貴重な休みが暮れてゆく。仕事は好きだけれど、休みにのんびりと自分の時間を過ごすのも、私は大好きだ。
 今日は雑貨店で、可愛くて良い香りのアロマキャンドルを見つけた。安眠にいい、と説明がついていたので、色違いで二つ購入。ひとつは自分に、もうひとつは先生へのプレゼントだ。
 先生といっても教師や医師などではない。文芸編集者である私にとっての「先生」は、作家である。先日出た新刊の重版も即決まった、今注目のホラー作家だ。
「ふふ、並んでるなあ。素敵なPOPもつけてもらってる」
 一日の締めに寄った書店の棚に、その表紙が輝いている。ホラーなので、表紙は美しくも不気味な雰囲気なのだけれど。それでも私には光を放って見えるのだ。先生の作品が目立った扱いを受けるのは、編集者として誇らしく、いちファンとして喜ばしい。
 既に持ってはいるけれど、布教用にもう一冊買ってしまおうか。そう思って手を伸ばすと、横に人の気配が立った。
 同じ本に手を伸ばすその人は、体が大きい。背ももちろん高いのだけれど、加えて仕立ての良さそうなスーツの上からでもがっしりしていると感じる体つき。立派な体躯のおじ様に、つい感心してしまった。
「この本を買うんですか」
 私に気づき、話しかけてくる。我に返って手を振った。
「あ、大丈夫です。私、この本もう持ってるので。布教するのにまた買おうかなと思ったんですけど……」
 動揺して余計なことまで口走った私に、おじ様はふきだした。恥ずかしくなって俯きかけた私に、優しく言葉を続ける。
「そうか、やっぱり人気なんですね。俺も布教用含めて何冊か買おうかな」
「是非! 本当に面白いんですよ。とっても怖いんですけど、癖になる怖さなんです!」
 おじ様は目を細めて頷き、では、と三冊手に取った。そして一冊を私に渡すと、手を振りながらレジに向かった。広くて素敵な背中を見送ってから、私は書店をもう一周した。

 翌日の午後、綺麗に包装してもらったアロマキャンドルと喜ばしい情報を持って、私は大きな庭のある一軒家にやってきた。
 初夏の庭は緑の匂いが立ち込めていて、虫の羽音も心地よい。良い気分で呼び鈴を鳴らすと、まもなくしてドアが開く。出てきたのは暗い青色の髪の少年だ。
「マトリさん、いらっしゃい!」
「こんにちは、グリン君。わ、おうちから良い匂い」
「今日もお菓子焼いてるからね。入ってよ」
 少年の後について、家の中にお邪魔する。甘い香りにうっとりしながらリビングに向かうと、ちょうど台所からお茶を持ってきた先生がふわりと微笑んだ。
「こんにちは、マトリさん。今日もよろしくお願いします」
 優しげに細めた金色の目。鴉の羽根のような艶のある髪。細身だけれど、土や肥料の重い袋を難なく持ち上げられる程度には力があることを私は知っている。
 ホラー作家、レナ・タイラス先生。年齢や性別、そして本名は公表していない。穏やかな二十九歳の男性であると、作品から察せる人もなかなかいない。かくいう私も実際に会うまでは、人を呪いそうなくらい陰気な女性だと思っていた。
 本名は先生のかつての筆名でもある。訳あって名前を変えたのだ。そしてその名は、私が強く憧れていたものだった。
 よく家にいる少年はグリンテール君。先生の助手で従弟。いつも元気いっぱいで、来客応対と電話の取次は彼の仕事のようだ。
 先生との仕事に限っては、私が家を訪問している。どうしてこんな方法をとっているのかを含めて、先生にはまだまだ謎が多い。
「新刊、売れ行き好評ですよ。感想も届いてきてるので、確認したらお渡ししますね」
 謎があっても仕事はできる。私は私の仕事を全うする。でも、先生のことを少しずつでも知ることができるのは嬉しい。
 しっとりと甘い焼き菓子をいただきながら、先生のふんわりとした笑顔を見るのも。
「どんなふうに思ってくれたのか、楽しみです。何しろあんなお話なので、いつも楽しんでくれたかどうかが不安で」
 先生の書くホラーはただ非科学的な事が起きて恐ろしいというだけではなく、読んだ人の心を抉ってくる。けれどもそこにほのかな希望や優しさを灯して、癖になる物語を創り出すのだ。
 物語の源泉は、先生が頻繁に見る悪夢。創作に役立てているのはいいけれど、記憶に残るほど夢見が悪いと体には良くなさそうだ。
「とても楽しまれていますよ。なので、これは私からのお祝いです」
 少し緊張しながら、持参した包みを取り出す。首を傾げた先生と、すぐさま身を乗り出して目をきらきらさせるグリン君に、ささやかな贈り物を差し出した。
「いつもお菓子をいただくお礼でもあるんですけど。アロマキャンドルです」
「え、いただいていいんですか」
 頷いた私から包みを受け取って、先生はにっこりした。既にキャンドルが香るのか、グリン君は顔を近づけて鼻をひくひくさせている。
「ありがとうございます、マトリさん。今夜から使ってみます」
 ひとまずホッとした。香りのするものが苦手な人もいるということに気がついてから、内心ずっとハラハラしていたのだ。
