草花の匂いが湿り気を帯び、鼻腔に、肌に、まとわりつく。汗と混じり合うそれを、タオル地のハンカチで拭うけれどきりがない。帰ってシャワーを浴びたい。今この瞬間、胸に抱えている緊張とともに、全て洗い流してしまいたい。
何度目かの溜息を吐いてから、ハンカチをしまう。一歩踏み出すごとに近づく、広い庭のある一軒家の玄関。扉の向こうには、私がこれから担当することになる作家がいる。初めて会う人だ。知っているのはその人の作品と、基本的に表に顔を出さないということだけ。その姿を知らない編集者は私だけではないのだった。
そもそもの担当編集者は私を指導してくれていた先輩であったのだが、彼は異動に伴って、それまで抱えていた仕事を後輩たちに割り振っていった。これはそうして私に与えられたうちの一件だ。先輩曰く、「一番大変な仕事」だという。何をもって大変なのか、詳細はとうとう教えてもらえなかった。これで引き継いだといえるのか、甚だ疑問である。
――まあ、先生は良い人だよ。スケジュール通りに動ける人だし。だから気負う必要はないんだけど。
けど、何だ。何度も尋ねたのに、答えはついにはぐらかされたままだ。不満は日に日に不安に変わり、現在は緊張として私の中に座り込んでいる。
先生は良い人。それも本当かどうか疑わしい。甘く湿った空気に囲まれた家に住む作家先生の作品は、主にホラー小説だ。もちろん仕事として読んだが、あまりに描写がえげつない、精神にくるタイプの作品で、ショックからしばらく他のことが手につかなかった。世間に衝撃を与えた話題作とは、つまりそういう意味らしい。
だからよほど陰気で、惨殺された人の幽霊みたいな人物なのではないかと、私は勝手に作家について推測していた。たとえば髪が長く黒々としていて、そのあいだからぎょろりとした目が覗いているような。そうしてペンを握りしめ、仕事の邪魔をするような編集者にはペン先を振り下ろし――。
「……いやいや、そんなの犯罪だから」
妄想を、頭を振って追い出そうとする。先輩がそんな目に遭って帰ってきたことはない。なかったはずだ。いつか誰かのサイン会に付き添って、どういうわけか大怪我をして入院したことはあったけれど。そういえば、あれも私には詳細を話してくれていなかった。
「そんなことより、仕事しなきゃ。先生に挨拶を。それから雑誌に載せる掌編の原稿を受け取る」
気を取り直して立ち止まる。もうドアは目の前だ。うるさい心臓を押さえるように胸に手を置き、深呼吸をしてから、空いているほうの手で呼び鈴を鳴らした。ジリリリ、という音が外側まで響く。それからまもなくして、足音が駆けるテンポでこちらへ近づいてきた。
私は違和感に首を傾げる。どうにも音が軽いような気がしたのだ。そう、まるで、子供のような。
「どちらさまですか」
そしてドアの向こう側から問いかける声も、まるっきり子供のものだった。先輩はこの家に子供がいるなどということは言っていなかったと思うが、なにしろ引継ぎが下手な人だから、言い忘れたのかもしれない。あるいは不要な情報だと思ったのか。作家が職業である以上は、家族関係って結構大事だと思うけれど。家で働いている場合は特に。
「サフラン社から参りました。レナ・タイラス先生はご在宅ですか」
半分訝しみながら、定型句を述べる。すると相手も疑問符が大いに含まれていそうな口調で弊社の社名を復唱する。子供の声は、たぶん男の子だ。
「担当の人、男の人じゃなかったですか」
「変わったんです。先生にはすでに申し上げているはずですが」
「ふうん? ……ちょっと待ってください」
足音が遠ざかる。まだドアは開けてもらえない。太陽の光と熱が、じりじりと肌を焼く。つい時計をしている手首を確認した。それから鞄の中のハンカチを気にする。
意識がドアの向こうから離れたのは、ごく短い間だった。
「すみません、サフラン社の方ですよね。お名前を伺ってもよろしいですか」
