もういいよ、と妹が言った。もうみんな大丈夫だから、と。
 ――お姉ちゃんは、この家を出てもいいんだよ。もっと早く、そうさせてあげられたらよかった。
 そうではない。いつまでもありもしない希望に縋り、妹弟らの存在を理由にして、踏ん切りがつかない状態を続けていたのは自分だ。
 いつかわかってくれる、なんてことはありえない。母は自分の愛が正しいのだと信じるあまりに、それを奪った長子を恨み、憎んでいる。――いや、おそらくは不幸を誰かのせいにすることで何とか自己を保てていて、その対象に長子である自分を置くとちょうどよかったという、そういうことだったのだ。
 それはこちらも同じこと。顔立ちは父に似たようだが、性格はきっと母譲りだ。そのことは堪らなく嫌で、同時に縋る原因の一つでもあった。
 妹は、さらに下の弟妹たちは、そういった呪縛から姉を解放しなければと思ったらしい――思っていてくれたのだ。
 それでもまだみっともなくこびり付いた未練を断ち切ったのは、生涯でただ一人愛し、その存在を正義だと信奉した女性だった。彼女が自身の愛に生きると決めたとき、自分の意志もようやく固まった。
 妹弟たちも、愛した人も、もうこの手で守ろうとする必要はない。必死にならなくたって、みんな自分で、あるいは自分の構築した関係や環境で何とかできる。
 正義なんか手放していいのだと悟ったその日のうちに、仲間にも告げずに軍を辞めた。その足で役所に行き、家から籍を抜いて新たな名を得た。
 二十五歳になる年の春、メイベル・ガンクロウの人生と、長い旅が始まった。


 妹の手から受け取った封筒には「エルニーニャ王国文部管轄文化保護機構」の印字があった。事務連絡等に使用する、共通の封筒らしい。
「トビにーちゃ、だれからおてがみ?」
「前にちょっとアルバイトをさせてもらったところからだ。ありがとう、フィー」
 礼とともに頭を撫でると、妹のフェリシーは嬉しそうに笑う。癖の強い髪は父譲りだが、優しい桃色は母の遺伝だ。
「兄ちゃん、手紙読んじゃっていいよ。その間、仕事はオレがやっとくからさ」
 頼もしく胸を叩くのは、弟のサシャ。緋色の髪は父と同じだけれど、髪質は母に近い。
 この子たちは両親の実子で、その特徴を少しずつ受け継いでいる。本来であればサシャが長男で第一子なのだけれど、俺は彼が産まれる前にこの家の子供になった。父に拾われたのだ。
 両親のどちらにも全く似ていないし、瞳は左右で色が違うので片方を前髪で隠すようにしている。そんな俺を弟妹は兄と慕ってくれ、両親は実の子と同じように愛してくれる。
 幸せを噛み締めながら、封筒を開けた。中に入っていたのは便箋が一枚と――
「……雇用契約書?」
 どうやらまた大変なことに巻き込まれるようだ。苦笑と溜息が漏れるけれど、胸は正直に高鳴っていた。

 小さな町クラウンチェットから、各駅停車の列車で一時間ほど。エルニーニャ王国首都レジーナは人通りの多さが段違いだ。
「トビにーちゃ、いっぱいだねえ!」
「そうだよ。だから絶対に兄ちゃんの手を離さないこと」
「兄ちゃん、ホットチョコレートの屋台がある! 今買っちゃだめ?」
「ばあちゃんちに荷物置いてからね。街中にたくさんあるから、そういうの」
 年末年始の帰省ラッシュから時期は外しているものの、フェリシーの手を一瞬でも離せば人波に飲み込まれそうで怖いし、サシャは勝手にうろちょろされると再合流まで時間がかかりそうだ。祖父母宅に到着するまで大人しくしていてほしい。
 新年を迎えた首都に行くなら、自分たちもじいちゃんとばあちゃんに会いたいと弟妹が熱烈に訴えた。俺は仕事のために行くけれど、サシャとフェリシーは楽しい冬休みだ。
 両親は仕事が忙しく来られない。父は年末年始の記念写真撮影ラッシュに対応し、母はこれまで新聞で連載してきたコラム記事を本にまとめるための作業がある。
 弟妹は元気で活動的だが、物事の分別がつく良い子だ。だから比較的負担にはならないのだが、そもそも子供の相手というのは大変なものである。レジーナにこの子たちを連れてくると、その友達にも気を付ける必要があって、ほんの少しだけ疲れる。
 もしかしたら、今回仕事があるのは良いことなのかもしれない。子供の高い声から逃れる言い訳ができる。その分職場では、大人の賑やかさと付き合うのだけれど。
「トビ、サシャ、フィー! よく子供だけでここまで来た、偉いぞ」
「じいちゃん、久しぶり! 新年おめでとう!」
「じーちゃ、フィー来たよ!」
 祖父母宅では感動の再会。愛しいものは猫可愛がりする(でも猫は苦手な)祖父は早速小さな孫たちを抱きしめ、頭を撫でる。
「トビ、疲れたでしょう。ミルクコーヒーを淹れたからおいで。お菓子もたくさんあるよ」
 祖母は優しい笑みを湛え、俺たちを招き入れてくれる。ダイニングテーブルにはホットミルクが二つとミルクコーヒーが一つ用意してあった。
 鍛冶屋の工房を備えた住宅は温かく、店舗の奥からは金属を打つ音が聞こえる。昔は祖母の祖父が、今はその弟子が店をやっていて、首都の軍人はここで作られた得物を所持することを夢見ているという。
「トビはまたアルバイトなんだろう、文派の」
「うん。年明けから少しの間勤められないかって連絡が来たんだ。父さんも忙しいから、本当はちょっと心配なんだけど」
 いつもなら父の経営する写真屋をはりきって手伝っている時期だが、届いた手紙と雇用契約書を見せるとすぐに「行ってこい」と言われた。
 ――だってさ、行きたいって顔してるもん、トビ。よっぽど前の仕事が楽しかったんだな。
 楽しかったというよりは刺激的だったという方が正しい。でももう一度関わりたいという気持ちは同じだ。
 今度は今月いっぱいの契約で、前回の三日間より随分長い。その間、俺は祖父母の世話になる。彼らは孫と過ごす時間を喜んでくれるのでありがたい。
 束の間の穏やかな時間を満喫し、翌日に向けて静かに覚悟を決めた。

