お前はずっとここにいるんだよ。そう言って髪を、頬を、撫でた人がいた。
お前がここ以外で生きられるはずがないだろう。そう嗤いながら、胸を、腹を、殴った人がいた。
その人たちが全部いなくなって、存在の仕方がわからなくなったとき、言葉をかけた人がいた。
――お前が選べば、どこにだって行けるし、どんな生き方もできるよ。
その手は触れず、ただこちらに差し出すだけ。けれども生きてきて初めて、こちらから求めた。
殻を破り、眼前に広がった世界は、飛び出せるかどうか不安になるほど大きくて。それでも翼は期待に震え、いつか未来を閉ざしたはずの双眸すらも希望を見た。
「トビ君、星は好きかい?」
訊ねる彼の手にはスターアニスという香辛料がある。豚肉を甘辛く柔らかく煮るとき、一緒に入れるのだ。
アルバイト十五日目、昼の炊事場には俺とジョナスさんが立つ。初めて会ったときから変わらないようで、けれども今は二人で一つの部署のために昼食の準備をしている。
俺はその場でさっと作れるものしかできないが、ジョナスさんは家で下拵えをし、職場に持ち込み、昼に仕上げをする。手の込んだ料理は、彼を「ナスコンブ」と呼んで揶揄うノールさんとジュードさんにも好評だ。
「星は好きですよ。流星群の見られる夜は、家族総出で準備をするんです。毎回とても楽しみで」
五人分のサラダとほかほかのご飯を用意しながら、俺は直近の記憶を辿る。満天の星を写真に残そうとする父と、その様子を興味深く見ている弟。母は星にまつわる伝説から近年の天体研究のデータまで、色々な話を聞かせてくれる。妹は星のお城に住むお姫様の話が大好きで、そればかりせがむのだ。
「冬の天体観測には、ホットサングリアが欠かせないんです。両親の分はちゃんとワインで作るんですけど、俺たち子供の分はぶどうのジュースを使うんですよ」
「いいね、それ」
良い香りのする、照りもきれいな角煮をご飯の上に乗せ、ジョナスさんは満足気に頷く。俺には真似できない、無国籍カフェの洒落たワンプレートのような昼食が完成した。
「トビ君、明日はその材料を買いに行こう。ついでにお茶もどうかな」
「明日ですか? 仕事はお休みですよ、ゆっくりしたらいいのに」
「だからだよ。もちろんトビ君が忙しかったり、休みたかったりしたら諦める。でも、その……」
段々と声が小さくなり、彼の言っていることが聞き取れない。傾聴しようとして、真っ赤に染まった彼の耳が視界に入った。
「僕は、君と」
「ねえ、ご飯まだ?」
「ねえ、配膳くらいはするよ」
炊事場の扉が大きな音をたてて開け放たれ、ステレオの声が入ってきた。食事が豪華に、そして五人分になったことで運びにくくなったとぼやいたのを、しっかり覚えていてくれたジュードさんとノールさんだ。
「……君たち、本当に僕の邪魔をするのが趣味なんだな」
「えー、ご飯を取りに来るくらいはしろって言ったの、ナスコンブじゃん」
「えー、ナスコンブが何するのも勝手なのに、わざわざ邪魔なんかしないよ」
ぶーぶーと文句を言いながら、双子はジョナスさんが盛り付けた皿を持っていく。良い匂い、美味しそう、と口々に褒められて、ジョナスさんも少しだけ苛立ちを弛めた。
俺がこの賑やかさの中にいられるのも、あと少し。一週間後にはアルバイトの最終日を迎える。
首都にはまた何度でも来られるかもしれないけれど、この時間が再び得られるかはわからない。
「ジョナスさん、いいですよ」
使った調理器具を洗い桶に浸けながら、聞き取れた範囲についての返事をする。
「明日、買い物に行きましょう。ノンアルコールのサングリアなら、休み明けのお昼にみんなで飲めますからね。作って振る舞いましょうか」
残り少ない時間を、幸せなまま。終わりが来るならきれいに、という考えは最初から変わらない。
特殊部隊で集めている建国二百五十年記念メダルも、残るはあと一つ。所在不明、現存しているかどうかすら不明の、ゼウスァート家のメダルのみ。
今のところ手掛かりは無い。ゼウスァート家自体がとうに滅びており、インフェリア邸のように昔の家が残っているわけでもない。かろうじてその血筋だけが――俺の父、そして弟と妹の存在があるだけで、既にその名を使う者もいない。
財産は国が回収できたものもあるが、火事場泥棒によって持ち去られ、裏でさばかれてしまったものの方が多いとみられている。もう三百年近くも前の話だ。
「正直なところ、ゼウスァート家のメダルについては諦めている」
角煮が少し重かったのか、隊長は薄いコーヒーをちびちびと飲みながら資料を見返している。
借用資料リストのチェックはかなり増え、さらにインフェリア邸の調査で得られた僅かな公開可能資料についても追記されている。するとチェックのない部分の方が、却って浮いて見えてしまうのだった。
「他のメダルを元にレプリカを作製し、それを展示する。トビがいるうちに手続きと、展示のための資料や論文の整理を進める。これが最も確実な最終週の使い方だ」
隊長直々に「最終週」と言われると、実感が少し湧いてくる。逆にいえば少ししか湧かず、その先も特殊部隊としての日々が続いていてもおかしくないという思いがある。
以前のアルバイトのときに感じた「惜しい」という気持ちとは少し違う。あれはどこか非日常を楽しむような、そんな感覚だった。
「それではトビ、それからジョナスにも今日中に叩き込んでおかなければならないことがある。資料室に来い」
「僕もですか? 資料作成の方法なら間に合っていますが」
渋りながらもジョナスさんは隊長についていこうとする。俺も席を立ったが、この部署はどういうわけか、このようなタイミングでやってくる客が多い。
「すみませーん。文派特殊部隊って、ここですよね」
扉を開け、ひょっこりと覗く姿は女性。濃紺のブレザーはレジーナ大学附属高校のものにそっくりだが、肩と左胸に軍章や国章、階級章がある。
彼女は部屋を見回し、俺と目が合って動きを止めた。
「……うっわ、本当にいる。あたしより先に中央で働くなんて生意気」
俺が反応するより先に、双子が素早く彼女の両脇に立った。驚き困惑する彼女にステレオが浴びせられる。
「君、何の用? トビ君と知り合い?」
「君、何の用? 挨拶の仕方は知ってる?」
「ちょっと何よ。たしかに挨拶が遅れちゃったのは悪かったけど……」
さすがにたじろいでいる彼女を眺めているだけというのも悪いだろう。俺は双子を呼び止め、それから特殊部隊の全員に向き直った。
