すまない、俺は先に逝く。君の泣き顔は最期まで苦手なままだったから、どうか微笑んでくれないか。
いや、そもそも君は、笑顔を作るのがあまり得意ではなかった。だからこそ時折見せてくれる表情が、どんなものよりも輝く、俺の宝物だった。
愛しい君に、これを託そう。全て君の好きにしてくれていい。
棄ててしまってもかまわない。俺の全ては、君のものだから。
任せたぞ。最愛の妻――。
二日間の休みが明けて、アルバイト十一日目。俺が執務室に来たときにはもう騒がしかった。
「掃除をした端から散らかすんじゃない! 君たちはいつもそうだ、僕の邪魔をするのが趣味なのか?!」
「だって普段は朝に掃除なんかしないよ、ナスコンブ」
「したとしても自分のスペースを各自でやるんだよ、ナスコンブ」
「だからその呼び方をやめろ!」
手に布巾を持ったまま、ジョナス・スロコンブさんは怒鳴り続ける。本来は穏やかな人だと思うのだが、双子に対しては感情を露わにするようだ。
そんな彼に軽口を叩く、ノールさんとジュードさん。二人あわせてハルトライムの双子は、机にどんどん未処理の資料を積み重ねていく。
「おはようございます」
俺が挨拶をすると、三人は一斉にこちらを見た。
「おはよう、トビ君。早速だけど、君は出勤したら掃除をするよね?」
「おはよう、トビ君。別にしないよね、そんなこと」
「おはよう、トビ君。いつもすぐに仕事に取り掛かるもんね」
双子のステレオにようやく慣れてきたと思ったら、ジョナスさんを加えたサラウンドになってしまった。なんとか聞き取って返答する。
「ええと……ノールさんとジュードさんは午前の仕事を外ですることが多いので、ご存知ないかもしれません。俺は始業後、軽く執務室を掃除してます」
「ほらみなよ、トビ君はちゃんとしているだろう」
「へえ、そうなんだ。ありがとう、トビ君」
「へえ、そうなんだ。助かるよ、トビ君」
これで落ち着くだろうかと思ったが、双子が掃除をしようとしないので、引き続きジョナスさんが怒っている。これから毎朝こうなのだろうか。
遠い目をしていると、資料室の扉が開いた。額を押さえたガンクロウ隊長が、一層機嫌が悪そうにこちらを睨む。
「喧しい……最悪な朝だな」
「隊長、おはようございます」
どうやら資料室の奥で寝泊まりしてしまうことが多いらしい隊長は、朝に非常に弱い。目は覚めるのだが、血圧が低いせいでなかなか動けないそうだ。
そんな状態でこれまで双子のステレオを、これからは同級生三人のサラウンドを浴びなければならないなんて、同情する。
「ジョナス、掃除は自分が使うスペースだけでいい。机を拭いてくれるのは結構だが、どうせあのザマだ」
資料は既に山になっている。崩れないよう整えるので精一杯だ。
「わかりました。しかしガンクロウ隊長、あなたが双子に甘いからつけ上がるのでは? 掃除くらいさせるべきです」
「甘くした覚えはない。こいつらはただ絶望的に、定期的な片付けや掃除といった秩序の塊みたいなことができないんだ」
本人たちのタイミングに任せている、と隊長は呻くように言う。現に双子は限界を感じたときには片付けもするし、普段机を散らかしているように見えても実は彼らなりの法則があるらしい。
対してジョナスさんは秩序の人だ。掃除も仕事も昼の炊事も、ルーティンに従い行なっている。そうでなければストレスが溜まるという。
「トビ君、よくこんなところで働けるね。文化教育部が整った針のむしろなら、ここはごみ屋敷だよ」
「まあまあ、気になるなら一緒に掃除しましょう。ノールさんとジュードさんは、これから調査に行くんですよね」
「そうそう、資料を集めに」
「そうそう、また整理よろしく」
賑やかさを増した特殊部隊に、俺がいられるのは今日を含めてあと十日。はたしてその後は大丈夫なのだろうか。
十分に掃除をしてから資料整理に取り掛かってもスケジュールに影響がないというのは、とても楽だ。人手が増えるとは、しかも事務作業の得意な人がいるということは、こんなにも素晴らしいことなのか。
俺が人知れず感動を噛み締めていると、資料室の扉が再び開いた。隊長の姿勢は朝よりも随分良くなっている。
「どうかしましたか。コーヒーのおかわり、もう無いんですか」
「トビ君、コーヒーくらい隊長が自分でやるだろう。君が気を遣う必要はないよ」
ジョナスさんは呆れたように言い、自分の作業の手をけっして止めない。戸惑う俺に、隊長も頷いた。
「そうだな、コーヒーくらい自分でできる。だが用件はそうではない。午後からインフェリア邸に行くぞ、トビ」
「え、もしかしてメダルが見つかったんですか?」
俺たちは仕事として、建国二百五十年記念メダルを収集している。このエルニーニャ王国が建国二百五十周年の節目に、当時の有力者に贈られた九つのメダルだ。
これまで七つが揃っているが、残る二つはもしかすると見つからないかもしれない。なのでレプリカ作製の申請をする準備を、休み前から進めていたところだった。
「まだ見つかっていない。だが、インフェリア家の当主が帰ってきたらしい。彼がいなければ探せないところがあったが、ようやくそこに手をつけられると今連絡が来た」
当主が帰ってきた、とはどういうことだろう。留守にしていたなんて聞いていない。首を傾げる俺の隣で、ジョナスさんが口を開いた。
「外国かどこかで仕事をしてたんですか。よく呼ばれるそうですね」
「二週間ほど西の小国で描いてたそうだ。年始から忙しいな、有名画家は」
そのやりとりで、俺は自分の勘違いに気が付いた。インフェリア家は当主の代がわりをしていたのだ。
「今、当主ってカスケード氏ではなくて」
「その息子でイリスの兄君の、ニア氏だな」
インフェリア家はエルニーニャ王国の建国に関わった英雄、軍の御三家の一つだ。「万能の指揮者」ゼウスァート、「賢者」エストに並び、その名が表すのは「地獄の番人」。大陸戦争においてはその怪力と戦闘能力が大いに恐れられたという。
御三家は全て二百五十年記念メダルを授与されている筈なのだが、俺たちが手に入れられたのはエスト家のもののみ。インフェリアのメダルは所在不明、ゼウスァートのメダルは家自体が既に断絶に追い込まれているため現存しているか怪しいという状況だ。
「ニア氏によると、事情はフォース社の副社長から聞いたらしい」
「お二人はパートナーですから、納得はできますけど。でも、イリスさんたちインフェリア家からは話してなかったんですか」
「仕事中はあちこち歩いているか作業に集中しているせいで、連絡はほとんど取れないそうだ。特にここ数年は何かに取り憑かれているかのように画業に打ち込んでいる。原因はわからなくもないが……」
とにかく、そのために事態の把握が遅れていたらしい。隊長に連絡を寄越したのは、ニアさん本人だった。
詳しいことは後ほど、ということで午後に会う約束をしたようだ。しかし、まだ疑問はある。
「ニアさんはインフェリアの本邸には住んでいませんよね。それなのにインフェリア家に行くんですか」
「本邸にある筈の物を探すんだ、本邸で会った方が良いだろう。安心しろ、トビ。イリスは今日は仕事でいないから、お前は緊張しなくて済む」
