暗くて、息が苦しくて、もう死ぬんだろうなと冷静な自分が言う。
 まだ死にたくない、怖い、誰か助けて、と必死な自分が叫ぶ。
 生き延びたところで、もう大好きな人はいない。これからずっとひとりぼっちだ。そんな世界に助けを求めて通じたところで何になる。冷静な自分はこうなるよりもずっと前から、とっくに絶望していた。
 それでも助かることがわかっているから、これは夢。絶望から引き上げてくれるものがあると希望を持っているから、見えている光景は既に過去。
 もう怯えなくてもいいとわかっているのに、いまだに過去がまとわりついてくるのが、今の現実。
「先生」
 うっすらと目を開けると、カーテンが開いている。ベッドの脇にはいつも来てくれる小さな姿があって、やっとまともに呼吸ができる。
「先生、十時になるぞ。今日の予定は?」
「十時……え、十時?」
 足元の過去を蹴飛ばして、起こしてくれた彼に礼を言う。急いで支度をしないと彼女が来てしまう。仕事は彼女に持ってきてもらうから、その点は問題ないけれど。
 そうだ、マシュマロのお菓子を焼こう。あれならすぐに作れるし、彼女との仕事が終わったらお土産に持たせられる。
 忙しくて幸せな日常を保つために、今日も過去と夢を供養する。僕はそうして生きている。


 寒いけれど、確実に空気は柔らかくなっている。深呼吸をすると、ほんの少しの春を体に取り入れられそうな気がする。
 良い報せもあった。私とマリッカさんも頑張った企画がうまくいって、レナ先生の本がデビュー作から最新作までよく売れているという。重版も決定して、レナ先生は絶好調だ。
 波に乗っている状態で、もうすぐ先生の新作も出せる。私の鞄の中には先生に渡すゲラが入っていた。そう、相変わらず先生への用事は家を直接訪ねている。
 先生の家の広い庭には、葉を落とした木々がある。木の芽は硬そうだけどちゃんと膨らんできていた。それを横目に大きな家へ向かうと、私が呼び鈴を鳴らすよりも先に、少年が飛び出してくる。
「マトリさん、おはよう! 先生は寝坊したけど大丈夫だよ」
 暗い青色の髪をぴょこぴょこさせて、少年――グリン君がにんまりする。
「寝坊? 珍しいね」
「そうなんだよ。ちょっと夢見が悪かったみたいだ」
 どきりとする。先生は夢見が悪いと人恋しくなるのだ。そうして誰彼構わず食事に誘ったりする、少し困ったところがある。
 その悪夢が素晴らしい作品に昇華されるようなので、まったく悪い事ばかりでは無いらしい。それでも先生にはいつも健やかでいてほしい。
 私は先生の担当編集者、マトリ・アンダーリュー。作家には良い作品を書き続けてほしいけれど、そのために体調も整えておいていただきたい。
 それでもものづくりを生業とする人は、命を懸けてしまうものなのだそうだ。
 悪夢をも糧にしてしまうその人は、ホラー作家のレナ・タイラス先生。一体どんな夢を見ているのか、綴る作品は容赦なく心を抉るような物語だ。けれどもよく読めば、そこにほのかな優しさも垣間見ることができる。それが癖になるようで、ファンは最近さらに増えている。
 そんな作風なのに、先生本人は至って優しく穏やかで、趣味はお菓子作りだったりする。覆面作家なので外見も性別も年齢も非公開だけれど、烏の濡れ羽色の髪と金色の瞳を持つ、細身の好青年を想像する人は誰もいないだろう。
 グリン君はその助手だ。本名はグリンテール・インフェリア。今年で九歳になる男の子で、先生の従弟にあたる。写真で見るような海の色の目をきょろきょろさせ、いつも先生と私が話をするのを眺めている。
 昨年の夏に先生の担当になって、先生の家に通うのももう慣れた。今ではどんなに忙しくても、ここに来ることが楽しみになっている。
「マトリさん、お菓子をどうぞ。簡単なもので申し訳ないですけど」
「そんな。毎回いただいてしまって、寧ろ私が申し訳ないです」
 先生はいつもお菓子を振舞ってくれ、さらには編集部へのお土産まで持たせてくれる。そうすることが楽しみだと言って。
 話せることは前より多い。それでも先生にはやはり謎が多い。たとえば私は、まだ先生の本名も知らないのだ。
 ゲラを先生に預け、私はお土産をいただき、会社に戻ろうとした。いつも通りの流れだった。玄関へ向かおうとして、先に立っていた先生の首元に何かがついているのを見つけた。何の気なしに手を伸ばした、その瞬間。
 私の手は先生の首に触れるか触れないかだった。手に走った衝撃は、静電気などではない。
「……先生」
 そんな顔も初めてだった。何かとても恐ろしいものを見たような怯えと、全てを拒絶するような怒りが混ざったような。そんな表情で、先生は私の手を強く払い除けた。
「あ、……ごめんなさい」
 怯えを残したまま、先生は呟くように謝った。
「私こそ不躾でした。首元に何かついてらしたので」
「あ、ああ、そうでしたか。ありがとうございます」
 お礼を言いながらも、私から距離をとる。どうやらここまで来て、私は先生の嫌がることをしてしまったようだ。

 逃げるように先生の家を出て、編集部に戻った。ぼんやりしたままいただいたお菓子を共有スペースに置き、いつものようにこっそり二つ持ち出す。
