年末が近づいてくると、街は浮き立つ。綺麗な飾りがあちこちにあって、子供達がはしゃいでいる。
 楽しそうでいいなあ、と眺める私は、自分の勤めるサフラン社の社屋にはいない。今いる場所は、同業であるアメジストスター出版の社屋一階のカフェだ。
「この忙しい時期に、まったく……」
 そして苛立ちを隠すことなく正面に座るのは、アメジストスター出版の文芸編集者、マリッカ・エストさん。私の今回の仕事のパートナーである。――彼女は不本意のようだけど。
「アンダーリューさん、さっさと資料を作って営業に渡しましょう。お互い時間を無駄にはしたくないわよね」
「は、はい!」
 お互い、とは言っているけれど。確かにその通りなのだが、私には「こちらの邪魔をしないでくださる?」と聞こえてしまうのだった。
 私たちが取り組むのは、出版社の垣根を越えた「イチオシ作家全作一気読みキャンペーン」という企画。来年一月から三月にかけての大規模な販促だ。メインで進めるのは各社の営業部なのだけれど、編集部同士で協力して作家のプレゼン資料を作って欲しいという依頼があった。
 ところで「年末進行」というものがある。大型休暇の前の仕事は印刷会社との兼ね合いもあって、いつもより締切を早めて休み前に片付ける必要があるため、死ぬほど忙しい。そんなときに企画の準備を持ってこられたら、当然時間はいくらあっても足りない。
「アンダーリューさん、考えてきてくれました?」
「こちらにまとめてあります。……できるところまで」
「そう。別に期待してなかったからそんなに恐縮しなくてもいいですよ」
 そして配慮も足りない。心に余裕がないとき、人は言葉を選べなくなる。マリッカさんはそもそも私に対してはあたりが強いけれど。
 折れそうになりながらも頑張れるのは、私たちの「イチオシ」がレナ先生だからである。
 レナ・タイラス先生――デビューからもうすぐ二年になる、人気のホラー作家だ。心を抉るような展開の中にちょっとした優しさを加え、見事な物語を完成させる。癖になる怖い話として、新刊の売れ行きも好調だ。我がサフラン社に続いて、先日アメジストスター出版からも上梓している。
 先生は所謂「覆面作家」で、年齢も性別も一切明らかにしていない。名前と作風から、人を呪い殺せそうな魔女か怨霊のような人が連想されることが多いけれど、実際はかなりイメージとはかけはなれた人物だ。
「やっぱり謎の作家推しでいきます? 考察も色々出てるみたいですよ」
「出てるなら今更それを推す必要はありません。作家の人物像よりも作品を真っ向から推すべきです。大体、先生のことをあれこれ妄想している不届き者に加担するような行為は愚かの極みです」
 私の案その一がばっさりと却下される。元々通ると思わなかったのでいいけれど。
「じゃあ、最新作の『囁き』と『土が嚥む』を前面にしつつ他の作品も」
「『囁き』は最新じゃなく、そちらで連載していたものでしょう。最新作といえるのはこちらで書き下ろした『土が嚥む』です」
 ですがそれでいくべきでしょうね、とマリッカさんは話を進めていく。私はやはり、彼女に嫌われているのだろうか。けれども今は心の中でさめざめと泣く時間すらも惜しい。

 疲れきってサフラン社に戻ると、電話があったよ、と声をかけられた。デスクに行くと、今日散々出た名前が付箋に書いてある。
 レナ先生の新作のプロットができているそうだ。今年中に完成させておかなければならないものは、先生の場合はほとんど片付いている。このプロットの確認が今年最後の仕事だった。
 もちろん他にも担当している作家はいるから、これで全部終わるわけではない。ただ、レナ先生に限っては進行がいつも非常にスムーズなので、その分だけは楽ができる。微々たるものではあるけれど。