 祖父母と弟妹に見送られて出勤し、やってきたのは文派の施設が集まる地区。文派とはエルニーニャ王国の文化や教育を主に司る機関または人々の俗称だ。
 一般市民の代表ともいわれるが、十分な教育を当たり前に受けられるのは中流層以上の人々なので、俺自身は「一般」に少々疑問を持っている。
 さて、俺の職場は文派の長である大文卿がいる文部事務所――よりもさらに奥まったところにある文化保護機構の建物だ。旧文部事務所なだけあって立派で頑丈な造りだが、とても古く若干小規模、リフォーム済みで汚れてはいないのが救いである。
 所属は「特殊事項対策部隊」。部隊といえどもたったの三人、俺が加わっても四人だけの、こぢんまりとした部署だ。
「おはようございます。本日より」
「わあ、トビ君だ! 待ってたよ!」
「わあ、トビ君だ! 天才神様救世主!」
 挨拶をし終わらないうちに、同じ顔の二人が飛びついてきた。顔は同じだが髪色が違って、金髪がノールさん、黒髪がジュードさん。彼らは双子の兄弟だ。
「お久しぶりです。ジュードさん、俺の表現ぶれまくってますよ」
「だってトビ君がいてくれると本当に助かるんだよ」
「ここ何ヶ月か忙しくて、猫に限らずねぁーの手だって大いに借りたかったんだ」
 双子は賑やかなステレオを響かせ、これまでが、そしてこれからがいかに大変かを語ろうとした。しかしそれも執務室の奥、資料室の扉の音がするとぴたりと止む。
「朝から喧しい。お前たちは低血圧と無縁で実に羨ましいな」
 低くハスキーな声。琥珀色の長い髪を掻き上げる仕草と、古めかしい伊達眼鏡の向こうからこちらを睨む若葉の色の瞳。
「隊長、お久しぶりです。本日よりよろしくお願いします」
「ああ、頼む。トビがいれば書類が片付くな」
 彼女こそが隊長、メイベル・ガンクロウ。俺の雇い主で上司だ。
「今回も資料の整理からですか。手紙には別の業務もあるとのことでしたが」
 前回は資料のナンバリングとファイリングが主な仕事だった。だが今回はそれ以外にも多種多様な業務があり、そのために雇用期間も長くしているという。
「今日は資料を片付けたら一日が終わるだろうな。明日以降は外に出てもらうこともある」
「外って調査ですか、それとも」
「そうそう本業はまわってこない。調査だ。だが明日のことは明日話す」
 本日の業務の説明を始める、と隊長が指さした机には、大量の書類が無造作に積まれていた。

 書類を案件毎にわかりやすくまとめ、番号をつけ、バインダーに綴じる。特に最初の工程が意外と重労働で、息を切らしながら一人で片付けた。
 双子は外に調査に行き、隊長は資料室に篭って報告書の作成などを行う。人手が足りないので、普段は調査を一通り終えてから資料整理の日を設けるそうだ。それも最近は十分ではなさそうだけれど。
 人員不足は隊長の採用基準が厳しいから、ついでに気まぐれだからというのもある。俺が採用されたのはほぼ気まぐれだった。そこに様々な偶然が重なったのだ。
 やっと一つ目の案件が片付く、というところで双子が帰ってきた。お腹が空いた、と二重奏を始めたので、昼の休憩だと気付いた。
「トビ君、机の上きれいにしたね! 超優秀!」
「トビ君、次は炊事場に行こう! 神の手の出番!」
「昼食の支度ですね。今日の当番は俺なんですか」
「今日のというか、トビ君がいる間はトビ君のご飯が食べたい」
 いつもは当番を決めて昼食を作っているはずのこの人たちは、しかし料理は不得手らしい。以前俺がありあわせのもので拵えた食事を絶賛してくれた。
 今回の雇用契約書にも「事務、その他(炊事等)」とあり、その用意周到さに呆れたものだった。材料も先程、箱いっぱいに届いている。
 メニューを考えつつ炊事場に行くと、先客がいた。エプロンをした男性が冷蔵庫から卵を取り出している。
「……おや、君は」
 こちらを見て爽やかに微笑んだその人の名前を、なかなか思い出せない。たしかこんな感じではなかったか。
「お久しぶりです。ええと、ナスコンブさん?」
「ジョナス・スロコンブだよ。ナスコンブなんてセンスのない呼び方は二度としないでくれると嬉しいな」
 笑顔が引き攣り、額に青筋が浮いている。ナスコンブと呼ばれるのはそんなに嫌なのか。
「失礼しました。ジョナスさん、またよろしくお願いします。今月末までいるので」
「へえ、今度はちょっと長いね。ええと、君は」
「自己紹介、きちんとしたことがありませんでしたね。特殊部隊のトビ・ハイルです」
 話しながら道具と材料を揃える。卵を使うのはいいかもしれない。野菜をたっぷり混ぜ込んでオムレツにしよう。ジャガイモを多めに入れれば十分ボリュームが出る。
「また特殊部隊なんかに来たの? あんな野蛮なところやめときなって」
「確かにちょっと文派らしからぬ仕事はありますけど、遠慮するほどではないです。少なくとも俺には」
「ふうん? 変わった子だねえ、トビ君」
 炊事場の作業台は大きく、コンロも複数あって、同時に調理を始めても邪魔にならないのがありがたい。俺が野菜を切っているあいだに、ジョナスさんの方からバターのいい香りがしてきた。
「でも、あんまり特殊部隊の奴らに毒されないでね。君の料理が不味くなったら可哀想だ」
「ご心配なく。料理の腕は上がりそうです」
「でも変な仕事で怪我をしたら、それどころじゃないだろう」
 ジョナスさんは美しい色と形のオムレツをささっと作り上げる。見事なそれは白い皿に盛り付けられ、ソースとパセリが添えられた。
「野蛮なことなんか、軍に任せておけばいい。あんな汚れ仕事は文派のやることじゃない。つくづく大文卿は結婚を失敗したと思うよ」
 じゃあね、とにこやかに手を振り、ジョナスさんは一人分の食事とともに去っていく。俺はフライパンを温めている間に卵を混ぜ、バターはないので植物油を使おうと思った。

 一日目は本当に資料の整理で終わってしまった。昼食をベタ褒めされただけでは脳の疲労が完全回復することはなく(もちろんとても嬉しかったが)帰宅後はぼんやりと過ごしてしまった。
 祖父母の手伝いは弟妹がやってくれたが、俺はそんな良い子たちを満足に褒めてやることもできず、何やら一生懸命に話してくれていたこともあまり覚えていない。
 少々の罪悪感を背負い、二日目の仕事が始まった。
「通常の資料整理は午前までだ。午後からは面倒な仕事にかかる」
 隊長の号令に、双子は「遂に」「とうとう」と囁きあう。俺が呼ばれた理由の最たるものが、ようやく明らかになるらしい。
 今日は全員内勤になり、資料整理は双子と三人で取り組んだ。さすがに手が増えると片付くのも早い。しかし双子は事務作業に対する集中力が長続きしないようで、度々「ねむーい」「だるーい」と叫んでいた。
 昼食で機嫌を直してもらい、いよいよ午後の仕事が始まる。
「博物館の展示の準備をする。開催は来年の秋だ」
 随分先、というわけでもないらしい。企画、資料の選定、調査や展示資料の借用など、事前準備は山ほどある。今回は数年に一度の大規模企画となるため、準備にも時間と手間をかけるのだ。
「正直、時間は足りてないんだよ」
「だからこんな辺境の部署にまでお鉢が回ってきたんだよね」
 双子の愚痴を、隊長が睨んで黙らせる。
「俺たちは何をするんですか」
「資料の借用のためにあちこち駆け回る。要は使い走りだ」
 それで外に出るということか。腑に落ちたところで、双子が苦いものでも食べたような表情になる。
「そのためにまず、資料がどこにあるのかを把握したり探さなきゃいけない」
「場合によってはとっくに失われてたりもするけど、それもちゃんと追跡して記録しなきゃいけない」
 つまりはデスクワークから! と声を揃えたので、この作業がここで保留され続けていた理由もわかった。取っ掛りが苦手なのだ。
 俺に手紙が来たのは昨年の十二月初め。その頃にはこの作業が必要だとわかっていたはずで、この一ヶ月で少しも手をつけていないとなれば、たしかに大変な仕事になる。
「まずは展示に関わる資料の一覧表と、我々に任された部分を確認しろ。それが本日午後の主な仕事だ」
 主な、というのは他にも通常業務や依頼の処理があるからだ。やはり圧倒的に人手が足りない。おまけにいずれも双子の集中力が続かない分野らしい。
 ここからは戦いだ。気合いを入れたところで、隊長が言う。
「だが定時には帰れ。色々とうるさいからな」

