いつ来ても、首都は建物が多くて人がごみごみしているな、と思う。
 住んでいる場所は首都から少し離れた小さな町で、不足無い程度に店はあるしインフラも整っている。人が生活するならあれくらいで十分だとは思うけれど、首都に来るとやはり娯楽や刺激の質や量が違っていて、少しだけ羨ましくもなる。
 何でも揃っていそうな大きな書店があるのが、一番羨ましい。自分の知らない、知っていてもまだ浅い知識の宝庫。それでいうなら図書館や博物館などの施設もそうだ。しかもそこまでのアクセスが非常に良い。
 地元は大好きで、一生そこでのんびり暮らせるのが理想ではあるけれど、それでもたまに訪れる首都レジーナから帰りがたくなる気持ちがなくはないのだ。
「トビ、待ってたぞ。助かるねえ、わざわざ配達してくれるなんて」
 目的地に到着すると、恰幅のいい男性が迎えてくれた。父のお得意様で、俺たち兄弟のことも可愛がってくれている人だ。
「来年の秋には自動車を運転できるようになるので、もっと早くなるかと思います」
「無理しなくていいよ、首都までの道はあんまり良くないんだろ。それにお前さん、列車の旅も好きだろう」
 どこかに行けるというだけで、乗り物は大体好きだ。頷きながら運んできた荷物をそっと下ろし、相手に渡す。
「ご確認をお願い致します」
「そうだったな。ちょっと失礼」
 覆いを丁寧に取ると、額に入った写真が現れる。大判のフルカラー。被写体は荒野の中に一点、艶やかな緑と輝く水場のある風景。
「いいねえ……。いつも良い作品をありがとう」
「父に伝えます。俺も好きなんですよ、この写真」
 父は写真店を営んでいる。若い頃からの趣味を、念願叶って仕事にした。撮影の腕は評判が良く、こうして首都のお客さんから依頼されることもある。
 あらゆる場所を巡ったことがあり、その土地勘を活かして様々な風景を撮ったり、先々で人物を撮影したりする。自宅に設えたスタジオにやってくるお客さんの記念写真を手掛けることもある。
 俺は父の仕事を手伝って、細々とした事務や経理を担当している。今回のように一人で配達に出るようになったのはつい最近、十五歳になってからだ。
「すぐに帰るのかい」
「いいえ。今日は寄り道をしても良いって言われているので、本を買いに行きます。遅くなったら祖父母宅に泊まります」
「そりゃあいいや。首都を楽しんでおいで」
 配達だけでお金を預からないときは、こんな嬉しいおまけもある。お客さんに挨拶をし、次の目的地へと向かった。

 大型書店にも人がたくさんいる。目当ての本を見つけられた人や、買ってきたばかりの本を嬉しそうに抱きしめる人を見ると、こちらも嬉しくなる。
 本は好きだ。手元に世界を置ける。どこにも行けず何も知らなかった俺が、文字の読み書きから始めて次第に色々な本を読めるようになり、今や小遣いで自分のために長編小説を買えるようになった。そのことを噛み締められるのも良い。
 探していた本はすぐに見つかり、少し昔に出た本も発見して、ほくほくした気分で会計へ。ここまで来た甲斐があった。
 ところがその気分をぶち壊す音がした。重いものが落ちる音に、待ちなさい、と叫ぶ声が続く。どうやらあれは窃盗だ。店の本を持ち去ったのだ。持ちきれなくて落としたらしい何冊かが、無残にも散乱している。
 騒ぎに気づいた人々がざわめきだした。並ぶ列が乱れる。俺も眉間に力を入れて、事態を見守った。
 ややあって、窃盗犯を追いかけた店員が戻ってきた。その後に当の窃盗犯が、両脇を人にがっしりと固められて歩いてくる。
 窃盗犯を押さえる二人は、顔がそっくりだった。双子なのだろうか。片方は黒髪、もう片方は金髪だけれど。
「ハルトライムの双子だ」
 誰かが言ったのが聞こえた。その名前なら知っている。この国の市民代表、文派の長、ハルトライム大文卿。彼らはその一族らしい。
 眺めていると、そんなはずはないのに、彼らと目が合った気がした。
 騒ぎが落ち着くと列は整い、ようやく会計が再開された。手にしていた本が自分のものになり、一層愛しくなる。近くに公園があったはずだから、少しだけ読んでいこうか。店を出たところで、しかし、思わぬことが起きた。
「お前、さっき見てただろ」
 立ち塞がった男性が、俺を見下ろして言う。思い当たることは何も無いけれど、驚きすぎて動けない。
「人違いじゃないですか」
「違ってねえよ! オレの仲間が捕まんの、笑って見てただろうが!」
 絞り出した声に被さった怒鳴り声で、もしかして、と気づいた。先程の窃盗事件を見ていたことで因縁をつけられているのか。笑ってはいなかったと思うけれど。
「こっちに来い。そんで慰謝料を払え」
 何もかも間違ったことを喚いて、相手は腕を強く掴んで引っ張る。本を抱いたもう一方の腕は自由にならず、足を踏ん張ってそこから動くまいとすると、さらに怒らせたようだった。
 その人が現れたのは、相手が拳を振り上げたとき。
「盗みの次は恐喝、傷害か。どうしようもないクズだな」
 ハスキーな女性の声と同時に、相手が両側から取り押さえられる。ちょうど先程見かけたように。
「友達に会いたいなら、おれたちが連れて行ってあげますよ」
「友達は泣きながら待ってますから、一緒に気持ちを分かちあったらいいですよ」
 同じ笑顔が並ぶ。にっこりとしたまま、押さえた男性の腕を後ろに回して捻ったようだ。痛そうな叫びが響く。
「隊長、おれたちは先にこの人をお連れします」
「隊長は少年に気の利いた言葉でもかけてあげてください」
「一番の面倒を押し付けたな」
 彼らの後方に立つ女性が舌打ちをする。琥珀色の長い髪を大儀そうに払い、こちらに近づいてきた。
「お前は早く家に帰れ」
「……家は遠いです。首都の近郊ではありますけど」
 呆然と返事をすると、女性はもう一度舌打ちした。近くで見ると、琥珀色の睫毛の下は若草のような優しい色の瞳だ。ただ、形の良い眉は苛立ちに歪んでいる。
「子供がわざわざ首都まで何の用だ」
「仕事です。家業なんです」
「何の仕事だ」
 家出でも疑われているのだろうか。大体、この人は何者なんだろう。一緒にいた二人は大文卿一族として、この人もそうなのか。
「写真屋です。俺は頼まれた写真パネルを配達に来たんです」
 大文卿の関係者なら、悪いことはできないはずだ。正直に答えると、女性の眉がぴくりと動いた。何か嫌なことでも聞いたかのように。
「名前は」
 短く重ねられた問い。相手の身分がわからないので僅かに躊躇したが、こちらの名乗りは牽制にもなる。使えるものは使えと、父も言っていた。
「トビ・ハイルです。クラウンチェットにあるハイル写真店の長男です」
 クラウンチェットのハイル、と女性が繰り返すあいだに、早くも同じ顔の二人が戻ってきた。彼らは女性の両側にそれぞれ立ち、朗らかな笑顔で彼女の顔を覗き込む。
「隊長、お腹が空きましたね!」
「隊長、ふわふわのパンケーキが食べたいです!」
「両側に立つな、覗き込むな、ステレオで喋るな! 全く鬱陶しい奴らだな」
 虫でも追い払うように賑やかな二人を離すと、女性は眉間に皺を寄せたまま俺に向き直った。
「腹は減っていないか」
 腹の虫が素直に返事をした。