「これを買った日に私はいいことがあったので、先生にも幸運がありますように」
「え、なになに? 何があったんだよ、マトリさん」
 ぱっと顔を上げて目を輝かせるグリン君に、私はどこまで話していいか考えてから言った。
「本屋さんで先生の本を見てたら、隣にいたお客さんも二冊買っていったの。それがちょっと素敵な人だったんだ」
「二冊も? 先生、人気だな!」
「へえ、嬉しいですね。どんな方だったんですか」
「いやあ、人がどんな本を読むかとか、そういうのを勝手に言うのはあんまり良くないんですけど……男性でしたよ、四十代くらいの」
 これくらいなら明かしても良いだろう。それにしても、かっこいいおじ様だった。つい頬が緩んで、目敏いグリン君に見つかってしまう。
 私がからかわれているあいだに、先生は「その層も読んでくれてるんだ」と呟きながら頷いていた。
 グリン君の追及を逃れ、先生と打ち合わせをし、今日もお土産をいただいてしまう。そろそろ会社に戻ろうとしたところに、グリン君が何やら持ってきた。
「ねえねえ、マトリさん。さっきの素敵な人だけどさあ、こんな感じの人?」
「グリン、マトリさんは忙しいんだよ。邪魔しちゃいけない」
「ちょっとなら大丈夫ですよ。それなあに、グリン君?」
 先生が窘めようとするのをよそに、グリン君は手にしていた物――雑誌を開く。経済系の業界誌のようだ。
 見開きの記事はカラーで、人物の写真が名前とともに大きく載っている。その顔を見て、私は固まった。名前と肩書きに、頬が引き攣った。

 会社に戻り、お土産を共有スペースに置いてから、自分の席へ。そのあいだ、頭の中は先程のことでいっぱいだった。
 グリン君の見せてくれた記事、もとい、写真。私はそれに何も返事ができなかったけれど、見たことがある顔だった。というか、見たばかりだ。
 大きな家具メーカーの副社長。凛々しい微笑みをもう少しだけ柔和にすれば、私が書店で向けられたものと全く同じになる――先生の本を二冊買っていった紳士で間違いなかった。
 しかしそれは問題ではない。色んな人が先生の作品を読んでくれるのは、喜ばしいことだ。
 気がかりなのは先生だ。私が写真を見て固まったとき、一瞬だけ確認できた先生の表情。私が頬を引き攣らせている間に、グリン君の手からそっと雑誌を取り上げていた先生は、まるで何を考えているのかわからなかった。喜怒哀楽の、どれも浮かんでいなかったから。
「まだ私、先生のこと、知らないことばっかり……」
 一番大きな秘密の中身を知ったと思った。でも、実は大きな秘密はひとつではないのかもしれない。先生は今も謎だらけだ。
 先生の本名を知ってから、自分でも少しだけ調べようとした。先生に失礼なことをしないよう、いつでもその様子に気がつけるよう、準備をしたかった。
 結論からいって、何もわからなかった。作家としてデビューしてからは正体を隠していたし、その前のことは何も見つからない。ごく普通の少年だったのかもしれない。あるいはごく普通の少年でいさせるために、何かが起こっても名前を出していないか。
 ドネス先輩から聞いて、三年前に事件に巻き込まれたということだけは押さえている。それも報道はほとんどされていない。先生の名前は一切世に出ていない。
 先生に直接尋ねるしか、彼のことを知る術はない。
 気になりつつも仕事を進めていると、にわかに周囲がざわつき始めた。何事かと顔を上げたタイミングで、遠くから名前を呼ばれた。
 隣の部屋で仕事をしているはずのドネス先輩が、私に向かって手招きをしている。早足で向かうと、そのまま廊下へ連れ出された。
「何があったんですか」
「軍が来ている」
 首を傾げる私に、先輩は苦い顔で続けた。
「首都とその近郊で作家が亡くなることが続いているだろう」
 私にも先輩の表情が伝染する。ここ一年ほどで、有名な先生や話題になった先生が続けてこの世を去った。我らが編集長、そして私たちの同僚が、葬儀に出かけるのも何度か見た。
 問題なのは、それが自然死ではないということ。軍が動いているのはそのためだ。
「じゃあ、今日は捜査に?」
「ある意味、捜査より厄介だ」
 先輩が大きな溜息を吐く。実は、と切り出そうとしたところで、妙に揃った複数の足音が近づいてきた。
「文芸編集のフロアはこちらかな」
 低く重くて、硬い声。私は身構え、視線を声の主へと向けた。――そして、本日二度目の驚愕に襲われた。
 瞠目して見止めた相手は、紺の軍服に身を包んだ男性。廊下の灯りに照らされた金髪、不機嫌そうに眇めた紫の瞳。寄せた眉もすっと通った鼻筋も、口角の下がっているところも、
「マリッカさん……?」
 性別は違うけれど、何度か会った同業者にそっくりだった。
「ご無沙汰しております、エスト大佐」
「暫くだな、マクラウド。だが、今は准将だ」
「出世なさったんですね。そりゃあ何より」
 空気がぴりっと張り詰めた。珍しく剣呑な声色の先輩と、明らかに向こうの方が年下だろうに先輩を呼び捨てにする軍人。エスト准将、ということはやはり彼女と関係がありそうだ。
