大手出版社といわれるアメジストスター出版の編集部に、マリッカ・エストは在籍している。入社して三年、夢見ていた仕事をすることができている。
ずっと憧れを抱いていた作家を担当し、彼の本を上梓させている。完成した一冊一冊を、撫でて抱きしめて幸せを噛み締めてきた。
そう、自分は幸せなのだ。恵まれているはずなのだ。――それなのに、どうしてこんなに寂しいのだろう。
サフラン社のマトリ・アンダーリューが、先日軍の護衛対象になったという。凶悪犯が彼女に接触したと、軍で働く双子のきょうだいから聞いた。かつて憧れの作家を襲撃した人物だ。
気の毒なことだ。前科があり、何をしてくるのかわからない相手に目をつけられると、生活に大きな支障が出るだろう。心身の健康も損なわれる。直ちに命の危機には至らないだろうということで見張りをつけるに留まっているというが、それでも十分ストレスになるはずだ。
だが、マリッカはマトリを心配しているわけではない。彼女はそれだけ大変な目に遭っている、と自らに言い聞かせているのだった。
そうでなければ狂ってしまう――なぜ彼女だったのか。彼女だけが担当として認められ、自分は脇役どころか名前もないエキストラであるかのように感じる。
レナ・タイラスと共にある資格はマトリだけにあるのだと言われているようで、苦労をも分かちあっているように見えて、感情は渦を巻き胸から鳩尾にかけて居座っている。
年季の入った感情の名は、羨望と嫉妬。
以前よりも少しばかり階層が高く、セキュリティの面もしっかりしている。部屋もほんの少し広くなった。その分家賃は高くなったけれど、支払いに困るほどではない。
ようやく荷物を運び終え、まずは一息つくことができる。入れてもらったソファに寝転び、天井を眺めた。
アズハ・ヒースに遭遇してから二週間、あれから彼女の行方は知れない。私ばかりが逃げるように新しい住処を探し、引っ越すことになった。
事件被害を原因とする転居ということで、ほんの少しだけど補助金が出た。制度を教えてくれ、届けを通してくれたのは、あのエスト准将だ。意外に丁寧な仕事もできるらしい。
「あの乱暴な話は止めないくせにね」
独り言が出る程に、レナ先生に書かせるなとしつこいのに。引越し費用のほとんどは、私がレナ先生たちと仕事をして稼いだものなのに。
じっとしていると思い出してしまい、腹が立ってくるので、体を起こした。片付けを進めた方がいくらかすっきりするだろう。すぐに使うものから解かなければ生活もままならない。
ダンボール箱に手をかけたところで、呼び鈴が鳴った。まだ新しい住所を知っている人は少ない。会社と、軍と、数人の知人。もしかしたらどこかで情報を嗅ぎつけたアズハかもしれないので、用心しながら玄関へ向かう。
ドアスコープを覗いて、思わず声が出た。この人にはまだ、引っ越したことすら教えていないはずだ。それよりも忙しいはずで、ここに来るのは難しいのでは。
「イリスさん、どうして……?」
ドアを開けた私に、長身の女性はにんまりして片手をあげた。
「こんにちは。大変だったでしょう、引越し」
手にはボストンバッグを提げ、格好はシャツにジーンズと動きやすく丈夫そう。もしやという考えはきれいに当たった。
「軍の依頼で、マトちゃんを手伝いに来たんだ。荷物を解きつつ、怪しいものがないかどうかも点検するね」
「依頼って、イリスさんは王宮近衛兵でしょう? いいんですか、こういうの」
「協力させろって閣下に頼んだのはわたし。そして今日は近衛兵はお休みだから、立場は一般協力者。住所は軍から聞いちゃった、ごめんね」
もともと、軍から部屋の点検に行くという話はあった。まさかこんなことになろうとは思っていなかったけれど。
でも、イリスさんなら信用できる。なんといっても、彼女は私の友人であるグリン君の母親であり、レナ先生の叔母さんだ。
