毎日通る道が、いつもと違う気がする。同じ風景が見えて、足の裏から伝わる感覚も慣れたものなのに、どこか落ち着かない。
 疲れているからだろうか。最近は仕事もそれ以外も忙しい。気がかりなこともいくつかある。余計に敏感になっているのかもしれない。
 昔からファンタジー小説が好きで、想像力はそれなりに逞しい。無理にでも理由を現実的かつ外的要因でないものに結び付けなければ、本当は怖くて仕方がない。
 例えばこの瞬間、振り向くとそこに暗い穴があり、それが巨大な舌であり喉であるとわかったときにはもう遅く――なんて。
「そんなわけないじゃない……っ!」
 叫びと行動が一致しないけれど、どちらも正直な脳の指令だ。履きなれた踵の低いパンプスで猛ダッシュし、息を切らしながら自宅へと飛び込んだ。
「はあ……っ、怖かったあ……」
 ドアを閉め、内側から鍵をかける。肩で息をしながら、その場にしゃがみこんだ。
 幼い頃も、よくこんなことがあった。わけもわからず怖くなった帰り道を、全速力で走って帰ると、呆れたように笑いながら玄関に来てくれるお母さん。それを見て私はいつも、涙を流しながらへらへらと笑うのだ。
 ……あれ、何かおかしくない?
 手に握られているのは汗だけだ。そして私はひとり暮らしで、出迎えてくれる人は今はいない。
 慌てて探した家の鍵は、しっかりと口を閉めた鞄の中にあった。

「というわけで、一旦ホテル暮らしをしてるんです」
 私が話すリアル恐怖体験を、男の人二人は息を呑んで聞いていた。一人は十歳にもならない子供だけれど、普段から元気なだけにこの反応は意外だ。隣の大人にしがみついてしまっている。
 二十九歳成人男性は真っ青な顔をしている。こんな話よりも恐ろしいホラー小説を書くことを生業としているのに。
 私はといえば、通報したときに軍の担当者に説明し、現状を知らせるため職場の人々に説明し、さらには話のネタにと自分が担当している作家たちにも順番に語っていたために、すっかり慣れてしまった。そのときは怖かったけれど、今は随分落ち着いている。
 人気ホラー作家レナ・タイラス先生と、その助手グリンテール君にも、ほとんど「面白い話」扱いで聞かせていた。
「マトリさん、怖かったでしょう」
「もう平気ですよ。一週間何もなさそうなら家に戻れますし。先生も作品のネタにしちゃってください」
 他の作家は笑って「使えそうですね」なんて言っていた。だから私も思いっきり自虐して笑いに昇華してしまうのが良いと思っていた。
 けれどもレナ先生は顰めた顔を崩さない。そして柔らかいけれど幾分か低い声で言った。
「駄目ですよ。人が実際に怖い目にあったのに、ネタになんかできません。ただ怖いだけじゃなくて危ないですし。ホテル暮らしということは、誰かの手が加わっていたんですよね?」
 そこに言及してきたのは、作家ではレナ先生が初めてだ。私は気まずさで俯きながら、曖昧に返事をする。
「ええ、まあ……。でも壊れた鍵は取り替えましたし、何か盗られたとか仕掛けられたとかもなかったので大丈夫です」
「それも一般に被害っていいますよ」
 一年近く一緒に仕事をさせてもらっているけれど、先生のこんな声は初めて聞いた。言い聞かせるような口調に、確かな重み。グリン君が小声で「怒ってるよ、これ」と教えてくれなくてもそうとわかった。
 レナ先生は穏やかで優しい。烏の濡れ羽色の髪から金色の瞳がのぞいて、相手を見て細められる。それがいつもの先生だ。一度だけ泣いたところも見たことがあるが、怒るところは知らなかった。
「マトリさん、あなたがもう怖くないというならそうかもしれません。当事者にしか心の動きはわからないので、僕が口を出すことではありません。でも、危険な目にあっていることは別です。それは笑い飛ばさず、ちゃんと然るべきところに相談して、しっかり守ってもらってください」
 知らなかったけれど、先生の感情が大きく動いているときの特徴はわかった。口数が格段に多くなる。真剣に、大切なことを伝えようとしてくれる。
 私は姿勢を正し、頭を下げた。
「ごめんなさい、気をつけます。軍の方に対処はしてもらっていますが、そうですね、こういうのはふざけちゃ駄目ですね」
 そもそもレナ先生には、こういうことを笑い飛ばして誤魔化すことはしてはいけない。かつて先生自身が、命を奪われるかもしれない危険な目にあっている。
 なんとか反省を伝えようと腰を折り続ける私に、先生の慌てた声が降ってきた。
「いえ、あの、僕に謝らないで。……マトリさんは既に手を尽くしているんですよね、だったら無事を祈るしかできません。余計なことを言ってすみませんでした」
 顔を上げると、先生の心配そうな表情が見える。この人は最初から、怖がっていたのではなく、私の身を案じてくれていたのだ。
 それなのに私は、それを汲み取ろうともしていなかった。
「ありがとうございます、先生。私は本当に大丈夫ですから。それよりもっと楽しいお話をしましょう!」
 気を取り直して明るい声を作ってはみたものの、他に何を話せばいいだろう。仕事の話は最初に全部済ませていて、預かるものは預かり、お願いするものは渡してある。お茶を飲み終わるまでの雑談を暗くしてしまった私に、他に話の種はない。かといってこれでさっさと帰ってしまうのは気分が良くない。
