アルバイト十八日目。欠伸を噛み殺しつつ報告書の作成に取り掛かる。隊長が端末の使用許可をくれたので、自席でキーボードを叩いているのだが、思うように進まない。
「トビ君、今日くらい休んでも良かったのに」
「そうだよ、トビ君が一番疲れてるはず」
「そうだよ、トビ君が一番酷い目にあったはず」
 ジョナスさん、ノールさん、ジュードさんが口々に心配してくれるが、俺は首を横に振る。
「休んでしまったら、勿体ないです。俺には今日を含めてあと三日しかない。できるだけみなさんと一緒にいたいんです」
 三日なんてあっという間だ。初めてここでアルバイトをさせてもらったときには、瞬く間に過ぎていってしまった。
「みなさんだってお疲れでしょう」
「おれとジュードにとってはよくある事だよ」
「おれとノールならこれくらい朝飯前だよ」
「僕は君たちと違って動いてない」
 そうは言うが、ノールさんとジュードさんは現場で閉じ込められたり走り回ったりしていたし、ジョナスさんはたった一人で通信を担当していた。昨日は誰もが全力で行動し、そのために疲弊した。
 もちろん隊長もだ。あの人も激しく戦った翌日だというのに、外で働いている。

 ヨロモ会との戦いの後、俺と双子は病院に寄ってから、軍の聴取を受けるため中央司令部に向かった。
 先に聴取を受けていたジョナスさんは、通信記録の提供も済ませていた。彼が隊長に任された仕事は全て完了していたのだが、俺たちの到着を待っていてくれたのだった。
 目が合うなり腕を広げ駆け寄ってきて、ジュードさんに抱き止められ、潤んでいた瞳が一瞬で乾き虚ろになっていた。
「……僕はトビ君を抱きしめたかったんだけどな」
「おれたちだってそんなことしてないのに、ナスコンブに抜け駆けさせるわけないでしょ」
 気持ちだけ受け取り、俺も軍人に連れられて聴取のための部屋に向かった。そうして訊かれたことには全て正直に答えた。
 本当は隊長の命令通りに、真っ先に退却し、軍に報告しなければならなかった。できなかったかわりに、というわけではないけれど、ここで文派特殊部隊の行動とその理由を正しく話しておく必要がある。
 俺の行動で、たくさんの軍人が負わなくてもいい怪我を負ってしまったことも。
 行動のそもそもの理由が、俺の過去にあることも。
 担当の軍人はしばらく俺に質問を続け、話を聞いていた。ヨロモの部屋が四つあったことを知らされなかったことには無反応だったが、俺がリュミスという男と行動していたときのことは詳細な説明を求められた。
 これは特殊部隊にとって不利になると、俺にもそう判断できてしまう。こうしてまたひとつ、特殊部隊が邪険にされる理由ができてしまうのだ。俺のせいで。
「君は前大総統のご子息なんだろう。無茶なことはせず、もっと自分を大切にしなさい。関わる連中も選んだ方がいい。さもなくばお父上も悲しむだろう」
 優しい声色が言う。大人として当然の気遣いであるように。けれども、俺にかけるには少々ずれた言葉だった。
 軍人が満足気に「これで終わりだ」と言った直後、扉が外から叩かれた。記録係が小窓から覗き、あっと声をあげる。それから慌てて応対した。
「リーゼッタ大将、もう聴取は終わります」
「ならちょうどいいな。トビ、疲れているところ悪いけど、俺とも話をしてくれないか」
 軍人たちの頭を飛び越え、大総統補佐大将ルイゼン・リーゼッタの穏やかな声が届いた。
 ルイゼンさんは担当の軍人と記録係に労いの言葉をかけ、部屋から出した。それから記録係が書き留めていたものをざっと見て、溜息を吐く。
「しんどい話もさせたみたいだな」
「必要なんでしょう。何でもお答えしますよ」
「いや、ちょっとこっちの言い方が恣意的だったようだ。このままではお前や文派特殊部隊の私怨が疑われてしまう」
「ああ……それは困ります。私怨はちょっとだけなので」
 ちょっとはあるのか、とルイゼンさんは苦笑し、それからまた大きく息を吐いた。
「いや、あって当然だよな。トビは長いこと当事者にされてたんだから。……すっきりしたか?」
 その一言で、この人はやはり隊長の元同期なのだと実感した。俺は頷き、彼が向かいに座るのを待った。
「でも、俺は立場的に、お前の無茶を叱らなくちゃならない。敵にグーパンチも駄目だし、屋上までついて行ったのも危ない。飛び道具を使いやすくしようとしたんだろうけど、隊長には逃げろって言われてなかったか」
 俺の浅い考えはルイゼンさんにはお見通しだ。そう、屋上なら隊長も双子もより動きやすくなるだろうと思いついたのだ。狭い場所では彼らの得意技を生かしにくいし、削られたとはいえ大勢いたはずの軍人が忽然と姿を消していたことも気になった。
「たしかに軍に助けを求めて逃げるようにと言われていました。その点は命令違反に違いありません。そのせいで軍の人たちも怪我をしましたし……」
「いや、こちらこそお前を救えず申し訳ない。安心しろ、みんな大した怪我じゃない。それに隊長や双子に頼るなら、外に出るのは正解だった。護身用の薬品ガスの空き容器が大量に見つかっている、おそらく建物内に残った先鋒隊に浴びせたんだろう」
 頑張ったな、と俺を叱らなければならない筈のその人は笑みを浮かべた。すると俺の中で張り詰めていた何かが、ぷつりと切れたようだった。
 ぶわりと溢れ、止まらなくなってしまった涙を、ルイゼンさんが差し出してくれたハンカチで拭う。いくら拭ってもきりがない。
「そのままでいい。俺が勝手に喋るから、聞いても聞かなくてもどっちでもいい」
 俺が泣いている間に、ルイゼンさんは今回の事件のこれからについて、少しだけ教えてくれた。
 ヨロモ会の会長、ケダルスス・ヨロモは直近の詐欺や脱税、他の組織との関係を詳しく調査した上で、そもそもの捜査対象であった容疑と併せて相応の処分が下るという。
 その異母弟にあたるリュミス・マジュラムは本件での殺人罪の他にも余罪があるとみられている。過去に俺と関わった件も追及すると、ルイゼンさんは約束してくれた。
「例の宿の客リストに、奴の名前はなかった。でもトビの証言でその理由もわかったよ。客ではなかったから見落とした。こちらの詫びも込めて、きっちり落とし前つけさせるからな」
「……俺は、それもちょっと気になってて」
 しゃくりあげながら懸念を打ち明ける。俺の記憶が恐怖で誇張されているわけではないのなら、リュミスの「仕込み」は手慣れていた。俺の他にも被害者はいるのではないか。前にも、後にも。それも調べようとルイゼンさんは頷いてくれた。
 ヨロモ会幹部三人はそれぞれ相応の処分、一人はリュミスに殺害されていたため書面での報告のみとなりそうだ。遺体となった幹部を発見したのは、隠し部屋に閉じ込められたノールさんだ。そのときの通信記録もジョナスさんが提出済みだという。
「本件はリュミス・マジュラムによる乗っ取りが全てだと、ケダルスス・ヨロモは主張している。集団扇動や詐欺に脱税に違法取引は、あったとしても部下がやった事だから関知していないとのことだ。宿の件については……」
「わかってます。ヨロモは既に処分を受けているので、改めて問い質すことはできないんでしょう」
 過去の件については、せいぜいリュミスの手引きがあったのかどうかを確認する程度だろう。ルイゼンさんは申し訳なさそうに頷いた。
「でも、これだけは約束しよう。今回の件は徹底的に調べあげ、相応の処理をする。ヨロモたちのことだけじゃなく、クラシャン大佐が特殊部隊に伝達すべきことをしなかったことについても含めて」
 少しだけ待っててくれ、と俺の頭を撫で、ハンカチは貸してくれた。くれると言ったのだが、丁寧にイニシャルが刺繍してあるハンカチを貰うわけにはいかない。
 ここから先は軍の仕事。俺たちがやるべきことは、文派特殊部隊としての報告をすることだ。

 報告書はまずざっくりと書いて、一度ノールさんにチェックしてもらう。隊長がヨロモ会の建物にある美術品などの鑑定に出ている間は、ノールさんが隊長代理として仕切ることになっていた。
 書き物も読み物も苦手だというノールさんだが、ジュードさんよりはほんの少しだけましだという。室内をうろうろしてジョナスさんに鬱陶しがられながら、俺の作った報告書の下書きを確認してくれた。
「トビ君、これはだめ。書き直して」
 そしてばっさりと没にした。
「ノール、トビ君になんてことを」