 折り返すと、受話器の向こうから子供の声がした。先生の助手のグリン君だ。何の助手かは未だに不明である。
「サフラン社のマトリです。いつもお世話になっております」
「マトリさん、お疲れ様。先生に用事?」
 ファミリーネームであるアンダーリューを名乗らないのは、私のことを「マトリさん」で覚えている彼が混乱しないようにだ。以前「誰?」と言われてから気をつけている。
 スケジュールの話をと言うと、すぐにかわってくれた。
「お世話になっております。レナです」
 ふわっとした癒される声。疲れすぎていて泣きそうになるのを堪え、私は挨拶と要件を告げる。レナ先生との打ち合わせや原稿の受け取りは、必ずこちらから出向くことになっているのだ。
 レナ先生は外で担当編集者と会わない。原稿は基本的に、先生の家を訪問して預かってくる。他の作家は郵送するので、この部分は少し手間だ。
 しかし損ではない。何故ならレナ先生を訪問すると特典があるから。それも私だけではなく、編集部の甘い物好きみんなに。
 明日の予定を書き込んで、今日の仕事に戻る。レナ先生と話すと、なんだか元気が湧いてきた。

 レナ先生はいたって穏やかそうな、細身の男性である。その作風からは想像できない優しい人で、手入れされた広い庭のある大きな家に住んでいる。
 はたしてその日の特典は、レナ先生が焼いたジンジャークッキーだった。お菓子作りが好きなのか、訪問するといつも何かしらこしらえている。
 プロットは完成度が高い。これをさらに詰めて書いて、レナ先生の世界は完成していくのだ。
 絶対に締切を守る先生がどんなペースで仕事をしているのか、それも謎の一つである。
「マトリさん、年末はどう過ごすんですか?」
 原稿を揃えていると、先生がふわっとした声で問う。あちらから何か訊いてくることは珍しい。
「どうせひとりなので、ちょっとお酒をいただきながら美味しいものを食べて過ごします。貴重なお休みですからね。先生は?」
「僕も似たようなものです。お酒は飲めませんけど」
 先生はお酒が飲めない。私にとっては新しい情報だ。いつもお菓子を作っているし、超甘党なのかもしれない。
「グリン君と過ごさないんですか?」
「グリンには家がありますから」
 先生の隣でジンジャークッキーを頬張っているグリン君は頷いたけれど、どこか渋っているようにも見える。本当は先生と一緒にいたいのかもしれない。
 ときどき先生は、グリン君には帰る家があるということを強調する。あまりにもこの家に入り浸るから心配しているのだろうけれど、当のグリン君はここにいる方が好きなのか、自分の家の話はしない。
 先生はご実家に顔を出さないのだろうか。こちらも聞いたことがないが、私から尋ねるのは遠慮していた。
「ひとり同士なら、先生とマトリさんが一緒に過ごせばいいじゃんか」
 グリン君は拗ねたように言う。そんなことできるわけないですよ、と笑い飛ばそうとしたら、先生は真面目な顔で「なるほど」と呟いた。
「マトリさん、うちに美味しいもの食べに来ます?」
「な、何を仰るんですか?!」
「お酒もありますよ。僕は飲みませんけど、頼めば知り合いが分けてくれると思うので」
「そういう問題ではなくてですね?!」
 さすがに冗談だろう、と思うのに先生が言うと笑えない。顔が熱くなって、冬だというのに汗をかく。グリン君も先生を止めてくれない。わたしが言葉を継げないでいると、先生が立ち上がる。身構えた私に、にっこりして言った。
「クッキーのおかわりと、お土産も持ってきますね」
「あ、ありがとうございます……」
 台所へ消えていく先生を見送りながら、早くなった拍動を落ち着かせようと深呼吸をする。どうしたんだろう、今日の先生。あんな冗談を言う人だっただろうか。
「夢見悪かったんだな」
