アルバイト十六日目。昼食のフルーツサンドと試作品のホットサングリアは好評だった。もっと食べたいとせがむノールさんとジュードさんに、十分食べただろうと呆れて文句を言うジョナスさん。隊長はぶどうジュースをベースにしたサングリアを味わいながら、ワインが飲みたいと呟いている。
 俺はその光景を眺めながら、ここで働けて本当に良かったと、幸せを噛み締めていた。
 やはり俺は、父に出会えた日から幸運を身につけていたのだ。

 エルニーニャ王国文部管轄文化保護機構特殊事項対策部隊――ここで働くのも本日を含めあと五日。一ヶ月の短期アルバイトは大詰めを迎えている。
 集中的に取り組んでいたエルニーニャ王国建国二百五十年記念メダルの収集は、残り一つというところまできた。最後のゼウスァート家のメダルはもはや失われてしまっているだろうと思われていたが、偶然が重なり、消息の手掛かりを得ることができた。
 メダルの収集のみならず、俺の過去や、果ては元軍家ゼウスァート――俺を拾い育ててくれた父の先祖――が表舞台から姿を消したその歴史にまで、大きな区切りがつけられようとしている。文章にして出版社に持ち込んでも、いくらなんでも出来すぎているとして没になるところだ。……と言って、隊長は無表情のまま鼻で笑った。
 事実は小説よりも奇なり。俺は自分の運が良くてここにいられるのだと思ったけれど、もしかすると他の人にとっても俺の存在は幸運の一部だったのかもしれない。図々しくも、そうだったらいいと考えてしまう。
 さて、その区切りのための大事な客が、午後にこの執務室へ来ることになっている。俺はコーヒーサーバーの残量や、ミルクのポーションとシュガースティックのストックを確認して、昼休みを終えた。ジョナスさんも執務室を軽く掃除してくれたが、必要そうな資料を出してきた双子がすぐに机の上に山を作ってしまう。
 言い合いが始まり、隊長が喧しいと一喝し、室内の賑やかさが最高潮になったとき。執務室の戸が開いて、呆れた声と表情が現れた。
「取り込み中ですか? そういうのは約束の時間を外してやってくれると助かるんですけど」
「あれ、ヨハンナ。もしかして君が担当?」
 エルニーニャ王国軍東方司令部准尉、ヨハンナ・グラン――彼女は俺のいとこだ。先日から中央司令部で研修をしているらしい。
「まあ、そんなところ。今回の案件に完璧な対応ができれば、中央への異動が確実になるの。中央でエリートコースに乗れば、お祖母様もお喜びになるでしょ」
 彼女はどこか投げやりに言い、俺の前を通り過ぎる。そして隊長に恭しく礼をした。
「ガンクロウ隊長、改めてよろしくお願い致します」
「ああ、騒がしい面々で申し訳ない。軍は誰を代表に立てている?」
「クラシャン大佐が指揮を執っています。補佐大将曰くエスト准将が断っちゃったからなんですけど、まあ大佐にとっても出世チャンスになったので張り切ってますよ」
「なるほどな。センテッドもまあまあ融通が効くが、トレーズ・クラシャンなら扱いやすい。フィネーロも良い人選をした」
 軍のそれなりに地位がある人たちの名前を事も無げに挙げ、しかも上から評する隊長が恐ろしい。密かに鳥肌をたてる俺に構わず、ヨハンナは話を進めた。
「では、今回の作戦について説明させていただきます。軍の目的は裏組織『ヨロモ会』の検挙。以前から恐喝、窃盗などで構成員が度々捕まってはいるんですけど、会長や幹部連中は自分で手を下さないので、軍も大きくは動けなかったんです」
 昨年の秋にも文派特殊部隊に協力していただいているそうですね、とヨハンナが顔写真を二枚取り出した。俺にも見覚えがある。
「この人たち、書店で窃盗事件を起こそうとした……?」
「そうそう。トビ、なんで知ってるの?」
「首都に品物を届けに来ていて、居合わせたんだよ」
 忘れもしない、隊長と双子に初めて会ったときのことだ。あの日、俺は特殊部隊のアルバイトに誘われた。
「こいつ、トビ君に因縁つけてたね」
「こいつ、トビ君がびくともしないからキレたんだよね」
 ノールさんとジュードさんも懐かしそうに頷いた。あの柄の悪い人たちまで関わっていたなんて、どこまでも奇跡的な巡り合わせだ。
「下っ端の態度が悪いなら、軍も再三注意勧告をしていただろう」
「そうなんですよ。逆にいえば、注意するだけで終わっちゃってたんですね。トップをしょっぴくだけの理由にはならなかったので」
 後方でジョナスさんが「軍はいいかげんだな」と呟く。ヨハンナの耳にも入ったようで、彼をじろりと睨んでから続けた。
「今回も、潜入捜査期間が設けられたのは、幹部の責任を追及するための決定的な証拠を掴むためなんです。ヨロモ会は先日検挙された対企業団体と関わっていた筈なんですけど、当該団体と他の組織に責任を被せて逃げおおせようとしています。スロコンブさん、軍はそうはさせまいとして動いているところなんですよ」
 そんなふうに言われたら、ジョナスさんも返す言葉が無くなってしまう。バツが悪そうに押し黙った彼を、さすがに俺も気の毒に思ってしまった。
 それはともかくとして、軍の潜入捜査は功を奏し、遂に真の指示役がヨロモ会の会長、ケダルスス・ヨロモであった証拠を掴んだ。ヨロモ会幹部を検挙する準備が整ったのである。
 会長を取り巻く幹部の一人が市井の人々に顔を知られ、簡単には逃げられなくなったことも、軍にとって都合が良かった。
「まさかトビに絡んで足元をすくわれるとは、ヨロモ会のやつらも思ってなかったでしょ。悪いことはできないわね」
「そっか、一昨日のことはヨハンナも当然知ってるよな」
「もちろん。静かに怒りを滾らせて中央司令部に乗り込んできたハルさんを応対したの、あたしだもの。すっごく怖かったんだからね」
 思い出したのか、ヨハンナは冗談ではなく身震いする。祖母は元大総統、怒らせたときの迫力は半端なものでは無い。
 軍が突入する算段はできた。すぐにでもヨロモ会を叩ける。――ここまでが、特殊部隊にとっての「前提」だ。
「文派特殊部隊には、この作戦に伴って発生する『回収作業』を依頼します。会長のケダルスス・ヨロモは美術品の収集家なんだけど、一方で窃盗や贋作詐欺の疑いもかかっています。これも確かな証拠が無くて捕まえられなかったんだけど」
 その捜査も進めるため、ヨロモが所持している美術品や骨董品などを全て調べることになるのだという。
 鑑定や調査は別の機関や専門家にも依頼しているそうだ。つまり特殊部隊の仕事のメインは、まさに回収そのもの。現場に直接乗り込み、ひとつ残らず把握する。
「何の因果か、ヨロモの先祖はゼウスァート家の使用人。家が滅んだときに遺産を盗んだ疑いがかけられている。当然そんな大昔のことは裁けないから、特殊部隊が探してるメダルとやらは、本物ならそれほど面倒もなく譲れると思います」
 ヨハンナはにっこりする。が、それも一瞬のこと。彼女は俺を見て言った。
「裏組織に乗り込むなんて、本来一般人にやらせることじゃない。軍からも文派からも、邪魔だの野蛮だのと罵られることになる。特殊部隊は今までずっとそうだったって聞いた。……トビ、あんたはアルバイトなんでしょ? ここで手を引いた方がいいんじゃないの。あっちにはあんたにとって胸糞悪い相手もいることだし」
 使う言葉はきれいではないけれど、ヨハンナは俺の身を案じてくれている。彼女は俺が父に拾われたばかりの、痩せた子供だった頃から知っているひとりだ。そしてきっと俺のことを、弟のように思ってくれている。
 先に彼女の存在がなければ、俺は今、十六歳という年齢ではなかった。彼女は俺の存在の基準のひとつであり、初めてできた同年代の話し相手なのだ。
 それでも、いや、だからこそ。俺は自分の決めたことを、曲げるわけにはいかない。たとえ彼女が止めても。
「引かないよ。俺はここにいる限り、特殊部隊の一員だ。現場にも行く」
「伯父様の威光とか通用しないわよ」
「関係ないよ。前大総統の息子としてじゃなくて、特殊部隊のトビ・ハイルとして行くんだから。そうじゃないとできないこともある」
 ヨハンナに負けないくらいの笑顔をつくったつもりだ。でも、もしかしたら隊長にも匹敵するような邪悪な表情になってしまったかもしれない。
「父さんのこと考えちゃったら、チャンスがあっても胸糞悪い奴を思い切りぶん殴れなくなるだろ」
 唖然とするヨハンナ。青くなっているジョナスさん。拍手をしてくれる双子。そしてやはり無表情のまま鼻で笑う隊長。
 この人たちがいれば、俺は何も怖くないんだ。