「俺から紹介します。彼女はヨハンナ・グラン。東方司令部所属の軍人で、俺とはいとこ同士なんです」
そういうこと、とヨハンナは腕組みをする。隊長は納得したのか微かに頷いたが、双子とジョナスさんはまだ訝しんでいた。
「どうして東方司令部の人間がここに? 管轄が違うだろう」
「だよね。東方司令部ってハイキャッシにあるでしょう」
「だよね。中央司令部に異動でもしたの」
視線に晒され居心地が悪そうに、ヨハンナは首を横に振る。代わりに弁解をしたのは隊長だった。
「研修だろう。中央への異動希望者、あるいは引き抜きや推薦の対象者が来るんだ。違うか、ヨハンナ・グラン准尉」
「その通りです。推薦枠で来たら、早速リーゼッタ大将に声をかけていただいたんですよ。トビは先に中央に来てるって」
彼女は母の妹の娘であり、かつてエルニーニャ王国軍中央司令部で将官室長を務めていた父を持つ。グラン家も有名軍家の一つだったが、現在は鳴りを潜めており、再興の期待がヨハンナにかかっているのだ。
だからそのうち中央に異動するかもしれないとは聞いていたが、いよいよ時が迫っているらしい。
「文派にしては珍しく、軍に協力することが多い部署だから、挨拶してきなさいって言われたんです。改めまして、どうぞよろしく」
「ルイゼンめ、妙な気を回したな」
「もちろんご挨拶だけじゃありません。ガンクロウ隊長、こちらは大総統閣下からのお手紙です」
ヨハンナがブレザーの内側から、白い封筒を取り出す。これが本来の目的だったのだろう。息を呑む俺たちの目の前で、隊長は封筒を受け取った。
「……ご苦労。気をつけて帰ってくれ」
「はーい。トビ、しっかりやりなさいよ」
「わかってる。ヨハンナも頑張って」
双子の間から抜け出て、ヨハンナは自分の職場に戻っていく。隊長は封筒の裏表を確認してから、資料室の扉へ向かった。
「トビ、ジョナス、先程の指示を訂正する。私が呼ぶまで通常の書類整理業務を行うこと」
俺たちが返事をすると、すぐに隊長の姿も見えなくなった。
隊長に呼ばれてから定時まで、たっぷりと資料や論文の読み方、まとめ方を叩き込まれ、脳に心地よい疲れが溜まったその翌日。
支度を終えて本を読んでいると、祖父が呼びに来た。
「トビ、客が来た。出かけるんだろう」
「もうそんな時間? いってきます!」
傍らに置いた鞄を掴み、本も栞を挟んで突っ込む。玄関を出ると、併設の鍛冶屋の店舗前で祖母と住み込みの鍛冶師、そしてジョナスさんが話していた。
「トビより七つ年上? 大学も出たの? 立派だねえ」
「トビ君に素敵なお友達ができて良かったわ。遊びに行くならお小遣いをあげたほうがいいかしら」
いや、あれはジョナスさんが絡まれているという方が正しい。祖母も鍛冶師さんも、人と話すのが大好きなのだ。けれども絡まれる方は困ってしまうので。
「ばあちゃんたち、それくらいにしてあげて。俺たちもう行くから」
割込むとお喋りは止み、いってらっしゃい、と手を振ってくれる。ジョナスさんには謝ったが、苦笑と否定が帰ってきた。
「謝らないで。僕が緊張してしまっただけだからね。あの人たち、この国を代表する鍛治職人と、エルニーニャ史上最も美しいと言われた元大総統なんだろう」
トビ君の身内はすごいな、と彼はまだたじろぎつつも感心している。
「驚かせてしまいましたか。やっぱり待ち合わせを別の場所にすればよかったですね」
「いいんだ、僕が迎えに行きたかったんだから。それにその方が店をまわりやすい」
なんといってもここは商店街だ。果物や飲み物がすぐ近くで全て手に入る。喫茶店だって近い。早速俺たちは青果店に向かい、サングリアに使うオレンジやリンゴを買うことにした。
「本当に簡単なんですよ。ぶどうジュースは濃いのを使うこと、それとオレンジの皮の白い部分はできるだけ取り除くこと。それだけ守れば甘くて美味しいのができます」
「アルベドだね。これが入るとちょっと苦くなるんだっけ。でも摂れば免疫力を高める働きが期待できるんだよな」
「アルベドっていうんですか、白いとこ」
お喋りをしながらの買い物。弟妹ともよくこうしておつかいをするけれど、それとはやはり感覚が違う。いつもは俺が荷物をほとんど持つところだけれど、今日は先にジョナスさんが抱えてしまう。
「俺も持ちます」
「大丈夫だよ。ちょっとは年上らしくさせて」
彼が爽やかに微笑むと、通りすがる女性がこちらを見る。「兄弟かな」「お兄さんがかっこいい」と囁く声が聞こえて、つい笑ってしまった。
「俺のお兄さんに見えるそうですよ、ジョナスさん」
「お兄さん……。ちょっと複雑だな」
「嫌ですか、こんな弟は」
「そうじゃないよ。僕は一人っ子だから、弟がいたらいいなってずっと思ってた。でも、トビ君は弟というより……」
言い淀む彼の耳が、先程買ったリンゴのように赤い。俺は目を逸らし、次の店に爪先を向ける。
「シナモンと、それと少しだけ生姜も入れましょう。スパイス類ならあっちのお店が強いです」
「……あ、そうなんだ。さすがトビ君、商店街は慣れてるね」
買い物は目的が決まっているせいか、思ったよりも早く済んでしまう。果物とスパイス、たっぷりのジュースは荷物として重い筈なのに、ジョナスさんはなかなか俺に持たせてくれない。支払いも全額負担させてしまっている。
代わりに喫茶店を探し、彼を休ませることにした。そして今度こそ俺が財布を開かなければ。
「トビ君、この店のランチプレートが素敵だよ」
意気込んだ直後に、店は先に見つけられ、席も確保されてしまった。大人にはかなわない。
「荷物、重かったでしょう。持たせてしまってすみませんでした」
「ううん、全然平気。僕も少しは体力つけないと、隊長に睨まれるから。あの人、僕の腕とかまじまじと見て、なんだか不満そうにするんだよ」
失礼しちゃうよね、と憤慨してみせるけれど、本気で怒ってはいないようだ。むしろどこか楽しげで、彼はやはり特殊部隊に来て良かったのではないかと思う。あんなに嫌っていた筈なのに。
「隊長は不満そうに見えても、そうは思っていないことが多いですよ。ただ表情が乏しいだけです。ジョナスさん、まだ特殊部隊はお好きではないですか」
「好きじゃない。でも、思ったより嫌いでもないね。野蛮だと思っていたけれど、案外まともに話ができる。もしかしたら文化教育部よりも報連相ができてるかも……というより、あそこは基本的に、誰も僕に話しかけなかった」
気楽といえば気楽だったけれど、と笑う彼に、どんな顔をしたらいいのだろう。以前は得意だった筈の愛想笑いがうまくできない。
