ボクは何も信じない。
信じたって、どうせ裏切られてしまうのだから…
中央司令部の廊下を、一人の少年が歩いていた。
その少年は伸びた髪を後ろで束ねてポニーテールにしたオレンジの長い髪と、黒い瞳を持っていた。年齢はだいたい10歳前後。
少年は一冊の本を抱えて、そのまま廊下を歩いていく。そして正面玄関から外に出て、あるものを目指して真っ直ぐ歩く。
そうしてしばらく歩いてついた場所は、大きな木の下だった。
少年はそのまま木の下に腰掛ける。
そして
「やっと静かになりましたね…」
一人呟く。
この少年の名はクリス・エイゼル。階級は伍長。今年入隊した新人兵だ。
現在の時刻は午前10時。
本来ならば、少年はこの時間は低階級用の訓練を受けなければならないのだが、どうやらサボりらしい。
この場所は少年が入隊したばかりの頃に見つけた、数少ない自分が落ち着ける場所だった。ここなら人が来る事は滅多にないため、静かに読書ができる。
少年は先ほどから抱えていた本を、ゆっくりと開いた。
少年が読んでいる本は、有名な作家のベストセラーだった。
内容は、その作家の実体験を参考にして書かれたラブストーリー。
ある売れない小説家が事故で最愛の恋人を亡くし、その恋人に向けて自分の想いを綴った小説を書く。
小説家はその小説がきっかけで一躍有名作家の仲間入りをするが、やはり恋人が忘れられず、最後には恋人の後を追って自殺してしまう。
少年はしばらくそれを読んでいたが、徐にパタンと閉じた。
「…ありきたりな話ですね。何でこんなのがベストセラーになったのか、理解に苦しみます」
今までのベストセラーも、今回のものとなんら大差ない。クリスにしてみれば、ただつまらないだけ。
何の変化もない日常を、感じてしまうだけ。
科学技術、医療技術など文明はどんどん変化しているはずなのに、人間だけが変わらない。いや、変われないといったほうが正しいだろう。
人は、変わることを恐れている。
変わる事はそんなにいけない事なのだろうか?
なぜ人は変わる事を恐れるのだろうか?
答えは簡単、今まで行った事のない道を通るのが怖いのと同じ。
人は未知の領域を恐れる。
だから変われない。
何年たっても、学ばない。
同じ事を、繰り返す。
変わらない人生など、つまらないだけなのに。
「ホント、つまらない人生ですね…」
「何がつまらないんだ?」
「?!」
突然自分以外の声が聞こえて、クリスはとっさに声が聞こえた方、つまり前方を見た。そこには、長身の男が立っていた。
「珍しいな、ここに人がいるなんて」
男はクリスが自分を見た事を確認すると、満面の笑みを浮かべた。
バッチを見ると、緑。階級は少佐らしい。年齢は18歳くらいか。
その男は後ろできれいに束ねたダークブルーの髪と、海色の瞳を持っていた。
クリスは思わず
「……全身青」
と呟いてしまう。
その呟きは相手に聞こえてしまったようだ。相手は少し不機嫌そうにクリスを見る。
「初対面の人間にいきなり全身青とはなんだ、全身青とは」
「いや、ボクは見た目をそのまま表しただけなんですけど…」
そう言いながら、思考をめぐらす。
この色には見覚えがあった。
確かこの色をしているのは…
「あなた、インフェリア家の方ですか?」
クリスが訊くと、男は少し笑いながら答えた。
「ははは、初対面の人間はみんなそう言うんだよな。でも残念ながらハズレだ。俺はカーティス・イスタンルード。名前の通り、インフェリア家とは全く関係ない。もちろん軍人一家でもないぞ。インフェリア家と一緒なのは色だけだ。もっとも、それも一家全員がこの色な訳じゃなくて、俺だけがこんな色になっちまったんだけどな。おかげでインフェリア家の人間に間違われるから、結構面倒なんだよ。いやー、大変なんだな、有名な家の奴って」
彼は苦笑するが、どうやらまんざらでもないらしい。
「…で、少佐がこんな所になんのようですか?」
左官クラスなら今の時間はだいたい遠征任務をしているか、デスクワークをしているかのどちらかだ。こんな所にいるのはおかしい。
自分も人の事は言えないが…
クリスがそう問うと、カーティスは頭を軽く掻きながら答えた。
「いや、サボりがてら人を探しにな…」
「はぁ?」
一体何を考えているんだこの人は。目の前の人間は本当に左官なのだろうか?
彼の言葉に、クリスはただただ呆れることしか出来ない。
「…失礼します」
この人間は自分の苦手なタイプだ。早く離れなければ。クリスは足早にその場から離れようとする。
しかし
「ちょっと待った。まだ話は終ってないぞ」
呼びとめられてしまった。
仕方なく彼のほうを向く。
「なんですか?」
「お前、クリス・エイゼルだろ?」
「そうですが」
「やっぱりな」
クリスが答えると、カーティスは楽しそうに笑う。
「俺が探してたのはお前だよ」
「…は?ボクは少佐になんか用はありませんよ」
そう言うと、カーティスはさらに笑う。
「お前がなくても俺はあるんだよ。お前、今日の低階級用の訓練サボっただろ。今日だけじゃなく、入隊してからずっと」
「…それがなにか?」
「俺はその訓練の教官なんだよ。入隊試験上位のやつのな。つまり、本来お前が受けるべき訓練の教官は、俺なんだ。だから俺はお前を探して訓練を受けさせなきゃならない。わかった?」
カーティスはなお楽しそうに笑う。
クリスはだんだんついて行けなくなってきた。
ここはとにかくこの場から離れよう。
「事情はわかりましたけど、ボクは訓練を受ける気は無いんで。それじゃ」
クリスがそう言って歩き出すと、後ろから声が聞こえた。
「明日はちゃんと訓練来いよー!」
その声は、本当に楽しそうだった。
翌日、クリスはこの日も訓練をサボってあの木の下に来ていた。
やはりここは落ち着く。クリスは昨日読んでいた本を開いていた。
そして少し休憩しようと読んでいた本を閉じたその時
「よっ、またいたな」
聞き覚えのある声がした。
おそるおそる声のほうを見てみるとそこには…
カーティスがいた。
「またあなたですか。ボクに何か用ですか?」
不機嫌を隠そうともしない彼に、カーティスが呆れたように肩を落とす。
「それが上司に対する言葉か?まあ、いいけどな。とりあえず、訓練には出てくれよ。じゃないと俺が上司にしかられるんだから」
「…そんなの、ボクには関係無いですよ」
「まあそうだろうな。でも訓練を受けないとお前自身も困るだろ、強くなれないし…。
それに、そんなに突っ張ってたら友達出来ないぞ」
「別に強くなれなくたっていいですよ。なりたくて軍人になったわけじゃないですし。それに、友達もいりません。邪魔なだけですからね」
クリスはそう言うと、昨日のようにその場から立ち去った。
それを、今日は何も言わずにカーティスは見ていた。
それからというもの、クリスが行くところ行くところに、カーティスは現れた。
「なー、訓練出てくれよー」
「しつこいですね、しつこいと嫌われますよ。それと、ボクは訓練には出ません」
「そんな事言わずにさー」
「いいます」
こんな会話が連日続き、とうとう二人が最初に出会ってから、半年が経とうとしていた。
クリスはこの日の仕事を終え、自宅である寮に戻った。
「あらクリス君、おかえりなさい」
寮に入ると、寮母であるセレスティアが笑顔で出迎えてくれる。
それにクリスは「ただいま」と返して部屋に向かった。
クリスの部屋は男子寮の四階。1176号室だ。
長い階段を上がり、角を左に曲がる。ここまで来れば、部屋はすぐそこだ。
部屋の鍵を出してから部屋の方を向く。すると、自分の部屋の前に誰かが立っている。
一瞬部屋を間違えたかと思ったが、住み始めてからもう半年経つのだ。いまさら自分の部屋を間違えるはずが無い。
では部屋の前にいるのは誰?