イリスさんについては余計だけれど、なるほど、詳細を聞いてからすぐに心当たりの場所を見せてくれるのだろう。
納得して頷いていると、ジョナスさんが大きな溜息を吐いた。
「トビ君、君は本当に前大総統の息子なんだな。有名人の名前が次々に出てくるのに、全然動じていない」
「有名人というより、父の知り合いという認識ですから。俺にとっても顔見知りが多いので。ジョナスさんもフォース社の副社長なら会ったことがあるのでは」
「ないよ。父はフォース社に勤めていたけれど、副社長と友達とかではないからね。あんなことになったんだから、君だってわかるだろう」
呆れたようなジョナスさんにすみませんと頭を下げ、改めてインフェリア家に思考を向ける。イリスさんによると「家の誰もメダルのことを知らなかった」。おそらくはニアさんも、メダルの存在は知らないだろう。
ただ、当主のみが把握している場所が、あの家には存在している。メダルが眠っているとすれば、そこしか考えられない。
冬の午後の陽射しは寒さを弛め、満腹の俺たちに睡魔を差し向ける。ジョナスさんが張り切って作ってくれたシーフードパスタとお手製ドレッシングを使ったサラダはとても美味しかったのだけれど、五人分を作り慣れていないためなのか量が多かった。
隊長は堂々と欠伸をしている。現地に着くまでに止まればいいのだが。
「トビはインフェリア家に行ったことはあるのか」
「何度か。弟がグリンと仲が良いので」
「そうだったな」
インフェリア邸は大きな家だ。現在は先代当主夫妻とイリスさん一家が同居している。今日会う予定のニアさんは別の場所に暮らしているのだが、それでも現在の当主という立場らしい。
「不思議な感じですよね、当主が別居してるなんて」
「いかにも面倒そうだが、それがあの家にとっては都合が良かったんだろう。兄君はイリスに当主を継がせたくなかったようだ」
「それは何故ですか」
「インフェリアを名乗るだけで面倒が起きるのに、加えてイリスにはあの妙な眼がある。できるだけ厄介事を背負わせたくないという兄心……というより過保護だな」
あの人は家族に対する感情が重い、と隊長がぼやく。いつか父が似たようなことを零していたのを思い出した。
――深刻に考えすぎるんだよな、自分の家族のことだからってさ。一番インフェリアの名前に重みを感じてるのは、間違いなくニアだよ。
あれはどういう脈絡の発言だっただろう。そこまで記憶を辿る前に、俺たちの足が目的地に到着した。
隊長は一瞬の躊躇もなく呼び鈴を鳴らし、応えて出てきたのは体躯の大きな年配男性だった。
「おお、ベルじゃないか! うちに来るのは何年ぶりだ?」
「お久しぶりです、カスケード氏。ですがその呼び方はこの瞬間から一切やめていただきたい」
大きく腕を広げて歓迎してくれた先代当主のカスケードさんに対し、隊長は勢いを受け流すかのように冷静に言う。流れてきたものは隊長の後ろにいた俺にぶつかった。
「こんにちは、カスケードさん。ご無沙汰してます」
「ん? レヴィのとこのトビじゃないか! 随分大きくなったな!」
前回会ってから一年半程で、それほど俺の見た目は変わっていないと思うのだが。カスケードさんは、殊子供の成長に関してはいつも少し大袈裟だ。
「今日はイリスもグリンもいないけど、何か用事があったのか?」
「ニア氏と約束があるんですが、聞いてませんか」
「ニア? 西の小国で仕事があるんじゃなかったのか」
怪訝そうにするカスケードさんと、全く話が噛み合わない。隊長も形のいい眉をぎゅっと寄せた。そうして説明をしようと口を開きかけたとき。
「ごめん、そっちの家じゃないんだ。うっかりしてた」
後方から滑らかな声がした。カスケードさんが目を見開いたその視線を追うように、俺たちは振り向く。
白髪混じりの父親よりもまだ濃い青色の髪と、父親と全く同じ海色の瞳。ニア・インフェリアさんはにこりともせず、そこに立っていた。
「ニア、お前帰ってたのか。連絡の一つも寄越したらどうなんだ」
「今朝着いたばっかりなんだ。いいでしょう、ここにいるってことは無事だってことなんだから」
「そういう事じゃなくてだな」
「そんなことより、ガンクロウ隊長……とトビもいるんだね、二人はこっちに。じゃあ父さん、母さんにもよろしく」
カスケードさんの言葉を遮り、これ以上は聞く意思もないというように、ニアさんはすたすたと行ってしまう。困惑する俺の隣で、隊長は姿勢を正した。
「失礼しました。それでは」
「ああ……ごめんな、変なところを見せてしまって」
「いいえ、ニア氏がお疲れなのはこちらも承知しております。もちろんその原因も」
隊長に続き、俺もカスケードさんに一礼する。そして二人でニアさんを追った。
追いかけた先には、インフェリア邸によく似た、けれども佇まいの古い家があった。壁には枯れた蔦が絡んで、窓の向こうまでも寒々しい。
「人が住まなくなってしばらく経つから、結構荒れちゃってるんだ。叔母が最後に屋内を掃除してくれたのも、ひと月くらい前」
ニアさんが玄関を開けるのにも、鍵が回りにくそうだった。鍵自体が古めかしく、アンティークの店に装飾品として置いてあるものを彷彿とさせる。
「なるほどな。インフェリア邸といっても、現在のではなく」
「そう、旧本邸。僕の祖父母の代まで使っていたところ。きちんと言わなくてごめんね」
大きく軋みながら、扉が開いた。どうぞ、と招かれたけれど、室内は足を踏み入れるのが怖いくらいに冷えていた。
何かが架かっていたのか、壁の染みは四角や丸にくり抜かれている。床にも家具の脚の跡が残っているが、それだけだ。奥に進むと壁際の大きな棚などはそのままだったが、部屋の中心はやはりぽっかりと寂しい。
「取り壊すための手続きをするつもり」
ニアさんは歩きながら言う。
「もう誰も住まないから。だからその前に、残っているものは整理しなくちゃと思ってた。でも忙しくて、なかなかできなかった」
「あなたが忙しくて、こちらは助かった。御三家には何があるかわからないからな、勝手に処分されては国の歴史の証拠がまた失われる」
「さすがにそれっぽいものが出たら相談するよ」
「あなたがそれっぽくないと判断したものが、こちらには重要であることもある。文化保護機構の本来の仕事をするためにも、手続きの前に相談を」
そうだね、とニアさんは苦笑する。隊長が改めて言わなければ、俺たちがメダルを探していなければ、この場所はあっさりと消滅してしまっていたかもしれない。
廊下の突き当たりに扉があった。ニアさんが提げていた鞄から鍵束を取り出し、そのうちの一つをドアノブの下に差し込んだ。
「ここから地下倉庫に行ける。さらに寒いけど、大丈夫?」
「私は構わない。トビは」
「俺も大丈夫ですよ。寒さには強いつもりです」
「クラウンチェットって首都の北東だものね。レヴィが『寒ささえなければ理想郷だ』って言ってたな」
開いた扉から冷気が漏れる。階段を下っていくと、体感温度はみるみるうちに下がっていった。思わず腕を摩ると、隊長がコートのポケットから取り出した使い捨てカイロを俺に差し出した。
「いいんですか」
「もう一つある」