 最適解は仕事が済んだら会社に戻ることだったな、とさらに反省をする。ちょっと時間に余裕があると判断してしまったばかりに……。
「マトリさん、さっきの話で思ったんですが」
 先生が切り出してくる。まだ何か問題があっただろうか、と背筋を伸ばすと、先生はいつものふんわりとした笑顔をこちらに向けた。
「お母さんと仲良いんですね」
 そういえば、少しだけその人のことを話した。私は肩から力を抜き、頷いた。
「はい。仲が良いというか……子供たちが健やかに育つようにするのが仕事なんですって。だからみんなに親切に接してくれてましたよ」
 答えてから、先生の不思議そうな眼差しを受ける。いけない、今度は言葉が足りなかった。
「私、施設で育ったんです。お母さんっていうのは、正確には施設の園長先生のことですね」
 珍しいことではない、と思う。このような境遇の子供はたくさんいて、制度や援助を活用して育っていくことができる。私はそのひとりだ。
 愛情を受け、学校にも行かせてもらい、こうして独り立ちができている。私はおそらく、特に恵まれた境遇の人間だろう。
「手紙のやりとりがあるので、まあ、仲が良いといえばそうです。合ってます」
「そうだったんですね」
 先生は納得したように首をゆっくり縦に振る。それからクスッと笑った。
「じゃあもしかして、その施設に置いてあったんですか? ニール・シュタイナーの本が」
「そうなんです。最初の本が出てすぐだったと思いますよ、お母さんが仕入れたのは。のめり込んでしまって、続きはまだかって訊ねまくってお母さんを困らせました」
「あんな構成も文章も未熟なくせに無闇に怖い本を……」
 レナ先生は苦笑する。こんな言い方をするのは他でもない、ニール・シュタイナーがレナ先生の以前の筆名であり、本名だからだ。
 今も昔も覆面作家である先生は、僅か十四歳でデビューした。名前は変えたが長く活躍している作家で、私は先生の本に携わりたいという思いで編集者になった。
 もしかしたら、施設にいなければ今の私は存在していなかったかもしれない。先生とも会わず、全く別の人生を歩んでいた可能性があるということに、たった今気がついた。
「やっぱり幸運で強運ですね、私。先生はこんな私が担当になってしまって大変かもしれませんけれど」
「僕だって幸運ですよ。そっか、じゃあマトリさんのお母さんには感謝しなきゃいけませんね」
 空気が和やかになった。先生が機転を利かせてくれたおかげで、安心して会社に戻れそうだ。そろそろこれで、と言って立ち上がる。
 またお土産を貰ってしまい、挨拶をして外へ。夏の匂いがしてきた庭を通りながら、ふと思う。
 ――先生のお母さんは、どんな人だったんだろう。

 大きなものから細かいことまで、レナ先生には謎が多い。これまで少しずつ明らかにしてきたが、未だにわからないことはある。
 お父さんたちのことなら知っている。先生にはお父さんが二人いるのだ。一人は有名画家、もう一人は大会社の副社長。詳しくはわからないけれど、先生は親御さんとは暫く会っていないという。
 お母さんは、おそらく亡くなっている。以前レナ先生を担当していたドネス先輩やグリン君によると、先生は身内を亡くしたために、今のお父さんたちに引き取られたのだそうだ。
 先生自身は家族についてあまり話さない。でも先生の従弟であるグリン君が私に色々教えてくれても、基本的に止めたり誤魔化したりしない。
 ちなみにグリン君自身は、とある名門軍家の子だったりするのだけれど。そのグリン君の立場をもってしても、先生と画家のお父さんとの間にある溝のようなものが埋められないらしい。私はそれをどうにかするための手伝いを、グリン君に頼まれている。
 先生の画家のお父さん――ニア・インフェリア先生は、ニール名義で上梓した本に一度だけ装画を描いてくれた。けれどもその本はある事件のせいで、たった数か月で絶版となってしまった。以来、インフェリア先生はレナ先生の作品にはもう関わらないと決めたらしい。
 それでは私も困る。なぜならレナ先生にとって、インフェリア先生は憧れであり続けている。再び装画を描いてもらうことはレナ先生の夢であり、ということは私の夢でもあるのだった。
 親子の問題と仕事の問題の両方から見ているけれど、インフェリア先生とは接触できないし、レナ先生からは何も話さない。現在は立ち往生の状態だ。

 私の勤め先である出版社、サフラン社。戻った私を迎えたのは、ドネス・マクラウド先輩だった。
「どうしたんですか、ロビーまで降りてくるなんて」
「マトリ、軍から客が来てる」
 家のことで何かわかったのだろうか。侵入者に繋がる手がかりか、あるいはもう捕まえることができたのか。
 ところが先輩は浮かない顔で言う。
「残念ながら思ってるのとは違うぞ。来てるのはエスト准将だ」
 その名前を聞いて、私の気持ちも萎んだ。抱えているもう一つの問題がやってきた。こんなときにまたあの話をしなければならないのか、と考えると頭が痛くなる。
 彼は私たちの編集室の、打ち合わせをするために設けられたスペースで待っていた。パーテーションで区切って内側に折りたたみの机と椅子を置いただけのもので、周囲では同僚たちが普段通りに働いている。