 ふと、グリン君との会話を思い出す。あれはずっと前のこと、彼は少しだけ教えてくれた。
「マトリ、こちらは中央司令部の」
「もしかしてセンちゃんさんですか」
 こちらに向き直った先輩が目を瞠ったまま固まった。ちょうど先程の私のようだ。理由はわかる、私はまた明らかな失言をした。
 おそるおそる軍人たちの方を見ると、エスト准将の表情はさらに強ばり、その後ろの部下と思われる人たちは顔を背けて肩を震わせていた。
「……っ、中央司令部の、センテッド・エスト准将だ。そうだな、マトリは先生から聞いてたかもしれないな」
「あ、いえ、先生ではなくグリン君なんですけど。いずれにしても大変失礼致しました、申し訳ございません!」
 咳払いなのか噴き出しそうになったのか、先輩は妙な呼吸をした。慌てて頭を下げた私に、センちゃんさん……ではなくエスト准将の顔は見えない。
「あのクソガキ」
 見えなくても、その呟きで怒っていることはよくわかる。怒っているにしても口が悪いし、さっきから態度が尊大すぎることが気になる。
「マクラウド、先生というのはあいつのことだな」
「ええ、レナ先生です。そして彼女はマトリ・アンダーリュー」
 私のことは無視することにしたのか、エスト准将は話を進めた。先輩も応じているので、私は顔を上げて二人を見る。
「昨年の夏から先生を担当しているのは彼女です。妹さんから聞いていませんか、何度か仕事もご一緒させていただいているんですが」
 会釈し直した私を、エスト准将が睨む。マリッカさんにそっくりだけれど、彼女よりずっと怖い。あからさまな敵意がある。
「知らんな。だが担当者がいるのなら話は早い」
 何の話か見当はつく。軍は作家の連続不審死について調べている。レナ先生のことも気をつけろと言いたいのだろう。
 エスト准将はおそらく、マリッカさんの双子の兄で間違いない。ということは先生とも面識があるだろう。こんな態度だけれど、きっと心配しているのだ。
「レナ・タイラスに書かせるな。作家なんてものは辞めさせろ」
「……はい?」
 聞き間違いかと思った。私がエスト准将に良い印象を持っていないから、変な受け取り方をしたのかと疑った。けれども彼は重ねて、舌打ちまで加えて告げた。
「レナ・タイラスにはもう二度と小説なんか書かせるなと言った。あいつの書くものを一切発表するな」
 わかったな、と私をもうひと睨みし、彼は踵を返す。廊下の真ん中をあけて並んだ部下たちは、順番に彼についていく。統率のとれた動きだが、美しいとは思えなかった。
「気にするな、マトリ。軍にはこちらに対して何の権限もない」
 先輩の声は落ち着いているけれど、そこに呆れが混じっているのが私にはわかる。何の権限もない人に、どうしてあんなふうに言われなければならないのか。
「厄介って、あの人のことですか。もしかして前にもこんなことが?」
 怒りを隠そうともしない私に、先輩は小さく頷いた。そしていつものラウンジに招き、コーヒーを買ってくれる。私の気持ちを落ち着かせてくれるはずの香りは、今はあまり効果がなかったけれど。
「エスト准将に初めて会ったのは三年前、ニール先生が事件に巻き込まれた直後だ」
 冷静にさせたのは、その言葉の方。ニールとはレナ先生の本名であり、かつての筆名だ。
 レナ・タイラス先生は本名をニール・シュタイナーという。本名で賞に応募した作品が評価され、若くしてデビューした。
 人気作家となった彼は、しかし三年前、刃物を持った女性の襲撃に遭ってしまった。それが原因でニール名義で作品を発表することはやめてしまったが、同年夏に再び作品を書き上げ、冬にはレナ・タイラスの名で復活を遂げる。
 襲撃事件は表沙汰にはならなかったが、事件である以上は軍が処理している。先輩とエスト准将は、そのときに出会った。
「あの人は当時はまだ大佐だった。でも、今とそう変わらない」
「態度が悪かったってことですか」
「ストレートに言うなあ。主張が変わらないってことだよ、あのときも言われたんだ」
 ――ニール・シュタイナーにもう書かせるな。これまでの作品も全て回収しろ。
 横暴で無茶苦茶なことを言う、と先輩も憤った。サフラン社の誰もその主張を受け入れなかった。当然だ、軍にそんなことを命じる権限はないのだし、そんなことをして幸せになる人なんかいない。
 しかし、たったひとりだけ、それを受け入れた人がいた。そしてその人がそうすると言えば、全体が動くしかなかった。
「……先生が、書かないと仰ったんですね」
「回収はしなくていいが絶版にはしてくれないか、とも頼まれた。先生の本を扱う全社が、仕方なく従ったよ 」
 そうしてニール先生は文壇から消えた。そのうち既刊本も入手困難となり、次第に話題にも上らなくなった。
 ただ、完全に去っていったわけではなく。先生は新たな作品と名前を携え、再びドネス先輩に接触した。――書くことを、読まれることを、辞めることはできなかった。
「その前のことが全て軍からの指示だったのかどうかはわからない。だがレナ先生が書きたいと思ったということは確かだ」