クリスは言いようの無い不安を覚える。そして、その不安は見事的中した。
「あなた、人の部屋の前で何をしているんですか?!」
そこにいたのは、全身青。
カーティス・イスタンルードだった。
カーティスはクリスを見ると、笑顔で近寄ってくる。
「よお、遅かったな。訓練出ないくせに意外と仕事は頑張ってるんだな」
「人の質問にちゃんと答えてください!こんな所で一体何をしているんです!ここはボクの部屋ですよ?!」
クリスは本気で怒っていた。
どうして、この人は自分を一人にしてくれないのか。
どうして、こんな自分なんかをかまうのか。
しかしカーティスの次の一言で、その怒りは呆れに変わる。
「いや、夕食を一緒にどうかなと思ってさ。食堂になかなか現れないからセレスティアさんに聞いたらまだ寮に戻ってないって言うから、お前の部屋の場所聞いてこうして待ってたんだよ」
「はあ?」
一体この人は何を言い出すんだいきなり。
「なんでボクがあなたと食事なんかしなきゃならないんですか」
「まあいいじゃん。ちょっとお前とゆっくり話してみたかったんだよ」
「ボクは話す事なんかありません。それに…」
クリスは、今回はカーティスから逃れる自信があった。
なぜなら、こう言えばいいのだから。
「ボク、今日は部屋で食事を取ろうと思っていたんです。だから食堂には行きませんよ」
この寮にいる男子は、ほとんどが食堂で食事を取る。
カーティスはクリスもそうだろうと思い誘ったのだろう。しかし、クリスは料理ができる為週に一度は自分で食事を作り部屋で食べる。
本当は、今日はその日ではないのだがカーティスがそんな事を知るはずが無い。今回は絶対に逃げられる。
「そうか…困ったな」
カーティスは少し考え込む。
そして何か思いついたのか、ポンと手を叩いた。
「そうだ!じゃあご馳走してくれよ」
カーティスのこの言葉にクリスは驚いた。訊かなくても分かっているのだが、一応訊く。
「何をですか」
「決ってんじゃん、夕食」
「なんでボクがご馳走しなきゃならないんですか!」
「だってそうしないとお前と話せないし。べつにいいじゃん。俺とお前の仲だろ」
「ボクはあなたとそんな仲になった覚えはありませんよ!」
クリスは言うが、カーティスの表情を見るとどうやらゆずる気はないらしい。
諦めるしか…なかった。
「……たいした物は作れませんからね」
「別にいいよ。美味しく食べられれば」
結局、クリスはカーティスを部屋に招き入れる事になってしまった。
「じゃあ、夕食作りますから適当に座っててください」
「ああ、わかった」
私服に着替えたクリスは夕食の準備をするため、キッチンに消えていった。
クリスがその場からいなくなった事を確認して、カーティスは辺りを見まわす。
彼の部屋は、10歳の部屋にしては驚くほど片付いていた。物もほとんどない。
あるといえば、大きな本棚の中にある大量の本くらいだ。
カーティスは立ち上がって本棚を見る。
本棚の中には有名な小説家のベストセラーから聞いたこともない無名の小説家のものまで、幅広く並んでいた。
カーティスはその中から一冊取り出し、開く。
それはクリスと初めて会ったとき、彼が読んでいた本だった。
数ページパラパラとめくって閉じ、もとの場所に戻す。そしてテーブルに二つある椅子の一つに座った。
しばらくしてクリスが、料理が載った盆を持って戻ってくる。そしてそれをテーブルに並べた。
テーブルに並べられたのは、きのこのパスタとサラダ、そしてコンソメスープ。
「おっ、うまそー」
「それはどうも」
カーティスの言葉にクリスはそっけなく答える。
「食っていい?」
「ご自由にどうぞ」
クリスは答えて、自分の分を食べ始めた。それを見てカーティスも食べ始める。
「お前意外と料理うまいんだな。良いお嫁さんになれる」
「ボクは男なんですけど」
「なあ、これどうやって作ったんだ?」
「ただパスタ茹でてキノコ入れただけですよ」
食事中、カーティスはクリスに話し掛けつづけるが、その全てにクリスはそっけない返事を返すだけだった。
しかし
「そう言えば、お前なんで軍人になったんだ?前になりたくてなったわけじゃないって言ってたけど」
カーティスが問うと、クリスは一瞬表情を変えた。
それは、通常の者なら見逃してしまうであろう、わずかな変化だった。しかし、カーティスはそれを見逃さない。
そして確信していた。
きっと今なら話してくれる。
そのために、時間もおいた。
本来ならば、きっと聞いてはいけないこと。
それでも、カーティスは聞きたかった。彼がこんなにも人との関わりを避ける訳を。
そして助けたかった。
少しでも、彼の支えになりたかった。
あの時のように、救えないのはもうごめんだ。
しばらく二人とも黙ったままだったが、その沈黙をクリスが破った。
「昔話でも…しましょうか」
たいして昔でもないですけどね、と付け加えて彼は語り出した。
ある所に、一人の少年がいました。
裕福な家庭に生まれた彼は、両親の愛情を受けて何不自由無く幸せに暮らしていました。
5歳までは…
5歳の時のある日、少年は大好きだった母を病気で亡くしました。
母親はもともと病弱で、いつその時が来てもおかしくありませんでした。
しかし分かっていても、5歳の少年にはあまりに突然で、あまりに悲しい別れでした。
母親を亡くしてからは、父親と二人で暮らしていました。
母親がいなくて寂しかったけれど、少年には父親がいたので我慢できました。
1年後、父親が再婚し新しい母親がやって来ました。
少年は、はじめは戸惑ったけれど、新しいお母さんが出来るとわかってとても喜びました。
しかし、その思いはあっさり裏切られました。
その女性は、自分の子供ではない少年を愛してはくれませんでした。
いつも少年を邪魔者扱いし、名前を呼ぶ事もありませんでした。
きっとボクが悪い子だからいけないんだ。
だからお母さんはボクを愛してくれないんだ。
少年はそう思い、女性に好かれる努力をしました。
女性のいう事はなんでも聞いたし、女性が好きだといっていた花をプレゼントしたりしました。
しかし、どんなに少年が頑張っても、女性が少年を愛してくれることはありませんでした。その上、女性は父親にまで少年が邪魔だと言い始めました。
父親は初め少年を庇いましたが、やがて父親は少年を女性と同じように扱うようになりました。
こうして、その家に少年を愛してくれる人はいなくなりました。
そして8歳になったある日。
軍人になりなさい。
軍人になって、この国の人達を助けるの。
きっとあなたなら出来るわ。
女性に軍人になる事を勧められました。
少年にはそれがどういうことかわかっていました。
ようは、少年を家から追い出したかったのです。
この家に最初から子供なんていなかった。
女性は、そう言いたいのです。
そして2年後、少年は軍人になり…家から追い出されました。
心に深い傷を残したまま。
「それから、少年は何も信じられなくなりました。周りの人間はもちろんの事。そして…自分自身さえも」
語り終えたクリスは、とても悲しそうな顔をしていた。そして俯く。
カーティスは何も言わず、ただ彼を見つめる。
「あなたには分かりますか?信じて信じて、信じぬいて最後に裏切られた子供の気持ちが。あなたにはわかりますか?両親に愛されたいのに愛してもらえない、幼い子供の気持ちが!」
クリスはそう叫ぶが、カーティスはなお黙ったまま彼の話を聞いている。
「ボクはもう裏切られたくない。だから信じない。信じなければ裏切られる事はないですから」
そう、信じなければいいのだ。裏切られたくなければ。
なのに…
「でも、もう誰も信じないと決めた途端、あなたが現れた。あなたが現れてから、ボクは毎日怖かったんです。ボクがいくら追い払おうとしても、あなたはボクに近づいてくる。そんな人、今まで一人もいなかった」
軍に入ってから、自分に話しかけてくるものは確かにいた。
そしてそうされるたびに相手を冷たくあしらい、遠ざけた。
今までの相手はたいていそれで自分に話しかけなくなった。
もう、自分と関わろうとしなくなったのに。
「でもあなたは違った。最初は本当に鬱陶しいだけだったけれど、だんだん変わってきた。鬱陶しいと思うと同時に、あなたに声を掛けられて嬉しいと思っているボクもいたんです」
そう、彼に話しかけられるたびに自分の決心が揺らぐのを感じていた。
そのたびに、信じてはだめだと言い聞かせた。
どうせ裏切られるだけだと、必死に自分に言い聞かせた。
けれど、だめだった。
「ボクは、怖い。ボクはあなたなら信じても大丈夫ではないかと思い始めています。でも、きっと信じたら裏切られるだけ。また、自分が傷付くだけ。それが、とても怖い…」
本当に大丈夫なのだろうか?彼を信じて。
彼なら、自分を最後まで裏切らないだろうか?