 ふらふらと隣の部屋へ行くと、ドネス先輩がちょうど席を立ったところだった。
「おう、マトリ。何かあったか」
「……先輩、私、レナ先生のご機嫌を損ねたかもしれません」
「あの人、機嫌悪くなることあるのか?」
 先輩はそんなことがなかったのか。では、私がよほど失礼だったのだ。ラウンジに移動して先生のくれたお菓子を先輩に渡すと、コーヒーを奢ってくれた。
「触っただけ? 本当に? がっつり揉んだんじゃなくてか」
「セクハラはしてないと思いますけど。でも当人が嫌だと思えば嫌がらせだからなあ……」
 正確にはほとんど触れてもいない。何が先生の気に障ったのか探るため、つらいけれどしっかり思い出す。
「先生のうなじのあたりに、糸くずみたいなのがついてたんですよ。取らなきゃって思って、そう、断りなしに触ろうとしてしまって」
「うなじ……ああ、多分それだ」
 先輩がぽんと手を叩く。私が首を傾げると、先輩は自分の首に手をやった。
「レナ先生は首に何か触れるのがめちゃめちゃ苦手なんだ。アクセサリーはもちろん、襟のある服も極力避ける」
 そういえば、先生はいつもTシャツやセーターなど首周りの開いた服を着ている。アレルギーか何かだろうか。敏感だったなら、気配も嫌だったかもしれない。
「それで……あの反応からして、ものすごく嫌だったんでしょうね」
「嫌というか反射なんだよ。こっちが気に病むと先生も余計落ち込むから、君は元気でいろ」
 口ぶりから、先輩はこのことを知っていたのだろう。私に教えてくれていないことは、一体あといくつあるのか。

 とにかくレナ先生には、後日改めて謝ろう。相手の事情を知らなかったにせよ、人に無断で触るなんて、私が迂闊だったことは確かなのだ。
 そう決めてからレナ先生とは連絡も訪問もできる機会もなく、休日を迎えた。ひとりで家にいてもモヤモヤするので、ショッピングの帰りにのんびりお茶の時間を楽しむ計画を立てて出かけることにする。
 ところがどこを歩いていても先生のことを考えてしまう。そうしていつものように書店をうろつくコースになった。
 文芸の棚に探す名前がないことを確認して、小さく息を吐く。それからキャンペーンの棚にまわった。そこにはレナ先生の作品が、デビュー作から並んでいる。先生との関係に落ち込んでいても、やはりこの光景には自然と笑みがこぼれた。
 私が初めて先生と作った作品は、特に愛しい。我ながら良い仕事をした。早く先生に謝って、また気を引き締めていいものを作ろう。
 決意を新たに顔をあげ、進もうとすると、隣に立っていた人と目が合った。
「……アンダーリューさん」
「マリッカさん!」
 見開かれた目には紫色が輝いて綺麗。仕事で会うときはいつもかっちりした服を着ていたけれど、今日は清純なイメージのワンピース姿だ。
 マリッカ・エストさんは他社の編集者で、レナ先生を担当している。仕事に厳しい彼女は、おそらく私のことはそんなに好きではない。でも私は彼女と仲良くなりたいと思うようになっていた。レナ先生と幼馴染だという彼女と、もっと話してみたかった。
「マリッカさんも今日はお休みですか?」
「ええ、まあ……」
「よかったら、そこのカフェでお茶しません?」
 勢いで誘う私に、マリッカさんは面食らっていた。怪訝そうに私を見ながらも、いいですけど、と応えてくれる。
 近くのブックカフェにマリッカさんを連れて行って、カウンター席に並んで座った。私はコーヒーを、彼女はミルクティーを注文する。
「マリッカさん、最近レナ先生に会いました?」
 飲み物を待つあいだに尋ねる。こちらを見ずに、彼女は頷いた。
「ええ、仕事の話をしに」
「幼馴染なんですよね。プライベートで会ったり話したりはしないんですか?」
 突っ込んでいくと、マリッカさんはこちらをひと睨みした。しかしすぐに視線を逸らし、溜息を吐く。
「今日は随分不躾なんですね。先生が褒めてらしたから、きちんとした方なのかと思っていましたが」
「褒めてたんですか?」
「……ええ。先生はあなたのことが気に入っているようです。グリンも懐いてるし」
 私としては不思議なんですけれど、とマリッカさんは続けたけれど、先生の周りの人から私の良い評価を聞くのは嬉しい。少なくともあの日までは、先生は私を認めてくれていた。
 でも、今はどうだろう。先生にあんな顔をさせてしまった後は。
「マリッカさんも先生に信頼されてますよね。昔から知ってるし、仕事熱心だって先生も仰ってました。先生の本を作りたくて今の仕事を選んだんですよね?」
 唇を噛みかけたのをやめて、マリッカさんに話を振る。そのタイミングで、それぞれの前に飲み物が置かれた。
 カップを上品に摘んだマリッカさんは、長い睫毛を伏せる。そして呆れたように、本日何度目かの溜息を吐いた。
「あまり人のことをあれこれ探らないでいただけます? 事実ですけどね、彼の作品を私が本にしたかったのは」
 ミルクティーを一口飲んでから、彼女は表情を柔らかくした。カップの中の波紋を見つめながら、だって、と呟く。
「少し読んだだけで、好きだと思った。彼が十三歳、私が九歳のときだった」