「こんにちは、エスト准将」
「どこに行っていた」
 軍人のくせに挨拶もできないのか、この人は。私は無理矢理作っていた愛想笑いをやめた。
「お教えする必要があるんですか」
「妙なところに足を運んでいないだろうな、という意味だ。尾行の気配を感じて家の鍵を壊された人間が独りでうろちょろするのは、本人も周囲も危機感が足りないのではないか」
 行くわけがないし、仕事をしているのだから仕方がないだろう。しかしとても安全なところにいましたよ、とはこの人相手に言えないので「行ってません」と返した。
「……ていうか、どうして私の家の鍵が壊されたことを知ってるんですか」
「報告が上がってきている」
 准将とはあだ名ではなく、この人のれっきとした肩書きなのだなと、嫌でも意識してしまう。私に何か起これば、今はエスト准将に筒抜けになってしまうのだ。
 この人は私に目を付けている。レナ先生の担当編集者だからだ。この人はレナ先生に小説を書くことを辞めさせるように、私に言ってきたのだ。もちろん応じる気はない。
 けれども要求の原因は、私も見過ごせないものなのだった。
「私のことはいいでしょう。本題は何ですか」
「これが本題だ」
 意味がわからず首を傾げた私に、エスト准将は写真を突きつける。写っているのはキスマークだ。口紅を塗った唇を押し付けた白いカードのように見える。
「これは貴様の部屋にあったものだ、マトリ・アンダーリュー」
「私の? こんなの知らないですよ。この色の口紅持ってないですし」
「貴様が付けたものではないということはわかっている。だが念の為に粘膜を採取させろ」
「わかってるって、じゃあ誰のなんですか」
 座っている椅子ごと体を引きながら問う。少しできた距離を気にする様子もなく、エスト准将は写真を机に置いた。
「データがあるのだから、もちろん前科のある人間だ。最近誰かを部屋に入れたか」
「いいえ」
 言わんとしていることがわかってしまう。気味が悪くて考えたくないけれど、つまりそのカードは。
「では、やはり侵入者がこれを置いていったということだ。そいつの前科は殺人未遂」
 鳥肌のたつ腕を抱きしめるようにする私に、エスト准将は容赦なく告げた。
「カードからはアズハ・ヒースという女の痕跡が検出された。三年前にニール・シュタイナーを襲撃し、ドネス・マクラウドを刺したことで、現行犯逮捕されている人物だ」
 もちろん私はアズハなんて人は知らない。見覚えは、とエスト准将が追加で出した写真には、大きな目と上品に弧を描く唇が印象的な、可愛らしい女性が写っている。捕まったときに撮られた写真だろうに、まるでそういうコンセプトの芸能人のブロマイドだ。
 俯いたまま緩くかぶりを振った私を見て、エスト准将は苛立ちを含んだ溜息をつき、写真を片付けた。
「こういう輩が寄ってきているのに、レナ・タイラスの作品を世に出し続けるのか」
「それとこれとは関係ないです」
「あるからこういうことになっている」
 膝の上で握った拳は、エスト准将には見えない。今私がどれだけ悔しい思いをしているのか、この人は知らない。
「アズハ・ヒースが周囲をうろついているとわかった以上、こちらも見過ごすわけにはいかない。今はホテルにいるんだろう、帰りは軍から護衛をつける」
「仕事で外に出ることもあるんですけど」
「もちろん付き添う」
 この状態で、レナ先生の家に行くのは難しいかもしれない。きっと先生にも軍の人がついているだろう。
 一年ほど前から作家を狙って殺害するという事件が度々発生しており、首都とその近郊は緊迫している。エスト准将はこの事件を担当していて、近いうちにレナ先生が狙われるのではないかと危惧しているのだ。
 彼が先生について特に煩く言ってくるのは、付き合いが長いからだ。幼馴染であり、家を訪問できるくらい親しい。先生の活躍を知っているからこその危惧で、命を奪われて欲しくないからこそ執筆を辞めさせて狙いから外したいと思っている――かもしれないけれど、それなら軍人としてきちんと先生を守ってくれればいい。少なくとも私よりは確実にできるはずだ。
「何か不満か。男がうろつくのが嫌なら、女性をつける」
「いいえ、人をつけてくれてありがとうございます。ただそういうことができるなら、レナ先生が執筆を恙無く続けられるようにもできそうなのにと思っただけです」
「恙無く?」
 エスト准将は鼻で笑う。口角は片側だけ上がっているのに、心底こちらを軽蔑しているような目で、私を見た。
「本当に恙無く書いてると思うなら、我々がアズハ・ヒースを確保しようとしまいと、あいつは長生きできないだろうな。貴様はいつか無意識に人間を殺すぞ、マトリ・アンダーリュー」
 伝えることは伝えた、とエスト准将は席を立った。パーテーションの向こうにさっさと姿を消し、足音も聞こえなくなる。
 取り残された私の手は、強く握りこんだ爪が刺さって、赤い色が滲んでいた。奥歯を噛み締めすぎて顎も痛い。
 大人だから、泣くことも叫ぶことも我慢する。罵詈雑言を吐きながら彼を追いかけ、力の限り殴ることを、妄想だけで済ませられる。
 どうしてあんなことを言われるのか、考え、想像し、悔しいけれど納得することもできてしまうのだ。

