親の七光りが嫌いだ。生まれたときからそんなものを備え、楽をして生きている奴らが嫌いだ。こちらがいくら努力をしても、そんなものは虫けらの足掻きだと鼻でわらう奴らが大嫌いだ。
そんなものは本当の力などではないのだから、お前はただ着実に身になることをすればいい。そうすればきっと報われる。恨み言を吐き出した自分に、父がそう言って聞かせてくれたのはいつのことだったか。
けれども、そんな地道で密かな力が日の目を見る機会はそうあるものではなく。やはり有利不利はその生まれで決まってしまうものなのだと、今はすっかり諦めた。
エルニーニャ王国文部管轄文化保護機構特殊事項対策部隊、通称「文派特殊部隊」によるメダル集めは、アルバイト八日目の朝にまたひとつ大きな展開があった。
「わたくしはフォース社で社長秘書を務めております、リチャード・スロコンブと申します」
ぱりっとしたスーツを着こなす男性は、年頃は五十代前後といったところか。応接用のソファの柔らかさに抵抗するように背すじを伸ばし、真っ直ぐに隊長に視線を注いでいる。
隊長は目を眇めているが、それが相手を測っているのか、はたまた眠いだけなのかは相手にはわからないはずだ。
「こちらでフォース家に伝わる建国メダルをお探しだそうですね」
リチャードさんの言葉に、俺は息を飲んだ。エルニーニャ王国建国二百五十年記念メダルの収集のため、その一つを持っているはずのフォース家とコンタクトを取りたかったところだ。
フォース家は所謂財閥で、様々な事業を扱う国内大手の商家だ。現在の主力は家具。オリジナル製品の開発から販売まで、一括で行っている。
かつてはコンピュータソフトウェアなども手掛けていたそうだが、先代社長ジョージ・フォースが少しずつ事業を系列企業に移譲したのだという。そのため現社長であるグレン・フォースは家具関連事業に集中できているが、それだけでも企画から工場管理、販売店の取りまとめなど十分に仕事の幅が広い。
そういうわけで、フォース家は忙しすぎてなかなかメダルの件が進まなかった。
ところがリチャードさんは溜息混じりに、実は、と切り出した。
「メダルについてこちらで動けずにいたのは、弊社が危機に瀕しているからでありまして」
「危機?」
潜められた声に対して、隊長は気を遣わない音量で訊ね返す。リチャードさんは眉をぴくりと動かしたが、落ち着いたまま頷いた。
「ええ。弊社は来期、つまり今年の秋からということになるのですが、大規模な人事異動を行う予定なんです。まだ内示も出ておりませんので、内密の話なのですが」
それなら俺は聞かない方がよさそうなのだが、何しろこの執務室は応接室を兼ねている。どうしても声は筒抜けになってしまうので、とりあえず気にしていない振りをするしかない。
「それを機に社長も変わるんですよ。現社長は会長となり、新社長には現副社長が就任するだろうといわれています」
「いわれて? 確定ではないと?」
「ほぼ確定ですよ。社長はどうしても副社長、つまりご子息に後を継がせたい。そのために他の社員を威圧するんです」
わたくしもほとほと困り果ててしまって、とリチャードさんは深く息を吐く。それから隊長に頭を下げた。
「こちらでは法で裁けぬ悪徳を処理していると聞きました。なにぶん弊社は大企業でして、大っぴらに事を進められません。わたくしは弊社のために、自らの馘をかけてこちらに参った所存であります」
さすがに俺も驚いて、そちらを盗み見る。法で裁けぬ悪徳を処理? そんな仕事はさすがにないと思うが。
特殊部隊は時折、武を持って問題を解決するという手法をとる。そのために設立された部署であり、基本は正当防衛だ。だが一企業の問題に介入するような権限はさすがに持っていない筈だ。
ましてフォース社に限って、そんな問題があるとは思えない。しかしこの人は社長秘書。全くの嘘だと撥ねつけることも難しい。
それよりもスロコンブという名前、どこかで聞いたことがあるような。
「どこでそんな話を聞いたのかは知らんが」
隊長は表情を変えることなく、コーヒーカップに触れた。
「法で裁けぬ悪徳を処理、なんてことはここの仕事ではない。私たちが仕方なく引き受けるのは、せいぜいが探偵の真似事までだ」
初めて聞く話に、俺は仕事を進めつつ耳をそばだてた。するのか、探偵の真似事。
思えば俺が初めて特殊部隊と関わった案件は、弁護士であるカリンさんが持ってきたものではあるが、それに近いのかもしれない。けれどもあれはこの国の文化に関わることで、今回とは違う。一企業の問題なら労務関係の機関に訴えた方が確実だ。
「この件が解決しなければ、メダルどころではないかと」
リチャードさんが言う。そうは言ってもやはり管轄外だ。ここで引き受けるはずはない。
「そうか。それなら私たちで調査しよう。個人の相談として受け付けるから、報酬はきっちりいただくことになるが」
ところが隊長は俺の認識をあっさりと裏切ったのだった。
「なるほど、システムとしては軍の依頼任務と同じようなものですね」
「そういうことになる。内容はフォース社の内部調査ということでよろしいか」
「ええ。調査上の不可抗力で、何某かを退ける必要が生じるのは、致し方ないことと思ってください」
「それはそちらが決めることではないが、気に留めておこう」
では、とリチャードさんが席を立つ。見送りを命じられるかと思い身構えていたが、隊長は何も指示しなかった。
「あの、隊長。いいんですか、今のを受けてしまっても」
足音がすっかり遠ざかったのを確認して、おそるおそる訊ねる。聞いていないふりをすべきだったのかもしれないが、確かめずにはいられなかった。
隊長は大儀そうに琥珀色の髪を掻き上げると、普段から低い声をさらに低くした。
「稀にこういう仕事が来る。大文卿夫人も、一般人が下手に探偵を雇って悪事に巻き込まれるよりはいいと、寧ろ推奨している」
「そうなんですか。それで探偵の真似事と仰ったんですね」
文派でありながら軍なみの戦闘を行う以外にも、このようなイレギュラーがあるらしい。部署の規模に対して仕事が多くはないか。
「受けるかどうかは内容による。今回はフォース社と接触を図るという、こちらの都合と一致したから受けた。断ると邪魔をされそうだしな」
「そうですね……ちょっとさっきの人は癖がありそうです。話にも違和感がありますし」
「ああ。どちらかといえば暗殺者を雇っているような口ぶりだったな」
