赤い、と思った。
小さな瞼はまだろくに開いていないので、はっきりと見えるはずはない。まして痛みと疲労の中だ、見間違えは十分に有り得る。
後でもう一度見た時、この世界を見る瞳は晴れた空の下の大海原を思わせる色をしていた。看護師が「お父さんに」と言いかけたのを、わざわざ「お祖父ちゃんにそっくりね」と訂正するほどだった。
夫が「お義父さんやお義兄さんにも相談したんだ」と嬉しそうにつけた、産まれたばかりの男の子の名前はグリンテール。愛称はグリン。すくすくと元気に育ち、暗い青色の髪をぴょこぴょこと跳ねさせながら走り回るようになった。
その頃には彼の目が赤く見えた一瞬のことなど、イリスはすっかり忘れていた。
「かーさん、俺もがっこう行きたい!」
仕事から帰ってきた母に、グリンは海色の瞳を輝かせて訴えた。五歳の秋のことだ。
「学校? まだ早いでしょ。もうちょっと大きくなってからじゃないと、小学校にも入れないよ」
「だって、モルドは春になったら行くって言ってた! 俺もモルドといっしょに行く!」
「モルドだってまだ早いよ。あんたと同い年なんだから」
母は困惑しつつも、しっかりとグリンに目線を合わせて答えてくれる。けれどもわかってくれない。モルドは確かに春から学校に行くと言ったのだ。彼女が嘘をつくはずはない。
モルドリン・リーゼッタは、グリンの幼馴染の女の子だ。病気のために寝ていることが多いが、たまに具合のいいときは見舞いに行ったグリンと話してくれる。
今日はその具合のいい日で、モルドは家族と話して決めたばかりのことなどを色々教えてくれたのだった。
「春になったらねえ。いつの春なのか、リチェに確認してみていい?」
「だからぁ、次の春だってば!」
母が話を解してくれず、グリンは焦れる。頬を膨らませていると、後方から援護の声がした。
「イリス、本当に次の春なの。モルドちゃん、幼年学級に入るんですって」
助けてくれたのは祖母だ。両親が忙しいグリンは、同居している祖父母と過ごす時間が長い。特に祖母のことは大好きで、いつも後をついてまわっている。
母もどうやら、祖母の言葉で得心がいったようだ。
「幼年学級かあ……それなら一年早いよね」
「だから言ったじゃん、次の春って」
「うん、グリンの言う通りだった。ごめんね」
グリンの頭をくしゃくしゃと撫で、母は立ち上がる。そうして祖母と話を続けた。
「でもそれ、大丈夫なのかな。モルドに通学は難しいんじゃないの」
「籍を置いておきたいんですって。早い方が、モルドちゃんも友達ができやすいかもしれないし」
モルドもそう言っていた。早めに入学できる制度を使えば、勉強も人間関係もしっかり準備ができる。お祖母様がそう言ったのだ、と。
――ご本で読んだの。学校に行けばお友達ができるんですって。
嬉しそうな笑顔を浮かべていた。元気でどこにでも行けるグリンと違い、モルドは家から自由に出られない。病気のせいで、家族とすらちゃんと話ができる時間が少ないのだ。
グリンと仲がいいのは、親同士が仲良しで、物心つく前から顔を合わせてきたからだ。モルドの親も、グリンに「モルドをよろしくね、いつまでもお友達でいてね」と言っている。
でももしもモルドが学校で新しい友達を増やしたら、グリンのことは忘れてしまうかもしれない。そうしたら、今度はグリンの友達が減ってしまう。近所の犬や猫もグリンの友達だが、会話ができるのは人間であるモルドただ一人だ。忘れられてしまったら悲しい。
「グリン、学校って勉強するところだよ」
「わかってるよ。俺、本とか好きだから大丈夫」
本当はよくわからないけれど、モルドと一緒ならなんでもできる気がする。モルドは体は弱いけれど、とても賢い。グリンが意味を知らない言葉も教えてくれる。
猛アピールの末、母は「父さんと相談するから待って」と言ってくれた。経験上、父はグリンの希望を断らない。話は近々まとまって、モルドに良い報告ができるはずだ。
遅くに帰ってきた夫ウルフは、イリスの、そしてグリンの密かな予想に反して難しい顔をした。
「学校がどういう所なのか、僕には想像できないからなあ」
ウルフは孤児だった。軍人に命を救われ、教育はその人から受けた。紆余曲折を経てイリスと知り合い、お互い様々なことを話したが、共に学校という場所についての知識はないに等しい。
イリスの生まれ育ったインフェリア家は、学校ではなく家と、軍での教育を主とする。代々そのようにしてきたので、イリスも兄も学校には通わなかった。
いや正確には、イリスは学校に入るための面接受験の経験がある。だが門前払いに等しい扱いを受けたために入学には至らず、結局軍への入隊が可能になる十歳になるまで、兄から勉強を教わった。
小学校は卒業したという母――つまりグリンの祖母――シィレーネは、しかし学校生活に良い思い出がないという。
「ほら、僕が簡単に良いよって言える要素が一つもない」
「確かにね……」
イリスは頭を抱えたが、一方で今までの家の慣習に変化をもたらす機会なのかもしれないとも思う。
少なくとも自分が過去に入学できなかった理由ははっきりしていて、グリンにはまるで関係のないことだ。彼には自分のような「負の特性」がない。ごく普通の子供である。
それに随分昔のことだ。時が流れれば人の意識も変わるだろう。グリンはきっと、上手くやっていける。
「じゃあウルフ、相談を変えるね。わたしはグリンがやりたいって言ったことは挑戦させたい。わたしたちは大人としてサポートするのがいいと思う。どうかな」