しなくてよくなったからだ。特殊部隊でのアルバイト中、俺はわざわざ笑顔を作ることをしなくなっていた。
「……今は、賑やかでしょう」
「うるさいくらいだね。双子は騒がしいし、隊長は静かだけれど何を考えてるのかわからない。トビ君だけが頼りだ」
「そんなこと」
「だからね、トビ君」
テーブルの上に置いていた俺の手に、ジョナスさんの長い指が触れる。少ししか接していないのに、寒い外から来てそれほど経っていないのに、温かい。
「トビ君も、僕を頼ってほしいんだ。君はやけに大人びていて、しっかりしているけれど、最年少だ。僕らは大人だから、いつだって君の助けになりたい」
荷物くらいどうってことないんだよ。話が元に戻ったところで、注文したランチプレートが運ばれてきた。手が離れていき、代わりに笑顔が向けられる。
チキンステーキにサラダ、後で小さなケーキとカフェオレが付く。ジョナスさんが選んだメニューは、きっと双子も好きだろう。隊長もこれなら重いなどと言わず食べるかもしれない。
もちろん俺も大好きだ。
一度テーブルが片付けられ、カフェオレとケーキが届く頃。ジョナスさんは少し緊張しながら、改めて切り出した。
「今日は少しでも、トビ君にお礼ができたかな」
「お礼?」
「そう。父のことで、君に励まされた。僕はそのお礼をしたかったんだ」
そんな大袈裟なことはしていない。それどころか一緒になって泣いてしまったのに、ずっと気にしてくれていたらしい。
返事を探そうとした俺に、耳が真っ赤になった彼が早口で続ける。
「単に僕がトビ君と出かけたかったというのもあるけれど。本当はサングリアも特殊部隊全員じゃなくて、君と二人で楽しみたかったんだ。次の週末、流星群を見るのに誘おうと思ってた。アルバイトの最後の日、仕事が終わってから思い出を作りたかった」
一息に言う、その意味がわからないわけではない。自惚れでなければ、俺はこの人に謝らなくてはならない。そうしたら楽しい時間が終わってしまう、そのことが惜しい。
「あの、俺は」
「でもトビ君はみんなでいる方がきっと嬉しいよね。だから考えたんだ。流星群はみんなで見に行こう」
予想していなかった方向に舵が切られる。ジョナスさんはそれがいいよねと一人頷き、それから隊長は誘えば来るような人だろうかとこちらに問う。正直なところ、それはわからない。双子が無理やり連れて来れば、呆れながらも同席はしてくれると思う。
「いいんですか、二人じゃなくて」
考えていた答えとは違う言葉が自分の口から出て、自分で驚いてしまう。彼はそれににっこりと応じた。
「だって僕が捲し立ててる間も、誘ったときも、トビ君は困っていたから。僕じゃ駄目なんだよね?」
なんだ、通じてしまっていたのか。本当に俺は、取り繕うのが下手になっているようだ。ちっとも大人びてなんかいない。
休みが明けたら提案しようと話して、残りのデザートを食べ終える。奢られてしまったけれど、荷物を少し持つことに成功し、店を出た。
買った材料は一度俺が引き取ることになり、来た道を戻る。ジョナスさんは至って変わらない様子で双子の文句などを話し続け、俺も相槌を打つ。
人の流れには気をつけていたつもりだった。しかしこちらへ向かってきていた誰かと軽く肩が触れた。
「あ、すみません」
「すみませんじゃねえよガキ! ぺちゃくちゃ喋りながら歩きやがって!」
相手にとっては軽くなかったのか、すごい剣幕で詰め寄ってくる。四十代に見える男性で、開いた口は煙草のにおいがした。
「失礼しました。服を汚してしまいましたか」
「そういう問題じゃ……」
さらに怒鳴ろうとして、その人は動きを止めた。割って入ろうとしてくれたジョナスさんも戸惑い、様子を窺う。
相手は俺の顔を無遠慮に眺め、それから片頬をゆっくりと持ち上げた。
「お前、オッドアイじゃないか。ゼビグラの宿の」
その下卑た笑みが誰のものだったのかは憶えていない。あまりに多くて、それが毎日で、どれがいつの誰なのかわからない。
でも、全部考えないでいられた。この九年、幸せなことばかりだったから。忘れてしまっていた、俺は本当は――。
「あの、彼に何か用ですか。ぶつかってきたのはそっちなんですから、おかしな因縁をつけないでください」
ジョナスさんが間に割り込んでくれる。だが次の瞬間、横に倒れた。商店街の石畳に、リンゴやオレンジが転がる。
「邪魔すんな。それともオッドアイ、こいつは今の客か? あの宿はもうないもんな、今度は首都で稼いでるのか」
殴られた頬を押さえて上体を起こすジョナスさんを、屈んで支えようとした。それなのに、手に力が入らない。提げていた袋の中で瓶がぶつかり擦れ、耳障りな音を立てた。
「そんな若いの、金にならないだろう。また買ってやってもいいぞ。どうせお前には、他に何もできないんだろうし」
手が伸びる気配。荷物は枷になる。空になった手でジョナスさんの腕を掴み、立ち止まる人々の隙間へ目を向ける。
「すみません、ジョナスさん。走ります」
え、とも、あ、ともつかない声を発しながらではあるけれど、彼は俺に合わせて立ち上がり、駆けてくれた。
背後からはあの人が追ってくる。喚く言葉は品が無く、とても人に聞かせられるようなことではない。
でもそれは全部、間違いなく、俺のことだった。
メイベルがトビの過去について知ったのは、今回のアルバイトの五日目が終わった後だった。挨拶くらいはしておくべきかと、ずっと持っているだけだった番号に初めて電話をした。
「経理担当がいなくなって、さぞ苦労していることでしょう。こちらに人員を寄越していただき感謝する」
「やだなあ、オレも帳簿くらいちゃんとつけられるからね」
笑い声は昔と変わらない。退職届を叩きつけたあの日から、まるで時が止まったかのようだ。
そんなはずは無いとわかっている。トビは前回会ったときよりも背が伸びていたし、弟と妹も一緒だと聞いた。当時存在していなかった人間がいて、メイベル自身も歳をとった。
「ところで閣下」
「もう閣下辞めて九年は経つけど、まだそう呼んでくれるの?」
「当時も今もただの渾名だ。そんなことより、確認したいことがある」
トビは電話の相手――レヴィアンス・ハイルの実子ではない。それは初めて会った日に聞いてわかっている。それ以前にイリスら元同僚たちからの情報があった。レヴィアンスが子供を拾って、妻と共に育てていると。