「少なくとも双子より文章はきれいじゃないか?」
「そう思うならジュードとナスコンブも読んでみるといいよ。納得すると思う」
 ノールさんが厳しい判断をした理由が、俺にはもうわかりかけていた。読んでもらっている間に、自分でももう一度確認していたのだ。
「……ああ、たしかに。隊長が見たら破り捨てるかも」
「破り捨てるのは横暴だが、僕もこれはあまり……」
「そうですよね、俺もそんな気がします。ノールさん、お忙しいところ申し訳ありませんが、ご指導をお願いします」
「もちろん。あ、お昼ご飯をちょっとだけサービスしてくれたら嬉しいな」
 過去にけりが着いてすっきりしたと思っていたのだが、まだどこか抜けきれていない。それが報告書に表れてしまった。ノールさんに指摘されたのもそういう点だった。
「報告書は事実を書くんだよ。反省文じゃないんだから。文章はきれいなのに、使い物にならないのは勿体ないよ」
「はい……すみません」
「あんまりさ、自分を責めないでよ。ああすれば良かったとか、そんなの本当に良かったかどうかわからないでしょう。おれたちには今しかないんだから」
 真っ直ぐに俺の目を見て、ノールさんは言ってくれた。続いてジュードさんが、俺の背後にまわり言う。
「隊長ならこう言うかも。『自分で選んだ道なんだから責任を持て』ってね。おれたちも言われたよね」
「トビ君の場合は不可抗力も大いにあるだろう。それでも責任を持つのか」
 それは酷では、と眉を顰めたジョナスさんに、双子は揃って首を横に振る。
「責任持つのはそこじゃなくて、今の自分にだよ」
「今ここにいる自分自身なら、自分の意思でどうにかできる」
「いつまでも過去のあんなことやこんなことのせいでって考えてるのってさ」
「それこそ自分を他人や環境に委ねちゃってるみたいで、不自由でしょ」
 今が不幸だろうと幸福だろうと、それは同じ。原因はきっといくらでも思いつく。些細なことから作り出すことだってできる。
 今、何をする? 何ができる? ――それを考え、決めるのは、自分自身だ。自由とはそういうことだ。
 この世界には無数の選択肢がある。様々な要因によって、俺たちが見ることのできる数まで整理される。
 ときには他人や環境により、選択ができなくなることもあるだろう。そんな不自由に縛られて、悔しい思い、悲しい思いをすることも、これからだってきっとたくさんある。
 だからこそ選べるという自由を、望むものを掴めるということを、希望と呼び愛おしむ。自分の思う方向を見て飛び立ち、世界を広げて選べる範囲を増やすことを、成長という。
「報告にはトビ君個人の反省なんか求められてないから、あったことだけをさくさく書こう。それにしても下書きから作るなんて、トビ君は真面目で良い子だね」
「下書きで確認してくれるのもいいよね。仕事早いからそんなに手間じゃないし。やっぱり常勤になろうよ、トビ君」
 双子がわいわいと騒ぎ出す。ジョナスさんは呆れていたけれど、いてほしいのは同意、と呟いた。
 いつか、そんな日が来てもいいかもしれない。改めてこの人たちと一緒に働ける、そんな未来を描いても。
 でもその前に、俺はやりたいことがある。この人たちと隊長のおかげで、そう思えるようになったんだ。
「ありがとうございます。すぐに書き直して、それからお昼ご飯を作りましょう」
「そうだね。隊長不在だから、肉がメインでも良いな。牛肉を多めに使ってしまおう」
 両手を挙げて駆け回ろうとした双子を抑えてから、俺たちは再び作業を開始した。


 すっかり日が落ち、冬の夜空に星が瞬く時間。案の定、鑑定を全て終えることはできず、メイベルは丸一日を特殊部隊の執務室に戻ることなく過ごした。
 問題が起きれば対処はノールが、難しければ大文卿夫人がすることになっている。メイベルが必死になって隊長らしくしていなくても、あの場はちゃんとまわるのだ。
 ではなぜ、自分が隊長などを命じられたのか。五年前、この職に就く前後は何度も大文卿夫人に確認したものだった。
 明日も引き続き鑑定と搬出を、と打ち合わせをして解散した後、メイベルはひとり、行きつけのバーへと向かった。特殊部隊の隊長として再び首都に住むようになってから通い始めた場所だ。
 辛味のある葉とトマトをオイルで和えたサラダに、塩をきかせたオリーブの実、それから余分な脂を落としてあっさりと仕上げた、ハーブの香りも豊かな焼き手羽先。これにその日のおすすめのビールをつけると、この五年で慣れた夕食になる。そこまで空腹でなければ、野菜のオムレツとビールのみというときもある。
 今日は空腹というより、ただ物足りない気分だった。品数を多めにしたにもかかわらず、食事よりも酒が進む。
「お隣、よろしい?」
 三杯目のビールを頼もうとしたとき、不意に声がかかった。返事をする前に座ったのは、眩いほどに美しい女性。メイベルに微笑みかけ、私もビールにしようかな、と言った。
「あなたはやめておいた方がいい。酒癖が悪すぎるからな」
「みんなそう言うけど、自分じゃ覚えてないのよね」
「だからやめろと言っている」
 はいはい、と少し拗ねたような返事をして、彼女は結局ジンジャーエールとローストビーフのサラダを頼んだ。それからメイベルにも、少し値段の高いビールを一杯奢ってくれる。
「懐かしいメニューだと思わない? 私が初めてあなたを誘ったときのものよ」
「そうだったか。どうでもよさすぎて忘れた」
「あなたは違ったもの。メイベルちゃんはそのトマトとカラシナのサラダだけでいいって言ったのよ。お肉を食べてるなんて珍しい」
 でもそうよね、もっとしっかり食べてくれなきゃ困るわ。そう勝手に何か納得した様子は、五年前にも見たなと思い出した。
 今も当時も彼女――大文卿夫人アーシェ・ハルトライムは、炭酸の強いジンジャーエールを美味しそうに飲んでいた。

 十三年前に首都を離れたメイベルは、その翌年には一度戻ってきている。とはいえ、数時間も滞在していなかった。その日は妹カリンと幼馴染フィネーロの結婚式だったが、終わったあとに当人たちだけに会って、すぐに引き揚げたのだ。
 その後も妹弟たちの祝い事には来ていたが、万事がその調子だった。家族面をする資格は無いと思っていたし、迂闊に昔の仲間、特にイリスに会うことを避けていた。
 しかしまさか鬼門がそれ以外にもあったとは、思いもしなかった。
 首都を離れて八年、三十三歳になる年の春先。末の弟が婿入りしたのを祝いに首都に戻ったところを、アーシェに捕まった。
「メイベルちゃん、私のこと憶えてるかしら」
 往来で突然腕を掴まれ、しかも振り払えないほど強く握ってくる。変質者かと思ったが、その顔はたしかに知っていた。
「ハルトライム大文卿夫人、ごきげんよう。そしてさようなら」
「待って待って。あなたのことを捜してたのよ。今日は弟さんがご結婚なさったんでしょう、おめでとう」
「それはどうも。ではこれで」
「だから用があるんだってば。ご飯をご馳走するから、話を聞いてくれないかしら」
 道の真ん中で揉めると目立つ。ただでさえアーシェは顔が知られているし、しかも美しい。人の目をひくのはメイベルにとってもまずいので、食事には渋々付き合った。
 その場所が路地の奥にひっそりと佇むビアバーだったのは意外だった。静かだし秘密も守ってくれるから、とアーシェは言った。
 メイベルがビールを頼もうとしたとき、お酒が飲めるのならと注文してくれたのが、少しばかり高級なものだった。
「メイベルちゃんは、首都に戻ってくる気はないの? その、またこっちに住むっていう意味で」
「いても仕方がない。ここには私の存在する意義も価値もないので」
「じゃあ、その意義とか価値とかがあればいいのかしら? 私の持っている情報によると、あなたにはそれが既にあると思うのだけれど」
 アーシェはメイベルが首都を離れた後のことを知っていた。当然といえば当然だ、彼女はエルニーニャ王国の文を司る立場にある。
 首都を離れしばらくあてのない旅をしていたメイベルは、ある発掘現場に行き着いた。金でも掘っているのかと思ったが、様子がそれとは違う。発掘の目的は遺跡だった。
 五百五十年以上前に終結した大陸戦争の時代よりも、もっと昔の人の暮らしの跡。それを明らかにしようとしているのだった。