その想いは、涙となって彼の目から零れ落ちる。
「あなたは責任を取れますか?ボクをこんな状態にして、ボクをこんな気持ちにさせて…最後まで裏切らないと、あなたは言いきれますか?」
神よ。もし本当にあなたが存在するのなら、お願いです。もう一度だけチャンスをください。
ボクにも、人を信じるという喜びを感じさせてください。
彼を問い詰めながら、必死に願う。
祈りをこめて、言葉をつむぐ。
「もし、それが出来ないなら今すぐこの部屋から出て行ってください。そして、二度とボクの前に現れないで。今なら、ボクの傷は浅くてすむ…」
お願い。お願い。
出て行かないで。
あなたを信じさせて。
ボクにも、人を信じる喜びを…っ!
クリスはじっと彼を見つめる。
それを見て、今までただクリスの話を聞いていただけだったカーティスが徐に立ち上がる。
そしてクリスを呼んだ。
呼ばれたクリスは、カーティスを見る。
カーティスはそれを確認すると、彼の顔が見えなくなるように抱きしめた。
「ごめんな、クリス…」
それを聞いた瞬間、クリスは絶望を味わった。
やはりか。
やはり、この人も他の人と同じなのだ。
この人も、他のもの同様。
信用させて裏切るだけ…
クリスはカーティスから離れようとした。
しかし、その直後カーティスが先ほどよりも強くクリスを抱きしめた。
そしてカーティスは少年の耳元で囁く。
「ごめんな、クリス。お前の気持ち、俺にはさっぱりわからないよ。俺の両親はとても優しい人達だったから…。俺はお前の気持ち、想像もできない」
自分には、分からない。
それは、経験したものにしかわからない痛み。
でも、
「でもなクリス。俺は、これだけは言いきれる」
俺は…
「俺は、お前を裏切らない。たとえ何があろうと、お前を裏切らない。絶対に」
そう言う彼の声は、とても力強かった。
カーティスは、今度はクリスを抱きしめる力を緩め、お互いの顔が見えるようにする。
クリスは彼の顔に目線を合わせる。
彼の瞳は、見ているだけで吸い込まれそうなほど綺麗な輝きを放っていた。
「クリス、人は誰でも信じていた人間に裏切られる事はある。俺だってそうだ。でも、もし裏切られてもそれはいい経験だったと思えばいいんだ。そしてその経験を生かして信じられる人間を探せばいい。そしてお前は俺を見つけた。俺は何があろうと絶対にお前を裏切らない。もしお前が壊れそうになったら、俺が支えてやる」
だから、そんな顔するな。
泣きたかったら、思いっきり泣いていいんだぞ?
そう言ってカーティスは微笑む。
この言葉を聞いた途端、クリスの目に溜まっていた涙が頬を濡らした。
そして思い切り泣いた。
まるで、今まで自分の中に溜め込んでいた涙を、全て出してしまおうととしているかのように…
翌日、低階級用の訓練には
「よお、やっと訓練受ける気になったか」
嬉しそうに笑うカーティスと、
「ええ。訓練に出ないと、しつこくつきまとう上司がいるものですから。それに、せっかく軍人になったんです。不本意ではありますが、しばらくはここで頑張ってみますよ」
そう少し毒を吐きながらも、楽しそうに笑うクリスの姿があった。
それから5年後。
クリス・エイゼル15歳。
カーティス・イスタンルード23歳。
「ったく、お前いい加減にしろよ。たった5年で何階級昇進すれば気が済むんだ」
そう言って呆れかえる大佐と、
「さあ、今回で何階級ですかね?伍長からですから…7階級くらいですかね」
笑顔で言う少佐がいた。
この時、クリスとカーティスは寮で同じ部屋だった。
どうやらクリスの階級がカーティスに追いついてきた事と、二人がそれぞれ一人部屋だった事を考え、セレスティアが調整の為に同じ部屋にしたようだ。
「全く、お前と一緒の部屋だといろいろな意味で疲れるよ」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますね。あなたと一緒になったおかげで作る食事の量が増えてしまいましたし、部屋の片付けもほとんどボクがしているんですから」
二人は部屋が一緒になってからは食堂ではなく、部屋で食事を取っていた。
カーティスがクリスの料理が食べたいといって聞かないためこうなったのだが、なんだかんだ言いつつもクリスは今の生活を楽しんでいた。
昔の自分からは考えられない生活だった。
「そういえば大佐、大総統に呼ばれているんじゃなかったんですか?」
「おっと、そういえばそうだ。すっかり忘れてた。じゃ、ちょっと行ってくるな」
そう言ってカーティスは部屋を出る。
呼ばれている事を忘れるなんて。全く、彼はどうして大佐になれたのだろう。
あんなちゃらんぽらんな人間に大佐の地位を与えた大総統に真意を聞きたい。
クリスは溜息をついた。そして部屋の隅にある本棚に目を向ける。
それは、以前自分の部屋に置かれていたもの。
この部屋に移るとき、カーティスに手伝ってもらってこの部屋に移動させた。
本当は二人のものを合わせるとこの本棚が入るスペースはなく、クリスが本は諦めると言っていたのだが、
「なに言ってるんだ。お前から本を取ったらあとは毒しか残らないだろ。ちゃんと入るスペース作ってやるから持ってこいよ」
そう言ってカーティスが自分の荷物の量を減らしていれてくれたのだ。
そこだけは、感謝しなければならないだろう。
クリスは本棚から本を一冊取り出す。
どうせ今日はもう仕事はない。カーティスが帰ってくるまで読書でもして時間をつぶそう。そうして、クリスは自分のベッドに座り本を読み始めた。
「ただいまー」
夕方、カーティスが帰って来た。
手にはなにやら書類を抱えている。
「どうしたんですか?そんなもの持って。まさか、あなたが部屋でまで仕事をしようとしているんじゃないですよね?」
クリスが聞くと、カーティスは即答した。
「んなわけないだろ。これは次の任務の書類だよ。大総統から預かってきた」
「昼間呼ばれてたのはそれですか」
「まあな。んで、次の任務は俺とお前で行ってこいってさ」
そう言いながら、カーティスはクリスに書類を手渡す。
「ボクとあなたで?とうとうボクもそこまで上り詰めましたか」
クリスはカーティスから書類を受け取る。
今まで、クリスとカーティスは階級差が大きかった為一緒の任務につくことはなかった。そしてクリスとカーティスは二人とも今日昇進したばかり。
つまり、二人での仕事も初めてならばこの階級での仕事も初めてという事になる。
「依頼型任務だってよ。任務は明日、西部のアーリスって町だ」
それを聞きながらクリスは渡された書類に目を通す。
そして一言。
「また怪物退治ですか。あまり気乗りはしませんね」
書類の内容を簡単に言えば、怪物が出るから退治して欲しいという依頼が来たから行ってこいということだ。
「まあそう言うなよ。俺もお前もこの階級での初仕事なんだからさ、がんばろうぜ」
カーティスはそう笑顔で言う。