「そうですね。先生は作品を書き続けることに、ご自分の全てを懸けています」
 それは担当である私たちがよくわかっている。悪夢を元に書くという無茶を、命を懸けて実行している。誰にもそれを邪魔することはできない。してはならない。
「私にはレナ先生を守る義務があります。先生の権利を奪おうとする、全てのものから」
 コーヒーのカップを持つ手に力が入る。ドネス先輩が力強く頷いてくれた。

 私はそもそも、ニール先生の作品の大ファンだった。家にはデビュー作から最後の本まで、さらにはまとめられていない雑誌や新聞に掲載されたきりの文章も、可能な限り入手したコレクションがある。
 それだけ読んでいたのに、レナ先生の文章からニール先生を導き出せなかったのは悔しかった。ジャンルは同じなのに、文章からは同一人物だとわからないところが、レナ先生の技術だった。
 ニール・シュタイナー名義の最後の本を手に取る。美しい装画は国内外にその名を轟かせる有名画家が手掛けたもので、先生だけでなくドネス先輩や弊社のデザイン部も全力を込めた作品であったことは間違いない。
 これが世に出てほんの数か月で絶版になってしまうなんて。そんなの誰も報われないどころか、下手をすればマイナスになっていたかもしれない。当時新入社員だった私は先生が書かないという事実だけでいっぱいいっぱいで、全然意識していなかったけれど、今ならどれだけ大変な事だったのかよくわかる。本当なら知っていなければならなかったことだ。
「あの人だって、マリッカさんの家族ならわかってていいはずじゃない? それに先生とも会ってるはずだよね」
 エスト准将もマリッカさんと同じく、先生とは幼馴染のはずだ。グリン君が以前言っていた通りなら、一緒におやつの時間を過ごしたこともあったのだろう。そんな仲なのに、どうしてあんな酷いことが言えるのか。
 自分の無知も許せないけれど、エスト准将の態度も当分は思い出すたび怒りが湧くだろう。まさか家族であるマリッカさんにまであんなふうに振舞っているのか、だとしたらもっと酷い。
「どんな様子なのか、グリン君は知ってるかな」
 先生を守るために、少しでも情報がほしい。見つからないから放っておこう、ではもういけない。
 スケジュール帳を開き、今後の予定を確認する。ずらせそうなものはずらして、時間をあける。イレギュラーが発生するのは仕方がないけれど、自分だけでできる仕事だけでもうまく調整しよう。
 そしてグリン君に協力してもらうのだ。彼が一番先生に近く、忌憚なく情報と意見をくれる。

 翌日、猛然と仕事を進める私を、同僚たちはちょうどよく放っておいてくれ、また絶妙に協力してくれた。合間に聞きかじったところによると、どうやらエスト准将とのやりとりが噂として広まっているらしい。つまりマトリは大事にしている作家についてあれこれ言われて余程悔しいのだろう、と認識が統一されているのだった。
 ありがたいことに間違っていないが、それは私にとってはきっかけにすぎない。目的は先生をなにがなんでも守り抜くことであって、怒りや悔しさを発散することではない。
 今日頑張れば、明日少しだけ早上がりをさせてもらい、グリン君に会いに行くことができる。きっと先生の家にいるはずだから、庭で少しだけ話を聞きたい。
 昼食もそこそこに、手元にある仕事をどんどん片付けていると、横からお菓子を差し出された。顔を上げると同期が笑って立っている。
「めちゃめちゃ頑張ってんね。ここ一年ずっと張り切ってるけど、今日は特に」
「ありがと。ちょっと調べたいことがあるから、時間がほしくて」
「根詰め過ぎないようにね。あたしもこれから頑張らなきゃいけないんだけど」
 じゃあまたね、と彼女が去っていく。後ろ姿を見送っていると、誰かが彼女に声をかけた。
「もうロビーにいらしてるらしいの。すぐにお迎えに行きましょう」
「本当に? うわ、緊張するなあ。気難しいんですよね、先生って」
「誰がそんなことを。仕事に厳しいだけよ」
 なるほど、仕事で人に会うらしい。彼女が今取り組んでいるのは美術関係の本で、主にライターが書いた記事をまとめるのだと聞いたけれど。
 私も頑張って自分の仕事を進めようと、気合いを入れ直したところで、誰かが言った。
「なあ、さっきロビーですごい人見たよ。あの画家の――」
 耳に入った名前は知っているものだった。私は絵には疎いけれど、その人ならわかる。有名だからではなく、覚えてしまうくらい特別な人。
 大好きで思い入れのある本で、私は何度もその名をなぞったのだ。
 気がつけば私は受付に電話をかけていた。その人が帰るときに教えてくれるよう頼んだら、三十分後に連絡がきた。
 急いでロビーに降り、その人の姿を探す。顔を知らなくても、それらしい人はすぐにわかった。
 グリン君と同じ、暗い青色の髪。同じ家の血が流れているのだ。
「失礼致します」
 そしてきっと、レナ先生とも関わりがある。素早く近づいて挨拶をした。