 山のような書類を読み込み、可能な限り頭に入れて、祖父母宅に帰ってきた。玄関前に立つと子供の声がして、サシャとフェリシーがあまり騒ぎすぎるようなら叱らないと、と思っていたのだが。
「おかえり、兄ちゃん!」
「トビ兄ちゃんだ、久しぶりだな!」
 扉を開けて出迎えたのはサシャと、予想していなかった三人目の子供だった。
「グリン! しばらく会わないうちに、背が伸びたね」
「だろ? 兄ちゃんはさらにハンサムになったな」
 暗い青色の髪をぴょこぴょこはねさせ、絵葉書などで見るような海色の瞳をきらきら輝かせる少年は、サシャの友達のグリンテール。年齢はサシャよりも二つ上のはずで、今年で九歳になるだろうか。
 レジーナに生まれ育った生粋の都会っ子が、生まれも育ちも地方の町であるサシャと大の仲良しなのは、彼の母親が俺たちの父の元部下であり、片腕的存在であったからだ。家族ぐるみの付き合いは回数としては少ないが時間として長い。
 サシャとグリンに引っ張られてリビングへ向かい、さらに驚いた。というか、一瞬息が止まった。
「おかえり、トビ。お仕事お疲れ様」
 祖父母と話をしていたらしいその人は、俺に気づくとにんまりした。たまにしか会えないが、いつだって笑顔が変わらない。
「……お久しぶりです、イリスさん」
 挨拶一言もやっとで返す。彼女を見るとどうにも脈拍が速くなり、体温が上がる気がする。初めて会った日、こちらを安心させるように明るく笑いかけてくれてから、ずっと。
 そのとき、彼女には既に夫がいて、子供――グリンもとっくに生まれていたというのに。
「どうしてここに。祖父母に用事でも?」
「出先でハルさんとサシャとフィーに会ったの。グリンも遊びたがったし、ちょっとお邪魔させてもらったんだ」
 美味しいコーヒーも飲みたかったし、とイリスさんは祖母と笑い合う。取り繕おうと尋ねた俺の声が震えたことには気付いていないようだ。それでいい。一生気付かないでいてほしい。
 荷物を置いてくると、祖母とイリスさんは一緒に夕飯の支度を始めていた。食べていくらしい。俺も慌てて自分のエプロンを取り、台所に参加する。
「イリスさんはお客様なんだから座ってていいのに」
「違うの。ハルさんに教わりたいメニューがあってさ。我が家はカレー以外はあんまりパッとしないから」
 母さんや夫が器用だから、盛り付けはどれもきれいなんだけど。――周りのことを話すとき、イリスさんは特に楽しそうだ。大好きで大切な人たちが、愛しくて仕方がないということが伝わってくる。
 その度に俺は、裁縫針で胸を突かれたような心地がする。
「ボクだって人から教わったんだけどね。アクトさんに色々訊いたし、ケーキの作り方ならリアさん。あ、シチューはね、カイさんのレシピが美味しいよ。ブラックさんと料理研究したこともあったなあ」
「親世代はいつまでも仲が良いよね。わたしたちもそんな風にいられるかな」
「いられるよ。ほら、イリスちゃんのお兄さんたちだって仲良しだし」
 祖母とイリスさんが和気藹々と話せるのは、祖父母の世代が軍でチームを組む仲間だったこと、その子供たちも軍に入隊してチームを組んだことが連なっているからだ。互いによく知っていて、その関係を保ち続けている。
 父はかつてイリスさんのお兄さんたちと同期の仲間であり、後に入ってきたイリスさんたちの世代を部下として、大総統職に就いていた。そういう概要は両親からもその知人たちからも聞いていたが、詳しいことはあまり語られていない。
 軍は一生涯の仲間を得られるかもしれないかわりに、つらい出来事によってその仲間を喪ってしまうこともある、そんなところだからかもしれない。
「そうだ、トビ。文派特殊部隊で仕事してるんだよね」
 急にイリスさんに話を振られ、心臓が跳ねた。はい、という簡単な返事すらぎこちなくなるが、彼女は触れずに先に進める。
「隊長、元気かな。イライラしてない?」
「元気……かどうかはわかりにくいですが、落ち着いて仕事を教えて下さってますよ。あ、低血圧ではあるみたいです」
「そっか。そこは変わってないけど、頑張ってるんだなあ」
 根菜の皮剥きをしながら、イリスさんはしみじみと言う。そういえばガンクロウ隊長も父の元部下だ。父のことは気に食わないと言っていたが、イリスさんと同時期に軍に所属していたのではないか。
「イリスさん、隊長とは知り合いですか」
「同期。わたしの誕生月は三月でしょう、だから養成学校組と入隊試験が重なるんだ。隊長はね、学校でもかなりの実力者だったんだよ」
 隊長がイリスさんと同期だったことだけではなく、軍人養成学校の卒業生であったことも初めて知った。まさか隊長も軍家の人なのかと問うと、イリスさんは緩く否定する。
「ある意味、軍とは距離がある家の子だよ。学校もできたばかりの奨学金制度を活用して行ったんだって。あ、制度を整えたのはこちらのハルさんね」
 可愛い悪戯をする子供のように言うイリスさんに、祖母がちょっと恥ずかしそうに笑う。その間にも調理は進んでいて、俺だけが手元をもたつかせていた。
「隊長はね、同期だったし、仲間だった。わたしたち、長いこと一緒にいたんだよ。軍人寮でも同室で、最初は互いにでっかくて分厚い心の壁があった」
「ここまで意外な話しかありませんけど、心の壁が一番意外です。少なくともイリスさんは、そういうのはすぐに突破する人だと思っていました」
 俺のときもそうだった。誰に対してもこの人は屈託なく接し、いつの間にか相手の手をとっている。だが当人は、そんなことないよ、と苦笑した。
「何もかも違ったんだ、わたしたち。わたしからすれば、あの子は本当に初めて会うタイプの人間。仲良くしたかったけど、どうすればいいのかわからなかった」
 もどかしい気持ちを、当時ほんの十歳程度の子供が、いつまでも大人しく抱えてはいられなかった。ある日些細なことで二人とも感情を爆発させ、大暴れの大喧嘩になったという。
 でもそれが却って良かったようで、以降は互いに認め合うようになった。それからは良い友達で、切磋琢磨し合う好敵手だったのだと、イリスさんは穏やかな表情で語った。
「……まあ、それも二十五歳の春までだったけど。というか、きっとわたしがあの子のことを見ようとしてこなかっただけなんだよね」
「どういうことですか。二十五歳、ということは十五年も一緒にいたんでしょう」
「うん。それだけの長い間、結局わたしは自分の見たいものしか見てこなかったの。あの子の気持ち、真剣に考えてあげなかった」
 驕りだったかもしれない。一緒にいれば気持ちは通じているだろうと。実際、仕事では何度も以心伝心の動きができた。危機を幾度も乗り越えた。その事に甘えていたから、あの子は離れていったのだ。
 イリスさんはそこまでで話を切った。そして祖母に、ポトフの塩加減について訊ねていた。
 俺は使い終えた調理器具を洗いながら、頭の中で「あの子」という呼び方を繰り返していた。現在の隊長、少なくとも俺から見たあの人には、とても似つかわしくない呼称。凛々しく堂々とした大人の女性を表現するのに「あの子」はなかなか使えない。
 だからこそよくわかる。イリスさんにとって、隊長はかけがえのない同期で、友人なのだ。「隊長」ではなく「あの子」が適切で、一方でこれまで一度も名前を呼んでいない。
 離れていった。隊長が、イリスさんから。そのとき、一体何があったのだろう。
 塩加減が上手くいかなければカレー粉でも入れちゃえば。それはもうカレーじゃないですか。そんな他愛もない、いっそ下らない会話に声を上げて笑うイリスさんの、一瞬の寂しげな表情が頭から離れない。