 過去を掘り返してどうするのか。珍しがったり、自然の暮らしを見習えなどと啓蒙するのか。そう問うたメイベルに、現場にいた学者はきっぱりと「否」を返した。
 ――これは、未来のための選択肢を探るためにやっている。
 突然の自由に戸惑い続け、未だに先が見えなかったメイベルは、その言葉で学問に興味を持った。妹弟を育てるためでも、家計を助けるためでもなく、また正義なんかのためでもない。自分が知りたいから学ぶのだという、そこに行き着いた。
 幼い頃、友人に本を借りたときの感覚が蘇る。読みたくて仕方がなくて、彼の差し出す本を手当たり次第に読み漁った自分が、すっかり大人になってから再び戻ってきた。
 旅先であらゆる学校の聴講生となり、深く学びたいと思ったところでは試験を受けて入学もした。各地を点々とし、その場所に根付く文化に触れた。全てを理解することは難しくとも、それがそこにあるものなのだと認めることで、これまで蟠っていた様々なものが腑に落ちた。
 そうして過ごした八年は、学校や学者を通じてアーシェに知られていた。名前をブロッケンからガンクロウに変えていても、特徴からしっかり特定されていた。
「良い勉強をしたのね。あなたの学びとそれによって得た力や技能を、是非とも生かしてもらいたいの」
「何に。実践なら首都より地方の方ができる」
「実践にも生かしてほしいけど、私は実戦もできるといいなって思ってて」
 不穏な、けれども互いに元軍人であったことを思えばいくらかは納得のできる言葉から、その話は始まった。
 アーシェが長い時間考え、温めていた計画。ハルトライム家の一員となり、文派の重要な仕事を任されるようになってから、ずっと実現の機会を窺っていた。
「文派に武を備えるの。戦闘ができる特殊部隊を、文派を武で守る砦を置きたい。軍と協力しながら軍には頼りきらない、文を守るための組織を創る」
 文派の古老たちは許さなかった。しかし、彼らもじきに文派の運営からは手を引く。新しいことを始めるなら今がいい。今しかない。
「その第一歩となる組織の隊長を、あなたにやってほしいの」
「……何故、私がそんなことを。元軍人で、文派の上層部が見下す貧民の出身だぞ」
「元軍人だから戦えるでしょう。あなたの戦闘能力の高さはレヴィ君のお墨付きだし、私も実際に見たことがあるから知ってる。それだけじゃない、あなたは環境の如何に拘わらず、知を求め続けた。自らの力で人生を拓いた」
 メイベルの手を、アーシェが強く握った。光の灯った緑の瞳は、情熱に爆ぜて輝いている。眩しいはずなのに、目が離せない。
「私には、私たちには、あなたが必要なの。絶対に!」
 正義を手放して放浪を始めたのは、役割から解放されたから――誰にも必要とされなくなったからだ。他人の思惑に縛られず、また他人のことを常に慮らなければいけないということもなく、自分の望むままに、自分のために生きた八年。それは幸せな日々だった。
 けれども、それは人に求められることが煩わしくなったということではなかったのだと、たった今わかった。メイベルの中にほんの少し残り、隅に追いやられていた感情が、ようやく声をあげた。
 八年、いや、もしかしたら三十年以上。幼い子供のまま取り残され、見ないふりをされてきた、「寂しい」という感情。それがアーシェの滑らかで温かな手に掬いあげられ、頬擦りをされる。
「……何故、私なんだ」
 無意識に戸惑いを隠すように、メイベルは俯いたまま尋ねる。
「私ではなくとも、より適任の人材がいくらでもいるでしょう」
「そう? 私、メイベルちゃんしか考えてなかったよ。あなたが十五歳のとき、“赤い杯”を巡る事件に関わってくれたでしょう」
 エルニーニャ王国の歴史的文化財である“赤い杯”は、南の隣国サーリシェリアとの友好を示す重要な品だ。大陸南部でのみ採掘される貴重な宝石でできており、これを巡って人が亡くなったこともある。
 メイベルは当時の仲間――イリス、ルイゼン、フィネーロと共に、これに関わる事件を扱った。忘れかけるほど遠い昔のことだと思っていたが。
「私はあのとき、文派が自らを守るための仕組みを確立させなきゃって強く思ったの。自分たちのことなのに軍に頼ると蚊帳の外。文派の古い人たちは助けてもらっているのに、軍が何をしてもまず文句。そういうのって、疲れちゃう」
 炭酸が上る金色の液体で喉を潤してから、だからね、とアーシェは継いだ。
「あのときから、私はあなたの強さに憧れていたのかも。軍にいるけど、単純に従属してる感じじゃない。自分のやり方を貫いていて、でも仲間を疎かにはしない。いよいよ私の権限で新しいことを始められるってときに、真っ先に思ったんだ。メイベルちゃんと一緒に仕事をしたいって」
 美しく微笑み、真っ直ぐにこちらを見るその人は、おそらくメイベルのことを買い被っている。十五歳当時は今にしてみればやはりまだ子供で、気に入らないものに反発しながら、他人を正義として信奉していた、その真っ只中だった。
 八年前にまとめて捨てた筈のものを、アーシェはどういうわけか大切に保管し、今こそ必要なのだと言う。いや、少し違うか。保管していたものはそのままに、多少変容した現在をこそ求めている。
 メイベル自身が否定と歪んだ肯定を繰り返してきた人生を、この人は丸ごと「必要だ」と言うのだ。
 彼女と彼女を取り巻くものの、大きな未来のために。
 そう悪い気もしないのは、熱意に絆されたからなのか、ホップの香りに酔ったからなのか、それとも思った以上にメイベルという人間が単純だったからなのか。
「すぐに返事をしなければならないだろうか」
「今年の春には立ち上げたいから、急ぐには急ぐわね。でもそういう慎重さがあるところも、私は好きよ。やっぱり隊長はあなたしかいない。私の目に狂いはない」
 勝手に納得して頷くその強引さは、かつて信奉した正義とは似て非なる。だが、この人のために戦うのは、必要とされて行動するのは、なかなか悪くない。
「私は人を束ねるのは不得手だが、それでも隊長をやれと?」
「できるできる。軍にいた頃に現場指揮やってたでしょう、実績はあるじゃない」
 何よりアーシェ・ハルトライムに対して、全く勝ち目が見えず、逃げようとしても逃げ切れない予感がしていた。彼女の狙いは軍人だった頃から百発百中だったのだ。

 誘いを受けてからもうすぐ丸五年。香りをたたせるためにあまり冷やしすぎていない、あの日と同じ銘柄のビールを飲みつつ、メイベルはアーシェに尋ねる。
「後悔はないか。私はやはり人を束ねるのは不得手で、せっかくあなたが選出した人員も次々に辞めさせた。残ったあなたの息子たちも随分こき使っている」
 アーシェは追加で頼んだ焼きトマトの皮を丁寧に広げて、柔らかい果肉をつついている。昔正義と定めていた女性が、小さな種を包むゼリー状の部分の食感が苦手なのだと食べなかったそれを、アーシェは躊躇いなく口に運び楽しむのだった。
「隊長はあなただから、あなたのやりやすいようにやってくれていいの。結果的には良い方に向かっているから、後悔なんてないわ」
 息子たちだって、と彼女は途端に母親の顔になって笑う。
「この五年が、あの子たちの人生で一番楽しそう。まあ、私から見てのことだし、まだ二十三年ぽっちのことなんだけど。上手に育ててくれてありがたいわね」
「上手に……というのは肯定しにくいな。相変わらず騒がしいし、最近ではステレオが同級生を加えてサラウンドになりさらに喧しい。奴らの良いリモコンになったアルバイトは、週末にはいなくなる」
「あ、そういうこと。それで寂しくなっちゃって、ひとりで飲みに来ちゃったんでしょう」
 無邪気に認めたくないことを指摘する彼女を、メイベルは遠慮なく睨む。今日一日の物足りない感覚の原因を、この人はずばりと言語化してしまった。出さずに抱えたままなら静かに消化できたものを。
 隊長、と呼ばれるのが、いつの間にか違和感なく染み付いていた。それぞれの特性に合わせて何を指示し、どう叱り、いかに適切に褒めるか。そういうことを考えるようになり、あまり悩まず実行できるようになった。
 育てられたのはこっちだ、とは口が裂けても言うものか。羞恥で顔を上げられなくなってしまう。
「不思議ね。メイベルちゃんは軍を辞めるのが早かったのに、ちゃんとレヴィ君に似てる」
 そんなことが頭を過ぎるのと同時にこんなことを言われたものだから、危うく高級ビールを吹き出すところだった。
「似てない」