レナ・タイラス先生は今をときめく覆面ホラー作家で、読んだ人の心を抉りつつも仄かな希望を灯すような物語をいくつも上梓している。本人は至って穏やかな好青年であり、本を箱から出してくれたイリスさんも「書くものと見た目のイメージ違うよね」と苦笑している。
「イリスさんは、先生の著作は読まれてます?」
「読んでるよ。わたしよりグリンの方が読むの早いから、あの子が読み終わったらまわってくるの」
あの怖い話をグリン君も全部読んでいるのか。けれども私が初めて読んだのも十歳のときだから、不思議ではない。
グリン君ことグリンテール・インフェリア君は九歳の男の子。活発で人懐っこい、レナ先生の助手だ。先生への電話と来客の応対は、彼が先生の家に入り浸って務めている。私にとってはかなり年下ではあるけれど、共に先生を助ける大切な友達だ。
「わあ、これは懐かしいね。ニールの最初の本だ。もう流通してないんでしょ」
「はい、残念ながら絶版になってしまっているので」
イリスさんが手に取った、かなり読み込んだ跡のある本。それが私の初めて読んだ怖い話の本だった。作者はニール・シュタイナー――レナ先生の本名であり、かつての筆名だ。
先生は三年前の春、アズハ・ヒースに襲撃され、一度は仕事も経歴も手放そうとした。しかしそれから数ヶ月後、新たな名前と作品で再び文壇に戻ったのだ。
レナ先生はそれから順調に書き続け、本も出し、人気作家として名をとどろかせるようになっている。しかしアズハのつけた心の傷は深く、しかも性懲りも無く先生を狙い続けているというのが腹立たしい。そのせいで先生はまた書くことを取り上げられそうになっている。
現在アズハ・ヒースを追っているセンテッド・エスト准将は、レナ先生に作品を書かせるな、出版社は作品を発表するなと私たちに迫っている。そんな無茶苦茶を受け入れるわけにはいかない。先生は書きたいと思ってくれているし、私たち編集者には先生を支え、助け、守る義務がある。
だから私は負けるわけにはいかない。襲撃犯アズハにも、横暴軍人エスト准将にも。そのためなら引越しでもなんでもするし、私自身もアズハから身を守らなくてはならない。
「マトちゃんの身辺警護、引き続きわたしも担当するから。よろしくね」
だが、自分の身は自分で守る、と息巻いていても私にできることには限界がある。なのでイリスさんの存在はとてもありがたかった。
「ありがとうございます。イリスさんなら安心して頼れますね。でも、本業の方は大丈夫なんですか?」
「色々複雑な事情もあって、この件に関しては王宮と閣下の両方から優先していいって許可が出てるんだ。もちろんリーダーは軍だけどね。メイン担当は今まで通りテッドだし」
呼び方は初めて聞いたけれど、今まで通りと言うからにはセンテッド・エスト准将のことなのだろう。思わず露骨に眉を寄せてしまった私に、イリスさんは豪快に笑った。
「大丈夫! 見た目は無愛想に育っちゃったけど、テッドは真面目ないい子だからさ」
「真面目ないい子が、人の仕事に対して辞めろって簡単に言います? あの人、わざわざうちの会社に来て、レナ先生に作家を辞めさせろって言うんですよ」
「もう辞めないから大丈夫だよ、レナ・タイラスは。でもそうだね、テッドには一度びしっと言った方がいいかも。自分の力に自信を持てって」
自分の力に自信を持て? 辞めろと言うな、ではなく? 首を傾げた私に、イリスさんはただ困ったように笑うだけだった。
お喋りをしながらの作業はひとりで黙々とやるより捗り、夜にはすっかり片付いていた。今夜はぐっすり眠り、余分にとらせてもらった明日の休みは普段の家事と持ち帰っていた仕事に集中できそうだった。
「イリスさんのおかげです。本当にありがとうございました」
「どういたしまして。部屋の点検はしたけど、ちょっとでもおかしいと思ったらすぐに教えて」
近所で買った夕飯まで置いてくれて、イリスさんは帰っていった。玄関で別れたあと、ベランダから外を見ていると、彼女はちゃんとこちらに気づいて手を振ってくれる。高いところなのによくわかったものだ。