「町には朝一番で発つからな。寝坊するなよー」
そう言うカーティスはとても楽しそうだった。
まるで旅行にでも行くかのようだ。
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。大佐」
クリスは溜息をつく。
こんな能天気な人と一緒で本当に大丈夫なのだろうか。
クリスはその日、本気で悩んでいた。
当然のことながら西にいけば行くほどウィスタリアの気候に近くなってくる。
アーリスにも少しだけ雪が積もっていた。
「さて、依頼人の家はどこですか?さっさと行って、さっさと終わらせてしまいましょう。ボクは早く帰って本を読みたいですから」
クリスは車を降りると同時にそう言い放つ。
その言葉にカーティスが呆れて言う。
「まったく、やる気のない軍人だな。いや、ある意味やる気があるのか…。とりあえず、依頼人の家はあそこに見える宿だ。あそこの娘さんが依頼してきたらしいな」
カーティスが指差す方向には小さな宿があった。
二人はそのまま宿に向かう。
「こんにちは。どなたかいらっしゃいませんか」
宿に入ると同時にカーティスが口を開く。
すると、奥から一人の少女が出てきた。
「はーい、いまいきます」
その少女は茶色の髪と瞳を持っていた。大体十代後半といったところか。
少女は長い髪を後ろでまとめ、エプロン姿でやってきた。
「お待たせしました。お泊りですか?…って、軍人さん?もしかして、私の依頼を受けに来てくれたんですか?」
「ええ、そうです。あなたがレスティア・ハスターさんですね?私はカーティス・イスタンルード、中央司令部大佐です。こちらは私の部下でクリス・エイゼル。同じく中央司令部少佐です。今回は私たち二人であなたの依頼を受けることになりました」
カーティスの言葉の後にクリスが礼をする。
それに続いて、レスティアも礼をした。
「はじめましてカーティスさん、クリスさん。レスティア・ハスターです。今回はわざわざこのようなところまで来てくださって、ありがとうございます。本当に来てくれるとは思っていなかったので、とてもうれしいです」
レスティアはにっこりと笑う。それにカーティスも笑顔で応える。
「いえ、私もあなたのような可愛らしい女性と出会えてうれしいです。さて、早速ですが本題に入らせていただいてよろしいでしょうか?」
「あ、そうですね。じゃあ、食堂に移動しませんか?お二人とも長旅でお疲れでしょうし、外は寒かったでしょう?温かい紅茶をお出ししますね」
そうして二人はレスティアに連れられ食堂に向かった。
「さあ、どうぞ」
レスティアが二人の前にそれぞれ紅茶の入ったカップを置く。
レスティアに案内された食堂は小さな町の宿にしては大きかった。そして調理設備もしっかり整っている。どうやら酒場も兼ねた宿のようだ。
食事時には賑やかであろう食堂もいまはカーティスたち三人しかいないため、とても静かだ。
カーティスが出されたティーカップに口をつけた。一口飲んでテーブルに置く。
「ではレスティアさん、お願いします」
「はい。怪物が出るっていうことは、聞いてますよね?」
そう前置きして、彼女は話しだす。
彼女の話によると、その怪物は数ヶ月前から町に現れるようになったらしい。
怪物は数日に一度、必ず町の者が寝静まった夜に現れ町にある畑を荒らしていくのだそうだ。
そして怪物はどうやら町外れの森から来ているらしい。
たまたま夜中にそこにいた町民が大きな塊が森から出てくるのを目撃したのだという。
「町の長は、畑だけでまだ町民に被害が出ていないからと軍に連絡することをしないのです。でも、今被害が出ていなくてもいつ人が傷つけられるかわかりません」
レスティアは力強く語り、まっすぐカーティスとクリスを見る。
「だから、町全体としてではなく私個人の依頼として軍に届けを出しました。町の人が犠牲になってからでは、遅すぎるから。長には叱られてしまうでしょうが、未然に防げるなら私は迷わず行動します」
レスティアが徐に立ち上がる。
「カーティスさん、クリスさん、どうかこの町を守ってください。お願いします」
彼女はすがるように二人を見つめる。
彼女の言葉に、今まで黙ったままだったクリスが答えた。
「当然です。そのために、ボクたちは来たんですから」
「少佐の言うとおりです。その気がなければ、軍はわざわざ私たちをここに派遣したりはしません」
カーティスもやさしく微笑みかける。
「ありがとうございます」
カーティスの笑みにつられてレスティアも笑みを零す。
「でも今日はもう遅いですし、お二人も長旅でお疲れでしょうから今日はこの宿で休んでいってください。お部屋は用意してあります。夕食もご用意しますね。都会の方のお口には合わないかもしれませんが、がんばって作りますから」
そうして三人は食堂を後にした。
「で、今日はこのまま休むんですか?」
クリスが持ってきた本を読みながらカーティスに訊く。
二人はレスティアに案内された部屋にいた。おそらく二人のために一番いい部屋を空けていたのだろう。来るまでに少しだけ見えた他の部屋に比べるととてもきれいな部屋だった。
「ああ。レスティアの言うとおり確かに長距離移動で疲れてるし、今回の任務は一応5日間の時間をもらってるかな。明日町の様子を見ながらいろいろ調べて、それから怪物を待っても問題ないさ」
カーティスは自分の武器の手入れをしながら答える。
そして手入れを一通り終えたのか、武器をベッド脇の壁に立てかけた。
「まあ、今夜は少しだけ休みをもらったと思ってのんびりくつろがせてもらうさ」
そう言うと、いそいそとベッドに潜り込む。
「と、いう訳で俺は寝るから。お前、どうせまだ起きてるんだろ?寝るときに電気消してくれよ」
カーティスはそのまま目を閉じる。
その上司の行動に、クリスは無言でため息をつくのだった。
クリスは真っ暗な世界にいた。
右も左もわからず、ただひたすらに歩き続ける。
しばらく歩くと、前方にオレンジ色が見えた。
目を凝らしてみると、それは女性だった。
長いオレンジ色の髪と真っ白なワンピースが黒い世界の中に鮮やかに映る。
その女性はクリスに気づくと、にっこりと微笑みかける。
クリスはその女性を知っていた。
それは、世界で一番大好きだった人。
ただ一人、自分を最後まで愛してくれた人。
母さん。
クリスが女性を呼ぶ。
しかし、女性は微笑むだけ。
母さんったら。
もう一度呼ぶ。
すると、女性はクリスがいる方向とは反対方向に歩き出した。
待って母さん!
クリスは歩き出した女性を追った。
しかし、いくら走っても女性に追いつけない。
待って母さん、行かないで。ボクをおいていかないで!
叫びながら懸命に走るが、やはり追いつけない。
それどころかどんどん距離はひらく。
そしてとうとう女性の姿は暗闇の中に消えた。
嫌だよ、行かないで。行かないで!