 当時、自宅の本棚の本を読み尽くす勢いだったマリッカさんを虜にした、レナ先生の文章。そのとき既にホラーを書いていたという。
 ――マリッカちゃんは本をたくさん読んでいるから、きっといいアドバイスをくれるんじゃないかと思ったんだ。
 ノートを走る生々しい筆跡。知らない世界へ引き込む文章。夢中になったマリッカさんは先生を褒め称えた。もっと読みたいとせがんで、続きを書いてもらった。
「そのときはそう思っていたの。私が彼の最初の読者で、彼に書くことを続けさせたんだって。結局それは間違った認識だったのだけれど、私が夢を抱くのには十分なきっかけだった」
 それだけ魅力的だったんです。先生のことを語るマリッカさんは、笑いこそしないけれど、とても幸せそうだ。ずっと先生のことを追いかけてきて、昨年遂に夢を実現させた。
「すごいです、マリッカさん。それなら先生からも頼りにされますよね」
「頼りにされてるかどうかはわからないけれど」
「されてますよ。私も憧れの作家さんの本を作りたくて今の会社に入りましたけど、夢は叶いませんでした」
 コーヒーは熱くて苦い。マリッカさんがこちらを見ずに相槌を打った。
「筆を折ったんですか」
「そういうことなんでしょうかね。私が入社してすぐの頃、突然もう書かないって聞いたんです」
 そして本当に作品を出さなくなった。最後の本が大きな賞にノミネートされて、その名前が国中に知れ渡ったのに。
「ずっと好きだったんですよ。十年以上追いかけてました。その人もレナ先生と同じで、ホラーが得意な覆面作家でした」
 作風は違うけれど、根っこはどこか似ている。だから先輩は私にレナ先生の担当を任せたのだろう。そして今では、私はレナ先生の作品も大好きなのだった。
「憧れの人には会うことすらできなかったけど、私、レナ先生の本を作れるのは幸せです。だからこの仕事はやってて良かった」
 話しているあいだにもどんどん気持ちが大きくなる。レナ先生との仕事を続けたい。そのために私は謝らなくてはならない。
 私は、先生の傍にいたい。そうすることを許してもらいたい。
「……たしかに、あなたは良い本を作りますね」
 マリッカさんが言う。相変わらずこちらを一瞥もしないまま、彼女なりの賛辞を送ってくれた。そう解釈していいだろう。
「もちろん先生の素晴らしい作品があることが前提ですからね」
「それはそうです。どんどん先生の作品を世に出して、あの平台を埋め尽くすフェアをやってもらえたら最高ですよね」
 その光景を想像すると口元が緩む。私とマリッカさんならきっとできる。
 ところがふと見たマリッカさんの横顔は、再び引き締まっていた。
「……そんなの、もうできてるはずなのに」
 カウンターの上で拳が震える。どうしたんですか、と私が尋ねることはできなかった。
「あんなことが起きなければ、もうとっくにたくさんの作品を並べることができていた。一月からの企画だって、もっと……」
 彼女に滲むのは怒りと悔しさ。そういえばマリッカさんの勤めるアメジストスター出版では、レナ先生の本を出した実績がうちよりも少なかった。迂闊だったと反省していると、彼女は続けて呟いた。
 それは私も知っている名前であり、どうしてその名前がここで出るのか、すぐには理解できなかった。


 どうして怖いの苦手なのに、怖い本を読むの。彼女にそう尋ねると、けろりとして「だって面白いんだもの」と答える。さっきまで暗闇をひとりで歩けなくて、僕の腕に掴まっていたのに。
 僕はそういう彼女を可愛いと思っていた。いつもは勝気で、堂々としていて、勇敢で、それに口も達者だ。体格のいい男の子に喧嘩で勝つことだって、当たり前になるくらいだった。でも彼女は、理屈が通らないこと――非科学的な恐怖が苦手だったのだ。
 幽霊や怪奇現象の説明できないものは、どうやら文章で読むととても恐ろしい想像をしてしまうようで、ホラー小説を読んだ後は特に怖がりになった。それでも活字が好きな彼女は、何度でもその状況を味わい、僕はいつだって彼女が恐怖を紛らわせるのに付き合った。
 彼女が留学してからは、電話や手紙で。僕はそれがとても楽しくて、いつまでも続けばいいのにと願った。物語はたくさんあったけれど、彼女がいつか全てを読み尽くしてしまいそうなことが、僕にとっては一番の不安だった。
 新しい物語を僕がどんどん作っていけば、この時間は終わらないのではないか。彼女とやりとりを続ける理由になって、僕の言葉を文章を通じてずっと受け取ってくれるのでは。そう思いついたのは十四、いや、十三歳になった年だった。
 初めて書いた物語はとても拙いもので、今にして思うととても恥ずかしいのだけれど、便箋五枚にしたためたそれを読んだ彼女は同じだけの感想と意見を返してくれた。「すごく怖かったけどすごく面白かった」「次も待ってる」――生まれて初めて貰ったファンレターは、その後ずっと僕の支えになり続ける。
 二作目はもっと良いものにしたくて、彼女に送る前に他の人に見せた。同じように本をよく読み、本を愛しているかどうかといえばもしかしたら彼女よりそうかもしれない、四歳下の女の子。ホラーを読んでも怖がらないその子は、文章の書き方についての具体的な指摘をしてくれた。そのうえで「お話は面白かった」と言ってくれたので、僕は手直ししたものを自信を持って彼女に送ることができた。