高いけれど、気をつけなければならない。並大抵の人間ならここから入ってくることは難しいけれど、アズハは脅威の身体能力を持っている。私の目の前で披露した人間離れした跳躍は、美しく、それでいて恐ろしいものだった。あれならどんな壁の高さもものともせず、どこにでも入り込めるだろう。
悔しいけれど、私には彼女に対抗できるような力はない。けれどもこれだけは断言できる。
――レナ先生に最高の作品を書かせて。
彼女の言うことに従うのではけっしてない。私は自分の意思で、先生が最高の作品を生み出せるようにしていく。
なにがなんでも、先生を守り抜くんだ。
残念なことに、決意や覚悟や根性はお腹を満たしてはくれない。引越しによって懐がかなり寂しくなってしまったので、しばらくは節約して過ごさなければならない。早いところ財布にやさしいお店を探し、昼食もお弁当を自前で用意する必要がある。
引越しのためにとった休日の最終日、私は食料品を買いに街に出た。これだけ賑わっていれば危ないこともないだろう。それに巡回の軍人も、いつもより多い気がする。
価格帯の高めな食料品店を横目に見つつ通り過ぎようとして、見覚えのある姿を見つけた。最近よく会う顔に似ているけれど、それは男性で、こちらは女の子。今の私ではちょっと手が出ない値段の瓶詰めを躊躇なく手に取り、滞りなく会計を済ませるまでを、つい眺めてしまった。
「……あ」
「こんにちは、マリッカさん」
そうして出てきた彼女は、鉢合わせた私に一瞬形のいい眉を顰めた。けれども目が合ってしまったら挨拶をしないわけにはいかない。
「こんにちは。サフラン社は暇なのかしら、アンダーリューさん?」
マリッカさんはクールな表情をつくり、私を見上げた。今日の彼女は踵の低い可愛いパンプスを履いていて、私とは身長差ができてしまう。
「私がお休みをいただいただけです。マリッカさんも今日はお休みですか?」
「ええ。ちょっと働きすぎて、注意をされてしまって……」
溜息混じりに話していた途中で、我に返ったように咳払いをする。注意されるほど働くなんて、よほど忙しかったのだろう。あるいは、マリッカさんが仕事に夢中だったのか。彼女の仕事への情熱からして、後者の方が実情に近そうだ。
それとも、変なことがあっただろうか。彼女は同業他社の人で、レナ先生の担当編集者だ。私と同じように大変な目にあっていたかもしれない。
「マリッカさん、レナ先生とのお仕事は順調ですか。今はそちらで出す作品に取り掛かってますよね」
さりげなく現状を聞けたらと思い訊ねると、彼女はじとりと私を睨んだ。
「他社の情報を引き出すつもりですか?」
「ち、違いますよ。ただ、何も問題なくできていればいいなと」
「問題なんかあるわけないでしょう。私はあなたのように、先生との仕事にトラブルを持ち込んだりはしません」
ぐうの音も出ない。たしかに私はトラブルばかり起こしている。不可抗力もあるけれど、先生には迷惑をかけっぱなしだ。
その点、先生と幼馴染でもあるマリッカさんは、上手にまいたりかわしたり、きれいに解決できているのかもしれない。私よりもレナ先生のことはよく知っているはずだし。
「そうですよね。マリッカさんの方が、先生も仕事がやりやすそうです。そうだ、マリッカさんのお兄さんは、先生との仕事について何か言ってきたりします?」
私は散々な目に遭っているけれど、という言葉はなんとか飲み込んだ。エスト准将が双子の妹に対しても横暴な態度をとっているなら腹立たしいし、そうでなければ少しだけ安心できる。
マリッカさんは怪訝そうに「お兄さん?」と呟いてから、私を睨み直した。先程のような疑いの眼差しではなく、これは苛立ちだ。
「誰が兄だなんて言ったの」
「え、あの……センテッド・エスト准将はお兄さんではないんですか? グリン君にはそう紹介してもらったんですが」