 作戦の決行は翌早朝。隊長と双子は職場に泊まり込んで準備をするという。
「電気や水を無駄遣いするなよ。文化保護機構に充てられている予算は厳しいんだ」
 普段から資料室に寝泊まりすることが多い隊長ではなく、お泊まりだとはしゃぐ双子に向かって、ジョナスさんが言う。
 リフォーム済みとはいえ古い建物をあてがわれている文化保護機構は、やはり文派全体からやや冷遇されているらしい。大文卿夫妻は底上げを図ってくれているというが、予算の充当などを目的とした会議では、まだまだ文派本部が大きく優先される。
 資料室に備えてある通信機器や情報端末などは、大文卿夫人が軍から中古品を買い上げたものだ。壊せば代わりは無いと思え、と隊長が言っていた。
「暖房くらい使わせてよ、ナスコンブ」
「凍えて動けなくなったら恨むよ、ナスコンブ」
 文句を言う双子も、油と手回し充電で動く暖房器具を使おうとしている。みんな自分たちの居場所を守るために考えているのだった。
「家に帰るならさっさと行け」
「はい。では、夜明け前に」
 隊長に追い出されるようにして、俺とジョナスさんは一旦帰宅する。大丈夫だと言ったのだが、ジョナスさんは祖父母宅まで送ってくれた。
 住居に隣接する鍛冶屋の方からは、まだ鉄を打つ音が聞こえる。近所の店も暖かな灯りと共に客を迎えていて、会社勤めから解放された人たちが歩いたり立ち止まったりしている。
 日常の光景がやけに愛しく思えて、視界が滲む。先日から涙腺が弛んでいるようだった。
「じいちゃん、ばあちゃん、ただいま」
 気を取り直して家に入り、声をかける。おかえり、と重なった返事が優しい。リビングでは祖母が何やら書類を広げ、祖父の姿は台所にあった。
「じいちゃん、手伝おうか」
「じゃあ食器を出してくれ。もうすぐにできるから」
 大きめに切った野菜のシチューの、安心するような甘い香り。今日何度目かの幸福を感じる瞬間。自然と目頭が熱くなる。
 おかわりまでして身体の内側をすっかり温めた後、祖母は俺に言った。
「トビ、明日はとても早いんでしょう」
 話はとうに伝わっていたのだ。頷くと、祖母は片付いたテーブルの上に再び書類を出した。
「これ、保険関係の書類。怪我して病院にかかることがあったら、すぐに手続きできるように」
「ありがとう。ばあちゃん、準備いいね。職場の労災保険もあるのに」
「備えは確実に用意して、常にきちんと整理しておくこと。……そして、使わないに越したことはないんだよね」
 それなのに何回も何回も手続きをしてきたのだと、祖母はぼやく。自分や家族のことだけではないだろう。この人にはかつて、たくさんの部下もいた。
 その中には悲しい別れも、きっと幾度もあったのだ。
「アーシェちゃん……大文卿夫人が特殊部隊を設立しようと思ったきっかけって、話したっけ」
「文派も自分で身を守らなきゃと思ったんじゃなかった? たしか昔、博物館が襲撃されて、犠牲者が出ちゃったとか」
「うん。その人は元軍人の警備員でね、ボクたちの上司だった。軍にいた頃は同じ班で仕事をしてたんだよ」
 顔は怖いけど、とても頼もしい人だったんだ。懐かしそうに祖母は微笑み、それから台所で洗い物をしている祖父の背中に視線を向けた。
「ボクらはそういう仕事だから、どんなに危ないこともやった。被害を想定しながら人を送り出すこともしてきた。まだ軍人になって一年にもならない君のお父さんに、とても辛い仕事をさせたことだってある」
 俺が書類を読み、サインをしている間、祖母は静かに語り続ける。書類の中には最悪の事態を想定したものもあった。
「こんなことを言っては駄目なんだってことはわかってる。ボクが不安そうにすると、トビはもっと不安になるよね。だからただ、いってらっしゃいって送り出さなきゃいけない。君を信じてるんだから、そうするのが本当なんだ」
「大丈夫、わかってるから。……はい、全部できた。父さんに電話してきていい?」
 いいよ、しておいで。頷く祖母に礼を言って、席を立つ。どれだけ心配で不安でも、祖母は行くなとは言わない。それで十分だった。
「ばあちゃん。その書類、使わせないようにするから。ビリビリに破いて、紙吹雪にでもすればいいんだ」
 もちろん掃除は俺がやるよ。だから笑って見ていればいい。

 実家に電話すると、受話器に飛びついたらしいサシャとフェリシーの声がしばらく賑やかだった。電話代を気にし始めた頃、ようやく父の声を聞いた。
「トビ、元気になったか」
 元気か、ではなく、なったか。父もまた、この数日のことは把握しているのだろう。
「すっかり元気。だからしっかり仕事ができるよ」
「そりゃいいや」
 父はたっぷりとした緋色の髪のせいか、なかなか見た目は豪快だ。けれども笑い方は意外と静かで、ちょっと何かを含んでいるような感じもある。
「全うしてこい。帰ってきたらパンケーキを何枚でも焼いてやる」
「それは楽しみだな。俺、甘くないのがいい。スモークサーモンのやつとか」
「わかった、用意しておく。母さんも部屋から出てきたからかわるよ」
 物音、話し声。続けて母が明るく俺を呼ぶ。
「トビ、仕事に行くならちゃんと防寒しなさいよ。ほら、動く邪魔にならないダウンあるでしょ。持たせたよね」
「使おうと思ってた。ちゃんと着ていくよ」
「ならばよし! あたしもやっと原稿の加筆分がオーケー出たところ。完成した本はあんたも読んでよ」
「もちろん。母さんの書くコラムは面白いもの」
 両親はいつも通りの会話の端々で、生きて帰ってくるよう約束させる。思えば拾われたばかりの頃は、こんな少し先の未来をさりげなく約束するような会話が多かった。
 それまでは考えたこともなかった「明日の希望」を、父と母は俺に積み重ねていってくれた。次第に自分で作ることを学ばせてくれた。
 俺はまだその恩を返せていない。
「いってきます」
 行って、必ず、帰って来る。これからまだまだ、俺には生きてやりたいことがある。


 真冬の首都に、まだ朝日は光の端すら見えない。輝くのは龍を隠した砦を護る番兵たちと、それを突破し崩そうとする獅子の旗を掲げる兵たち、それぞれの瞳ばかり。
 見張りが交代する寸前の隙を狙い、軍が裏組織「ヨロモ会」の本拠地に突入する手筈だ。現場からは少々の距離を置き、文派特殊部隊は車をつけていた。
 こちらの出動は軍からの連絡を待つ。現場の実働班が中央司令部に無線で合図を送り、それをさらに文化保護機構の特殊部隊用資料室に伝える。資料室からの信号を車で受け、ようやく動き出せるというわけだ。
 随分回りくどいことを、と苦言を呈したメイベル・ガンクロウ隊長に、大総統フィネーロ・リッツェは「そうでなければ賛同が得られなかった」と正直に答えた。
「特殊部隊が作戦に加わることに文句が無いのは、僕とルイゼン以外には作戦指揮のクラシャン大佐と通信担当のグラン准尉だけだ。あとは誰もが君たちに関わりたくないと考えている」
「それでよく押し通したな」
 ここまで味方がいないとは、どんな喜劇よりも笑える。悪評は特殊部隊の在り方に対してだけではなく、過去のメイベル自身の仕業にも原因があるのだから、笑うしかあるまい。
 二十五歳で突然辞めるまで、軍人だったメイベルは一緒に現場に出たくない人間として評判だった。教練担当としては面倒がりながらもよくやっている、教え方も納得できる理論に基づいていると好評だったが、実際の任務では軍内から恨みをかうほど横暴さや単独行動が目立った。
 当時の後輩が、今の将官や佐官である。メイベルの名を聞いただけで拒否反応が出た者もいるだろう。そしてそんな彼らの教えを、今の尉官以下も受けている。
 しかし渋々ながらもその存在を認め、邪魔をしないなら、直接関わらなくてもいいならという条件で、作戦参加を許可した。仕事ならば、任務ならばと、互いの利用を割り切ったことには、メイベルも感心している。
 かつて自分は正義を手放した。そんなものには何の意味もなくなったから。だが他のことに囚われてしまい忘れていた、不変の正義が今も僅かばかり残っている。
 生きるため、働くことだ。