「初めまして。私は文芸編集部のマトリ・アンダーリューと申します。……ニア・インフェリア先生、三分だけお時間をいただけませんか」
 瞬かせた睫毛の向こうに、海の色の瞳があった。顔立ちはグリン君よりも優しげだけれど、やはり雰囲気がどこか似ている。
 彼は時計を確認し、頷いた。
「迎えが来るまでなら良いですよ」
 わかった、口元がよく似ているんだ。笑うとそっくりになる。
 納得しながらお礼を言って、ロビーの端にあるソファに案内した。
 そこで私は、改めて自己紹介をした。自分が働き始めて四年目の文芸編集者であること、そして。
「インフェリア先生は、四年前に弊社から出版した単行本の装画を描かれてますよね。三年前にアトラ・エルニーニャ文学賞にノミネートされた、ニール・シュタイナー先生の『朽葉館物語』の」
 ニール先生がその名で発表した最後の作品。その装画を手掛けたのがこの人だった。だから私もよく覚えている。
 ニア・インフェリア先生の経歴なら有名だ。軍家に生まれ、自身も軍にいた経験がある。在籍中から絵画作品を発表していて、退役後は本格的に画業に専念し、現在に至る。
 だから同じ家名のグリン君――グリンテール・インフェリア君とすぐに結びついた。そしてグリン君と深い関わりがあるということは、その従兄であるというレナ先生とも関係しているはずなのだ。
「ええと、アンダーリューさん。もしかしてあなたは、タイラス先生の現在の担当者ですか」
 こちらが切り込む前に、インフェリア先生がその名を出した。文芸編集者だと言ったのでピンときたのだろうけれど、ニール先生の話をしてすぐにレナ先生に結びつくのだから、やはり関係は浅くはない。
「はい、そうです」
「じゃあ、これから手間にならないよう先に言いますね。僕はレナ・タイラスの作品に関わる気はありません。そして過去の作品のことも、できれば話題にしないでいただきたい」
 知らなかったのかもしれませんが、とインフェリア先生は困ったように笑った。
「『朽葉館物語』については、絶版の連絡をいただいたときに使用された絵の権利を引き揚げています。このことはご存知ですか」
「……いいえ、知りませんでした」
「御社は巻き込まれた側だということも承知しています。たったひとりの勝手な言い分で、多くの人がその後の見込みを覆された。そういうことをする人と関わる仕事は、僕はもう受けません」
 至ってにこやかな、明確な拒絶。
 想像はできる。この人だって、自分の仕事が人の目に触れる機会を取り上げられそうになったのだ。だから然るべき対処をし、これからはそういったリスクのある仕事を避けようと決めた。たとえこちらが謝罪し、また機会を設けたいと願っても、この人は聞き入れるつもりはない。実際、そういう交渉は既にあったのだろう。
「……それは、ごもっともだと思います。私も事情を把握せずに、失礼致しました」
 けれども、身内だと思われる人――レナ先生を勝手だと言い切るなんて、厳しすぎやしないだろうか。そこに至る事情を、この人はどう思っているのだろう。
「インフェリア先生は、レナ先生とは直接のお知り合いでは? 三年前の絶版の件の経緯はご存知ですか?」
 冷静に訊ねたつもりだったけれど、後にして思えばこの問いを口にすることこそが頭に血が上っていた証拠だった。
 それなのにインフェリア先生は、静かに、微笑みさえ湛えて返したのだ。
「よく知ってますよ、親だもの」
 私が意味を咀嚼する前に、さらに続けた。
「そして、自分の技術で食べていく世界に身を置く者同士です。真っ当でない理由で人の仕事を脅かすようなことをしてはいけないし、そう簡単には許せない。そこに親子の情は関係ありませんし、あの件についてなら経緯がどうであろうともっとやりようはあったはずですよね」
 何も言い返せない。私だって、最新作を含む全作品の絶版はやりすぎだと思う。元はといえばそこに追い込んだ者がいたわけだけれど、それにしたって極端だ。
「迎えが来たようなので、そろそろ」
「……はい。大変失礼致しました」
 もっと考えて行動すべきだった。私こそたくさんの人の印象を貶めてしまっているのではないか。後悔に苛まれつつ、インフェリア先生を見送ろうと立ち上がる。
 そこで目が合ったのは、意外な人だった。
「あ、先日の本屋の」
 スーツの似合う、がっしりした体格の紳士。レナ先生の本を二冊買っていった、あのおじ様が、どうしてここに。
 驚いている私とおじ様を交互に見て、インフェリア先生は首を傾げた。
「ルー、彼女のこと知ってたの?」
「ここの人だとは知らなかった。本屋で会ったんだ。ほら、買ってきただろ、あれ」
 ああ、とインフェリア先生は頷く。それから掌で私を示し、おじ様に言った。
「こちら、アンダーリューさん。レナ・タイラスの担当だって」
「そうだったのか。うちのをこれからもよろしくお願いします」
 目を細めたおじ様の「うちの」という言葉。インフェリア先生との親しげな様子。いやそんなことよりも、私は彼が「おじ様」なんて軽々しく呼んではいけない人物だということを既に知っている。