「母さん!」
叫ぶと同時に目が覚めた。
辺りを見回すと、明るい部屋の中で眠っているカーティスが目に入った。どうやら自分は本を読んでいるうちに寝てしまったらしい。
読んでいた本は落としてしまったらしく、椅子のすぐ横の床にあった。
「どうしていまさら」
あんな夢なんか…
母親が死んだのは10年も前の話だ。
もう母は戻ってこないし、それを受け入れられるだけの歳にもなった。
なのに…
「きっと、なれない遠征で思った以上に疲れていたんですね」
クリスはそう自分を納得させる。
どうせ、考えたって答えは出てこないのだから。
そうだ、気分転換に外に出てみよう。
今なら町の者は寝静まってしまって邪魔をされることはない。
クリスは静かに部屋を出た。
クリスが部屋を出る少し前、レスティアは食堂で明日の朝食の仕込みをしていた。そしてそれが終わると食堂を出て自分の部屋に向かう。その途中、人影が見えた。
よく目を凝らしてみると、それは今日来た軍人の一人、クリスだった。
クリスはそのまま宿を出て行く。
どうしたのかしら?こんな夜中に…
レスティアは急いで一度自分の部屋に戻り、毛布を二枚持って宿を出て行ったクリスを追った。
宿を出てから、クリスはどこへ行くでもなくただ町を歩いた。
そうしてしばらく歩き、気づくと例の怪物が出るという森の前まで来ていた。
森は町外れにあるため辺りには建物もなく、地面に積もった雪が月明かりを浴び、キラキラと光っていた。
その光景があまりにも幻想的で、思わず目を奪われる。
「クリスさん」
しばらく見入っていると、後ろから声が聞こえる。
驚いて振り向くと、視線の先には笑みを浮かべるレスティアがいた。
いくら不意をつかれたからといって仮にも軍人である自分が一般人、しかも少女にバックを取られてしまうなんて…。
それだけ自分は今おかしくなっているのだろうか。
「レスティアさん、どうしたんですか?こんな夜中に」
そんな思いを持ち前のポーカーフェイスで覆い隠し、クリスは少女を見る。すると、少女は苦笑して答えた。
「明日の朝食の仕込みをしていたら宿を出るあなたを見かけたんです。おせっかいだとは思ったんですけど、心配で追いかけてきてしまいました」
そしてクリスに持っていた毛布を一枚かける。そして自分も一枚羽織った。
「冬用の軍服みたいですけど、それだけじゃここでは寒いでしょ?この町は、ほとんどウィスタリアと気候が同じですから」
そう言うと、彼女はクリスの隣に立った。そして二人で目の前に広がる雪景色を見る。
「綺麗でしょう?」
レスティアが不意に口を開く。それに、クリスは前を見たまま答える。
「ええ、とても」
「ここは、月の光を遮るものがないからこうして地面に積もった雪が一番綺麗に見えるんです。私、この景色が好きで雪が積もると必ず夜この場所に来るんです」
そう語ると、クリスを見上げてきた。クリスも彼女を見る。
「私、この町がとても好きなんです。だから、この町を守りたい。だけど私にはそんな力はない」
彼女はなおもクリスを見る。
真っ直ぐ、彼の目を見つめる。
「でも、あなたやカーティスさんにはその力がある。そうでしょう?」
「ええ。少なくとも、あなたよりは」
クリスも彼女の目を見る。
彼女の思いを受け止めようと、彼女に強い眼差しを向ける。
「人は、誰かの助けなしには生きていけません。そして、誰かの助けなしには何も守ることはできません。人は、一人では何一つできません。それは国になろうと、町になろうと変わりません。だから…」
だから、私を…この町を助けてください。
彼女の自分を見る目が、そう言っていた。
彼女が言葉にしなくても、その思いは強く自分に伝わってくる。
クリスは懸命に訴えかける少女に微笑みかけた。
「昼間も言いましたがボクたちはあなたを、そしてこの町を助けるためにここにきました。
途中で依頼を蹴って軍に帰るようなことは、絶対にしませんよ」
そして彼女の肩に手をかける。
「だからさあ、帰りましょう。ボクもあなたもこんなところにずっといたら風邪を引いてしまいます」
そう言って微笑みかけると、彼女も笑顔を見せた。
「…はい。宿に帰ったら、ホットミルクを入れますね」
彼女は数歩町に向かって進み、振り返る。
「クリスさん、本当に来てくれてありがとうございます」
そしてまたクリスの方に戻ってきて、彼の手を取った。
「さあ、行きましょう」
「ええ」
クリスも彼女の手を取り歩き出す。しかし、彼の足はすぐに止まった。
「…クリスさん?」
レスティアは不審に思い声をかけるが、クリスからの返事はない。ただ、彼はただ鋭い眼光で森のほうを見ていた。
そして返事がない代わりに、彼女を自分のほうに引き寄せる。
「ク…クリスさん?」
あまりの急展開にレスティアが悲鳴じみた声を上げる。すると、クリスに口を押さえられた。
「声を出さないで。何かいます」
そう、クリスは何かの気配を感じ取っていた。
先ほどから、何かの鳴き声と足音のようなものが森から聞こえるのだ。それは少しずつだがこちらに向かって近づいてきている。
クリスはそれが何なのか、察しがついていた。
「おそらく例の怪物でしょう。少しずつこちらに近づいてきています」
「か…怪物?」
とたんレスティアの表情に恐怖が走る。それを見て、クリスは彼女に指示を出す。
「大丈夫です。とてもゆっくりなので、ここに来るまでにはまだ時間がかかるでしょう。あなたはすぐにここから離れて、大佐を呼んできてください」
「ク、クリスさんはどうするんですか?」
レスティアは心配そうな表情をクリスに向ける。
「僕は大佐が来るまでここで怪物の相手をします。ボクも一応軍人ですからね。大佐ほど強くはないですが、時間稼ぎくらいはできますよ」
そう、自分だって軍人だ。
軍は国民のためにあり、国民を守るためにある。
自分は今、それを実行しなければならない。
自分にそのことを教えてくれた人の信頼にこたえるために。
「さあ、あなたは行ってください。ボクなら、本当に大丈夫ですから」
彼女に笑いかけて肩を軽く押す。彼女はしきりにこちらを見ながらも町に向かって走り出す。
彼女がしばらく走ったあと、森から近づいているものの足音が急に速くなった。その速さは尋常じゃない。
このままではすぐここに着いてしまうだろう。
「レスティアさん、早くここから離れてください!」
クリスがそう叫んだ瞬間だった。森から大きな塊が飛び出してきたのだ。
その塊はそのままこちらに向かって突進してくる。
「くそっ!」
このままでは自分だけではなくその先にいるレスティアまで巻き込まれてしまう。
クリスは町に向かってダッシュし、走っていたレスティアを抱えて横に跳んだ。
「きゃっ」
突然の出来事にレスティアが悲鳴をあげるが、それにかまっている暇はクリスにはなかった。
すぐに彼女をそばに下ろし、鞘から剣を抜く。
「レスティアさん、逃げてください!」
そう叫ぶが、彼女が動く気配はない。
「あ…あ…」
地面に座り込んで、声にならない声を発するだけ。
どうやら目の前に急に怪物が現れたことによる恐怖で体が動かないようだ。
「ちっ」
その状況にクリスは思わず舌打ちしてしまう。塊は間違いなく例の怪物だろう。
怪物はどの動物と合成したかはわからないが、見た限り間違いなくキメラだった。
しかも先ほどの体の大きさからは考えられないようなすばやい動きを考えると、とても少女一人を庇いながら戦えるような相手ではない。
しかし、彼女一人をこんなところに置いたまま戦うこともできない。
ここで彼女を庇いながら戦うか、それとも彼女からできるだけ離れて戦うか。
クリスは答えが出せずにいた。そして答えが出せないままただ剣を握り締める。
その瞬間だった。
クリスの前にいたキメラが突然消えた。
そして次の瞬間には、数メートル離れたところにいたはずのキメラはクリスの目の前に立っていて、クリスに向かってその大きな腕を振り下ろしていた。
「なっ…」
あまりの動きの早さに頭がついていかない。
しかし長年の経験のおかげか、体はとっさにその攻撃に反応しなんとか剣で受け止めていた。
だが、体が反応できていても力はどうにもならなかった。
あまりの力の強さに耐えられず、クリスの体は横に吹っ飛びその先にあった木に叩き付けられた。
「…っ!」
あまりの衝撃に一瞬息が止まる。
クリスの体はそのまま木からずり落ち地面に倒れこんだ。
「クリスさん!」
レスティアが叫ぶと同時に駆け寄ってくる。
「来ないで!」
クリスが叫ぶ。
その途端、彼女の動きが止まった。
だめだ。彼女が動けば必ず巻き込まれる。
それだけは避けなければ。
彼女だけでも、逃がさなければ。
「絶対に来ないでください。動けるなら、あなたは早くここから離れて」
「でも…」
「いいから早く!あなたがいると、ボクは余計戦いにくくなります」
クリスはそう言いながら腕に力を入れ何とか体を起こす。
しかし、足がふらついて立つことはできなかった。
「くそ…」
クリスはその状況に舌打ちせずにいられなかった。
普段から訓練で鍛えているにもかかわらず、一発食らっただけでこのざまとは…。
クリスはもう一度立ち上がろうとするが、やはりだめだった。
その間にキメラは少しずつ自分に近づいてくる。
そして目の前まで来ると再び大きな腕をクリスめがけて振り下ろした。
ここまで、か…
もうどう足掻いても体は動いてくれそうにない。
クリスは諦めるしかなかった。
何もかも諦めて目を閉じた、その時だった。
ガキィン!