 グリン君がぽつりと零す。私が首を傾げると、小声のまま続けた。
「先生、たまにすっごい悪夢見るんだってさ。そういう日は人恋しくなるみたい」
「悪夢? どんな?」
「俺もわかんない」
 先生の書くものも、大概悪夢みたいなものだけれど。それなのに人恋しくなるほどの夢を見て、様子がおかしくなるのか。担当になって半年近くになるけれど、先生のことはまだわからない。
「人恋しいくせに、俺には家に帰れって言うんだ。もっと頼って欲しいんだけどな」
 さっきまでクッキーを口いっぱいに詰め込んでた子がこんなことを言う。それだけ先生のことが大好きで、心配なのだろう。
 こんなときにどう対応するのが正解なのか、マリッカさんなら知っているだろうか。彼女は先生の幼馴染らしいし。
 クッキーを山盛りにしたお皿とお土産の袋を持って、先生が戻ってくる。私はもう行かなければならないけれど、クッキーはグリン君がまた頬張るだろう。
 いただいたお土産は、忙しくて目が回っていた編集部の面々の貴重な栄養となった。

 マリッカさんとの二度目にして最後の打ち合わせの日。彼女はやはり不機嫌だったが、これで仕事はひとつ片付いた。
「資料はこれで完成ね。お疲れ様でした」
「お疲れ様です。それにしてもマリッカさん、こんなに情熱的な資料を作るなんて素晴らしいですね」
「資料に情熱も何もありません。私はただレナ先生の作品の魅力を正確に伝えたいだけです。これでもまだ足りない。あなたは違うの、アンダーリューさん?」
 マリッカさんの瞳は宝石のような紫色で、炎のように輝いている。仕事に、そしてきっとそれ以上にレナ先生に対して熱心だ。先生の本を作るためにこの業界に入るほど。
「私だって、先生の作品の面白さはより多くの人に知っていただきたいです」
「そうよね。だったらその頭を、私に妙なお世辞を言うためではなく先生のために使って」
 もっともだ。お世辞を言ったつもりはないけれど、向き合うべきは先生と作品であると彼女は言っている。
「では、これで。そちらの営業部によろしく」
「あ、待ってください、マリッカさん。先生の夢見が悪かったときの対処法ってご存知ですか?」
 先生のことを考えていたら、咄嗟に出てしまった。席を立ちかけた彼女が眉根を寄せて私を睨む。
「先生の夢見が何?」
「……ええと、伺ったときにグリン君が言ってたんです。先生は夢見が悪いと人恋しくなるって。たしかにちょっと様子がおかしかったんです」
 マリッカさんなら慣れてるかなと思って、と付け加えたのを聞いていたのかいないのか、彼女は難しい顔のまま黙り込む。椅子に座り直し、大きく息を吐いた。
「よくあることよ。もともと眠りが浅い人だから、悪夢はよく見るんですって。それが先生の作品の源泉にもなっているの。悪夢を溜め込まないようにホラー小説にして発散するのよ」
 そういう側面もあるのか。先生は大切な人に読んでほしくてホラー小説を書いているのだと言っていたけれど。
「だから対処も何も、他人がどうこうできるものじゃない。あなたは余計なことをしないでください」
「……はい、わかりました」
 先生と付き合いが長いはずの彼女に言われてしまったら、引き下がるしかない。
 でもヒントはもらえた。悪夢が先生の作品の源泉なら、先生の作品の中にどうにかする方法もあるかもしれない。
 少なくとも誰が見てもつらそうな夢であるということははっきりしている。
「先生は年末おひとりだそうですけど、マリッカさんは先生を訪ねたりしないんですか?」
 改めて二人で席を立つタイミングで、何気ないふうを装って尋ねた。マリッカさんは「無理」と言い放って、私に背を向けた。