 大会社の副社長、ルーファ・シーケンスさんは、丁寧にお辞儀をしてからインフェリア先生と共に去っていった。

 もちろんドネス先輩は全てを知っていた。
 半分放心しながらも予定通りに仕事をこなした私は、勝手を働いたことを先輩に報告して謝るために、隣の部屋を訪れた。
 先輩は今日も忙しそうだったのに、いつものラウンジで話を聞いてくれた。
「そうか、まさかの直接対決を……。人間の躁状態のときの行動力ってのはすごいな」
「すごいな、じゃないですよ。先輩、まだ私に言ってないことあったじゃないですか。おかげで私、また多方面に迷惑をかけてしまいました。大変申し訳ございません」
 あのあと、同期にも謝った。私が彼女の仕事に障害を作ったかもしれないと。彼女は笑いながら「大丈夫」と言ってくれたけれど、はたして本当だろうか。
「文句言ってんのか謝ってんのかわかんないぞ。それはともかく、画家のインフェリア先生な。あの人、厳しかっただろう」
「はい。レナ先生と親子って、本当なんですか?」
「本当だよ。血は繋がってないけど、間違いなく親子だ。それと同時に、似た仕事をする対等な大人同士でもある」
 だからあんなに厳しい、と先輩はしみじみと呟く。レナ先生がニール先生だった頃から一緒に仕事をしている先輩は、親子というより仕事関係者の色が濃い先生たちのやりとりを見てきたのだろう。
 人間関係なんて様々あって当たり前で、それは家族であってもそうだ。だからまるっきり他人である私が、なんだか寂しい、なんて思うのは失礼なのだけれど。
「……やっぱり、三年前の事件のせいで、レナ先生とインフェリア先生の仲がぎくしゃくしてしまったんでしょうか」
 ロビーでの会話を思い出して零すと、先輩は苦笑した。それもあるだろうけど、と低い声で言う。
「あの人が厳しいのはもっと前からだよ。俺も何度も叱られた」
「先輩が?」
「レナ先生、というかニール先生はデビューが若かったから、保護者との会話は大事でな。いろんな交渉と説得をしたもんだ。正体を明かすなって言ったのもインフェリア先生だった」
 懐かしいな、と先輩は遠くを見る。私の知らない思い出を、この人はあといくつ抱えているのか。
「親子仲が良くないわけではないんですね?」
「ああ、ただ今は距離を置いてるだけ。仕事についてはあの通りだから、頼みたいと思ったら自分の立場だけじゃなく社運をかけることにもなるけど」
 もう受けません、と明言されたのだから、それはおそらく無理だろう。親子のコラボレーションは一度きりで終わってしまった。レナ先生の作品で再び実現できたら、きっとより美しい本ができあがるだろうけれど。
 そこまで考えて、ふと思い出した。社運をかける、という言葉は以前にも先輩から聞いた。そのときも私たちは、レナ先生の話をしていたはずだ。
 謎がまたひとつ、解けた気がした。

 まもなく陽が傾き始める、その下に広がる庭。春の気配が去って本格的な夏へと季節が移ろうとする時期の緑が、爽やかな風に揺れている。
 グリン君はそこにいた。帽子をかぶり、軍手をはめているところを見ると、庭の手入れをしていたのだろう。声をかけようとして、もう一人の姿も見つけた。つば広の帽子のおかげで顔の判別は難しいけれど、女の子なのは間違いない。
「グリン君、モルドちゃん」
 門の前から声をかけると、二人は振り向いて、駆け寄ってきてくれた。
「マトリさんじゃん。今日、先生と仕事だっけ」
「ううん、今日は約束してないよ。先生はお家にいるの?」
「執筆活動中です。なのでわたしたちが草花のお世話を仰せつかっています」
 先生の担当になってから、執筆中のタイミングに居合わせるのは初めてだ。いつも訪問したときにはお菓子を作ったりお茶をいれたりしている。あるときは本格的なご馳走を拵えていた。
 いつ仕事をしているのか疑問に思っていたけれど、グリン君たち以外に誰も来る予定がないときに、集中して取り組んでいたようだ。
「用事があるの? なら呼ぶけど」
「大丈夫。今日はグリン君と話したくて来てみたの。モルドちゃんもどうかな」
 俺と? と首を傾げ、グリン君はモルドちゃんと顔を見合わせる。忙しいなら今度でいいよ、と用意していた台詞を言いかけたところで、グリン君はにんまりと笑った。
「それじゃおいでよ、マトリさん。いやあ、モテまくって困っちゃうぜ」
「わたしが邪魔なら、引き続き奥の手入れをしてますので、おかまいなく」
「ありがとう、グリン君。モルドちゃんも良かったら一緒にいてくれない?」
 子供に気を遣わせてしまうなんて、大人として良くない。それにモルドちゃんの存在は、私が自らを律するためにもありがたかった。
 背の高い植物に囲まれて、ぽっかりと空間があった。ピクニックシートが敷いてあり、お菓子と水筒も転がっている。彼らの休憩スペースに招かれ、私は腰をおろした。
「で、マトリさんは俺と何を話したいの」
 グリン君がお菓子を、モルドちゃんがお茶を差し出してくれる。お礼を言って受け取り、まずは当初の目的を果たすことにした。