 エルニーニャ王国文部管轄文化保護機構特殊事項対策部隊、隊長メイベル・ガンクロウ――受け取った名刺にはそんな文言があった。
「長いよね。文派特殊部隊って皆呼ぶよ」
「たった三人の部隊だけれど」
 分厚くてふわふわ、クリームとフルーツのたっぷり載ったパンケーキを頬張りながら、同じ顔が揃って言う。
 同じ顔の二人はやはり大文卿ハルトライム家の人間で、金髪の方が双子の兄でノール、黒髪の方が弟でジュードというそうだ。
 濃く淹れたブラックコーヒーを静かに啜るメイベル・ガンクロウ隊長は、まだ不機嫌そうな表情をしている。名刺をまじまじと眺めていた俺に、それをしまえ、と顎で示した。
「まずは腹を満たせ。ここはワッフルも悪くないぞ」
 私は食べたことは無いが、とガンクロウ隊長が複雑な薦め方をするので、頷いて一口いただく。かかっているフルーツとチョコレートのソースが合っていて美味しい。でも。
「なんだ、父親の作るパンケーキの方が美味いか。だから注文も避けたんだろう」
「……父のこと、よく知ってるんですね」
 父はこの国で知らない人がほとんどいない有名人だ。だがおそらくは別の名前の方がわかりやすいだろうし、パンケーキが得意料理であることは近しい人しか知らない情報のはず。
「元部下だ」
 俺の疑問を読んで、実に的確な解答をくれる。しかし父からガンクロウという名前は聞いた覚えが無い。思い出そうとしていると、さらに続いた。
「お前の父親のことはずっと気に食わない」
 なんて堂々とした敵意だろう。いっそ清々しい。感心こそすれ驚きは無かったのは、父がその立場から尊ばれも疎まれもしていたことをわかっているからだ。
「気に食わない相手の息子を、どうして食事に誘ってくれたんですか」
 ワッフルを口に運びつつ首を傾げると、ガンクロウ隊長より先に双子が喋り出した。
「隊長はお腹を空かせた子を放っておけないんだよ」
「隊長の気が変わらないうちにどんどん食べなよ」
 ほらほらもっともっと、と促されるままに食べ進めていて、周囲を気にするのを忘れていた。だからその声は急に上から降ってきたようで、俺は思わず口に入れたものを丸呑みしそうになった。
「お姉ちゃん、こんな所にいた」
 透き通った声だった。それなのに尖っている。横目で確認した声の主は、怒ったような呆れているような表情の女性だ。ガンクロウ隊長と同じ琥珀色の髪を、丁寧に巻いている。
 隊長はそちらを見ずにコーヒーを飲み続け、またもや代わりに双子が応対する。
「リッツェ女史、ごきげんよう」
「リッツェ女史、よくここがわかりましたね」
「探したの。ねえ、約束してた時間は過ぎてるのよ。どうして執務室にいないの」
 何か約束があったのに、ここで食事を始めてしまったらしい。もしや俺のせいだろうか。いや、空腹を訴えだしたのは双子だった。
 ガンクロウ隊長はカップを置き、ようやく涼しい眼差しを現れた女性に向けた。
「厄介事があって昼食を食べ損ねた」
「それならそうと、電話の一本くらい入れてくれればいいのに」
「……あの、すみません。厄介事って俺です。絡まれているところを助けていただいたんです」
 文句が続きそうだったので、おそるおそる割り込んでみる。そこで女性は俺の存在に気づいたようで、あら、と顔を赤らめた。
「ごめんなさい、お見苦しい所を。そういうことならなおさら言ってくれれば……」
 彼女はまだ恨めしそうだったが、渋々近くの席に座った。こちらの食事が終わるまで待つつもりのようで、飲み物を注文している。
「カリン、こいつはハイル家の長男だそうだ」
 一段落ついたところでのガンクロウ隊長の唐突な発言に、女性はぱっちりした目をこれでもかというくらい真ん丸にした。
「え、ハイルって、前の?」
 不満が一切消えた彼女に、隊長はにやりとする。双子は顔を見合わせ、わあお、と声を揃えた。

 八年前、先代大総統が引退した。十四年の任期中、彼は事情により建国の英雄の名を掲げなければならなかった。
 万能の指揮者、ゼウスァート。国民の期待を背負い駆け抜け、ようやく指揮者の名を手放した彼は、首都を離れた。そして現在は記者である妻と三人の子供と共に、のんびりと写真店などやっている。
 前大総統レヴィアンス・ゼウスァート――本名レヴィアンス・ハイルは俺の父であり、人生を変えてくれた人なのだ。
「でもトビ君、似てないよねえ」
「前閣下は炎みたいな髪色だったけど、トビ君は夜の色だね」
 双子が口々に言う。それはそのはずで、兄弟のうち俺だけは実子ではない。だが両親は俺も弟や妹と同様に扱ってくれる。
 今日は配達に来たのだ、という説明をもう一度すると、偉いね、とカリンさんが微笑んだ。
「わたしとお姉ちゃんはね、レヴィさんにとてもお世話になったの」
 先程やってきた彼女は、ガンクロウ隊長の実妹なのだそうだ。父が現役の頃は一緒に仕事をしていた。当時の話を詳しく聞きたくて、俺と双子は身を乗り出す。
 けれどもそこに咳払いが割って入った。
「仕事の話があるんじゃないのか、カリン」
「お姉ちゃんが時間を守らなかったくせに。そうね、まずは仕事をしなきゃ」
 それは俺が聞いてはいけないものでは。戸惑っているあいだに、こちらに構わずカリンさんが話を進めてしまう。
「金加工の技術が盗まれたかもって、依頼人は主張してるの」
 発言した途端に、空気がピリッと張り詰めた。隊長の表情にはほとんど変化がないが、双子は明らかに目付きが変わった。カリンさんに視線が集まり、続きを促す。
「その彫金工房の職人さんたちは、修行を積んで認められると特殊な技術を継承できるの。繊細な技が門外不出なんですって。ところがその技術を使ったらしい、把握していない製品が出回っているの」
 特別な技術を使っているものなら届出が必要なのに、何の連絡もない。このまま広まってしまえば技術価値が下がるかもしれないし、あるいはこれをきっかけに粗悪品が氾濫する可能性もある。
「製品の出処を探るために、お姉ちゃんたちに動いて欲しい。それさえわかれば、あとはこちらでなんとかするから」
 俺の少ない知識によると、エルニーニャは金の国だ。国内には金鉱脈がいくつもあり、金とその加工技術は他国との取引にも厳重な手続きが必要なはずだ。他国で採掘される貴重な宝石と同じ扱いなのである。
 その価値を貶めるようなことがあるなら大きな損失だ。それをくい止めることができるとすれば、この人たちは――。
「隊長、出番ですよ」
「隊長、この仕事やりましょう」
 双子が目に炎を燃やすのを、ガンクロウ隊長は鬱陶しそうに一瞬だけ見返した。それからカリンさんに向き直る。
「依頼料前払い、報告後に報酬と実費」
 引き受けた、という解釈で合っているだろうか。

 エルニーニャ王国文部管轄というからには公的機関では、という質問をすると、双子の兄の方、ノールさんは頷いた。
「そうだよ。ああ、トビ君はもしや、隊長がリッツェ女史にお金を要求したことを気にしてる?」
 即座に疑問の核を把握される。頷くと、挨拶みたいなものだよ、と彼は朗らかに笑った。
「隊長は素直じゃないからね、たとえ実の妹相手でも。お金は上の決まり通りに貰うことになってるから、あれは冗談みたいなものだよ」
「冗談……」
 とても冗談のような表情には見えなかったが、そもそもガンクロウ隊長はクールな人なのだろう。一人納得していると、背後から「大丈夫だよー」と肩を叩かれる。ジュードさんだ。
「トビ君のご飯はちゃんと隊長の奢りだからね。高額請求はしないから!」
「は、はい。ありがとうございます……」
 それは考えていなかったのだけれど、安心はした。隊長にお礼を言って、今日はもう祖父母の家に世話になることにしよう。
 濃い時間だったな、と思い返しつつ会計を終えた隊長に近づくと、こちらから声をかける前に名前を呼ばれた。
「トビ、首都で金を稼ぐ気はないか」
「……はい?」
 突然何を、と返す暇も与えられず、ガンクロウ隊長がすらすらと言葉を並べるのを聞くよりなかった。
「お前は仕事の話を聞いてしまった。先程の様子からして、全く興味が無い訳では無いだろう。そこで単発のアルバイトのつもりで、私たちの面倒な仕事に関わらないか」
 半ば脅迫のような声色と、狙った獲物を逃がすまいとする眼。射すくめられて身動きができなくなる。
 うっかり首を縦に動かしてしまっただろうか。両側から双子に捕まえられて、ステレオが耳から頭に響いた。
「よろしくね、トビ君」
「頑張ろうね、トビ君」
 どうしてこんなことになったのだろうと、俺はそれから何度もこのときのことを思い返すことになる。