順調に学生生活を送った身内もいる。例えば、よく学んで飛び級までして、現在はそこで得た知識も生かし人気小説家となった甥っ子とか。――うん、昔の話よりも余程信頼できるお手本だ。
「お義兄さんたちはそうしてきたものね。その相談なら答えははっきりしてる」
笑顔で頷いたウルフに、イリスもにんまりと返した。
かくして翌日からはリーゼッタ家にも話を聞くなどして必要な情報や資料を集め、グリンの入学準備を覚束無いながらも着々と進めていったのだった。
翌年、グリンが六歳になる年の春。首都で最も名のある学校のひとつで入学式が執り行われた。
幼年学級は初等部の一年生よりもさらに一学年下に設けられ、初等教育を始めるために必要な読み書きや算数の基礎知識、そして社会生活について教育する。制度としては新しく、まだ大きな学校にしかない。
そのような事情もあって、同級生はいずれも名家の子息子女ばかり。だが気後れする必要はない。グリンだって歴史ある軍家の子なのだ。
「今日からクラスメイトね。よろしく、グリン」
隣には気心の知れた幼馴染、モルドがいる。彼女の父は大総統補佐大将、母は有名なバイオリニストだ。つまり立派な名家のお嬢様である。
この幼年学級の子供たちはそんな背景が当たり前で、大人たちもその前提で接する。問題を起こすまいと必死になる教員たちは、同時に親たちの機嫌もとても気にする。
子供たちはそんなことなどつゆ知らず――ということは全くない。彼らには彼らの目線があり、大人たちのやることをよく見ている。大人が火花を散らしていれば、子供だってわかるのだ。
「リーゼッタさん、仲良くしましょうね」
「わたしたち、お友達よね!」
クラスで自己紹介をした後、モルドの周りには同級生が押し寄せてきた。ほとんどは女子だが、男子も近づきたがっている。
一方、モルドの隣の席にいるグリンには、まだ誰も話しかけない。グリンから話しかけようとしても、なんだか反応がつれない。
親が軍のトップに限りなく近い立場のモルドは、子供たちの親に人気なのだった。あの子とは仲良くしておきなさい、という親の意向を子供たちは汲んでやる必要があった。
グリンは軍家の子供だが、今は家族の誰も軍には在籍していない。母は王宮近衛兵団の副団長という立場にあるが、どうも王宮の人間というのは人気がないらしい。
教師の号令で子供たちが各々の席に戻ってから、グリンはこっそりモルドの様子を窺った。彼女はもともと大人しい表情筋の持ち主だが、グリンにはわかる。今浮かんでいるのは困惑と疲労だ。
「大丈夫か?」
「ええ、なんとか。でも疲れてしまったから、明日はお休みするかもしれない」
モルドは毎日学校に通うことはできない。最初から学校側とも話をつけている。
「休んだら、俺がちゃんと勉強したことを教えるよ」
「うん、頼りにしてる。グリンが一緒で良かった」
たとえ友達ができなくても、モルドがそう言ってくれるだけで学校に通う価値はある。勉強を頑張る理由も、今のところはモルドのためが大きい。ついでに頭の良い従兄に少しでも近づけたら万々歳だ。
帰りも同級生にもみくちゃにされたモルドは、予告通り翌日は学校に来なかった。空いた隣の席にはもちろん、グリンのところにも誰も来ない。
二日目にして子供たちのコミュニティはできつつある。グリンはなかなかその輪に入れない。声をかけてみても、相手の返事は芳しいものではなかった。
「何の話してるの? 俺もいっしょに……」
「なんでもないよ。なあ、場所変えようぜ」
それどころか、明らかに避けられている。まだ始まったばかりなのに。
「……いや、まだこれからだ。がんばればきっと」
何かで活躍したら、一目置かれるのではないだろうか。人に親切にしていれば、自然に仲良くなれるのでは。グリンにはまだ希望があった。
だがとうとうモルドが再び登校するまでには、誰とも親しくなれなかった。モルドの周りには常に人がいて、話しかけるタイミングは難しい。ただ誰かとのやり取りを聞くしかできない。
「リーゼッタさん、お休み長かったね。風邪でもひいたの?」
「ううん。わたし、ちょっと病気がちで。だから学校もよく休むかもしれない」
「ええっ、リーゼッタさんって病気なの?! かわいそう!!」
「……あの、そんなに大きな声で言われると」
「病気なら助けてあげないとね! なんでも頼ってね!」
「今は大丈夫? つらかったら教えてね。あたしたち、リーゼッタさんの味方だから!」
口々に飛び交う言葉が、モルドを困らせているのがわかる。みんな親切で言ってくれているのだろう。けれどもモルドは、病のことを過剰に気にされるのを好まない。
グリンは付き合いが長いので、そのあたりは熟知している。それでつい口を挟んでしまった。
「あのさ、あんまり心配されると、モルドは困るよ。今は元気だから、気にせず話しかけてあげたら」
「はあ?」
その行動は、とりわけ女子たちの癇に障ったらしい。彼女らは親切で言っているのに、グリンにそれを咎められたのが理不尽に感じたのだ。
「インフェリア君だっけ。あなた冷たいのね、人に優しくできないなんて」
「他人の病気を気にしないなんて、なんて思いやりのない人なの」
そして女子たちの集団というのはとても強いのだと、グリンはこのとき初めて思い知った。複数人から「冷たい」「酷い」と詰られ、今度はこっちが困ってしまう。
「あの、グリンをそんなふうに言わないで。幼馴染だから、わたしのことはよくわかってるの」
「幼馴染だからって庇わなくていいのよ、リーゼッタさん。酷いことを言われたら、ちゃんと謝ってもらわなくちゃ」
モルドの言葉にも聞く耳を持たない。声は次第に統一され、手拍子と共に「あーやまれ!」の大合唱が始まった。
