が耳元ですぐに聞こえて目を丸くした。思わず手元が狂いそうになったことで文句を言おうとも思ったのだが、すぐ首を横に振った。

「お世辞言ってもなにもないわよ」

そう強気に告げるが早いかクライスの腕が中身の詰まったシューを奪っていった。

「――って、なに人のとってるのよ馬鹿兄」

と言うより早く、振り返った頃にはその口にダイブさせられていた。

「んんじゃ、ねーかそんなこと」

さらり、となんでもないことのように告げる馬鹿兄は、けれども嬉しそうに呟いた。しかし、その前に飲み込めばいいものを、という突っ込みはひっこめておくとして。

「そんなことよりも、ちゃっちゃと味見してみろよ」

差し出してくる作りたてのシュークリームを、溜息と共に受け取って口の中へ放り込む。心なしか、フォーク君に見つめられている気もするけど気にしないでおく。

さすがに一口で済ますのは無理なので、クリームがこぼれないよう注意して一口いただいた。さくっとしていない皮に違和感を覚えながらもクリームのほどよい甘さが広がる。

「まあまあね」

「だな」

平然と告げる兄妹の感想にフォーク君は目を見開いていた。様子からして失言だったかと身構えてしまったのだが。

「そっか……むぅぅぅ。はぅ」

なにが頭の中で働いていたのか、暴走するかと思いきやがくっと頭を垂れてうなだれてしまう始末。

「フォーク?」

クライスが心配そうに彼の姿を見つめていたかと思えば、急にフォーク君は顔を上げた。

「やっぱり不調が祟ったのかもしれないの。うぅ。クライスくんやクレインちゃんの手助けがあったからここまでおいしいものが作れたんだけど……」

申し訳ない、という気持ちがあふれ出ている様子はらしくない姿だった。そのせいか、ぱんっと小気味良い音を立てて、クライスがフォーク君の背中を叩いた。何事かと目を白黒させて驚くフォーク君にクライスは微笑を送っていた。

「フォークらしくないだろ。そんな姿」

「でも……」

「フォーク君が指示してくれたからここまでできたんだから。手伝ってくれなかったら、ここまでいい味にはできなかったわ」

笑顔と共に放った言葉はフォーク君の胸を直撃したみたいに、彼の顔は見る見るうちに涙が溜まっていく。

「おいおい」

「ふわ〜! うっれしいよー!」

言うが早いかだんっと力強く大地を蹴るや否やわたしたち二人の首をがしっと掴む。そのあまりの強さに苦しいのだが、フォーク君は喜びながら笑っていた。

その声につられてか、いつの間にか姿を消していたツキさんが顔をのぞかせていた。

「ん、できたのか?」

目を丸くして判断つかない状況に目を瞬かせながらツキさんが微笑みを浮かべた。

テーブルの上のシュークリームと、フォーク君に束縛されているわたしたち兄妹と。

「――じゃあ、準備しとくから」

「おいぃ〜!」

助けてくれないのか、と悲痛な叫びを含ませたクライスの声は流されていく。それもそのはず、すでに背を向けているツキさんはさっさとお皿の準備に取り掛かっていたのだから。

「きょうは〜! お菓子パーティだっ!」

元気よく弾む声を上げて、フォーク君が振り上げた手の平は天上に咲いたのだった。

 

 