 祖父母は俺を温かく迎えてくれた。夕飯をいただきながら今日あった出来事を話していると、彼らは笑った。ただし祖父は苦笑、祖母はいかにも面白いというふうに。
「トビ、お前とんでもないのに関わったな」
「やっぱりとんでもないんだ、あの特殊部隊」
 隊長はここまで送ってくれたが、その車中ではずっと例のアルバイトの話をしていた。俺に任される仕事は、隊長と双子が調査の際に集めた資料の整理だという。普段は一段落してから資料整理の時間を取る必要があるが、人手があればそれを省いて報告書の作成に取り掛かれる。
 それなら普段からもう一人か二人、事務方を置いておけばいいのに。そうこぼした俺に、双子は顔を見合わせて「それは、ねえ?」「ちょっと、ねえ?」などと曖昧な反応を示していた。
「余程仕事が厳しくて、人が居着かないのかな。隊長、あんまり愛想ないし」
「近い読みだね。トビはやっぱり鋭い」
 祖母はにっこりして、席を立つ。コーヒーを淹れるんだなと思い、俺も後を追う。
「彼女……ガンクロウ隊長は、特殊部隊の立ち上げから関わってるんだ。軍を辞めて、しばらく首都を離れて勉強をしていたんだけれど、また戻ってきたところを大文卿夫人に捕まった。人材の採用も夫人と隊長がしたんだよ」
 ところが、と祖母は目を細め、フィルターにお湯を注ぐ。立ち上るコーヒーの薫りはいつもなら落ち着くけれど、今は話の続きを聞きたくて心が逸る。
「最初に五、六名採用した人員を、隊長はすぐに解雇した。そしてアルバイトの学生を二人だけ残したんだ。残った二人が大文卿の子供たち、つまり今もいる双子の兄弟」
「どうしてそんなことを」
「詳しいことはボクもわからないけれど、ひとつに隊長は人と接するのが苦手なんだって。彼女の思わず言ってしまう厳しい言葉を受け流しつつ、きちんと処理できる人があの双子なんだ」
 とても優秀なんだよ、と聞くまでもなく、たった三人で大変そうな仕事をこなすのだから個々人の能力は非常に高いのだろう。
 今回のような調査以外にも、日常の業務があるはずだ。それらを疎かにせずに入ってくる依頼等を扱うのだから、これまでやってこられたのが凄いことなのだ。
「今までも短期のアルバイトに入ってた人はいるんだけどね。一番できる子がたまにしかエルニーニャに戻ってこないんだ」
 熱くて濃いコーヒーは、俺と祖母の分にミルクをたっぷり入れて、祖父の分はそのままテーブルへ。もうひとつ淹れたものは角砂糖を一つ落として、祖母が隣接する鍛冶屋の作業場へ運ぶ。
「それで、トビはアルバイトをするのか? しばらくいるなら家に連絡して、ここに滞在するといい」
 祖父は夕飯の後片付けを簡単に済ませてから、コーヒーを啜る。その隣に座り、先に礼を言った。
「ありがとう。父さんに話して許可が出たら、あと二、三日くらいいるかも」
「オレたちは大歓迎だ。サシャやフィーは寂しがるかもしれないけどな」
 そういえば弟と妹は、お土産を楽しみにしていたっけ。それだけは少し申し訳ないかもしれない。

