ホラー小説家レナ・タイラス。その正体は謎に包まれている。個人情報は性別も年齢も明かされず、これまで一切人前に出たことはない。
 私はその担当編集者。とはいえその役割を先輩から引き継いだばかりで、まだレナ先生のことをよく知らない。さすがに性別は知っているけれど、それ以外はやはり謎のまま。
 その人は今日も、広い庭のある大きな家で作品を書いて――
「マトリさん、いらっしゃいませ。今ちょうどケーキが焼きあがったところです」
 ――いなかった。どうやら今日はケーキの気分だったらしい。ちなみに昨日電話で話したときはビスケットの気分だった。
「大丈夫です、仕事はしてます」
 甘い香りの漂う家で、レナ先生はにっこりしていた。

 私の知っているレナ先生の情報は、次の通りである。
 レナ・タイラスは本名ではない。女性のような筆名だけれど、先生は男性だ。烏のように艶やかな黒髪と優しげな金色の瞳が印象的。体型は痩せ型、身長は少し低め。話す声はどこかふわふわしている。
 書くのは前述の通りホラー。それもえげつなく残酷で人の心を抉り中身を無理やり引っ張り出すような、なのに何故か癖になる作品ばかり。そのせいか、先生のことを根暗な悪魔崇拝の黒魔術使いのような人だと思っている読者は多い。ある意味、顔出ししたらイメージを壊すタイプだ。
 趣味はおそらくお菓子作り。これまでに挨拶、打ち合わせ、原稿の回収などで度々先生のもとを訪れているけれど、毎回お菓子をこしらえている。そして私はまんまとご相伴にあずかっていた。これが大層美味しく、先生に持たされたお土産は編集部の面々の楽しみになってしまっている。
 そんなことをしていても先生は締切を破ったことがない。いつ書いているのか、どれほどの速さで仕上げているのか、それは誰にもわからない。
「今日はグリン君はいないんですか」
「博物館の子供向け講座に行ってるんです。終わったら来るそうですよ」
 先生には助手がいる。どういうことを助けるのかはわからないけれど、そう自称する少年がこの家に出入りしているのだ。
 少年の名前はグリンテール。まだ十歳にもなっていないように見えるけれど、実際の年齢は知らない。暗い青色の頭髪がその辺をぴょこぴょこしていないと寂しいと思うくらいには賑やかな子だ。先生の家族というわけではないらしい。
 見ればわかることと、たくさんの謎。こんなに広い家に独りで住んでいる不思議な人が、私はまだ少しだけ苦手だ。作品は読むうちに大好きと言えるようになっていたのだけれど、人間性が底知れない。

「プロットの段階でこんなに怖いなんて、期待大ですね」
 私は震える体を擦り、出してもらった紅茶を飲んだ。温かくてじんわりと甘くて、内側から少しずつ落ち着いていく。
 先生は今、私たちが作る文芸雑誌に連載を持っている。もうすぐ単行本にまとめる準備が始まる予定だ。そういうわけで先生にはこの作品を書き上げてから、今までの作品の加筆修正についても考えてもらうことになる。
「怖くて面白い本、作りましょうね。これが私が先生を担当させていただいてから初めての本になりますし」
「そうですね。マトリさんがついていてくれるなら、きっと良い本になると思います」
 まずはこれをちゃんと完成させますね、とレナ先生と約束し、帰ろうとしたところでいつものようにお土産を持たされた。しっとり重いケーキはまた編集部の皆を喜ばせるだろう。もちろん先生が良い仕事をするのが前提だけれど。
 うきうきと門を抜け、来た道を戻る。途中ですれ違った人が振り向いた気がした。ケーキの香りのせいかもしれない。

 理由はわからないけれど、レナ先生は外に出ない。少なくとも私たちのような出版社の人間とは外で会わないことになっている。
 私の前任である先輩はおそらく知っているのだろうけれど、いまだに詳細を濁されている。面倒かもしれないが先生の家に行ってやってくれ、という言葉に従っていると、お菓子を食べられるようになった。もしやお土産が狙いで行かされているのでは、という疑いは日増しに濃厚になる。
 レナ先生から原稿が完成したという連絡を受け、いつものようにあの大きな家に向かう。完成した原稿は郵便で送ればいいと思うのだけれど、これも先輩の言うとおりに迎えに行っている。やはりお菓子が欲しいからなのでは。
 ただレナ先生からも言われているのだ。「この家に遊びに来てください 」と。遊びには心情的に難しいけれど、レナ先生も誰かが家に来ることを望んでいるのだった。
 門の前に立つと、その向こうの庭から草の匂いがする。初めて来たときは夏で、匂いも湿って青かった。秋も深まる今は、木の花の甘い香りと乾いた空気。この庭は好きだな、といつも思う。
 深呼吸をして足を踏み入れようとしたとき、家から誰かが出てきた。先生でも、グリン君でもない。紺色のスーツを着た、金髪の、あれは女性?