何故か隊長は鼻で笑う。無表情だが、どこか面白そうに。
「トビ、後で昼食を作りに行くだろう。ついでに頼まれてくれないか」
別件の調査に出ていた双子が、帰ってくるなり「お腹空いた」の合唱を始めた。それを合図に、俺は炊事場に向かう。
今日はレタスと魚のほぐし身の缶詰を使ってサンドイッチを作ろう。双子はもしかしたら肉がいいと言うかもしれないけれど。そうした簡単なものにしないと、隊長から言い渡されたミッションをしくじりそうだった。
缶詰を開けているところに、彼はやってきた。作業台の前に立つ俺に、やあ、と爽やかな笑顔で手を振る。
「トビ君、今日は何にするんだい」
「ツナサンドです。玉ねぎのスライスを加えようかどうか迷っていて」
「是非加えるべきだよ。僕ならさらにトマトやコーンもほしい」
ジョナス・スロコンブさんはにっこりして、どうせならソースもオリジナルがいいんだけど、と歌うように続けた。
「いいですね。ジョナスさんなら、どんなソースをつけますか」
「君のところに材料があるかはわからないけれど、レシピを教えてあげよう」
炊事場を使っている人はあまりいない。休み時間の都合なのか、あるいはほとんどの人が昼食持参なのか。少なくとも俺は、ここではジョナスさんにしか会ったことがない。
「ソースまでは作れそうにないですね。マスタードがないので」
「やっぱり。食材や調味料を注文しているのはあの双子だろう、全く気が利かない奴らだ。野菜も彼らはあまり好きではないだろう」
「はい、だから玉ねぎは抜くべきかと思って」
「入れてしまいなよ。どうせ自分たちでは家畜のエサ程度のものしか作れないんだ。トビ君の手料理を食べられるだけありがたいと思ってもらわなくちゃ」
料理が好きで、器用で、俺を気にかけてくれる。おそらくは良い人なのだろうけれど、ジョナスさんはとにかく特殊部隊が嫌いらしい。言葉の端々でその存在を貶す。
「ジョナスさん、ノールさんとジュードさんのことはよくご存知なんですね」
結局、隊長と自分の分だけでもと玉ねぎを取り出した。その間にジョナスさんは冷蔵庫から出したものを焼き始める。バターの香ばしい匂いが炊事場に立ち込めた。
「あの双子とは同級生なんだ。もっとも彼らはあまり出来が良くない学生で、大文卿家の人間じゃなかったら退学になっていただろうけれど」
「学校ってそんなシステムなんですか? 俺は行ってないから、よくわからなくて」
「普通は成績が良くないくらいで追い出されはしないよ。でもレジーナ大学附属の学校は違う。成績も意識もエリートでなくては、在学を許されない」
そう決めたのは大文卿家なのに、とジョナスさんは嗤う。なるほど、彼は双子と同級生であった事実に納得していないらしい。
「そんな環境で、ジョナスさんは真面目に勉強してらしたんですね。偉いです」
「君も試験を受けてみたら? きっと合格し、編入できるだろう。そうしたら特殊部隊がいかに妙で非常識なところかがよくわかる筈だ」
「俺は勉強ができるわけではないですし。このアルバイトが終わったら、また父の手伝いに戻るつもりなので。楽しいんです、写真屋の仕事」
ふうん、と背後から少しつまらなさそうな相槌が聞こえた。熱された卵と牛乳の甘い香りが漂い、焼いているのは卵液に浸したパンだったのかとわかる。
「トビ君の家は写真屋さんなんだね」
「はい。父が店をやっていて、母はフリーの記者なんです。昔は新聞社に勤めていたそうなんですが」
「そうなんだ。ますます特殊部隊なんかにいさせるのは勿体ないな。きっと君にも文派らしい才能があるだろうに」
「いいえ、そんなことはないです。ジョナスさんこそ、文派の機関で働いているのは親御さんの影響があるんですか」
パンが焼ける前に、どこまで話せるだろう。少々前段が長すぎて、本題が間に合わない。内心で緊張していることを悟られまいとして、口調もゆっくりになってしまう。
「僕の家は一般的だよ。どこにも何のコネクションもない。だから何をするにも苦労した。僕は必死に勉強し、両親はあらゆる面で応援してくれた。父が割と大きな会社に勤めてるから、金銭面は何とかなったけれど」
火を止めたらしい。皿に焼きたてのトーストがのる。まだ肝心なことが聞けていないのに。ほんの少し焦る俺に、ジョナスさんのくすくす笑う声が聞こえた。
「今朝、特殊部隊に来ていただろう。あれが僕の父だ。……隊長に、確認してこいとでも言われたかな」
つい手が震える。玉ねぎのスライスは厚くなってしまった。わかりやすいなあ、とジョナスさんは俺の隣に並んだ。
「父が特殊部隊に何の用があったのか、僕は全く知らない。僕から何かを探ろうと思っても無駄だと、隊長には伝えるといい」
いつでもにこやかだったジョナスさんの目には、冷たい光が宿っていた。
「そうか、家族にも知らせていない。では尚更フォース社内部を探る必要があるな」
半ば腹いせのように玉ねぎの比率を多くしたサンドイッチを、隊長は美味しそうに平らげた。
ミッションはクリアできたものの、俺はあまり達成感を得られなかった。ジョナスさんを不快にさせたかもしれない、そのことにひたすら罪悪感がある。
「煽って話をさせろだなんて、俺には向いていない仕事でした」
「でもできるんだからすごいよ、トビ君」
「ナスコンブに気に入られてるのもすごいよ、トビ君」
双子はツナ多めのサンドイッチにご満悦だ。玉ねぎは抜いてある。
「気に入られていたとしても、これで嫌われてしまったかもしれないです」
「気を落とさずに」
「おれたちがいるよ」
たしかに部署も違うジョナスさんに嫌われたとして、仕事には支障はない。それに俺の仕事は月末までだ。でもだからといって、そのままにしておくのは嫌だ。
「やっぱり謝ってきます。隊長、昼休みに働いた分の振替をいただいても?」
「当然の権利だ、行使するといい。文化教育部は上階にある」
具材のバランスのよいツナサンドを急いで食べきり、部屋を飛び出した。階段を駆け上がり、ドアの上にあるプレートに文化教育部の文字を探す。すぐに目に付いたが、何故か三枚もあった。
迷っている間に、一番近い部屋から人が出てくる。書類を抱えた女性だった。
「あの、すみません。こちらにスロコンブさんはいらっしゃいますか」
咄嗟に駆け寄り話しかけると、彼女は驚いてから、俺を不審そうに見た。
「あなたは?」
「特殊部隊のトビ・ハイルと申します。スロコンブさんにお話があって参りました」