 コンクールに応募してみればいいのに、と添えられていたのは三作目の感想。既に四作目に着手していた僕はその一言が気になって、様々な文芸の賞を調べた。そして書き上げた四作目を彼女に送った後、手直しした三作目を新人賞に応募した。その事実だけでも彼女に教えられたら、また手紙の内容が充実するかもしれないと思ったから。
 まさか本当に賞をとるなんて、全く想像していなかった。そういうものは書くことに全てを捧げるような人に与えられるものだと思っていた。
 連絡をくれた出版社の人は、僕が史上最年少の受賞者であることを褒めたたえてくれた。文芸誌にそのことを公表し、多くの人の励みになるようにしたいと相談された。けれども十四歳の子供が無闇に注目を浴びることを、僕を育ててくれた親は良しとしなかった。
 君はどうしたい、と訊ねられて、僕は初めて自分の人生を迷った。もちろん一度だけ作品を評価してもらって、それきりにすることも選べた。もとよりそのつもりだったのだから。でも、すぐにその道を選ばなかったのは彼女の存在があったからだ。
 単に彼女が作品を読んでくれていたからというだけではない。彼女が先に彼女自身の人生の指針を持って動いていたことに、僕はずっと強い憧憬を抱いていた。
 僕はどうしたいか――僕は、自分の人生の舵を自分で握り、切りたい。
 僕の意志を受け止めてくれた大人たちと話し合いを重ね、誕生したのが覆面ホラー作家。年齢も性別も公開しない。使う名前は本名だから、近しい人には分かるだろうけれど、僕の名前はよくあるものだったから気づかない人は最後まで知らなかった。


 朝一番に駆け込んだのは、私が仕事をする部屋ではなく、その隣。探す姿は既にそこにあって、作業を始めようとしていた。
「おはよう、マトリ」
「おはようございます、先輩。今日はいつ頃お時間とれますか」
 私を見た先輩は、一瞬だけ表情を引き締めた。こちらの言いたいことはもうわかっているのだろう。
「どうした。先生とは仲直りできそうか」
 からかうような笑顔を作るのは、先輩の得意なことだ。そうしていつも私が話しやすいようにしてくれた。この人はいつだって私のことを気にかけて、導いてくれた。どれだけ感謝しても足りない。
 引き継ぎが完全ではなかったのは、おそらく先輩の意図だ。そうせざるをえない理由があったはずだ。――私が自分で辿り着かなければならなかった、その理由が。
「私が担当しているのは、レナ・タイラス先生ですよね。……かつて先輩が担当していたのは、誰なんですか」
 先輩にしか通じない問いだ。誰もこちらを気にしない。昼飯を奢るよ、と先輩は言った。答え合わせはやるべきことの後だ。
 はたして昼休み、先輩は私を外に連れ出した。サンドイッチとコーヒーを買って向かった先は公園。遠くに親子連れが見えたけれど、こちらの声は聞こえないだろう。
「先生ともここで飯を食ったことがあるんだ」
 ベンチに座って先輩が言う。私の知らない話だ。先生は今、外で編集者と会うことはない。
「マトリ、どこから聞きたい」
 訊きたいことはたくさんある。今まで答えてくれなかったこと、教えてくれなかったこと。私は自分の中の言葉を整理して、やはり単刀直入に訊くのが一番いいと判断した。時間もそうあるわけではない。
 深呼吸をして、音が耳にまで届きそうな拍動を抑えるように胸に手をあてた。
「先生は……レナ・タイラス先生は、ニール・シュタイナー先生と同一人物なんですか」
 昨日、マリッカさんから聞いた名前。彼女は「ニール・シュタイナーとしてならたくさんの本を出せているのに」と言った。それは事実であり、私が子供の頃からその名に憧れていた所以でもある。私はその人の綴る物語を本にしたくて、編集者を志したのだ。
 ニール・シュタイナーは、ホラーを書く覆面作家だった。十五年前、私が十歳のときに新人賞からデビューし、三年前の春には国内の大きな文学賞に作品がノミネートされた。けれども結果が出る前にそれを取り下げさせて、以降は作品を出していない。理由はわからないが、筆を折ったのだろうと言われていた。
 レナ・タイラスの作品が編集部に初めて持ち込まれたのは、巷でその噂が囁かれる最中――三年前の夏の盛りの頃だった。
「のっぴきならない事情ってやつだ」
 先輩は長く息を吐いた。視線が左腕に落ちる。
「ニール先生は作家を辞める必要があった。少なくとも彼はそう感じていた」


 デビューしてから十二年、思っていたよりも随分長く書くことができた。物語は尽きることがなかったけれど、ホラーしか書けなかった。
 僕の書く物語のベースは自らを苛む悪夢であり、その悪夢の根源は幼い頃の経験だ。大切な人を亡くし、命を奪われかけた記憶。首を絞める手の感触や土に埋められたときの臭い。あのときの絶望は様々なかたちをとって、僕の物語に登場することとなった。
 辛い記憶を整理して、面白い読み物にする。幻想的な表現を用いながらも、どこかに現実味を残す。恐怖の中には仄かな希望を灯す。物語を引き立てるスパイスとして……なんてことは実は考えていなくて、ただ僕が救いを求めていた。