 国立博物館や国内最高学府といわれるレジーナ大学のある区域に、文部の事務所も存在している。大文卿のいる場所ともあって建物が立派だな、と眺めていると、そっちじゃないよと声がかかった。
「トビ君、おはよう! おれたちの職場はこっちだよ」
「トビ君、おはよう! 文化保護機構は建物が別なんだ」
 双子に導かれて辿り着いたのは、文部事務所よりも更に奥まったところにある建物だった。いくらか古くて小さいのは、旧文部事務所をリフォームして使っているからなのだそうだ。
 そして特殊事項対策部隊に割り当てられているのは、そのうちの二部屋。一つは資料室で、もう一つが応接室も兼ねた執務室。思った以上に狭く、もしや扱いはあまり良くないのでは、と疑ってしまう。
「母様に頼んでるんだけどね、もっと広い部屋が欲しいって」
「母様は『常勤の人があと二人くらい増えたらね』って言ってた」
 初めはもっと広いところが当たってたんだけど、と双子が声を揃える。つまりこの部屋割りになってしまったのは隊長のせいらしい。
「トビ君が常勤になってくれたら、一歩前進なんだけど」
「トビ君、十五歳だっけ。あと三年くらいしたらここに就職しない?」
 愛想笑いで返しておいた。あの隊長にそれほど気に入られる自信がない。父のことは気に食わないようだし。
 まずは物置状態になっていた机を片付けて、俺の作業スペースを作ってもらう。しかし場所が空いた端からバインダーやら紙束やらが積まれていく。ちっとも片付いた気がしない。
「これは昨日、おれたちが集めた資料だよ」
「どんどん番号付けて、どんどんファイリングしてね」
「あの後、仕事だったんですか」
 どれだけ働いていたのだろう、量が見るからに多い。カリンさんからの依頼だけではなさそうだ。
 呆気に取られていると、資料室と繋がっている扉が開いた。琥珀の髪を掻き上げながら大欠伸をして、ガンクロウ隊長は不明瞭な「おはよう」を言う。双子もステレオで返した。
「おはようございます、隊長。今日はよろしくお願いします」
「ああ、今やり方を教える。ノールとジュードはさっさと自分の仕事に行け」
 元気な返事とともに、双子はすぐに出ていってしまった。隊長が目頭を揉んでもう一度欠伸をし、ナンバリングを、と言う。
「図の資料と文字の資料があるから、それぞれ番号を振ってバインダーに綴じてくれ」
「それだけですか」
「基本的には。案件毎にコードがついているから、よく見て間違えるなよ」
 じゃあ、と隊長は背を向けてしまう。呼び止める隙も与えず、再び資料室に消えていった。
 単純な作業のようだが、確認したいことがいくつかある。番号は1からでいいのか、順番は積み重なっている通りでいいのかなど。訊ねるために資料室への扉を叩いたが、返事はない。
「まさか寝てる……わけはないよな」
 先程は寝起きのような様子だった。忙しくて眠る暇もなく、この時間を使って睡眠をとっているとしても驚かない。記者である母がたまに似たようなことをしている。
 いずれにせよ、確認をしなければ仕事にならない。仕方なく扉を引き、中を覗き込んだ。
「隊長」
 呼びかけてもやはり返事はなく、そっと足を踏み入れる。ずらりと並んだ書棚に圧倒されつつ奥へ進むと、ぽっかりと広い空間に出た。
 低いテーブルとソファがあり、テーブルにはコーヒーがたっぷり入ったポットと白いロングマグがある。ソファの端にはバインダーや書物が積まれていたのだろうが、斜めになって雪崩ている。
 置くもののないごく僅かなスペースに、隊長は腰掛けていた。膝の上にバインダーを開き、熱心に視線を落とす。こちらには全く気づいていない様子で、中身を読めているのかわからない速度でページを捲っていた。
「隊長、すみません」
 気迫に飲み込まれまいと声を出すと、不恰好に掠れた。けれども隊長には届いたらしく、ようやく顔を上げてくれる。
「どうした」
「あの、質問がありまして」
 何だ、と問われ、つっかえながら疑問を述べる。隊長はじっと聞いていたかと思うと、俺が口を閉じるタイミングで傍らのメモに何かを書き付けた。
「この通りに進めろ」
 切り離したメモ用紙を俺に突きつけ、受け取るや否やまたバインダーに戻ってしまった。礼を言っても返事はなく、俺はそろそろと退散する。
 メモには疑問の答えが全て簡潔に書いてあった。解決はしたものの、このようなやりとりでは不満を感じる人もいるだろう。人員即解雇事件の原因の一端が見えた気がした。
 仕事を黙々と進め、昼になると双子が戻ってきた。ステレオのただいまに、おかえりなさいを返す。それから室内に備えてあるコーヒーサーバーに早足で向かい、ミルクを少しずつと砂糖をスティック一本分ずつ入れたコーヒーを用意した。
「お疲れ様です。どうぞ」
「え、トビ君、気が利くね! 喉渇いてたんだ」
「え、トビ君、超能力者なの?! カラカラだったんだ」
 大袈裟に驚いてから、双子は綺麗に揃った動きでコーヒーカップを手にし、口をつけた。
「おれの好みの味だ」
「なんでわかったの」
「昨日、お食事をご一緒させて頂いたときのことを覚えていたんです。お二人ともポーションのミルクを半分だけ使い、角砂糖を一つ入れていました。ここにあるスティックは一本が角砂糖一つと同じくらいの量なので、こんな感じかなと」
 食事のときもぴたりと揃った動きが面白くて、つい眺めてしまっていた。それがこんなところで役に立つとは。特にミルクを全部入れないところは印象的だったので、はっきりと覚えていた。
「すごいねえ、トビ君は天才だ」
「すごいねえ、もう常勤になりなよ」
「いや、それは……」
 こんなに褒められるとは思わなくて反応に困っていると、資料室の扉が開いた。朝よりも髪を整えた隊長が出てきて、昼飯、と言う。
「今日の当番はジュードだったな。さっさと炊事場に行け」
「えー、今帰ってきたばっかりなのに。それに昨日外食だったから、今日はノールの番ですよ」
「わけがわからなくなるからカレンダー通りにしろ。早く行け、腹が減った」
 この施設には炊事場もあるのか。にっこりしているノールさんと不満そうに頬を膨らませるジュードさんを見て、では、と手を挙げた。
「ジュードさん、俺を炊事場に連れていってください。俺がやりますから」
「本当?!」
 一瞬にして笑顔が咲く。機嫌を良くしたジュードさんとは逆に、ノールさんは「えーいいなー」と膨れた。
 さあ行こう、すぐに行こう、とジュードさんは俺の手を掴んで部屋の外へ。炊事場は特殊部隊の部屋からそう離れていなかった。
 調理器具は十分に揃っている。冷蔵庫は共用で、中のものには部署名を書くことになっているようだ。特殊部隊の物を取り出してみると、乾き始めたベーコンにしおしおになった青菜、それからもう半熟未満で食べるには抵抗のある卵と、今日中に処理した方がいい牛乳という具合だった。
「これ全部今使っていいですか」
「いいよ。使いきれなかったら捨てちゃうし」
「そんな勿体ない」
 調味料もあるようだ。様々なものが用意されている他部署には、おそらく料理好きな人がいるのだろう。対して特殊部隊用のケースには砂糖、塩、胡椒くらいなものだ。旨味は塩とベーコン頼みだな。
「パンとかありませんよね」
「ごりごりになったやつで良ければあるよ」
「それでいいです。ふやかすので」
 持ってきてもらったパンは乾いてしまっているだけで黴などはない。量もちょうどいい。これなら大丈夫だろう。
 牛乳でパンをふやかしておいて、その間に卵を溶き、ベーコンと青菜を切る。ふやけたパンを少しだけ崩し、卵を入れて混ぜ、ベーコンと青菜、塩と胡椒を加えてもう少しだけ混ぜる。
 温めたフライパンには混ぜずにおいたベーコンの脂を溶かし広げ、混ぜた具材を流し入れる。蓋をして様子を見て、途中で皿などを利用してひっくり返す。
「トビ君、本当に天才なんじゃない? おれ、ベーコンエッグでも出しとけばいいやって思ってた。それしかできないし」
「それでもいいと思います。その場合は青菜も一緒に炒めると、無駄がなくていいです」
 焼け具合を確認してから、円形のパンオムレツを四等分する。四枚の皿に一片ずつ載せれば完成だ。
「ジュードさん、持って行ってくれますか。俺は片付けてから戻るので」
「とりあえず水に浸けておくだけでいいよ。先に食べよう。特殊部隊専用の洗い桶に入れておけば迷惑にはならない」
 せっかくの熱々なんだから、とトレーに皿を載せ、ジュードさんは俺に笑いかける。大きく部署名の書かれた桶に使った道具を浸け、その後を追った。
 パンオムレツを見たノールさんは「天才!」と両手を挙げ、ガンクロウ隊長は食べてから「チーズとトマトとオリーブも欲しい。あとビール」と呟いた。隊長の欲しいものを揃えると、うちの両親の晩酌とほぼ同じになってしまう。とにかく気に入って貰えたようでほっとした。
 午後も静かに、午前と同じ仕事をすることになる。双子もまた外に行くそうだ。
 俺に午前の進捗を尋ねて、ノールさんが満足気に頷いた。
「順調だね。ナンバリングも正確にできてるみたいだし」
「ある程度進んだところで、一度隊長に確認しました」
「へえ、偉いね。それ意外とやらない人多いんだよ」
 そうなのか、当たり前のことだと思っていたけれど。俺の仕事の仕方は父の仕込みなので、褒められると嬉しい。
「この調子ならもうすぐ片付きそうだね。終わり次第、午前中におれとジュードが集めた資料の整理に取り掛かってもらおう」
 昨日受けたあの依頼だよ、と言われて自然と背すじが伸びた。金の加工技術を盗まれたというのは、どのように調査するものなのだろう。
「ナンバリングとファイリングが完了したものは、資料室に持って行ってくれれば大丈夫。隊長がちゃんと受け取ってくれるはず」
 さっき美味しいご飯を食べたから、きっとね。そうノールさんは笑い、俺は愛想笑いが引き攣った。まさか受け取ってくれないときもあるのか。
 午後の業務の前に、先程放置した洗い物を片付けなければ。使った食器も一緒に洗うために、炊事場へ運んだ。
 すると扉を開けた途端に良い匂いがして、何かを焼いているような音が響く。コンロの前に見知らぬ人が立ち、深く大きなフライパンとトングを動かしていた。
 お疲れ様です、と言ってから流し台に向かうと、その人はこちらに朗らかに話しかけてくる。
「おや、新しい人かな。特殊部隊のアルバイト?」
 エプロンがあまりに似合っていて、ここは喫茶店の厨房だったっけ、と錯覚する。爽やかな笑顔に頷くと、そうかあ、と眉尻を下げた。
「大変でしょう、あそこ。仕事内容は変だし、上司も部下も変わってるし」
「仕事内容は別に変ではないと思いますが。俺は今日からなので、知らないだけかもしれませんけど」
 今日から、とオウム返しして、彼は火を止めた。トングで掴んだパスタは挽肉とニンニクと唐辛子を絡めているようで、既に食事を終えている俺でも食欲をそそられる。
「じゃあ、まだ全貌を見ていないんだ。ああいう野蛮なものの存在を、大文卿はどうして認めてるのか、君もすぐに疑問に思うようになる」
「野蛮……」
 その言葉が指すのは何だろう。隊長の物言いなどは、確かに少々乱暴なところがあったけれど。確かなのは、この人が特殊部隊を認めていないということだ。
「炊事場に珍しく食べ物らしい香りが満ちていたけれど、今日の特殊部隊のエ……食事はもしかして君が?」
 今、エサって言おうとしなかったか、この人。
「はい、食事は俺が作らせていただきました。短期間ですがお世話になるので」
「ああ、常勤ではないんだ。良かったよ。文派の職に就くなら、特殊部隊だけはやめた方がいい」
 映画俳優さながらの笑顔を浮かべているのに、余計なお世話ばかり言う人だ。よほど特殊部隊のことが気に食わないらしい。
 愛想笑いを返しながら洗い物を進めていると、その人は綺麗に盛り付けた一人分のパスタをトレーに載せ、通り過ぎざまに俺の肩をそっと叩いた。
「僕は文化教育部のジョナス・スロコンブ。何かあったら遠慮なく頼ってね」
 手を振り消えていく彼を見送ってから、洗い桶置き場から文化教育部と書かれたものを探し出し、放置された調理器具を浸けておいた。ついでにコンロ周りに飛び散った油や挽肉の欠片も拭いた。