「グリン……ああ、あの子はそう認識してるの。今度訂正しなきゃいけないわね。センテッドとは双子のきょうだいだけど、私は妹になったつもりなんか一度だってない」
「じゃあ、マリッカさんがお姉さん?」
「違う。私たちは対等なの。どちらかがどちらかを下に見るようなことは許されない。私は許さない」
どうやら踏み込んではいけないところのようだ。謝ったけれど、ごく小さい声になってしまった。それでも聞こえてはいたようで、別に、とマリッカさんは髪を耳にかける。
「もう二度と話題にしないなら、聞かなかったことにして差し上げます」
そうして私に背を向け、早足でその場を離れていく。会った時にはいつも堂々としている彼女の背中は、怒らせてしまったばかりなのに、なぜか頼りなく感じた。
きょうだい仲は良くないのだろうか。少なくともマリッカさんは、エスト准将に単純に計ることのできないような思いを抱えているようだった。
私にはきょうだいのことはわからない。両親のことも。だからいずれも私には踏み込めないはずのものだということを、最近は忘れかけていた。
休み明けの机の上は、付箋がびっしり貼ってある。中には剥がれ落ちて見逃すことのないように、上からテープでしっかり留めてあるものもあって、つい苦笑してしまう。ありがたいのはその内容が、私の代わりに仕事を進めてくれたこととその内容の報告ばかりだということだ。
レナ先生からも連絡があったようだけれど、こちらは保留にしているらしい。先生の仕事は、現在は他社優先だ。うちでの仕事も打ち合わせをして頼んではいるけれど、今のところは急いでいない。
他社――アメジストスター出版から創刊する新しい雑誌で、先生の連載が始まる。小説や詩といった文芸作品のみならず、イラストや漫画などもたくさん収録する雑誌になると、業界で注目されていた。大手老舗出版社が手がける、文と絵の世界を愛する人たちのための一大プロジェクトなのである。
レナ先生の作品に関しては、マリッカさんが担当するのだろう。なにしろ特殊な事情を抱えた作家だから、単行本だろうが雑誌連載だろうがまとめて引き受ける人が必要だ。少なくともうちではそうせざるをえない。
とにかく一度、レナ先生とは連絡を取らなければならない。たくさんの付箋とスケジュール帳を見比べながら仕事の確認をしていると、後ろから肩を叩かれた。
「マトリ、部長が呼んでた」
「えー……」
渋々立ち上がると、同僚がそっと耳打ちした。声色が心配そうだ。
「多分さ、ストーカーのことだと思うんだよね」
私が家に侵入されてから引越しを余儀なくされるまでの流れは、同僚たちにはストーカー被害として認識されている。しかし上長は軍と話をしているだろうから、曖昧にごまかすことはできない。レナ先生の名前も出るだろう。
案の定、部長は開口一番こう言った。
「アンダーリュー君。レナ・タイラス先生の担当は、他の者に代わってもらったらどうだろう」
「嫌です」
返事は最早反射だ。危険だろう、せめて一時的にでも、と続いたけれど、全て同じ言葉で返した。
「私は絶対にレナ先生の担当を降りません」
私が関わることで先生がさらなる危険に晒されたら、と考えなかったわけではない。アズハの接触があったことを先生が知ったら、どれほど心配させてしまうか、想像に難くない。
しかしそれ以上に私の頭にあったのは、いつか私が担当を辞めなければならないと思い込んだときの、先生の流した涙だった。
「軍の方もついてくれていますし、ご心配には及びません」
「でも実際に被害にあっているだろう。君の身の危険は我が社の危機でもある」
「それも理解はしています。これ以上私に何かあると、会社としても何らかの責任に問われるんですよね。法的な問題というより、きっと世論で」
私がどうにかなってしまったとき、私のことを何も知らなくても、身近なものや自身の理解に落とし込んで憤り、自らの正義に従って声を上げる人たちがいないとも限らない。ただでさえ会社というのは、常にその存在を知る人々による評価や審判を下されている。