 ひとつ仕事が済んだところで、忙しいことには変わりない。レナ先生に関すること以外の仕事に必死でかかり、ときどき先輩にコーヒーを奢ってもらって、太陽神聖誕祭も何もせずに過ぎてしまった。あんなにそれらしい文章に目を通していたのに。
 仕事納めの日、私の頭にはもうぐっすり眠ることしかなかった。お酒とご飯はあとでいい。
「マトリ、お疲れ。ふらっふらだなあ、気をつけろよ」
「ドネス先輩も気をつけてくださいね。目の下真っ黒ですよ」
 良いお年を、と別れる。外に出ると空気が冷たくて、震えた分だけ頭がすっきりする。帰り着いたら即ベッドに倒れるのだろうけれど。
 明日の朝御飯になるようなものだけでも買っていこうか、と商店街の方へ向かった。ところが私の癖で、足はまず書店に入っていく。棚を見てまわり、文芸のコーナーにレナ先生の名前を見つけて嬉しくなった。
 私が好きで、本を作りたいと望んだ作家の本は、もうここには並んでいないようだ。それが少し寂しい。少しだけ。
 棚を眺めながらゆっくり歩いていると、制服に進路を塞がれた。この国の軍人の制服。学生服のようだけれど、胸のバッジは彼らが仕事をしている証だ。
「失礼ですが、こちらには何を?」
 何をって、本を見に来たに決まっている。だけど何か買っていかないと怪しまれるだろうか。以前にもこういうことがあった。
 彼らは万引きの見回りなどをしているわけではない。今年の夏と、そして先月にあった事件を捜査しているのだ。通り魔殺人と聞いている。
 被害者がいずれも、うちでも本を出したことのある作家だった。それで軍は書店に来る客がターゲットを物色しているとでも思っているのか。
「本を探しているだけです」
「どのような本ですか」
 思いつく限りのタイトルと作者を早口で並べてやろうか、と意地悪なことを考えてしまう。しかし疲れた頭は鈍っていて、なかなか答えられない。
 軍人が怪訝な表情をしている。あなたたちが疑うようなことは何もないから、ここを通して――。
「あの、そこにいられると邪魔です。市民の生活を妨げていますよ」
 子供の声が、軍人の背後から聞こえた。下に目をやると、髪の長い女の子がこちらを見上げている。抱えている分厚い本を見て、ああそれ面白いよね、とぼんやり思った。
「ああ、ごめんねお嬢ちゃん。あなた、一緒に外に来てもらえますか」
 軍人は苦笑いしてから、私に言った。出て話さなければならないのは億劫だけれど仕方がない。従おうとした私のコートを、誰かが引っぱった。
「マトリさん、本買いに来たの?」
 聞き覚えがある声。振り向いてやはり下を見る。暗い青色の髪がぴょこんとはねた。
「グリン君、どうして」
「本屋に魚買いに来ないだろ。な、モルド」
 グリン君は女の子に話しかけている。女の子も頷いた。二人は友達同士なのだろうか。
「お兄さん、この人俺の知り合い。良い人だよ」
「そ、そう……すみませんね、引き止めてしまって」
 私が戸惑っているあいだに、軍人は引き下がり、去っていった。呆気に取られているとグリン君が私を見上げてにんまりする。女の子も近づいてきて、私に丁寧に礼をした。
「ごめんな、マトリさん。軍の人たち、ちょっとピリピリしてんだよ。最近物騒だからさ」
「それは知ってる。でも……あの人、グリン君見てどこか行っちゃったけど」
 それにグリン君が私に「ごめんな」と言う理由もわからない。まるで彼が軍の偉い人みたいな態度だ。
 先に口を開いたのは、女の子の方だった。
「グリンのお母さんは元軍人で、今は王宮近衛兵団の副団長なんです」
 本当に偉い人の関係者だった。開いた口が塞がらない私のコートを、グリン君がもう一度引っ張る。
「ちょっと顔を知られてるだけだよ。それよりマトリさん、仕事終わったなら付き合わない? これから先生の家に行くんだ」
 驚きすぎて眠気はとんでしまっている。もう暮れて灯りが点っている街を、子供たちだけで歩かせるのも心配だ。