 午前から取り掛かっていた作業を終え、資料室の扉を叩く。やはり返事はないので入っていき、隊長のところへバインダーを運んだ。
「隊長、お疲れ様です。終わったものはどうすれば」
「寄越せ」
 バインダーを差し出すと、隊長は手を止めて受け取った。午前中とは違う作業をしているようで、バインダーと同じくらいの大きさの端末がテーブルの上に鎮座している。
「隊長は、執務室では仕事をしないんですか」
「ここの方が落ち着く」
「まさか寝泊まりしているのでは」
「その方が都合のいいときはそうしている。どうでもいいことを喋っていないで、さっさと自分の仕事に戻れ。やることは午前と同じだ」
 どうでもいいことだけれど、二言返事をしてくれた。バインダーも受け取ってくれたし、これが昼食効果だろうか。
 ――上司も部下も変わってるし。
 確かに変わってはいる。隊長は無愛想で、双子は喧しい。しかし認められないほど酷くはないのでは。現に仕事は少人数ながらきちんとしている。手が足りないのは解消した方がいいと思うが。
 人員を隊長の一存で解雇したことが野蛮なのか。確かに横暴ではあるけれど、何か違う気がする。特殊部隊の存在よりも、あのジョナスとかいう人の言葉の方が疑問だ。
 しかしこのことに構っている暇はない。双子が持ってきた資料を整理するのが俺の仕事だ。しかも午前と違い、新しい資料は無造作に積み重ねられ、作業に取り掛かりにくい。まずはやりやすいように整えよう。
 依頼の現場に居合わせてしまい、気になっていた案件だけあって、資料をつい眺めてしまう。対象である金加工の工房はロックフォードにあるらしい。エルニーニャ有数の金鉱を持つ村だ。
 一時は金を採掘し尽くしたとされたが、近年になって新しい鉱脈が発見され、再び潤ってきたと聞いた。鉱夫と職人が集まり、商人も多く入って、立派な街ができているのだと取材に行った母が話してくれたことがある。
 昔は白壁に金の窓枠の、立派な邸宅があったという。対照的に、巨大な廃墟も存在していた。それらは今では無くなり、鉱夫たちの住まいや商人たちの宿が建てられている。取り壊しから新しい建物の築造まで、元軍人で後に各地を巡る歌姫となった人物が資金提供をしているそうだ。
「そこで今回、事件が起きたってわけか」
 ここにある資料はカリンさんから受け取った物と、市場に出回る金細工についての調査の途中経過だ。ノールさんがカリンさんを訪ね、ジュードさんが工房と取引のある首都の店にあたったらしい。
 資料を見てわかったことだが、カリンさんは弁護士だった。ただ今回は工房が訴えられているわけではないので、相談の仲介をしたということのようだ。
 そして問題の彫金技術。市場に出ているロックフォードの工房で作られたものの写真も、ナンバリングをしながら観察した。普段父の仕事を手伝っているときの癖で、こうしたらより美しく撮れるのに、などと考えてしまう。
 だが細工は撮影に工夫を凝らさなくとも美しかった。精緻な紋様に目を奪われる。この工房は金鉱に近いだけあって、金の扱いなら国内でもトップレベルなのだそうだ。
 この技術が奪われたかもしれない。認めていない製品が存在している。――にわかに信じ難いが、手元の図表資料や写真が事実であると証明していた。
 とはいえ、俺には認められているものとそうではないものの区別がつかない。同じような細工の似たようなものを、例えば店で見つけたところで指摘はできない。判るのは工房の関係者と、認められていない製品に関わった人たちだけではないか。
 細工の部分を拡大した写真を比較して、ようやく僅かな違いがわかる。けれども正規品同士でも異なるので、これは手作業故の個体差なのだ。
「やっぱり誰かが得た技術を勝手に製品に利用してしまってるのかな……。だとしたら工房に出入りしていた人物が怪しいけど」
 それくらいは誰でもわかる。重要なのは犯人探しではなく、認められていない製品の出処を見つけ、流通を止めることだ。
 写真を眺めてはまとめ、資料を読んではまとめしていると、どうしても時間がかかる。もっと機械的にやるべきだろうか。そうこうしているうちに、双子が執務室に戻ってきた。窓の外もいつのまにか暗くなってきている。
「ただいま。わあ、トビ君、進めたねえ」
「ただいま。わあ、おれたちがやるより速い」
「おかえりなさい。速いんですか、これが」
 まだ片付いていないうちに新たな資料が来てしまい、焦っているのだが。しかし終わらせるまで残業をした方がいいか尋ねると、双子は首を横に振った。
「定時に帰らないと人件費と光熱費大変だから」
「だらだらやるとナスコンブに見つかって嫌味言われるから」
 どこかで聞いたような言葉が引っかかりつつも頷き、あと十分は作業ができそうだと机に向かい直す。
 隊長が再び資料室から出てきたのは、俺が次の写真を手に取り、双子が隣の机に午後の成果を積み重ね始めたときだった。
「進捗を書け。書いたら帰れ」
「書く?」
「その日の仕事の記録だよ。引き継ぎメモにもなる」
「明日になったら忘れちゃうかもしれないし、誰かが来られなくなるかもしれないから」
 だから今日の作業は終わりだよ、と双子が言う。なるほど、メイン作業ができるのは定時の十分前までなのか。
 書き方をノールさんに教わりながら記録をつけていると、ジュードさんが隊長に近づいた。
「ねえ隊長、明日はロックフォードに行きたいです」
「工房にあたるのか。連絡は」
「抜き打ちかな。気になることがたくさんあるから、逃げられたら困るんですよね」
 少々物騒な言葉に、隊長は良いだろうと頷く。それからノールさんを呼んだ。
「お前は行くか」
「行きたいです。今回は二人で」
「任せた」
 双子は明日、不在ということか。隊長と丸一日二人になるのは緊張するが、おそらくは扉を隔てているのでほとんど顔を合わせない。
 定時ちょうどに部屋の明かりは消えた。他の部屋も、俺たちが外に出た頃に。アルバイトの一日目は、意外なほどの疲労感と共に終わった。

 二日目、双子は直接工房に向かったらしく、執務室には現れない。隊長も始業時間に資料室から出てきて挨拶をし、今日の仕事の確認を済ませ、またすぐに引っ込んでしまった。
 作業は昨日の続きで、慣れ始めてきている。うっかりミスをしないよう、慎重に始めた。けれども時間を意識して、手際良く。
 昨夜、祖母はどこかに電話し、「うちの孫がお世話になってます。って一度言ってみたかったんだ」と何故かうきうきしていた。祖父はそんな祖母を可愛いと思っているようで、ずっと微笑みながら夕食の支度をしていた。
 二人の知人は有名人や立派な肩書きを持つ人が多い。あの言葉はもしかしたら、文派の偉い人が相手だったかもしれない。
「隊長ではないよな……多分」
 何も言ってなかったし。いや、何かあってもあの人は俺に言わないかもしれない。
 気を取り直して資料にかかると、連続して写真が出てきた。文書資料の書き込みと突き合わせ、それがカリンさんから預かってきたものだとわかる。
 工房で作業をして市場に出した、正規品の写真だ。昨日もいくつか見たが、やはり美しい。文書資料によると、工房の職人毎に二枚ずつ写真を添付している。
 写真は十八枚、ということは九人分。責任者で師でもある一名と現在工房にいる弟子たち五名、あとの三名は辞めたり独立したりしているらしい。
 技術を無認可の製品に用いるなら、真っ先に怪しむべきは今は工房にいない三名だろう。優しい見方をすれば、単に認可を得るのを忘れていたということもあるかもしれない。
 試しに写真を並べてみる。混ざらないようにして、無認可製品の写真も一緒に。それぞれの特徴を見つけられれば、誰が無認可製品に関わっているのかわかるかもしれない。
 写真をよく見るのに、右目にかかっている髪を耳にかける。そうしてじっくり眺めようとしたそのとき、
「トビ。お前、コンピューターは使えるのか」
「うわっ?!」
 ガンクロウ隊長が音も立てずに、資料室から出てきていた。こちらに近づいてきているのに全く気配がなかったので、驚いた勢いで立ち上がってしまう。
「何だ、化け物でも見たような反応だな。……ん、写真がどうかしたのか」
 机の上の状態に気付かれた。興味本位で勝手なことをしていたから、叱られるかもしれない。予定より早くアルバイトが終わるかも。
「あの、これは、同じ工房内でも彫金の仕方に微妙に違いがあるんだなと思って。任された作業以外のことを勝手にしてすみません!」
 慌てて頭を下げたが、返事がない。完全に怒らせただろうか。片付けてここを出ていくまでの段取りを考え始めたところで、隊長はようやく口を開いたらしい。
「お前、やはり瞳の色が左右で違うんだな」
 もしやとは思ったが、と低く呟く。――ある意味、出ていけよりも言われたくなかった言葉だ。
「……ああ、これ。ちょっと珍しいですよね。でも視力には影響ないし、ごく普通の目です」
 顔を上げる寸前に、前髪を元に戻した。右側だけほんの少し長めにしているので、いつもは目の色まで見られることはない。双子にも触れられていないから、気付かれていないのだろう。
 普段から晒している左目は青い。けれども右目は深紅だ。珍しくて綺麗だと言われるけれど、俺はその言葉が大の苦手だった。
「視力は普通だとしても、髪が邪魔で負担になるだろう」
 隊長こそ、長い前髪を邪魔そうに耳にかけたり、古そうな伊達眼鏡をしているのに。レンズに度が入っていないことは、初めて会ったときからわかっていた。
「俺のことはいいでしょう。これからずっとここにいるわけじゃないんですし。ただの超短期のアルバイトですよね、俺は」
 だからもう触れないでくれ。そういう意味で自分から言ったのに、
「それもそうだな。どうせ仕事は明日で終わる。お前との付き合いもそれまでだ」
 肯定はやけに鋭く胸に刺さった。
「で、トビ。コンピューターは」
「使えます。何をするかにもよりますけど、父を手伝って操作しているので」
 何事もなかったかのように話を戻され、午後から少しだけ報告書の作成を手伝うように言われた。ということは、資料整理はもっと効率的にやらなければ終わらない。
 期限は明日だとはっきりしたのなら、余計なことはするべきではない。並べた写真は隊長が資料室に戻ってからすぐに片付けた。