 段々騒がしくなってきた。銃声も聞こえる。抱えていた武器を握り直し、車内無線に意識を傾ける。
 やがて教えた通りの手順で確認のやりとり、そして。
「――突入指示です」
 夜鳥は獲物を目指し飛び立つ。


 ヨハンナを交えての作戦会議で、動き方は確認済みだ。現場には隊長、双子、俺が向かう。ジョナスさんは資料室の通信機器で、中央司令部のヨハンナと連絡を取り、内容を俺たちに伝える。
 通信機器の扱い方は隊長に叩き込まれている。休みに入る前、俺とジョナスさんが資料室に呼ばれたときに、みっちりと。
 そのときもジョナスさんはすんなりと操作を覚えていたので、通信担当には適任だったといえる。
「頼むよ、スロコンブさん。今回の仕事はあたしの通信技能試験も兼ねてるんだから。あなたのミスであたしが中央で働けなくなるのはごめんだからね」
「随分な言い草だな、軍人女。安心しなよ、トビ君に迷惑がかかるようなことはしない」
「へえ、トビ限定? あなた、トビの何なわけ? そんなにトビが好きなら、いとこのあたしも丁重に扱いなさいよ」
「うるさいな、いとこだろうとなんだろうと僕は軍人が好きじゃないんだ」
 ……多分、適任だ。ヨハンナもジョナスさんも、仕事には真面目だから大丈夫だろう。多少の言い合いなら真っ当なコミュニケーションだ。俺を巻き込まないでくれたらなお良い。
 現場班は二手に分かれることになった。隊長とジュードさん、ノールさんと俺という組み合わせで動く。
「ジュードとのコンビネーションはちょっとだけ惜しいけど、トビ君も強いから大丈夫だね」
「ノールとのコンビネーションはちょっとだけ惜しいけど、隊長と一緒なら安心だね」
 双子は揃っていた方が動きやすいらしい。敢えて分散させたのは、共倒れを防ぐためだという。片方は残っていなければ、ハルトライム家が後継者を失ってしまう。
 ノールさんが俺と行動するのは、彼の方がジュードさんよりも少しだけ冷静だからだ。よく似ているが同一ではない双子の特性に合わせ、隊長が決めた。
 もし誰かが欠けても、支障が少なく済むように――俺たちは最悪の事態を考慮しなければならないほどの作戦に参加するのだと、改めて突きつけられた。
「トビ、いつでも軍に助けを求められるようにしておけ」
 隊長が俺に命じたのは、戦うことではなかった。
「軍もお前のことなら無碍にできないだろう。限界は早めに見極めろ」
「それは、もしものときは俺だけ逃げろということですか」
 やはり先日のことがあるからか。俺はついていくことは許されても、あまり役には立たないと、そういう。
「妙な勘違いはするなよ」
 だが、拗ねた思考を隊長が断つ。切れ味のよい言葉が、俺の卑屈さを叩き切った。
「お前が逃げ切らなければ、現場について報告できる人間がいなくなるんだ。文派特殊部隊が正当な働きをしたことを証明する手立てとして、お前は戦略的撤退を選択肢として持たなくてはならない」
「失敗したらうちの母様だけじゃなくて、大総統閣下の立場も危うくなるんだよ、トビ君」
「逃げ切らないと国が傾くかもしれない、これは超重要な役割だよ、トビ君」
 双子が畳み掛け、一層の圧力に押し潰されそうになる。つまり隊長は俺を庇おうとしているわけではなく、責任が重く難しい任務をさせようとしているのだ。
「もはや私はお前をアルバイトだとは思っていない。給与も弾むぞ、同一労働同一賃金だ」
 生きて帰ればだがな。そう言った隊長の笑みは、実に凶悪で美しかった。