 軍の人に見張られて、慣れないホテルの部屋に帰り、エスト准将の言葉を思い出しては上等な枕を殴るなどした翌日。案の定精神的な疲れを残してはいるけれど、良いベッドのおかげで体はいつもよりも軽く、仕事は着々と進んだ。レナ先生以外の作家たちと打ち合わせをこなし、あっという間に夕方になる。
 遅くなると危ないから、と残業は暫くしないことになった。だから何の問題もなく仕事が片付くのは嬉しい。付き添いの軍人に頼んで、帰りは寄り道をさせてもらうことにする。美味しい夕食をテイクアウトしようと思ったのだ。
 店の前まで来て、耳が聞き覚えのある声を拾った。きょろきょろと周囲を見回すと、その光景が目に入る。遠かったけれど、何が起こっているのかはわかった。
 少年たちが数人かたまって、中心にいる何かに向かって暴言を吐いている。明らかに良くない状況に割って入ることができない人たちが、そちらをちらちらと見ていた。
 他人のことならば、私もおろおろしているだけだったかもしれない。けれども聞こえてしまった。囲まれているのは、知っている子かもしれないのだ。
 私が駆け寄ろうとすると、ついてくれていた軍人が素早く動いた。少年たちに声をかけると、かたまりの内側が見える。――やはり思った通り、そこにいたのはグリン君だった。
 どうしたの、という問いかけには答えず、少年たちはその場を離れていく。残されたグリン君は、私と目が合うと眉を八の字にして笑った。
「こんばんは、マトリさん」
「こんばんは。今のはどういうこと? 怪我とかしてない?」
 グリン君は軍人を見てから、言いにくそうに口をもごもごと動かした。
「怪我はないよ。喧嘩とかじゃないし。あいつら、同級生とその先輩なんだ」
 出会ってから一年近く経つけれど、グリン君からその言葉を聞くのは初めてだ。俯き気味に慣れない単語を口にして、それからぱっと顔を上げた。
「大丈夫だから心配しないで。あと、先生にはこのこと内緒な」
 絶対だぞ、と強く言うので、私はこくこくと頷く。どうしてかはわからないけれど、どうしても知られたくないのだ。たしかに先生が知れば、とても心配するだろう。
「じゃあな、マトリさん。また先生の家でね」
「あ、待って」
 駆け出そうと足に力を入れかけたグリン君を呼び止め、軍人と目配せをする。先生に出来事を内緒にするという約束はしたけれど、大人としては心配しないわけにはいかない。あの子たちがまた来て、グリン君に絡んでくるかもしれない。
「お家まで送る。軍人さんも一緒だから安全だよ」
「インフェリア氏のお子さんでしょう。無事に送り届けなければ叱られてしまいます」
 私だけなら「大丈夫だから」と振り切っていたかもしれない。グリン君は軍人の言葉に苦笑して頷いた。この人が叱られるのは可哀想だな、と思ったのだろう。
 グリン君と私が並んで前を歩き、後ろから軍人がついてくる。気にしないよう、話題を探してグリン君に話しかけると、さっきのことなどなかったかのように笑顔で応えてくれる。
 彼は今日も先生の家に行っていたらしく、手にしていたお土産の袋を見せてくれた。ほわりと立ち上るバターの良い香りに、私もつい口元が弛む。
 先生はいつもと変わらず、仕事をし、お菓子を作り、庭仕事をしていたという。そろそろ小さな畑で収穫した野菜が食卓にあがりそうだとか。
 おそらく先生にも見張りがついているのだろうけれど、普段通りに生活できているようだ。
 お喋りをしながらグリン君に案内をしてもらい、到着したのは先生の家に勝るとも劣らない立派な家。玄関は道路に面しており、庭は家の裏側に小さいものがあるという。小さい、といっても先生の家と比較してということらしく、敷地面積は広そうだ。
 ぽかんと口を開けている私に、グリン君はにんまりして言った。
「うちはさ、じいちゃんとばあちゃんと母さんと父さん、それから俺の五人暮らしなんだ」
 へえ、と相槌を打つ間に、グリン君が扉を開く。ただいま、と呼びかけると、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
「おかえり、グリン。……あら、お客様?」
 現れた初老らしき女性が、可愛らしく首を傾げた。私よりも早く、ついてきていた軍人が前に出る。
「失礼致します、インフェリア夫人。先程お孫さんが街で」
「たまたま会ったんだ。日は長くなってきたけど時間は遅くなるからって」
 遮るようにグリン君が言うと、軍人は口を閉じて頷いた。私もそれに倣う。きっとこの人がグリン君のお祖母さんで、先程あったようなことは知られたくはないのだ。
「まあ、ありがとうございます」
「それでね、ばあちゃん。この人、前に話したマトリさんだよ。先生の担当の」
 突然紹介され、私は慌てて頭を下げた。
「はじめまして、サフラン社文芸編集部のマトリ・アンダーリューと申します。ええと名刺がここに」
「あらあら、慌てないで。ゆっくりでいいんですよ。いつもうちの孫たちがお世話になっております」
 孫たち――グリン君、そしてレナ先生のこと。先生は親には暫く会っていないそうだけれど、お祖母さんともそうなのだろうか。