五年前、この部署ができて、隊長と呼ばれるようになってから。久しぶりに会ったイリスが一丁前に母の顔をしていて、うんざりしたその日に。
「トビは閣下に保護されたと聞いた。どのような状況だったのか、私が知ることは可能か」
少しは知っておくべきだと思った。以前、目のことに触れて気分を害したこともある。イリスとメイベルの関係をやたらと心配していたことも気になった。
柄ではないが、不要に傷つけたり揺さぶったりすることの無いよう、先回りしておきたかったのだ。
電話の向こうでレヴィアンスが唸る。返事が芳しいものではないというのは、その時点で予想できた。
「無理にとは言わないが」
「そうだなあ、オレから全部は言えない。ヒントはあげるから、メイベルが調べてみたら」
「いいのか、調べても」
「得た情報の扱い方については、オレはメイベルを信用してる。トビにとって悪いようにはならないよね」
信用という言葉を使っての念押し。息子を傷つけることは絶対に許さないと、彼は暗に言っている。
大切にされているのは、トビ本人を見れば明らかだ。メイベルが受けたことのない「親の愛情」に、あの少年は包まれ、成長している。
「オレがトビに出会ったのは九年前の九月二十日。軍を辞めてすぐ、在任中に世話になった人に挨拶回りをしてたんだ。その途中で立ち寄った宿でのことだった」
「宿?」
「日付とオレの名前でちょっと調べたら出てくるよ。そこがどういう所だったのかも。トビって名前もその日につけた」
それだけのヒントでも、軍人を十五年やっていたメイベルには思いつくことがある。トビの愛想の良さも、いくらかはそのことに起因していたのかもしれない。
「何故、自分で保護しようと考えた? 施設に預けることもできただろう」
「トビがその方がいいって言うならそうしてた。でも、あいつは未来が明るいなんて考えたこともなかったし、その場を離れて生きられるということを知らなかった。選択肢を全て奪われているんだから、選びようがないじゃん」
だからひとまず、二択を提示した。それが少年の運命を動かしたのだ。
レヴィアンスが大総統の職を後輩のフィネーロに託し、軍を引退した直後。既にクラウンチェットに住居を構えてはいたものの、しばらくは挨拶回りのために国内各地を訪ねていた。
在任中は引継ぎや軍内部の仕事を片付けるのに忙しく、多くのことが事後報告になってしまった。それでも人々は快くレヴィアンスを迎え、十四年分を労ってくれたのだった。
ついでといってはなんだが、先々の問題や面倒を解決する手助けを、できる限りするつもりだった。軍人ではなくなったが、恩返しはまだいくらでもできる。小さな事件に首を突っ込んでは現地駐在の軍人に手柄を譲るということを繰り返していた。
「前閣下、ゼビグラの宿をご存知ですか」
それは首都から南西にある小さな町で囁かれる噂話だった。
「ゼビグラって爺さんがいたんです。昔は羽振りが良くてね、貴族が売りに出した綺麗で大きな建物を、札束積み上げて買ったなんて話もあるんですよ。建物は宿にして、また一儲け」
「へえ、そりゃすごいね」
「爺さんはちょっと前に死んじまったんですけど、弱って動けなくなってきた頃にまたでかい買い物をひとつしたらしいんです。それがなんと、生き人形だって」
語尾は周囲に聞かれないよう潜められていたが、近隣の人は誰もが知っている話だっただろう。見たことがなく、真相を確かめていないだけで。
裏と呼ばれる者たちの中では違法な取引が毎日行われている。もちろんレヴィアンスは軍に在籍していた間、それらを取り締まっていた。
危険薬物や必要な手続きを介さない鉱物、そして生物。裏では様々なものが人の手を往来する。その結果、多くの人が傷つき、善良な民の生活が脅かされる。
そうしなければ生きられないと主張する者が存在する、不安定な社会。大国の目を背けてはいけない部分である。
生き人形というのも、そのような社会と人々の被害者だ。人身売買により財のある者の手に渡った人間の「利用方法」の一種。しかしながらなかなか取り締まりにくいのは、「これは弱者の保護である」という主張があるからだった。
確かに買った人間を傷つけないよう扱う者もいて、それを幸福であると認識する「買われた者」もいる。だから段階を踏んだ手続きを済ませてくれれば正当な保護として認められるのに、裏から人を買ったという事実がそれを躊躇わせるらしい。
「ゼビグラって人が亡くなったなら、その買われた人は? 家を出たの?」
「いや、息子が全財産を継いだから、生き人形もそのままなんじゃないか。何にせよ、裏組織と関係があるかもしれないというのは不安だよ」
息子とやらはまだ宿を経営しているらしい。ただ以前のような隆盛は見られない。息子は先代以上に客を選んでいるのだそうだ。
「……元大総統なら泊めてくれるかな」
「どうでしょうね。でももし探れるなら探ってほしいんです。軍人さんはどうしてか、あそこに寄り付かないもので」
最初からそのつもりで話をしたのだろう。レヴィアンスは二つ返事で頼みを請け負い、当の宿に向かった。
町の端にある建物は立派だった。だが手入れが行き届いておらずくすんでいて、だからこそ人が寄り付かない。まず家族連れが泊まるような宿ではないだろう。
宿の主人が例のゼビグラの息子だ。レヴィアンスが来たことに驚愕し、一度は宿泊を拒否された。
「駄目かな。オレ、もう軍人じゃないんだけど」
それでも意味ありげにそう囁き、さらに前金を払うと、簡単に落ちた。これはもしやと、「サービス良くしてね」と駄目押ししてみる。
部屋に入ってからさり気なく辺りを確認し、隠しカメラや盗聴器の場所を押さえた。軍が寄り付かないのはそういうことだ。迂闊にも弱味を握られてしまったのだろう。
失敗すればレヴィアンス自身もただでは済まない。緊張感を抱えたままベッドに寝転び、その時を待つ。
はたして予想通りに、部屋の戸を叩く者があった。
「どうぞ」
「お客様、失礼致します」
返る声は高くか細い。女性か、あるいは。上体を起こし、その姿を見る。そうして眉間に皺が寄るのを堪えなくてはならなかった。
入室し、静かに戸を閉めたのは、痩せた子供だった。歳の頃は、まだ十にもなっていないくらい。脳裏に姪のふっくらとした健康的な笑顔が過ぎった。
宵闇の色の髪にも艶がなく、大きすぎる羽織物から覗く鎖骨や肋骨ははっきりと浮いてしまっている。だから余計にだろうか、紅をさした乾いた唇と、虚ろな双眸に惹き付けられる。