「そう。スロコンブはこの部屋にいるけれど」
綺麗に塗られた爪がドアを指す。ありがとうございます、と頭を下げると、彼女は苦笑した。苦味の割合が多く、引き攣っている。
「特殊部隊の人があの人に用事なんて珍しい。私たちだってあまり近寄りたくないのに」
どういうことだろう。彼女はそれ以上は言わず、さっさと「印刷室」のプレートのかかった部屋に行ってしまった。
俺も教えられた部屋のドアを開ける。するとプレートが三枚もある理由がわかった。三部屋分の壁が取り払われて、大部屋として使われているのだ。当然職員も多く、机がずらりと並んでいた。
たくさんの視線がこちらに集中し、つい目を伏せる。右の瞼が痺れた。
「どちら様?」
今度は男性に訊ねられた。
「特殊部隊のトビ・ハイルです。スロコンブさんにお話が」
「特殊部隊?」
形の良い眉が歪んだ。周囲の視線も色が変わったような気配がある。そういえば特殊部隊は、その存在をあまり良く思われていないのだった。
「おい、スロコンブ。特殊部隊に睨まれるようなことをしたのか」
男性が奥へと声を飛ばす。違います、と言ったけれど届かなかったようで、こちらには一瞥もくれない。とにかく、ジョナスさんのいる場所はわかった。
そちらへ向かおうとすると、男性に襟首を掴まれる。
「勝手にうろつくな、特殊部隊。見たことない顔だな、新人か。あの隊長、また部下の躾を怠っているのか」
「すみません。ですが隊長は何も怠ってはいません」
「口ごたえをするんじゃない。特殊部隊の奴らはそういうところが」
「失礼します」
男性が怒鳴りかけたところに割って入った、知っているものよりも幾分か落ち着いた声。見上げた表情も、普段浮かべているような笑顔ではない。
「彼は僕の客です」
「そうだな。外で話してこい」
「そうします。行こう、トビ君」
ジョナスさんは俺の手を引き、部屋を出た。背中にひそひそと話す声が、針のように刺さった。
廊下に出て、俺とジョナスさんは同時に大きく息を吐く。彼は何か言いかけて口を開いたが、俺の方が早かった。
「先程はすみませんでした。探るなんて失礼なことをしてしまいました」
「トビ君がしようと思ってした事じゃないだろう。わざわざこんな所まで来なくても良かったのに」
もう来ない方がいいよ、とジョナスさんは困ったように微笑んだ。
「特殊部隊は随分嫌われていますね。ジョナスさんもそうなんでしょう」
「うん、特殊部隊は野蛮だから。大文卿夫人が選んだ何処の馬の骨とも知れない隊長に、落ちこぼれなのに大文卿の子供だからというだけで文派機関に留まれている職員。好かれる要素がない」
「……そんな言い方はないでしょう」
「でも事実だ。まあ、文化教育部から嫌われているといえば、僕も同じようなものだよ」
自嘲するジョナスさんは、それで、と俺に向き直る。
「僕に何の用かな。まだ何か聞きたい?」
「いいえ、俺は謝りたかっただけです。ジョナスさんとは炊事場でほぼ毎日お会いしますから、ぎくしゃくしたままは嫌で」
「え、それだけ? 律儀だね、トビ君。やっぱり他の特殊部隊の面々とは違うなあ」
あの人たちも僕のことは好きではないだろうに、とジョナスさんは笑うが、俺はそうでもないと思う。隊長はもしかしたら興味がないだけかもしれないけれど、双子は嫌いなら嫌いとはっきり言いそうなものだ。
「それだけなら戻るよ。またね」
「はい。また炊事場で」
会釈をして彼を見送り、文化教育部の部屋のドアが完全に閉まるまで、俺はそこにいた。
ジョナスさんはいつも、炊事場で一人分の調理しかしない。彼以外の人を炊事場で見たことはない。それは女性職員の言う通り、ジョナスさんが「近寄りたくない」と思われているからなのか。
大人数だから起きる弊害なのか、それとも余程のことがあったのか。いずれにせよジョナスさんは、ここでは働きづらそうに見える。
それが過去の自分と重なって、思わず拳を握った。
アルバイト九日目の朝。俺は普段の職場である文化保護機構の建物ではなく、大きな社屋のエントランスにいた。
纏うのは祖母が近所から調達してくれたスーツ。ネクタイの息苦しさには慣れないけれど、弟妹の「兄ちゃんかっこいい!」に見送られたので耐えられる。
しかしながらこれまでで一番の緊張には、最後まで潰されずにいられるだろうか。なんと今回は、俺が一人で現場に来ることになってしまったのだ。
昨日のうちに、フォース社の調査の担当割り振りが決まった。双子は外部からフォース社について調べ、隊長は協力者を募ったり調査全体の指揮をしたりとサポートに回ることになった。
「社会見学の体裁をとれるのはトビだけだ。将来を考える材料として思う存分学んでくるといい」
隊長の一声で、俺は内部潜入担当を任されてしまった。初めてなのに、たった一人で放り出されるなんて。嘆いていると双子が背中をばしばしと叩いてくる。
「トビ君はしっかりしてるから大丈夫!」
「副社長とも知り合いだよね。だったら怪しまれないし適任だよ!」
怪しまれはしないが、丸め込まれはするかもしれない。なにしろ副社長ルーファ・シーケンスは、父の元同期の一人である。
やりとりを思い出して溜息を吐いていると、靴音がこちらに近づいてきた。
「トビ、久しぶり。ようこそフォース社へ」
顔を上げると、スーツの上からでも肩は大きく胸板は厚いとわかる立派な体躯の男性が、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「ルーファさん、ご無沙汰しておりました。本日は急な見学を許可頂き、ありがとうございます」
「驚いたよ。アーシェの頼みが、まさかお前の社会勉強を手伝えだなんて。イリス経由で来てるらしいとは聞いてたけど」
このあたりの繋がりは広く強固だ。ルーファさんも、大文卿夫人アーシェ・ハルトライムも、父の元同期。イリスさんはこの人たちの後輩であり、ルーファさんから見れば義理の妹でもある。
だから俺は「社会見学」ができるのだ。仮にも関係者だから通る理由を使い、ルーファさんや社長の黒い噂の真相を確かめようとするのだから、申し訳なさでいっぱいだ。
大文卿夫人は全てを知っていて話を通したのだから、俺よりもずっと心を痛めているかもしれない。あるいは逆に、随分肝が座っているのか。