「マリッカさんのお兄さんについてなんだけど」
「センちゃんのこと?」
「そう。軍人さんなんだよね?」
 グリン君が頷く。けれども答えたのはモルドちゃんだった。
「センテッドさんは父の部下です。今は准将ですね」
 彼女のお父さんも軍人で、しかも相当偉い人だ。エスト准将が無茶なことを言うのが上からの指示だったら、モルドちゃんには申し訳ない。
「センちゃんは心配性なんだよな。先生がまた悪い奴に襲われるんじゃないかって」
 俺がいるから大丈夫だって言ってんのに、とグリン君は拗ねたように口をとがらせた。モルドちゃんも頷いて、補足をしてくれる。
「先生、事件に巻き込まれたことがあるんです。事件を担当したのがセンテッドさんだったんですけど、余程先生を傷つけた相手が許せなかったんですね。父が何度も止めに入るほど、犯人を厳しく追及したんだそうです」
 あの人、そんなに先生のことを想っていたのか。一方的に書くのを辞めさせろなんて言うから、そこまで思い至らなかった。
「エスト准将は、先生が作品を発表するのを良く思ってないんじゃないの」
「そんなことないと思うけど。なんで?」
 グリン君たちは、エスト准将が私たちに言ったことを知らない。ということはここでは「書くのを辞めろ」とは言っていないのだ。本人には言わないのに、私たちにはそうさせるよう仕向けるなんて、どういうことだろう。
「そっか、わかった。グリン君たちから見て、先生とエスト准将は仲が悪いわけではないんだね」
「センちゃんもマリちゃんも、先生のことは大好きだと思うよ」
 別人の話を聞いているみたいだったけれど、これ以上は何もわかりそうにない。エスト准将に関しては、ここで切り上げるべきだ。
 グリン君にはもうひとつ、確かめたいことがある。
「それから、もう少し聞きたいことがあるの。グリン君、この前、私に雑誌を見せてくれたよね。憶えてる?」
「うん。マトリさん、やっぱり好みだった? あれね、俺の伯父さん。つまり先生のお父さん」
 思ったよりもあっさりと教えてくれた。あのときの先生の反応を思い返すに、もっと聞きにくいことなのかと思っていたけれど。
 グリン君はさらに自慢げに続けた。
「先生にはお父さんが二人いるんだ。で、どっちもかっこいいんだぜ。雑誌の伯父さんは大きい企業の副社長で、もう一人は画家。こっちは俺の母さんのお兄さん」
 屈託なく、なんでもないことのように、ただ身内を紹介してくれる。モルドちゃんも口出しせずに頷いている。
 先輩によると、インフェリア先生とレナ先生は血の繋がりがない。従ってグリン君もレナ先生の血縁ではない。どういう構成の家族なのか、聞いてもいいだろうか。今までそこまで踏み込むのは遠慮してきたが、グリン君が話してくれるということは、口止めされているわけではないはず。
 考えていると、モルドちゃんがやっと口を開いた。
「複雑ですよね、グリンの家は。わたしも把握には時間がかかりました」
「そ、そうだね。先生の本名はグリン君と違うし、お父さんたちとも……」
「どっちも血が繋がったお父さんじゃないからな。先生が子供の頃に、二人が引き取ってくれたんだって」
 なるほど、それは複雑かつデリケートな話題だ。私が聞いても良かったのか、グリン君も話してしまって良かったのか、今更戸惑ってしまう。
 その考えを読んだように、大丈夫、とグリン君が目を細める。
「あのね、マトリさん。俺、ずっとマトリさんにお願いしたいことがあったんだよ。そのためにはいつかはこのことを教えなきゃいけなかった」
 いつも元気で明るい、まるでやんちゃ坊主の見本のようなグリン君が、初めて見せる表情だった。大人が子供のすることを見て、仕方ないなあ、とその仕業を許すときに近い。――そうか、インフェリア先生が私に向けた微笑みと同じだ。
「先生の前で伯父さんの載ってる雑誌を見せたの、わざとだよ。あのとき、先生は俺から雑誌を取り上げただろ」
 頷きを返す。やはり、あれはそうだったのか。
「先生ね、ずっとお父さんたちに会ってないんだ。あんなの集めて、本当は会いたいくせに。家から出られないのもあるけど、それならマトリさんに言ったみたいに、来て欲しいって言えばいいじゃない?」
 それもしないんだよ、とグリン君は呆れたように溜息を吐く。
「それは、三年前に巻き込まれた事件のせい? レナ先生が名前を変える前に出した、最後の本が……」
 つい前のめりになってしまった私に対して、子供たちは冷静だった。もう色々知ってるんだね、なんて相槌を打ちながらも、首は横に振る。
「それもあるけど、会わなくなったのはもっと前だって。先生がこの家に引っ越してから」
 広い庭のある、大きな家。ひとりで住むには大きすぎる。来るたびにそう思っていた。この家は、本来なら――
「先生さ、本当はここにお父さんたちと一緒に住みたかったんだよ。それでこんなに大きな家を買ったんだって。自分を引き取って育ててくれた、恩返しをしたかったから」
 私が見たあの人たちと、先生。大の大人が三人、一緒に暮らすことができる家。それできっとちょうどいい。