 アルバイト三日目。昨夜の余韻がまだ頭の中に残ったまま、今日も書類整理から始めた。ナンバリングミスをしないよう気を付けてはいるけれど、ついイリスさんのことを思い出してしまう。
 隊長とイリスさんは同期で友人だった。だが、隊長は離れていった。その続きはとうとう聞けずじまいで、夕飯の後は満腹になった子供たちが眠くなってきたのですぐに解散になったのだった。
「それにしても、相変わらず」
 きれいで可愛い人だったな。赤い瞳も強く輝いていて、あの人の目なら好きだと思う。俺の深紅の右目とは、なんだか印象が違うのだ。
 もしも俺がもっと早くに生まれて、あの人と同じ時間を同じくらいの年齢で生きていられたら。いや、それでも俺があの人と出会えるとは限らないし、そもそも俺なんかがつり合わない。何度も考えた下らないことが頭に浮かび、慌てて打ち消した。
 仕事に集中できず、気を取り直すためにコーヒーを淹れようと立ち上がる。執務室に備え付けられたコーヒーサーバーは、毎朝隊長がセットしているらしい。俺が来たときにはもうすぐに飲める状態になっている。
 ミルクをポーション一つ分落としていると、資料室の扉が開いた。隊長が片手で髪を掻き上げ、もう片方の手でマグカップを持ったまま扉を押している。
「ちょうどいい。トビ、私の分も」
「はい」
 隊長からカップを受け取り、コーヒーを注ぐ。この人はいつも何も余計なものを入れない。本当は深煎りで苦味の強い、濃いコーヒーが好きなのだろう。
「どうぞ」
「どうも。……お前、今日は朝からなんだかにやけているな。はっきり言って気持ち悪い」
「はっきりすぎます。さすがにちょっと傷つきますよ」
 ただ、隊長の指摘は否定できない。俺がイリスさんに会えたことで浮かれているのは確かなのだ。
 隊長になら、理由を話してもいいだろう。聞いてくれるかは別として。なにしろイリスさんとは昔馴染みなのだから。――結末は気になるけれど、気分を害したようならすぐにやめればいい。
「実は、昨日祖父母の家に知人が来て。弟の友達と、そのお母さんなんですが」
「弟? 弟なんかいたのか」
「いますよ、弟も妹も。歳は離れてますけど」
 それで、と本題に入る前に、隊長が先に口を開いた。
「長子なら、面倒も多かったんじゃないのか。やれ弟妹を優先しろだの、たまには親の愚痴を聞けだの、下の子に配慮して欲しいものを我慢しろだの」
「うちはそういうのはありませんね。俺がやりたくて弟や妹の世話を焼くことはありますけど、親にそう言われた覚えはないです。まして愚痴なんて滅多に言いませんよ」
 他の家の話を聞くと、よくあるらしい。長子は下の子たちの面倒を見なければならず、不手際があれば責任を取らなければならない。下の子たちの欲求を煽らないよう、欲しいものは我慢して、手に入れたとしても堂々と見せびらかしてはならない。親の愛情が弟妹に傾くのは仕方がないから、我儘を言ってはいけない。そんな「上の子の掟」みたいなものが。
 だがうちの場合、母が特にそれを嫌がった。同じ家の兄弟なのに、長子ばかりが気を遣って窮屈になることはないだろうと。あたしもちょっとだけ寂しい思いをしたから、と母は言っていた。
「ああ、お前の両親ならそうかもしれないな。気味が悪いくらい人間ができている」
「それは褒めてるんですよね? とにかくそういう環境なので、特に苦労はしていません。隊長は苦労なさったんですか」
 隊長には妹がいる。以前に仕事を依頼してきた、弁護士のカリンさんだ。ところがどうやら彼女だけではないらしい。
「妹や弟は芋の子みたいにゴロゴロいたからな。カリンの下にも何人も」
「え、大家族なんですね」
「無計画にやりたい放題で、間引けるほどの金もなかっただけだ。最終的には全員それなりに育って独立できたから良いが」
 普段聞くことのないような乱暴な言葉を吐く隊長を、諌める気はすぐに失せた。口を付けているマグカップ、古い伊達眼鏡、長い前髪と何重にも壁を作っているけれど、その瞳に闇がさしているのが見えたから。
「隊長は、たくさんいる妹さんや弟さんの世話をしてきたんですね。立派です」
 空気を少しでも変えられたらとかけた言葉も、
「いや、私は家ごと全部捨てた」
 あっさりと跳ね除けられた。
「早くそうしておけば良かったと思っている」