 そうして今、俺はノールさんと共に、軍の実動第三班の後方にいる。既に第一班、第二班が突入し、裏組織『ヨロモ会』の構成員をほとんど押さえ込んでいた。第三班、第四班は捜索担当であり、組織本拠地である建物内の物品を差し押さえることが主な任務だ。
 ヨハンナからジョナスさん、そして俺たちへと届いた突入の合図は、先行した二班からの連絡を待ったもの。現場は鎮圧に近づいているとはいえ、完全に危険が去ったわけではない。
 注意深く、しかし適切な早足で進む軍人たちを追いながら、ノールさんは俺を気にしてくれていた。
「トビ君、防弾チョッキを着ていると重いでしょう。大丈夫?」
「平気です。父を手伝って撮影機材を運ぶときは、もっと重いこともあります」
「さすがだね」
 言葉を交わす声はかなり抑えているつもりでも、班の殿を務める軍人の耳には入るようで、何度か睨まれてしまう。隊長曰く、俺たちの参加に難色を示していないのは、指揮を執る大佐と通信を任されたヨハンナだけ。あとはみんな文派特殊部隊を「半端で邪魔」だと思っている。
 仕方ないことだ。命懸けで任務にあたっているのだから、気を散らす要素は無い方がいい。俺たちの存在が、軍の命を削ることになってしまうのだ。
「おい、文派」
 殿の軍人が振り向く。俺はとうとう叱られるのかと身構えたが、どうやらそうではないらしい。
「先鋒隊はまだヨロモを含めた幹部数名を捜索中だ。こちらも細心の注意を払うが、万が一ということがある。戦闘の心得はあるんだよな?」
「あるよ」
 ノールさんが頷き、所持しているクロスボウを軽く叩いてみせる。俺も小さく返事をした。
「悪いが、自分の身は自分で守る、そういうつもりでいてくれ」
 幹部が見つからない、もしかすると既に逃亡したかもしれない。ということは、そちらに人員を割く必要がある。軍の余裕が削られてしまうのだ。俺たちに気を配ることが十分にできなくなるのは当然だった。
「おれのことは気にしなくていいよ。でも、もしものときはトビ君だけよろしく。前大総統のご子息だから、後が怖いよ」
 にやりとしたノールさんに、軍人が微かに怯む。俺は自分の意思で作戦に関わっているのだから、後が怖いなんてことはない筈だ。それでもノールさんがそう付け足すのは、俺が任務を全うできるように。俺の命を守るためなのだ。
 軍人たちは少しずつ、各部屋に残っていく。安全を確認した場所から順に、遺留品を捜査する。入れ違いに先鋒隊が、拘束された人たちを連れて出ていく。俺たちがここに来たときから何人もすれ違っている。
 その度に確保された組織構成員たちの顔を横目に見ているのだが、どれも覚えはなかった。すっかり商店街で有名になってしまったあの男は、捜索中の幹部の一人なのかもしれない。
 軍の実動第三班の人員も、奥に進むにつれて減ってきた。残るは俺たちを最深部――ケダルスス・ヨロモの部屋へ導いてくれる人たちだ。
「ヨロモは部屋にいないようだ。先鋒隊が行方を追っているそうだから、調べるなら今だな」
 第三班の先頭で誰かが言う。いよいよ俺たちの出番だ。一度呑み込んだ息の塊を、ゆっくりと吐き出す。
 軍について行った先は、いかにも代表の部屋といった様子だった。踏み込んだ床は毛足の長い絨毯に覆われ、正面にはどっしりと構えた大きな机と、革張りの椅子。壁際に並ぶ棚には様々な美術品、宝飾品が見える。
「ここ、写真で見た部屋じゃない? メダルがあるかも」
 棚をなぞるように視線を動かすノールさんに倣い、俺も目的のものを探す。実動第四班についているはずの隊長とジュードさんが到着する前に見つけられれば、あとの仕事が楽になる。
 軍が部屋を調べ始め、物の位置が変わる。現場保存のため僅かではあったが、やはりどこを見てどこをまだ見ていないのかという混乱は生じてしまう。
「一緒に調べさせてもらいましょう」
「もともとそのつもりで来てるもんね。おーい、おれたちにも見せてよ」
 気安いノールさんに眉を顰めつつも、軍人たちは応じてくれた。棚の物は鑑定を始めてくれていい、怪しい物があったらすぐに報告を、とのことだ。
 しかしノールさんも俺も、隊長のように鑑定はできない。とりあえずはメダルを探すことにした。
 写真の通りなら、立派な椅子の後ろ。棚の上に箱ごと置かれている筈だ。
「……見当たりませんね。移動させてしまったのかも」
「最悪、もう持ち出されてるかもね」
 棚を全部確認しようか、とノールさんはゆっくり移動する。けれども、俺はひっかかりを感じていた。
 ヨロモのコレクションと思われる品々は、実に整然と並んでいる。軍が持ち上げるなどしたので、位置や角度に僅かなずれはある。しかしそのずれは、棚や物品を薄く覆う埃で判別が可能だ。
 メダルを箱ごと移動させたとすれば、その跡が残るのでは。いや、あの写真は少なくとも数日前の物だ、一度埃を拭き取ってしまったのならわからない。
 それでもなお違和感がある。あの写真には、他に何が写っていただろう。――思い出せ。
 右目にかかる前髪を掻き上げ、耳にかける。そしてまずは棚の上をじっくりと見た。
 写真はピントが合っていない。写真でも実際の光景でも、棚には似たようなものが並んでいて、違いは分からない。
 では、何がはっきり写っていたか。どうしてメダルがこの位置にあるはずだと思ったのか。
 棚から離れ、机の前へ回り込んだ。写真が撮られた筈の位置を探す。あれは軍の潜入捜査官が隠し持っていたカメラだから、本来あるべき位置とは異なるだろう。
「すみません、質問したいのですが」
 傍で絨毯を調べていた軍人に話しかける。一瞬、面倒そうな顔をされた。
「手短に頼むよ」
「では単刀直入に。軍の潜入捜査官は、どのように隠しカメラを持ち歩いていますか?」
 どうしてそんなことを、と言いたげにこちらを向いた軍人は、俺と目が合ってぎょっとしていた。色の違う双眸を晒したままだったからだろうけれど、今はそんなことに構っていられない。それは相手も同じだ。
「……色々だよ。手持ちの鞄に忍ばせることもあれば、アクセサリーに偽装することもある。ネクタイピンとかカフスボタンとか時計とかね」
 画角を考えると、ネクタイピンが妥当だろうか。軍人に礼を言い、高さや角度を想像して立ってみた。
 立ち位置を少しずつずらし、椅子とその後ろが視界に入るよう調整する。光の射す角度も、頭の中で補う。
 そうしてぴたりとくる角度は――この部屋には存在しなかった。
「すみません、もう一つだけ質問を」
 再び絨毯を調べていた軍人に尋ねる。今度はすぐにこちらを見てくれた。
「次は何? こっちも忙しいんだよ」
「わかってます。ヨロモの部屋はこの建物にここだけなのか、それだけ教えてください」
 相手は怪訝な顔をし、それから何か合点がいったように声を漏らした。
「文派特殊部隊にはそこまでの情報は必要ないかと思われたんだな、きっと。ヨロモの収集物の回収と鑑定をさせるだけのつもりだっただろうし」
「どういうことですか。手短にお願いします」
 軍と特殊部隊の認識に不一致があったことは、今はさほど重要ではない。俺が聞きたいのは質問の答えだけだ。
「ここだけじゃないよ。ヨロモは自分の部屋を複数持っていて、幹部以外の部下を呼ぶときは目隠しをさせていずれかの部屋に連れてくる。潜入のときには把握できなかった部屋もあるだろうってことで、今こうして調べてるんだ」
 つまり、ここはメダルのあった部屋ではない。俺とノールさんが来るべきは、ここではなかったのだ。
「他の部屋は先鋒隊や第四班が捜査に入ってる。君たちはとにかく、ここをきちんと調べてよ」
 軍人は溜息を吐いて、自分の仕事に戻る。他にいくつ部屋があるのかわからないので、隊長とジュードさんも正しい目的地に辿り着けていないかもしれない。
 この部屋を調べ終わるまでは動けない。ヨロモはまだ捕まっていない。メダルの行方を追えない。
「トビ君、お手柄だね」
 いつの間に背後に立っていたのか、ノールさんが俺の肩を叩いた。
「今回は本当に手柄じゃないですよ。メダルはおそらくここにはありません」
「それがわかれば十分。いずれにせよ鑑定は隊長じゃないとできないし、おれたちはこの部屋に用はない」
 ノールさんはにっこりしてからくるりと回って、机の抽斗を調べていた軍人に話しかけた。あからさまに嫌な顔をした相手に全く怯むことなく、言葉を放つ。
「おれとトビ君は別の部屋を見るね」
「何を言う。勝手にうろつかれては迷惑だ」
「だって、ここはもう調べ終わっちゃった。ヨロモ会の取引相手のリストなら、机じゃなくて右端の棚の奥。そこに隠し金庫があったから開けといたよ。それから左から三番目の棚の底板を外したら、お金がたくさん出てきた。贋作の売買だけじゃなく、脱税もしてるのかもね」
 ノールさんが指をさした方向に、軍人たちが注目する。駆け寄って言った通りの物が見つかると、捜査はそこに集中した。
 それはまるで人を操る魔法のようで、俺は思わず見とれてしまう。
「ね、ちゃんと調べたよ。だから他の部屋も見てあげる。いくつあるかわからないんだよね?」
 とどめの笑顔に、ついに軍人が折れる。他の捜査員の邪魔をするなよと、戸口を指した。
「ありがとう! 許可してくれた優しい人として、あちこちで名前を触れ回っておくね!」
 責任の所在も明らかになったところで、ノールさんは俺の手を取る。行こう、と引っ張り、部屋の外へ。
 それから無線を取り出し、ジュードさんを呼び出した。
「こちらノール。あのさあ、ヨロモの部屋がいっぱいあるって聞いてる?」
 どうぞ、と言うとジュードさんの声――ノールさんと同じ声にノイズが混じっているだけなので変な感じだ――が返ってきた。
「こちらジュード。それさあ、こっちも今伝えようと思ってたよ。隊長が軍人の胸倉掴んで聞き出したら、少なくとも四つはあるってさ」
 少なくとも。潜入で把握しきれた分がそれだけということか。そんな大事な情報も伝えられなかったのは、やはり特殊部隊が軍に認められていないからなのだろう。
 それなのに隊長は「軍人の胸倉を掴んだ」。これは多分比喩ではない。信用の面は大丈夫だろうか。
「一つずつは確認できたから、もう一つずつ行こう。おれとトビ君のところはハズレだったから離脱したよ」
「おれと隊長もそのつもり。次の場所が決まってないなら、ノールたちは建物の四階西に行って。こっちは五階東に行くから」
 今いる場所は一番上の七階西。隊長たちは同じ階の東にいるそうで、それぞれ下に向かう。
「トビ君、移動するから軍人の位置を押さえておきなね」
「わかりました」
 俺はいつどんな状況でも、命じられた通りの動きができるようにしなければならない。移動中もどこにどれだけの軍人がいるか、意識しながら進んだ。