 昼食はまた炊事場で作った。双子は戻らないので、今日は二人分。食材は双子が注文してくれたらしく、午前のうちに執務室に届いた。
 もう少し調味料が欲しいと思ったところに、エプロン姿の爽やかな男性がやってきた。俺を見ると、やあ、と片手を挙げる。
「新人君、今日も来てたんだね」
「トビです。ええと、ジョナスさんでしたか」
「そうそう。今日は何作るの? なんかきれいな野菜があるね」
 新鮮なトマトとバジル、それからチーズとサラミも手に入ったので、ふかふかの新しいパンに載せて焼こうと思っていた。オリーブオイルがあればなお良かったのだが、それは荷物に入っていなかった。
「なるほど、ピザパンだね。単純だけどまあまあ美味しい。オリーブオイルなら僕のを少しあげよう」
「本当ですか。ありがとうございます」
「君が使うならいいよ。それに彼らに恩も売れる」
 差し出された瓶に伸ばしかけた手を止める。見上げたジョナスさんの顔は、変わらずにこやかだった。
「どうしたの」
「いや、やっぱり遠慮します。俺がしたことで隊長たちに迷惑がかかるのは避けたいので」
「気にしなくていいんじゃない? 君が食事を作らなきゃ、彼らは動物のエサみたいなものしか食べられないんだし。それに離れてしまえば君には関係ないよ、短期アルバイトなんでしょう」
 今度ははっきりエサと言った。だが今はそれよりも耳に痛い言葉がある。
 離れてしまえば、明日の仕事が終われば、もう関係がなくなる。双子とも、隊長とも。
「……それでも、やめておきます。塩をちょっとふるだけでも、結構美味しいんですよ。材料が新鮮ですし」
 手を引っ込めると、ジョナスさんは不思議そうに首を傾げた。そうして自分のために、何種類もの調味料の瓶をずらりと並べた。
 結果的には、オリーブオイルがなくても隊長は食べてくれたし、求めたのはタバスコとビールだった。
「しかし今日の当番は私のはずだったが、それよりも良い物が食えた」
「それは良かったです。隊長、料理は苦手ですか」
「苦手というか、わからん。こんなに材料を使えること自体、私には贅沢すぎる」
 ビールを要求しておきながら、と思わず笑ってしまった。この人が本当はどんな食べ物を好きなのか、知る余裕もないままに別れてしまうのが惜しい。
 ――そうか、惜しいのか、俺は。
 ずっとここにいるわけではないと、自分で言ったのに。
 午後に教わった報告書作成は、これっきりだと思いながらも丁寧に、真剣に取り組んだ。短期だからといいかげんにはしたくない。隊長たちに迷惑はかけたくない。
 だってさよならは、きれいにしたいだろう。すっぱりと、心残りがないように。

 そろそろ作業を切り上げ、記録をつけようかという頃。双子がやっと執務室に帰ってきた。
「ただいま。工房、すごかったよ」
「ただいま。職人さん、かっこよかったよ」
「おかえりなさい。資料はたくさん増えました?」
「写真が多めだね」
「それと話を録音した」
 録音した音声は、文書資料として書き起こす必要があるという。雑音もかなり入っているので、意外と時間がかかるのだと、双子はちょっとうんざりしていた。
「それも俺がやれたらいいんでしょうけど、明日で終わりなので、引き受けていいものかどうか」
「そっか、明日までか」
「そっか、仕方ないね」
 双子は残念そうに顔を見合わせた。やっぱり常勤になろうよ、という訴えが、今は無茶だと思えない。いや、隊長が望まない以上は、無茶であることに変わりないのか。
 隊長が資料室から出てくると、双子が口頭での報告を始めた。工房の人たちは、特に責任者である師匠がとても困っていた。このままだと自分たちの守ってきた技の価値は下がり、この腕で暮らしていけなくなってしまうと。
 父が自分の技術で店を持ち、母が正確かつ読み応えのある記事を書くことに全身全霊を懸けているから、俺には師匠の気持ちが少しわかる。技術を守るということは、それを糧に生きている人たちの生活を守ることだ。
「今いるお弟子さんはちゃんとしてると思う」
「話を聞いた限りではみんな納得して工房の仕事をしてる」
 認可している製品の売上げも、お客さんが個人の技術に支払うお金も、悪くないようだし。双子は口々に言って頷いた。
 曰く、修行中ならば工房の仕事だけで食べていくのはなかなか難しいという。細々した事務や掃除や炊事などを引き受けた分の給金は多少出るが、技術を教わる立場である以上はそれ以上の収入は見込めない。給金はあっというまに自分の道具や練習用の材料などに消える。師が自分の技術を何の条件もなく教えるということもない。習うのにもお金が必要だ。他に仕事を持っていなければ暮らしていくことはできず、場合によっては借金をすることもある。
 だが当の工房の弟子たちは、既に修行の期間は終えて、その腕と作り出す製品を認められている職人。わざわざ無認可製品を出すなんてリスクのあることはしなくてもいいそうだ。
「とすると、やっぱり怪しいのは、今はいない元弟子」
「明日はそっちをあたりたいです」
「では明日もいないんだな」
 調査はまだ続きそうだ。俺がこの案件の結末を見届けることはできないだろう。
 双子はここで昼食をとれないことを惜しんでいた。今日の昼食がピザパンだったことを知ると大層悔しがって騒ぎ、隊長に叱られた。
 次の機会に、と言うことができないので、俺はただただ愛想笑いを浮かべていた。