 昼食は胸の中に蟠る様々なものを一掃しようとして、厚い豚肉を思い切って焼いた。柔らかくなるよう包丁を入れ、小麦粉をまぶし、植物油を多めにひいたフライパンに投入する。しっかり火を通して、レタスなどの野菜とともにパンに挟んだ。
 ボリュームのあるサンドイッチは双子には評判が良かったが、隊長はどうやら肉があまり好きではないらしい。完食はしてくれたが、終始「だが重い」と呟いていた。
 というわけで、俺としては精神的に消化不良のまま、午後の仕事が始まった。昨日中にリストを確認しておいた、借用する資料の現在地を調べていく。
「トビがいるうちにやっておきたいのが、この『記念メダル』の収集だ」
 隊長がリストを指で叩く。該当箇所には九つ並ぶ「エルニーニャ王国建国二百五十年記念メダル」の文字。補足としてその後に家名が記されている。
 アトラ、ゼウスァート、インフェリア、エスト、ハルトライム、パラミクス、オルテリア、フォース、ゴルストンス――馴染みのある名前ばかりだ。
「アトラは王家。ゼウスァート、インフェリア、エストは軍御三家。ハルトライムは大文卿家。パラミクスとオルテリアは貴族家。フォースとゴルストンスは商家。どれも当然知っているだろう。お前たちは当事者でもある」
 ノールさんとジュードさんは大文卿家の末裔だ。そして俺は、血は繋がっていないがゼウスァートと縁がある。これは父が国軍を率いていたときの名だ。
「記念メダルはそこにある家に贈られた品だ。貴族家と商家は当時の代表選抜。それを今回並べて展示したいと大文卿は仰せだ」
 既に実物の現存を確認し、借用の契約を済ませているところもあるという。アトラ、ハルトライム、パラミクス、オルテリア、ゴルストンスの五つの家がそうだ。王家と大文卿家なら当然だろう。
「残りの四つ、軍御三家とフォース家はまだ現物があるかどうかの確認もできていない。そもそも軍家は史料を保管しているエスト家以外は物持ちが非常に良くない。ゼウスァートに至ってはとっくに家すらない有様だ。フォース家は忙しすぎて話がろくにできていないらしいが」
 しかし、と隊長は手を伸ばし、俺の肩を叩いた。なるほど、俺が来るのを待っていたのはそういうことか。
「トビを使えば調査も交渉も借用契約も順調に進むはずだ。前大総統のご子息だからな」
「……まあ、軍家との繋がりは必要だったんでしょうけれど」
 自信はないですよ、と言っておく。隊長が言った通り、ゼウスァートはその名こそ先代大総統が名乗っていたが、家としてはとうに滅びてしまっている。そのメダルが受け継がれてどこかに存在しているという可能性はかなり低い。今のところ情報もない。
 ゼウスァートのメダルの行方を追いつつ、他の未収集のメダルを確認していくしかない。
「でも、隊長ならインフェリア家のメダルくらいはすぐに借用できたんじゃないですか。イリスさんと同期だし」
 つい溜息混じりに言ってしまった。あ、と双子が声を漏らす。――あまり良くない雰囲気で。
「……父親から聞いたのか」
 隊長の声が一層低く、俺の鼓膜を震わせた。
「いいえ。父ではなく本人……イリスさんから」
「いつ聞いた?」
「き、昨日です。祖父母の家に来ていて」
「なるほど、午前の無駄話に出てきたのはそれか。それはわかった、だが私の前でその名を口にするな」
 ぴしゃり、と。叩きつけるような命令に、俺は頷くしかなかった。
 その後、隊長は何事もなかったかのようにメダル収集についての説明を続け、一通り終えると「あとは任せた」と資料室に戻ってしまった。
 すぐさま双子が俺を挟んで、ひそひそと話し出す。
「トビ君、隊長の前でイリス・インフェリアの話は駄目だよ」
「トビ君は知らなくて当然だけど、隊長にはしちゃ駄目だよ」
「どうしてですか。二人の間に何があったんですか」
 イリスさんは寂しそうにして、隊長は怒り出す。そうなってしまうだけの何があったというのだ。
 双子は顔を見合わせて唸った後、いいかな、いいよね、と頷きあった。
「これはトビ君に納得してもらうためだけに話すから」
「おれたちから聞いたことも、このことを知ってるっていうことも、内緒にしてね」
 資料整理を進めつつの、双子による昔話が始まった。


 十三年前の春、ブロッケン家の長女メイベルと次女カリンの間で話し合いが持たれた。二人の生家であるブロッケン家を、事実上解体するためのものだ。
 長い間臥せっていた母を施設に移し、今まで住んでいた古い家を取り壊す。土地は安いが売りに出す。弟妹全員が自分で生計を立てられるようになり、ようやく実行できると判断した。
 母の生活費は当然自分が出し続けるものだと、メイベルは考えていた。これまで母の気分を害し続け、その後始末を主にカリンに任せていたために、以降もそれくらいはするつもりだった。
「ううん、お姉ちゃんはもういいよ」
 しかし妹は首を横に振った。意味を掴めずにいると、もうみんな大丈夫だから、わたしたちはずっと話し合っていたの、と続いた。
「お姉ちゃんは、この家を出てもいいんだよ。もっと早く、そうさせてあげられたらよかった。わたしたちが、お姉ちゃんに頼りきって縛り付けてたんだよね」
「……いや、私の意思だが」
「その意思は、わたしたちがもしいなかったら、どうしてた?」
 妹は完全にメイベルの本心を見透かしていた。顔は全くといっていいほど似なかったが、恐らく思考は一番似ているのが、このカリンだった。
 似ていても、行き着く先が違う。カリンは優しい娘で、どんなに酷い相手でも寄り添い思いやることのできる広い心を持っている。対してメイベルは慈悲というものを離れるというかたちで表す。見ようによっては冷たく突き放すようにも、見捨てたようにもとられる。言葉もカリンのように柔らかいものを選んで使うということが苦手だ。
「私だけなら、とっくに縁を切って捨てている」
「うん、お姉ちゃんなら然るべき所に任せてたよね。でもお母さんとわたしたちを離してしまうことを迷っていたんでしょう」
 メイベルと母は折り合いが悪い。家族に暴力を振るっていた父を、メイベルが自身の手で捕まえてからずっと。母が親不孝者、お前さえいなければ、と言葉の礫を投げつけるのを、メイベルはかわしながら過ごしてきた。
 軍人寮に生活の場を移せたことで随分楽になった。妹たちに暴言が及ぶことはあまりなかったが、引きこもる母の面倒をみる負担は押し付けてしまった。
 下の子たちは小さく、母親と引き離していいのかは随分悩み迷った。家は貧しく、メイベルの収入だけでは到底一家の生計を何とかするのがせいいっぱいで、施設を利用するための費用を賄うのは厳しい。
 金銭問題は妹弟たちが働けるようになるにつれて解消されつつあったが、母は年齢を重ね衰えていく。介護の負担は増えていった。
「お母さんも、専門の人が看てくれた方が楽だよね」
「ああ、だからそれくらいの面倒は私が」
「お姉ちゃんはもうずっとやってくれてた。だから今度はわたしたちの番」
 離れていいから、と妹は言う。しがらみになんか囚われるのはもう終わりにしていいと。
「自由になりなよ、お姉ちゃん」
 逃げたいという心の奥底に沈めて蓋をしてきた願いは、妹にはとっくに見つかっていた。