「参考にはしたでしょう。癖の強い人を残してまとめて、上手に使って」
「それはあなたもだろう。私をわざわざ起用するんだから。ついでにあなたの弟もそっくりだ。前科者ばかり集めて雇って働かせているだろう」
「リーガル運送は社会貢献に積極的なのよ。今後ともご贔屓に」
「あなたはどの立場の人間なんだ。大文卿夫人で、元軍人で、商家出身で……」
「あら、わかってるでしょう。私は私。この世にたった一人のアーシェよ」
 話は逸らせたが、何故か負けた気がする。これだからこの人の部下は辞められない。


 アルバイト十九日目。報告書が完成し、ようやく溜まっていた通常業務を片付けることに専念できる。
 今日も今日とてデスクワークは俺とジョナスさん、外での調査は双子の仕事だ。メダル収集が一段落ついたので、リストにある他の未着手の物品について調べを進めるという。俺がもう関与できない仕事が始まっているのだ。
「だからって二人で行かなくたって。ノールが隊長代理なんじゃなかったのか」
 ジョナスさんはずっと文句を言っている。隊長は今日も不在、なので引き続きノールさんが隊長代理の筈なのだが不在。従って今日の隊長代理の代理は正職員であるジョナスさんだ。
 本当は在籍期間が長いトビ君に任せたいんだけど、とノールさんは言うが、俺は所詮アルバイト。それに在籍期間だって、俺とジョナスさんはせいぜい二週間程度しか差がない。
「お昼には戻ってきますから。それまで頑張りましょう、隊長代理の代理」
「トビ君、揶揄っているだろう。ああ、トビ君が短期アルバイトじゃなければな」
 そうしたら俺に代理の代理を任せられたのに、と冗談を重ねようとした。でもそれは遮られる。
「そうしたら、もっと一緒にいられたのに」
 あまりにも切実な声で、続けたものだから。
「……俺は、安心してここを去ることができるって思ってるんですよ。烏滸がましい考えですが」
 資料を整理し、番号を振って、順番に綴じる。単純な作業だけれど、間違いが起きれば原因を突き止めて再発防止に努めなければならない。また最初に資料を並べるときや、途中で気になったことがあったとき、どうしたら正確にその後の作業を進められるか、より効率の良い方法をとれるか。そういったことも考えなくてはならない。
 意外と繊細なこの作業を引き継いでくれる人がいる。俺よりもずっと速く丁寧にこなしてくれる。隊長や双子の負担は以前に比べて随分と減るだろう。
「ジョナスさんが俺の強引な勧誘を断らないでいてくれて、ここで働き続けてくれる。だから俺は何の心配もなく特殊部隊を離れられるんです。あなたには感謝してます」
「……そんな、僕は」
 順調に動いていたジョナスさんの手が止まる。けれども一呼吸おいて、また作業に戻る。目は資料の番号を確かめ、意識は仕事と、それから俺へと上手に分けているようだ。
「僕の方こそ、トビ君に感謝してるんだ。僕がどうすればいいのかわからなくなってしまったとき、居場所をくれたのは君だった」
「俺は連れてきただけです。あなたが選んでくれて、隊長が認めたんですよ」
「君がいなかったら選べなかった。僕は散々特殊部隊を見下してきたのに、そうすることが文派の人間として正しいんだと思ってたのに、……こんな醜い考えの僕に、君は手を差し伸べてくれた」
 見捨ててもよかった筈で、そうしても仕方がなかった。ジョナスさんはそう言うけれど、俺にはそうできなかった理由がある。
 彼を見捨てることは、いつか居場所を失うと、死ぬしかないのだと絶望した自分をこそ、見捨てることになると思ったのだ。だから俺の勝手で傲慢だったのだけれど。
「あなたにとって良い結果だったなら、俺も嬉しいです。隊長やノールさん、ジュードさんも助かってるようですし」
「そうだよ、良いことだったんだ。君に会えて、本当に」
 また手が止まったと思ったら、どうやら資料を綴じ終えたらしい。俺もあと書類を五枚ほど確認すれば終わる。
 ジョナスさんは次の資料束を持ってこようとして、立ち上がりかけ、やめた。そうして数秒、逡巡したようだった。
「トビ君。最初に君に会ったとき、特殊部隊のアルバイトに来るなんて変わった子だなと思ったんだ」
「そう仰ってましたね」
「それが昨年の秋。今年になってまた会えたとき、やっぱり変わり者だなと思ったけれど、同時に嬉しかったんだ。再会できた、また炊事場に来てくれたって」
 彼が特殊部隊を、大文卿夫人も含めて痛烈に批判していたときのことだ。正直なところ、俺の彼への印象は良くなかった。どうして酷いことを言うのかを考えてみて、もしかしたら俺へは親切にしてくれているつもりなのかもしれないと思ったっけ。
「僕はそのときから、君のことが好きだったんだと思う」
 窓を開けてもいないのに、空気の流れが変わった気がした。どうっと吹いた風に、体が押されたような。
 彼の気持ちはわかっていたつもりだ。一週間前には随分とあからさまになっていたし、買い物に誘われた意味だって想像できていた。
 可能な限り柔らかく突き放さなければと思っていた。どうせすぐに別れが来るのだし、俺には叶わないけれど好きな人がいるし、それに。
「恋をしたとはっきり感じたのは、君が一緒に泣いてくれたときだ。でもその前から、僕は君が気になっていた。そして先日、僕の想いは叶わないのだと悟った」
 俺の精一杯のやんわりとした拒絶は、しっかりと彼に伝わっていた。その理由までも商店街での一件で知られてしまった。
「男性にそういう感情を向けられるの、君は嫌だろう。当然だよね」
「少し違います。性別は関係がなくて、とにかく相手から欲求の対象として見られているかもしれないと思うことが怖いのであって。なので正しくは恋愛感情とも関係ないんです。でも俺が、俺の問題で、一緒くたにしてしまいそうで」
 だから、あなたの気持ちに応えられずに、より深く傷つけてしまうことが怖いんだ。そんなことを上手く言えなかったけれど、彼には伝わったようだった。
 深く頷いてから、普段に近い明るい声で訊ねる。
「トビ君、恋をしたことは? 好きな人はいる?」
「……います」
「じゃあ大丈夫。君は人を傷つけたいわけじゃないんだ。恐れるようなことは無いよ」
 安心して、自分の気持ちを大事にするといい。ジョナスさんはやっと立ち上がり、資料束が積んである机へと向かう。俺も残っていた数枚に目を通し、ナンバリングの誤りがないよう確認した。
 自分の分を綴じ終えたところで、またジョナスさんが俺に話しかけてくる。今日の昼食は何にしようか、というのと同じ調子で。
「ねえ、トビ君。僕は君を口説き続けてもいいかな」
「……口説くんですか」
「君に好きな人がいるのはわかった。だから君は相手を好きになることはできる。そして僕が君を好きなのは何かしたいというのではなくて、ただ君のことが好きなんだ。大切にしたいんだ」
 守れなかったことが悔しかったくらいに、と彼は困ったように笑う。
「その気持ちを伝え続けても良いだろうか。それで少しでも君の心を動かせることを、目標にしても」
 彼独特の理屈なのか、それともこういうやり方があるのを俺が知らなかっただけなのか。ともあれ、他人の気持ちを封じることは俺にはできないし、彼もまた俺の心を束縛することはできない。
「それは、どうぞご自由に。お応えはできないことを承知していただけるのであれば」
「もう何度でも振るのが前提だね。それでもいいよ。僕は君に諦めろって言われるまで諦めないから」
「人生を棒に振っても知りませんよ」
「それは僕が決めることだ」
 いつか隊長が、俺の恋を難儀だと言ったけれど、この人も大概難儀だ。
 その難儀を進んで抱えるところに魅力を感じてしまうあたり、やはり俺は変わっているのかもしれない。

 昼食はにんにくを控えめに、豆と挽肉をたっぷり使った、スパイシーなチリビーンズ。ジョナスさんが揃えた調味料を使わせてもらうようになってから、メニューのレパートリーが増えて楽しい。
 調査から帰ってきた双子も、肉をおまけしてさらにソーセージをつけてあげると大層喜んだ。
「トビ君のご飯も明日が最後だね」
「トビ君のご飯をずっと食べていたかったな」
「僕も作ってることを忘れるなよ」
 ナスコンブのも美味しいけどさ、トビ君のはなんか優しいから、ナスコンブって言うな、……。この賑やかさももうすぐ終わってしまう。