ドアを隔てて、さっきとは別の声。落ち着いた、柔らかな雰囲気。それなのにどきりとしたのは、それまで足音や他の物音が一切聞こえなかったからだ。まるで、突然玄関に降り立ったような。
少し慌てて、私はつっかえながら返事をした。
「は、はい。マクラウドから引き継ぎました、マトリ・アンダーリューと申します」
「マトリさん。ドネスさんから電話で聞いてます。今開けますね」
前の担当で私の先輩、ドネス・マクラウドは、作家への説明を怠ってはいなかったらしい。もしかしたら私よりも事情を詳細に話しているかもしれない、という疑惑が湧いた。しかしそれも含め、今まで私が抱えていた不安や疑い、そして緊張は、ドアが開いた瞬間、束の間消えた。
「はじめまして。レナです」
優しげな微笑みを浮かべる口もと。友好の見える瞳は金色。Tシャツにジーンズというラフな恰好で迎えてくれたのは、私とそう年が変わらないと思われる男性だった。
この人が、あのえげつない小説を? 心を抉って、悪夢を見せるホラーを? にわかに信じられないが、作家と作品は別であるともいう。そもそも私は、作家レナ・タイラスを女性だと思っていた。名前からも、作中に描かれるリアルで共感すら覚えてしまう情念の数々からも。
「外、暑いでしょう。お待たせしてしまってすみませんでした。中へどうぞ」
「はあ、どうも……。おじゃまします」
私の妄想をほとんど裏切って、レナ先生は存在していた。
氷の入ったミントティーと、小皿に丁寧に盛り付けられたクッキー。どうぞ、と勧められるままに一口ずついただくと、その美味しさに肩の力が抜けた。
「美味いだろ。今朝一番に焼いたクッキーなんだ」
正面に座った子供が得意気に言う。暗い青色の髪は夏の夜、瞳は絵葉書で見た海のような色をしている彼は、レナ先生とは似ても似つかない。けれども随分親しいようで。
「グリン、初めて会うお客様に対する言葉遣いじゃないよ。礼儀正しくね」
「わかってるって。紳士的に振る舞いなさい、だろ」
口をとがらせる子供の頭を、レナ先生は持ってきた紙の束で軽く叩く。そしてたった今武器にしたそれを、テーブルに置き、私のほうへと押しやった。
「こちらが今回の原稿です」
「ありがとうございます。拝見しても?」
「どうぞ。お茶もクッキーもまだありますから」
「いえいえ、おかまいなく」
と言いつつも私は片手に原稿、もう片方の手にグラスを持ってしまう。並ぶ文字を目で追いながら、爽やかな風味を喉に通す。ああ、なんて美味しい。気づけばクッキーももう一枚齧っていた。
綴られた物語は、そんな明るい夏の昼間を、真っ黒なクレヨンで塗りつぶすような不気味なものだったけれど。この人は間違いなく、ホラー作家のレナ・タイラスなのだと思い知らされる。粘ついた沼に引きずり込まれるような感覚が、先ほどまでとは違う緊張感を私に与える。
読み終わったとき、なぜか小皿にクッキーが増えていた。いつのまにか追加してくれたらしい。
「あ、すみませんでした」
慌てて謝る私に、レナ先生はにっこりした。穏やかで、邪気のまったくない笑み。どこまでも作品とギャップが大きい人だ。
「真剣に読んでくれていましたね。嬉しいです。……面白かったですか?」
「怖くて夜道を歩けませんよ。でも先が気になってどんどん読んじゃう。あ、念のため表現とかは問題ないです」
「そうですか、良かった」
刺激の強い作品を書く人だから、簡単なチェックは原稿を受け取ってすぐにやっておくように。数少ないまともな引き継ぎ事項だ。簡単といってもどこまでやればいいのかわからなくて、わざわざ校閲部へ行って自主研修をしてきたのだが、実際の原稿は思っていたよりマイルドだった。
怖かったけれど。今までに読んだレナ先生の作品に、引けを取らない怖さだったけれど。なんとも力のある掌編を仕上げたものだ。マイルドなのは使っている言葉で、そこから引き出される想像は自分の頭が再生したもののはずなのに鳥肌がなかなか戻らない。掲載したら、きっとまた大きな話題になるだろう。