 それでもすぐには頷けなかった。自由などと突然言われてもどうすればいいのかわからない。好きにしていいのなら現状維持もまた選択のうちだろう。
 しかし時の流れと他人の想いは、けっして留めおくことができないものだ。
「あのさ、みんなに報告したいことがあるんだ」
 珍しく仲間が揃った昼休みだった。将官室長として忙しいルイゼン、同じく情報処理室長であるフィネーロ、事務方として後輩たちの教育に勤しむカリン、現場指揮を担う機会が多くなったメイベル、そして大総統補佐であり続けたイリス。
 仕事の内容も異なり、班として動くことも階級が上がるにつれて減り、それでも仲間だと認識はしていた。
 殊、イリスに対しては、メイベルは十五年もの間一途に想い続けてきた。他の者には抱かない特別な感情を向けていて、しかし一度もまともに受け取られたことはない。
「わたし、結婚するから」
 その想い人が、照れたように笑いながら言う。言ってしまってから染まる彼女の頬や、発言に瞠目した仲間たちを、メイベルは間抜けだなと思った。
「イリスさん、結婚って」
「冗談じゃないのか」
 発言にあたふたしたのはカリンとフィネーロで、ちょっと眉を上げただけだったのがルイゼンだった。では自分はどんな顔をしていたのだろう、とメイベルが考えたのは随分後のことだ。
「本当だよ。昨夜、ウルフにプロポーズした。次はわたしからって約束してたし」
「うわあ、イリスさん……相手がその人じゃなければ百点満点でかっこいいです」
 実に正直なカリンに、イリスは苦笑した。相手は仲間にはあまり好評ではない。なにしろ過去にイリスに危害を加えたことも、自らの目的のために利用しようとしたこともある人物だ。盗みの前科があり、解決したのはイリスたちだった。
 それがなぜ結婚に至るまでになったのか、メイベルには全く理解できない。したくもない。
「バンリさんがいなくなったら、ウルフは独りになっちゃうでしょ」
「バンリさんってウルフの親代わりの? いや、兄だっけ。……そんなに具合悪いのか」
 ルイゼンがやっと口を開く。彼も長いことイリスに懸想していたが、ついに幼馴染の女性の猛アタックに根負けしてしまった。冷静なのはそのためだろう。
「次に意識がなくなったら、もう戻ってこられないだろうって。わたしも一緒に聞いたの。あいつがどういう人生送ってきたか知ってるから、もう独りにさせたくないんだ。だからうちの一員にするの」
「インフェリア家に? 親御さんには話したんだろうな」
「もちろんだよ。父さんも母さんも、それに叔母さんとおばあちゃんも歓迎するって。渋い顔してたのはおじいちゃんとお兄ちゃんだけ」
 とはいえ誰も反対はしていないのだろう。イリスの祖父の顔が渋いのは通常であり、兄の渋面は妹を傷つけたことのある男に対して一応とっておく程度のものだ。
「プロポーズして、受けてくれたから、すぐ家に連れてった。父さんと母さんは結婚式の準備を進めなきゃって張り切ってる。できればバンリさんにも見て欲しいからさ、急ごうって」
「それは急な話になるな。様子からしてあまり、その……」
「衣装だけでも見せたいじゃない。レヴィ兄にもしばらく休みちょうだいって言ってある」
 式本番はすぐには無理だ。落ち着いてからになるだろうが、そのときはみんなに来てほしい。イリスはそう言って、今度は嬉しそうに、幸せそうに笑った。
 仲間たちはみんなイリスが好きだった。ルイゼンの長い初恋も、フィネーロの淡い想いも、カリンの憧れも、みんなイリスに向けられていた。メイベルの燃えるような激情だって。
 しかしそれらには応えることなく、イリスは自分の幸福を掴み、相手を生涯守り抜くと誓った。――そう、彼女は自分が守るべき人を選んだのだ。
 イリスの存在は、メイベルにとって正義だった。父を捕まえて家族の生活を守るために必死で軍に入り、けれどもそれを母に否定され恨まれ、絶望したメイベルの前に現れた「清らかなもの」。家族に恵まれ、生活に恵まれ、何一つ不自由のない人間。それは胡散臭いほどに理想的だった。
 こういう人間がこの世界の正義なのだろう。このような人間を生かすために自分のような捨て駒が存在しているのだろう。妹弟たちを正義の側に押し上げるためにも働かなくては。
 そう思ってきたメイベルの全てが、この瞬間にまっさらになった。もう何をする必要もない。メイベル・ブロッケンという人間の存在意義は無くなったのだ。
「え、ベル、どこ行くの。まだご飯一口も食べてないのに」
「いらん」
 ならばもう、正義なんか手放していい。いや、そんなものはきっとなかったのだ。少なくとも自分の中には存在しておらず、常に他人に依存していた。
 書き殴った退職届を直接叩き付けると、大総統レヴィアンス・ゼウスァートは「マジかー、まさかの第一号だな」と苦笑した。それから丁寧に押し戻し、真面目な顔で言った。
「所定の書式で出し直せ。本当なら将官室長に出してほしいけど、ルイゼンだもんな。いいや、ここで受理する」
 退職届の用紙を、レヴィアンスのもう一人の補佐であるレオナルド・ガードナー大将が用意してくれた。ここで書いてもいいと言われ、その場で必要事項を埋めた。
「今後はどうすんの」
「首都からは出て行く。いる必要がない」
「そっか。いいね、オレも退役したらそうしようかな」
 長い間ありがとう、お疲れ様。その言葉を聞いて、メイベルは初めてレヴィアンスに対して最敬礼した。
 大総統執務室を出てすぐに、軍人寮に置いていた荷物を持てるだけまとめ、退寮手続きを済ませた。イリスと共に使っていた部屋は、しかし最近はメイベルが一人でいることも多かった。
 もう軍人ではない。役所で手続きをしてブロッケンの家から籍を抜けば、家族も持たない。完全に独りになった今、何をしてもいい。
 選択肢は無限にあるはずなのに、何一つとして見えない。とりあえず首都からは出ていこうと、中央司令部の敷地の外へ踏み出した。


 双子が作業をしながら、いやほとんど手をつけていなかったが、ざっくりと教えてくれたことをゆっくり反芻する。
 隊長の実家は複雑な事情があって、カリンさんの勧めもあり隊長は籍を抜いている。元の姓はブロッケンという。
 隊長が軍を辞めたのは、イリスさんが結婚を決めたのがきっかけだった。隊長はイリスさんのことが多分好きだった。――このあたりは双子の見解も大いにあるので、鵜呑みにはしていない。
 だが俺も思い出した。イリスさんの結婚式の写真を見たことがある。というのも、その写真は父が撮ったもので、まだ家に現像したものとネガがあるのだ。
 美しく笑うイリスさんにばかり見とれていたので確信は持てないけれど、あの集合写真に隊長らしき姿はなかったかもしれない。首都を離れてしばらく戻らなかったのなら、出席しなかったのだろう。
「ちなみに隊長はリッツェ女史の結婚式には戻ってきて参加してるよ」
「それが十二年前かな。でもすぐにまた首都から出て行った」
「妹弟に何かあるたび戻ったみたいだけど、あんまり知り合いには会ってない」
「とうとう母様……大文卿夫人に捕まって、ここを任されたのが五年前」
 家との関係はカリンさんが繋いでいるようだが、イリスさんとの関係は修復されていないということか。先程の話の通りなら、隊長からしてみれば修復以前の問題なのだろうけれど。
 互いに気まずいのかもしれない。イリスさんは隊長がいなくなったことで、おそらくは隊長の気持ちを真剣に考えたのだ。隊長は急な別れ方をしてからイリスさんとまともに会っておらず、どんな顔をして会ったらいいのかわからないのでは。
 まだ気持ちを整理しきれていない可能性だってある。その名を口にするなとは、そういう意味ではないか。
「ノールさんとジュードさんは、このままでいいと思いますか」
 これから仕事で関わるのかもしれないし、と付け足したが、それでも双子は「別に」と言った。
「おれたちが口出しすることじゃないから」
「仲良くなくても仕事はするよ、隊長は」
 納得したならこの話はおしまい、と声が揃う。だが俺は納得ができていないので、終わらせられないのだ。