合唱は次第に教室中に伝播していき、話には少しも加わっていなかった子たちまでがグリンに謝罪を要求し始める。収めるためには仕方がない、とグリンはモルドに向かって頭を下げた。
「……ごめんなさい」
モルドの表情は見えないが、同級生たちはわっと歓声をあげた。――これでいい、これでよかったんだ。みんなが認める正しいことなんだ。
しかし顔を上げたグリンが見たのは無表情の、いや、激しく怒っているモルドだった。
満足した子供たちが着席してから、モルドはグリンにだけ聞こえるように言った。
「謝らないでほしかった」
何よりも胸が痛くなる一言だった。
学校であったことは、学校に通っていたことのある従兄に相談したかった。モルドを怒らせてしまったことは、あまり親には言いたくない。
そう思って黙っているうちに、従兄は事故だか事件だかに巻き込まれ、家から出られなくなってしまったらしい。そちらを心配しているうちに、グリンは自分にあったことを他人に打ち明ける機会を失ってしまった。
ごまかすことはできた。怒っていたはずのモルドは、あの後数日学校を休み、次に登校したときには何事も無かったように振舞っていた。そしてあまり困った様子は見せなくなった。
グリンは相変わらず人の輪に入れない。しかし構われるようにはなった。男子がかわるがわる、グリンに丸めた紙を投げつけたり、こちらを見て意地悪く笑いあったりするのだ。
モルドと一緒に本を読んでいたから知っている。ああいう良くないことには、平気な顔をしていればいい。そうすれば相手はいつか諦めてくれる。――「いつか」がいつなのかわからなくても、耐えていれば強くなるのだと、グリンは信じていた。
モルドは男子からも人気があった。表情筋の動きは少ないが、彼女はとにかく可愛い。病弱でミステリアスというのも興味を引く。それに彼女と近しい関係になれば、親が褒めてくれるのだ。
クラスで一番影響力のある男子児童も、モルドのことを気に入っていた。そしてグリンのことは何をしてもいい存在だと思っていた。
「おいリーゼッタ、今日の授業が終わったら出かけようぜ。うちの執事が車を出してくれるんだ」
女子が固まっているところに割って入っても、彼は文句を言われない。あまりにも堂々としているということもあるし、
「すぐに迎えが来るからできない」
モルドが必ず断るからというのもある。これまで女子もモルドを誘い続けてきたが、応じたことはない。応じられないのだ。
女子はモルドは病気でかわいそうという認識を共有しているため、あまり無理には誘わない。そのかわり、一瞬だけ面白くなさそうな顔はする。
もうひとつ、モルドはグリンに嫌がらせをする男子を何度か注意している。すると女子たちが加勢し、男子たちはにやにやしながら対抗するのだが、みんなすぐに何がきっかけだったのかを忘れる。
そんなことなので、グリンとモルドはますます学校で会話ができなくなっていた。そこでモルドの具合が良い放課後に、以前のようにグリンがモルドの家に遊びに行くことになった。
提案したのはモルドだ。グリンの置かれている状況に耐えかね、しかし学校では手が出せないので、それ以外の場所を設けなければと考えたのだった。
「どうしてグリンは耐えてるの? やめてって言うべき」
「放っておけばそのうち終わるよ。俺は強くなりたいんだ」
「そんなのって、強さなの? 自分が悪くないのに謝るのも?」
「あれは……ああすればとりあえずは切り抜けられるから」
モルドの部屋で自分の行動の理由を話すと、少しだけ気持ちが楽になった。拙い説明を、賢いモルドはよく聞いてくれる。
「グリンはもっと立ち向かっていいんじゃないかしら」
「そうかなあ。ケンカになったら、先生とか親とか困らないか? ただでさえ今はさ……」
従兄が外に出られなくなったことで、祖父母や母が心を痛めている。グリンはその姿を見て、今はこれ以上心配事を増やしてはいけないと子供心に思っていた。
特に大好きな祖母を、優しいけれどその分傷つきやすいその人を、さらにつらい気持ちにさせたくない。
そういうことなら、とモルドは納得してくれた。
一日登校しては数日休む、というパターンを繰り返していたモルドだったが、グリンを家に呼んだ次の日は学校に来た。連日教室にいるというのは珍しいので、女子たちは「良くなったの?」「大丈夫?」と具合を気にする。モルドがしばらく応対していると、大柄の男子が近づいてきた。
彼はモルドによく声をかけてくる。大きな会社の幹部の息子だそうで、クラスの男子の中では最も影響力が大きい。というより、モルドからすれば態度が異様に大きい。できればあまり関わりたくないタイプだ。
「リーゼッタ、今日の放課後はうちに来いよ」
「行けない」
いつも通りに即答する。大抵はこれで話は終わるのだが、今日は違った。彼は口元を歪ませ、意地悪く笑った。
「へーえ? 俺とは遊べないのか。ここにいる女子とも。みんな、残念だな。リーゼッタはインフェリアしか相手にしないってさ!」
明らかにわざと張った声に、周囲がざわつく。突然向けられた悪意に、モルドは苛立って立ち上がった。
「何を言ってるの」
「俺、見たんだ。昨日はインフェリアと一緒に帰って、こいつを家に入れてただろ」
「後をつけたの? 最低ね」
躊躇いなく言葉を投げつけると、相手も腹が立ったようだ。売り言葉に買い言葉のつもりか、喚き散らした。
「そんなこと言われる筋合いなんかないね! 幼馴染だかなんだか知らないけど、あんなやつと仲良くする方がおかしいだろ。今だってどっかに逃げてる」