「先生の書くホラーはしっかり怖いけどほんのり優しくて、それが癖になるって評判なんですよ」
 一緒に作品を仕上げてくれる担当編集者のドネス・マクラウドさんは、若い僕を助けてくれた。彼を通じて受け取るファンレターからもたくさんの元気をもらった。本当に幸せな日々だった。
 デビューから十一年経って出した本は特に幸運な作品となった。素晴らしい本になってたくさんの人の手に渡り、読んでくれた人々からの大きな後押しを得られた。そうして翌年、国内最大級の文学賞にノミネートされるまでになった。
 順風満帆。ドネスさんはそう言って笑った。
「サイン本が欲しいという問い合わせもたくさん来ているんです。それで、もし先生の都合がつけばなんですが」
 近々、とある作家のサイン会がある。その裏でサイン本をつくらないか。本当は一緒にサイン会ができればいいのだけれど、僕は一応覆面作家なので表には出ずに。そんな提案があったのは、賞の結果が出るひと月前だった。
 とうに成人し、自分の身は自分で守れるつもりでいた僕は、少しずつ人前に出ることも考え始めていた。お世話になっていた書店への挨拶は実現させたかったこともあり、喜んで受けた。
 人気作家がメインのサイン会には、当日は多くの人が集まっていて、ドネスさんはそちらの手伝いとこちらの作業を忙しくこなしていた。僕はバックヤードでサイン本をつくらせてもらい、できた山を書店員さんが売り場に並べてくれる。
 表からの賑やかさ。ときどきもたらされる「さっき売れていきましたよ」「お客様が喜んでました」という情報。嬉しくてありがたくて、生きてて良かったなという気持ちが心の底から湧き上がってくる。
「ニール先生、調子はどうですか」
 ドネスさんが表を抜けてきた。人が少し落ち着いてきたのかと思ったら、列形成が整ったから来られたのだという。人はどんどん増えていて、ありがたいことに口コミで僕のサイン本があることを知って来てくれたお客様も途切れないそうだ。
「こんなに幸せなことはないですね」
 これまでの人生で最も幸福なことのひとつだと、目を細めかけた。
「じゃあ、今なら悔いはありませんね」
 耳がいいはずの僕の前に、その人は音もなく現れた。目がいいはずの僕の視界に突然入ってきた、真っ黒なロリータファッションの女性。
 店のスタッフではない。ファンだろうか、けれどもここには関係者しか入ってこられないはずだ。
「どちらさまですか」
 訝しんで尋ねたドネスさんを無視して、その人は僕の方へ歩いてくる。浮かべているのは無邪気な笑顔。
「ニール・シュタイナー先生ですね。いつも作品を拝見しております。どれもとても素晴らしくて、こんな若い方が執筆なさってるなんて意外でした」
 その手に、何かが光ったのが見えた。その正体を判別する前に、女性は床を蹴った。
 狭い場所で高く跳躍する身体能力に、一瞬見惚れた。知人には運動が得意な人が多いが、僕にはできないことなのでいつも憧れていた。――そんな考えが刹那に巡り、過ぎた後に捉えたのは女性の握りしめる刃物。
「先生!」
 ドネスさんの叫び声に我に返る。けれども僕には刃物を避ける術などない。どうして、という状況に対する疑問に支配され、手も足も動かない。
 だから次に理解したのは、ドネスさんの左腕にナイフが突き立てられたということだった。勢いよく刃が引き抜かれると、呼ばれるように血液が溢れ出す。それはいつか遠い日に見た光景と重なった。
 誰か、とドネスさんが再び叫ぶと、書店のスタッフと警備員が駆けつけた。女性は抵抗なく取り押さえられ、呆然とする僕にやはり無垢な笑顔を向ける。
「あら、先生。伝説になり損ねましたね」
 後に軍に在籍する知人から、女性の意図を聞いた。ドネスさんの傷は浅くはなかったが、後遺症がなかったのが不幸中の幸いだった。
 伝説――たくさんの人がいる中に覆面作家は初めて姿を現したが、それは既に事切れた状態でしたというシナリオ――になんかならないし、周りの人もさせない。僕の存在がその筋書きを招いたのなら、もうそんなことは起きないようにしなければ。
 賞へのノミネートは取り下げてもらった。それまで出した本は絶版にしてもらった。僕の強い希望を、ドネスさんは悲痛な表情で受けてくれた。
 作家ニール・シュタイナーは、そうしてこの世界から消えたのだ。


「先生は幼い頃に御家族を亡くされている。目の前で他人が似たような状況になったのが堪えられなかったのかもしれない」
 俺は生きてるけどな、と先輩は苦笑する。彼が誰かのサイン会で腕を怪我したのは三年前、私が入社したての頃だ。そのときニール先生の名前は出ていなかったから、私の記憶は曖昧だったのだ。
 事件は秘密裏に処理されたという。報道もされていない。誰も何も知らないまま、ニール先生は文壇を去り――そして同年夏、名前を変えて戻ってきた。
「ニール先生がレナ先生として再デビューしたのは、どういうことですか」
「ああ、暫くしてから俺に連絡が来たんだ。やっぱり書き続けたい、そしていつかはまた作品を愛してくれる人たちのところに戻りたい、ってな」