 ともかく仕事はしなければならないので、帰宅後に祖父母に尋ねた。
「ねえ、建国二百五十年記念のメダルって知ってる? その頃に国内の有力な家が貰ったらしいんだけど」
「いや、オレは知らない。ハルは?」
「ううん、わかんない。あ、でも五百年記念のならうちにあるよ」
 昔もあったんだね、と祖母はあっさりそれを出してきた。直径五センチほどの金メダルが、立派な箱に収められている。
 覗き込んだサシャとフェリシーがきれいだとはしゃいだので、祖母は躊躇なくメダルをフェリシーに持たせた。
「触らせていいの?」
「おじいちゃんもよく触らせてくれたからね。五百年記念のときは、国王と有名な軍家と大文卿の他に、貴族と大きい商家、それとうちみたいな職人の家に配られたんだよ」
 全部で十一個だったかな、と言う祖母は誇らしげで、今は亡き名鍛冶工スティーナ翁を心から尊敬していることが窺えた。もちろんその人の偉大さも。
「有名な軍家ってやっぱり」
「インフェリア家とエスト家、それから当時大総統だったダリアウェイド家の三つ」
 ゼウスァート家の人々が姿を消したのは、二百五十年記念メダルの授与から約二十年後だ。それから財産はどうなったのだったか。
「ばあちゃん、二百五十年のときのメダルって、まだ残ってると思う? ええと、インフェリア家とエスト家と、あとフォース家。本当はゼウスァート家のも知りたいけど、これは半ば諦めてる」
「そうだねえ……。エスト家ならほぼ確実に保管してると思うよ。フォース家もそういうところはきちんとしてそう。インフェリア家はカスケードさんじゃなくアーサーさんの管理だったかも」
「アーサーさんって?」
「カスケードさんのお父さん。つまりグリン君の曾お祖父さんなんだけど、もう身罷ってしまったから……」
 訊いてみるしかないね、と祖母は腕組みをした。受け継いでいるのではと思ったけれど、少々不安があるらしい。
「ゼウスァート家のは、ごめん、想像もつかない。財産は国が押収したことになってるけど、その頃って軍政になったばかりだから、王宮の管理なのか軍の管理なのかは不確かなんだ。それに火事場泥棒っていうのかな、結構家に残ったものが盗まれたりもしたそうなんだよね」
 状況としては絶望的だ。追跡記録を作ることさえままならない。
 祖父母がゼウスァート家について詳しいのは、その血を引く父に昔厄介事が降りかかり、それを繰り返さないために調べたのだそうだ。
 父は俺と同じく、両親と血の繋がりがない。そもそも祖父母はどちらも男性であり、祖母というのは本人の自称と父の認識に合わせてのことだ。
 ふと、隊長のことが頭をよぎる。実の子のように血の繋がらない子を愛する、という表現には少し誤解があるのかもしれない。隊長は実の母とうまくいかなかった。そういうこともある。
 そもそも俺だって、実の母がどんな人なのかは全く知らない。わかっているのは俺を拾って育ててくれた両親が、とても愛情深く誠実な人たちであるという、優しく幸福な事実だけ。
「トビ、どうかした? ゼウスァート家のこと、ショックだったかな。お父さんのことだもんね」
「ううん、そうじゃないよ。……ただ、俺はハイルの子で幸せだなって思ってたんだ」
 サシャとフェリシーが、オレもフィーもと飛びついてくる。これも幸せなことだ。父の手を取らず生きることを諦めていたら、手に入らなかった温もり。
 隊長には、あるのだろうか。自分の選択によって得た幸せが、何か一つでも。