 クラシャン大佐は出世のチャンスに張り切っている。ヨハンナが世間話のように口にした情報を、もう少し考慮しておけばよかった。メイベルは舌打ちし、胸倉を掴んで揺さぶっていた軍人を解放した。
 大佐が文派特殊部隊の参加を受け入れたのは、要するに大総統の手前、そうせざるをえなかっただけなのだ。彼は涼し気な目をして大人しく振舞っているような人物だが、今回ヨハンナが評したように野心は人一倍だ。手柄は自分であげたいだろう。
 特殊部隊が余計なことをするのは、彼にとっても邪魔なはずだ。だから伝えるべき情報を伝えなかった。いよいよこの現場に特殊部隊の味方はいないということになる。
「隊長、行きましょう。ノールとトビ君も移動を始めます」
 ジュードが手招きした。無線のやりとりは聞いている。向こうもヨロモの部屋が複数あるということを知った。確認するまでもなく、次に向かう二部屋のどちらかがメダルのあった場所だ。
 とうに軍が制圧している筈だが、嫌な予感がする。ヨロモらがまだ捕まっていないことに対する胸騒ぎだろうか。
「ねえ、隊長。メダルが見つからなかったら、おれたちもヨロモを追いますか?」
 階段を降りながら、ジュードが問う。追いたい、という気持ちが表情に出ていたが、メイベルは即答できない。
「今日取り逃したら、クラシャンは原因のひとつを『考慮すべき点が多かったため』と報告するだろう。そうしてこの件には、二度と私たちを関わらせない」
「そっか、おれたちがいたからうまく動けなかったってことになるんですね。その後の仕事にも影響しそう」
「クラシャンは文派などいてもいなくてもどうでもいいと思っていると認識していたが、出世が絡むなら話は別だろう。私の考えが甘かった」
 階下へ向かうにつれ、静寂が濃くなっていく。最上階は軍人たちの声で充ちていたが、六階、五階と戻ると物音もない。軍による捜査は終わったのだろうか、いや、そんな連絡はまだ無い。
 東の部屋へ向かおうとして、無線が音声を受信した。応答するとジョナスが現在地を確認してきた。
「五階まで降りてきた。ヨロモの部屋が最上階以外にもあると判明したので、そこへ向かっている」
「そうでしたか。周りに軍は?」
「不自然なほど見当たらない。帰還命令は出ていないんだな」
「はい。クラシャン大佐の呼び掛けに応じない者がいると、グラン准尉から連絡がありました。緊急事態ということで、控えていた実動第五班、第六班がまもなくそちらに到着するはずです」
 この階には何かある。行方知れずのヨロモや幹部たちが、付近に潜伏しているかもしれない。
「ノールとトビを四階へ向かわせたが、そちらにも異常が?」
「四階……ノールに確認します。周りに軍がいないとすれば、トビ君が危険だということですよね」
 現場の軍人を頼れるのは、トビの保護についてのみ。メイベルと双子を見捨ててでも、彼らはトビを助けようとしてくれるはずだ。クラシャン大佐の心づもりがわかった今、それだけは確実といえる。
 何があってもトビだけは逃がせ。ノールにもそう伝えてある。
「ジョナス。お前もそのときが来たら、トビの誘導に徹しろ。打ち合わせた通りに」
「わかっています」
 通信が終わると同時に、メイベルは所持していた銃を構える。手に馴染んだ自前の拳銃を、両手にそれぞれ一丁ずつ。
 ジュードもクロスボウをいつでも撃てるようにしておく。気配の変化にいつでも気づけるよう、感覚を研ぎ澄ませる。
 東側へ進み、じき突き当たりだろうというところで、二人の耳は同時に微かな音を捉えた。目配せし、足音を殺し、そこに辿り着く。
 扉は開いていた。覗き込んだ向こう側には、七階の部屋と全く同じ机と椅子、そしてそれらをぐるりと囲む壁際の棚。しかし棚を飾る品々は異なっていた。
 毛足の長い絨毯には、扉から入って奥まで続く、何かを引き摺ったような跡が残る。描かれた線は二本、だらりと伸びた人間の足によってついたものだろう。
 メイベルはジュードの背中を軽く押し、振り向きざまに膝を上げた。背後に迫っていた人物を踏みつけるように蹴り飛ばし、命じる。
「軍の奴らを助けてやれ。だがみすみす犠牲にはなってやるなよ」
「了解!」
 室内にジュードが飛び込んだ。反応した人数は――絨毯のせいで判別しにくいが、三人程度か。全員が幹部というわけではなさそうだ。
 ヨロモがいてくれればいいが、いなければ当たりを引くのは――。
「ノール、トビ」
 十分、いや、五分だけ耐えてくれ。


 四階まで降りてくる間にわかったのだが、軍は最上階の捜査に重点を置いているらしい。移動していくと次第に人が少なくなり、四階に到着したときに見た軍服は三人程度だった。
「もう四階は調べ尽くしたんですか」
 俺たちを見て嫌そうに顔を歪めた軍人に、遠慮なく訊ねる。答えたのは別の軍人だった。
「構成員の連行が完了しただけだ。人手が足りないんだよ」
 構成員たちを捕まえるのは主に第一班と第二班の役割だと聞いている。第三班と第四班が現場に残れるはずだが、幹部らを捜すのに人を割いたのか。
「ここにはあなたたちしかいないんですか」
「今はな。これから追加で人を寄越してくれるから、お前たちも大人しくしていてくれ。文派に勝手に動かれるのは困る」
 俺と軍人が話している間に、ノールさんが奥へ向かおうとして止められていた。メダルがあるかどうかをすぐに確かめたいのだけれど、追加の人員が来るまでは難しいかもしれない。
 そのことを隊長に連絡した方がいいだろうと、ノールさんを呼ぼうとした。が、無線が音声を受信する方が早かった。
「ノール、今どこにいる」
「四階にいるよ。でも軍の人が通せんぼするんだ」
 堂々と答えるノールさんに、三人の軍人が一斉に苛立ちを向ける。無線からジョナスさんの呆れたような溜息が聞こえた。
「ひとまず軍に従え。トビ君の安全確保のためだ」
「はいはい。で、ナスコンブ」
「ナスコンブっていうな」
 緊迫感のないいつものやりとり。声だけを聞いていればそうだ。しかし俺の目には様子が変わったノールさんが映っている。
「軍人たちがどうして、どこに消えたのか。その情報は入ってる?」
 笑顔は消え、大文卿夫人と同じ色の瞳は鋭く廊下の奥を見つめていた。
「その問いの答えは持っていない。だがクラシャン大佐に応答しない人員が出てきているために、控えの第五班、第六班が向かった。隊長たちにもそう言った」
「そういうことか」
 じゃあ、とノールさんが振り向く。手にはクロスボウを、いつでも撃てるよう構えて。
「君たちは他の階から来たんだね。四階は実はもう壊滅状態なんでしょ。軍は最初からヨロモの部屋が四階にもあるって知ってたんだから、ここに人を集めないなんてありえない」
「文派には関係の無いことだ」
 軍人が言い返した途端、ノールさんは得物の狙いをこちらに向けた。そして全く躊躇なく、トリガーに掛けた指に力を込める。
「ノールさん、何を」
「トビ君、動かないでね。危ないから」
 止める間もなく射出された矢は空気を裂きながら、俺と話していた軍人――を通り過ぎてその向こうへ吸い込まれていった。悲鳴と床に何かが倒れ伏した音が響く。
 矢の刺さった腕を押さえて転がっていた男の顔は、知っているものだった。
「こいつ……幹部か!」
 軍人三名が男に駆け寄り、手当ついでに身柄を拘束する。何で来てるの気づかないかなあ、とノールさんは頬をふくらませた。
「この階と上に分散してると思うけど、見失った幹部と何人かの部下は、まだ建物内にいるんじゃない? 逃げたと見せかけて軍を外に追い出して、十分に減ったところで反撃するつもりだったんでしょ」
「なるほど……!」
 ということは、建物内は危険なままだ。軍人がいないことで、その度合いは増したともいえる。
 拘束された男の叫びが聞こえたのか、廊下の奥から人がやってきた。どうやって軍の手から逃れていたのか、目的地方向から五名、反対から五名。小回り重視らしく所持しているのはナイフだ。刃渡りが長く、刺されれば内臓、あるいは骨までも傷つけるだろう。
「なんで三人が三人ともたった一人の拘束にかかっちゃうかなあ。仕方ないや、トビ君、こっち側の五人はおれたちで片付けよう」
 そっちはちゃんと止めてよね! とノールさんが軍人たちに命令する。慌てて体勢を整えた三人を背に、俺とノールさんも身構え、踏み込み、襲い来る構成員たちに立ち向かった。
 突き出されたナイフを躱し、腕を掴む。空けておいた手は胸倉に。相手の無防備な鳩尾に膝を叩き込み、弛んだ手からナイフを奪い取る。
 その柄で向かってきていた刃を受け、弾く。怯んだ相手の顎へすかさず拳を突き上げた。
 俺がそうしてやっと二人を倒している間に、ノールさんは残る三人に加え、軍人たちを掻い潜ってきたもう一人も伸していた。見られなかったので何をしたのかわからないけれど、クロスボウだけではなく格闘も相当慣れていることは察した。
「上もこんな感じなのかな。隊長とジュードなら全く問題ないと思うけど」
「ノールさん、どうしましょう。応援を待つべきですか、それとも進んだ方が?」
 軍は俺たちに動いてほしくないだろうけれど、ここでじっとしているのが良いとも思えない。ノールさんは「そうだねえ」と言いながら、倒れている人たちを見回した。
「みんなこの程度なら対処できないことはないし、進んでもいいかも」
「進んでみろ、お前らなんかすぐに殺されるぞ!」
 被さってきた品のない声は、先程軍人に拘束され床に転がされている幹部のものだ。先日、商店街で俺に絡んできた男である。
「この階にいた軍の奴らは、みんなあの人があっという間に始末した! お前らもそうなる!」
「へえ、じゃあヨロモはここにいるんだ。いいこと聞いた」
 みんなに教えちゃおう、とノールさんは無線を手にする。男が更に喚くので、俺はついそちらを見てしまった。
 目が合って初めて、彼は俺に気がついたようだった。
「なんだ、オッドアイじゃないか。お前、変わっちまったなあ」
「お陰様で」
「会長もお前を買ってやったんだぞ、忘れたか。お前が首都にいると報告したら、側に置いてもいいと言っていた」
「断固拒否します。……ああ、そうだ。二発ほど殴らせてください」
 返事を待たず、呆気に取られている軍人も無視して、男の服を掴んで上体を起こす。反応するだけの隙も与えず、拳を二回、男の頬に浴びせた。彼は既に矢で腕を痛めているので、力はそんなに入れていない。
「ちょっと、文派?! お前何してんの?!」
「復讐です。俺の友人を殴ったことと、俺に色々してくださった分の」
「復讐とか駄目だって!」
 慌てふためく軍人たちに背を向け、ノールさんのところへ戻る。ちょうど無線でのやりとりが終わったところだった。
「トビ君、すっきりした?」
「すっきりはしませんけど、先日のことは終わりにできました」
「ナスコンブの分まで殴ったもんね」
 一頻り笑ってから、ノールさんは表情を引き締め、俺の手を取った。
「進むことにしたよ、トビ君」
 答えが出たらしい。
「隊長とジュードも後でこっちに合流する。五階にもやっぱり部下たちと、幹部も一人いたって。やられちゃった軍の人たちも見つけたみたい」
 多分ここも同じような感じだね、と言うノールさんに頷いて、俺も廊下の向こうへ目をやった。四階西の最奥に、残る幹部と、ヨロモもいるかもしれない。
「行きましょう」
「いいの? トビ君はここに軍と残ることもできるよ」
「さっきの戦績をどう思います?」
「……おれと行こうか」
 最後の戦いが近い。俺は全てに関わり、結末を知りたい。この人たち――文派特殊部隊と共に。