確かにグリンはここにはいない。だが、それは図書室へ行ったからだ。モルドが気になっていた古い本があるらしいという情報を得て、代わりに探しに行ってくれたのだ。けっして逃げたのではない。
今までだって、実はグリンなりに理不尽と戦っていたのだと、話を聞いてわかった。彼は優しく、十分に強かった。
「あなたにグリンの何がわかるの。グリンはわたしの大事な友達よ。わたしの友達に嫌がらせをしたり、勝手なことを言ったりするあなたなんて、大っ嫌い!」
力いっぱい叫んだ。今までグリンを助けられず、もどかしい思いをした分をすべて込めた。モルドの声に女子たちや、離れて見ていた男子たちまで驚いていた。――ただ一人を除いて。
「痛……っ!」
「もう一回言ってみろよ。誰のことが嫌いだって?!」
激昂した相手は、モルドの長い髪を乱暴に掴んで引っ張った。同級生たちは彼の剣幕に怯え、その場から離れていく。誰も助けに入ろうとしない。いや、できるわけがなかった。
「生意気なこと言ってるとぶっ殺すぞ!」
恐ろしいことから逃げるのは当たり前のことだ。そうして身を守るのは正しい。味方なんてもともと欲しいわけじゃなかった。
でも、友達が欲しかったのは、本当だった。
痛みに涙が滲む。泣くものかと堪えても。――やっぱり、グリンはすごかったんだ。
鈍い音、悲鳴、悲鳴、もう一度音。モルドの髪から手が離れ、体が床に投げ出される。
衝撃的な瞬間というのは、どうやらスローモーションがかかるらしい。その光景はモルドの目にしっかりと焼き付いた。
呻いた男子児童が、頭を庇って蹲る。そこに容赦なく振り下ろされるのは、普段授業で使っている机。
机を掴む手は、グリンだ。
モルドも、周りの生徒も、唖然としてその様子を見ていることしかできなかった。机は五回、男子児童の頭目掛けて叩きつけられ、それから放り投げられた。
「モルドに何してた」
グリンが訊ねる。男子児童は震えていて、頭を切ったのか血もだくだくと流れていて、返事をしない。引き攣ったような声がかろうじて漏れていた。
何がどうなっているのかはわからない。でも、止めなくては。やっと顔を上げたモルドが見たものは、よく知っている優しいグリンの姿とは違った。
きらきらと輝く海の色は、そこにはなく。
何もかもを焼き尽くしていく炎のような赤が、グリンの両の瞳を染めていた。
その手がもう一度傍にあった机に伸びたとき、モルドははっとした。もうだめだ、これ以上は。
「グリン、だめっ! もうやめて!」
この叫びが届かなかったら、傷つくのは男子児童だけではなくなる。グリンの心もだ。
別室で一人、グリンは俯いていた。隣は面談室で、呼び出された母が先生たちと話をしている。出ていってください、という話かもしれない。自分はそれだけのことをしてしまった。
図書室から戻ってきたとき、教室が騒がしかった。男子の声が物騒なことを言ったので、急いで中に入ったら、机と椅子の並びが乱れていた。
そしてモルドが男子児童に髪を引っ張られ、泣きそうな顔をしていた。
ぶっ殺すって、モルドに対してなのか。彼女にそんな顔をさせるのか。――頭に一気に血がのぼり、状況を把握する冷静な心は一瞬にして散った。
何を思ったのかは憶えていない。何も思わなかったのかもしれない。グリンは男子児童に素早く近づき、傍らの机を持ち上げ、それで彼を殴った。彼がモルドの髪を放して自分の頭を庇おうとしても、さらに殴った。こちらの問いに答えないので、もう一度殴ろうとした。
――グリン、だめっ! もうやめて!
いつもは大声なんか出さないモルドの叫びが頭に響いて、ようやく我に返ったときには、教室は酷い有様だった。
机や椅子はひっくり返り、子供たちは壁際に集まっている。男子児童は頭から血を流し、床に赤い点々が落ちている。そしてモルドが――
「……グリン、大丈夫」
涙に濡れた顔で微笑み、その場に倒れた。
「モルド」
「どうした、何の騒ぎだ!」
モルドに近づこうとしたときに教員がやってきて、青ざめた顔で割って入った。誰かが応えるように泣き叫ぶ。
「先生、インフェリア君が暴れたんです! 机で何度も殴りました!」
こちらに向いた教員の顔は、蒼白から青黒い怒りの色に変わっていた。
男子児童とモルドは病院に運ばれ、グリンも含めたそれぞれの親に連絡がいった。他の親が病院に直接向かったので、学校に来たのはグリンの母だけだ。そうして今に至る。
モルドは大丈夫だろうか。気を失ってしまった直接の原因は、グリンを止めようとしてくれたからだろう。
あの男子児童の怪我はどれだけ酷いのだろうか。あんなに血が出ていたのだから、もしかしたら死んでしまうかもしれない。
全部自分のせいだ。この手がやったことだ。
「グリン」
部屋の戸が開いて、母の声がした。怒っているのが当たり前のはずなのに、何故か優しかった。
「グリン、家に帰ろう」
「軍じゃなくて?」
「なんで軍よ」
「だって俺、酷いことしたから捕まるんじゃないの」
「今回はそういうことにはならない。お家にいてくださいってさ」
では、学校を辞めさせられるのだろうか。母に手を引かれながら、短い学校生活を思った。モルドのことばかりが頭に浮かんだ。
ひとまずの処分は自宅謹慎。事態の全容が把握できるまでは、登校を許可できない。学校側からはそう言い渡された。
ということは、とイリスはその場で考えていた。少なくともモルドが目を覚ますまでは、グリンは家にいなくてはいけない。今足りないのはモルドの証言なのだ。
「学校、結構疲れるみたいだったの。帰ってきたらそのまま二日くらい起きないことは当たり前」