 ふと湧いた疑問はさておき、私はもうホテルに戻らなければならない。夕食はどこかで軽いものを調達しよう。挨拶をしようとすると、お祖母さんが「ちょっと待ってて」と私を留めた。
「お夕飯はこれから?」
「はい、そのつもりです」
「良かったら食べていかない?」
 にっこりするお祖母さんに、ついつられそうになる。でもそうはいかない。私は一応危険の只中にいるのだ、この人たちを巻き込んではいけない。
 おかまいなく、と再び頭を下げようとすると、背後で扉が再び開いた。そして「うおっ」と驚きの声をあげる。
「ちょっと、何事? 何かやった?」
 声の主は長身の女性だった。髪留めでまとめた黒い髪と見開かれた赤い目は、グリン君のお祖母さんと同じ色だ。顔立ちはグリン君とよく似ている。
「母さん、おかえり。今日は早いんだな」
 もしかして、は的中したようだ。この女性がグリン君のお母さんらしい。
「帰らせろって吠えてきた。それよりこの人たちは」
「先生の担当のマトリさん。それとこっちはマトリさんを守ってる軍人さん」
 グリン君がすらすらと紹介してくれる。私は改めて挨拶をしなければと姿勢を正したけれど、声は出せなかった。
 彼女の方がずっと素早く、私に顔を寄せてきたのだ。
「あなたがマトリさんなんだ。話はグリンやニールから聞いてる」
「あ、はい、はじめまして……」
 にんまりとする表情は、グリン君とお揃いだ。特に口元はグリン君だけでなく、先生の親とも同じ形をしている。
「はじめまして。グリンの母でニールの叔母の、イリス・インフェリアです」
 間違いなくこの人は、グリン君のルーツだった。

 食卓にはカレーとサラダが並び、各々がそれらを囲んで席に着いている。大きな体躯の老紳士は、大総統経験者でもあるカスケード・インフェリア氏。その妻のシィレーネさん。娘でありグリン君のお母さんのイリスさん。最年少のグリン君。そこに何故か私も加えていただいている。
 イリスさんが軍に電話で交渉し、後でホテルまで送ってくれることになった。ついていてくれた軍人も誘っていたけれど、職務があるのでと戻っていった。こんなことができるのは他にいないだろう。
「閣下も補佐もわたしの親友だから、わたしが頼りになることは誰よりわかってくれてるの」
「今だって王宮近衛兵団副団長だしな」
 母子揃って胸を張る姿がそっくりで、思わず笑いが込み上げる。グリン君のお祖父さんとお祖母さんは苦笑いしていたけれど、特に窘めることはない。
「父さんも夜勤じゃなきゃ、一緒にご飯食べられたのにな」
 グリン君のお父さんは警備会社で働いているという。お父さんがいるときはお母さんの仕事の都合があったりと、なかなか両親が揃うことは難しいようだ。
「ニールを担当してくれている方が、こんなに素敵なレディだとは」
「そうよね。でもあの子、とても怖いお話が得意でしょう。マトリさんも怖いのは得意なの?」
 お祖父さんの低く優しい声とお祖母さんの高くて可愛らしい声は、どちらも耳に心地良い。グリン君の育ってきた環境を知ると、彼のおおらかさと優しさ、そしてもしかしたら先生よりもしっかりしているかもしれないと時々思ってしまうようなところなど、全てに納得がいく。
 返事をしつついただいた食事も美味しい。このまま温かな時間が続けばと願ってしまう。――そういえば、私の身に軍人が付き添わなければいけないほどの事が起こっているということについて、この家の人は触れずにいてくれている。
 後片付けを手伝わせてもらってから、インフェリア邸を辞した。ホテルに着くまでイリスさんが一緒にいてくれるけれど、後ろ髪を引かれる思いでグリン君に手を振った。もう片方の手には、ちゃっかりお土産を貰って。レナ先生がいつもお土産を持たせてくれるのは、きっとこの家の人たちを見てきたからだ。
 イリスさんはお喋りをしながら、明るい通りを選んでくれた。本当は荷物も持ってあげたいんだけれど、と言いながら両手を空けているのは、何があってもすぐに対処できるようにだろう。
「ニールとはよく連絡とってるし、わたしはたまに遊びに行ってるよ。父さんと母さんは電話がメイン。会ってないのはお兄ちゃんだけじゃないかな」
 気になっていたことは、案外あっさりと知ることができた。レナ先生と家族の関係は本当に良好らしい――ニア・インフェリア先生とのことを除けば。
「もう一人のお父さんとは」
「えっと、ルー兄ちゃんのことかな。頻度は少ないけど、こっそり行ってるみたい。だからさ、頑固なのはお兄ちゃんだけなんだよね」
 苦笑するイリスさんだけれど、心配はしていないという。問題が解決しさえすれば、元通りになると信じているそうだ。つまりそれは。
「先生たちが仲直りをすれば……あるいは先生を狙ってる人が捕まればってことですか」
「後者だね。もともと仲違いはしてないんだ。ニールと、そしてあなたに危害を加えるものがなくなれば、きっと」
 親子間の仲違いはないと認識されている。一方で思った以上にイリスさんは現在の危機を把握している。つい怪訝な顔をしてしまったのを、彼女は見逃さなかった。
「変な話でしょ。お兄ちゃんはさ、ニールのことが大切すぎて、頑なになっちゃってんの。ニールが今の家に引っ越したときの話は知ってる?」
「ええと、先生は親御さんと一緒に暮らすつもりだったっていう?」