 その人はこちらに気づくと、早足で近づいてきた。段々顔がはっきりと見える。綺麗な子だ、と見とれているうちにわかった。
「あなた、この家に何の用? 以前も来ていたでしょう」
 何故か彼女は、大変ご立腹のようだった。
 私はたじろぎながら、でもなるべく平静をそよおう。だって知らない人を怒らせる理由がない。以前も来ていたと言うけれど、それがいつのことなのか見当もつかない。
「わ、私はレナ先生を担当させていただいている編集者です!」
「どこの人? 名前は?」
「あなたこそ誰ですか?! 人に名前を訊くときは自分から名乗るものでしょう!」
 彼女は私より背が低いけれど、堂々としていて迫力がある。必死で言い返していると、なんだか自分が子供っぽく感じて情けない。
 少しの間があって、彼女は「それもそうね」と呟いた。そして提げていた鞄から名刺入れを取り出し、私に一枚差し出す。
「アメジストスター出版のマリッカ・エストと申します」
 同業だ。私は息を呑んで、受け取った名刺を眺めた。アメジストスター出版はうちよりも老舗で、規模も大きい出版社なのだけれど。
 私はおそるおそる、自分の名刺を用意した。
「サフラン社のマトリ・アンダーリューです」
「あら、サフラン社さん」
 名刺を受け取ったマリッカさんは、ほんの少し声を柔らかくした。
「良い本を作るところよね。同業として負けられないと、いつも思っているの」
 怒っていたと思ったら、突然褒められた。ありがとうございます、と返事をして、こちらも何か言わなければと言葉を探す。
「アメジストスター出版さんも、すごく素敵な本を作ってるじゃないですか。私、冒険図鑑シリーズが大好きで」
「当然よ。わざわざ言わなくても良いわ」
 見つけた言葉はバッサリと斬り捨てられてしまった。お礼や笑顔を期待していたわけではないけれど胸が痛い。涙が出そうになるのを堪えていると、マリッカさんは溜息をついて言った。
「あまり過密なスケジュールをレナ先生に押し付けないでくださいね。あの人、体力がそんなにあるわけではないので」
「……そんな」
 マリッカさんが出版社の人間であるなら、彼女も先生とは仕事の話をしに来ているはずだ。私たちばかりが先生を忙しくさせているわけではないだろう。なのに、まるで私たちにだけ非があるような言い方をされるのは心外だ。
 でも言い返せない。私は先生がどんなふうに仕事をしているのか知らない。私が訪問したときはいつも優雅にお菓子なんか作っているけれど。
 私の横を通り過ぎて去っていくマリッカさんを見送る。しゃんと伸びた背中は、小さいのに私よりずっとしっかりしている。きっと先生も信頼しているんだろうと、容易に想像できた。

 黄金色をした焼き菓子を、向かいのソファに座ったグリン君が頬張った。私はといえばなんだか食べるのが悪い気がして、まだ一つも手をつけていない。
「マトリさん、これ嫌い?」
「あ、違うの。そうじゃなくて……」
 首を傾げるグリン君に、慌てて否定を返す。
「いつもいただいてしまって、悪いなと思ってたの」
「悪くないよ。先生が好きでやってるんだ。ていうかさ、今日は俺も手伝ったんだから食べてみてよ」
 グリン君がにんまりして促すので、仕方なく手を伸ばす。いや、嘘だ。本当はさっきから美味しそうな香りがしていて、食べたくて仕方なかった。
 歯をたてるとさくっとしていて、でもその下はしっとり。甘みが舌から脳を刺激する。やはり先生の作るお菓子は美味しい。
「美味い?」
「とても美味しい。グリン君もお手柄だね」
 得意げで嬉しそうな少年に、少しだけ心が救われる。またはねつけられたらどうしようかと怯えていたのだ。
「マリちゃんもお土産いっぱい持って帰ったんだ。コーヒーと一緒に食べるんだって」