「トビには順番にフロアを見てもらって、途中で社長にも会ってもらう。質問したいことがあったらどんどん訊いてくれ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「気楽にな。もしレヴィなら、きっともっとリラックスしてるぞ」
父の名前を出されると、余計に緊張するのだが。ルーファさんの後について、俺の仕事は始まった。
この社屋で行っているのは、会社全体の仕事やそれに対する給与のとりまとめ、そして営業なのだそうだ。総務人事部、経理部、営業部のフロアを順番に見せてもらう。
「エルニーニャ各地に事業所を置いてるんですよね」
「ああ。その他にも工場や直営の店舗がある。この本社だけじゃ、うちの仕事は完成しない。トビはどこかに興味が持てそうか?」
興味はどこに対してもあるのだが、ルーファさんの問いは「就くならどこか」ということだろう。少し考えて、経理ですかね、と答えた。
「父の手伝いは帳簿関係が多いんです」
「あー……レヴィのやつ、数字あんまり得意じゃなかったもんな。家計簿までトビの担当になってないか?」
「そうですね。両親とも忙しいので、俺が生活費の管理をすることもあります」
「偉い! うちの子も親よりしっかりしてるけど、トビも相当だな」
つい嬉しくなるが、甘んじて照れている場合ではない。フロアをまわる間、俺は社員の様子をできるだけ丹念に見ていった。
誰か噂話でもしていればいいのだが、この会社の人たちはよく働く。息抜きをしている場面でも、会社に対する愚痴などはなかった。俺やルーファさんがすぐ傍を通っているからかもしれないけれど。
危うい会社なら綻びがある、と隊長は言っていた。社員の労働意欲を奪う要素がそこかしこにあるのだと。俺にはそれが見えない。今のところは誰もが活き活きと働いている。
「あの個人ごとに区切られたスペースは、黙々と仕事を進める方が効率がいいという人に開放しているんだ。社内のネットワークを整えて、どこにいても連携して仕事ができるようにしている」
「そんなことまで考えてるんですか」
「現社長のアイディアだ。昔は人付き合いがそんなに上手くなくて、一人になれる場所が欲しかったんだってさ。あんなに仲間に恵まれた人でも、そう思うことはあるんだ」
現社長は元軍人。当時の仲間といえば、俺の祖父母もその中に含まれる。互いの在り方を認め、納得してやってきた経験があるからこそ、会社の運営にも反映しようとしたのだろう。
やっぱり、悪いことを考えているようには思えない。他人を威圧しているなんて信じられない。
――既に視点に偏りがあるだろう、トビ。
ふと隊長の声が脳裏に響き、どきりとした。昨日、担当決めの後に言われた言葉だ。
――お前の立場からすれば、当然知人関係者に非があるはずがないと考えるだろう。だが、依頼を受けた以上は依頼人の視点に立たなければならない。
それなら俺が担当してはいけない仕事なのでは。そう返すと、隊長は鼻で笑った。相変わらず表情は無のままだが。
――お前に無関係な人間など、この国にはいないだろう。なあ、前大総統の長男?
そんなに大きく括られても、と思いはしたが言えなかった。事実、俺の家のことを知った人はそう捉える。こちらが相手を知らずとも、相手はこちらの存在を知り、父の仕事を評価するついでにその周囲にも何らかの認識を持つ。良くも、悪くもだ。
誰もが自らの認識に従い「偏る」。自分にとっての有利不利、あるいは自分の常識においての正義と悪を定める。中立や平等といったものは、そもそも対立するものを定義しなければ主張できない。
黙り込んだ俺に、しかし隊長は幾分か声色を緩めた。
――様々な立場や認識が存在するのは当然で、それに対する想像力を鍛えるのが、私たちの好む「読書」という行為の利点のひとつだ。私はお前の想像力に期待する。
――先入観を越えろ、トビ。
俺は応えなければならないんだ、隊長からの期待に。もちろんそれは二の次で、最優先すべきは依頼人が見てほしかったものは何なのかを突き止めること。でなければ、俺たちが本当にやるべきことがわからない。
「ルーファさん。例えば社内で何らかのトラブルがあった際に、それを相談するところなどはありますか? あんまりトラブルがありそうな会社には見えないんですけど」
「総務人事部に相談室を設けている。一応管轄がそこだというだけで、個人の秘密は守る。トラブルは色々あるぞ。全部は解決できないから、ある程度の調整を図るに留まっているが」
それでもとりこぼしてしまうことはたくさんある、とルーファさんは苦笑する。人の集まりなのだから、全ての人にとって完璧であるということは不可能だと。
「例えば、社長も俺も軍人あがりだ。俺は軍の仕事と並行して商家の人間としての勉強も少ししていたけど、社長は入隊するために一度フォース家から出ている。いずれにせよ長いこと経営に関わっていない人間が突然現れて、さも当然のように上に立てば、現場の人間は不満と不信を抱く」
「実際は、当然のように、じゃなかったんでしょう」
「そりゃあ、一からきちんと仕事をして、勉強して、その立場に相応しくなるよう努力はする。でも人にはどうしても見えるものなんだ、親の七光りってやつが」
成功は親のおかげになり、失敗はどうせ親がいるから問題にならないだろうと囁かれる。ここでもそんなことがあるのか。――あったから、払拭するために真っ直ぐ仕事に向き合ってきたのだ。
ルーファさんには軍にいても家業に就いても、常に親込みの評価が付き纏っていた。力が自分のものであると、自ら鍛えたものなのだと証明するために邁進し、その結果として地位を高めた。だがそれも親の威光のためだと言う者がいてキリがない。
誰かが何かをする限り、他の誰かの不満は尽きない。
「今でも、ルーファさんの立場を妬む人はいるんでしょうか」
一緒に各フロアをまわりながら、ルーファさんはそこで働く人たちと明るく挨拶を交わしていた。向こうから声をかけてくることだって何度もあった。この人は信頼されているんだな、と思ったからこそ、俺は依頼人の主張を疑っている。
「いないとは言いきれないよな。どんな感情を持たれようと、俺は仕事で応えるまでだ」
こんなに清々しく言い切る人の親――社長がわざわざ他人を威圧するだろうか。依頼をしてきたリチャードさんが感じているのは、また別のものなのかもしれない。
彼の気持ちを想像しろ。彼の立場なら、この会社を満たす空気はどのような感触になる?