瞳は左右で色が違った。左目は青く、右目は赤い。だからすぐに確信した。この子供が、先代が買ったという「生き人形」だ。
「今晩、御奉仕させていただきます。よろしくお願い致します」
笑みを作ったまま、録音された台詞のように子供は言う。歩み寄る仕草やこちらに伸ばす手は、すっかり慣れてしまっていた。
「君、名前は」
絡む手を止めず、レヴィアンスは訊ねる。
「ありません。必要ならば、みなさんはオッドアイと呼びます」
「ふーん、センス無いなあ。歳は?」
「お客様のお好きなように考えていただいて結構です」
シャツのボタンをたどたどしく外そうとする演技。子供が生き延びるために身につけるなら、もっと別のものの方がいい。小さな手を引き剥がし、それ以上触れないよう身を引いた。
「お客様、申し訳ございません。何かお気に障りましたか」
「いや、君は悪くないよ。でも、大人がこんな風に子供に触れちゃ駄目なんだ。君、せいぜい七つくらいでしょ」
「名前も年齢もありません。戸籍もないので、お客様が何をしても問題はない筈です」
「問題あるの。そんな痩せちゃって、胸やお腹も痣だらけでさ。子供がそういう状態でいるのって、良くないんだよ。いさせる大人が悪いんだ」
子供は困惑して――は、いないようだ。レヴィアンスを見ているようで、見ていない。ただただ何を言われているのかわからないのか、ベッドに座ったまま動かない。
やがて発した言葉は、何か合点がいったようで、
「お好みではありませんでしたか。でしたら、主人が近隣の施設をご紹介致しますが」
やはり通じてはいなかった。
手遅れだったのかもしれない。いつからこのような生活をしているのかはわからないが、ここまで仕込まれているのなら短い期間ではないはずだ。
名前も年齢も知らないのであれば、産まれてすぐに売りに出された可能性だってある。珍しい目を持った子供は、一家の生活を助けられる額になっただろう。そんな社会を是正できなかったのは、紛れもなくレヴィアンスだ。
そして、この子が辛くも拠り所にするしかなかったこの生活も、今から壊す。ここに来る前に中央軍を経由して、命令を出してもらっていた。
――無責任な大人ばっかりでごめん。
ほどなくして宿は軍に包囲され、主人は連行された。子供は慌しい様子をぼんやりと眺めていたが、誰かの言葉に初めて反応した。
「客も従業員も出せ。ここを閉鎖する」
びくりと肩が震え、表情は不安そうに歪む。レヴィアンスが掛けてやった上着が、振り返った拍子に床に落ちた。
「ここにいてはいけませんか」
「えーと……ごめん、居られない。軍がここを捜査して、その後はきっと没収になる」
「そんな。……ぼく、死んでしまう」
客を相手にしていても揺らがなかった瞳が、恐怖で暗くなる。そう教えられてきたから、今まで逃げ出さなかったのか。生きる方法を潰され、縛りつけられていたのか。
軍人が一人、こちらに近付いてきた。レヴィアンスに一礼し、耳打ちする。
「この子を連れて行っても宜しいですか。病院で診てもらう必要がありそうですし、身元がわかるまで預かってくれる施設も手配しなければ」
正しい手続きだ。そうすることで子供は真っ当な生活ができるだろう。ただ、慣れるまでは時間がかかるはずだ。今までの暮らしこそが、この子が生きる唯一の道だったのだから。
結局慣れることができなかった子供の末路も、何例も見てきた。犯罪に手を染めた人物が、過去に軍に保護されていたという事例はけっして珍しくない。
「……あと十分でいい。オレに任せてくれないかな」
レヴィアンスが軍人だった三十年間で取り零したものは計り知れない。それを取り戻せるわけはない。
けれども目の前にあるものを救わない理由もない。高いところにいたために手が届かなかったものに、今、やっと近付けたのだ。
真っ青な顔で死を覚悟する子供に、目線を合わせるよう屈む。他の道を知らないなら提示すればいい。
「死なないよ。オレが死なせないから」
「ここにいさせてくれるんですか」
「いや、別の場所でも生きられるようにする。今からオレは、君に二つの道を教える。どちらでもきっと悪いようにはならない」
別の場所でなんか生きられるはずがない。子供の眼はそう言っている。その気持ちに従うなら三択だが、そちらには行って欲しくない。
「一つは、軍の人たちと行くこと。大人に見守られながら、他のたくさんの子供と一緒に暮らすことになる」
病院での検査次第では入院を挟むことになるかもしれないが、その後は同じだ。施設で社会性を身に付け、将来を考えるようになる。
「もう一つは、オレと一緒に行くこと」
喉が渇いて貼り付き、咳き込みそうになる。頼りない選択肢だとは思ったが、選べないよりはましだ。
「オレね、今まで仕事が忙しくて、今のところ子供がいないんだ。田舎に引っ越したし、もしかしたら同年代の子と接する機会がないから、寂しいかも。でも、約束はする。絶対に、痛いことや苦しいことから、君を守る」
どっちでもいいんだよ、と笑いかける。緊張でぎこちなくなってしまったが、子供は目を逸らさずにいてくれた。
やがて絞り出すようなか細い声が返ってくる。
「そんなこと、あるんですか」
「ある。君はこれからも生きていける」
「でも、ご主人様はここにいなさいって。ここ以外で生きていけるわけないって」
「それはその人が、君にここにいて欲しかったんだ。ただそれだけだし、もうその人たちはいない」
これまで選択肢を持たなかった者に、何かを選ばせるのは酷かもしれない。だが、ここで手を伸ばしてくれなければ、こちらも救えない。
お願いだから、生きようとしてくれ。
黙り込む子供と、それを見つめるレヴィアンス。そこへいつ再び声をかけようかと、見計らっている軍人。時間は誰をも待たずに刻まれていく。
砂利を踏む音がした。タイムアップを迎えたら軍に任せようと、レヴィアンスは覚悟を決める。子供に向かい合っていられるのも、あと数十秒だ。
そのとき、ぽたり、と雫が落ちた。
「……ぼくは」
子供の手がそろそろと、自身の胸に伸びる。青黒く痣になった部分に触れ、そこで指が丸まった。
弱々しく、けれどもたしかに、握られたのだ。
「ぼくは、ここにいなくても、死なないんですね」
「死なせないよ。君に生きる意志があるなら」
「だったら」
小さな拳は肋の浮いた胸から離れ、レヴィアンスに向く。震えながら伸びた手は、足をも一歩進め、レヴィアンスの腕を掴んだ。
「ぼくは、あなたといきたい」