何かがぶつかり合う鋭い音が響いた。何が起きたかわからず、ゆっくりと目を開ける。
すると目の前に見えたのは、大きな背中だった。
ずっと待っていた、ダークブルー。
「大佐!どうしてここに?!」
「どうしてって、お前が部屋から出てったきり帰ってこないから探しに来たんだろ?まったく、心配して来たのにこんなとこでレディとデートとは、油断も隙もないな」
彼を呼ぶと、楽しそうな声が返ってくる。
カーティスはそれまで棍で受け止めていた腕を振り払う。腕を弾かれて、キメラが少しよろめいた。
その間に、カーティスは体を支えて彼を立たせる。
「一人で立てそうか?」
「ええ、大丈夫です」
少し時間がたって、足に力が入るようになっていた。
やはり普段の訓練の効果はあるらしい。体はすでに回復してきていた。
この分ならすぐに戦えるだろう。
「そうか」
クリスの言葉を聞いて、カーティスが言う。
そして予想していなかった言葉を告げた。
「なら、お前はレスティアをつれて町に戻れ」
その言葉に、クリスは目を見開く。
「な、何を言っているんですか!ボクも残って戦います!」
体は回復している。
自分は十分戦える。
あなたの力になれる。
目で必死に訴える。
しかし、カーティスの考えは変わらなかった。
「だめだ。お前まで残ったら、レスティアはどうするんだ?彼女を一人にはできない。これは上官命令だ、お前は町に戻れ」
こう言われては、クリスはそれに従うしかない。
「…わかりました。では、ボクはレスティアさんを連れて町に戻ります」
そしてレスティアのほうに行き、彼女に声をかける。
「レスティアさん、ボクがあなたを町まで送ります。行きましょう」
「でも、カーティスさんが…」
レスティアがカーティスを見る。
「彼なら大丈夫です。さあ、行きましょう。走れますね?」
そう言って手を差し伸べる。彼女は素直にその手を取った。
「ええ」
そして二人は走り出した。
クリスは彼女のペースにあわせて走る。
カーティスはそれを見届けると、キメラに向き直った。
キメラは体勢を立て直して、すでに戦闘体制に入っている。
カーティスも棍を構えた。
「さて、どうするかな」
上官命令だといって二人を行かせたが、先ほどの攻撃を受けたときにカーティスにはわかっていた。
自分ひとりでは勝てる可能性が限りなく低いことを。
だからこそ二人を逃がした。
無駄な犠牲を増やさないために。
彼の脳裏に、5年前の言葉が浮かぶ。
最後まで裏切らないと、あなたは言いきれますか?
その言葉に対して自分が言ったことを思い出し、自嘲じみた笑みを浮かべる。
「悪い。お前との約束、守りきれないかもしれない」
そう呟いて、カーティスはキメラに向かっていった。
クリスはレスティアをつれて町の中を宿に向かってひたすら走る。しかし彼女に速さを合わせているためどうしてもペースが落ちてしまう。
クリスの焦りはどんどん募っていった。
早く、早く戻らなければ。大佐のところへ。
しばらく走ってようやく宿にたどり着く。
それと同時に、クリスがレスティアの手を離す。
「レスティアさん、軍に連絡して追加の人員を送ってもらってください。できれば科学部の人間も数人送ってもらうように言ってください。ボクか大佐の名前を出せば大丈夫なはずです」
「クリスさんはどうするんですか?」
クリスの言葉に、不安げな声が返ってくる。
「大佐のところに戻ります」
「でも、カーティスさんには町に戻れって言われたんじゃ…」
彼女はクリスを見つめる。
その瞳には恐怖の色が見え隠れしていた。
行かないで。
私を一人にしないで。
必死にクリスにそう訴えてくる。それを承知で、クリスは言葉を紡ぐ。
「大佐には、町から戻ってくるな、とは言われてませんからね。ボクは行きます」
そして彼女に背を向ける。
「軍への連絡、お願いしますね。レスティアさん」
本来それは軍人であり、任務を担当しているクリスがやるべきこと。
それを一般人に任せるなんて、無責任だとはわかっていた。しかし、今は軍に連絡する時間も惜しかった。
一刻も早く彼のところへ戻らなければ。
今も一人戦っているであろう、彼のもとに。
クリスは迷わず走り出す。
レスティアをつれていたときとは比べ物にならないスピードで、町を駆け抜ける。
本当は、自分は戻らないほうがいいのだ。
彼が自分をあの場から離したときからそれはわかっていた。
彼が自分をレスティアとともに町に戻した理由。
それは自分が一人で戦っていたときに彼女を自分から離そうとしたのと同じ。
カーティスはわかっていたのだ。
誰かのことを気にしながら戦える相手ではないことを。
自分がそう判断したのと同じように。
それがクリスには悔しかった。
カーティスが自分を信用していないとは思わない。
むしろ、信用しているからこそレスティアを自分に任せたのだろう。
そうはわかっていても、彼の力になれない自分に腹が立った。
「あなたは、ボクをあなたと同じ場所に立たせてはくれないんですね…」
一人呟く。
不意に、彼の言葉が頭をよぎった。
たとえ何があろうと、お前を裏切らない。絶対に。
「その言葉、信じますからね、大佐。ボクを裏切ったら、ただでは済ませませんよ」
そう呟きながら、クリスは町を疾走する。
絶対に失いたくない。
その気持ちだけが、彼を動かしていた。
雪が舞う。
空から生み出されるそれが月光を浴びてキラキラ光る。
その優しい光が町全体を包み込んでいた。
クリスが戻ってきたときには、その場は静寂に包まれていた。
今まで戦いが繰り広げられていたとは思えないほどだ。
「大佐!いるんですか?」
彼を呼ぶ。しかし返事は返ってこなかった。
少し歩くと、黒い塊が見えた。
先ほどのキメラだ。すでに息絶えているのだろう。
その塊はピクリとも動かなかった。
そしてその塊から少し離れた場所に、彼はいた。
血まみれで、白い雪の上に倒れていた。
「大佐!」
あわてて駆け寄る。
彼のまわりの雪は、彼自身が流した血で真っ赤に染まっていた。
「大佐、大佐!」
彼を抱きかかえ呼びかける。すると、ゆっくりと瞼が開いた。
「何だ、クリスか。お前、やっぱり戻ってきちまったんだな」
そして笑顔が返ってくる。それがクリスには辛かった。
彼の体は傷だらけで、出血量も多い。どう考えても致命傷だった。
本来ならそんな状態で、笑えるわけがないのに…。
もっと自分が早く戻ってきていれば…。
そう思うと悔しくて涙が溢れてきた。
「まったく、何やってるんですか。傷だらけじゃないですか」
「はは…ちょっとドジったかな。あいつ、思った以上にしぶとくてさ」
彼はそう言って笑う。
しかし、クリスにはわかっていた。わかっているからこそ、後から後から涙が零れる。
「嘘はいけませんよ。本当は戦う前からわかっていたんでしょう?こうなることを」
カーティスほどの実力者なら相手との力量の差などすぐにわかるだろう。そして今回もそうだ。
彼は戦う前からこうなることがわかっていたのだろう。
そのことがクリスにバレないように「ドジった」などと口にしたのだ。
「ボクを甘く見ないでください。ボクはあなたとずっと一緒にいたんですから、そのくらいわかるんですよ」