「トビ、そろそろ社長室に案内する。おいで」
俺のような疑いを持つ人間がいたら、リチャードさんはどんな気持ちになるだろう。一人だけでなく、多くの人にそんな目を向けられたら。
あるいは、そんな気持ちを誰にも取り合ってもらえなかったら。
「初めまして。社長のグレンだ。話には聞いていたが、とうとう今日まで顔を合わせる機会がなかったな」
会えて嬉しい、と差し出された手をおそるおそる握り返す。この人は俺の祖父母よりも二つか三つほど年上のはずだが、綺麗な人だと思った。
「うちの孫より、ええと」
「十三歳年下かな。トビは今年で十六になるんだろう」
「はい。俺のために時間を作って下さり、ありがとうございます」
「いや、いずれ近いうちにとは思っていた。文派特殊部隊から資料借用についてせっつかれていたからな」
寧ろ遅くなってしまい申し訳ない、とグレンさんは頭を下げる。とんでもないです、と慌ててから、俺の所属については知っているんだなと気づいた。
「建国記念メダルだが、昨夜ようやく家の者が見つけ出してくれた」
「え、あったんですか」
「これだろう。確認してくれるか」
執務机に戻ったグレンさんは、抽斗から見覚えのある箱を取り出した。イリスさんが特殊部隊の執務室に持ってきてくれたものと同じだ。
失礼します、と受け取り、箱を開ける。黄金に輝く小さなメダルが鎮座し、フォースの家名と250の数字が確認できる。本物かどうかを鑑定するには持ち帰らなければならないが、尋ねる前に「持って行ってくれ」と言われた。
「書類にサインが必要なら、追って対応する。ハルトライム夫人と隊長にもよろしく伝えてほしい」
「ありがとうございます! かなりお忙しいと聞いていたので、まさか本日ご対応いただけるとは……」
「こちらも間に合うかどうかは賭けだった」
特殊部隊から連絡をとることはなかなかできなかったが、大文卿夫人から直接頼まれたのだという。さらには夫人の実家である、リーガル家からも。
「アーシェのお母さんのリアさんは、うちの製品のデザインを多く手掛けているんだ。社長とは軍人時代の同期だし、俺たちはあの親子に頼まれたことは断れない。迅速に対応しないと後が怖いし」
苦笑するルーファさんにも頭を下げる。ということは微妙なタイミングのずれがあっただけで、メダルの入手はけっして困難ではなかったのだ。
ますますリチャードさんの発言と辻褄が合わない。社長秘書の筈なのに、この場に居合わせてもいない。――あの人は、何者だ?
「あの、つかぬことをお聞きしますが」
依頼があったことを覚られないように確認する方法が、彼を利用する以外に思いつかない。探ったことを謝ったのに、また繰り返すのか、俺は。
「こちらにスロコンブさんという方は在籍されていますか。俺はその人の息子さんと、同じ建物で働いているんです」
罪悪感とは裏腹に、舌は滑らかに動いた。こういうことは向いていないんじゃなかったか、俺。
「スロコンブは社長秘書をしている。彼以外に同名はいない」
「そういえば、今日はまだ見てないな。社長、スロコンブさんはお休み?」
「午後から来ると言っていた。予定などは自分で把握できているから問題はない」
俺が来るとわかっていたなら、顔を合わせないようにしているのかもしれない。それとも他に用があったのだろうか。
「スロコンブにも何かあったか?」
「いいえ、そういうわけでは」
笑ってごまかしたつもりだけれど、本当にごまかせているのかは怪しい。この人たちは洞察力に優れた元軍人なのだ。
「スロコンブさんって、秘書になる前は営業部にいたんだよ。俺がここに勤め始めた頃、よく仕事を教えてくれた」
ルーファさんは俺の心配になど気づかない様子で、懐かしそうに言う。
「総務人事部ではないんですね」
「ああ、営業成績トップのやり手だったんだ。社長秘書になるときには、たしか採用試験もしたんだっけ」
「社内募集をしたんだ。何名か手を挙げてくれたうちの一人だった」
優秀だよ、と頷くグレンさんの表情は、しかしどこか浮かない。訝しんだ俺に気が付き、彼は困ったように薄い笑みを見せた。
「秘書をつけるかどうかは随分迷ったんだ。先代からしばらく秘書採用をしていなかったから。しかしスロコンブがいてくれて助かっている、やはり採用は正解だった」
長く続けてほしいんだが。そう締め括った声は頼りなく掠れていた。
見学という名目で確保してもらった時間は午前だけ。昼には文化保護機構に行って、隊長に報告をする手筈になっていた。
特殊部隊の執務室には誰もいない。双子はまだ調査中だろうか。隊長は資料室で仕事をしているのだろうか。がらんとした部屋の自席に荷物を置き、念のため棚や金庫に鍵がかかっているかを確認しようと振り向いた。
「トビ、戻ったのか」
「隊長」
目が合ったのは、資料室の扉ではなく、執務室の出入口前。珍しいことに、隊長は部屋を出ていたらしい。
しかもその手には、スパイスの良い香りがするタッパーを持っていた。
「お疲れ様です。そうか、もうお昼でしたね。それはご自分で?」
「いや、これは差し入れだ。独り占めしようと思ったんだが仕方がない」
と言いつつ隊長は俺にそのタッパーを丸ごと渡し、再び部屋を出ようとした。
「いや、これは隊長が召し上がってください」
「炊事場の冷蔵庫にまだある。慣れない仕事をしてきたんだ、まずは腹を満たせ」
温かくて、甘いような辛いような匂いを湯気とともに漂わせるカレー。突っ込んであるスプーンで少し混ぜると、溶けて原型を留めないトマトを発見した。
差し入れ。独り占め。トマトカレー。――それらが一本の線で結ばれた瞬間、俺は部屋を飛び出していた。
「隊長、イリスさんがいらしてたのでは?!」
「さすがの推理力だ」
こちらを見ずとも、隊長がにやりとしたことはわかった。俺がいない間に来ていたとは。トマトカレーは彼女が「これなら作れる」と言っていた得意料理だ。
「……会いたかったな」
ぼやきながら、自席でカレーを口に運ぶ。酸味と塩味のバランスが良くて、ほのかに甘い。懐かしさと惜しさで泣きそうになっていると、隊長が部屋に戻ってきた。