 クラウンチェットの家に帰れば、弟妹と両親がいる。賑やかで楽しい家だ。けれどもここにあるものとは違う。
「トビ君、しんみりしちゃった?」
「トビ君、寂しくなっちゃった?」
 気持ちは表情に出てしまっていた。俺の顔を覗き込んだ双子は、いつもと変わりないように見える。
「それはそうですよ。明日でおしまいなんですから」
「まあ、一旦はね」
「でも呼べばまた来てくれるでしょ?」
 次の仕事も大変そうなんだ、と口を揃える彼らに何と返したらいいのか。言葉を探していると、ジョナスさんが双子を俺から引き剥がした。
「トビ君が困っているだろう」
「大丈夫ですよ。困ってはいないです」
 ただ、と言うと、三人が俺を注視した。続きを促し、食事の手が止まる。昼休みの時間は、隊長がいないとはいえ限られている。
「ただ、ちょっと考えていることがあって。それを実行できるとしたら、しばらくはこちらに来られないかもしれません」
 曖昧なことばかり口にしていると、ますます視線が気になる。別に隠すようなことではないのだけれど、まだ気恥しさがあるのだ。
 でも聞いてほしい気持ちもある。やりたいことができたのは、この人たちのおかげでもあるのだから。
「笑わないでくださいね」
 深呼吸をして、彼らに向き合う。――俺のなりたい、未来の姿に。
「俺は、ちゃんと勉強したいんです。学問の基本を……学校で教わるようなことを」
 この国の教育は、人によって環境も学ぶ内容も異なる。学校に通い基礎から応用までを教わる人もいれば、家庭で教育を受ける人もいる。軍などの専門的な環境で必要な知識を得る人、商人や職人など知恵や技能を受け継ぐ人も。一方で教育を受ける機会に恵まれず、生きていくためにただ必死に頭を働かせなければならない人だって存在する。諦めて道を踏み外したり、他人に利用されることを受け入れてしまったり、あるいはそれすらもできずに斃れてしまう人も残念ながらいるのだ。
 その中で俺は、もう死ぬしかないという状況から救い出された。そうして家で手伝いをするというかたちで、学びを得ることができた。字の読み書きもできるし、計算だって家計簿や父の仕事の帳簿を手伝えるくらいにはできる。生きていくには困らない知識を持っている。それで十分だと思っていた。
 けれど、それはまだ狭い世界の中で。より広い世界があり、もっと見たい、知りたいと思うのなら、ただ生きる以上の学びを、人の教えを、あらゆる物事の理を知る必要があるのだとわかった。俺は幸運にも、それに手を伸ばすことが、触れることができる位置にいる。
 ノールさん、ジュードさん、ジョナスさんは学校に行き、卒業して、人から教わるということを経験している。語学や数学、歴史や科学といったことのみならず、集団生活の中での振る舞いや、世の中にはどんな人がいるのかなどをその身で学んだ。そうして自分の適性というものも知ったのだろう。
 隊長だってそうだ。あの人は自分の置かれた環境で人生を諦めるということをしなかった。軍を辞めてから学問を修め直すことさえした。学びはいつからでも、手を伸ばしさえすれば触れたところから、始められる。
 俺にはこの先、何ができるだろう。何がしたいだろう。ここにいる人たちを見ていると、常に考えさせられた。知識はまだ浅く中途半端で、力もそれほど強くはない。本から得たものを繋ぎ合わせながら物事を考えるが、実物を一見するには及ばない。仕組みがわからなければ納得に至らない。
 俺はもっと、世界を知りたい。自分が生きている、生きていきたい、この世界のことを。一からしっかり、丁寧に。
「その道の人に教えを乞うことから始めようと思うんです。だからまず、学校を受験してみようかなと。両親に相談しなければ先には進めませんけど。どこに行ったらいいのかも検討したいですし」
 あまり器用ではないから、いくつものことを並行して取り組むのは難しい。しばらくは自分の進路に集中したい。
 そこまで一気に話してしまい、自分が興奮していたことに気がついた。いつの間にか長い前髪も耳にかけていたようで、右目の視界が広かった。
「……トビ君、それさあ」
 話し終えてから一番最初に口を開いたのは、ジュードさんだった。
「おれたちに甘えてくれていいんだよ」
「……甘えるって、どうやって」
 首を傾げた俺に、彼はじれったそうに「だからあ」と言って飛びついてきた。豆が残っている皿が落ちたのを、ノールさんが見事にキャッチする。
「学校とか勉強とか、そういうのはおれたちの方がちょっとだけ詳しいんだってば! 相談してくれたら一緒に考えるよ!」
「あの、それはちょっと、恥ずかしくてですね」
「何を恥ずかしがることがあるんだよ、おれたち仲間じゃん!」
 肩を掴まれ揺さぶられる。誰も止めてくれない。三人とも同じように思ったのだろう。
 恥ずかしいのは学びたいということではなく、今更ということでもなく、ただの俺の意地や見栄なのだ。特殊部隊の人たちを尊敬しているからこそ、言い出せなかった。
「……笑わないでくださいよ」
 もう一度約束させる。でも、笑ってくれて構わない。それだけ俺は彼らよりも、年齢も思考も子供なのだ。
「次に戻ってきたとき、みなさんが知らないうちに色々できることが増えてたら、なんかかっこよくないですか」
 顔が熱くなる。幼稚だと笑われることを覚悟した。だが、いつまで経っても思ったような反応はない。
 ジュードさんは納得したように頷きながら俺を解放し、ジョナスさんは「成程」と呟き、ノールさんはにっこりした。
「おれもそう思ってたなあ。ここで働き始めた頃とか、隊長に良いところ見せたくてさ」
「そうなんですか」
「そうだよ。おれとノールは落ちこぼれからのスタートだから、隊長に隠れて修行したり、残業もたくさんしようとしたり」
 色々試したね、とジュードさんも言う。
「僕はそれ、現在進行。通信機器を使うために本を読んだり自主練したりしたよ」
 ジョナスさんも告白をして、双子がそうなんだと声を揃えた。
「残業したら隊長に怒られたけどね。電気代がかかるからさっさと帰れって」
「ナスコンブにも見つかるとうるさく言われたよね」
「当たり前だろう、文化保護機構は全体的に割り当てられた予算が少ないんだ」
「とにかく、みんなそうやって色々やってみてるんだよ。トビ君はそれを、じたばたしててカッコ悪いって思う?」
 ノールさんの問いに、首を横に振って即答した。格好悪くなんてない。むしろその努力は俺の憧れを一層強める。
「何でもサッとできる人は確かにかっこいいよ。でも頑張ってる姿だってかっこいい。そしておれたちも、トビ君にとってかっこいい先輩でいたいんだよね」
「ご飯作ってもらってたから、そのお礼もしたいよね。おれたちの行動力で、学校の資料もぱーっと揃えちゃうよ」
「君たち双子は本当に集めるだけだろうから、僕が整理してあげるよ。トビ君にその方法を教わったからね、活用しないと」
 頼ってよ、と手が差し出される。躊躇う理由なんかない。この手が俺を導いて、新たな選択肢をいくつも見せてくれるのだ。
「……では、よろしくお願いします」
 俺は彼らと、彼らの仲間になれた俺自身を信じている。

 その日の仕事を終えて帰路につく。空は晴れていて、この好天がしばらくは続くらしい。流星群もきっと綺麗に見られるだろう。
 明日、早めに職場へ行ってサングリアの仕込みをするつもりだ。手際良く済ませたら、その後執務室の掃除もしよう。定時まで仕事をしっかりして、夜にはみんなで空を見上げる。
 それが今回のアルバイトの、最後の思い出になる。明後日にはクラウンチェットに帰り、父と母に学校のことを相談するのだ。
 ノールさんとジュードさんは、あの後また調査に出かけ、ついでに首都とその近郊にある高校の資料をかき集めてきてくれた。整理するのは明日にしよう、とジョナスさんも呆れつつ張り切ってくれている。
 今のところ、彼らのお薦めは首都にある学校のどれかで、しかしレジーナ大学附属の高校には誘い難いといったところらしい。学力は申し分ないと思うけど校風が、とそこの卒業生である彼らは遠い目をしていた。
 首都内の学校を推すのは、そうすれば頻繁に会う機会を設けられるからということだ。あわよくばまたアルバイトを、今度は長期で、と目論んでいる。
 思っていたよりもたくさんある学校から絞り込むには、もう少し時間が必要そうだ。資料は引き取って、実家に送ってから考えよう。