それは子供が生まれて初めて、自分で掴んだ未来だった。
それならばとレヴィアンスは子供を引き寄せ、抱き締める。そしてもう傍らに来ていた軍人に言った。
「この子はオレが責任持つよ。病院連れてって、戸籍登録して、ちゃんと育てる」
そうだ、戸籍が必要なのだ。生年月日も推定しなければ。やることはたくさんあるが、全てこの子供が生きるためだ。
「名前、ちゃんとしたのつけような。もう君は、……お前は、うちの子だ」
「ぼくはあなたの家に住むんですか」
「うん。でもね、そこに縛りつけたりはしない。これからはお前が選べば、どこにだって行けるし、どんな生き方もできるよ」
子供を抱いたまま立ち上がる。バランスを崩すまいとしっかりしがみついた、その手が、生きるための力が、愛おしかった。
「お前は運が良いよ。これからオレがいくらでも、お前に自分の人生を選ばせてやれる」
見上げた空を、夜の鳥が飛んでいく。自分の世界を確立し、自らの翼で行く。それよりも、もっともっと自由に。
子供はトビと名付けられ、首都から見て北東にある町クラウンチェットの役場に届が出された。新たな門出の日を誕生日とし、生まれ年はレヴィアンスの推定により姪と同じになった。
トビ・ハイルとしての人生は、生活習慣の立て直しと、文字の読み書きから始まった。レヴィアンスやその妻エトナリアが苦労をしたのは最初の三ヶ月ほどで、トビの成長と学習はとても順調だった。
病気はなく、怪我も治り、二年が経ってすっかり落ち着いた頃に弟が生まれた。さらに三年後、妹も。良い息子は良い兄となった。
目の色のことを指摘されると少し怯えるが、それ以外は問題ない。彼が選んだ道は間違っていなかった。
明るい未来を掴んだ者は、過去を忘れることができる。けれども全てが無くなったわけではなく、ある日唐突に過去を突きつけられ、追い立てられることもままある。
メイベルはトビの過去を調べ、彼がかつていた宿の利用者に辿り着いていた。もちろん軍が取り調べていたが、殆どは大した罪に問われず放たれている。
その一部が今、裏と繋がりを持ち、首都で活動している。メイベルが提示した可能性を肯定する手紙が、大総統フィネーロ・リッツェから届いた。
現在の首都は混乱の只中にある。裏組織は大きくは動かないものの、人を雇い、彼らを動かすことで目的を達成しようとしている。
例えば、作家を標的とした連続殺人犯の女。彼女を追うため、軍が本格的に動こうとしている。同じように派手な行動を始める者が出てきてもおかしくない。互いを隠れ蓑にし、軍を翻弄させながら事を進めるのだ。
あの宿を利用していた人物が首都にいる。トビがこちらにいるのはあと僅かな期間だ、逃げ切れば問題は無いが、案外首都は狭い。
しかも嫌な予感というものは、大概当たるようにできているのだった。
「隊長、こんばんは」
「隊長、お話が」
休みだというのに、ステレオが資料室に響く。四つ並んだ眼は獲物を捉えた獣のように輝いていた。
「何だ。休日出勤が好きだな、お前たちは」
「急いだ方がいいと思いました」
「知らせた方がいいと思いました」
ノールとジュードは足並みも揃え、メイベルの前に立つ。先に切り出したのは兄、ノールだった。
「トビ君とジョナスが、街で襲われました」
傍目に見れば、単に柄の悪い男が絡んできただけだ。トビはジョナスを連れて上手く逃げたようで、二人とも既に無事に帰宅している。
だが、問題は絡んだ男の素性だった。
「相手はトビ君の過去を知っていました。ある宿の客だったんです」
ジュードが言う。双子はとうに、トビのことを調べ上げていたのだ。恐らくは初めて会ってから、そう経たないうちに。
「トビが宿で客の相手をさせられていたことは私も知っている。当時の客が裏に雇われたらしいことも」
「ご存知でしたか」
「接触しちゃいましたよ」
どうします? と双子が首を傾げる。瞳に爛々と燃えるのは殺気だ。メイベルはひとつ息を吐き、待て、と命じる。
「賢いトビのことだ、休み中は大人しくしているだろう。さすがに元大総統とその補佐のいる家に、のこのこやってくる馬鹿はいない」
「だったら尚更、明日には奴を処理した方がいいのでは」
「トビ君が安心して外に出られるよう、片付けておいた方がいいのでは」
「既に裏と繋がっている人間だ。一人だけ何とかするというわけにはいかない」
軍が存在を把握しているのなら、任せた方がいい。メイベルが上に立つ者として守らなくてはならないのは、トビだけではないのだ。特殊部隊の仕事は、あくまで軍が手を下すまでもないこと。ならばわざわざ藪をつつく必要はない。
「休み明けはトビを迎えに行ってやれ。お前たちの役目はそれだけだ」
「でも隊長、おれは赦せないです」
「だって隊長、トビ君は傷ついたんですよ」
「そうだろうな。だが話してもいないのに過去の事を知られているというのも、傷を抉ることになるとは想像できないか」
顔を見合わせ、俯き、双子は押し黙る。何を偉そうに、とメイベルは無表情のまま自嘲した。
翌日は朝早くからジョナスが資料室を訪れた。一晩は我慢したが、休み明けまでは待てなかったのだろう。想定の範囲内だ。
「隊長、トビ君のことですが」
「昨日のことなら知っている。だがお前は現場に居合わせたんだったな、詳細を報告できるか」
躊躇いはしたが、ジョナスは昨日の出来事の一部始終を語った。絡んできた男がトビにかけた言葉も、包み隠すことはしなかった。
「出鱈目を言うなと思いました。でも、トビ君は本当の事だって言うんです。巻き込んでごめんなさいって頭を下げるんです。……そんなこと、彼がする必要はないのに」
根拠がなくても、事実でも、どちらでも変わらない。相手のしたことは赦されることではない。怒りで顔を赤くして、ジョナスはここにはいない敵を睨んでいた。
「隊長、あなたは当然、トビ君を守るんでしょう。相手のことを突き止めて、罰することができるんでしょう」
「前半は肯定するが、後半は否定する。軍が動くから、お前は大人しく」
「軍なんか待てるか! 隊長は、軍の人間だって、あのときの彼の表情は見ていないだろう! 怯えているのに、辛いだろうに、彼は……僕に謝りながら、笑おうとするんですよ……」
誘わなければよかった。もっと強ければよかった。いくら叫んでももうどうしようもないことを、ジョナスは泣きながら繰り返す。一晩抱えていたものを爆発させて、まだ信用するに至っていないはずの上司の前でひたすら吐露する。
「あの男の顔は憶えている。隊長が何もしないなら、僕が」