 レナ・タイラスという名前を得て、作風も変えた。でもホラーを棄てなかったのは、やはり先生が書きたいものだから。
 ニール・シュタイナー“Neil Steiner”のアナグラムで、レナ・タイラス“Leinne Teirs”という訳だ。別のかたちをとった同一人物。ヒントはずっとあったのに、私は気づかなかった。
「私を先生の担当にしたのは、私がニール先生の本を作りたいって言ったからですか」
 結果的にこの願いは叶っていたことになる。気づかなかったくせに。
「ニール先生の本じゃなくても、君は熱意を持って仕事に取り組んでいた。どんどん学んで成長し、先生の担当に相応しい編集者になったと思った。だから任せたんだ」
「でも、私は」
「加えてニール先生とレナ先生が同一人物であるということを知らない、というのが俺に代わって先生を担当する条件だったんだ。だからマトリが適任だった」
 これは先生の希望だ、と先輩は言う。知っていた方が適切な対応ができるはずなのに、そうではないことを他でもない先生自身が望んだ。引き継ぎが不完全だったのはそのためだ。
 喉がつかえる。昼食のせいではない。全てを知った今、私の心に引っかかって、呑み込めないものがある。

 広い庭には花が咲き乱れ、門の外まで香りが風で運ばれてくる。奥にはひとり暮らしには大きすぎる家があって、相変わらずフィクションみたいな佇まいだ。
 門を押し開け、庭のあいだを通る。家に辿り着いて呼び鈴を鳴らせば、きっとグリン君が出迎えてくれる。
「マトリさん」
 そんな予想を先生は裏切った。襟がないシャツの袖を大きく捲りあげ、手には土で汚れた軍手。庭仕事をしているところを見るのは初めてだ。
「……こんにちは、先生」
 昨年の夏に先生と出会った。それから季節が巡って、誰も知らない先生の姿をたくさん見てきた。でもまだ知らないことだらけだ。先生には謎が多い。
 おそらく先輩の言ったことも、彼の全てには足りない。
「すみません、もう約束の時間でしたか。すぐに片付けますので」
「ゆっくりでいいですよ。それか、私にもお片付けを手伝わせてください」
 汚れますよ、と先生は言う。構わずにその横から入っていくと、慌てた様子で追ってきた。
「スーツに土がつきますって」
「洗えるやつなので大丈夫です。道具をしまえばいいですか? それともキリのいいところまでやってからにします?」
 屈んで如雨露を手にした私の隣で、先生が諦めたように溜息を吐いた。「納屋にしまいます」と言うので頷く。
「先生」
 立ち上がって、先生の目を真っ直ぐに見る。彼の目は美しい金色。蜜のようでもあり、月の光のようでもある。あるいは暗がりで輝き人の心を惑わす黄金かもしれない。
 でもその眼差しは、間違いなくひとりの優しい青年。
「先日は、大変失礼致しました」
 頭を下げると、その瞳はおろか表情全てが見えなくなる。たった今、先生がどんな顔をしているのか、私にはわからない。
「マトリさん、顔を上げてください。どうしてそんな」
 声は戸惑いと驚き。不快そうな響きは混じっていない。
「先生は首に触られるのが苦手だと伺いました。そうじゃなくても人に不用意に触るのは失礼なことです」
「ああ……あれは僕の方こそ申し訳ありませんでした。取り乱してしまって情けない」
 とにかく早く片付けて、家に入りましょう。先生はそう言って、近くにあった袋を持ち上げた。見た目からしてなかなか重そうだったけれど、二つも担いでいるあたり、先生はその印象よりも力があるのかもしれない。
 先生を手伝って道具を片付け、家に向かう。グリン君はいないのかときょろきょろしていると、先生が教えてくれた。
「グリンは多分、モルドの家に行ってます。用が済んだら来ますよ」
「モルドちゃんも来るんですか?」
「いいえ、あの子は今日は来られないでしょう。余程具合が良いときじゃないと」
 そういえばモルドちゃんはあまり体が強くないのだった。年末以降、何度かグリン君からモルドちゃんの話を聞くことがあり、判明した。グリン君が彼女と仲が良いのも、二人の親が友人同士であり且つ互いが貴重な同い年の友人同士であるからだ。
 記憶を呼び起こしている間に、先生は温かい紅茶と見た目にもふわふわのロールケーキを用意してくれた。
「グリン君より先にいただいても良いんですか」
「どうぞ。それからこれはお返しするゲラです」
 お菓子を作ったり庭仕事をしたり、やることがたくさんあるのに、仕事はいつもきちんとこなす。こんな生活を、先生は随分若い頃からしてきた。ドネス先輩が贔屓してしまうのもわかる。
「ありがとうございます、お疲れ様でした」
 恭しくゲラを受け取り、そっと撫でる。この本が、私が作る先生の本の、最後の作品になるかもしれない。私はそのつもりでここに来た。
「先生。私、先生にお話しなければならないことがあります」
 首を傾げる先生は、私が不用意なことをしてしまう前の顔をしていた。あのことは許してくれたらしい。でも、私はまた先生に謝らなければならない。
「先生の本名――以前の筆名を知りました」