 けれども先生は、ここに独りで越してきた。
「行かないって言われちゃったんだってさ。俺の母さんが説得してもだめだったらしいよ。ルーさんはともかく、ニアさんが動かなかった」
 どうして、という気持ちと、やはりか、という納得が同時にあった。それも仕事絡みの理由だろうか。思わず眉間に皺を寄せた私に、グリン君は大人っぽい苦笑を向けた。
「だよね。なんでって思うよね。俺もよくわかんない」
 育ててくれた人が、恩を返そうとした途端に突き放した。その理由もわからないまま。もしかしたら先生は納得しているのかもしれないけれど、少なくともグリン君の知る限りは、会っていない。会いたいと思って写真を見られるものを集める程なのに。やっと仕事で一緒になれたと思ったら、それもだめにしてしまった。
 まだ情報の断片が繋がらない部分はある。でも、私はひとつ、確信した。
 レナ先生が装画を頼みたいと思っている、憧れの人。その人に頼むには社運をかけることになると先輩が言っていた相手は、まず間違いなくニア・インフェリア先生だ。
 ただ描いて欲しいということではない。信頼を取り戻し、関係を結び直したいという、レナ先生――ニール・シュタイナーの切なる願いだったのだ。
「マトリさん。俺の願いは、先生とお父さんたちを会わせて欲しいってことなんだ。意地っ張りだからさ、仕事っていう理由でもなきゃだめなんだよ」
 意地っ張りなのは誰なのか、はっきりとは言わない。仕事で一度だめになってしまったことは、グリン君も知っているらしい。私に改めて頼んでいるのは、私がニール先生ではなく、レナ先生の担当だからだ。先生の新しい人生の、新しい人間関係だから。
 目を伏せ、頭をフル回転させる。情報は確実に集まっているけれど、同時に大きな問題も連れてきた。先生を守ると決めたけれど、それは担当編集者としての権限の範囲内でのことだ。
「……グリン君。多分、私がものすごく頑張れば、会わせることはできるよ」
「本当?!」
 グリン君に無邪気な明るさが戻る。けれども灯った希望は、すぐに消えてしまう。
「だけど先生たちがそれで良いかどうかはわからない。もしかしたら、もっと拗れてしまうこともある。それにやり方を間違えたら、私はもう二度と先生たちに関われなくなる。先生たちはうちで仕事をするのを辞めてしまうかもしれない」
 実際、インフェリア先生がまた私たちの会社と仕事をしてくれることも、その寛容さに感謝しなければならないところだ。私に過去のことを丁寧に説明してくれたことも。
「仕事じゃだめなんだと思うの。それもたしかに利用できるかもしれないけれど、私がしてはいけない」
 私は仕事をする人間として、きちんと線を引かなければならない。
 けれども私は仕事だけで生きているわけでもない。
「協力できるのは、グリン君の友達としてだよ。編集者マトリ・アンダーリューじゃなくて、ただのマトリとして、グリン君たちのためにできることを探っていきたい」
 私だって、グリン君には助けられたのだもの。散々色々聞いておいて、放っておけるわけもない。
 モルドちゃんが、呆然としていたグリン君の背中を叩いた。我に返ったグリン君が不敵に笑う。
 私たちの密かな作戦の始まりだった。


 悪夢の怪物を書き起こし、紙の上にいつかの恐怖を充満させる。触れられたくない首を絞め上げるような感覚は、身の内側から湧き上がるものだ。
 物語を綴るときに感じていることを打ち明けると、育ての親は眉を顰めた。元が悪夢であり、その根底には殺されかけた過去があるのだから、本当はこんなふうに書いて広めて欲しくないだろう。
 同じ反応をする人物がもう一人いる。四歳下の、同性の友人。彼は優しくて、こちらが自らを恐怖に落として作品を生み出すことを良しとしない。いつか壊れるのではないかと心配してくれている。
 それをよそに書き続け、この道でしか生きたくないと思ってしまったことを、申し訳なく思う。ごめんなさい、と心の中で呟くたび、夜の怪物は新たなかたちを得て登場する。
 心を抉るような物語、と称されるのは、きっと注がれる愛情を無碍にしているからだ。人の気持ちを怪物にして、物語の中の人々を襲うものにしてしまうから。
 けれどもそれを止められない。止めたら今度こそ死んでしまう。一度味わって、よくわかった。
 自分の存在が他者を傷つけることを恐れ、一度は完全に消えなければならないと思ったのに、脳は、手は、生きることを渇望した。犠牲を払い、大切にしていたものを捨て、ただこの道を行けと命じるのは、他でもない自分自身。
 本当の怪物は、鏡を覗けば映っている。金色の目でこちらを見ている。
「……浸りすぎた」
 ゆっくりと、意識が現実に帰ってくる。過去とファンタジーの混じった世界から引き戻したのは、部屋に漂う香り。
 過去にはいない彼女がくれたキャンドルは、薄暗い空間に希望の光を灯していた。
 物語を先に進めよう。きっと待っていてくれる。姿勢を正して、再びペンを走らせた。