帰宅してから、イリスはリーゼッタ家を訪ねた。モルドの母は、幼馴染のリチェスタである。娘の病を思うと、そもそも幼年学級に通わせるのは難しいのではないかと思っていた。
モルドは過眠症だ。突然倒れてしまうこともあり、長い時には一週間以上も眠り続ける。成長するにつれて症状は軽くなるかもしれないし、そうでなくとも使える薬などは増えてくるといわれている。学校に行くのはもう少し後でも、という考えは、しかしリチェスタの母には聞き入れられなかった。
「イリスちゃん、グリン君をあまり怒らないであげてね。少し長めに眠るかもしれないけれど、それはグリン君のせいじゃないから」
「うん、ありがとう。でもさ、手を出しちゃったのはグリンだから」
相手の子の怪我は、思っていたよりは軽かった。頭は出血が多くなってしまうので、子供たちは怖かっただろうけれど。
だが怪我をさせたという事実は変わらないし、相手親子は当然ながら激しく怒っている。グリンが謝っても、許してはもらえないだろう。
現場を見ていた子供たちの証言によると、そもそもは相手の子がモルドに突っかかってきたらしい。言い返したモルドに相手の子が腹を立て、髪を引っ張るなどした。そこへやってきたグリンが机で相手を殴ったのだという。――ここまでまとめるのにも、教員たちは骨を折った。子供たちは同じ場面についてそれぞれ違う表現をするのだ。
グリンが怖い、あいつは悪いやつだ、の一点張りだった子もいれば、モルドがあんなに怒るなんてショックだった、と泣き出す子もいた。相手の子の怪我が一番酷いので一番可哀想だった、という順位付けもあった。要領を得ない六歳児たちの声をきちんと聞いてくれたあたり、教員たちには感謝している。
「グリン君、きっとモルドを助けてくれようとしたのよ」
「状況としてはそうかもしれないけど、机で殴るのはねえ……」
この点に関しては弁解の余地はない。居合わせた中には、ショックのせいか体調を崩してしまった子も何人かいる。即退学にならないだけ温情ある処分だ。
モルドが起きるまでという時間の猶予は、申し訳ないがグリンと話をするにはありがたい。聞いたことは共有する約束をして、リチェスタとは別れた。
それから四日、イリスはウルフと共に仕事を調整し、できるだけグリンの傍にいた。話を聞き、気持ちを可能な限り分かち合い、必要であれば諭した。自分たちが少しだけ厳しかった分、両親は少し甘く、グリンはさらにおばあちゃん子になった。「おじいちゃんも構ってくれよ」と父が拗ねると、グリンらしく笑っていた。
急転は五日目に訪れた。
「モルドが起きた」
インフェリア邸に駆け込んできた、幼馴染でモルドの父であるルイゼンに、娘の快復を喜んでいる様子は見えなかった。
「どうしたの、ゼン。モルドに何かあったの」
「モルドにじゃない、グリンだ。悪いけど、すぐにここに呼んでくれ」
「一言でいいから理由を話して」
緊迫した雰囲気に、グリンが怯えるかもしれない。イリスの意思を汲んで、ルイゼンは頷き、大きく息をして言った。
「グリンの眼、お前と同じじゃないか?」
「……同じ、って」
イリスの赤い眼は「魔眼」だ。制御していなければ、見た者の心身に影響を及ぼす。グリンは海に似た青い瞳で、それを見て誰かが体調を崩したということもない。遺伝はしなかったのだと、密かに安心していた。
「ありえないでしょ」
「モルドが見たって言ってる。助けようとしてくれたときのグリンの眼が赤かったって。現にあそこにいた子供たちの何人かは体調を崩している」
「そんなの、びっくりしたら具合だって悪くなるでしょうよ」
それにもしグリンにそんな力があったなら、その影響を最も受けるのは、近くで直接その眼を見たモルドということになってしまう。そんなことは、グリンには絶対に言えない。
「……ごめん、グリンを呼ぶことはできない。それはこっちで確認する。絶対にごまかしたりしないから、任せてほしい」
そっとルイゼンを押し戻し、イリスは笑顔を作る。歪んでいるのは鏡を見なくてもわかった。
「モルドの目が覚めて良かった。グリンにも伝えておくね」
「……ああ。調子は良さそうだから安心してくれと伝えてほしい」
今回ばかりは、良くない知らせが先で良かった。喜んでグリンを呼んでしまっていたら、つらい思いをさせていただろう。
いや、まだ決まったわけではない。モルドは今まで眠っていたのだから、夢を見た可能性もある。きっとそうだと信じたい。
――不気味な眼をした子がいると、他の子は怖がってしまう。こっちも指導しにくいですよ。
かつて学校に入れなかった、イリスの「理由」。あの時に母は激怒し、もう二度と学校なんかに関わるものかと思ったそうだ。悔しくて、娘に申し訳なくて、彼女は何日も眠っていなかったのだと話してくれたのは父だった。
また母を泣かせてしまうだろうか。そんなことにはなってほしくないけれど。
モルドの話によって教室での事件の全貌が明らかになり、学校側はグリンの謹慎を解除した。男子児童の怪我もすっかり良くなったので、喧嘩両成敗ということで収めたかったらしい。
――というのは表向きだ。実際にグリンを待っていたのは、同級生たちと出入りする保護者の冷たい視線だった。
「あいつに関わると怪我するから、近づくなってお母様が言うんだ」
「一年生になる前にいなくなってくれたらいいのに。せめてクラスは別がいい」
声をひそめていても、あちこちで同じことを言っていればさすがに耳に入る。モルドが一緒のときは、彼女が同級生を睨んで黙らせてくれた。
「いいよ、モルド。俺に構ってたら友達できなくなっちゃう」
「わたしにだって友達を選ぶ権利くらいある。今のところ友達でいたいと思えるのはグリンだけ」