するとカーティスはまた笑った。
「はは、やっぱりお前にはかなわないな」
クリスの頬に手を伸ばす。
その手は冬の冷たい雪と風に体温を奪われて冷たくなっていた。彼の冷たい手が瞳に溜まった涙を拭う。
「最期に、お前に会えてよかったよ…」
「何馬鹿なこと言ってるんですか。もう任務は終わりました。あなたはボクと一緒に帰るんですよ」
カーティスの弱気な発言にクリスは小さな声で言う。
しかし、レスティアに頼んだ救援はたとえ西方司令部から来てもあと数時間はかかるだろう。
いくら彼が軍人でも、すでに体温を奪われた体では体力が持たない。こんな小さな町では、彼を治療することも困難だ。
そうわかっていても、彼に必死に声をかける。
「いま軍に救援を要請したので、それまで辛いかもしれませんが頑張ってください」
しかし、そんなクリスを無視して彼は話を進める。
「俺の棍、よかったらお前使ってくれな。あれは俺の大事なものなんだ。俺と一緒に土の中は、かわいそうだからな」
そして近くに落ちていた棍を指差した。
「大事なものなら、これからもあなたか使えばいいじゃないですか!」
自分を無視して続く言葉に、とうとう彼を怒鳴りつける。
そうだ。大事なものなら、これからも自分が使えばいいのだ。
今を生き延びて、自分で。
その思いは涙となってさらにクリスの頬を伝う。
「ボクは嫌ですからね、あなたを失うなんて!」
あなたを失ったら、ボクは…
「あなたを失ったら、ボクは何を信じて生きていけばいいんですか?!」
今まで信じたものにはすべて裏切られてきた。
でも、カーティスは違った。
彼は一度も彼を裏切ったことはなかった。
だから、今回だってきっと…。
「あなた、言ったじゃないですか!『何があっても裏切らない』って!」
今回だって彼は自分を裏切らない。
その願いをこめて、叫ぶ。
しかし彼が浮かべたのは、申し訳なさそうな笑み。
「ごめんな、クリス。最後までお前との約束、守りきれなくて…」
そしてクリスの頬に添えていた手を下ろし、彼の手を握る。
「でも、いつかきっとお前が信じてもいいと思える仲間が現れる。俺なんかより、ずっと頼りになるかもな」
本当はもっと一緒にいてやりたかった。
傷つきやすい彼を、癒してやりたかった。
でも、それは叶わない。
だから、俺は祈ろう。
彼に信じられる仲間が現れるように。
「だから、お前はこれからも自分を信じて生きろよ。自分を信じられない人間が、他人を信じられるわけがないんだから」
それが、彼の最期の言葉。
その言葉を言い終えると同時に瞼が閉じられ、手から力が抜け地面に落ちる。
「たいさ……?」
彼を呼ぶ。
彼から返事は返ってこない。
「大佐……大佐……っ!」
目の前に突きつけられた事実が信じられなくて、何度も彼を呼ぶ。しかし何度呼んでも、やはり彼から返事が返ってくることはなかった。
そのため、嫌でも悟らねばならなかった。
彼が…もうこの世にいないということを。
クリスは彼をゆっくりと地面に横たえる。
そして
「わあああああああああああ!」
思い切り叫んだ。
大粒の涙をこぼして、叫んだ。
その悲痛の叫びを上げる彼を包み込むように、雪はいつまでも空に舞っていた。
土が掘られる。
黒い棺をその中に迎え入れられるように。
棺の中には数々の花が敷き詰められ、その中に横たわるものを包み込む。
静かに眠る、亡骸を。
カーティス・イスタンルード。享年23歳。
あまりにも若くして逝った彼との別れの儀式は滞りなく進む。
軍在籍中に死去した軍人は、軍用墓地に埋葬する。
それが軍の規定だ。
彼もその規定どおり、この墓地に埋葬される。
彼が眠る棺が、先ほど掘られた穴の中にゆっくりと下ろされる。
そして棺の上に土をかぶせていく。
土はすぐに掘られる前の状態に戻った。
元の状態に戻った土の上に、今度は墓石が置かれる。
それを、クリスはただ呆然と見つめていた。
周りには彼との別れを惜しみ、涙を流すものもいるが、クリスは泣けなかった。
涙を流せば、彼がこの世にいないのだと認めてしまうような気がして……泣けなかった。
葬儀が終わり、次々と人が墓地から出て行く。
空には雪が舞い始めていた。
しばらくして、墓地にいるのはクリスだけになった。
クリスは墓石の前に立つ。墓石には彼の名前が刻まれている。
それを見て、今まで出てこなかった涙が溢れてきた。
彼はもうこの世にはいないのだ。
彼は、死んだのだ。
目の前の墓石がその事実をクリスに突きつける。
彼の死を、自分の頭が認めてしまった。
もう、彼の死を否定することはできない。
涙が次々を溢れてくる。
「大佐…ボクが…もっとしっかりしていれば……」
後悔しても、もう遅い。
でも、口にせずにはいられなかった。
ごめんなさい、大佐。
クリスは声にならない言葉を紡ぐ。そして墓地から出て行った。
それから、クリスは仕事以外で部屋を出ることはなくなった。
仕事が終わると部屋に戻り、ベッドに座って向かいの壁に立てかけた彼の遺品である棍をただ眺めるだけ。
「大佐…」
彼の笑顔が脳裏に浮かぶ。
いつも自分に向けてくれていた、優しい笑顔が。
「あの時、あなたの命令を無視してでもボクがあの場にとどまっていれば…」
あなたは死なずにすんだかもしれないのに。
今も、隣にいてくれたかもしれないのに。
彼を失って、後悔が常に頭の中に付きまとっている。
それは、時間が経てば経つほどクリスを縛り付ける。
「大佐…」
再びうわ言のように呟いた、その時だった。
コンコン。
部屋のドアがノックされる。その後、女性の声が聞こえた。
「クリス君、私よ。入ってもいいかしら?」
それは、寮母であるセレスティアの声だった。
「どうぞ」
クリスが返すと、静かにドアが開きセレスティアが入ってくる。手には盆を載せていた。
「急にごめんなさいね。でもクリス君最近お昼に食堂に来なかったから、心配で。その様子だと、部屋でもろくにご飯食べてないんでしょう?サンドイッチを作ってきたの。よかったら、食べてね」
そう言ってテーブルの上に盆を置く。
さすがはセレスティアだ。サンドイッチの材料にはクリスが好きなものばかりが使われている。
普段ならそれで食欲をそそられるのだろうが、今はまったく食欲がわかない。
クリスはベッドの上にうずくまる。
「すみません。ご好意はありがたいのですが、今は食べられる気がしないんです」
それを見て、セレスティアがクリスの横に座る。そしてクリスを抱きしめた。
「クリス君、あまり思いつめちゃだめよ?あなたのそんな姿、きっと彼も見たくないわ」
彼女はそう言うと、ベッドから立ち上がった。
「サンドイッチ、ここに置いていくから気が向いたら食べてね」
そう言って彼女が部屋から出ようとしたとき、
「…セレスティアさん」
クリスが彼女を呼び止めた。
「なに?」
その声を聞いて、クリスが顔を上げる。そして自嘲じみた笑みを浮かべた。
「ボクは、どうして軍人なんてやってるんでしょうね…」
最初は、嫌々軍人をやっていた。
でも、彼と出会ってから変わった。
自分が軍人であることに誇りを持てるようになった。