「トビ、お前はよほどスロコンブに好かれてるんだな」
「隊長こそイリスさんに会えるなんて羨ましいです。ジョナスさんは炊事場にいたんですね」
「いた。私を見るなり突っかかってきたぞ。トビ君をおかしなことに巻き込まないでいただきたい、だとさ」
隊長は応接用のソファに座り、今温めてきたばかりのカレーを食べ始めた。心做しか機嫌が良さそうで、ますます羨ましい。
「おかしなって、俺はアルバイトではありますが特殊部隊の人間ですよ。仕事をしているだけです」
「あいつにはそう思えないんだろう。文派はスロコンブにとっての理想だったようだからな」
理想、だった? スプーンを持つ手を止めた俺に、隊長は頷く。
「スロコンブ家は裕福な一般家庭だ。軍家でも商家でも、文派に昔から連なっている家でもない。この国の中流を占める、よくある普通の一家。その中でもジョナス・スロコンブは頭の出来が良かった」
レジーナ大附属ではない小学校で、ジョナスさんはかつて神童と呼ばれていたそうだ。そこでレジーナ大付属の中学校を受験し、それからは大学卒業まで優秀な成績を残してきた。彼はスロコンブ家の誇りとして育ったのだ。
「だが元々文派上層の家の人間は……文派に限らないが、立派な家柄を自称する者は異物に敏感でな。後続の成り上がりを押さえ込むことで、自らの地位を維持できると思っている」
どんなに優秀でも越えられない壁が、ジョナスさんの前には立ちはだかっていた。家なんかどうしようもない。歴史なんか変えられない。努力すればするほど押さえつけられ、身の程を知りそこに留まれと言われてしまう。
「文化保護機構というのは、名前だけが妙に立派だが、実情は文派の本部から溢れた人間を置いておくためのところだ。古い建物をあてがわれているのも、まあ予算の優先順位の都合といったところだな」
「そんな……皆がそれを知っていたら、積極的に働きたいとは思えませんよ」
「だから上の階の連中は、だんだん諦めていく。最初は悲観しつつも現状打破に取り組もうとするが、次第に無駄な事だと思い始める。文化教育部の仕事の大半は本部の下請だ」
昨日見た、広い部屋を使う人たちの表情や態度を思い出す。あの環境は、少なくとも俺には合わないと感じた。それに。
――もう来ない方がいいよ。
ジョナスさんも、そうなのだろうか。押さえられ、諦めてしまっているのか。もしかしたら、あの人もそう感じている……?
「あ、隊長、すみません。本来なら真っ先に報告しなければならなかったんですが」
閃きかけた思考を遮るように思い出した。俺は目的をひとつ達成してきたのだということを。
荷物から、布に包んだ箱をそっと取り出す。箱の外装を見た時点で、隊長はもう察していた。
「メダルを受け取ってきたか。食べてからにしろ」
「そうですね。フォース社長が、書類は後ほどと」
「了解した。では、残る問題はリチャード・スロコンブへの回答のみだな」
見学に行ってどう思った、と隊長は立ち上がる。手にしているタッパーは既に空だ。
俺は正直に、リチャードさんが言うほどの「危機」は感じられなかったこと、寧ろ社内全体が明るく不満の表出は見られなかったことを話した。
「ただ、だからかもしれない、と思ったんです」
先程の閃きはきちんと残っていてくれた。今度こそ言葉にのせられる。
「社長が社員を威圧しているのではなく、リチャードさんが自ら感じたことを『圧力』と捉えているのではないでしょうか」
社長らはリチャードさんの能力をかっている。営業部員だった頃も、秘書である現在も。けれども彼自身に「それ以上にはなれない」という諦観があったとしたら。
「ルーファさんが言っていました。努力をしていても、人には親の七光りが見えるんだって。リチャードさんは頑張っているのに先が見えなくて、とても悩んでいるのではないでしょうか」
そうして思い詰めて、ここに依頼をしに来たのでは。それが俺の「想像」だ。
隊長はなるほどと頷く。だが。
「甘いな、トビ。お前は本当に育ちが良い」
返ってきたのは、そんな皮肉だった。
意味を問いただそうとするより先に、廊下から足音が聞こえてくる。そして「お腹空いた」の合唱が始まった。
アルバイトも折り返しの十日目を迎えた。いいかげん慣れてきたはずなのに足取りが重いのは、今朝のニュースのせいだ。
昨晩、軍がとある団体の捜査に乗り出した。国内の企業に対して運営改善を提案する目的で設立した団体だったのだが、その代表が裏組織と関係があるのではという疑惑があった。
団体に所属していた人たちの多くに悪意はなかった。知らず知らずのうちに裏組織の活動に加担させられ、企業の情報を外に流してしまっていた。
リチャード・スロコンブがその団体に出入りしている一人であると、近々軍の事情聴取を受けることになると、調査から戻った双子が教えてくれた。こうなることを、俺たちはひと足先に知ってしまったのだった。
「おはよう、トビ君。顔が暗いよ」
「おはよう、トビ君。さてはニュースを見たね」
「おはようございます。その通りですよ。元気になんてなれません」
夕食と朝食もろくに喉を通らず、祖父母と弟妹にも酷く心配された。弟妹は明後日には両親のもとへ帰る予定だったが、特にサシャが「こんな兄ちゃんを置いていけない」と言い出した。
しっかりしなければ、と思うも、俺は俺で心配だったのだ。――ジョナスさんは、大丈夫だろうか。フォース社はどうするのだろう。
始業時間になり、資料室から出てきた隊長は普段と変わらず指示をする。
「リチャード・スロコンブ氏の依頼だが、これは中止の案件として処理する。知り得た情報は軍に渡すことになる」
調査は捜査になった。俺たちの手には負えないものとして、軍に引き継がれる。こんな幕切れでいいのか。
「トビ、話を聞いているのか。まだ私は話し終えていない」
「聞いています、けど」
「そうか。それからこれは先程入ってきた連絡だが、文化教育部のジョナス・スロコンブが退職願を出したそうだ。私物を片付け次第去ると」