 そんなことを思いつつ歩いていると、正面から見知った姿がやってくるのが目に入った。
「隊長、お疲れ様です」
「トビか。定時に帰れたようだな」
「はい。隊長も帰るところですか」
「ああ、疲れたから帰って寝る」
 街灯に照らされた琥珀の髪を掻き上げると、目の下に濃いくまが見える。余程疲れているのではと心配すると、隊長は平坦な声で別にと言う。
「他人との作業が面倒だっただけだ。でももう終わった」
「鑑定はもういいんですか」
「ああ。今から資料室に戻って、明日は一日いる」
「今から? でも帰って寝るって……まさか寝泊まりする気ですか」
 隊長はやはり、資料室に住み着いているのではなかろうか。資料が積み重ねてあるソファに寝ては、十分に疲れが取れないのでは。
「家、あるんですよね?」
「一応部屋を借りているが、書庫としてしか使っていない」
「今日の食事は? 夕飯はもう召し上がりました?」
「食わなくても死にはしない」
 早く帰れよ、と俺の横を通り過ぎようとした隊長の手を掴んで引き留める。怪訝そうな機嫌が悪そうな表情がこちらを見下ろした。
「まだ何か用があるのか」
「あります。夕飯、一緒にどうですか」
「構わないが」
「じゃあ行きましょう、俺の祖父母の家に」
 逃げたそうにした隊長を、俺は無理やり引いて帰宅した。玄関に出てきてくれた祖父母は一瞬目を丸くし、それから同時に破顔した。
 リビングに隊長を連れて行き、席に着かせる。落ち着かない様子なので先にお茶を淹れ、それから俺は台所に立った。
 今日は魚料理のようだ。野菜やきのこと一緒に蒸して、塩胡椒とレモンでさっぱりと食べる。脂っこいものが苦手な隊長でも食べやすいだろう。
「鑑定は順調か」
「今日終わりました。明日からは通常業務に戻り、回収したゼウスァートのメダルの鑑定にかかれるかと」
「そうか、苦労かけたな」
 祖父と隊長が話す声が聞こえる。背を向けているので二人がどんな表情をしているのかはわからないが、声色は穏やかそうなので安心した。
 同じ調子のまま、隊長が言う。
「トビを危険にさらしてしまい、大変申し訳ございませんでした」
 後半はくぐもっている。深く頭を下げたらしい。違う、と言おうとして振り向いたが、その前に祖父が同じ言葉を口にした。
「違うな。オレも話は聞いてる。トビは自分で考えて行動したんだ。そうして無事に帰ってこられたのはあなたのおかげだ。隊長、あなたはちゃんとトビを救ってくれた」
「救ってなんかいない。私は……結局ゼウスァート閣下のようにはできなかった」
 あの人ならもっと上手くやっていた。隊長は俯いたまま呻く。
「トビの機転がなければ乗り切れなかった現場です。巻き込んだ側の私たちよりも余程上手く立ち回っていた。彼は父親によく似ている」
「あなたが人を褒めるとは。トビ、お前は凄いな」
 祖父がこちらに笑いかける。頬と耳に熱を感じて、俺は慌てて調理に戻った。
 隊長は誰に対してもお世辞を言わない人だと思っていた。皮肉はたっぷり浴びせるけれど、祖父とのやりとりにはその響きがない。つまり俺は、この短い期間でまあまあ隊長に認めてもらったのだろう。
 そして隊長は俺の父を――いつか「気に食わない」と言っていた前大総統を、俺が思うよりも尊敬していたのかもしれなかった。
「顔を上げてくれないか、ガンクロウ隊長。オレはうちの孫が世話になったのがあなたで良かったと思っている」
 祖父の呼び掛けに、隊長は応えたのだろうか。何故、と問う声は先程よりもはっきり聞こえた。
「トビは何でもそつなくこなすでしょう。私で良かったということはないと思いますが」
「あるよ。あなたは本を読むからな。トビの唯一の趣味と一致する」
 唯一、という部分に隊長は疑問を持ったようだった。が、祖父の言うことは正しい。あらゆることを必要だからと身につけたけれど、ただの読み書きではなく本を、特に物語を読むことだけは、俺が望んでやっていることだ。
 架空の情報など、生きる上では必要が無い。少なくとも現実として知っておかなければならないことではない。それなのに求めるということは、同じように求める人がいるということは、そんな人と出会えるということは、実は奇跡なのかもしれない。
「……トビを勧誘したのは、初めて会ったときに持っていた本が、私の好みと合致したからだった。あまり若者が読むような作品ではないと思っていたから、気になったんだ」
 隊長との本の話は楽しかった。他の人とはなかなかできないような話もした。無愛想だけれど、隊長の読み解く物語の筋や芯、核のようなものは、道理が通っていて、感情豊かで、世界への愛があった。
 だから俺は、この人のことを信じられた。窮地に陥っても、必ず来てくれると。俺の持つ「道理」を読んでくれると。
「隊長」
 できあがった料理を盛り付けながら、呼び掛けてみる。
「俺を特殊部隊の一員にしてくれて、ありがとうございます」
 すぐに返事はもらえなかった。目を細める祖母が頷いたので、完成した大皿をリビングのテーブルへと運ぶ。
 すると隊長は顔を上げ頬杖をついていて、いつものように無表情のまま鼻で笑った。
「言いたいことは相手の顔を見て言え」
 自分のことを棚に上げているようだが、尤もなので俺は笑い、頷く。そしてもう一度、一言一句違わずに、気持ちを伝えたのだった。

 アルバイト二十日目、とうとう最終日。今までで一番早く家を出て、すっかり慣れた道を歩いた。
 文派の施設が集まる地区の、一番大きな文部事務所のさらに奥。旧文部事務所の建物は、入口に「文化保護機構」と書かれた大きな札がある。
 この中の二部屋を使わせてもらっている、俺の所属する部署。文派の中でも立場や仕事内容が特殊な、異端の職。
 エルニーニャ王国文部管轄文化保護機構特殊事項対策部隊――通称「文派特殊部隊」。それが俺の働く場所の名であり、俺の居場所だ。
 執務室の鍵は既に開いていた。隊長はやはりここに戻ってきて、隣の資料室に泊まったのだろう。夕飯を食べさせて良かった。
 荷物を置いたら炊事場へ。先日ここに運び込んだ果物の残りを、切ったり剥いたりして鍋に入れる。オレンジを輪切りにして皮を剥く。白くて苦いわたは、免疫力が上がるんだっけと思い出して少しだけ残した。リンゴは皮を全部繋げて剥いて、くし切りに。そっくりで少し違う大きさが並ぶ。
 スパイスはシナモンスティックと生姜、後で店の人がお見舞いにくれたクローブ。程良い癖と良い香りがつく筈だ。琥珀のような色の蜂蜜も少し垂らした。
 そこへ濃くて甘いぶどうのジュースをたっぷり注いで、夜まで置いておく。蓋をする前に、甘くて酸っぱい香りを吸い込んだ。
 仕込みが終わったら片付けをして執務室に戻り、丁寧に掃除をする。資料の山が築かれる机も、お客様を迎える応接スペースも、しっかりと磨き上げる。
 不意に、コーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。毎朝隊長が用意するらしいコーヒーサーバーは、俺が炊事場にいる間に働き始めたようだ。
「あ、トビ君だ。おはよう!」
「あ、トビ君だ。早いね!」
 ノールさんとジュードさんが到着して、ステレオの挨拶が響く。おはようございます、と返して時計を確認した。
 ジョナスさんが来たのは始業五分前。いつもより遅かったのは、手に提げているバスケットのせいらしかった。
「おはよう。これ、夜のおつまみに」
「作ってきてくれたんですか?」
「楽しみだったんだよ。つい色々やりすぎてしまった」
 中が気になったけれど、まずは今日の仕事だ。バスケットは犬か猫のようにまとわりつく双子を躱しつつ炊事場に急いで運び、戻ってくるとちょうど資料室の扉が開いた。
「それでは、本日の業務の確認を始める」
 コーヒーサーバーの用意をしてくれた筈の隊長は、寝起きのように大きな欠伸をした。
 メダル収集の後に始めたのは、同じく博物館で来年秋に開かれる大規模展示のための仕事だ。今度は王宮の権威の復活にまつわる資料を集める。
「王宮関連は王宮で保管してるから楽だと思ったんだけど」
「軍と文派の絡みもきちんと紹介しなきゃいけないから、結局あちこち資料を探すんだよね」
 そう言って双子は今日も出かけていった。俺は双子が昨日集めた資料をいつものように綴じ、ジョナスさんは文献をベースに王宮関連の調べ物をしている。