以前よりも堂々としているモルドには随分助けられた。だが彼女は気が張れば張るほど、その後の眠りの時間が長くなってしまう。
やはりグリンはひとりでいることが多く、そういうときは周りの声にひたすら耐えた。自分のことなら耐えられた。
「なあなあ、知ってる? あいつの母親って元軍人らしいんだけど、大総統にひいきされて特別に補佐になったんだって」
ある日、誰かがそんなふうに言い出した。グリンは思わず聞き耳を立ててしまう。母は確かに前大総統の補佐を務めており、グリンがお腹にいるとわかったのを機に退役したのだ。同級生も母の軍人時代を知るはずがないので、彼らの情報源はおそらく親だ。
「ひいきとか最悪じゃん」
「それだけじゃないんだよ。あいつのばあちゃんもさあ……」
ひそひそ話のつもりだっただろう。けれどもグリンにはしっかり聞こえていた。
祖母は繊細な人だ。最近また眠りにくくなってしまったと、病院や薬局に行っている。それを見かけたのか、それともどこかから情報が漏れたのか。いずれにせよ、それは人を揶揄する材料にしてはいけないことだ。
グリンは席を立ち、話をしていた同級生たちに近づいた。
「うわ、なんだよ。こっちくるなよ」
「……あのさ、俺を悪く言うのは別にいいけど、家族のことはやめてくれよ。関係ないだろ」
精一杯勇気を振り絞り、冷静に伝えたつもりだ。だが相手は鼻でわらう。
「お前みたいな危ないやつが育つんだから、家族だってろくなもんじゃないんだろ。そうだ、じいちゃんとばあちゃんに面倒見てもらってるんだっけ。お前もかわいそうにな、頭おかしい人間に育てられたからおかしくなっちゃったんだ」
目の裏に火を付けられ、そこから頭に、手に、熱が走ったようだった。モルドが乱暴にされていたときの、あの血が上る感覚が今度はよりはっきりしていた。
指先まで燃えるように熱い手を相手に伸ばし、その胸倉を掴む。呆気に取られているその目を真っ直ぐに見ると、次第に怯えの色が滲んできた。
「家族のことを馬鹿にするな」
これ以上は殴ってしまう。殴ったら、また家族を困らせる。それに今は止めてくれるモルドがいない。
言い返すに留め、手を離した。席に戻って落ち着こうと思い、踵を返しかけた、が。
解放された相手が、突然膝から崩れ落ち、嘔吐した。
教室は騒然とし、周りの子供たちも不調を訴え始める。授業をしに来た教員が恐慌状態に飛び込んだ。具合の悪い子供たちを気遣いつつ、吐瀉物で汚れたまま蹲る児童に駆け寄る。
「大丈夫か、何があった?」
「気持ち悪い……」
「そうだな、まず保健室に行こう。気分が悪い人も一緒に」
教員の言葉を遮って、相手の児童はよろよろと腕を上げた。人差し指はグリンを示し、教員の目を誘導する。
「……先生、そいつの眼、変だよ。気持ち悪い……!」
それが言いがかりなどではないことは、教員の反応が証明していた。グリンは逃げるようにその場を離れ、トイレへと駆け込む。
鏡に映った自分の姿に愕然とした。グリンの、祖母もよく褒めてくれる海の色の眼がない。
あったのは真っ赤な瞳。しかも祖母や母のそれとは違い、優しさなどは欠片も感じられなかった。
瞬きの仕方を意識することやリラックスすることで、魔眼の力は制御できるようになるらしい。少し時間はかかるかもしれないが、ちゃんと上手く付き合っていけるものなのだと、母は言った。
「グリンの場合は発動条件があるみたいだから、それを避けることができれば大丈夫だと思うんだ。強い怒りを感じたら、目を閉じて深呼吸してみるとか」
「それって、怒るのを我慢しなきゃいけないってこと?」
「うーん……そういうことになるのかな。その場ではひとまず落ち着いて、家に帰ってきてから存分に愚痴を吐くっていうのはどうだろう」
大人でも難しいことだけど、と母は苦笑する。どうして大人もできないようなことを、グリンばかりが努力してやらなければならないのだろう。
魔眼はどうやら、家族に影響を及ぼすことはない。だったらそれでいいじゃないかと思う。モルドなどの親しい人には、あんなふうに激しく怒るようなことはないのだし。
それでも制御の練習はしなければいけないという気持ちが残っているのは、祖母のためだ。母やグリンよりもずっと弱いが、魔眼は祖母からの遺伝らしい。上手く付き合えなければ、祖母が自身を責めてしまう。――すでに不眠の症状が重くなってきているのだから、心配をかけたくない。
学校には籍を置かせてほしいと、グリン自身が頼んだ。まだモルドがいるからだ。せめてモルドが通える日だけでも、一緒に行きたい。
しかしそれ以外の日は難しかった。行けば心無い言葉が降りかかり、家族まで悪く言われればまた魔眼の発動条件が揃ってしまう。
とうとう、モルドが休む日は外に出られなくなった。足が竦んで動けず、一日部屋にこもった。元気でいればその分だけでも祖母を笑わせることができるのに、それすらもできなくなってしまった。
入学からひと月、グリンは学校が、外の世界が、怖くてたまらなくなっていた。
「グリン、起きなさい。朝ご飯を食べたら出かけるよ!」
予めモルドが休むとわかっている日の朝、今日は一日布団にくるまっているつもりだったのに、母に起こされてしまった。
窓からは青空が見え、陽の光は燦々と降り注ぐ。全く気分と正反対の天気だ。
「どこ行くの? 学校に一人で行くのは嫌だ」
「行かなくていいよ、そんなの。グリンに頼みたい超重要ミッションがあるんだ」
何だろう、それは。ちょっと魅力的な言葉に、グリンはそわそわする。言われるままに支度をして、母の運転する車に乗り込んだ。