「やめておけ。そいつの背後には裏組織がいる。犬死にするだけだ」
「僕の命なんか今更惜しくない」
「惜しむのはお前じゃない。勝手なことをするな」
更に何か言い返そうとしたジョナスを遮ったのは、けたたましく鳴り響く電話だった。メイベルはジョナスから目を離さないまま、受話器を取る。
相手はよく知る人物だ。軍人学校時代からの長い付き合いである彼は、大抵の事はやり取りの証拠が残るよう手紙を寄越してくる。わざわざ電話をかけてくるのは、緊急性の高いときだ。
「……なるほどな。で、私たちが出て行っても構わないのか」
「こちらからも別件で頼みたいことがある。それと引換ということにはできないか」
「その辺りは私ではなく大文卿夫人に確認してくれ。……だが助かった、感謝する。フィネーロ」
その名を聞いたジョナスの表情が、怒りから訝しみに変わる。受話器を置いたメイベルが、丁度良かったな、と呟いた。
「非戦闘員、お前にも活躍してもらうぞ。復讐したいんだろう」
「復讐って、僕はただ相手が相応の報いを受けるべきだと……。それより今のフィネーロってまさか」
「奴は私の同級生だ。言っておくが、復讐という言葉を忌避することは無い」
琥珀の髪を掻き上げ、メイベル・ガンクロウは微かに、しかし不敵に笑う。
「復讐は自らの区切り。怒りを断ち切り次の段階に踏み込むための、上等な行為だ」
倦怠感で動けなくなるほど泣いたのは九年ぶりだ。父に保護され、名を貰った日。あれからしばらくは、わけがわからないまま涙を流し続けていた。
状況は似ているが、今回は自分で感情を理解している。それに二十四時間以内に涙を止めることができた。もう俺は、あの頃の俺ではない。
老人に観賞用として買われ、置かれていたことも。その息子に虐げられて傷だらけになったことも。自分の食い扶持は自分で稼げと、客をとらされたことも。全ては過去、トビとして生まれる前のことだ。
俺は、トビ・ハイルは、自分の頭で考え、自分の足で歩き、自分の手で選びたいものを掴める。過去の事実はどうしようもないけれど、今から先を自分で創ることができる。
自分で選んだ、たくさんの味方の手を借りて。
「トビ、大丈夫? 瞼は腫れてるし顔は浮腫んでるし、もう一日くらい休んでもいいんじゃない」
祖母は心配そうに、台所に立った俺の顔を覗き込む。
「無理はするんじゃない。……と言いたいところだが、レヴィの子だもんな。けじめはつけたいだろう」
祖父も気遣ってくれるけれど、引き留めはしないらしい。この人も若い頃は相当無茶をしたようだから、俺の気持ちもわかってくれるのだ。
この優しい人たちが、俺が街で受けた被害を聞いて烈火のごとく怒った。大昔に軍は引退している筈なのに、見事な機動力で軍と近隣の住民、商店街を利用する人々との情報の共有をし、絡んできた男の似顔絵を作成した。
路上にぶちまけたまま置いてきてしまった荷物も、現場を見ていた人たちが親切に拾ってくれていた。潰れてしまった果物を祖母がジャムにしている間に、話を聞きつけた青果店の人がお見舞いとして買ったよりも多くオレンジやリンゴを届けてくれた。
祖父母が軍に届け出たことで、あの男がどうやら裏組織の一員らしいという情報も得た。俺と出会ってしまったことは、あの男を組織ごと追い詰めるきっかけになるかもしれない。悪いことばかりではなかったのだ。
運が良いよ、と父はあの日、俺に言った。その通りかもしれない。父に出会ったときから、俺の運命はずっと良い方向に廻り続けている。
「トビ、パンに塗るといいよ、怨念ジャム」
「怨念……ばあちゃん、これ街の人の善意だよ」
「ボクが煮ながら怨念込めちゃったから」
「元大総統の怨念が込められてるんだ、きっとあの野郎も組織もすぐ捕まる」
「じいちゃんまで……」
ジャムをたっぷり塗ったパンに、ミルクを入れたコーヒー。今日を生きるための糧。過去に押し潰される気はさらさら無い。
支度を終え、祖父母に見送られ、玄関を出る。するとそこには一台の車が停まっていた。窓が開き、賑やかなサラウンドが響く。
「トビ君、おはよう! 今朝はおれたちが送迎サービス!」
「トビ君、おはよう! 美味しいの作るから荷物が多いって、ナスコンブから聞いたよ!」
「ナスコンブって言うな! ……トビ君、おはよう。サングリアの材料は揃え直したって、君のお祖母さんが連絡をくれたんだ。積み込んでしまおう」
ノールさん、ジュードさん、ジョナスさん。わざわざ迎えに来てくれるということは、もう特殊部隊の全員が事態を把握しているのだろう。
それでもいつもと変わらない笑顔だ。そうしてもらえないかもしれないと、ほんの少しだけ怖かった。しかしそんな心配は全く不要だったらしい。
「……ありがとうございます。でも、持っていく準備ができていなくて」
「できてるよ」
振り返ると、祖母がもう大量の果物と、スパイスやジュースの瓶を用意していた。この人は見かけによらず力持ちだから、あっという間に用意ができる。
「あとはみんなで積み込んでくれる?」
「うん。みなさん、手伝ってくれますか」
「もちろん! トビ君のためならえんやこらだよ」
「もちろん! おれたちの楽しみのためにもえんやこらだよ」
「買ったときより多くない? トビ君、今日のお昼はフルーツサンドにしよう。でなきゃ使い切れないよ」
爽やかな香りと騒がしい声を載せて、俺たちは職場へ向かう。――エルニーニャ王国文部管轄文化保護機構特殊事項対策部隊、それが俺たちの居場所だ。
大欠伸とともに資料室の扉から現れた隊長は、他の三人以上に通常運転だった。双子とジョナスさんの言い合いを喧しいと一喝し、低血圧が明らかな顔色を髪を掻き上げて晒す。
「本日の業務は資料の整理と作成を程々に。午後には軍から人が来るから、そのつもりでいろ」
軍がここに用事があるとすれば、俺に関わることだろうか。それとも別件があるのか。考えながら予定を頭に入れていく。
「それとゼウスァートのメダルだが、一旦レプリカ作製の申請は中断。現存している可能性がある」
流れるような連絡の中、危うく聴き逃してしまいそうな調子で告げられる。一拍どころか一小節は遅れたかというタイミングで、やっと反応できた。
「え、あの、現存?! そんな情報、どこから……!」
「トビにしては瞬発力が無かったな」
無表情のまま鼻で笑った隊長は、一通りの連絡を終えてから詳細を語った。他の人はもう聞いていたのだろうか、随分大人しくしている。