 作業中に隊長がやってきて、先日作成した報告書について話した。
「よくできていた。日々の進捗からも感じていたが、文章が読みやすい」
「ありがとうございます。内容は指導してもらって書き直したんですが」
「感想文や反省文でも書いたか。逃げろと言ったのに逃げなかったこととか?」
 隊長は俺の考えなどお見通しだ。その通りです、と苦笑すると、鼻で笑われる。やはり無表情だった。
「それはそれで読みたかったかもしれんな。きっと丁寧な文がうじうじと書き連ねられていたんだろう」
「隊長、そういうのはお嫌いでは」
「苛立つ程度だ」
 報告書は大文卿夫人と軍の担当者にも送るという。こちらの報告を軍は認めてくれるだろうか。その答えは案外早く判明した。
「こんにちは、文派特殊部隊のみなさん。……って、ハルトライム兄弟はいないのね」
「ヨハンナ、どうしたの」
 軍人である俺のいとこ、ヨハンナ・グランはわざわざ報告書を引き取りに来たのだという。俺の書いたものの他に、隊長作成分、そしてヨハンナとやりとりをしていたジョナスさんに確認してもらうものもあり、直接出向く方が早いと判断されたのだった。
「あたしも報告したいことがあるし。スロコンブさん、あなたとの仕事であたしの通信試験の合格が決まったの」
「へえ、それはおめでとう。で、中央への異動は?」
「そっちはまだ。でもあたしはもう春から中央で働くつもり」
 彼女も順調に目的を達成しつつあるようだ。異動が決まったら先日の指揮を務めたクラシャン大佐につくのかと訊ねると、眉間に皺を寄せたが。
「それはまだわからないけど、あたしとしては遠慮願いたいところ。大佐、あなたたちに伝えるべき情報をいくつか省いてたからね。そのせいでトビは変態野郎に絡まれるし、現場の軍人の負傷も多くなったし。出世がかかってた案件だったけど、今回は流れたみたいよ」
 どうせまたすぐチャンスは巡ってくるだろうけど、とつまらなそうに言うあたり、ヨハンナはクラシャン大佐があまり好きではないのだろう。
「それより、エスト准将が追ってる連続殺人犯。あっちの捜査に加わりたいなって思ってるの。あたしが来る前に解決すればそれでいいんだけど、長引いちゃったらガンクロウ隊長も協力するんですよね?」
 期待で輝くヨハンナの瞳から目を逸らし、隊長は小さく舌打ちした。だって交換条件なんでしょう? とヨハンナはさらに迫る。
「補佐大将が仰ってましたよ。本件に席を用意するかわりに、エスト准将の仕事に協力してもらうんだって。大将としては本件で実績を作って、隊長を今後も軍に協力させやすくすることを狙ったみたいですね」
「ルイゼンめ、べらべらと余計なことを……」
「いいじゃないですか。隊長が協力するなら、あたしも是非一緒にお仕事したいです。隊長みたいなクールビューティになりたいので!」
 あの隊長が二まわり近く年下の女の子に圧されるなんて。気の毒だが、少し面白い。思わず笑ってしまい、気付かれ、鋭い眼光に睨まれた。
 帰り際、ヨハンナが俺にかけた言葉はあっさりしていた。
「トビ、ここでの仕事は今日までなんでしょう。伯父様と伯母様、サシャとフィーにもよろしくね」
 さよならもまたねもない。辛気臭いことやお別れが、彼女は好きではないのだ。

 最後の昼食は、魚の缶詰と野菜のスライス、そしてチーズを挟み込んだホットサンドにした。ジョナスさんが道具を持ち込んでくれて、二人で作った。
 調査から戻った双子は満足気に頬張り、週明けからは自分たちの肉や魚を多くするようにとジョナスさんに要求していた。もっと野菜を食べるようにと言い返されていたけれど。
 隊長はもっと胡椒がきいていてもいいと呟き、俺は以前隊長のために胡椒を二種類使ったことを思い出した。
 俺がいなくなった後は、引き続きジョナスさんが昼食を作る。当番制に戻して動物のエサみたいな食事になるのはごめんだと悪態を吐きながら、一人で四人分を作ることを引き受けてくれた。
 午後は双子もデスクワークに加わり、執務室が賑やかになる。仕事が倍速で進むわけではなく、ただただ双子の「飽きたー」「眠ーい」とジョナスさんの「うるさい」が繰り返され、たまに資料室から出てきた隊長の「喧しい」が重なる、それだけのことだ。
 サラウンドを聴き納め、あっという間に残り十分。進捗は今までで一番丁寧に書いた。俺が何をどこまでやったか、どこまでやれたかが、わかるように。
「ご苦労だったな、トビ」
 隊長の言葉で、俺の一ヶ月の仕事は締め括られた。

 炊事場で温めたサングリアを保温ポットに移し、おつまみの入ったバスケットと共に外へ持ち出す。車で移動し、首都の外れまでやってきた。
 首都レジーナは建物がたくさんあり、街灯も明るい。しかしその周囲は未開発の荒野が広がり、隣の町はその向こうにある。
「開発が進まないのは」
 ピンに刺したオリーブの実を弄びながら、隊長は空を見上げる。俺もその隣で星を眺めているが、流星はまだ見られない。
「開発反対派が首都に多いからだ」
「何故ですか。首都の方が大きな企業が多いんですから、便利な交通手段は必要では」
「自然を守りたいと主張する人間も多いんだ。人口が多いから、割合として少なくとも人数はいる」
 だが自然とは何だろうな、と隊長はいつもの笑い方をする。結局は自分たちの都合、上から目線での考えじゃないか、と。
「首都と他の町が切り離され、行き来が容易でないと、経済や教育に格差が生じる。そのくせ首都の上層の人間は、『統一されたエルニーニャ』の夢を捨てない。滑稽だな、すでに統一も何もあったもんじゃないのに」
 ポットからサングリアを注ぎ、温かい紙コップを隊長に渡した。それから自分の分も注ぐ。
「統一がどういう状態を指すのかは、俺はまだ勉強不足でよくわかりません。でも、クラウンチェットに住む俺が首都で素敵な人たちに出会えて、やりたいことを見つけられた。それって統一に近づくひとつのかたちじゃないでしょうか」
 隊長がコップに口をつけ、甘い、と顔を顰めた。蜂蜜を入れすぎただろうか。
「首都から地方へ歩み寄らなければ、力関係が勘違いされたままだろう」
「じゃあ、隊長や父が首都を離れたみたいにして、もっとたくさんの人が地方の発展に力を入れれば」
「首都に還元されなければ放っておかれるだろうな」
「えー……なかなか難しいですね」
「首都の傲りと地方の意地が衝突する以上はな」
 一筋縄ではいかないものさ。隊長はそう突き放すような言い方をするが、諦めてはいないのだろうと思う。
 そうでなければ、特殊部隊の隊長という立場などからはとうに離れているだろう。この人は自由というものを知っている。
「トビ、学校に行きたいそうだが」
「聞いたんですか」
「ああ。私は首都には来ない方がいいと思う。いっそどこか遠くで、ひとり暮らしでもしてみたらどうだ」
 双子やジョナスさんとは真逆のことを言う。そうか、ひとり暮らしをしてみるというのもありなのか。知らない土地で、知らないことに触れるというのも。
 でも、これは俺の人生だから。
「参考にさせていただきます。選択するのは俺なので」
「当然だ」
 再び空を見上げようとして、後方から「トビ君」「隊長」と呼ばれた。先程から星座盤や方位磁石を見てああだこうだと騒いでいたノールさん、ジュードさん、ジョナスさんが、天を仰いでいる。
「こっちの方が見易いよ」
「さっきからいくつか流れ星が見えてる」
「トビ君、おいで。流星じゃなくても、この方角の星は明るくて綺麗だよ」
 澄んだ冬の空に、初めて光の筋を見た。一瞬のことだけど、確かに瞼の裏に残った。
 家族と共に見た景色と、さほど変わらない筈なのに、全く違う空のようだ。忘れないように、無くさないように、焼き付けた画には番号を付けて、心の中に丁寧に綴じた。


 エルニーニャ王国文部管轄文化保護機構特殊事項対策部隊に新しく割り当てられた部屋は、資料室の向かいだ。部署設立当初に使っていた部屋を再び使えることになり、さらに今まで使用していた執務室も継続して使用許可がおりた。こちらは専用の会議室となる。
 というのも、年始の「ヨロモ会捜査」に続いて夏の「作家連続殺人及び誘拐事件」の解決にも文派特殊部隊が協力し、さらに軍との連携を深めるべく会議や相談の機会を頻繁に設けることになったのだ。
 上階の文化教育部には初めこそ迷惑がられたが、こちらも次第に軍との関わりが増えているためか、互いに態度が軟化している傾向にある。