「でも、どうかお願いです。私に今のままの仕事を続けさせてください。難しいお願いでしたら、私は……」
どんな大変なことがあろうとも、私はここで夢を叶え、その先に進みたい。私の、そして誰かの未来を切り拓いていくような仕事がしたい。もしそれができなくなるなら、私は私の人生を一旦諦めよう。
頭を下げたまま続きを口にできなくなった私に、部長の溜め息が聞こえた。呆れたような「あのねえ」に、決めなくてはならない覚悟を探した。
「生意気だねえ、若者ってのは。それはまあ君らの特権だし結構な事だけれど、そんなに生き急がなくてもいいじゃない」
顔を上げなさい、という声に従って、姿勢を正した。部長は苦笑いをして私を見ている。
「法律も世論もそりゃあもちろん大切だよ。やっちゃいけないことは当然やっちゃだめだし、特に決まりがない部分はバランスとってやっていかなきゃならない。でもね、ここが会社であるなら、会社に属してる人間をきちんと守れるようにしていかないと」
守るために先生から遠ざけるのか、という私の口に出すのを我慢した不満は、けれども顔には出ていたらしい。部長はゆっくり首を横に振った。
「君を守るのは軍だけじゃないってことだ。事前にマクラウド君とも話してあるから、安心しなさい。一応意思確認をしたかったんだが、どうやらタイラス先生の担当者は変更不可能だな」
では、と言った声が掠れた。それも拾って首肯する部長と目が合った。
「これまで通り、自分の仕事に集中してほしい。不届き者は気にするな」
はたして不届き者には何が含まれているのだろう。アズハだけではなさそうだ。そう思うと少しおかしくて、嬉しくて、自然と口角が上がる。
「ありがとうございます。よろしくお願いします!」
私は思う存分、私の戦い方ができる。それでいいと言ってくれる、心強い仲間がいる。
今の私は、独りじゃない。
レナ先生への電話は、いつものようにまずはグリン君がとる。こちらを安心させてくれる元気な挨拶が聞こえた。
先日イリスさんに助けてもらったお礼を言うと、得意気な声が返ってくる。
「母さん、力持ちだからな。困ったらいつでも頼りなよ。もちろん俺も手伝うよ」
「ありがとう。グリン君もいてくれるなら何でもできちゃうね」
頼もしい彼は、照れたように笑ってから、先生を呼んでくれた。レナ先生は柔らかい響きで「お疲れ様です」と言ってくれる。
でも、いつもより少しだけ、疲れが滲んでいるような気がした。
「お疲れ様です、先生。お休みをいただいていて申し訳ありませんでした」
「いいえ、そんな。お引越しだったんですよね」
「はい、もうすっかり片付きました」
グリン君が伝えたのだろう。あるいはエスト准将から聞いたのかもしれない。後者であれば、アズハのことも耳に入っているだろう。
「先生はいかがですか。体調を崩されてませんか」
「僕は元気です。なので打ち合わせをしていたもののプロットができてしまって、マトリさんに見ていただきたいんですが」
「え、もう? 是非拝見したいです」
返事をしながらも、少し引っかかる。うちでの仕事を本格的に進めるのはまだ先の予定で、当分はアメジストスター出版の仕事を優先するということになっている。あちらは雑誌連載で、締切が少々タイトに設定されているはずだった。
レナ先生が仕事の早い人であるということは承知しているけれど、無理をしてはいないだろうか。
今日は私も仕事が立て込んでいて動けそうにない。相談の結果、明日の夕方に先生を訪問させてもらうことになった。
お体に気をつけて、と念を押すと、先生は少し笑ってから「そちらも」と言ってくれる。私のことよりも、自分を大事にしてほしい。私は誰かに今の仕事を譲る気はないけれど、代わりがいないわけではない。私よりも優秀な編集者が、この会社にはたくさんいる。でもレナ先生の代わりは存在しない。再び書けなくなることは避けたい。