 アルバイト四日目からは未知の領域だ。とはいえ、やることはいつもと変わらない。午前のうちに通常業務に目処を立て、午後からは可能な限り資料の読み込みや調査を進める。
 記念メダルはとにかく当たれるところから当たるしかないということで、午後一番でインフェリア家、エスト家、フォース家に連絡をとることにした。双子は直接訪問しようと主張したが、いくらなんでも約束もなく押しかけるのはまずいだろう。たとえ知人宅であっても。
 ところが予定は昼前に崩れた。約束もなくやってきた訪問者によって。
「ありゃ、トビしかいないの?」
 双子は別件の調査に行っていて、隊長は資料室だ。いつものことだが、俺は執務室で一人で作業をしている。
 そこにひょっこりと現れたのは、イリスさんだった。
「どうしたんですか。何か予定がありました? それとも依頼が?」
 心臓は体を離れたらスキップでも始めそうに鳴っていて、顔はみるみるうちに熱くなる。しどろもどろ尋ねつつ、コーヒーでも淹れた方がいいのだろうかなどと考えるも、足が思うように動かない。
 イリスさんは長い髪をピンクゴールドのバレッタでまとめ、滅多に近くでは見られない王宮近衛兵の制服を着用している。それがとてつもなく似合っていて、つい喉が鳴った。
「ううん、何も約束はないんだけどね。頼むようなことも……ああ、やっぱり一つ頼まれてくれる?」
「何ですか。あ、でも今、俺と隊長しかいなくて」
「それそれ。隊長を呼んできてくれる?」
 お願い、と手を合わせるイリスさんに、俺は反射的に「はい」と答えた。でも、隊長は出てきて会うだろうか。いや、来てもらわなければ困る。
 まずは客用のソファにイリスさんを案内し、コーヒーを淹れた。ミルクのポーション一つと、砂糖はスティック一本。
 それからようやく覚悟を決め、資料室の扉に向かった。
 隊長は普段通りに、資料室の開けたスペースで仕事をしている。資料の山が築かれたソファの端に座り、バインダーを広げつつ、端末のキーを叩いている。
「隊長、お客様です」
 声をかけると顔を上げる。伊達眼鏡の奥で、若草の色の瞳が光る。
「誰だ」
 その名を口にするな、と隊長は言った。それならこうしたらどうだろう。
「王宮近衛兵団の、インフェリア副団長です」
「……何の用か聞いたか」
 少々機嫌が悪そうに眉を歪ませたが、返事はしてくれた。ひとまずはほっとする。
「いいえ。隊長を呼んでほしいとだけ」
 隊長は舌打ちをしたが、バインダーを置いて立ち上がった。そして早足で出入口へ向かったので、俺もその後を追った。
 扉が乱暴に開かれたその先で、隊長とイリスさんの目が合う。イリスさんは立ち上がり、ぎこちなく笑った。
「……久しぶり」
「用件は」
 隊長の方は、余計な話をするつもりはないようだ。俺は物音を立てないよう自席に戻り、二人の様子を窺うことにした。
「まず一つは、女王陛下兼団長のお使い。これ、ここで集めてるんでしょう」
 差し出されたのは立派な箱だ。くすんではいるが、祖母に見せてもらったメダルの箱によく似ている。それを二つ、隊長が受け取って中身を見る。
「アトラとパラミクスのメダルだな。確かに」
「それと、これがもう一つの用事」
 イリスさんはもう一つ箱を取り出した。今度は可愛らしい柄の紙の箱だ。あれは商店街の焼菓子店のものではないか。
「どういうつもりだ」
「だから、先月のお詫び。ごめんね、喧嘩別れして、今日まで謝れないで」
 喧嘩別れ……先月? 会っていたのか、先月に。でも、随分と会えていなかったのでは?
 イリスさんの寂しげな表情や、急に不機嫌になった隊長の低い声が頭の中によみがえる。双子が教えてくれた過去の話も。あれは一体、何だったんだ。
 知らず立ち上がっていた俺を、隊長が睨んでいた。謝って戻ろうとすると、顎で来るように命ぜられる。逃げられない。
 おそるおそる隊長の座るソファの隣に行くと、ハスキーな低音が凄みをきかせた。
「トビ、お前、あのステレオスピーカー共から何か吹き込まれただろう」
「……それもありますけど」
 双子との約束は即破ってしまった。だが、そもそもは。
「イリスさんと隊長がどちらも様子がおかしかったので、気になっていたんです。そうしたらノールさんとジュードさんが、昔のことを教えてくれて。それで、俺はてっきりお二人がもう何年も交流を断っているものだと」
「いや、時間があったら会ってるよ。ベルがここで働き始めてからだけど」
 あっさりと、イリスさんが聞き慣れない呼称とともに言う。固まる俺の目に、眉間に皺を寄せる隊長が映った。
「だから、いい歳してその呼び方はないだろうといつも言っている。職場では特に」
「ごめんってば。でもさ、わたしにとっては、ベルはずっとベルだから」
 不機嫌そうな隊長と、苦笑するイリスさん。掛け合いはとても蟠りがあるようには見えない。むしろこれは親しい友人のそれだ。
「わたしたち、喧嘩はよくするんだよ。元々考え方も人生観も何もかも違うから、意見が噛み合うことなんて軍時代の任務のときくらいだった」
「先月も飲みに行って、イリスが迂闊なことを言って私が罵るよくあるパターンの喧嘩をした。そのまま年末年始の挨拶もしていなかった」
 なんだ、そういうことか。俺は勝手な憶測と双子のお喋りに惑わされて、とんでもない勘違いをしていたのだ。
「……とても仲が良いんですね、お二人」
「友達だもん」
「一応はな」
 力が抜けた。自分に呆れ、二人が仲違いしていなくて良かったと心から安堵した。
 イリスさんは隊長との喧嘩の後、謝るタイミングを逃していることが気掛かりだった。だから俺と話していて、ついでに過去のことを色々と思い出して切なくなってしまったらしい。
 隊長もまた、いつイリスさんに会って話せるかを考えていたようだ。それなのに俺が偶然とはいえ会ってしまっていたものだから、つい苛立ってしまったのだという。
「悪かったな、トビへの八つ当たりは良くなかった。それと、イリスへの罵倒も」
「わかればいいのよ。また飲みに行って喧嘩して、次に会う口実にしちゃおう」
 にんまりするイリスさんの逞しさが眩しい。ともあれ、これで二人の関係については解決した。
 ……いや、本当にそうだろうか。まだ少し、引っかかるところがあるような。

 イリスさんが王宮での仕事に戻っても、昼休みまでは時間があった。双子はまだ帰ってこない。
「トビ。お前、あいつらに何を吹き込まれた?」
 資料室に戻らない隊長が、俺に問う。正直に話した方がいいだろうか。もしかしたら訂正しなければならないような嘘もあるかもしれない。
「……それは」
「いや、言わなくていい。お前の聞いたことは大体事実のはずだ」
 私の家のことや、イリスとのことなんだろう。全てお見通しらしい隊長に、俺は頷くしかなかった。
「あの二人には、ご自分のことをお話しされてたんですね。やっぱり信頼できる職員なんですね」
「話してない。あいつらが勝手に調べたことだ。私が大文卿夫人に雇われたその日のうちに」
 私の方が信用されていなかったんだ、と隊長はとても信じられないようなことを言った。返事を探す俺に、隊長は続ける。
「あの双子の採用理由はそんなところだ。リサーチ能力の高さと、そこそこ動けること。この仕事には絶対に必要な能力だろう」
 勝手に人に話すあたりが大きなマイナスだが、と隊長は無表情のまま鼻で笑った。
 納得していると、トビ、と呼ばれる。顔を上げた途端に、
「お前、イリスに惚れているだろう」
「え」
 とんでもないことを指摘された。
「なななな、なんで、そんなこと」
「正直だな。見ていればわかる。私はお前なんかこの世に存在していない頃から、ずっとイリスを見てきているんだからな」
 同類くらいわかるさ、と隊長はにやりと笑った。おそらく真っ赤な顔をしている俺の肩を軽く叩き、資料室へ向かう。
「お互い、難儀な恋慕だな」
 本当に、難儀な仲間ができてしまった。仲間ついでに、俺の頼みも一つきいてもらおう。

 調査から戻った双子は、大量の温野菜サラダを目の前にして、開いた口が塞がらない。
 それを横目に、俺と隊長はそれぞれにちょうどいい量のサラダをパンに載せつつ挟みつつして食べる。
「ねえ、トビ君。美味しそうだけどちょっと多いかな」
「ねえ、トビ君。せめてパンやドレッシングが欲しいな」
「カリカリのベーコン入ってますし、味も整えてありますよ。そのままでも美味しいのでどうぞ。そうだ、材料を贅沢に使ってしまったので、追加の注文をお願いしていいですか。ついでに調味料の希望も聞いて下さると嬉しいです」
 双子に「一杯食わせたい」ので少し早めに炊事場に行ってもいいですか、と隊長に言ったら、雇用契約書に従え、と返事があった。なので甘えさせてもらったのだ。
 サラダを食べながら、双子は「美味しいんだけどさ」「美味しいんだけどね」と呟くように呻き、結局は完食してくれた。気が済んだので、もうこんな無茶はやめておこう。
 午後からの仕事も忙しい。けれども先ほど、インフェリア家のメダルについては、イリスさんが探してくれると言っていた。
 残るメダルはあと三つ、もしくは二つ。まずはエスト家とフォース家への連絡だ。双子が午前の調査で得た資料の整理もしなければならない。
 残された時間は、あと十六日だ。