「ありがとうございます」
すっかり温かいカイロを手で揉んで暖をとっていると、先頭のニアさんがくすくすと笑った。
「隊長とトビは、なんだか姉弟みたいだね」
「そうですか?」
「年齢差は親子ほどだがな。どちらにせよ、家族を捨てた私に対して随分な皮肉ですね」
「そんなつもりはないよ。それに隊長は、なんだかんだ言って捨ててなんかない。妹さんたちとちゃんと連絡をとっているでしょう」
階下にはさらに扉がある。そこにも鍵がかかっていたようで、ニアさんがまた別の鍵を差し込む。
冷蔵庫のような室温のそこには、箱や紙の束が積み重ねられていた。並べ方こそ几帳面そうだが、カバーも掛けないまま放置されている。横目で見た隊長は眉を顰めた。
「取り壊しの前に全部調査させていただきたい。場合によっては建物も資料館にするため買い上げる。大文卿夫人なら考慮してくれるだろう」
「なるほど、その手があったね。じゃあ、アーシェちゃんに話してみよう。でもそれはまた今度、今日の本題はこっち」
部屋の奥に、さらに扉。しかも今度は錠前が二つ付いている。厳重に封印されたそこにニアさんが触れ、この先は、と唇が動いた。
「当主に受け継がれる鍵が必要だから、今は僕以外の誰も入れない。メダルがあるとすればここじゃないかな」
そんな部屋があるなんて、まるで物語のようだ。息を呑んだところで、隊長が扉に手を伸ばし、指でこつこつと叩く。
「当主に受け継がれるなら、カスケード氏は何故それを教えてくれなかったんでしょう。知っているはずでは」
「ああ……忘れてたんじゃないかな。父さんはこの鍵、自分で持ってたことがないから。叔母に預けて、それから僕に」
錠前が一つ、もう一つ、解かれ外される。そして扉本体の鍵も開けられ、その封印が全て解除される。だが、隊長は手を退けない。
「当主に受け継がれる鍵というのは、錠前と扉を合わせて三つ全てを指しますか」
「そうみたいだね」
「何故カスケード氏は鍵を持たなかったんですか」
「自分の父親、つまり僕の祖父から何か受け継ぐということに抵抗があったんじゃない? 家だって自分で新しく建てたんだから」
ニアさんの声色は変わらない。変わらないのに苛立ちが滲んでいると感じる。
「なるほど、そうか。それはそれは、そっくりな親子だ」
対して隊長の言葉には、明らかに棘がある。俺がコートの裾を引っ張ると、ようやく扉から手を離した。
重い扉がゆっくりと引かれ、更なる冷気が足元を這う。
終業時間まであと十分。進捗を書いていると、隊長が手を叩き鳴らした。
「書きながらでいい、耳だけ傾けろ。明日の仕事だが、全員でインフェリア邸へ向かう。可能な限りの防寒をするように」
双子とジョナスさんはさすがに耳だけではなく目も隊長に向ける。俺はインフェリア邸からの帰りに既に話しているため、言われた通りにして返事をする。
「みんなで行くんですか?」
「みんなで調査ですか?」
「それは僕も行かなきゃいけませんか? 今日一日、双子のお守りで疲弊してるんです。明日は一人で、あるいはトビ君と二人で、書類を片付けたいんですが」
わくわくと合計四つの瞳を輝かせる双子に対し、ジョナスさんは目が濁っている。書類仕事が苦手な双子との半日は本当に疲れたのだろうけれど、どうして俺を巻き込もうとするんだ。
「全員だ。インフェリア邸の調査は人手がいる。寒くて効率も落ちるからな」
「俺もできれば人手が欲しいです。尋常ではない寒さなので。調査したいのは、ずっと人が入っていなかった場所なんです」
隊長に続くと、今度は注目がこちらに集まる。咳払いを一つして、説明を引き受けた。
インフェリア家の当主に受け継がれる鍵を、しかし先代当主であるカスケードさんは持ったことがない。そして預かっていた妹のサクラさんは、どこの鍵なのかがわからず使ったことがない。つまりニアさんが当主になるまでの長い間、あの地下の部屋は封印されていたのだった。
カスケードさんが鍵を妹に預けてしまった理由は明確ではないが、親子関係に起因するのではないかとニアさんは言っていた。隊長もひとまずその仮定で話をする。
「旧本邸の主だったアーサー氏と先代当主カスケード氏は、お世辞にも仲が良い親子とはいえなかった。鍵と家の継承が円滑ではなかったのも仕方がない」
家のこと、親子のことだ。部外者である俺たちに口出しはできない。まして、既に身罷ったアーサー氏とのことを責めるなんて。
鍵は新しい当主であるニアさんへと託されたが、その役割までは伝わらなかった。当主だけが開けられる倉庫の中身を知る者は誰もいない。
「どこの鍵なのかも、ニアさんがご自身で突き止めたんだそうです。中に何があるのかまでは確かめていないので、個人の依頼として調査を引き受けました」
――調べた結果メダルを見つけたら、持っていっていいよ。そのまま博物館に渡してもいい。全部任せる。
そうして今、鍵は隊長の手にある。明日からは自由に出入りしていいということだ。ニアさんがずっとついていることはできないが、鍵を預かってしまった以上は何かあればこちらの不手際。
「責任重大ですね。全員駆り出されるわけだ」
「痛み分けってやつ?」
「弁償も割り勘?」
「そうではないし、そうはならない」
だからくれぐれも気をつけろ、と隊長は双子を睨みながら言った。
ジョナスさんは進捗の記述に戻りつつ、やれやれ、と息を吐く。
「ニア・インフェリアの作品は、僕も好きだったんだけれど。本人がそんなにいいかげんな人だとは知らなかったな」
「いいかげんではないですよ。地下のものは本当にたくさんあって、手に負えないんです」
「それにしても、何があるかわからない状態の場所を他人に丸投げするなんて非常識だ。繊細で優しい作品が魅力だから、もっと人にも物にも気配りをする人物だと思っていたんだ」
トビ君の気分を害したらごめんね、と添えたので、その部分には首を横に振っておいた。気配りをする人、というジョナスさんの印象は、けっして間違ったものでは無い。今のあの人には、ひたすら余裕が無いというだけなのだ。
俺が知っていること以上に、きっと隊長はあの家に起こっていることを把握している。あの言葉の棘はそういうことだ。
正直なところ、俺はそこに触れるのが怖い。だからニアさんが隊長に全て任せてしまったとき、こっそりと安堵したのだった。
アルバイト十二日目。冷凍室のような地下倉庫には、しかし収蔵物への影響を考えて暖房器具は持ち込めない。俺たちは各々で自分の体を寒さから守る工夫をし、インフェリア家の旧本邸を訪れた。
双子は寒空の下の小鳥のように身を寄せ合い、ジョナスさんは歯をがちがちと鳴らす。俺は軍手をはめているけれど、それでも指先がすぐにかじかんだ。
「地下から物を運び出す許可は得ている。私は上で鑑定するから、お前たちは慎重に持ってこい」
「あっ、隊長だけ寒くなさそう!」
「あっ、隊長だけずるいですよ!」
双子の抗議も馬耳東風、隊長はさっさと上階へ戻ってしまった。ジョナスさんは紫色になった唇を何とか動かし、俺に尋ねる。
「運び出すのは、この最奥の部屋のものだけでいいのかい?」