「マリちゃん? ……ああ、マリッカさんのこと?」
 私のことは「マトリさん」と呼ぶのに、グリン君は随分マリッカさんと親しいらしい。ということは、きっと私が思うよりも付き合いは長いのだ。
 でも先生は、今までアメジストスター出版から本を出したことがあっただろうか。少なくとも私の記憶にはない。何か寄稿したとか? デビュー前に持ち込みをしたとか?
 レナ・タイラスはサフラン社、つまりうちからデビューしたはずだ。それからほとんどの著書をうちで出している。では、アメジストスター出版とはどんな繋がりがあるのだろう。
 考えていると、レナ先生がグリン君の隣に座った。
「お待たせしました。では、スケジュールの話ですけど」
 先生は今日もにこやかだ。顔色は悪くないし、動きにも疲れた様子はない。でも私はマリッカさんの言葉を思い出して、慎重に尋ねた。
「あの、もしお忙しいのであれば、調整しましょうか。それも私の仕事なので」
「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。余程のイレギュラーがない限り、予定通り動けます。ただその後は他の仕事が入ります」
 ここに来てすぐに、連載の最終回の原稿を受け取っている。これからゲラが出て、チェックをして、それから単行本の作業を進めていく予定だ。
 その後の他の仕事が、アメジストスター出版のものなのだろうか。
「さっき、外でアメジストスター出版の方に会いました」
「あ、会ったんですね」
 一瞬、責めるようでまずかったかなと思ったけれど、レナ先生は何故か表情を明るくした。
「マリッカちゃんもマトリさんと同じくらい仕事熱心な子で、ずっと僕の本を出そうと頑張ってくれてたんです。ええと、そういうことで、サフラン社さんの仕事が一段落したらそちらを進めたいんです」
 先生の使う言葉の一つ一つから、マリッカさんと親密であることが伺える。もしかして、単なる作家と編集者というだけの関係ではないのかもしれない。
「承知しました。先生が売れっ子で嬉しいです」
「売れっ子だなんて。僕はただ……」
 照れて笑う先生は可愛らしい。実年齢がわからない表情を、私は口角をぐっと上げ、目を細めて眺める。
「ただ、読んで欲しい人のために書いているんです」
 先生。それ、誰ですか。意地悪な質問を、心の奥底に押し込め沈めた。

 会社に戻って、レナ先生にいただいた焼き菓子を共有スペースの菓子籠に盛っていると、すぐに人が集まってきた。
「マトリちゃん、おかえりー」
「お疲れ様、マトリちゃん」
 私を労う言葉は「いただきます」と同じ。お菓子はみるみるうちに減っていく。いつもの光景の後は、こっそり隠していた二つを持って別の部屋へ向かう。
 隣の編集室には原稿を睨む先輩の姿がある。近寄っていき、お菓子をそっと机に置くと、彼は顔を上げてにやりとした。
「おう、戻ったか。先生は元気みたいだな」
「はい。最終回の原稿もばっちりいただきました」
 ドネス・マクラウド先輩は、今年の夏までレナ先生を担当していた。文芸から今の週刊誌に異動する際に、抱えていた仕事を私たち部下に割り振っていったのだけれど、そのときにこう言ったのだ。
 ――レナ先生の担当が一番大変な仕事だ。でもマトリなら大丈夫だろう。
 たしかに大変ではある。他の作家を担当している人たちは、私ほどは出歩かない。原稿も郵送で受け取るし、打ち合わせは会社の建物に入っているカフェで行うことができる。そのかわりといってはなんだけど、スケジュール調整が最も楽なのは私かもしれない。少なくともレナ先生は予定通りに動いてくれる。
 でも、先輩の言う「大変」はそういうこととは別のところにあるのだろうと、私は気づき始めている。