 それに、先生。元気かどうか、連絡を取らないあいだも気になっていた。様子を見てすぐに帰ろう。
 私は頷き、子供たちと一緒に通い慣れた大きな家へ向かうことにした。

 歩きながら、グリン君は友達を紹介してくれた。
「この子はモルド。生まれたときからの付き合いなんだ」
「わたしの方が誕生日が早いでしょ。モルドリン・リーゼッタと申します。以後よしなに」
 買った本を抱きしめたまま、彼女はふわりと笑う。ということは、グリン君とは幼馴染なのだ。私は先生のことだけではなく、グリン君のことも未だに知らないことが多い。
 ずっと気になってはいた。暗い青色の髪に、写真で見るような海の色の瞳。顔つきも教科書で見たことのあるものに似ている。なんとなく、だったのが先程知った情報でほぼ確定してしまった。
「モルドリンちゃん」
「モルドでいいですよ。皆そう呼ぶので」
「じゃあ、モルドちゃん。あの、さっきグリン君のお母さんが王宮近衛兵団の人って」
「はい、副団長です。お祖父さんは元大総統」
 私はグリン君を見る。恨めしそうな表情になってしまっていたのか、彼は少しバツが悪そうに言った。
「別に隠してたわけじゃないぞ。言わなかっただけでさ。だって先生の仕事に関係ないじゃんか」
「そうだね、関係はない。でも気づかずに国の要人と気安くしてたかと思うと……」
 今まで失礼なことはしていないだろうか。記憶を探ろうとした私に、グリン君は「だからぁ」とじれったそうに抗議する。
「要人とかじゃないんだよ。そういうのが嫌だから、自分からはあんまり言わないんだ。モルドが全部言っちゃったせいだぞ」
「グリンを見たら想像はつくだろうなって思ったんだもの。ねえマトリさん、グリンはこのとおりだから、今まで通りにしてあげてください」
 そう言うモルドちゃんも、フルネームから察するに現大総統補佐大将の娘さんではないだろうか。ますます子供たちだけで街を歩かせられない。一刻も早く先生のもとへ送り届けなければ。
 先生が何者なのかは今考えるとパニックになりそうだ。只者ではないことはわかっている。繋がらない部分を突き詰めるのは、この子たちと別れてからにしよう。
 そんなことだから、大きな家と広い庭が見えてきたときは心底ほっとした。周りに怪しい影もない。もしかしたら軍人がこっそり見守っているかもしれないけれど、それなら安心だ。リスクといえば、私が誘拐犯ではないかと疑われるくらい。
 門を抜け、庭を横目に、家の扉へ。グリン君が元気に呼び鈴を鳴らし、先生が出てくる前に鍵を開けた。
 玄関の向こうからはいい匂い。いつもの甘い香りではなく、お肉やお魚、ハーブ類のようだ。こっそり唾を呑み込んだ。
「グリン、モルド、よく来たね。……あれ、マトリさん?」
 奥から出てきた先生が、私を見止める。驚いた表情の後に、嬉しそうににっこり。
「ご飯食べに来てくれたんですか」
「あ、違うんです。この子たちが暗くなったのに街を歩いてたから、送るつもりで」
「でもマトリさん、晩御飯まだだよな。食べていけばいいじゃん」
「先生、いつも作りすぎるし。わたしはそんなに食べられないので、きっとマトリさんが一緒でちょうどいいですよ」
 私はレナ先生の担当編集者だ。仕事でのお付き合いをしている身だ。それ以上は踏み込まないと、自分で線引きをしてきたつもりだった。
 ここは断って退散するべきところ。そう思っているのに、足が動かない。――動けない。頭がくらくらしている。そういえば連勤徹夜明けなのだった。
「マトリさん?!」
 先生の、初めて聞くような叫びが聞こえた。

 冷たい水は柑橘系の香りがした。寝てていいですよ、と先生は言うけれど、そうはいかない。でも体が動かないので、少しだけ休ませてもらうことにした。