「そうですね、ここが最優先です。依頼されているのは地下にある収蔵物全てですが、俺たちはまずメダルを探さなければならないので。……それにしても」
当主のみが開くことを許された倉庫の最奥だが、改めて見ると物が多い。年代物と思われる品が大量に、しかも無造作にしまい込んである。手前の部屋よりもずっと酷い有様だ。
だからこそ、メダルがある可能性も高い。まずは手をつけられるところから、少しずつ上へ運ぶしかない。
「俺がここから物を渡します。ノールさん、ジュードさん、ジョナスさんは、申し訳ありませんが上との往復をお願いします」
「え、それってトビ君が寒くない?」
「え、それってトビ君が凍らない?」
「ずっとここにいるのは低体温症や凍傷の恐れがある。危険だよ」
俺の頼みに、三人は顔を顰めた。心配してくれるのはありがたいが、ひとまずはこれが最善の策だろう。
ジョナスさんをここに留めておいたら、きっと俺より先に倒れてしまう。双子は機動力を活かしてもらった方がいい。何よりどんな価値があるのかわからない品を持ったまま階段を昇り降りするのは、初心者の俺にはリスクがある。
「耐えられなくなったら交代してもらいます。ですから、まずはそれで」
「わかった、トビ君に従おう。でも具合が悪くなりそうだったらすぐに教えるんだよ」
「トビ君、しっかり」
「トビ君、頑張れ」
三人が最初の物品を持って、その場を離れる。その間に俺は少しでも運びやすくなるよう、無造作の山を慎重に整理する。
俺はきちんと勉強したわけではないから、ここにあるものにどれだけの価値があるのかはわからない。どれもこれも重要文化財に見えるが、それはインフェリア家の倉庫にあるせいかもしれない。何も情報がなければ、ガラクタとして処分してしまいそうだ。
双子とジョナスさんは、それぞれ紆余曲折はあったようだが、文派機関で働くことができるくらいには学んでいる。大学では関係する科目の単位も取得したらしい。
そして隊長だ。軍を辞めてからしばらくの間、首都を出て勉強していたと祖母は言っていた。大文卿夫人もそこを見込んで、隊長を捕まえたという。
実際のところ、隊長は大陸中を旅して、あちこちの専門家に学んだり、可能であれば短期の学校に通ったりもしていたそうだ。現在の特殊部隊で唯一、鑑定が可能である。
――俺ももっと、色々できれば。
そうすれば役に立てることは増えるのに。以前は否定したが、今なら学校への編入も考えてしまう。
きっと父は協力してくれるだろうし、母は喜んでくれるかもしれない。俺の両親はそういう人だ。最初から俺に選択肢をくれた。
「あの日も寒かったな。さすがにここほどではなかったけど、秋にしては冷え込んだ日だった……」
懐かしい気持ちが湧いてくる。何も持たず、どこにも行けなかった俺が、あの日の出会いで全てを手に入れることができたのだ。
だから今度もきっと、求めれば応じてくれる。家の仕事を手伝うのも大好きで大切だけれど、やりたいことができたと言えば、わかってくれる。
「……違ったのかな、インフェリア家は」
呟いた言葉が白くなり、消えていく。足音が戻ってきたので、慌てて作業を再開した。
休みながらの丸一日で、最奥の物は上に移動させることができた。がらんとした空間を軽く掃除して、今日の作業は終了だ。
明日は鑑定作業がメインになるため、全員が来る必要は無いと隊長は言う。
「私一人でも十分だ。お前たち四人は書類整理や別件の調査など、各々仕事を進めろ。ノール、お前が指示を出してもいい」
「あいあいさー」
「えー、おれは?」
隊長不在で仕事になるのだろうか。ノールさんの指示で大丈夫なのだろうか。不安はあれども、それが隊長の判断だ。
「トビ君の方がいいんじゃないか、指示役」
「俺はアルバイトですから。みんなで協力しましょう」
並ぶ品々を柔らかく丈夫な布で覆い、戸締りを確認する。そうして現地解散ということにしたのだが、ジュードさんが隊長の腕を引っ張った。
「隊長、お腹が空きました。今日はお昼も食べてないし」
「食べただろう。お前とノールが買ってきたのに、記憶が飛んだか」
「トビ君やナスコンブの作るご飯に比べたら物足りないです。だから隊長、ご飯行きましょう!」
隊長の返事を待たずに、ノールさんもジュードさんの逆から回り込む。ステレオが大きなハンバーグを求めて音量を上げ、隊長が苛立ちを眉間に集める。
「喧しい! 人を挟んでステレオで喚くな! 雛鳥よろしく口に虫でも突っ込んでやろうか」
「雛鳥に虫はご馳走ですよ」
「つまりおれたちにはハンバーグですね」
にこにこしながら主張を緩めない双子に、隊長は根負けの息を吐く。つい事態を見守ってしまった俺とジョナスさんがその場を離れようとすると、隊長は呼び止めた。
「そこの二人も来い。身体が冷えているだろう、熱を蓄えた方がいい」
歓声をあげる双子はそのまま隊長の両側について歩き出す。俺がその後を追うと、ジョナスさんもついてきた。
外で食事をするのは久しぶりで、今のメンバーでは初めてのことだ。隊長と双子に出会った日のことを思い出す。あのときは双子がパンケーキをねだっていたっけ。
「トビ君、いいのかい。ご家族が心配するんじゃないか」
後ろにいたはずのジョナスさんが、気がつけば隣にいる。見上げて頷いた。
「お店で電話を借ります。ジョナスさんは?」
「今は家に帰っても一人なんだ。父はもうしばらく軍の世話になるそうだし、母は具合が良くなくて実家に戻っている」
「それは……」
「君たちのせいじゃない。寧ろ特殊部隊の面々といると気が紛れるよ。あまりにうるさすぎるから、トビ君さえいてくれれば十分だけど」
爽やかな笑顔で冗談を言うけれど、ジョナスさんの傷が癒えるのには時間がかかりそうだ。俺がいなくなってからも、少しずつ痛みが和らいでいくといい。
隊長たちはインフェリア邸からさほど離れていない場所にある店に入った。ロッジのような佇まいのそこは、ハンバーグステーキの専門店らしい。双子も初めて来たようで、興味深そうにあちこち眺め回している。
「イリスが美味いと言っていた。私は肉をあまり食わないから、これまで来る機会は無かったが」
席に着いた隊長は、メニューを見ずにビールとおつまみのセットを頼んだ。双子もハンバーグセットを特大サイズで注文する。ジョナスさんはチーズインハンバーグが、味よりも作り方が気になるという。俺はハンバーグプレートにしよう。サラダとスープもついているのにリーズナブルだ。
「トビ君はハンバーグも作れるの?」
「トビ君は何が一番得意なの?」
待っている間が暇なのか、双子が訊ねる。俺は頷いたけれど、得意と言われるとわからなくなってしまった。
「ハンバーグは作れますよ。でも得意料理と言えるほどのものはなくて……。いつもその場でできるものを作るんです」
「それがすごいのに」
「それが天才なのに」
おれたちは無理、とかぶりを振る双子に、ジョナスさんは全くだと鼻で笑う。
「双子には到底できないよね。トビ君、料理を始めたきっかけは? 僕は調理の授業のおさらいを家でしていたら、親に褒められたからなんだ」
「そうなんですね。俺は両親が忙しかったので、自分でできるようになりたくて。弟と妹のリクエストに応えていたら、レパートリーも増えました」