――貴様はいつか無意識に人間を殺すぞ、マトリ・アンダーリュー。
エスト准将の言葉が頭をよぎる。レナ先生が自身の悪夢を元に作品を書いているという事実がある限り、無理をさせてはいけない。
かぶりを振って、頬を叩く。そんなことにはするものか。私は先生を守る。
そのためにすべきことは、明日の約束を必ず遂行することだ。目の前の仕事をさっさと片付けて、先生を訪ねる時間をつくらなければならない。
気合いを入れ直して机に向かい、昼も近くなった頃。私はレナ先生がプロットを早めにあげようとした理由を知った。
アメジストスター出版の企画が中止になるかもしれない――そんな噂が流れていたのだ。
「そんなに飛躍した話になってるのか」
呆れているドネス先輩は、ラウンジで珈琲を飲みながら栄養補助食のクッキーバーを齧っている。忙しい合間をぬって休憩しているところを捕まえてしまったのだ。
せめてものお詫びにと、今日は私がコーヒーを奢った。自分の分も買ったけれど、レナ先生の手作りお菓子がないので物足りなく感じる。
「実際のところはどうなのか、先輩はご存じですか」
「中止にはならないが、レナ先生の連載は開始が遅れるかもしれない」
「え!?」
突然出てきた関わりの深い名前に、危うくカップを取り落としそうになる。先輩は落ち着いてコーヒーを啜り、もう一人知っている名前を言った。
「アメジストスター出版のマリッカ・エストとは、君は親しいんだったか」
「親しいって言ったらマリッカさんに怒られそうですけど、会ったらお話はします」
「倒れたんだってさ」
先輩はアメジストスター出版に仲のいい同級生がいる。その人はマリッカさんの前任、つまりレナ先生の以前の担当者だった。もっともその人が担当していたのは、ニール名義で書いていた頃だったそうだけれど。
企画がどうなっているのかなんて話は、社内のことだから直接は言えない。でも「部下が倒れちゃってね」くらいのことなら伝えられるらしい。
「……マリッカさんには昨日会いましたよ」
働きすぎて注意をされた、と言っていた。残業のしすぎかと思っていたけれど、まさか体調を崩していたとは。
倒れたというのはいつのことなのだろう。昨日会ったときは元気そうだった。機嫌が良くないのは、私と会って余計なことを言われたからだろう。――そう思っていたけれど、仕事が思うようにできない苛立ちもあったのかもしれない。
「しばらくお休みするんですか」
「そうするように言ったみたいだな。だがレナ先生の担当は……」
「マリッカさん以外には難しいんですよね」
先輩が頷く。状況はうちと同じだ。レナ先生は出版社の人間にもほとんど正体を知られていない。現状では先生のことを知る人を増やすのも躊躇われる。
「そろそろ、担当者が直接出向かなくてもいいようにしていく頃合かもしれない。それができればアメジストスター出版は予定通りに仕事を進められるし、先生の仕事の幅も拡げられる」
もう三年だ、と呟いて、先輩はクッキーバーの包装を几帳面に畳んだ。
「それは……マリッカさんだけでなく、私も先生の家に行かずに仕事を進めるようにした方がいいということですか」
「まあ、いずれはな」
そうできるのが双方にとって良い状態であるということは、理屈としては納得ができる。けれどもどうしてか、胸のあたりが冷えたような心地がした。先生を守り切ることができたその先、あるいは守るための策として必要なものとなるかもしれない、先生を訪問することを止めるということ。
他の作家なら当たり前にしていることだ。レナ先生との仕事が変わっていただけ。なのに方法を見直すとなると、強い違和感があった。
「どうした、マトリ。先生に会えなくなると寂しいか」
俯いていた私に、先輩が苦笑混じりに言う。顔を上げてはみたけれど、同じ表情で返すことがうまくできない。頬は引き攣り、眉は歪む。
「そりゃあ寂しいですよ。でも仕事を効率よく進めるために必要なら……」