 アルバイト最終日の朝、やはり執務室で一人作業をしようとして、ナンバリングのずれに気が付いた。
 血の気が引く感覚を味わったのはいつぶりだろうか。昨日のいつからずれていたのか、へたをすれば丸一日分の作業が無駄になる。急いでずれた箇所を探し、番号を付け直して、はたして今日中にどこまで取り返せるだろう。
「……隊長に謝らなきゃ」
 迷惑をかけたくないと思っていたのに、結局とんでもないミスをしてしまった。きつく叱られるのも仕方がない、それで済むのならまだいい。
 資料室に入り、バインダーを開く隊長の前に立った。手足が震える。
「すみません、隊長。昨日、ミスをしました。今確認したら、ナンバリングがずれていて……これからどこでずれたのか調べます」
「ずれていた?」
 低い声で繰り返し、隊長は俺に視線を移した。睨んでいるのかそうでないのか、この人は判断がつかない。
「文書か、図か」
「図です」
「抜けがあると厄介だ。どうずれている?」
「後ろにひとつずつです」
「……ふむ、それなら見当はつく」
 抜けてはいないだろう、と隊長は言う。長い髪を払い、午前だな、と続けた。
「机の上に写真を広げていただろう。何をしていた」
 急速に記憶が巻き戻る。そうだ、職人毎の細工の特徴が気になり、写真を並べた。既にナンバリングを終えた無認可製品の写真も出して、一緒に。
 混ざらないよう気をつけていたが、ちょうど現れた隊長に目のことを指摘され、動揺した。――ああ、それで、かもしれない。
「すぐに確認します!」
 叫び、走り、資料室を出る。随分喧しかっただろう。けれども隊長は何も言わなかった。
 バインダーを開き、捲り、昨日の写真を探す。発見して、思わず大きく息を吐いた。隊長の指摘通り、そこには本来あるべき十八枚よりも一枚多く写真が綴じられていた。もっと遡ると、あるべき写真が抜けている箇所も見つかった。
 他にミスはないだろうか。焦らず丁寧に確かめる。
「良かった、いや良くないけど、あとは問題なさそうだ……」
 隊長の機転のおかげで、発見も修正もすぐにできた。報告とお礼をしなければと立ち上がると、資料室の扉が開いた。
「トビ、資料は」
「隊長の仰った通り、昨日写真を勝手に見ていたのが原因でした。そこからずれていたのを直して見直しもしたので、もう大丈夫です」
「そうか。ではもう同じ過ちは繰り返さないな。昨日と同じように写真を並べろ」
 何故、と訊ねる前に、さっさと、と促される。戸惑いつつも従い、写真を再び出して並べた。職人毎に二枚ずつの、彫金を施された物の写真。そして無認可製品の写真。俺が昨日と同じ状態にすると、隊長はさらにまだ手付かずの資料の山からいくつかの写真を取り出した。
「これが昨日、ノールとジュードが撮ってきた最新の製品写真だ。これから取引先に預けるらしい」
 よく見ろ、と隊長が命じる。俺は一度写真に視線を落としてから、静かに深呼吸をした。
 右手で前髪を掻き上げ、耳にかける。左とは違う、深紅の右目が露わになる。
 写真をよく観察する。彫金は手作業で、職人が違えば同じ技術を用いていても僅かに違いが出る。同じ職人が手掛けたものにはその人の癖があらわれる。
 手際そのものであったり、道具の使い方であったり、そういうものが出来上がりに影響する。工房独自の技術が美しく均一な出来栄えを目指しているとしても、どこか、何かしら。
「隊長、これを」
 目にはきっと真実が映っている。だが、俺の脳はまだ半信半疑だ。それでも手掛かりに、細い糸の一本でも繋がるのなら。
 俺が差し出した写真を、隊長は伊達眼鏡を外して見比べた。
「よくやった」
 頷いたその人の唇は微かに口角が上がっている。俺たちは同じことに気が付いたのだ。
 来い、と隊長が資料室へ向かう。後をついて行き、隊長がいつも座っているソファのさらにその奥へ。そこには見慣れない機械があり、隊長が何かを手に取った。
 それは通信機だったらしい。隊長の凛とした、低いハスキーボイスが告げる。
「ノール、ジュード、聞こえるか。真相が見えた。盗まれたのは技術ではない、工房責任者の作品だ」
 俺と、もしかしたら隊長の方が先に気付いていたのかもしれない。市場に出ていた無認可の製品は、その加工が工房の責任者――師匠の作と全く同じだった。
 他の職人に現れているような癖が無い。表面の磨き方やたがねの使い方に出る微妙な癖が限りなく少ないのだろうと、隊長は言う。癖がどれも全く違えば、盗まれたのは技術で、工房から出た人間が認可を受けないままに製品を売ったのだと考えられた。
 だが、無認可の製品に施された加工の跡は工房の師匠の作と一致していた。工房の作だと認可できる当人が無認可の製品を出すことはないだろう。つまり誰かが師匠の作品を盗み、手を加え、製品として市場に流通させたのだ。
 わざわざ手を加えたということは、作品は本来未完成だったか、納得のいくように仕上がらず破棄されたのだ。そういった物を手に入れられるのは、やはり工房に出入りする者。弟子の職人たちか、あるいは。
「現在、工房には修行中の者がいない。そのかわりに、面倒を片付ける役割の者を置いているだろう。そいつが業者と繋がっている可能性が高い。古くから付き合いのある仕事相手がそんな馬鹿なことに手を出すとは考えにくい。だから」
 隊長が言い終わる前に、通信機は双子の声をこちらに届けた。明るく、けれども、頼もしい響きだ。
「了解。最近取引を始めたところですね」
「了解。最近組織構成が変わったところも怪しいですね」
「そういうことだ。調べて乗り込め」
 双子の返事を待って、通信を切る。しかし隊長は止まらない。壁際に並ぶロッカーからいくつか荷物を取り出し、俺に一つ預ける。ずしりとした重みが腕にかかり、慌てて抱え直した。
「車に積み込むぞ」
 再び隊長の後を追い、建物の外へ。車庫には初めて会った日に乗せてもらった自動車が待っていて、その後部座席に荷物を置く。そして息を吐く暇もなく資料室に戻り、通信機の前に立った。
「どうしたんですか、隊長」
「トビ、お前の身体的特徴に言及して、すまなかった」
 何の脈絡もなく、隊長は俺に謝った。どうして今そんなことを、と尋ねようとして遮られる。
「今のうちに言っておかないと、万が一のときに未練が残る」
 その意味を確かめることはできなかった。通信機から受信音がして、双子のどちらかの声が叫んだ。
「隊長、当たってた! 町の外、ええと、ここからならラミア平原方面かな、そっちに誘導します!」
 声の後ろから、怒号ともっと物騒な音が聞こえた。何発もの花火、いや、あれは銃声ではないか。
「了解。トビ、行くぞ」
「行くってまさか」
 頭から体温が下がっていく心地がするのに、足は隊長に従ってしまう。外に出て、先程荷物を積み込んだ車に乗り込んだ。隊長が運転席に、俺が助手席に座ると、エンジンがかかる。
 この国の首都レジーナは栄えていて、新しい高層ビルも多い。サービスは充実し、娯楽や刺激の質や量は地方の比ではない。
 だがそこは広大な大地の真ん中にあるオアシスのようなものだ。首都の外には整備が行き届いていない悪路や道もない荒野や平原が広がり、他の町や村はそれらの先にある。
 つまり首都周辺は何もないから、思う存分暴れ回ることができるのだ。

 慣れている。無意識のうちにシートベルトを握りしめ、そう確信した。隊長の運転する車は法に触れないギリギリの荒さで路を駆り、遂に首都を脱出する。この先に進めばそのうち平原となり、縦横無尽に動き回ることができる。
 幸いにして車酔いをしない体質であった俺でも、展開についていけず目を回しそうだ。首都から数キロ、そこにあった光景は一般人には刺激が強すぎた。
「あの、銃を構えた人がたくさんいるんですが……?」
「工房の取引先に、質の悪いのに乗っ取られたところがあったんだろうな。乗り込んで悪事を暴いたノールとジュードを消そうとしているところだ」
「消そうと?!」
 大袈裟な、という認識は視界が覆す。銃を所持した人々に車ごと囲まれたノールさんは、両手を挙げて立っていた。
「隊長、ジュードさんの姿が見えません」
「気にするな。伏せろ」
 障害物がないのをいいことに、隊長は急ブレーキを踏んだ。車体は慣性の法則に従って滑り、大きく回転して止まった。
 伏せたまま見たものは、隊長が積んだ荷物に手を伸ばし、中身を取り出した姿。間髪入れずに装填、構え――
「トビ、耳を塞げ」
 ライフルが放つ空気を叩き割るような音の中で、そういえばこの人はかつて軍人だったのだ、ということを思い出した。
「あ、あの、一般人の武器の所持は」
「私たちは特殊部隊だ」
 文の荒事を引き受けるための。
 隊長はそう言い残して車から降り、こちらに気が付いた者たちに向かって駆け出した。
 銃を手にしたまま襲い来る相手を殴り、蹴り、無力化していく。その向こうではノールさんが、現れた隊長に気を取られている者を蹴り飛ばして倒す。ジュードさんは――いた。双子が乗っていた車から出てきて、ノールさんに何かを手渡した。自身も同じ物を持っている。
「あれは……クロスボウか?!」
 近くの敵をノールさんが倒し、離れている者はジュードさんに撃たれる。目標の位置によって互いの役割を入れ替える。動くものを殺さない程度に確実に仕留めるという神業を、彼らは傍目にはいとも簡単そうにやってのけた。
 なんて素早く鮮やかなんだろう。危険な現場なのに、身を乗り出して見とれてしまう。
 それがいけなかった。こちらの車にもう一人いるということに、相手が気付く。双子が焦るのが見えた。
 しかし隊長は――何故離れているのにはっきりとわかったのか、それは何度考えても謎だった――「トビなら心配ない」と言った。
 相手は既に隊長に銃を奪われていた。だからここまで走ってきたのだ。手にはナイフが見えたが、使い慣れないのか握りが覚束無い。
 これなら「心配ない」。
 俺が車から降りると、相手はいやらしく笑った。そうだろう、子供が何も持たず、自らを守ってくれるはずのものを離れたのだ。格好の獲物だと思うはずだ。
 だから、油断して力を抜く。こちらに辿り着くまでに防御は疎かになり、腕の筋肉や関節は弛緩し、懐に隙ができる。
 ――それじゃあ、子供にだって勝てないよ。
 ナイフは手首を叩いて落とし、空いた胸に手を伸ばす。足腰に力を漲らせ、地面をしっかりと踏みしめる。
 相手の身体を持ち上げるのに、余計な力は必要ない。あとはその体重が、物理法則に従い地面に落ちてくれる。
「……すみません。俺、大総統の息子なんですよ」
 前のですけど、という台詞は相手にはもう聞こえていないとわかっていなければ、七光りもいいところで恥ずかしくて口にできない。