「アーシェおば様が動きやすくなるのに、部署を立ち上げてから五年かかってるのね。まだ途上ではあるけど」
 新しい、というより取り戻した部屋に荷物を運び入れながら、エイマル・ダスクタイトは溜息を吐いた。憂いではなく、感心の。
 大陸内外各地の探検と、ついでに軍に協力しての薬物捜査を生業としている彼女は、エルニーニャに戻っているときにはあちこちでアルバイトをして旅の資金を稼ぐ。加えて今回は本の執筆もあったが、今まで度々そうしてきたように、文派特殊部隊でのアルバイトもしている。
「新しい人が来るのに、机と椅子は新調できなかったんだね」
 会議室の設備もお古を貰っただけだし、とエイマルは率直に事実を述べる。
「おれたちがいくら活躍しても、予算は無いままだからね」
「軍との関係が良くなると、文派の重鎮には嫌われるからね」
 父様が言っても古い人たちは聞いてくれないし! とノールとジュードも事実で返す。文派全体としては相変わらずの超保守志向なのだ。
「早くジュードが大文卿になったらいいのにね。そうしたらノールもおば様の仕事を引き継いで、二人で新しいことばんばんやれるのに」
「まだ先だね」
「遠い未来だね」
「そうかな。きっとすぐだよ」
 時間が経つのなんてあっという間だよ、とエイマルは微笑む。彼女が生まれてからの三十年は、アーシェが文派特殊部隊の構想を持つきっかけの事件からの年数とほぼ同じだ。その事件のせいで、彼女は祖父と呼ぶはずだった人に会えなくなってしまった。さらにはその事件の真相が明らかになっていく過程で、実父を「お父さん」と呼べない年月をも経験した。
 あっという間で、けれども、やっとここまで来た。誰かが心を痛めるようなことを、繰り返さないための道。果てしなく長い道程を、たくさんの人がバトンを受け継ぎながらやってきた。そして、これからも。
「ところでノール、ジュード。新しい人ってあなたたちから見てどんな人? イリスちゃんやニール君から話だけは聞いてるけど、まだ一度も会ったことないのよ」
「新しいというか帰ってくるというか」
「美味しいご飯がまた食べられるかもというか」
 どういうことよ、と首を傾げていると、廊下から良い香りが漂ってきた。それこそ美味しいご飯の匂いなのだけれど、双子はあまり喜んでいない。
「一旦休憩しよう。たまごと甘辛いチキンのサンドイッチです」
 部屋に入ってきたジョナスは、サンドイッチののった皿を三つ載せたトレイを運んでいた。そして迷いなく双子にそれぞれ皿を渡す。
「ナスコンブ、チキンいないよ」
「ナスコンブ、これただのたまごサンドだよ」
「君たちは野菜をちゃんと食べなよ。はい、こちらがエイマルさんのです」
 エイマルの分にはちゃんと玉子と新鮮な野菜、そして香ばしく焼いた鶏肉が挟んである。だが双子に与えられたのは確かにただの野菜たっぷりのたまごサンドのようだった。
「ナス君、隊長は?」
「ナスって呼ばないでください。食事は先に資料室に運びましたよ」
「あ、いるのね。隊長のサンドイッチの鶏肉は蒸したやつ?」
「そうですよ。よくわかりましたね」
 特殊部隊の昼食をほぼ毎日用意しているジョナスは、人の好みに合わせて具材や味付けを少し変える。そんな手間をわざわざ、とエイマルは驚いたのだが、彼は「前任者がそうだったので」とさらりと言ってのけた。
 以前にエイマルがアルバイトに来たときとは、特殊部隊の雰囲気は明らかに違っている。隊長と双子の三人で回し、昼食も味気なかった日々が嘘のようだ。どうやらジョナスという新メンバーを加えるよりも前に、変化は訪れたらしい。
 それは気まぐれがきっかけだったかもしれない。あるいは導かれた運命だったのかもしれない。何とでも表現できるが、確かなのは現在が「良い」ということ。
 予想できるのは、これからもっと「良くなる」ということ。
 昼食を終えてから、ガンクロウ隊長が執務室にやってきた。広くて慣れない、廊下を横切るのが面倒だ、と文句を言っている。
「じきに慣れますよ。午後も引き続き荷物の搬入ですか?」
「その前に連絡がある。入って来い」
 部屋の外に向かって隊長が呼びかける。すると少年がそっとこちらを覗き込み、開口一番「うわ、思ってたより広い」と感想を述べた。
 歳の頃は十代後半。晴れた夜空の色をした髪と、昼の晴天の色の左目。前髪に隠れた右目は、よく見ると秋の木の葉にも似た深紅だ。隊長の隣に並んだ彼は背筋を伸ばし、微笑んで、はきはきと名乗る。
「トビ・ハイル、レジーナ第三高等学校一年生です。来週からこちらで長期のアルバイトをさせていただくことになりました」
 よろしくお願いします、を言い切らないうちに双子が彼に飛びつく。ジョナスが彼を見つめる眼差しは愛しげだ。隊長は僅かに口角が上がっている。
 ああ、なるほど。エイマルは全てに合点がいき、同時にこの場所はこれから長く守られ、この国にあり続けるだろうと悟った。


 首都の学校に秋学期から編入する。そのことはクラウンチェットに戻ってから、思ったよりも早く決まった。
 いくつか模擬試験を受けてみて、俺の学力は思ったより高くはなく、国内最高峰であるレジーナ大附属高校は想像以上に難しい進路であることがわかった。
 アーシェのとこの双子だって勉強できるもんな、と父は言っていた。双子は自らを落ちこぼれだと評していたが、それはあくまで彼らが通っていた学校での話であり、国内全体から見れば十分にトップレベルなのであった。
 というわけで俺は結局、首都にある上位の学校を目指して勉強を始めたのだった。
 特殊部隊でまたアルバイトをさせてもらいたいという希望があったため、首都という点だけは譲らなかった。そのかわり隊長の案をひとつ採用した。ひとり暮らしを始めたのだ。
「祖父母宅とそんなに離れていないので、完全に独立しているとは言い難いんですが。でもひとりはなかなか悪くないです。本をたくさん置いておけるし、キッチンが広めの物件にしたので自炊も楽しいですよ」
 挨拶ついでに新しい執務室の片付けを手伝いながら、これまでのことを話した。七ヶ月会わないと何から話していいのか迷ってしまうのではと思ったが、お喋りな人たちに対してその心配は無用だった。
「トビ君の家に遊びに行っていい?」
「トビ君の家にお泊まりしていい?」
「おい双子、トビ君に迷惑をかけるな。僕はちゃんと手土産を用意していくからね」
 相変わらずの賑やかさに、初対面のエイマルさんも加わっている。彼女は仲良いねえと言って笑っていた。イリスさんから話だけは聞いていたが、思った以上にきれいな人だ。
「トビ、例の件はどうなった」
 騒がしさが鬱陶しくなってきたのか、隊長が切り出す。俺は頷き、父からの伝言を告げた。
「ゼウスァートのメダルは、展示が終わったら引き取りたいとのことです。名前はもうないけれど、その血はサシャやフィーに流れてますし」
 ヨロモが所持していたゼウスァート家の建国二百五十年記念メダルは、鑑定の結果、本物であることが判明した。しかし真贋に関わらず、父は当初、引き取るつもりはなかったそうだ。もう自分がゼウスァートを名乗ることはないからという理由だった。
 しかし俺がアルバイトから帰ってきて、その話を聞いているうちに、考えが変わったという。かつてメダルが贈られたのはゼウスァート家で間違いない。だが。
 ――遠い昔に盗まれたものを、時を越えて命懸けで取り返してくれたのは、トビたちだもんな。子孫も一応いるわけだし、オレが持ってなきゃいけないものなのかも。
 そういうわけで、ゼウスァートのメダルはその末裔に還ることになりそうだ。ゆくゆくはサシャのものになるのではないか、と俺は思う。
「どうだろうな。長男はお前だろう、トビ」
「でも俺にゼウスァートの血は流れてませんよ」
「わからんだろう。お前の出自は明らかになっていない。全く関係がないという証拠はない。どこかで血が入ったが、薄くなり解析できなくなったということもなくはない」
 悪魔の証明だな、と隊長はにやりと笑った。それこそ都合のいい物語だが、想像するのは面白い。
 どうあれ、俺はトビ・ハイル。前大総統に拾われ、文派特殊部隊でアルバイトをする、現代の高校生だ。自分の人生は、これからも自分で選び、掴み取る。
 もちろん、たくさんの手に助けられ、導かれて。