 先輩の仕事の邪魔にならないことを確認してから、私たちは部屋の外に移動した。街の景色が一望できるラウンジは、リラックスして話をするにはもってこいの場所だ。
「今日、アメジストスター出版の方と入れ違いだったんです」
 色を変えていく夕景を眺めながら、先輩に奢ってもらったコーヒーとレナ先生の焼き菓子をいただく。甘さと苦さの絶妙なバランスが最高だったけれど、今の私はうまく笑えない。
「アメジストスターか。若い女性だったか?」
「はい、先輩はご存知なんですか? マリッカ・エストさんという方なんですが」
「知ってるよ。俺も何度か見たことがある。学生時代の同級生がアメジストスターにいるんだが、彼女はその部下だ。君とは同い年だったと思う」
 引き継ぎのタイミングも同じはずだ、と先輩は事も無げに言う。私は首を傾げ、いや捻り、疑問を口にした。
「それはおかしいですよ。先生はマリッカさんと付き合いが長いようなことを言ってました」
「ああ、長いよ。彼女はレナ先生の本を作りたくて出版業界に入ったんだ。デビュー前からの熱心なファンなんだとさ」
「それは、同人誌か何かを読んだんでしょうか」
「いや、幼馴染らしい。それで先生が趣味で書き始めた頃からずっと読んでるんだ」
 なんて羨ましい。そんな感想が先に出てくれたら良かったのに、咄嗟に出た思いは違った。
 そんなの、勝てっこない。――何に勝つのか、どういう勝負なのかもわからないのに、眼前に閃いた言葉はこれだった。
「ドネス先輩、どうしてそんなこと知ってるんですか」
「そりゃあ例の同級生と話してたからな。当時はうちの新人自慢で盛り上がったんだ」
 個人情報の漏洩ではないだろうか。そうつっこもうとしたけれど、先輩は笑顔で続けた。
「それぞれに似てる新人が入ったなってさ。マトリもそうだっただろう」
「……そう、ですね。今にしてみればかなり恥ずかしいですけど」
 私がここに勤めたいと思ったのも、大好きな作家が出す本に関わりたかったからだ。いつか担当して、一緒に作品を作り上げたいと熱望していた。
 けれども、私とマリッカさんには決定的な違いがある。彼女はレナ先生の本を作るという願いを確実に叶えられるところまできているが、私の願いはもう叶えられない。
 私の愛した作家は、もう書かない。私が入社してから一度も作品を出していない。とても人気があったのに、ぱたりと名前が挙がらなくなった。
 その人もホラーを書いていた。レナ先生ほどはえぐい描写はなかったけれど、ストーリーテリングの巧みさは似ている。怖いのに、どこかにふとした優しさが見えるところも。
 だから先輩は私にレナ先生の担当を振ってくれたのかもしれない。私の叶わなかった夢の代わりに。
 私はレナ先生の作品が好きだ。大好きだけれど、まだどこかで失った夢を追っている。そんなことだから、マリッカさんとは熱量が違う。
「……あの、先輩は、レナ先生が何のために作品を書くのかを聞いたことがありますか?」
「何のためにって?」
「ええと、誰かのために書いてるとか」
 幼馴染であるなら、もしかしたらマリッカさんはレナ先生の最初の読者だったかもしれない。私を色々な意味で震えさせた作品の数々は、彼女のために書かれていたのでは。
 先輩は少し考えてから、ぽつりと言った。
「大切な人のため、と言っていた」
「誰ですか、それ」
「知ってどうする」
 苦笑する先輩に、私は慌てて弁解の言葉を探して返した。
「ええと、あの、マーケティングですよ。先生が読んで欲しい層と先生の作品が好きな層って、一致してるんでしょうかね」
 かなり苦しい言い訳であることは自覚している。先輩にも伝わっているようで、それでも優しく返事をしてくれた。