「忙しかったんでしょう。疲れているのにグリンたちに付き合ってくれて、ありがとうございます」
「いえいえ、大人として当然のことをしただけです。あまり安全とはいえない世の中ですし」
 へら、と笑って見せたけれど、先生はまだ心配そうだった。この人にこんな顔をさせてはいけないのに。
「……グリン君、私が困っていたのを助けてくれたんです。あの子、なかなかすごい子だったんですね」
 喋り続けたら、少しは安心してくれるだろうか。頭はぼうっとするけれど、なんとか話題を引き出す。
「グリンは頼りになるんです。僕の助手ですから。ただときどきやんちゃが過ぎるんですけどね」
「ずっと気になってたんですけど、何の助手なんですか? 資料集めとか?」
 これくらいなら聞いてもいいだろう。そう思ったのだけれど、先生の答えは予想と違った。
「ボディガードなんです。あの子の母親がつけてくれたんですよ」
「……ボディガード?」
 私がよほど正直に怪訝な顔をしていたようで、先生は苦笑した。
「そういう名目なんです。グリンにも事情があって、一時期は外にも出ようとしなかったんですよ。少しでも人と関われるように、僕のお世話をするっていう使命を与えられたんです。実際、僕はひとりだと根を詰めすぎるみたいで、グリンのおかげで息抜きの方法を学べました」
 お菓子作りはグリン君が来るようになってから始めた、先生の息抜きだった。仕事にメリハリをつけられるようになって、以前よりもよく書けるようになったという。
 彼は子供だけれど、立派に彼の役割を果たしている。それならやはり、どんな家に生まれたかといったことで態度を変えてはいけない。グリン君はグリン君だ。
「あの子に女の子のお友達がいるのも意外でした。いい子ですよね、モルドちゃんも」
「モルドはグリンの唯一無二の親友なんです。親同士が仲が良いんですよ。ただ彼女にも事情があるので、月に一度しか外で遊べないんです」
 子供たちの関係も複雑なようだ。先生の周りはどこもかしこも一筋縄ではいかない。もちろん、先生自身も。
 グリン君は先生の従兄弟。ということは先生の正体も少しは見えてきそうなものだけれど、情報不足でどうしても繋がらないところがまだある。
 でも、きっと知ったところでどうということはない。グリン君がグリン君であるように、レナ先生もレナ先生だ。
 納得したらお腹が空いてきた。特に意識もせず胃のあたりに触れた私を見て、先生はすぐに立ち上がった。
「ご飯、食べていってください。あの子たちが言うように、張り切って作りすぎちゃったんです」
 先生の情報がまたひとつ増えた。得意料理はお菓子だけではない。食事はとても美味しかった。

 じきに新しい年がやってくる。祝賀ムードの漂う夜だというのに、嫌な一報が彼の元に入ってきた。
 現場は北地区の路地。人通りの少なくない場所のはずだが、怪しい人物を見た者が見つからない。ということは、ごく普通の格好で平然と振る舞い、犯行を成し遂げたということだ。
 被害者は女性。職業は――作家。出版社の年末のパーティから帰ってくる途中だった。そこでのスピーチの内容が遺言になるとは。
「本当に言ってたみたいですよ。これが遺言になってもいいって」
「冗談じゃない」
 そんなことを言うから狙われるのだ――予想している犯人は、そういう人間だ。
 夏と、つい先日も作家が殺される事件があった。だから気をつけろと各所に注意したのに、短期間のうちにまた起きた。いや、本当に気をつけるべきは、それを取り締まる自分たち――軍の人間だ。
「やっぱりあいつがやったんですかね」
「その可能性は高いが、決めつけるのは早い」
「でもそう思ってるんでしょう、あなたは。……エスト准将」
 そうであって欲しい。こんな馬鹿げたことをやるのはひとりで十分だ。