「そう、それ。ニールは自分の力で大きな買い物をしたわけでしょ。そこに対等な大人として乗っかるのは、いくら誘われたとしても駄目だって、お兄ちゃんは思ってるの。ニールはこの機会に自立した方がいいし、お兄ちゃん自身も子離れすべきだって」
 そういう理屈だったのか。でも、その意思は先生に伝わっているのだろうか。会いたくても会えていないというのは、あまりに極端では。
 更に訝しむ私に、イリスさんは続けた。
「タイミングが悪かったんだよね。会おうと思ってるうちに、二人とも忙しくなっちゃった。やっと仕事を口実に会えるかと思ったら、今度は事件が起きてしまった」
 それが三年前。事件のせいで、仕事という口実も利用することをやめてしまった。
「じゃあ口実とか無しに会えばいいのに」
「だよね。まあ、そのあたりはお兄ちゃんなりの更なる理由があるんだよ」
 めんどくさい人でごめんね、とイリスさんは言う。けれどもグリン君が私に訴えたような切実さはない。全ての問題の解決には、視点を変えることも必要なのかもしれない。
「グリンとも、仲良くしてくれてありがとう。今日送ってくれたのだって、街で絡まれてたとかそういう理由でしょう」
「……お見通しでしたか」
「よくあるんだ。でもそういうことを、あの子は大好きなおばあちゃんの前では言わないの」
 色んな人に懐くグリン君だけれど、お祖母さんのことは特に好きなのだという。優しく可愛く、そしてとても繊細な人なのだそうだ。他人の傷を見聞きして、自分も痛むような。大切な人を悲しませたくないから、あのときは伝えないようにしたのだ。
「グリンはわたしにそっくりでさ。納得できないことや道理じゃないことに、正面から立ち向かっちゃう。器用じゃないんだよ」
「グリン君に絡んでたのは、同級生と先輩って言ってました」
「一応、グリンは学生なの。ほとんど登校してないけど」
 グリン君にも謎が多い。先生ほどではないにせよ、彼についても知らないことがまだあった。従兄弟同士で秘密主義なのだろうか。
「グリンはね、同級生とひどい喧嘩をして、外に出られなくなったことがあったんだ。周りの目が怖くなっちゃったんだよ」
「そんなこと……ああ、そういえば先生が前に」
 家から出られず、人との関わりを避けていたことがあると、一度聞いたことがある。あのときも、いつも明るく元気なグリン君からは想像できないと思った。改めて、イリスさんは本当であると念を押すように頷く。
「その頃、我が家にはもうひとり、家に引きこもった人がいた。こちらも大切な人を傷つけられ、仕事も手放そうと考えるほど、酷く思い悩んでいた」
 それって、と目を瞠る。だからね、とイリスさんは言った。
「グリンをしばらくの間、ニールに預けたの。グリンとニールの両方に、少しずつでいいから人との関わりを取り戻してほしかった。そうしたら入り浸るようになっちゃって、今に至るってわけ」
 ようやくわかった。グリン君は先生の助手でボディガードだという、それがどういうことなのか。イリスさんは簡単に話したけれど、二人共が落ち込んでいたというのは三年前の事件のときだ。
 あの事件の頃、先生はとても危うい状態だったに違いない。先生を助けるため、もっといえばその命を守るために、グリン君は使命を与えられた。それは同時に、グリン君に人と関わる理由を改めて学ばせるものだったのだ。
 二人の場合は、これが適切な対処だった。双方にとってちょうどいい「責任」が、互いを生かした。
「なるほど……。グリン君と先生のあいだには、それほど強い結び付きがあったんですね」
「うん。結果的に上手くいったけど、立ち直ったところで昔あったことがなくなったわけじゃないから、今でも面倒は起きる。でも少しでも他人との関係を作って広げておいたら、今日のマトちゃんみたいに助けてくれるかもしれないでしょう」
 にんまり、グリン君と同じ顔でイリスさんは笑う。他の誰もしない不思議な呼び方で私を呼んで。
 まだたくさん、この人と話したいことがある。グリン君のことも、先生のことも。ホテルはもうすぐそこで、今日は時間がない。
「あの、インフェリアさん」
「イリスでいいよ。どのインフェリアだかわからなくなるから」
「では、イリスさん。またいつか、お話できますか」
 グリン君と先生を繋いだように、私も繋いでくれないだろうか。知りたいのだ。仕事を円滑に進めるためでもあるけれど、何より私は彼らと、そしてこの人と、もっと親しくなりたい。
 イリスさんはぱっと表情を輝かせて、もちろん、と目を細めた。

 捜査の進展はないようだけれど、私に危険が及ぶということもない。もうしばらく見張りをつけて様子を見るけれど、自宅には戻ってもいいだろう。
 軍がそう判断を下したのは、ホテルに移動してから五日目のことだった。予定よりも早く元の生活に戻れそうで安堵したが、気は抜けない。今日はレナ先生の家で打ち合わせがある。
 先生の家に向かうときは、帰宅時よりも警備が厚くなる。軍人の視線にはもう慣れた。これだけいれば犯人もそう迂闊に動かないだろう。そうして先生のことは諦めてくれたらいいのだけれど。