「あの作風なのに、老若男女にウケてるからな。ホラーが苦手な人でも、一度読み始めたら結末が気になってしまう」
「そうですよね。それが先生の作品の魅力です」
「そういう作品にしようと、あの人は努力してきた。どうしても読んで欲しい人がいるんだと、デビュー当時に話してくれたよ」
 遠くの、広がり始めた夜空を見るように。先輩はどこか懐かしそうにそう言った。
「なんだか昔話をしているみたいですね。レナ先生のデビューって、たしか一昨年の冬でしょう。夏に先輩が発掘して、改稿してからうちの文芸誌に載って、それで」
「ああ、そうだった。まあ、そういうことであの人にも想定する読者はいるし、相手はちゃんと先生の作品を読んでる。心配するな」
 言い切るということは、先輩はその相手を知っている。ここまでの情報を整理すると、相手はやはりマリッカさんのように思う。
 大切な人。お互いにそう思えることは羨ましくて、何故か少し悔しい。

 レナ先生の連載の最終回が巷で話題になる頃、単行本の表紙ができてきた。少し前にラフを先生に見てもらっていて、既にかなり気に入っている様子だったけれど、これは絶対喜ぶだろうという仕上がり。私も思わずにやけてしまう。
 夢中で仕事をしているうちに、抱えていたもやもやは忘れていた。そんなことを考えている場合ではないのだ、ここは常に忙しく回り続ける戦場で、私は働かなくてはならないのだから。
 早速先生に連絡をして、表紙を見せに行くことになった。いつもの道を通って大きな家に向かうと、庭にグリン君の姿がある。大きな箒を持って、真面目な顔をして落ち葉を集めていた。
「こんにちは、グリン君」
「あ、マトリさん。もうそんな時間だっけ」
「うん、約束の時間ぴったり。先生はご在宅?」
「家にいない日がないよ。でもさあ……」
 ちら、と家の方を見るグリン君は、少し困った顔をしている。いつも元気な彼にしては珍しい。
「ちょっと長引いてるみたいなんだよね」
「何が?」
「マリちゃんとの打ち合わせ」
 その名前にどきりとする。マリッカさんが来ていたのか。予定が重なってしまうほど打ち合わせが長引くなんて。
 私の表情が固くなったのを見て、グリン君は焦ってしまったらしい。
「あの、レナ先生はちゃんと時間を見てたんだ。だからマトリさんを忘れてるとかじゃなくて、本当にこんなことになるなんて思ってなかったんだよ。だから怒らないでくれよな」
「ううん、怒ってないよ。じゃあ、ここで待っててもいいかな。マリッカさんとのお仕事の話を聞くわけにはいかないし」
 子供に気を遣わせてしまったことを反省して、私は笑顔をつくる。掃除を手伝おうかとグリン君に言うと、彼は首を横に振った。
「掃除っていうか、おやつの準備だから。母さんの知り合いが農業やってて、芋を送ってくれたんだ。ほくほくで甘くて美味しいから、シンプルに焼いて食べてみてくれって」
「まさか、ここで焼き芋するの? できるの?」
「毎年やってるよ。去年はマリちゃんとセンちゃんもいた。マリちゃんが意外とこういうの好きなんだよな」
 幼馴染なら、以前もこういうことがあってもおかしくはない。グリン君の説明に相槌を打ちながら、さりげなく傍らにあったちりとりに手を伸ばした。
「マトリさんはセンちゃんにはまだ会ってないよな。マリちゃんのお兄さんでさ、そっくりなんだぜ。双子なんだって」
「へえ、マリッカさんにはお兄さんがいるんだね。グリン君にはきょうだいはいないの?」
「俺はひとりっ子だよ。でも友達がいるし、レナ先生は兄ちゃんみたいなもんだ。従兄だもん」
 さらりと衝撃的なことを言われた。グリン君はレナ先生の助手としか聞いていなかったけれど、親戚だったのか。だから頻繁に出入りできていたと、そういうわけだったらしい。全然似ているところはないようだけれど。