 構成員たちとの戦闘を重ね、ようやくヨロモの部屋の前に立てた。隊長とジュードさんはまだ来ない。
 ジョナスさんによると、軍の追加の班は現場に到着したという。階下が騒がしいので、あちらも戦闘になっているようだ。
 想定していたよりもヨロモ会に関わる人間は多かった。軍を翻弄するための作戦を、彼らもまた用意していたのだった。
「トビ君、行くよ」
「はい」
 結局、ヨロモの部屋に乗り込むのはノールさんと俺の二人でということになった。無線の通信があるので、そういう意味ではジョナスさんも一緒だ。
 部屋には毛足の長い絨毯、大きな机、革張りの椅子。最上階のヨロモの部屋と全く同じ家具が置かれている。壁沿いの棚に置かれたコレクションの内容が違うので、別室なのは確かだ。
 椅子の向こうに目をやる。写真とほぼ同じだが、一点だけ大きく異なる。
「ノールさん、この部屋だったようです」
「写真の?」
「はい。メダルの箱があった位置に、同じくらいの大きさの空間が」
 慎重に踏み込んで、棚に近づく。小さな真四角の、埃を被っていないスペースがある。そこに何かが置かれていた証拠だ。
「探しているのはこれかな、オッドアイ」
 右方向から声がした。物音も立てず、突然現れたその人物は、手に小さな箱を持っていた。
 暗闇のような色の目が笑う。赤い舌が唇を舐める。すっかり忘れたと思ったのに、俺はこの男に見覚えがあった。
「首都にいると聞いて驚いたよ。理由が知りたくて、色々と調べさせてもらった。前大総統閣下の養子になったんだってね」
 戸口の方へ振り返る。男の立っている場所とは逆の方向も。部屋を見回したのに、一緒にいたはずのノールさんの姿がない。
「ここは魔法の部屋なんだよ、オッドアイ。お友達から一瞬でも目を離せば、もういなくなってしまう。他のお友達も今頃は消えてしまっているかも」
 魔法なんかあるものか。人がそう簡単に、現れたり消えたりする筈がない。この部屋には仕掛けがあるのだ。
「お友達を返してほしいかな?」
「取り返します」
「平和な解決方法がある。オッドアイ、私のところにおいで」
 大ぶりの指輪を嵌めた手がこちらへ伸びる。薄い唇が弧を描く。あの手を、あの貌を、幼い俺はいつか見上げた。
「この時を待っていたんだ。君を私のものにできるのを。美しい両の瞳だけではなく、成長して程よく肉のついた肢体も、声変わりを経て低く柔らかくなった声も。ここまで育つのを楽しみにしていた」
 肌が粟立つ。後退りしたくなるのを堪え、相手を睨み返した。
「横取りされたと知ったときは諦めかけたが、また巡り会えるとは。しかもあのゼウスァートに、因縁の末裔に関わっているなんて。君を手に入れることは、私の運命だったということだ」
「それは全力で否定させていただきます」
 俺や父の選択を侮辱されたようで、怒りが胸に、頭に、満ちていく。だがそれを込めた視線を相手は一笑に付して、こちらへ大股に歩み寄ると伸ばした手で俺のこめかみに触れた。
「相変わらず美しい瞳だ。感情を表に出しているときには、より強く輝く。恐怖に泣き叫ぶときも良いが、こうして憤怒に燃えていても」
 相手の腕を掴んで捻ることも、胸倉を掴み投げ飛ばすことも、俺にはできた。さっきまでやっていた事だ。けれどもどうしてか、力が入らない。
 あの日の子供が、再びここに立っていた。


 壁に隠し扉があるとは考えてもみなかった。今度どこかに調査に行くときはもっと気をつけていなければ。
 ノールは至って冷静に部屋を調べつつ、しかしながらここは内側からは開けられないだろうとも予測していた。
 ここに閉じ込められる寸前の一瞬、現れた人物が手元のリモコンを操作するのが見えた。外にいる誰かにリモコンを奪ってもらうのが確実に脱出できる方法だろう。
「でもトビ君には難しいかも。怯えてたし」
「軍が来る気配もないのか?! 追加の人員は到着してるはずなのに! 隊長たちには通信が繋がらないし、どういうことなんだ!」
 ノールが落ち着いていられるのは、ジョナスが無線を通じて怒鳴り続けているおかげでもある。代わりに怒ってくれているようで、自分の役割に目を向けさせてくれるのだ。
「敵もチーム分けをしてたんでしょ。軍は控えの構成員たちと戦闘中だよ、きっと。隊長たちも巻き込まれたかもしれない。そうやって時間を稼いでるんだ」
 何のために? ――トビのために。
 ヨロモがトビを側に置いてもいいと言っていた、幹部がそう喚いていたのだから、そのための交渉を持ちかけているのかもしれない。
 しかし先程現れた男はヨロモではない。事前調査で知った顔と違う。幹部の一人だろうか。
 いずれにせよ、トビを奪われるわけにはいかない。そうさせない責任がノールにはあった。
「ねえ、ナスコンブ。おれのこと殴っていいからね」
「何を突然、気持ち悪いことを」
「だってナスコンブは、トビ君のこと好きでしょ。超ラブでしょ。昔からあんな感じの子が好きだよね」
 だからごめんね。ジョナスが文句を言おうとしたのを、そう言って遮る。戦えない彼の分まで、トビを守るつもりだった。隊長の代わりとして、最後までやり遂げるつもりだった。それなのに。
「やっぱりおれ、落ちこぼれだ」
 母が、父が、隊長が。そうではないように、そうならないように、居場所を与えてくれた。得意なことを伸ばしてくれた。でも欠けたものはいつまでも欠けていて、今回だって注意が足りずにへまをした。
 人並みになれたかもしれないと思ったこともあったけれど、それは結局思い込みに過ぎなかった。
「はあ? 今更かよ。僕は昔から君たち双子にそう言ってる」
 呆れた声がざりざりとしたノイズを混ぜて届く。
「君たちは文派にしては落ちこぼれだ。勉強はそれほど得意じゃないし、いつもばたばたと忙しない」
「だね。お祖父様にもよく言われた」
「でも最近わかってきた。君たち双子は人間としては落ちこぼれていない。というか、人並みじゃない」
 どういうこと、と尋ねながら部屋の奥を見てみる。布の塊が丸めて置いてある。なかなか大きい。
「凹んだところがある分、別のところが突出している感じ。だから総合的な能力値は、突出が過ぎてる分、人より大きい。人並みに収めちゃいけない人間なんだなと理解した」
「うわあ、なんだか面倒な考え方。ナスコンブらしすぎて笑える」
「声が笑ってないじゃないか」
「うん。それどころじゃなくなっちゃった。死体見つけた」
 丸まった布は衣服だった。体を丸めて、袋のようなものを抱き締めた、人間の死体。額には銃創があり、突き抜けていないところを見ると弾丸は脳に留まっている。
 袋からは強く甘い匂いがしている。気が付かなかったのは、知らず焦っていたからか。
「死体って誰の」
「幹部の一人かな。資料写真で見た。軍に報告して」
「了解。ついでに四階への応援を急ぐよう伝える」
 無線の接続が切れる。中央司令部へと繋ぎ直したのだろう。ノールも資料室の無線機の操作は隊長から習ったが、こんなに早く会得することはできなかった。まず説明書が分厚くて、読んでいられなかったのだ。
「お前もすごいじゃん、ジョナス」
 負けてはいられない。殴っていいとは言ったが、ここから出なくてはそれも不可能だ。
 動き回ることで今まで上手くできたのだから、今回だって。