 通い慣れた大きな庭には蔓植物を巻き付かせるための支柱が用意してある。等間隔に並ぶそれぞれに蔓が絡まり、緑の壁ができつつあった。玄関で迎えてくれたグリン君にその話をすると、嬉しそうに教えてくれた。
「マトリさんがうちに来てくれた日に、先生と一緒に立てたんだ。センちゃんもちょっと手伝ってくれた」
「セン……エスト准将が?」
 ここには頻繁に来るのだろうか。それとも直々に先生の護衛をしていたのか。あるいは直接小説を書くのを止めろと言いに来たのかもしれない。
 しかしグリン君は機嫌が良さそうで、悪いことが起きたようには見えない。私の懸念はきっと杞憂だ。そうだといい。
 仕事のついでにホテル暮らしが終わることを告げると、レナ先生は心底ほっとしたらしく、柔らかい笑みをもっと蕩かせた。
「マトリさんが無事で良かった。もう何もないといいですね」
「本当に。でも今回のことで軍の人とのコネクションができましたから、もうあまり怖がらなくてもいいかもしれません」
 言ってしまってから能天気すぎる発言だったかと思い、先生の表情を窺う。まだ安心していたので、大丈夫だろうか。
「センテッド君が、マトリさんのことをとても心配していました」
 不意に出た名前に、ティーカップを取り落としそうになる。しかもあの人には似合わない言葉とセットだ。
「エスト准将が私を? まさか」
「僕の面倒を見ていると変なことに巻き込まれるんじゃないかって、気掛かりなんですよ」
「たとえ何かあったとしても先生の所為じゃありません」
 一体どんな話をしているのだろう。穏やかな先生といつも機嫌が悪そうなエスト准将では、バランスはとれているのだろうか。
「そういえば、外の支柱は准将が?」
「はい。軍に在籍しているだけあって、力持ちだし手先が器用なんです。だからつい頼ってしまって」
 少なくとも、彼のことを話すレナ先生は、とても楽しそうだ。それなら私がダシに使われてもいいか、なんて思えるくらいには。
 レナ先生には、まだ話すことがある。仕事の話を一旦済ませてから、お菓子をいただきつつ切り出した。
「先日、グリン君の家にお邪魔しました」
「聞きましたよ。グリンがとてもお世話になったそうで」
「いいえ、むしろ私の方がお世話になってしまって」
 温かいご家族の話をしているうちに、イリスさんの、そしてグリン君の話になる。学生だったんですね、と言うと先生は眉尻を困ったように下げた。
「籍を置いて、学習は主にここか自宅でやってます。今年度いっぱいなので」
「今年度……もしかして、来年は軍に? 十歳になりますよね」
 先生が頷く。この国の軍は十歳から入隊が可能で、学生はきりのいいところまで学ぶか、あるいは中退して入隊試験を受ける。グリン君もそうするつもりなのだ。
「軍に入ることについて、心配はありますけれど。僕の傍にいることはなくなるので、グリンがいなくてもしっかりしないと」
「先生ご自身の心配ですか。大丈夫です、先生には私たちがついてます」
 冗談めかして言ったつもりだったが、先生は微笑んだままこちらを真っ直ぐ見ていた。どきっとしたけれど、目を逸らせない。
「よろしくお願いします。僕はグリンや他の誰かが来てくれないと、すぐに駄目になってしまうので」
「駄目、とは……?」
「掃除を後回しにしたり、食事をろくにとらなくなったり。生活することが億劫になってしまうんです」
 予想はしていた。グリン君がここに来るようになった経緯を聞いてから、当時のことを何度も想像してみた。
 家事が得意で、特に料理上手で食事もおやつもお手の物、それが作品を書くあいだの息抜きになっているはずの先生が「億劫」と言うほど、当時の状況は酷かったのだ。
 同時に、私は自分自身の役割についても解り始めていた。他の作家とは違い、レナ先生とだけは家に出向いて仕事をする。プロットや原稿、ゲラなどは直接対面してやりとりをする。ドネス先輩から引き継いだこのやり方は、先生の様子をきちんと自分の目で確かめるためのものだ。
 悪夢を糧に書いているこの人が、完全にその世界に呑まれてしまい、こちらに戻ってこられなくなることのないように。過去に苦しみ苛まれ、動けなくなってしまわないように。
「グリン君、本当に先生のボディガードだったんですね」
「うん。大人として情けないけれど、とても頼りにしています」
 大きな窓から庭が見える。グリン君は私を家に通したあと、庭仕事に向かった。
「あの子への恩返しをしなければならないんですけど、力不足でなかなかかなわなくて。あの子が抱えている悩みを解決することは、僕にはできないし」
 それは同級生たちに絡まれてしまうということか。私がそう尋ねると、先生は微かに首を捻った。
「それもそうですけど、そうなった原因がありまして。……グリンは人よりちょっと力が強くて、喧嘩で手が出てしまうと、相手の方が大きな怪我をしてしまうんです」
 だから彼を生意気だと思った上級生が出てきて、事態が悪化してしまう。少しでもやり返せばどうしてもグリン君がその場の非を負うことになる。外に出られない、人と関わりたくない、そう思っていたのは、彼が自分の力を持て余してしまうからだった。
「原因がグリンになくても、グリンが悪いと判断されることが多い。どうにかしてあげたいけれど、根本的な解決は難しい」