「すぐにじゃなくていい。まずは今ある面倒が落ち着かなきゃな。そのうち先生と相談して考えてくれればいい」
空のカップと包装をゴミ箱へ。先輩が私に割いてくれた時間は終わる。ここから先は、
「担当は君だ、マトリ」
私が自分で判断し、行動しなければならない。
タイミングが良いのか悪いのか、本日の護衛はエスト准将だった。
「将官なのに護衛につくなんて、お仕事少ないんですか」
純粋な疑問だったのだけれど、嫌味たらしくなってしまった。エスト准将はもちろん顔を顰める。
「この件を優先させているだけだ。貴様の近くにいればアズハ・ヒースが現れるかもしれない」
「ちょっと、市民を囮扱いですか? ……いいですけどね。レナ先生が安心して作品を書けるようになるなら囮でもなんでもやりますよ」
「まだそんなことを言っているのか。もう書くのは辞めさせろと何度も言っているだろう」
エスト准将の眉間の皺がさらに深くなる。この人はどこまで機嫌の悪そうな顔ができるのだ。
しかし今は、そんなことよりも気になることがある。家族であるこの人なら、彼女の様子を教えてくれないだろうか。
「マリッカさん、体調はいかがですか。倒れたと伺いました」
急に話を変えたからなのか、それとも私がマリッカさんのことを尋ねたからなのかは判別できなかったけれど、エスト准将は眉間に込めていた感情を弛めた。目を少し見開き、すぐに私から目を逸らして遠くを見る。
「……ああ、少し前にそういうこともあったな。立ちくらみがしただけだと本人は言っていた」
「昨日にはもう外出できてましたよね。私、マリッカさんに会いました。お買い物してましたよ」
「昨日? それは知らないが、ならきっと大丈夫なんだろう」
どこか投げやりにも聞こえる言葉が気になった。マリッカさんの反応を思い出しても、やはりきょうだい仲が良さそうには思えない。訊ねたのは間違いだっただろうか。
口を噤んでおいたほうがよさそうだと、エスト准将から顔ごと逸らす。それに気づいたかどうかはわからないけれど、今度は彼が話しかけてきた。
「マリッカとはそんなに親しいのか」
「私は親しくなりたいと思ってますけど……多分、マリッカさんは私のことがそんなに好きではないです」
「だろうな」
自分で言ったこととはいえ、肯定されると胸が痛い。もう少し気を遣ってくれても、なんてこの人に求めても到底通じないであろうことを考えてしまう。
ところがエスト准将は、意外な続きを口にした。
「貴様はニールに近すぎる。あいつは嫉妬するだろう」
思わず見上げた表情は、呆れたような、でもどこか寂しげな、本心の読めないものだった。
自分って嫌な奴だなあと思っちゃったら、ぱっと思いつくいい事をとりあえずやってみな。――という、おじが教えてくれた生きるコツがある。その人とは血の繋がりなど一切ないが、父の古くからの友人であり、幼いマリッカたちの面倒を見てくれた人だ。
その言葉がマリッカにとって、いくつかあるお守りのひとつになっていた。嫉妬心を追いやるために、自分にとっての最善――仕事に邁進した。
ちょうど大きな案件を抱えていた。新しく創刊する雑誌に、レナ・タイラスの作品を載せられる。雑誌制作の中心となる一人として、誌面の構成などにも大きく関われる。業界が注目する老舗出版社の新たな挑戦だ、その一員になれるというのは名誉な事だった。
奔走していた。熱中していた。のめり込んで、寝食を忘れる日もあった。順調だから少しだけ休もうか、という頃に飛び込んできたのが、アズハ・ヒースがマトリ・アンダーリューに接触したという情報だった。激しい嫉妬を塗り替えるため、休むのをやめた。醜い考えを払拭すべく、さらに仕事に没頭した。
だが、生き物の身体には限界がある。マリッカは普通に過ごしていれば全く健康な人と変わらないが、無理がたたれば酷い貧血を起こすことがあった。
「しばらく休んだらどうだ」