「軍からの情報だ。ゼウスァートの建国二百五十年記念メダルは、王宮にも軍にも回収されていない。消えたゼウスァート家の人間が所持していたか、そうでなければ火事場泥棒に盗まれた可能性が高かった」
持ち去られてしまったのであれば、行方を追うのは困難だ。それがつい先日までの俺たちの見解であった。売却、破損、消滅などの結末を予想していたのだが、事態は急展開を迎えた。
「先日検挙された、企業情報の漏洩をした団体。その背後にあった裏組織は複数で、まだ捜査途中のところもある。そこで軍が入手した情報によると」
隊長が一枚の写真を取り出す。ピントがはっきり合っておらず、とても撮影が上手いとはいえない。しかし写り込んでいる蓋の開いた箱とその中身は、今まで見てきたものに確かに似ていた。
「トビ、父親が写真を拡大したり引き伸ばしたりするのを手伝ったことは?」
「あります。でも父に付き添ってもらって二度程度です」
「そうか、もう少し見やすくなればと思ったんだが」
「この状態を見やすくというのは、俺には難しいですね」
似ているように見えるだけかもしれない。俺たちがメダルを探しているから、余計にそう思うだけかも。
俺がそう言うと、隊長も頷いた。
「この写真だけなら私もそう考える。しかし情報には続きがある」
「おれたちが説明するね」
「おれたちも調べたんだよ」
双子がバインダーを取り出し、俺の前に開いた。きちんと綴じられていなかったらしく資料が雪崩を起こし、慌てて受け止める。いつもなら文句の一つも言うところだが、目に入った記述に封じられた。
「……組織の幹部の一人は、ゼウスァート家の元使用人の末裔?」
「そう。一説には失脚の黒幕ともいわれている」
「そう。真偽は定かじゃないけど、周りからそう言われ続ければひねくれたくもなる」
元使用人がメダルを持ち去り、代々受け継がれていたとしたら――メダルが現存している可能性はある。これまでよりも、ずっと。
「既に軍が捜査を始めているところに、我々が乗り込むことは原則禁止。私たちは文の荒事を任されているが、あくまで軍が取り沙汰しないことに限定されている」
「じゃあ、軍が回収するのを待つということですね」
写真を撮ったのは潜入した軍人だろう。つまり軍は裏組織の幹部に接触できるところまできている。今のところ、俺たちの出番はない。
――その筈なのに、どういうことだ。ふと見た双子の二対の瞳は爛々と輝き、炎が燃えて爆ぜているよう。振り返るとジョナスさんまで、覚悟を決めたように唇を結んでいる。
「トビ、ここでお前に確認しておきたい」
低いハスキーボイスが俺を呼んだ。琥珀色の睫毛の下で、陽を遮る常緑樹の色に染まった瞳が俺を射抜く。
「お前は、自分を傷つけた人間と対峙できるか」
一昨日のことがよみがえる。乱暴な言葉を投げつけられて、俺はどうしたっけ。祖父母宅に帰りついて、一晩泣いた後、動けなくなってしまったのではなかったか。
「……できません。逃げて、ただ悔し泣きするだけです」
名前の無かった頃の俺とは違う。それでもどうしようもなかった。悔しかったのは、怖かったからだ。怖がってしまう自分が腹立たしかった。
情けなくて隊長を見ることもできない。俯いた頭上に、呆れた溜息が降ってくるのを待つ。
「それでいい」
待っていたのに、言葉も響きも予想とは違った。
「堂々とできると答えたら、強制的に待機させるつもりだった。それにも従わなければ本日付で解雇することも念頭にあった。だが正しい状況判断と正直な申告ができるなら、私もお前に選択肢を用意してやれる」
待機、解雇、選択肢。次々に繰り出される単語に追いつけず、戸惑いながら顔を上げた。
「選べ」
にやりと笑う隊長と、目が合った。
「ひとつはここで待機して、ジョナスと共に軍との通信役をやる。もうひとつは私や双子と現場に行って、メダルと思しきものを自分で手に入れる」
「……軍が捜査をしているところには、乗り込めないのでは」
「大総統閣下直々に許可が出た。こちらにも向こうに情報を譲っている実績がある。それに現場には他にも多数の鑑定すべき品があるらしい。私たちが直接出向いた方が手間が少ないというわけだ」
現場に行き、真っ先にメダルを確認できる。鑑定品が多いのなら、人手も必要になるだろう。そちらを手伝いたい気持ちはあるが、話の流れからしてデメリットは大きそうだ。ただ裏組織が相手で危険だというだけではない。
「その裏組織、俺のことを知っている人がいるのでは?」
一昨日会った人物は裏組織の一員。隊長の先程の問いと重なるならば、あの人はそこにいるのではないか。
案の定、隊長は肯定した。
「先日、組織の関係者の一人が商店街で騒ぎを起こしている。それともう一人、ゼウスァート家の元使用人の末裔だという幹部だが、奴はその関係者と付き合いが長いらしい」
明言はしないが、過去の俺と面識があるのはどうやらその二人だ。幹部だという人とは、図らずも長い因縁がある。
一度は逃げ出した。でも、けじめをつける機会は再び巡ってきた。それもより大きな運命のうねりと共に。
「隊長。俺は戦いたいです」
いつか心を殺した子供は、自由と希望を手に入れられることを教わり、生きようとした。新しく生まれなおし、たくさんの人の助けで多くの力を得た。
その全てがこのため、というわけではないだろう。こんな巡り合わせがあるなんて、俺を含め誰も予想していなかった。きっと逃げて何も無かったことにすることだって、選択肢のひとつだ。
それでも、俺は――この道を選びたい。
「俺自身のことに決着をつけたい。仕事のついでにそれができるなんて、人生で三番目くらいの僥倖です」
見つめ返した隊長の、伊達眼鏡の奥の両目が細められる。その形は聖母のように優しいのに、瞳はやはり激しく燃えていた。
ここにいる五人は、きっと同じ目をしている。このひと月で最大の仕事を前にしているのだから、当然だ。
「私たちの仕事はあくまで文化の保護だ。軍の活動の妨げになることは厳禁」
隊長はゆっくりと口角を上げる。弟の読んでいた漫画に、こんな表情の人物が出てきた。
「まあ、不可抗力で何かしでかしてしまったとしても、大文卿夫人が上手く誤魔化してくれる筈だ。文派特殊部隊は文の荒事を担うため、あの人が作ったんだからな」
悪役めいた笑みは実に隊長らしく、横暴で野蛮な特殊部隊に相応しい。
文派からも軍からも、邪険にされて疎まれる。そんな俺たちは、もとより正義など掲げていない。
ただ、仕事をするだけだ。