「そんな楽しいことがありましたのね」

上品な言葉がとても似合っている透明な声に、わたしは首を何度も縦に振った。

「そうそう、それでその戦利品がこれ」

よく陽が入る金髪の友人、メリテェアの目の前にラッピングしたシュークリーム5つ入りを置いた。

「あら、こんなに……」

「うん。ま、それは家に帰ってきてから作った分が入ってるんだけどね」

言いながらわたしはメリテェアが用意してくれた紅茶を口に運ぶ。この香りの豊満さがたまらなく心を落ち着かせてくれるものだ。

「いえいえ。手作りは本当においしくみえますわ」

笑いながら紐解いて、あらわになるのはシュークリームたち。

それに笑いかけながら、メリテェアは小さめのシューを口に含んだのだった。静かに食べる彼女の様子にちょっと心臓がどきどきしながらわたしは見届ける。

どうだったのだろうか。その感想が欲しいようないらないような、複雑な心境が胸の中をぐるぐる回った。

「おいしいですわ」

ふわっと花が開いたような笑顔に、わたしは安堵の息を漏らした。

「ふぅ、よかった〜。口に合うかちょっと心配だったのよ」

それはわたしと兄の二人で、家に帰った後に再チャレンジしたシューだった。今頃、フォーク君に食べさせているのだろう、とさしこむ陽光に笑いかける。

すると、ノックの音が聞こえた。それにはっとして振り返る前に、その扉の前に一人の青年の姿が見えて目を瞬かせた。

「あ、ファーガルさん」

「お邪魔だったかな?」

メリテェアが名を告げたのは、緑色の綺麗な髪をした大人の男性だった。どことなく、中性的な雰囲気をもってはいるが、それ以上に山とかすきそうなアウトドア派に見えてしまった。

「いえ、っというかどちらさま?」

わたしがつい答えてしまって、メリテェアの困った顔に問いかける。それを見て彼も失敗したような表情をしたけれど、わたしは気にせずファーガルさんとやらを見つめた。

「あ、彼女のお姉さんと仲良くしてもらってる、ファーガルだ」

「そうですの」

と話をあわせたように相槌を打つメリテェアに不審な視線を送りながらも、わたしはその緑の髪の人をまじまじと見つめた。

「はじめて聞いたけど……恋人とか?」

「残念ながら、そういう仲じゃないなぁ」

いいながら、ちらっと廊下に顔を引っ込めてしまった。しかし数秒もせずに言葉が返ってくる。

「ただ、拾われたと言うか恩人、といったほうが正しい関係だ」

きっぱりとした声に迷いがないことを考えると、嘘を言っているわけではなさそうだ。

確かメリテェアの義姉は裏の社会に通じているというから、あまり聞いても悪いかもしれない。そのくらいで追求はやめておこう。

「でも、まだしばらくいらしても構いませんが」

「んー。一応さ、お世話になりっぱなしというのはあんまりいいもんじゃないだろ?」

問い返されて、メリテェアは口ごもる。が、彼はひらひら手を振りながら笑顔を浮かべた。

「っと、邪魔して悪かったなお嬢さん」

それが私に向けられたことと気がついてから、わたしは苦笑いを浮かべる。

「いえ、わたしはクレインです」

名乗られたのに返さずにいるのも非礼かもしれないと思い、告げた途端に目を丸くしていた。

「へぇ。もしやベルドルードさんとこの子?」

「え?」

なぜ急に苗字が出てくるのか不思議で、反応ができなかった。そう、不意打ち、というやつだ。

「あ、いやたいした意味はないんだ。ちょっと昔、お世話になったなって……」

そこまで口にして彼ははたと気づいて自身の頭を小突いた。まるで失敗を誤魔化すように。

「気にしないでくれ。うん、ちょっとな。それじゃ、失礼する」

なにか焦りが感じられたのだが、彼はさっさと身を翻して部屋を出て行ってしまった。

「……あの人、何者?」

ベルドルード、という名を呼ばれるということは、そうそうあるものでもない。

その答えをメリテェアに求めるが、彼女はにこにこと笑いながらシュークリームをかじっていた。

「たぶん、お父様のことをおっしゃっていられると思いますわ」

「父さん? なんで?」

そりゃ昔軍にいたけれど。

「って、ファーガルさん、軍人なの?」

そうには見えない感じもするが、なにより軍で見たことがない。もしかして支部に属しているのだろうか。その辺の探りも入れるようにメリテェアの青い目を見るが、しかし彼女はただ微笑するだけで、答える気がなさそうだった。

「誠実なかたですから大丈夫ですわ、クレイン」

「そう。まぁ、メリテェアが言うなら、信じるけど」

口にして、ふと瞬きを繰り返して彼を思う。まだ、紅茶は湯気を立てていた。