「従兄って、先生のご両親のどちらかがグリン君のご両親のどちらかときょうだいだってことだよね」
「俺の母さんが、先生の片っぽの父さんの妹なの。たしか十一歳も違うから、俺と先生もめちゃくちゃ歳が離れてるんだ。パッと見、親子みたいだろ」
 満更でもないのか、グリン君はにんまり笑っている。引っかかる言葉があったけれど、そこはただの担当編集者である私がつっこんでもいいものなのか。
 流しておいた方がいいだろう、どうせ私は他人だ。そう判断したそのとき、ドアが開く音がした。話し声も聞こえる。
「ごめんなさい、長々と」
「ううん、マリッカちゃんが熱心でいてくれるのは嬉しいよ。後でお芋も届けさせるね」
「いいわよ、そんなの」
 親しげなのは、本当に親しいから。またね、と手を振りあった二人を眺めていたら、目が合ってしまった。
「マトリさん、もういらしてたんですか。声をかけてくれればよかったのに」
 レナ先生が慌てて駆け寄ってくる。その後ろをマリッカさんが呆れたような表情で歩いてきた。
「大丈夫です、グリン君とお話してたので。それにお仕事中だと伺いました」
「時間……ああ、とっくに過ぎてる。ごめんなさい」
 申し訳なさそうに額を押さえる先生の隣に、マリッカさんが靴音を鳴らして立った。以前と目線が違うのは、ヒールが高いからだ。
「いいえ、私が話を長引かせたせいです。すみませんでした、アンダーリューさん」
「い、いいえ、そんな」
 滅多にない呼ばれ方をされて怯んでしまう。名前を覚えてくれていることはわかったが、他人でいたいということも伝わった。
「では先生、また後日」
「気をつけてね」
 颯爽と去っていくマリッカさんの背を目で追いかけようとすると、レナ先生が「行きましょう」と家へ促す。グリン君は落ち葉集めを続けるようで、こちらに向かって手を振った。

 思ったとおり、表紙はとても喜ばれた。きれいですね、と先生は何度も印刷された絵を撫でている。こんなに喜んでもらえたら、装画を描いてくれた作家も嬉しいだろう。戻ったら早速伝えよう。
「今回はこの一案に絞りましたけれど、よろしいですか?」
「最高の出来です。僕の書いたものをすごくよく読み込んでくれたんですね、きっと」
「大ファンだって仰ってました。関われて光栄だって。次回が決まったら、またお声掛けしましょうか」
 この作家さんならきっと、と思ったのだけれど、先生は少し考えたようだった。それから躊躇いつつ、切り出す。
「……実は、装画を描いていただくことを目標にしている作家がいるんです」
「そうなんですか? もっと早く言ってくださればアプローチしたのに」
「いいえ、多分断られます。ドネスさんが何回か頼んでくれたんですが、駄目だったので」
 それは確かに言い難い。相手は気難しい人なのか、単に経験がないから遠慮しているのか。どなたですか、とすぐに尋ねるべきだったのだけれど、その前に先生が言った。
「それにしても、今回の装画もとても良いですね。毎回素敵な装丁にしていただいて、本当にありがとうございます」
「はい、デザイナーにもそう伝えますね」
 先生の謎が、今またひとつ増えた気がした。このことは後で先輩に確認した方がいいだろうか。
 そう思っていたら、つい口をついて出てしまった。
「……レナ先生、どなたに読んで欲しくて、作品を書いていらっしゃるんですか」
 出てしまったことは、もう引っ込められない。誤魔化すことも何故かできなかった。
 何の脈絡もない問いだ、先生が戸惑うのも無理はない。暫しの間は、あまりに静かすぎた。
「大切な女性がいるんです」
 やがて先生は、はっきりとそう言った。