 意を決して発した声の、末尾が震えた。俯かないよう我慢していたら、先生が瞠目するのが見えた。
「ニール先生は、私がずっと憧れて、いつか一緒に本を作りたいと思っていた人です。三年前にそれがもう叶わないかもしれなくなって、とてもショックでした」
 でも、私の夢は何も知らないままに続いていた。レナ先生と逢い、作品をつくりあげていくことは、本当に幸せだった。
 けれどもこれは、知らなかったから叶った夢。真実に辿り着いたら、醒めてしまう。
「昨年の夏にレナ先生の担当になってからは、ショックをほぼ忘れてしまうくらい、幸福な日々でした。この作品を本にして、私の役目は終わりです。先生は新しい編集者と次の作品を出し続けてください」
 涙はなんとか押し留め、考えていたことを言い切った。知ってしまった私は、先生の望み通りではなくなってしまう。だから、もう終わりだ。
 先生は珍しく眉を顰め、しかし私の言葉を真剣に聞いてくれていた。黙って、途中で遮ることなく。
 やがて姿勢を正し、口を開いた。別れの言葉を聞くのだなと思うと、自然と手に力が入る。
「どうして」
 柔らかい響きの声がする。
「どうして終わりなんですか」
 柔らかいのに、どこか掠れている。
「……待ってください、どうして先生が泣くんですか」
 私が流さなかった涙を、どうして先生がぽろぽろと零しているのだろう。混乱して動けない私の前で、先生は自分の手で頬を擦る。
「マトリさん、黙っていたことは謝りますから。そりゃあ、怒りますよね。せっかく憧れてくれていたのに、何も本当のことを話さずに、別の名前を使ってあなたを騙した。いや、僕は騙しているつもりはなかったけど、きっとそう感じたんでしょう。それでも仕方ないです」
 こんなに喋る人だったっけ、と場違いなことを考えてしまう。そうだ、いつも一番喋っているのはグリン君だった。でも今はそんなことは関係がない。先生が泣く必要なんてないのに、溢れて止まらない。
「ごめんなさい、マトリさん。あなたの大切な気持ちを傷つけてしまった」
「違う……そうじゃないです。私は全然傷ついてなくて、むしろ先生が」
「でも、担当を辞めるんですよね」
「先生のことを知ってしまった人はお嫌かと……だから何も知らない人間を担当に希望されたのでは」
「どうしてですか。嫌だったらドネスさんはもっと早くに辞めています。彼にだって本当はまだついててほしかったのに、異動ならと仕方なく受け入れたんです。それからせっかく僕のことをよく考えてくれる新しい担当者がついて嬉しかったのに、また僕のせいで」
 待って待って。いや、まずは先生を泣き止ませないと。ハンカチを取り出して、差し出しても先生は受け取らない。そもそもこっちを見ていない。さっきまで真っ直ぐに見てくれていたのに。
 あんなことをしたばかりだから、さすがに躊躇う。でも、もう振り払われてもいい。理由はわかっているのだし。
 私は身を乗り出し、ハンカチを先生の顔に押し付けるように当てた。すると先生の動きがぴたりと止まり、頬を伝った雫はハンカチに吸い込まれた。
「……先生、私が担当を続けても、お嫌ではないんですか」
 先生の過去を知ってしまったら担当でいられないのでは。私はそう覚悟していた。けれども先生は、私の手ごとハンカチを押さえて言う。
「嫌なわけないです。たしかにドネスさんには、僕のことを知らない人が良いって言いましたけど。……それは僕がニールであるという先入観を持たずに作品を見て欲しかったからです」
 ドネス先輩はその加減が上手だったけれど、有名作家であったニール先生を求める人は多いだろう。私も知っていればそうだったかもしれない。なんといっても私は先生の大ファンだったのだ。
 私は適任だったと先輩は言っていたけれど、実は大博打だったのではないか。もっと早く知ってしまっていたら、私はレナ先生の作風をニール先生に戻すよう曲げていた可能性がある。
 きっとそれが、先生が一番避けたかったことだ。
「ごめんなさい、私、レナ先生の担当に相応しくないのではと早とちりを」
「相応しくないなんてことはないです。マトリさんの熱意と支えのおかげで、僕はまた本を出せるんですから」
 涙で濡れた顔のまま、先生は微笑んだ。とても綺麗だったので、私は先生と手が触れていることをしばらく忘れていた。

「マトリさん、これからもよろしくお願いします」
 玄関で、先生が深くお辞儀をする。私の手には受け取ったゲラと、いつも通りに先生が持たせてくれたお土産があった。それらを抱え直して、私も頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします。……どうか末永く、レナ先生の担当でいさせてください」
 私はレナ・タイラス先生の担当編集者だ。その人がかつて本名で執筆していた憧れの作家だったとしても、過去のこと。私は今の先生と向き合うためにいる。
 顔を上げると、先生が笑っている。細めた目は春の陽の光のようで、持ち上がった口角はどこか子供のよう。――ああ、この人、微かだけどえくぼができるんだ。心から嬉しいと、こんな表情をするんだ。
「あなたのように応援してくれる人と仕事ができて、僕はとても幸運ですね」