仕事については仕方がない。俺にはどうにもできない。どうせただのアルバイトで、あと少ししかここにはいられない。
でも、だ。何かを変える権限はないけれど、思いをひとつ伝えるくらいはできるんじゃないか。
「隊長」
「どうした」
「俺、これからサボります」
何も知らない頃は、ただただ暢気だった。神童と持て囃され、調子に乗った。何でもできる気がしていた、怖いもの知らずの子供だった。
――お前ならきっと、立派な人物になれる。だからやりたいことがあったら、何でも言いなさい。父さんたちは協力するからな。
中学受験も上手くいった。両親が惜しみなく塾や参考書の費用を払い、何の心配もいらないと背中を押してくれたおかげだ。なんて幸せな家に生まれたのだろうと思った。
だが、所詮はそれが「一般家庭」の限界だった。レジーナ大附属の中学校に通って、周囲が名家の子息子女ばかりになったとき、格差を思い知らされた。
大人たちは代々続く立派な名前を持つ者同士で結託している。教師ですら、名家の子供ではない生徒は歯牙にもかけない。
成績が良くないうえに落ち着きがない双子の兄弟は、しかし文派の頂点たる大文卿の子供たちで、何をしても退学にはならなかった。一方で、僕と同じような一般家庭の子供たちは、成績が芳しくないと判断されると遠回しに自主退学を勧められた。
成績を上位に保っていたとしても、それがどうしたといわんばかりの関心の無さ。呆れ果てても、せっかく親が学費を払ってくれているのだからと、そこから離れる選択をしなかった。
それに、忘れられなかった。我が子がどこの学生か、人に紹介する両親の表情を。誇らしげな笑顔を。それを見る度、僕さえ偉くなれば親も、そして子孫も、もう侮られることはなくなる筈だと希望を持った。
ほんの少しだけ口にした不満も、父は「そんなものがなんだ」と一蹴した。こちらは全て実力、あちらは身分に胡座をかいているのだから、いつか報われるのはこちらなのだと。
その言葉を信じてきた。大学卒業後の進路に文部事務所の本部を志望し、弾かれたときも。就職した文化保護機構の文化教育部が、文派組織を名乗れるというだけの場所だと知ったときも。それでも最後に報われるのは自分だと言い聞かせてきた。
侵蝕してくる諦めに完全に負けてしまうことのないよう、炊事場に好きな食材と調理器具を持ち込んだ。食材が勿体ないからと、出勤を欠かさない理由を作った。
それなのに、どうして――どうして父さんが、とどめをさしてしまうんだ。
協力するって、言ってくれたじゃないか。
「ジョナスさん、やっぱりここでしたか」
箱に残った食材を放り込んでいたところへ、彼はやってきた。そういえば、今は彼がいるのだから、処分せずこのまま譲るという選択もできるのだった。
「トビ君、仕事は? もう始まっているだろう」
「サボりますって隊長に言ってきました」
「言って……それはサボりというのかい?」
トビ・ハイルという少年は、初めからどこか不思議だった。まず、文派の異端である特殊部隊にいることがおかしい。あそこはあの落ち着きのない双子を文派として留めておくための場所ではないのか。
調理の手際の良さは好ましかった。あの貧相な材料と道具で、なんともきれいな食事を四人分も用意する。
賢そうな顔立ちに違わず、立ち振る舞いや言動からも知性を感じた。少なくとも、これまでに会った体裁優先の文派の人たちよりは。
何より、名乗りはしたが身分は明かさなかった。彼が前大総統の子だと、僕が知ったのはつい先日のことだ。ハイルという名が気になって、悪いと思いながら調べたのだ。父が写真屋、母が記者。前大総統に繋がる大きなヒントだった。
初めて会うタイプの人間だと思った。家族以外で、最も気にかかる存在だった。今も彼が来てくれたことが、つらく、嬉しく、苦く、温かかった。
こんなかたちで別れたくはない。けれども、もう僕の居場所は失われてしまったのだ。
「父が特殊部隊に何を言いに来たのか、僕は本当に知らなかった。でも、父が軍に連れられて行ったのは、君たちが何かを調べて掴んだからなんだろう」
「……すみません」
「いや、トビ君のせいじゃない。父はとうに許されないことに手を出してしまっていたんだ」
泣き崩れてしまった母の代わりに、僕は軍からの説明を全て聞いた。父はフォース社に貢献してきたが、結局は社長に認められなかったのだ。営業部のエースから、社長秘書への転身。誰よりも尽くしてきたはずなのに、社長も、社員たちも、誰もが慕って期待しているのは、いつだって副社長――社長の息子だった。
絶対に越えられない、家という壁。僕だけでなく、父もそれに阻まれていた。自分に目を向けるものなどいないという事実に苛まれていたのだ。
僕を励ましてくれた父は、僕より先に壊れてしまった。自分はけっして報われないと、認めてしまったのだ。
「まったく、嫌だよね。僕はいくらでも他の人の悪口が言えるけど、父にはそれすらできなかったんだ。だって他でもない、父自身が社長と副社長のことを、きちんと努力をしてきた人だって認めてしまった。黙って裏切るしかできなかった」
そして僕は、そんな人間の息子なのだ。あいつもいずれ裏切るのだと、後ろ指をさされ続ける。これからずっと。
親の七光りが嫌いだ。そんな光を勝手に見て、目が眩んで、実像を見なくなった人たちが大嫌いだ。
「ジョナスさん。……これは俺の想像の話なんですけど、聞いてもらえますか」
トビ君が突拍子もないことを言う。頷いてあげたけれど、聞いているふりだけをして、片付けを進めてしまおう。彼と話して未練が残ってしまったら、とても格好悪い。
「リチャードさん……お父さんは、俺たちに助けを求めに来たんじゃないでしょうか。自分では止められなくなってしまったことを、止めてくれと。そしてもしここに来てジョナスさんの顔を見ることができたら、自分で片をつける勇気が出るかもしれないと」
なんだそれ。そんな都合のいい話があるわけがない。