料理も読み書きも、他の色々なことも、俺が始めたのは九年前の秋だ。今の十六歳という年齢でさえも推定のもので、あの日父がそうしようと決めてくれた。
トビ・ハイルはあの秋の日に生まれた。親ができ、弟と妹ができた。それはあまりにも幸せなことで、他のことを知らなかった。
だからわからない。本を読むことでそういうこともあるのだという知識はあったけれど、理解が難しい。インフェリア家の親子関係は、一体どういうものなのか。
「トビ君、ご飯きたよ」
「トビ君、お腹空いてないの」
「あ、すみません。ちょっと考え事を」
物思いに耽っている間に、目の前に食事が用意されていた。ぼんやりさんだなあ、と双子が笑う。やっぱり寒さで具合を悪くしたのでは、とジョナスさんが心配する。取り繕う俺を、隊長がビールジョッキを傾けながら眺めていた。
隊長不在の、アルバイト十三日目。指示をしていいはずのノールさんがジュードさんと共に早々に書類仕事に飽き、ジョナスさんが彼らにうんざりしていた頃だった。
「みんな、頑張ってる?」
執務室の扉を突然開け放ち、金髪の女性が現れた。
「母様、どうしたの?」
「母様、お仕事は?」
双子が訊ね、ジョナスさんは驚きながらも背すじを伸ばす。俺は九年前に少し会ったきりだったその人が、当時とさほど変わらないことにも衝撃を受けた。
大文卿夫人、アーシェ・ハルトライム。父の元同僚かつ同期であり、ノールさんとジュードさんの母親。そして特殊部隊を創った、俺たちの上司。
「お仕事はまだまだたくさんあるんだけど、たまにはここも見ておかなきゃ。今日は隊長もいないんでしょう」
歌うように言って、彼女はこちらへ歩いてくる。俺とジョナスさんの前でぴたりと立ち止まり、美しく微笑んだ。
「トビ君とジョナス君ね。ここで働いてくれてありがとう。ジョナス君が常勤になってくれて嬉しいわ、ここは慢性的に人手不足だから」
「なりたくてなったわけではありませんが」
「だったら尚更ありがたいわよ。それからトビ君、あなたが元気に働いていると聞いて、ホッとした」
大きくなったね、と大文卿夫人――アーシェさんはしみじみと口にした。彼女の俺に対する認識は、初めて会ったときの痩せてぼろぼろの子供のままだったのだろう。ようやく更新できたのだ。
「あなたたち、今、インフェリア家の倉庫整理をしているんですって?」
アーシェさんが全員を見渡して訊ねると、双子が揃って頷いた。
「そう、寒くて大変」
「そう、物が多くて大変」
「でしょうね。長い間放っておかれてしまった場所だもの。カスケードさんどころか、アーサーさんも開けたことがないのよ」
俺が瞠目したのと同時に、ジョナスさんが立ち上がる。同じことを訝しんだようだった。
「アーサー氏も開けたことがないというのは、どなたが仰ったんですか」
「そっか、亡くなってるからわかんないよね」
「そっか、母様は霊媒師じゃないのにね」
双子のとぼけたような発言にくすくす笑いながら、アーシェさんは「ニア君が」と答えた。
「サクラおば様から鍵を受け取るとき、そう言われたんですって」
――本来はお兄ちゃんが持つべきものだったんだけど、私が預かっていたの。どこの鍵なのかはわからないけど。
――お兄ちゃんもよくわからないんですって。だから父さんに私から直接訊いたら、家の中のどこかって言うの。詳しくは父さんも知らないって。
叔母に渡された古い鍵の正体を、ニアさんはようやく突き止めた。それまでずっとあの倉庫は眠り続けていたのだった。
つまりあの倉庫にあるのは、アーサー氏よりも以前の、インフェリア家の持ち物ということになる。それは大変なものが出てくるのではないか。
「アーサー氏の前の当主といえば、教科書通りの呼び方なら『先カスケード』ですね。ここもまともに継承がなされていないなんて、インフェリア家ときたら……」
憤慨するジョナスさんに、しかしアーシェさんは微笑みを絶やさない。優雅に首を横に振る。
「継承されていないというのは考えにくいの。アーサーさんはお父さんをとても尊敬していたから、自分の子供に同じ名前を付けたんだもの。これは私がアーサーさん本人から聞いたから間違いないわ。だからね、わざと隠していたんじゃないかなって」
どうしてそんなことを。思考の海に沈みかけた俺を、けれども双子の声が引き戻す。
「わかった、やらしい本とか隠してたんだ!」
「わかった、やらしい玩具とか持ってたんだ!」
「やめろ双子! 未成年がいるんだぞ!」
ジョナスさんが俺の耳を塞ぐのは全く間に合っていなかった。聞いたところでどうということもない。
そうじゃないけど、とアーシェさんが言ったのは、ひとしきり笑ってからだった。
「我が子の尊敬を裏切りたくなかったから、そうなってしまうかもしれない何かを隠した。その観点は正解じゃないかと、私も思ってる。アーサーさんはとても真面目な人だったからね」
やっぱりやらしい、と言いかけた双子の頭を、ジョナスさんがいい音を立てて叩いた。自分の子供たちが叩かれているというのに、アーシェさんは誰も咎めることなく話を続ける。
「親ってね、子供には見栄を張りたいの。強く在らねば、お手本で在らねばと思う。でもね、それが子供の成長と合わなくなってしまうこともあるのよ。手をかけるタイミングや、手を離すタイミングが、いつも正しいとは限らない。そのやり方だって」
私だってそうだよ、と彼女は愛しげに双子を、それからジョナスさんと、俺を見る。
「かといって、正しくはこうする、っていうのもないの。本人と向き合うしかないのに、向き合ったら何かが終わってしまうような気がして、そこに立ち尽くしてしまったりもする。……そうやっているうちにね、何かを伝えそこなってしまうことも、あるんじゃないかな」
俺の脳裏に隊長の声がよみがえる。そっくりな親子、という言葉の刺々しい響きが。
伝えそこなうことを繰り返したら、その先はどうなってしまうんだろう。失って、無かったことになって、悲しい思いばかりが延々と残ってしまったら。
締めつけられる胸を押さえようとして、しかしその手は宙で止まった。鳴り響く電話の音にいち早く反応したのはアーシェさんだった。
「はい、文化保護機構特殊事項対策部隊です。……あら、隊長。そちらはどんな様子?」
俺たちが注目する中、アーシェさんは相槌を打ったり笑ったりして、やがて受話器を置いた。そしてこちらに向けて親指を立てた。
「それっぽいもの発見! ……だけど、ガードが非常に固いみたいね」
俺たちが疑問符を浮かべるのを、彼女は挑戦的な笑みで見ていた。
宝箱らしい宝箱だった。塗装が剥げてしまってはいるが、冒険物語の挿絵などでよく見るそのものだ。蓋が半円に盛り上がり、鍵がついている。
スモークサーモンと生野菜を詰めたピタパンを各々手にして、俺たちは箱を囲んでいる。宝物を手に入れた勇者一行というよりは、山賊や海賊に近い。
「鍵は無いんですよね」
「それらしきものは見つからなかった」
「地下の手前側も調べますか」
「あるいは許可を得て壊すかだな」
隊長は地下の最奥にあったほとんどの品の鑑定を、簡易ではあるが済ませている。疲労は相当だろう。今日はこれ以上のことはできそうにない。