 こちらこそ。先生に出会えた幸運と、そんな言葉をかけてもらえる幸福を、しみじみと噛み締めた。
 さあ、仕事を続けよう。私はまだ夢を叶えている途中だ。そしてこれはただの夢ではなく、現実の人生なのだ。
 私は私の人生をかけて、レナ先生の本を手にした人を幸せにし、そうしてレナ先生を幸せにしよう。


 失言だった。マトリ・アンダーリューは何も知らなかった。彼の安全のためにも、知らないままならその方が良かった。
 しかし彼女が何も知らないということに、マリッカは苛立っていた。だからこそ我慢できなかった。
 何も知らないで、明らかにニール・シュタイナーのことだとわかる話をする。彼の作品をずっと好きだったと宣う。それなのに気づかなかったのか、ニールとレナが同一人物であると。好きだといえるほど読み込んでいるのなら、文体をほとんど変えていてもなお残る癖や、何より作品全体のテーマは一貫しているということから、すぐに気づくのではないか。――いや、わからないか。普通の人にわかってたまるか。
 矛盾と歪みを酒と一緒に流し込むと、胸の辺りにマーブル模様ができたような心地がする。あまり綺麗ではなく、多分折って開けば毒々しい蛾か何かに見えるだろう。
 マリッカは嘲笑うように、口の端を片方だけ上げる。――マトリは憧れと称した作家がまだ書いていることを知り、現在自分が彼と顔を合わせて仕事をすることができていると知った。でもそこまでだ。彼の人生に何が起きたのか、そして今も起こり続けているということを、彼女は知らずに暢気にただの編集者として過ごす。それはなんて滑稽で、そしてなんて――。
「マリッカ。ニールはまた本を出すのか」
 低い声が降ってくる。反射的に肩が震えたのを覚られないよう、振り返って睨むように相手を見上げた。
 腹立たしいことに、彼は自分とほとんど同じ顔をしている。おそらくこの瞬間、二人とも鏡を見るように仏頂面を突き合わせているのだろう。
「帰ってたのね、センテッド。うちから出すんじゃないわ、サフラン社の来月下旬の新刊。それとニールじゃなくて」
「ニールだろうがレナだろうがどうでもいい。あいつであることには何も変わりがない。どこで本を出すのかも」
 双子の兄だか弟だかは、昔は気が合ったのに、大人になってからはさっぱりだ。いや、もしかしたらもっと前からだったかもしれない。彼はニール・シュタイナーの書いたものも一度だって読んだことがない。
「早くあいつに書くのを辞めさせろ。せっかく直接言える立場になったんだから説得しろと、最初に言ってからもうすぐ一年になる」
「私は担当編集者よ。彼の本を作るのが仕事なのに、どうやって辞めさせるの」
「辞めさせなきゃあいつは死ぬぞ。あの女の犯行と思われる事件の発生の間隔が狭まってきている」
 それをどうにかするのはあなたの――軍の仕事でしょう。そう言いたいのを、マリッカは呑み込む。自分だって同じ家の、つまりは由緒ある軍家の人間なのだから、軍がただ手をこまねいているだけではないということは理解できる。
 かつてニールを襲った女性は、そのときに捕まった。だが態度が模範的だったとかで、本来の拘束期間を減らされ、既に世に放たれている。大人しくしているのは単に獲物を頭の中で物色しているだけだ、という訴えは聞き入れられなかった。
 あの異常者は堂々としながら狡猾だ。軍の手をすり抜け、今夜もどこかでご機嫌にスキップでもしているかもしれない。
「いいか、これはあいつの命を守るために言っているんだ」
 守りたいのはこちらも同じだ。ただしマリッカは彼の命だけではなく、生き甲斐までも守り通したい。彼の作品を、そして彼自身を愛しているから、軍人ではなく編集者になった。叶わぬ想いだということは重々承知で、彼の人生に寄り添うことを選んだ。
 暢気に夢なんて見ていられない。へらへらしながら夢や理想や明るい未来だけを考えていられるのは、なんて憎らしくて――羨ましい。
「ニールには会っているんだろう」
「仕事の話をするんだもの、会うわよ。彼は軍の指示で自由に外を歩けないわけだし」
「指示ばかりじゃないだろう。本人の意思だ」
「PTSDを意思とは言わないのよ、知ってる? エスト家の軍人が聞いて呆れるわ」
 具合はだいぶ良くなったが、ニールは今でも悪夢に苛まれているし、長時間住んでいる家を離れることに強い不安を覚える。一生に二回も殺されかけているのだから無理もない。
 ――マトリさんが来るようになってから、悪夢は減ってる気がするんだ。
 そう言って微笑んでいたことを思い出すと、胸が締め付けられる。いつだって他の人には敵わない。マリッカの方が、彼と一緒にいる時間はずっと長いはずなのに。
「門外漢なら口を出さないでくれる、センテッド? あなたはあなたの仕事を、私は私の仕事をしましょう。……いずれ彼は、悪夢を元にした物語は書けなくなる」
 いつまでも彼とともに歩みたい。作品をこの世に送り出し続けたい。そう強く望むのに、それは無理だという声が内から外から鳴り止まない。
 私の夢はいつも叶わない――同じ顔に背を向けて、マリッカはグラスに残っていた酒を一気にあおった。