通る道には見覚えがあり、案の定知っている場所に辿り着く。門の向こうから初夏の草花の青い匂いがした。しかし庭だと記憶していたそこは、手入れが全くされていないのか、名前もわからないような草が無秩序に繁っている。家に続く石畳の通路も、隙間から雑草が生えていた。
「おばけやしきみたい」
思わず正直な感想が出てしまったが、母は怒らなかった。
「このお化け屋敷をなんとかするのが、超重要ミッション。早速家主に挨拶しよう」
母はずんずんと家の前へ進んでいき、呼び鈴を鳴らした。返事はない。音もしない。だが扉は引けば簡単に開いた。
「おーい、生きてるー?」
母のぞんざいな呼び掛けに応えるように、奥で何かが動いた。黒い前髪が長く伸び、汚れた服を引き摺るようにしてこちらに向かってくる様は、まさしくその人の書くホラー小説の幽霊のようだった。
前髪の奥で昏く鈍い金色の目がこちらを見、弱々しく細められた。
「イリスさん、こんにちは。グリンは久しぶりだね」
「……兄ちゃん、どうしたの」
様変わりしてしまったが、彼は間違いなくグリンの従兄、ニールだった。最後に会ったのは年始の挨拶をしにここを訪れたときだったはずだが、たった四ヶ月ですっかり別人のよう、ついでに庭と家も他所のようだ。
本来、ニールはもっときちんとした人で、広い庭も定期的に庭師を入れて整えていた。自身は清潔な格好をして、片付いた家で仕事を――小説を書いていたはずだ。
「ありゃ、髪も伸ばしっぱなしなの? 首に触れて嫌じゃない?」
「嫌だけど、どうにもできないんです。とりあえず今は括っています」
「とにかく、できるところから片付けようか。薄暗くてしょうがないから、グリン、家中のカーテンを開けて」
命じられるまま、グリンは家に上がり込んで、目に付いたカーテンを全て開けて回った。そうしてわかったのは、この大きな家のカーテンが全て閉まっていたということだ。明かり取りの窓から入る微かな自然光だけが、この家に昼間をもたらしていた。
明るくなった部屋には埃が積もり、ゴミが入った袋があちこちに置いてあった。唯一きれいな台所は、つまり使われていないということで、料理が好きなニールらしからぬことだ。
「ねえ、本当に書くの辞めたの?」
母が声をひそめることなく訊ねると、ニールは力無く笑って頷いた。
「もう名前を出すわけにはいかないので。今までに出した本も、絶版にしてもらうように各所に頼みました」
「うそ、全部? 新しいのも?」
「はい。これ以上僕の本が刷られることはありません」
まだお店にはありますけど、とは言うが、それで最後ということだ。グリンは思わずニールに縋りついた。
「なんで? 兄ちゃん、怖くて面白いのたくさん書いてたじゃん。モルドだって、俺だって、楽しみにしてたのに」
「ごめんね、グリン。僕が本を出すと傷つく人たちがいるんだ。だからもう小説を書くのは辞めたんだよ」
仕事だけではない。部屋の様子は生きること自体を諦めたかのようだ。抱きついた身体は以前から痩身ではあったが、さらに肉が削げ落ちたようだ。
死のうとしていたのか、この人は。大好きな「兄ちゃん」は。
泣きそうなグリンの頭を撫でた指も、まるで骨そのもののように硬く細かった。
「ニール、あんた今日何か食べた?」
「食べてません。お腹空かなくて」
「じゃあここ一週間の食事は?」
「……最後に食べたのが一昨日の、多分夜中です。パスタを少々」
「はいはい、この空き袋のね。大して入ってないショートパスタを、茹でもせずに食べたわけ?」
「すごい、イリスさん。どうして茹でてないってわかったんですか」
「鍋が出てないから。こんなに部屋を散らかしておいて、鍋だけちゃんと洗うってことはなさそうだなって思って」
名推理です、と笑ったニールに、母は呆れて「おバカ」と言った。グリンも呆れていた。
久しぶりに使われたこの家の調理器具や食器で、昼食が用意される。母が作ったのは卵と野菜の炒め物だ。それに作って持ってきたお粥が、温まってついている。
優先して埃を拭き取ったテーブルに並べ、三人で食べた。ニールは「美味しいですね」と言うくせに一向に食が進まない。
「よく生きててくれたよ。ルー兄ちゃんから連絡もらったときにはびっくりした」
「ルーファさん、何て言ってました?」
「新刊が絶版になるらしい。家に電話したら生きてはいるみたいだ。でも訪ねても入れてもらえない」
「ちょっとこの惨状は見せられないです」
「でしょうね。せっかくのフォース社の家具が埃まみれだなんて」
母とニールの掛け合いを、グリンは大人しく聞いていた。そうして現在の状況を、自分なりに飲み込んでいった。
「不思議なもので、仕事がなくなったら何のために生きてるのかもわからなくなってしまって。他にいくらでもやることはあるはずなのに、全部どうでもいいんです」
ニールが自分で言った通りなのだろう。彼が書いた本にあり、グリンには意味のわからなかった言葉を思い出した。「緩慢な自殺」だ。
「それはさ、仕事というか……何か生きてなきゃできないようなことをするしかないんじゃないの」
「大抵の事は生きてなきゃできないですよ」
「そうじゃなくて、目標とか……責任とか」
母が言いながらグリンを見る。ニールもつられてこちらを見て、それから母に向き直った。
「あの、確認させてください。どうして今日はグリンも一緒なんですか」
本人の言のまま、この家の状態は惨憺たるものだ。子供に見せるのは、親ならば躊躇うレベルである。ましてニールは、グリンにとっては大好きな「兄ちゃん」なのだ。こんなことになっていると知ったらショックだろう。実際そうだった。