 軍人たちに手を貸している場合ではなかった。どうせこちらを信用していない相手だ。放っておいて、そこにいた構成員たちと幹部二人を叩きのめしたら、すぐに移動すべきだった。
 今すぐに向かうと言ったのに、嘘になってしまった。
 五階東の部屋には、奥にさらに部屋があった。そこに倒された軍人たちが詰め込まれており、メイベルとジュードは彼らを外に引きずり出した。
 その前に構成員たちと、現れた幹部二人をしっかり倒しておいた筈だった。邪魔者を退け、すぐにでも四階西の応援に行けると、そう考えていたのだが。
「……こんな間抜けなしくじり方は、これまで生きてきて初めてだな」
 壁の隠し扉に気付かず、引きずり込まれた。正確にはジュードが引きずり込まれそうになっているのに気付いたメイベルが、止めようとして巻き込まれたのだ。
「隊長、すみません」
 さすがのジュードも落ち込んでいる。落ち込みながらも壁を探って脱出を試みている。
 防弾仕様の丈夫な壁だ。元々シェルターなのだと、ここに隠れていた部屋の主は言った。
「貴様が口を割れば済むんだがな、ケダルスス・ヨロモ」
 メイベルが睨めつけると、ヨロモは蝦蟇に似た大きな口で、卑屈に笑った。
「儂だって生きるために必死なんだ。悪く思うな」
 曰く、ヨロモ会は軍が突入する二日前に乗っ取られたそうだ。以降、ヨロモはこの隠し部屋で時が過ぎるのを待っていた。
「目的を達成したら出て行くと言っていたからな、あいつは。それまでの辛抱だ」
 乗っ取った人物は、三日前の朝にふらりとヨロモの前に現れた。挨拶に来ただけだと言ったのに、ある報告を耳にしてから態度が変わった。やりたいことができたから建物と構成員たちを貸せとヨロモに詰め寄り、要求に従わなければ命はないと脅迫した。実際、幹部の一人は目の前で殺害された。
 ヨロモ会はリュミス・マジュラム――ケダルスス・ヨロモの異母弟に利用されている。目的は首都にいるらしい一人の少年。
「昔から執心だったからな。金持ちの爺さんに生き人形を自慢されて、爺さんが死んで息子に相続されたら手放されないよう助言して、ちょうどいい頃合になったら引き取るんだと目論んでいた。でもその前に掠め取られて、随分探していた」
 変態の考えることはわからん、たとえ血が繋がっていようとも。ヨロモは他人事のように呟く。
 その態度を見ていて頭に血が上ったジュードが、ヨロモに掴みかかった。
「どうして弟を止めなかったんだよ?! お前が止めていれば、トビ君は傷つかなかった! 今回も、その前も!」
「弟ったってほぼ他人だ。今回は儂は被害者だぞ。昔のことならどうしようもない。むしろオッドアイのためにはこれで良かったんじゃないか」
「何が?!」
「親はあれを売った。業者が育て、爺さんが買い、阿呆の息子は面倒を見るのに金がかかるからと捨てようとした。そのままならあれは野垂れ死にだ。リュミスが阿呆息子に、オッドアイ自身が金を稼げば面倒は減ると教えた。阿呆息子がその通りにしたおかげでオッドアイも生き延びた。今や前大総統のご子息だろう、今までのことは無駄じゃなかったってことさ」
 べらべらと不快な言葉を並べたヨロモを、ジュードは嫌悪し、投げ捨てるように解放する。込み上げる吐き気を堪えていると、メイベルが鼻で笑うのが聞こえた。
「赤の他人が偉そうに、よくもそんな戯言を」
「儂は事実しか言っていない。……!」
 居直る蝦蟇はメイベルを見やり、そして竦んだ。向けられていた眼は氷よりも冷たい蔑みとほんの少しの憐れみ。たった一瞬だけ目が合った、それだけなのに全身を刺されるような鋭い痛みを感じた気がした。
「これで良かったとか、無駄じゃなかったとか、他人の人生を勝手に評価する発言には反吐が出る。そんな奴に構っていないで、ジュードはその辺を調べろ」
「あいあいさー」
 急がなければ、トビが危険だ。それがいよいよはっきりした今、逃げ隠れた蝦蟇などどうでもいい。


 ――彼自身が稼げたら、あなたに損はありません。むしろこれまでよりも収入が増えて得をするかと。
 ――大丈夫、あなたは何も負担しなくていい。私が彼に全て教えて差し上げます。心配なら、私の仕込みが終わった後にでも、あなたがテストをしてみては。
 ――利用頻度の高そうなお客さんも紹介しておきますね。私の異母兄にあたります。きっと彼を気に入りますから。
 とうに忘れたと思っていた、あの日の会話。俺を買った老人が亡くなり、俺の仕事が無くなってしまった日に、宿を訪ねてきた男はそうして老人の息子を説得した。俺の目の前で全てが決まり、捨てられなくて良かった、と男は俺に言ったのだ。
 その直後、次の仕事のためのあらゆる仕込みが始まった。痛いし気持ち悪いし、捨てられはしななかったが殺されるのではと思った。
 でもその男の言う通りに振る舞い、たくさんの人に満足してもらえると、俺はたしかに捨てられはせず死なずに済んだ。耐えて耐えて、いつかそれが当たり前になって、完全に麻痺した。
 麻痺だったとわかったのは、父に拾われ、しばらく新しい家で過ごしてからだった。
 あの家に帰りたいな。父は俺に世界が広いことを示してくれた。母は暮らしや考えの異なるたくさんの人がいることを教えてくれた。弟妹は、こんな俺でも人を愛し慈しむことができるのだと、証明してくれた。
 あの家に帰るんだろ。俺が痛みを抱えると、祖父母は寄り添い癒してくれる。傷つけたものを許さなくてもいいのだと言ってくれる。いとこは言葉こそ乱暴だけれど、あれで俺を気遣ってくれている。
 ――今のうちに言っておかないと、万が一のときに未練が残る。
 まだ言えていないことがある。ノールさん、ジュードさん、ジョナスさん、……隊長。俺はあなたたちに、まだちゃんとお礼を言えていない。一緒に働かせてくれたことだけじゃなく、俺に未来を描かせてくれたことにも。
 やりたいことが見つかったって、まだ報告できていない。
「軍は私が呼んだ応援にまだ手こずるだろう。奴らが地べたばかり見ているうちに、空から優雅に旅立とう。屋上まで行けば迎えが来てくれる。行こうか」
 男の手は俺の髪や頬を撫で回して、ようやく離れた。この隙に逃げれば良かったのに、俺の足は完全に竦んでしまっている。そうしているうちに抱き寄せられ、更に動きを封じられた。
「忘れてしまったかな? こうされたら、君はどう応えなきゃいけないんだった?」
 粘ついた声で威圧する、そのやり方は変わらない。逆らったり、上手く応じられなければ、より酷い目に遭う。
 手を、指を、まず相手の腰に這わせ、なぞるように背中へまわす。急いではいけない。相手を焦らしてやることで、後でより満足させる。そういうふうに教わった。
「そうそう、これから全部思い出させてあげる。でももう他の奴らなんか相手にしなくていいんだよ。私だけの物であればいい」
「……じゃああなたも、俺だけ見ててくださいね」
「もちろんだとも。君より美しい瞳を持った人間なんていないからね」
「それから、メダルはここに置いていってください。あなたにはさほど必要なものではないのでしょう」
「そうしようか。では、行こう」
 拘束が解かれる。俺の肩を抱いたまま、男はメダルの箱を床に放り投げた。彼に寄り添いながら部屋を後にし、上階を目指した。
 倒した構成員たちを拘束し待機していた軍人三人組は、俺たちを見てぎょっとした。だがすぐに体勢を立て直し、男を囲もうとする。
 男はいかにも面倒だという態度で、ジャケットの内側に手を入れた。俺は彼の服の裾を掴み、首を横に振る。しかし無言の訴えは一瞥されただけで無視され、銃口は軍人に向けられた。
「駄目ですってば!」
 男から離れ、軍人を庇って立ち塞がる。何か言いたげな軍人を黙らせるため、小声で一言伝え、改めて男に告げる。
「お願いですから、何もせずに屋上へ向かってください。要はここを出てしまえばいいんでしょう」
「……まあ、そうだな」
 男が銃を下ろし、俺を再び抱き寄せる。
 そうして俺が身動きを取れないようにしてから、軍人たちを一人ずつ撃った。耳を劈くような音の後、彼らは床に伏し、血溜まりがゆっくりと三つ広がった。
「……どうして。何もせずに、と俺は」
「勘違いするなよ。命令するのは私だ、君じゃない」
 身の程を知れ、と男はまた歩き出す。引き摺られるようにして、俺も進まなければならなかった。
 五階へ上がる。隊長とジュードさんは無事だろうか。西側からでは二人の様子は窺えないが、付近は異様に静まり返っていた。
 六階へ上がる。捜査中だった軍人を排除しながら、さらに上を目指す。七階で作業に当たっていた者もおり、おそらくは先程の銃声を怪しんで下りて来ていたのだろう。
 七階はまだ多くの軍人がいたが、進路を阻む者は排除、それ以外は無視。もう屋上は目の前だ。
 男は躊躇いなく撃ち、装填し、また撃った。罪を重ねることを何とも思っていないようだった。
「私が恐ろしいかな?」
 俺にそう、嬉しそうに尋ねる。返事はしなかったが、どうとられたものか、彼は満足気だった。
「ああ、良い朝だ。全てが私の掴んだものなのだな」
 屋上は、昇る太陽の光が眩しい。あまりにも眩しくて、視界が遮られる。耳が遠くのヘリコプターの音を捉えた。
 見たいものも聞きたいものも選べない。でも、たったひとつだけ。