「読者の反応が楽しみですね。先生のファン、明らかに増えてますし」
「そうですか? 人を選ぶものを書いてると思うんですけど」
「お話の展開が面白いですもん。私、先生の担当になれて良かったです。責任も重大になっちゃいましたけどね。私がモチベーション下げるようなことしたら、先生、遠慮なく言ってください」
担当とすれ違いが起きてしまい、それがきっかけで書かなくなってしまう作家もいる。先輩はレナ先生と本当に上手くやっていた。弊社からヒット作を連続して出せたのは、そのおかげもいくらかあるだろう。私が不安なのは、その状態を壊してしまうことだ。レナ先生が今まで通りに書けるようにしなくては。弊社からいい本を出せるようにしていかなくては。私は膝の上で拳を強く握りしめた。
「じゃあマトリさん、僕から一つお願いです」
ぴん、と人差し指を立てて、レナ先生が言った。私の名前を呼んで。そういえば、先輩のことも名前で呼んでいたっけ。はい、と返事をした私に、笑顔のまま続ける。
「ときどきここに遊びに来てください」
「遊び、に?」
「はい。ドネスさんは忙しくて、仕事以外ではなかなかここまで来られることがなかったので。もちろんマトリさんが忙しければ、無理にとは言いません。でも、こんな大きな家に住んでいて、お客がいないのはちょっと寂しいんです」
独り暮らしですし、とレナ先生は肩を竦める。すると私の疑問を、私より早く子供が口にした。
「俺がいるじゃんか。毎日でも泊まるのに」
「グリンにはお父さんとお母さんがいるでしょう。ちゃんと帰らないと」
「でもさ、俺、助手だよ? 母さんにも先生をよく助けるようにって言われてるしさ」
「それでも家があるなら帰らなきゃ。……ああ、すみません。この子は僕の助手で、グリンテールといいます」
子供はレナ先生の家族ではなかったのか。助手、とはどういうことだろう。子供の視点に立ったネタ出しでもしてくれるんだろうか。
「よろしく、マトリさん。俺は大抵ここにいるから、マトリさんが遊びに来てくれるならよく顔を合わせることになると思うよ」
「は、はあ……。ていうか、私が来て邪魔にならないんですか。先生はもっと静かにひとりで作品を仕上げているのかと思っていました。編集部でも、先生のお顔を知らない人が多かったですし」
「そんなことはないですよ。たしかに、外に出るのは渋っていますけれど。グリンが来てくれるから、うちは毎日賑やかですしね」
たしかに、このグリンテールという子がしょっちゅう出入りしているなら、まずひとりで黙々と仕事をするというわけにはいかないだろう。むしろ子供の相手をしながら、よく物書きができたものだ。
「それに、ここにはいろんな人が来るんです。僕はそれでも仕事ができますから、マトリさんもどうぞいらしてください。クッキーも、お好きならケーキでもアイスクリームでも、たくさん用意して待ってますから」
「いえいえ、作家さんにそんなことさせるわけには。……先生、いつお仕事してらっしゃるんですか」
「いつだってしてますよ。さぼってるように聞こえるかもしれませんけど、心配しなくてもちゃんと」
先生の仕事のしかたは、私には想像できないような独特のペースがあるのだろう。子供がいても気にせず、お菓子を作っても有効に時間を使える、そういうやりかたが。それは私が口を出すことではない。私は私の仕事を全うすればいいのだ。
改めて挨拶をして、この家を辞する。庭に出て大きな屋敷を振り返る。一人で住むには広すぎる家は、お客が複数来てやっとちょうど良さそうだけれど、そもそもレナ先生はどうしてこんなところに住んでいるのか。
「謎の多い人だなあ……」
暮らしのことだけではない。先生にまつわる妙な点は多く、けれどもどれも私のようなぽっと出の新担当が踏み込んでいいものかわからず――おそらくは余計なことをしないほうがいい。私たちの関係はあくまで仕事相手なのだから――今後の付き合いについては模索して、ちょうどいい距離を掴み保っていかなければならないだろう。