 もどかしくて、悔しいです。それは先生が零した言葉の中でも、かなり生々しく聞こえた。
 せめて少しでも彼の支えにと、先生はグリン君を受け入れ、彼と共に生きることを選んだのだった。

 その日の仕事を終え、足はホテルではなく自宅へ向く。ふわふわで心地良いベッドは少しだけ惜しいけれど、やはり住み慣れた我が家が一番だ。
 軍人の視線を感じながら帰路を歩いていく。帰ったら少し掃除をしなければ。他人が踏み入ったことをできるだけ忘れたい。
 建物が見えてきて、自然と歩調が早くなる。帰るのが楽しみだから? いや、違う。思い出してしまうからだ。あのとき感じた気配のことを。逞しい想像力が頭の中に描き出したものを。
 強がったけれど、もう大丈夫なはずなのだけれど、恐怖は拭えていない。
「まるでレナ・タイラスの書いた物語みたいね」
 早足の私の耳を掠めたそんな言葉が、本当に物語のようだった。
 高いけれど、耳障りではない声。立ち止まって振り向いた私に、声の主は美しく弧を描く目と口を見せていた。
 黒い服を着た女性。たっぷりとしたレースに、ふんわりとふくらませたスカート。宵闇と同化しそうで、ぼんやりと浮かび上がっている。
「何かに追われて逃げきれない。閉じ込められて出られない。迫り来るものに大切なものを奪われる恐怖を、じっくりと描き出す。今までに発表したどの作品も、とても素晴らしいわ」
 彼女は歌うように述べる。ありがたい感想だ。こんな状況でなければ、きっととても嬉しかった。
 軍人が張り込んでいるはずなのに、何故か誰の気配もない。ここにいるのは私と彼女の二人きり。
「頑張ってね、マトリ・アンダーリュー。レナ先生に最高の作品を書かせて。そうしたら一番幸せなときに、また逢いに行くわ。ハッピーエンドが好きだから」
 影を縫いとめられたように動けない私に、彼女はゆっくりと背を向けた。底の厚い靴で地面を蹴ったかと思うと、高く高く、翼でも生えているかのように跳躍した。
 現実的ではない。まるで本当に、レナ先生の書いた物語のワンシーンのようだった。
 サイレンの音に引き戻され、そっと周囲を見渡すと、道の端には張っていたはずの軍人たちが身体を投げ出されていた。


 エルニーニャ王国軍中央司令部大総統執務室に、三人の男がいる。
 重厚な椅子に座る一人は、眉間に深い皺を寄せ、眼鏡の奥で目を眇めた。その傍らに立つ一人は、苦虫を噛み潰したような表情をし、片手で頭を掻く。
 そして彼らと向かい合ったセンテッド・エストは、紫色の瞳を怒りで燃やしていた。
「以前よりも質が悪くなっています。私に奴を斬る許可を下さい」
 かつては軍人が手に負えない犯罪者を始末することは仕方がないこととされていた。その名目で何人も殺めた者も、過去にはいる。
 だが時代は変わり、今は余程のことがない限りは手を下すことは許されない。相手がどんな凶悪犯でも、手をかけた軍人には処分が及ぶ。
 それでもいい。自分一人が処分を受けて済むのなら、あの女を――アズハ・ヒースをこの世から葬るべきだ。
「たしかに、張り込んでいた人間を全て倒すというのは尋常ではない」
 椅子に座っている男が言う。マトリ・アンダーリューの護衛のために配置した者たちはまだほとんどが昏倒したままであり、原因も不明だ。
 目覚めた者も意識が朦朧としていたが、彼らとマトリの証言を合わせて考えれば、現れたのはアズハでほぼ間違いない。
「でも、斬るのはなあ……。気になるんだよ、今回のやり口」
 椅子の傍らの男が思案げに言うと、センテッドは彼を睨んだ。
「このままでは被害が拡大する一方です! あいつを排除しなければ、アンダーリューもニールもいずれ殺される! もしかしたらマリッカだって!」
「そうさせないための俺たちだ」
「それがもう通用しなくなってる! あいつはきっと、三年前にはなかった武器を手に入れたんだ。そうでなければこんな芸当はできない」
「その武器は何でどこで得たのかを突き止めないと」
「突き止めるのにどれだけ時間がかかるんですか! このまま泳がせておくなんて、馬鹿なことは言わないでいただきたい!」
 溢れる後悔と怒りと恐れは、叫びの波となり相手にぶつかる。だがまるで微動だにせず、彼らはそこに構えている。そしてあまりに静かに語りかけてくる。
「泳がせておくつもりはないよ、センテッド」
 大総統補佐ルイゼン・リーゼッタの、宥めるような声が気に障る。再びあの女の犯行と思われる事件が起こるようになった昨年の夏から、もうすぐ一年。軍は常に後手に回ってきた。
「では、どうするおつもりで」
「協力が得られそうだ。王宮近衛兵と文派の特殊部隊がそれぞれ申し出てくれた」
 文派にとっては文化の危機であり、動かなければならない事態だ。だが王宮近衛兵が絡む根拠は何だ。訝しむセンテッドに、大総統フィネーロ・リッツェが滅多に見せない表情を向けた。
「アトラ・エルニーニャ文学賞は王の名前の賞なんだからこっちにも噛ませろ、ということだ。あいつは暴れるためなら屁理屈をも捩じ込む」
 信頼しきった笑みは、かつての仲間同士のものだ。センテッドは置いていかれるような心地がした。何もできないまま、ただただ事が大きくなっていくようで。
 握った拳に、密かに誓う。自分は自分のやり方で、大切なものを守り抜く。