 大立ち回りの後始末は軍に任せるようで、俺たちはその場で待機することになった。のびてしまった人たちが動く気配はない。動けたとしても武器は回収しているし、相手が使っていたらしい車もタイヤを切ってある。
「お腹空いたー」
「トビ君のご飯が食べたーい」
 双子が空を仰いで訴える。残念ながら食べられるようなものは何もない。
「そういえば食いそこねたな。最後なのに」
 隊長は涼しい顔で風に吹かれている。最後、と言われた俺が、こっそり唇を噛んだことも知らないで。
「……いつもこんなことを?」
 何か言わなくては、と思って出たのがこんな問いだった。双子はあっさりと頷き、元気なステレオを響かせる。
「全部の仕事じゃないけどね。おれたちの売りは『文派だけど超動ける』ってことなんだよ」
「特殊部隊の仕事は『他の人ができないこと』で『軍にいちいち任せていられないこと』なんだよ」
 ああ、そうか。だから「野蛮」か。納得したら、つい笑ってしまった。――それなら俺も「野蛮」のうちだ。
「トビ君もすごかったよ。あの背負い投げ!」
「トビ君はすごいよね。文武両道の天才!」
「そんなことはないです。俺は父からちょっと身を守る方法を教わっていただけですから。みなさんの方がよほどすごいですよ」
 隊長はともかく、双子まで戦うことができるのだ。二人が顔を見合わせて笑うと、隊長が独り言のように呟く。
「私の採用基準をクリアした人間しか、私は雇わない」
 なるほど、それが解雇の真相か。求められるものがあまりに厳しすぎる。しかしそれなら、どうして俺をアルバイトに誘ったのだろう。
「俺の採用の決め手は何ですか。父が大総統だったから?」
「そんなくだらないことで雇うか。本屋で絡まれていたとき、引っ張られているのに微動だにしなかっただろう。体幹が優れているのだと感心した」
 それから、と琥珀の髪を掻き上げる。遠くから、何台もの車がこちらへ向かってくる音がした。
「お前が買って抱えていた本、あれは私の愛読書だ」

 衝撃的な四日間だった。最後の大立ち回りの後、軍の聴取は隊長たちが引き受けてくれ、俺は祖父母の家に帰された。給料はその晩、双子が届けてくれた。
 ついでに受けた報告によると、工房の師匠の作を盗んでいたのは、事務を引き受けていた従業員だった。すっかり処分してしまうはずの打ち損じた(しかし素人にはそうとわからない)作品を拾い、出入りの業者に言われるままこっそり横流ししていたのだという。
 流れたものを勝手に加工し売っていたのは、つい最近、元々工房と取引のあった業者に入り込んだ質の悪い者たちだった。反社会組織、通称「裏組織」が絡んでいる可能性が高いとして、軍が捜査を引き継いだ。
 カリンさんへの報告はこれからになる、忙しくなりそう、と双子はわざとらしく溜息を吐いていた。
「これでこの件は解決ですね。短い間でしたが、お世話になりました」
 俺が頭を下げると、双子は「ううん」と口を揃えた。
「トビ君にはおれたちの方が助けられたからね」
「またアルバイトしにおいでよ。仕事はたくさんあるし、隊長も喜ぶよ」
 ガンクロウ隊長とは、本の話もしたかった。また会えたら、今度はもっとゆっくり、他愛もない話をしたい。
 俺の目の話なども、隊長になら聞いてもらっていいかもしれない。本当につまらない話ではあるけれど。
 アルバイトの給料は、祖父母にお礼のお菓子を、クラウンチェットの家にお土産をたくさん買って帰っても、まだ残った。
 父に休みをもらえたら、首都に遊びに行ける程度には。


 二年後に博物館で開催する展示の内容が決まった。大規模な企画が始まると、文派の機関の活動はより忙しくなる。
 隅の隅に追いやられているかに見える特殊部隊も例外ではなく、寧ろ細々とした雑用や調査に駆り出されてしまうことになる。こうなると当然、人手は足りない。
 昔、博物館が襲撃されて死者を出した事件があった。二度と同じことを繰り返さないために、また文化を守るために軍と確実に連携を取れるようにしていくために、かつて自らも軍人だった大文卿夫人が設立したのが文武両道の特殊部隊だ。
 武を忌避する文派の者からは嫌われ、中途半端なことをしてほしくない軍からもあまり評判は良くない。そのため日陰のものとして、あらゆる仕事をこっそりと片付けるのがこの部署だ。――本来ならば。
「資料の通り、今度の企画ではエルニーニャを支えた偉人たちの足跡を扱います。軍の御三家だけじゃなく、王様たちや文派の代表についても、その歩みと功績をきちんと伝えなければなりません」
 どこかに偏りがちになるのは良くないのよ、と頷きながら話すのは、大文卿夫人アーシェ・ハルトライム――つまりノールとジュードの母親だ。ガンクロウ隊長にとっては、全ての面倒の始まりである。
「三派会が始まったのは最近だけど、実はそれよりもっともっと前に、ちゃんと協力して国を運営しようっていう誓いが立てられていました。まあ、それは悲しい事件によって破られてしまったのだけれど」
 そこで、とアーシェはスカートの裾を優雅に翻す。双子は興味津々で身を乗り出したが、隊長は欠伸をひとつした。
「展示にあたっての大切な調査を、あなたたちにお願いします。難しくないわよ、半分は終わってるようなものだから」
「ではもう半分もやってくれたらどうなんだ」
 隊長のぼやきは華麗に無視され、アーシェは仕事の内容を告げた。それは確かに半分終わっているようなものだが、残り半分が非常に面倒そうなものだった。
 もちろんその調査は、普段の仕事や入ってくるイレギュラーと並行して取り組む。とするとやはり今回も人手は足りない。
 特殊部隊の人材は、「もしものとき」「無事に帰ってこられなくなるような事態」に対応できる者でなければならない。無理だと判断した者を、隊長は容赦なく追い出してきた。
「ねえ隊長、アルバイトを雇いましょうよ」
「ねえ隊長、おれたちには良い心当たりがありますよ」
 双子の考えはわかっている。業務の負担を減らし、おまけに美味い飯にまでありつける、そんなお得な人材を雇おうと思っているのだ。
「あら、心当たりがあるのね! だったらすぐに来てもらいましょうよ!」
「夫人、だったらあなたが連絡してくれ。こいつらが言ってるのは、あなたの元同僚の息子のことだ」
 アーシェは一瞬きょとんとした。しかしそれからみるみる口角が上がり、遂には晴れやかな笑顔を浮かべる。
「なるほどね。でも私が聞いた話の通りなら、あの子には隊長から声をかけてあげた方が喜ぶんじゃないかしら」
 何でもお見通しの大文卿夫人は、歌うように「よろしくねー」と言って出て行ってしまった。あとにはその血を引いた子供たちが、にんまりして残っている。
 メイベル・ガンクロウ隊長は髪を掻き上げ、呆れた大きな溜息を漏らす。けれどもその片頬は、ほんの僅かに持ち上がっていた。