そう思っていたところへ、おーい、と背中に声がぶつかる。マトリさん、と呼ばれたので振り向いた。さっきまで聞いていたのだから、見ずとも声の主はわかっていたのだが、ぎりぎりまで気づかないふりをしたかったのだ。
「これ、先生がお土産にって」
グリンテール少年が、両の掌を広げてくっつけたくらいの大きさの包みを、私に向かって掲げていた。可愛らしいラッピングは、これも先生のお手製なのだろうか。だとしたらセンスがいい。
「ありがとうございます。でも、こんなに気を遣っていただかなくても」
「先生、お客さんが来るとすごく喜ぶから。だからマトリさん、本当に遠慮しないで、仕事の用事以外でも遊びに来てよ」
ニッと笑う少年から包みを受け取り、私は笑顔を作って頷いた。こちらが距離をとろうとしても、この子は、先生も、詰めてきそうだった。正直、やりにくい。
そんなことを考えながら鞄に入れた包みはやけに重くて、甘ったるい匂いは罪悪感を呼んだ。先輩は何故、私にレナ先生を任せたのだろう。
かたちのあるものを作る人は素晴らしい。彫刻でも、絵画でも、文章でも。中でもわたしは文章がいっとう好きだ。美しい文章、心が躍るような物語を書き残せる人というのは、輝いて見える。
その輝きが永遠のものであればいいのに。そう願うけれど、なかなかうまくはいかないものだ。作品が素晴らしいからといって、作家本人までもが聖人であるわけではない。残念なことに、純然たる清廉潔白というのは、案外実在しないものなのだ。
であれば、美しい作品を、その人の生涯で最も美しい瞬間のまま永遠のものとして残すことができれば、夢や憧れが壊れることはないのではないか。それどころか、人々によってより美化され、しかもそれが否定されることのないまま、伝説となることができるのでは。
わたしはわたしの素晴らしいと思う作家を、伝説の人として昇華させて差し上げたい。綺麗なものは綺麗なまま、作品と一体となって保存されればいい。誰の夢も傷つけない、最期まで誉れ高い存在であるように、お手伝いさせていただきたい。
「……大きな賞をとって、素晴らしいスピーチをして。国中があなたの輝きに注目している今こそ、あなたの喪失は惜しまれて伝説になる」
血だまりの中に伏す、昨晩の文学賞受賞式で大賞をとった作家。賞をとるよりもずっと前から、わたしはあなたの作品が好きで評価していた。いつか誰もが認めたときこそ、伝説になるべきだと思っていた。それが今夜、果たされたのだ。
作家の突然の死は新聞記事を飾り、多くの人が悲しみ、思い出とともに作品について語り合うだろう。こんなに素晴らしい作品を書く人格者であったと褒め讃えるだろう。それこそが理想の「喪失」。最上の美談。わたしが手伝い、綴られる、リアルな物語。
「ありがとうございました、先生」
さようなら。でも、ご安心を。先生の魂はいつまでも人々の心に生き続けますから。
手伝いが失敗してしまったこともある。作家が生き延びてそのままフェードアウト。それはそれで物語として成立しないでもないけれど、わたしはより理想的な結末を見たい。
せっかく、サイン会で大勢のファンの目の前で命を落とすという衝撃の展開を用意しようとしたのに。あの人は控えていた編集者に庇われ、その後二度と人前には出なくなった。当時の名前で作品を発表することもない。
でも、わたしにはわかっている。彼は文壇に戻ってきていて、新たな作品を新たな名前で世に送り出している。ジャンルと文章の癖が変わっていないのだから、気づかないはずがない。だから現在の名前が広く知れ渡り、再び表に出ることになるその日が、彼が今度こそ伝説になるときだ。わたしが間違いなく伝説にしてあげる。
それがあなたと世界のためになる。あなたを讃える世界を、わたしが見ていてあげる。その日が来るのをわたしは待っていてあげるから、あなたもわたしを待っていてね。
「レナ先生。また必ずお会いしましょうね」
月のない夜を歩きながら、一度だけ目が合ったあなたに約束した。