「ニール、グリンを雇う気ない?」
だが、母の言葉はまた違う意味で衝撃的だった。
「雇う? ……グリンを、ですか」
「助手とかボディガードとか、そんな感じでどう?」
「ガードって何から」
「あんたを殺そうとするあんたから」
息を呑む。グリンとニールが、同時に。表現があまりにストレートすぎた。
「せっかく二回も命が助かったんだから。三度目を自分でなんて、してほしくないわけよ」
「……それは、まあ、ええ」
歯切れ悪く曖昧な返事をするニールを、グリンはじっと見つめる。生まれたときから世話になってきた人は、今、苦しんでいるのだ。自分を殺したくなるほどに。
「グリンは優秀だよ。友達も家族も大切にするし、助けたいと思って頑張る。ただ、ちょっと頑張りすぎちゃってね。学生に代わる仕事があればいいなと思ったの」
ちょっと違うと思うが、母からすればそういうことなのかもしれない。
ニールはグリンをしばらく見つめ、それから口を開いた。
「責任ですか。僕がグリンを預かるという」
「それと、グリンがニールの命を預かる」
互いの命を互いに預け、死なないように生活をする。それをまずは一週間。母から与えられた、超重要ミッションの詳細だった。
そして、母はある程度まで片付けと掃除を済ませてから、本当にグリンをこの家に置いていってしまった。
「相変わらず無茶するよね、グリンのお母さん」
困ったように笑いながらも、ニールは早速台所に立った。冷蔵庫には母が詰め込んだ食材がある。
「料理するの?」
「グリンに食べさせなきゃ」
「兄ちゃんもだよ。兄ちゃんと一緒じゃなきゃ、俺食べないからね」
「君も早速働くね」
グリンのために部屋を用意するなら、掃除をする必要がある。汚れた服は洗濯し、風呂に入って清潔にする。他人のためにすることが、自分が生きることになる。
「グリンの家では、食後のデザートもあるよね。……久しぶりにお菓子を作ろう」
「やった! ねえ、俺も手伝う!」
「ありがとう。役に立つ助手だね、雇ってよかった」
食事の準備をしたり、部屋の片付けをしたりしながら、グリンは自分にあったことをニールに話した。学校でのことや眼のことなど、つらいことも。モルドとのことや家族とのことなど、嬉しかったことも。
家族にはできない話もあった。母が大総統補佐だったのは贔屓されていたからだ、という言いがかりは、大人たちの言葉ではもっと酷かった。祖母に対する誹謗中傷だって、本人には絶対に聞かせたくない。
そういうことも、ニールになら打ち明けられた。そうして一緒に怒ってくれた。彼の怒り方は変わっていて、わっと怒鳴ったりするのではなく、淡々としながら口数が増えるのだ。
眼のことについては、意外とあっさりしていた。「血が上って色が変わるなんて、ちょっとかっこいいね」なんて呑気な本音を零したあと、「悩んでるのにごめんね」と謝った。
そういう話も書きたかったな、という微かな呟きを、グリンは聞き逃さなかった。
ニールの家には決まった客がいて、安否確認という名目でしばしばやってきた。
マリッカは髪を切ったニールと綺麗に片付いた家を見て、安堵のあまりにへたりこんだ。
センテッドは毎回小言を言う。それが心配の裏返しであることは、グリンにもすぐにわかった。
夏の盛りにやってきた大柄の男性は、ニールと話をしていたと思ったら男泣きに泣いた。何事かと問うと、ニールはすっきりとした笑みで言った。――仕事を再開するよ、と。どうやら相手は出版社の人だったようだ。
再び小説を書き始めたニールは、筆名を改めた。そこで電話の番も引き受けているグリンは、彼のことを新しい筆名と仕事に合わせて「レナ先生」と呼ぶことにした。
全てが上手くいき始めている。悩みや痛みでいっぱいいっぱいだったグリンの心にも、少しずつ余裕が出てきた。
「センちゃん、軍人ってどうやってなるの」
ある日、いつものように小言を言いに来たセンテッドに訊ねた。彼は微かに瞠目し、それから軍に入隊できるのが十歳からであること、実技と筆記で構成される入隊試験に合格する必要があることを教えてくれた。
「なりたいのか、軍人に」
「能力を生かせるんじゃないかなって。母さんも眼を利用してただろ」
「あれは特殊な例だから当てにするのはどうかと思うが。だが、目指すというなら稽古をつけてやってもいい」
「本当?! センちゃん、やっさしー!」
「だからそのセンちゃんと呼ぶのをやめろ」
もしもこの力で、人に嫌われるだけではなく、大切な人を守れるのなら。レナ先生が言うように「ちょっとかっこいい」活躍ができたなら。祖母も誇りに思ってくれるだろうか。悲しませないようにいられるだろうか。
「先生、俺ね、かっこいい主人公になりたい!」
「いいね。グリンみたいな主人公なら、みんなを幸せにできるかもしれない」
まだ学校には行けていない。モルドが登校する日だけは行くようにしているけれど、帰ってきたらくたくただ。
眼の制御も練習中だ。もっとも、激しい怒りがなければ発動しないものなので、効果の程はわからない。
発展途上がもどかしくて、早く大人になりたい。先生の代わりに行くおつかいの途中で、同級生たちに見つかって絡まれるのはとても怖い。
それでも先生は、グリンならみんなを幸せにできると言ってくれる。それが大きな支えとなって、前に進める。
「グリン、今日はサフラン社の担当さんが来るからね」
「応対すれば良いんだな! 任せてよ!」
「新しい人だよ、大丈夫? ねえ、聞いてる?」
挫折を知り、それでも顔を上げて歩き続けて、二年が経った頃。新たな出会いと物語が、グリンの世界に訪れる。