「そうでなければ、所属していた団体で、予定通り会社を陥れてしまえば良かったんです。けれどもそうしなかった。今のジョナスさんの話を聞いて、そうしたくなかったのではと思いました」
だからこそ惜しかった、と彼は呟く。それで思わず振り向いてしまった。
トビ君の大きな目が、いっぱいに涙をためて潤んでいる。鮮やかに染めあげた布のような青い左目も、前髪に隠れてはいるけれど、熟れた果物のように艶のある赤い右目も。
その目で彼は、真っ直ぐに僕を見ていた。
「社長はリチャードさんを認め、必要としていました。いてくれて助かっていると、長く続けてほしいと仰ってました」
「……そんなの、社交辞令だよ」
「いいえ。ノールさんとジュードさんが調べて教えてくれました。グレン社長は元々、社長秘書を採用するつもりはなかったんです。なぜなら先代の社長が、自らが雇った秘書に殺されかけているから」
それからずっと、フォース社に社長秘書という仕事はなかった。グレン・フォースが一時的な繁忙の対処として仕方なく社内募集した社長秘書だったが、適任がいなければ置くのをやめるつもりだった。だが、この人物ならと思える者が、たった一人いたのだ。
「それがリチャードさん。ジョナスさんのお父さんなんです」
トビ君につられたのだ、きっと。そうでなければ、僕が涙を流すなんておかしい。その言葉を聞いて泣くのは、僕ではなく、トビ君でもない。父本人の筈なのだから。
「父は、報われていたというのかい?」
「リチャードさんが望むかたちではなかったのかも知れません。でも、社長はちゃんとリチャードさんを見ていたんです」
眼差しを遮っていたのはなんだったのか。僕には痛いくらいわかる。それはまさに、目を眩ませていたあの光。本当は相手が発しているのではなく、こちらが作ってしまった壁なのかもしれない。
真の正体は、劣等感だ。
「……もっと早く、気づいていたらよかった」
ずっとずっと昔に。そうしたら結末は変わっていたかもしれない。でも、もう過去には戻れない。
「トビ君、僕は、これからどうしたらいいんだろう。ここを辞めて別の場所に行かなくちゃと思うんだけど、何も思いつかないんだ。文派にい続けて、両親のために立派な人間になることだけを考えてきたから」
もう文派の機関は、僕を受け入れてはくれないだろう。父が大企業への背任行為を犯したとなれば、会社勤めもなかなか難しいかもしれない。
「俺は、人に選択肢をあげられるほど偉くはないです。でも、ジョナスさんの考えは持ったままでもいいと思います」
トビ君は僕の手に自分の手を優しく重ねた。年下の彼の手は、けれども大人の低い体温だった。
「今の文派には、異端で野蛮だけれど、能力の高い人がそれを存分に発揮できる部署があるんです。ご存知ですか?」
改めて、アルバイト十日目。就業時刻から小一時間ほどサボってしまったけれど、本日の仕事が始まった。
今日は別の案件を処理しなければならない。一日手をつけられなかったので、書類は溜まりっぱなしになっている。
メダルに関しては残り二つとなったが、このままだと行方知れずとして、レプリカ作製の手続きが必要になってしまう。
イリスさんが差し入れを持ってきたのは、インフェリア家のメダルが現存しているのかもわからない、誰もそんなものがあるなんて知らなかった、という報告をするためだったようだ。
「イリスに許可をもらって、インフェリア家の捜索でもするか。駄目だったときのためにレプリカの注文準備を並行」
「それならまたトビ君の仕事じゃない?」
「トビ君ならインフェリア家にだって潜入できるよね」
「目的が相手にもわかっているんですから、潜入ではないですよ」
それに俺まで外に出てしまうと、また書類仕事をする人がいなくなってしまう。それでは大層困ってしまうので、ここに残って仕事をする人がいてくれると助かるのだが。
「こういう状態なんですよ、ジョナスさん」
「……双子が事務仕事では役に立たないことは知っていたけど」
炊事場で何故か二人でひとしきり泣いた後、俺はジョナスさんを特殊部隊の執務室まで半ば無理やり引っ張ってきた。嫌そうにしながらもついてきてくれたので、そのまま見学してもらっている。
「ジョナスさんは、書類仕事は得意ですか」
「上では書類しか触らせてもらえないよ。だから自信はある」
「だそうですよ、隊長。人員増やしませんか」
「僕はここで働きたいなんて言ってないよ。意外と強引だね、トビ君」
呆れ顔のジョナスさんの両側を、双子がにやにやしながら陣取る。びくりと肩を震わせた彼に、ノールさんとジュードさんはステレオで囁いた。
「ナスコンブ、まだトビ君のことちゃんと知らないみたいだね」
「ナスコンブ、トビ君は賢いし強いし気が利くんだよ」
「ええい、やめろ! 僕は君たち双子が昔から鬱陶しくて堪らないんだ! それからナスコンブって呼ぶな!」
飛び退いたジョナスさんを、隊長がじっと見つめていた。かと思えば、ゆっくりと頷く。
「そうだな。これからのためにも非戦闘員は必要だ。それにノールとジュードに対する認識は気が合う」
「ということは、隊長」
「退職願を上階からひったくり、異動願に書き直させる。それで万事解決だな。ここではトビの方が先輩だから、教育係は頼む」
流れるように俺の仕事を増やして、隊長は部屋を出ていった。有言実行に向かうようだ。
「ジョナスさん、隊長が採用するそうですよ」
「あのね、トビ君。文派は文派でも、ここじゃ両親は喜ぶどころか泣くよ。絶対に立派になんかなれないから、僕はトビ君と一緒に逃亡したい」
「えー、トビ君はおれたちのだよ」
「えー、トビ君は渡さないよ」
騒ぎを収めたら、まずはジョナスさんに書類整理を教えよう。午前中に片付けてしまって、昼は俺がジョナスさんから料理を教えてもらおう。午後にはメダル収集についての説明が必要だ。
人が増えれば、できることも増える。仕事が回り、さらに信頼しあえる
そうすれば余計な光も壁も、そのうちどうでもよくなるのではないか。ゆっくりでいいから、そうなるといい。
俺がいなくなっても、大した影響のないように。