「調査は持ち越しですね。隊長は休んでください」
「いや、この箱は開ける」
だが隊長は、どういうわけかこの箱に固執している。中にメダルがあるんですかと訊ねても、知らん、と言うのに。
「どうして……」
「メダルがあるかはわからんが、あの部屋が何に使われていたのか、何故封じられたのかは見当がついた」
そんなことがわかるのか。身を乗り出した俺を隊長は、先に飯を食えと押し戻した。
食事と洗い物をすっかり終えてから、全員分のコーヒーを用意して、ようやく隊長は語り出す――かと思いきや、薄紙で保護した物を応接用のテーブルの上に置いた。
「手紙だ。紙束が大量にあっただろう、その一部がこれだ」
薄紙を除くと、古めかしい封筒が現れる。隊長は手袋をはめ、封筒の中身をピンセットを使って慎重に取り出した。
広げた便箋には、少し癖のある、けれども大きく読みやすい文字が並ぶ。
「トビ、読めるか」
「はい。ええと、『アヤネ、許してくれ』……?」
いきなり誰かが「アヤネ」という人に許しを乞うている。続く言葉は「もう可愛いレディを見かけたからって、軽率に声をかけたりしません」。訳がわからない俺に対して、双子とジョナスさんは何故か合点がいったらしく頷いている。
「どういうことですか?」
「トビ君、これはラブレターだよ」
「トビ君、これは愛の軌跡ってやつだよ」
双子はにやにやしながら先を読み進めてしまう。置いていかれそうになった俺に、ジョナスさんが手引きをくれた。
「アヤネというのは、『先カスケード』の妻であるアヤネ・インフェリアのことだろう。この字からして、手紙を書いたのは『先カスケード』本人だ。だからラブレターというわけ」
「じゃあ、奥さんに浮気の弁解を?」
それはラブレターというのだろうか。納得しない俺を見て、隊長は無表情のまま鼻で笑う。
「そう誤解されると思ったから隠したんだろう。あの場所にあるものは万事こんな感じだ」
先カスケード――インフェリア家の十五代目当主は、同じ名前の子孫と区別するために後にそう呼ばれる。
もちろん彼自身は、そんな未来のことなど知らない。その手紙を書いたとき、彼は自分に息子ができることすらも予想していなかった。
「スッチー、俺、またアヤネのこと怒らせちゃった」
「もう知らん。いちいち報告しに来るな。週に三回は怒らせているだろう」
任務でアヤネ・ハズミと出会い、恋仲になりはしたものの、カスケードはその言動で頻繁にアヤネの怒りをかっていた。そうして同期であり上司であり友人(あるいは好敵手)でもあるスティーレン・エストに相談しに来るのだ。
カスケードは可愛いと思った女性に積極的に声をかけるし、落ち着きも足りない。不真面目な軟派男のようだが、見目が良く優しいのでよくモテる。一方そんな彼と付き合っているはずのアヤネは凛とした美人で、見た目に違わず真っ直ぐで堅物。ふらふらしているカスケードに苛立つのは当然だった。
スティーレンが不思議なのは、そんな二人が一向に別れる気配がなく、それどころか二歩後退すれば四歩くらい進むような順調さで愛し合っていることだった。
「そう、今週三回目なんだよ。だから口聞いてもらえなくて」
「自業自得だろう。私は仕事中だ、あっちに行け」
「スッチーに話すと仲直りの方法が降ってくるんだよ」
「降ってくるんじゃなくて、私が教えてやっているんだ」
痴話喧嘩などすぐに収まるんだから、まずは仕事をしてくれ。そう言ったスティーレンの手元を覗いたカスケードは、パッと笑顔になった。
「スッチー、手紙書いてるのか。誰に?」
「先日任務で世話になった家に、礼状を出すんだ。これも立派な仕事、社会人としての常識」
「そうだ、俺も手紙書こう!」
「貴様、少しは私の話を聞け」
それから綴られた手紙を、アヤネは全て受け取り、丁寧に保管していた。カスケードと結婚してからも。
息子のアーサーが産まれてからは、カスケードは至極真面目に仕事に取り組んでいた。とある任務で大怪我をして以来無茶ができなくなったということもあるが、そもそも現場仕事には真摯に取り組み、成果を上げてきた人物だ。だからこそ大総統にまで上り詰めたのである。
そんな彼が、息子に若気の至りを知られることを恥じた。これはアヤネにとっても青天の霹靂であった。
「このふざけた恋文を処分しろと? 何故?」
「ふざけてるからだよ。いや、書いたときは真剣だったんだけど、全部取っておくようなものじゃない。こんなふにゃふにゃした男が親だなんて、アーサーに軽蔑される……」
「そんなことはないと思いますけれど」
息子には格好良いところを見せていたい、そんな彼の見栄だ。アヤネは仕方なく、たまに読み返しては心を温めていたその手紙を、まとめてカスケードに預けた。
「では、あなたが絶対にアーサーに見つからないと思うところに隠してください」
「隠す? 俺に任せてくれるのか?」
「ええ。棄てなければどこでもいいですよ。私の宝物なので、大事に保管してください」
父は偉大な国軍トップ、母は生真面目で芯の通った人。一人息子であるアーサーは、両親のそんな姿を見て育った。
彼らの間にあった、まるで幼い初恋のような恋愛の記録は、子供の目に触れぬよう封印されてしまったのである。
任務の大怪我はカスケードに後遺症をもたらし、彼は妻より先に逝くこととなった。その間際に妻に託したのが、いつか彼らの甘酸っぱい記憶を封じた場所の鍵だったのだ。
手紙とともに見つかったのは、美しい筆致で綴られた日記帳だった。恐らくはこれが、あの部屋に最後にしまわれたものだろうと、隊長は言う。
自らも患い、倉庫の整理が完了できないことへの悔いと、それでもこの一生は楽しいものであったという満足が、最後のページに記されていた。
「歴史的価値も文化的価値も無いに等しい。それ以前の価値がありそうなものは、夫妻共通の友人であったスティーレン・エストが確認をして引き取ったらしい」
「では、あの最奥にあったものは、実はそれほど古くないということですか」
「百年くらい前だな。だからメダルがあるかはわからん。エスト家に無かったら無い、ということになるかもしれない」
エスト家のメダルを手に入れるのにも苦労したのに、また一から探さなければならないのか、それとも諦めた方がいいのか。
開かずの箱の中身も期待できない。それなのにどうして隊長は、この箱を持ってきて、すぐに開けようとするのだろう。
「隊長、これってアヤネ・インフェリアの日記ですよね」
「隊長、これって隊長は全部読んだんですよね」
双子はまだ日記帳を捲っている。いかがわしい何かよりも余程刺激的らしく、先程から度々歓声をあげていた。
「ああ、読んだ」
「そっか、だから『それっぽいもの』なんだ」
「そっか、『それっぽいもの』に賭けたんだ」
なるほどー、とステレオが感心する。何だったっけ、『それっぽいもの』って。
何のことだ、とジョナスさんが双子に割って入り、日記を覗く。そしてその表情をみるみるうちに変化させた。
驚愕と、ほんの少しの畏怖。上げた目を隊長に向けると、そういうことだ、と頷きが返る。
「どうしたんですか。日記にメダルのことが書いてありました?」