「女性……ですか」
「はい。彼女はホラーがとても苦手なんです」
 マリッカさんはそうは見えなかったけれど、意外と怖がりなのだろうか。私は思わずちらりと外を見てしまう。
 すると先生は、くすくすと笑った。
「一応ですけど、マリッカちゃんではないですよ。彼女はどちらかというとホラーや伝奇が好きなタイプです」
「え、違うんですか? 私、てっきり……」
 では、他に誰が。考え込んでしまった私に、先生は少しだけ教えてくれた。
 その人は先生の恩人であり、また生まれて初めてできた親友なのだという。今は相手の仕事が忙しくて、年に一度会えたら幸運なのだとか。
 ジャンルを問わず大抵の本は読むのに、ホラー小説は苦手。ホラー漫画もおそるおそる読むらしい。想像力が豊かで、文章から受けるイメージの方が絵よりも恐ろしく感じるという。私にはその感覚がわかる、と言うと先生は少し嬉しそうだった。
 そんな怖がりな彼女でも、最後まで楽しく読めて、しかしながら容赦しない物語を。手加減されたり、手温く妥協されることを、彼女はとても嫌うから。
「僕の作品は彼女との勝負から始まりました。だから僕は、今でも彼女に満足してもらえることを意識して書いています。もちろん、たくさんの人に楽しんでもらいたいとも思っていますよ」
 最強の読者。先生にはそんな人がついている。長年付き合いのある編集者でも敵わないような存在が、先生を動かしていたのだった。
「先生、いつからそうしてるんですか」
「十四歳のときに始めたから、十四年かな。もう人生の半分は書いてる」
 今、私は初めて先生の年齢を知った。もっと若く見えたけれど、四つ上だったのか。
 私は先生のことを、まだまだ知らない。

 会社に戻ると、先輩はわざわざ手を止めて来てくれたようで、私をラウンジに呼んだ。
「ちょうどお話したかったので、ありがたいです。レナ先生の大切な人って、親友の女性だったんですね」
 先生にいただいた手作りかぼちゃクッキーを、先輩にもお裾分けする。ほろっとして美味しいところに、コーヒーを飲むと最高だった。
「なんだ、聞いたのか」
「聞けました。名前は聞いてないですけど、マリッカさんじゃないことはわかりましたよ」
 この件はこれで解決した、ということにしておく。問題は新たな謎の方だ。今後の先生との付き合いにも関わるので、確認しておきたい。
「ところで先輩、私に教えてくれていないことがありますよね。先生が目標にしてる装画家さんのことなんですが」
 私の夢は破れてしまったけれど、先生の夢は叶えられるなら叶えたい。最強の読者にはなれなくても、私は先生の担当編集者で、先生の作品を世に送り出すことができる。最強の読者を満足させるために先生を支えることが、私の仕事だ。
 ところが先輩は曖昧な笑顔をつくった。
「……それな、ものすごく難しいし、実現させるならそれこそ社運を賭けることになるぞ。相手も何度も断ってるしな」
「そんなにすごい人なんですか? それは一体……」
 息を呑む私に、先輩は真剣な眼差しを向ける。それは、とゆっくり口が動く。
「マクラウドさん、まだ戻れませんか? 原稿の差し替えしなきゃならなくなったんですよ!」
 ラウンジに駆け込んできたのは、先輩の今の部署の人だ。いつ情報が更新されるかわからない週刊誌は忙しい。本来であれば、先輩はもう私になんか構っていられない。
「おう、今行く! 悪いな、この件は君が先生から信頼を勝ち取って直接聞き出せ。その方が良い」
「え、ちょっと、先輩」
 走り去る先輩の背中を呆然と眺める。暫くは話しかけることもできないだろう。こちらにも仕事はたくさんある事だし。
 私の背後に広がるのは、とうに暮れた秋の夜だ。長い長い、闇の時間が始まっている。