 何を信じるのかは、俺が選び、決める。

 白い朝日を裂いた高らかな音は、方向を確かめる間もなく、俺に触れようとしていた男の肩を貫いた。
 呆然とする男から距離をとり、東側の出入口を見る。きっとそこにいると思った。
「――隊長!」
 ここからは琥珀の髪も若草の瞳も逆光で見えないけれど。でも、来てくれると信じていた。

「メイベル・ブロッケンか……」
 男は肩を押さえよろめきながら、隊長を昔の名で呼んだ。
「軍を辞めて文派に雇われたと聞いたが、銃は手放していないんだな」
「そうだよ、隊長は今でも射撃の名手だ」
「文派にしては野蛮がすぎるがな」
 この期に及んで嘲るような口調に、返事が後方からあった。ひとつははっきりと、ひとつはノイズでざらついている。
「ノールさん、無事でしたか……!」
「トビ君のおかげだよ。トラップ解除してくれたでしょ。ナスコンブもあちこちに連絡してくれたし」
「ジョナスさん、ありがとうございます!」
「それが僕の仕事だからね。でも、僕にできるのはここまで。……ノール、僕の代わりに敵を仕留めろ」
「ナスコンブ、いよいようちに染まってきたね」
 にやりとしたノールさんが、こちらに向かって矢を放つ。俺の脇を通過したそれは、男の腿に突き刺さった。悲鳴をあげて倒れ込んだところへ、別の方向からもう一本、今度は左手を甲から串刺しに。
「ノールばっかりに良い格好させないよ!」
 ジュードさんの声だ。双子の兄にそっくりなので、距離が違ってやっと聞き分けられる。
 こちらへ向かって駆けてくる足音が二つ。大股に歩いてくる音が一つ。やがてノールさんが、それからジュードさんが、俺を挟むようにして立った。
「わあ、痛そう。べそべそ泣いちゃって、意外に根性ないね」
「わあ、痛そう。顔もぐちゃぐちゃだし、撃たれた軍人の方がよっぽど我慢強かったよ」
 双子はコンクリートの上に転がる男を覗き込み、口々に言う。ステレオは男の気に障ったようで、うるさい、とか細い声が言い返した。
 そうしているうちに、俺たちの背後にもう一人の足が止まる。
「リュミス・マジュラムだな。ド変態の」
 低くハスキーな女性の声が、凛々しく響く。
「私の部下を拐かそうなんて、無謀なことを。もう二度とそんなふざけたことはできないようにしてやろう」
 一歩、二歩、三歩。俺たちの前に、琥珀色の――朝日を受けていっそ黄金のような髪が靡き、広がる。
 隊長は屈み込んで、銃の撃鉄を起こした。銃口は男の額にぴたりとつける。
「隊長、それは」
「いいんだよ、トビ君」
「報いだよ、トビ君」
 双子が両側から俺の腕を掴み、押さえる。男は引き攣った悲鳴をあげた。
「……貴様がメイベル・ブロッケンの何を知っているのかはこの際どうでもいい。だが、そいつならここで引鉄を引くだろうな。なにしろそれを一番嫌がる奴がいない」
 だが、と隊長は鼻で笑う。見えないけれど、やはり無表情なのだろう。
「メイベル・ガンクロウにその権限はない。それは軍の仕事で、貴様は真っ当に裁かれる。怪我もちゃんと治してもらえる。社会が優しくて良かったな」
 ヘリコプターの音は聞こえなくなっていて、かわりのようにたくさんの足音と怒号がなだれ込んできた。
 隊長は銃を男から離し、それから彼の後方に一発撃ち放った。

 ヨロモ会の建物から出て、軍が怪我人や拘束された構成員たちを運ぶのを眺める。
 リュミスというらしいあの男に撃たれてしまった軍人たちも、怪我人として軍管轄の病院に送られた。
「彼らには申し訳ないことをしました。俺が余計なことをしなければ、撃たれたりしなかったかも」
 庇うふりをして、リュミスから奪った小さなリモコンを託したのだ。彼は撃たれて倒れた後、それを操作してくれた。
「おかげでおれが外に出られたんだよ。トビ君が屋上にいることもわかった」
 ノールさんはそう言うが、俺はもっと良い方法を選べたはずだった。リュミスに従うふりをした結果、怪我人を増やした。
「軍人は鍛えてるから大丈夫だよ。急所を外させるくらい朝飯前」
「朝飯前ってことはないでしょう、人間ですよ」
 ジュードさんの発言に半ば呆れていると、にわかに辺りが騒がしくなった。連行されかけていた人物が軍を振り払い、あろうことかこちらに向かってきている。
 隊長がさりげなく俺たちの前に立ち、相手と対峙した。
「どうした、ヨロモ。大人しく捕まっていろ」
 蝦蟇に似たこの男が、ケダルスス・ヨロモ本人らしい。昔俺も会ったことがあるそうだが、インパクトのある見た目の割には全く記憶に残っていなかった。
「何故儂が捕まらねばならんのだ。儂に襲いかかったお前が捕まれ!」
 ジュードさんが俺に耳打ちしてくれたことによると、ヨロモは隠し扉の開閉リモコンを持ったまま、隠し部屋に逃げ込んでいたらしい。そうしてそこに隊長とジュードさんをも監禁した。だが隊長がリモコンをヨロモから奪い、脱出に成功したのだという。
「平和的解決に応じなかったから、最終手段に出たまでだ」
「儂は何も悪いことはしておらん! 儂の先祖がやらかしたことで、いつまでもいつまでも、何かあれば儂のせいにされる。やってられん!」
 憤慨するヨロモに、双子が同時に首を横に振る。
「だって、人に犯罪行為を唆したり、贋作詐欺や脱税の疑惑があるし」
「だって、証拠になりそうな怪しい書類が色々見つかったし」
「儂じゃない! 全部部下が勝手にやったことだ! 儂の責任じゃない! 儂は被害者だ!」
 軍人が絶叫するヨロモを取り押さえ、連れていった。双子は手を振り、隊長はもはや一瞥すらしない。
「……あの人、本当にゼウスァート家の元使用人の末裔なんでしょうか」
「さあね。先祖のことは子孫には関係ないよ」
「さあね。あいつはあいつの罪を裁かれる、それでいいじゃない」
 ねー、と顔を見合わせた双子に、隊長が振り返った。無駄話はそこまでだ、と不機嫌な声が言う。
「ノール、そっちの部屋にメダルはあったか」
「そうだ、忘れてた。トビ君が取り返してくれたのかな、床に落ちてた」
 ノールさんが上着のポケットから箱を取り出す。すっかり見知った箱の蓋を開けると、中には小さな黄金のメダルがあった。
 ゼウスァートの名前と、250という数字も刻まれている。これが本物なら、全てのメダルを回収できたことになる。
「隊長、帰って鑑定しましょう」
「私は当分戻らない。この建物内の物品の鑑定作業がある」
 その間に済ませておけ、と仕事を任された。本件の報告書の作成と、日々の通常業務だ。新規の依頼は一旦保留にしておくようにとのことだ。
「トビのアルバイト最終日には戻るようにする。今日は疲れているだろうが、病院に寄ってから、軍の聴取に応じてやれ」
 隊長は颯爽と建物の中へ戻って行ってしまう。あの人はまだまだ休めないらしい。
「隊長の言う通りにしようか、トビ君」
「ナスコンブはもう中央司令部に移動するって。合流したら揶揄ってやろうよ、トビ君」
 双子に両腕を引かれる。アルバイト十七日目は、まだまだ終われない。

 けれども俺の名無し時代は、これでようやく終わったのだった。