「いや、直接は書いていない。でも話は通るよ」
ジョナスさんは双子から日記を取り上げ、広げたまま俺に差し出した。最後のページしか読まなかったから、その部分を見るのは初めてだ。
「……『スティーレンさんにとてもじゃないけど見せられないものは、うちに遺しておくことにする。よりによってあの人、金でできたものにあんなことを』?」
もっと先も、と促され、続きに目を通す。
――ちょっと大袈裟だけれど、箱に入れておこう。アーサーが見つけても、中身は見られないかもしれないけれど。その方がいいのかもしれない。
「この箱に鍵はない。蓋が開くように見えるが、箱自体に仕掛けのある、所謂細工箱というものではないか」
隊長が宝箱を指先で叩く。
「細工を外して開ける。解除して中身をあらため、記された『金でできたもの』がメダルなのか、そうでないのかを明らかにする。開けられなければ許可を得て破壊するという手もある」
壊すのはできれば避けたい。隊長が言うのだから箱自体にそれほど価値は無いのかもしれないが、アヤネさんの想いが込められている。その想いごと、ニアさんに報告したい。
しかし細工の解除は難航した。組まれた部品をずらしていくことはできても、開けるには至らない。双子はすぐに飽きて、ジョナスさんも匙を投げてしまった。
結局、この日は箱を開けることができずに解散となったのだった。
アルバイト十四日目、隊長と俺は再びインフェリア邸を訪れた。旧邸ではなく、現在人が住んでいる方だ。
「開かずの箱かあ。ひいおばあちゃんもなかなかニクいことをするね」
例の箱を、イリスさんはあらゆる角度から眺める。先にアヤネさんの日記も読んでもらったが、やはり開け方はわからないようだ。
「兄君は知らないのか。細工物にも詳しいだろう」
「声はかけてみるけど、忙しいって言われるかも。私はともかく、父さんと話すのを避けてるんだよね」
やはり、と俺と隊長は短く目配せした。だからこそ、イリスさんが家にいることを確認してやってきたのだ。
「兄君のところは、まだ親子喧嘩が長引きそうか」
「喧嘩じゃないよ。でも、だから長いのかも。お兄ちゃんが折れてくれたらいいんだけど、おじいちゃん以上の頑固者だからね」
インフェリア家の親子がうまくいかないというのは、アーサーさんとカスケードさんの間だけではない。カスケードさんとニアさん、そしてニアさんとその息子であるニールさんも、目下少々拗れてしまっているのだった。
以前、父が「ニアが一番家を重く感じている」と言っていたのも、記憶を辿ればニアさんとニールさん親子の状態について話していたときのことだ。今も親子の交流は絶たれたままだという。
「まあ、来ないことはないと思うよ。調査を依頼した手前、無視はできないはず。……お、細工ってこれ? ちょっと動いた」
イリスさんはしばらく箱を組んでいる部品をあれこれ弄っていたが、やはり開けることはできなかった。その手元をじっと眺めてしまっていた俺が、隊長に睨まれただけだ。
「難しい! それとも頭の硬い大人じゃ駄目なのかな。グリン、あんた、これできそう?」
「えー、俺もパズル苦手だよ。先生の家にあった知恵の輪はぐにゃんぐにゃんにしちゃったし」
こちらの様子を窺っていたグリンが、イリスさんから箱を受け取り、あちこち触る。イリスさんよりも早く部品を動かすことはできるのだが、やはり手応えはない。
「グリン、知恵の輪がぐにゃんぐにゃんって?」
部品にかけた手に力がこもったので、壊れるといけないと思い声をかけた。すると彼はちょっとバツが悪そうに、口をとがらせる。
「トビ兄ちゃんも知ってるだろ。俺、たまにすごい怪力になっちゃうんだよ。そのときもちょっとイライラしちゃって、気がついたら知恵の輪が溶けた飴みたいに曲がっちゃってたんだ。外れはしたけど、もう使い物にはならないよな」
かっこわるい失敗談だよ、と言うので、聞き出してごめん、と彼の頭を撫でた。箱は俺の手に返り、動かした細工も元に戻す。
「父さん、本当にこの箱や地下室に心当たりないの?」
「無いな。まさか今になって、父親とまともに話をしなかったことを後悔するとは……」
見守っていたカスケードさんも、深い溜息を吐いた。イリスさんがニアさんに連絡してくれたが、それで得られる手段といえば二つくらいだろう。
ニアさんが開けるか、彼の許可を得て壊すか。
「お兄ちゃん、やっぱり忙しいって」
「では来ないのか」
「ううん、渋ってるだけで来ると思う。ちょっと待ってて」
全員で箱を囲んでああでもないこうでもないと言っている間に、やがて呼び鈴が鳴った。イリスさんの予想通りの展開になったのだった。
「どうしてこっちに来るの。僕が依頼したのは旧邸の調査だよ」
「その調査の一環で来ている。知恵は多い方がいいでしょう。任せると言ったのはあなただ」
不機嫌そうなニアさんに、隊長はしれっと返答する。リビングに足を運んでも、彼はどこに座るでもなく、置かれた箱に視線を注いでいた。
「細工箱が開かないって?」
「お兄ちゃん、こういうの得意じゃない? ちゃちゃっと開けちゃってよ」
「ちゃちゃっとは無理。誰がやっても開かなかったんでしょう」
いいから、とイリスさんが箱を渡す。ニアさんは角度を変えつつ箱を眺め、これまでと同じように組木を動かしていった。
操作すること二十四回、箱からこれまで聞くことのなかった、かこん、という音がした。
「お兄ちゃん、開いた?」
「……本来なら、これで開くんだよ。手順はきっと間違っていない」
でも、とニアさんは箱を振る。それから引っ張ったり、捻るように力を込めたりした。しかし箱はびくともしない。
「長い年月の間に壊れてしまったのかも。残念だけど、箱を壊さずに中身を見ることは不可能なんじゃないかな」
いいよ、壊しても。ニアさんは箱をテーブルに置き、こちらに背を向けた。
「待ってよ、帰っちゃうの? みんなで開けようと頑張ってるのに」
焦るイリスさんを振り返ることもしない。グリンがイリスさんに、不安そうにしがみついた。
「お兄ちゃんが調査を依頼したから、ベルたちはその結果を出そうとしてるんだよ」
「だから壊してもいいって。結果は後で教えてくれれば問題ない」
「なんで最後まで見ようとしないの? 父さんとも目を合わせようとしないし。そうやってちゃんと向き合わないから、ニールとのことだって長引いてるんじゃないの?!」
「今、それは関係ないでしょう」
イリスさんの叫ぶような訴えも、コートの背中にぶつかって落ちてしまう。抑揚のない返事は、けれども空気をぴりぴりと震わせて、さらにグリンを怯えさせた。
こんなはずじゃなかった。親子関係だけではなく、兄妹や伯父と甥の間までも険悪にさせてしまうなんて。俺たちの判断は、間違ってしまったのだ。
隊長の表情を窺う。ニアさんの背中を見たまま、眉も頬も動かない。唇も閉じたままだ。何も言う気は無いらしい。
俺には何ができる。ニアさんを足止めする? いや、そんなことをしても状況は変わらない。悪化させてイリスさんやグリンを余計に傷つけてしまうかもしれない。俯いて、唇を噛んで、せめて謝罪の言葉を述べるべきかと適切な切り出し方を探した。