「軍は、守るために存在するのに…」
そのことを、彼は自分に教えてくれた。
そして自分にはその力があると信じていた。
でも
「肝心なときに、ボクは…何もできなかった……っ!」
守るどころか、逆に守られてしまった。
死に瀕した彼に何も出来ず、ただ見ていることしかできなかった。
「一番失いたくなかった人を、守れなかった!」
「クリス君…」
「セレスティアさん、ボクは…強くなりたいです」
彼が言う「仲間」が現れたとき、今度こそ守れるように。
二度と失わずにすむように。
「クリス君」
彼女がクリスを呼ぶ。
「大丈夫。あなたなら強くなれるわ。だから、あなたは彼からもらった命を大切にするのよ、彼のために。そして、あなた自身のために」
そう言って、彼女は優しく彼を抱きしめた。
それから数日後、クリスは受付で武器変更の手続きをしていた。
それが終わると、今まで使っていた剣を返す。武器を返して受付を離れていく彼の手には、棍が握られていた。
「また、訓練のしなおしですね。きちんと使いこなせるようになれるといいのですが…」
そう言う彼の瞳には、光が宿っていた。
新たな決心をした者の、強い光が。
二年後、クリスは事務局から呼び出されていた。
「おそらく、科学部に異動しろとか言ってくるんでしょうね」
クリスはため息をつく。
先日、彼は退屈しのぎ程度の考えで医師免許を取っていた。しかし事務局の人間がそれを知って放っておくわけがない。科学部はただでさえ人手不足なのだ。
事務局の人間は少しでも科学部に人を増やしたくてうずうずしているだろう。
「やれやれですね」
再びため息をついて、事務局の扉をノックした。そして部屋に入る。
部屋では上官がクリスを待っていた。
「よく来たなエイゼル少佐。まあ、座りなさい」
「はい、失礼します」
クリスが椅子に座ると、上官は向かいの椅子に座った。
「さて、早速本題に入らせてもらうが、君には来月から科学部に異動してもらいたい」
「生憎ですが、ボクは科学部になんて行く気はありません」
クリスが即答する。クリスが医師免許を取った理由は、退屈しのぎが大半を占めるがもうひとつ理由があった。
医師免許を持っていれば、任務中もしものことがあったときに簡単な治療くらいなら出来る。
もう、あのときのような失い方をするつもりはない。
「科学部なんかにいたら、肝心なときに何も出来ませんからね」
彼が言う。すると上官は落胆した口調で言った。
「そうか、残念だ。君は優秀な人間だから、ぜひ科学部にと思ったのだが…」
そしていやらしい笑みを浮かべる。
「しかし、君が断れば命令違反ということで軍法会議にかけることになってしまうが、どうする?」
どうすると言っておきながら、普通に考えれば選択の余地がない質問だ。
君に選択権などないのだよ。
彼の目がそう言っていた。
それに、クリスは本日三度目のため息をつく。
やれやれ、だから上層部の人間は嫌いですよ。
能もないくせにやたらと自分の権力を振りかざすんですから。
しかし嫌うと同時に、クリスの最も得意とする人種でもあった。
「中将、あなたのご子息も軍に在籍しているそうですね」
「それがどうした」
クリスが急に話題を変えたため、上官が不機嫌そうに言う。それにかまわず、クリスは続けた。
「聞くところによると、軍に入隊してからわずか二年で尉官にまで昇進したとか」
上官の眉がぴくりと動く。
「そのとおりだが、それが何か?」
それにクリスは満面の笑みを浮かべる。
「いえ、ちょっと気になっただけなんです。少し前に調べたのですが、あなたのご子息はこれといって目立った功績を上げていない。なのに、どうしてたった二年間で尉官にまで昇進できたんでしょう?」
クリスがそう言って考えるように顎に手を当てる。そのとき、上官は冷や汗を流し始めていた。
「ああ、そういえばここの最高責任者はあなたでしたね」
それをチラッと盗み見て、クリスは続ける。
「あなたが人事の書類に判を押すんですよね?」
クリスに言葉で攻められて、もう上官はその場にとどまるのが精一杯という状態だった。それを承知で、クリスは追い討ちをかける。
「あなたが書類に目を通すんですから、自分の息子を昇進させることなんて朝飯前ですよねぇ」
そんなことを大総統に知られたら、それこそ軍法会議は免れませんよ。
クリスはそれを言葉にせず、視線で伝える。相手はとうとう降参した。
部屋の時計を見て大げさな動作で立ち上がる。
「ああ、もうこんな時間か。エイゼル少佐、私はこれから用事があるので失礼するよ」
「おや、異動の話はどうするのですか?」
「その話については、後日また君を呼ぶからそのときにしよう」
そして上官はその部屋から出て行った。
クリスはそれを勝ち誇ったような笑みを浮かべて見送る。
それ以降、昇進の話以外でクリスが事務局の人間に呼ばれることはなかった。
それから月日が経ち、クリス20歳の誕生日。
「かんぱーい!」
グラスがぶつかり合う乾いた音が響く。
小さなテーブルには様々な料理が並べられる。前回までジュースが注がれていたグラスは赤いワインで満たされていた。
「とうとうお前も20歳かー。早いなー、時間が経つのって」
「ホント早いですよね。ついこの前お正月やったと思ったら、もう月末ですからね」
カスケードとカイが口々に言う。
「ボクとしては、結構長かったですね。なにせ一年中騒がしい人たちと一緒でしたから」
クリスはそう笑ってグラスに口をつける。
カーティスを失ってから約5年。彼は信頼できる仲間と出会っていた。
カーティスを亡くしてから一人で迎えていた誕生日を、仲間たちと祝う。
彼を失ったあの時から冬が嫌いになった。彼の最期を思い出してしまうから。
だが今は仲間がいて、ともに笑いあえる。
それだけで嫌いな冬も、乗りきれる気がする。
「クリス」
不意に声をかけられる。振り向くと、そこにはグラスを持ったアクトがいた。
「アクトさん、どうしたんですか?」
「いや、一緒に飲まないかと思ってさ。ワイン」
そしてアクトは傍らにあったビンを取ると、クリスのグラスにワインを注ぐ。
「それにしても、お前本当に酒強いな。この前はブラックが飲まなかった一杯飲んだだけだろ?」
アクトがそう言ってクリスのそばにあった数本のビンを見る。
「前も言いましたけど、薬品でアルコール慣れしてますから。それに、お酒自体は以前からちょくちょく飲んでますからね」
アクトの言葉にクリスはそう答えて笑う。
それを聞いたアクトも、呆れたように笑った。
「やっぱりな。いくら薬品でアルコール慣れしてるっていっても、初めて酒飲むやつがこんなに飲めるわけないからな」
「自分で言うのもなんですが、ボクは強いですよ、お酒。最後までとはいかなくても、そこそこあなたのお付き合いが出来ると思います」
「それは楽しみだな」
そう言うと、アクトは自分のグラスにもワインを注ぐ。
そしてグラス同士がぶつかる乾いた音が響いた。
大佐、見ていますか?
ボクは今日も仲間とともに生きています。
今度は絶対に彼らを守り抜いてみせます。
だから、これからもボクたちを見ていてくださいね。