「――なるほどな、『中身は見られないかもしれない』ってのはそういうことか」
沈黙を破る獅子の声が聞こえるまでは。
大きな手がテーブルの上の箱に伸びる。けっして小さくはないそれが、その手の中には収まってしまう。
「ニア、『それが正解』だ」
「え?」
振り向いたニアさんの、声に反応した俺たちの、目の前で箱が高く持ち上げられる。背の高いその人が掲げると、それは天空に昇ったようで――
「ちょっと、まさか。何考えてるの」
そして隕石でも降ってきたかのような勢いで、床へと叩きつけられた。
激しい衝撃は音となり破片となり、リビングのあちこちに飛ぶ。反射的に目を閉じた俺が再び見た光景は、まず隊長の背中だった。
数秒の静寂を、今度はニアさんが破る。
「父さん、危ないでしょう?! グリンやトビだっているのに、どうして突然箱を壊したの?!」
箱だったものは、構成していた部品をリビングにばら撒き、その形を失くしていた。ニアさんに掴みかかられ、カスケードさんは瞠目する。
だが、それも僅かのことだった。彼は皺の刻まれた顔をさらにくしゃくしゃにして、笑った。
「やっとこっち見てくれたな、ニア」
「……いや、そんなこと言ってる場合じゃ」
「そうだな。中身はどこに飛んだかな」
シャツを掴んだ手を優しく包んで剥がし、カスケードさんは部屋の隅へと向かう。あった、と言いながら拾ったのは、見覚えのある小さな箱だった。
「それ、メダルの」
俺が呟くと、イリスさんがカスケードさんに駆け寄る。箱を受け取り、開き、隊長に向けた。
「ベル、同じだ。わたしが女王から預かって、ベルに渡したのと同じ」
隊長が歩みを進める。俺はふらふらと追いかける。小さな、金色の、丸い形。そこに刻まれた250という数字と、インフェリアの家名。それを確かめた途端に、力が抜けた。
膝をつく前に、隊長が支えてくれる。その表情は不敵な笑みだった。
「さすが似た者親子だな。見事な共同作業だ」
俺はまだ訳がわからなくて、呆然とグリンに視線を向ける。グリンも驚きすぎたのか、少し赤く染まりかけた目を見開き、立ち尽くしていた。
隊長はなんとなくわかっていたという。具体的には、グリンが知恵の輪の話をしたときから。
「頭の硬い奴には中身が見られない。それは壊すという発想を実行しないからだ。アーサー氏は彼の母親が思った通り、あまりに真面目すぎた」
開けることができない、ではなく、中身は見られない、とわざわざ記述してあったのはそういうことだ。アヤネさんの日記はちゃんとヒントになっていたのだ。
とはいえ、箱は一度細工を外し、強度を低くした状態でなければ壊すことはできなかったと推測される。だから細工を解いたニアさんと、箱を叩きつけて破壊したカスケードさんの共同作業が必要だったのだ。
「もっともアヤネ氏が想定していたのは、アーサー氏とその息子の協力だっただろうがな」
「いや、ばあちゃんは俺が六つのときに亡くなったんだ。父さんと誰か、といった方が正しいかも。あの人、友達も少なかったからな」
いずれにせよ、封印が解かれるまでは時間がかかってしまった。鍵やそれにまつわる話がきちんと伝わっていれば、とうにメダルは手に入っていただろう。
でも、かかってしまった時間は無駄ではない。ようやくソファに腰を下ろしたニアさんを見ていると、俺はそう思う。
「ほらね。ちゃんと伝えないと、面倒なことは長く続いちゃうんだよ」
イリスさんがニアさんの隣で言う。その様子を、グリンが俺の背中にしがみつきながら見守っている。
「……今はまだ駄目。最近また物騒だし」
「それはそうだけど、離れてる方が危ないんじゃない?」
「大丈夫だよ、あの子には味方が多い。寧ろ僕が近づいた方が危ない」
だからまだ、とニアさんが繰り返すと、グリンが明らかにしょんぼりした。どうやらニアさんとその息子さんの関係が良くなるには、もう少し時間が必要らしい。
ニアさんがカスケードさんとの会話を避けていたのも、どうやら親子関係の修復についてあれこれ口出しされるのが嫌だという理由のようだ。全てが解決するまでは、イリスさんもまだまだ苦労しそうだ。
「とりあえずはメダルが見つかって良かった。グリン、協力してくれてありがとう」
「俺、役に立ててる?」
「とても助かったよ」
グリンの頭を撫でてやると、少し元気を出してくれたようだった。しかしほっとしたのも束の間、今度は隊長が舌打ちする。
「そもそもこんな面倒なことになった原因はカスケード・インフェリアにある」
「そうだよな、ごめん」
「いや、あなたではなく十五代目だ」
咄嗟に謝るカスケードさんに、隊長はメダルを掲げて見せた。
他の家に授与されたものと同じ金製のメダルだ。だが、他のどのメダルとも違う特徴がある。それは裏面に刻まれていた。
元々のものではなく、無理やり彫られたメッセージ。手紙とあわせて考えると、それも若気の至りというものだったのかもしれない。
――最愛の妻アヤネへ。
よりによって家宝ともいえるものにまで、愛する人の名前を入れてしまった。回りくどい封印をしたアヤネさんは、変わり果てたメダルを見つけられたくなかったのか、それとも見つけて笑って欲しかったのか。
「地獄の番人なんて大層な名前だが、実際のところ大したことはない。御三家だろうと英雄だろうと、結局はただの人間の集まりだ。なあ、当主様?」
隊長の挑発的な態度に、ニアさんは微かな苦笑を浮かべた。
最近物騒、とニアが言った意味を、もちろんメイベル・ガンクロウは理解している。作家ばかりを狙う連続殺人犯が、首都をうろついているのだ。
ニアの息子であるニールは、レナ・タイラスの名で小説を書いている。過去、ニアが装画を手掛けた作品がきっかけで狙われたことがあるために、まだ距離をとっていたいのだろう。
イリスと食事を共にする度、メイベルはその話を聞かされる。家絡みの面倒な事情も耳にタコができるほど聞いた。
迂闊にも「またその話か」「ベルにはわかんないよね」などと応酬してしまえば、それがきっかけで喧嘩別れする。メイベルとしては、喧嘩の原因に一言文句をぶつけてやりたかった。
今回はそれが叶った。だが、余計な情報も手に入れてしまった。
「物騒なのは、何も例の殺人犯だけじゃないからね」
インフェリア邸を去る間際、トビが先に行ったのを見計らい、告げられた。
「ガンクロウ隊長、君も気をつけてあげなよ。首都は賑やかな分、悪い人も集まるんだから」
ニアの目はメイベルではなく、こちらに気づかず歩き続けるトビに向けられている。彼はあの少年の過去を知っているのだ。メイベルが調べたこと以上に。
トビが振り向き、立ち止まった。メイベルは返事のかわりに髪を払い、自らも歩き出す。
「まだ何かお話が?」
追いつくと、トビは生真面目に訊ねる。
真っ直ぐに立つことのできる少年だ。両眼の色のことに触れると動揺するので、凄惨な記憶は残っている筈なのに。
「借り物は慎重に扱う、という話だ」
彼を傍に置くのは、あと少しだけ。この仕事に巻き込んでおいて、平穏無事に、とはおかしな話だが。
それでも「嫌な予感」から逃げ切りたい。逃がしたいのだ。
ああ、面倒な家の当主様を、笑えないな。