職場で症状が出てしまい、自力で立てずに医務室に運ばれた。病院に行くことは拒否した。薬を飲めば大丈夫。だからどうか、仕事を取り上げないでほしい。懇願したけれど、上司は首を横に振った。
「働きすぎだ、休みを取りなさい。有給も使っていないだろう」
「でも、私は大事な仕事を」
「雑誌の件なら一人欠けたところで問題は無い」
「レナ先生の担当は私でなければできません」
「既に原稿は預かっていて、原稿料も支払った。掲載が滞るのが心配なら、事情を話して初回は見送って」
「駄目です、そんなのは」
そんなのは私が許せない。それが言葉になる前に、先輩が医務室に現れた。かつてニール・シュタイナーの担当者だったその人は、彼と連絡をとったと言った。
初回の掲載の見送りは、あまりにあっさりと決まってしまった。マリッカはまとまった休みを取らされ、挙句の果てに詫びようと思って電話をしたレナ・タイラスからも心配されてしまった。
「ゆっくり休んで。僕は大丈夫。他にも仕事はあるから、生活には困らないし」
締め括りのその言葉が一番辛いということを、彼は知らない。知らなくていい。
自宅のベッドの中で遅い朝を迎え、センテッドの気配がないことを確認してから、そっとリビングへ向かう。顔を合わせると面倒だ。
朝食を自分の分だけ用意しているその間も考えてしまう。――他の仕事とは、つまり他社との仕事ということだろうか。サフラン社の、マトリ・アンダーリューの。
悶々としたまま家にいるのが嫌で、ふらりと買い物に出かけた。すると嫉妬を抱いた罰だろうか、あろうことかマトリ本人に会ってしまった。
一言だけ余計なことを言ってしまったが、あとは冷静に対応できた。嘘も自然につくことができた。――「先生との仕事にトラブルを持ち込んだりはしません」? よくもそんなことをいけしゃあしゃあと言えたものだ。
そんな自嘲が苛立ちとなって、センテッドの話になったときに小さく爆ぜた。そうだ、きっと彼はこの状況を喜ぶ。なにしろあれだけレナに書かせるな、作品を発表するなと言っていたのだ。マリッカはそれができる、そうしなければならないと。
マリッカだけが、何もかも上手くいかない。望んだものはいつも手に入らない。近くまで行くことができても、目の前で掠め取られる。
夢だけは、自分のものだと思ったのに。それすら取り上げられてしまうのか。
不意に眩暈に襲われ、日陰を探した。誰もいないところで少し休んで、早く家に帰ろう。人気のない細い路地を見つけて入り、塀に身体をあずけた。
細く息を吐くのに合わせるように、目の前を上から下へと過ぎるものがあった。地面に落ちたそれを拾い上げ、まだ霞む目で捉える。
真っ赤なキスマークの付いたカードであることを脳が認識したとき、マリッカの頭の中にかかっていた靄が一気に晴れた。
翌日、センテッドが家を出る時間を狙って、マリッカは玄関に向かった。きっちりと襟を閉めた皺のない軍服を纏った彼は、ちょうど靴を履き終え立ち上がったところだった。
「なんだ、いたのか。仕事は」
「立ちくらみがしたから、先日から休みを貰ってるの。知らなかった?」
「ああ。父様も何も言っていなかったし」
父は元々子供たちに頻繁に話しかける人ではない。結局、センテッドは双子のきょうだいには特に関心があるわけではないのだ。思った通りにしてくれさえすれば、あとはどうでもいいのだろう。
それならこちらも彼には構わない。マリッカはただひとつだけ問う。
「今日は遅くなる?」
「おそらくは。夕飯の用意はいらない」
行ってくる、とも言わずにセンテッドは出ていった。その姿が窓からも見えなくなったのを確認し、マリッカは支度をする。書斎にいるであろう父に聞こえないよう、静かに。
手にした鞄には、昨日拾ったカードが入っている。いや、これは届けられたのだ。確信がある。キスマークのカードはつい先日、アメジストスター出版に届いていないかとセンテッドに確認された。届いたらすぐに軍に連絡しろとも言っていた。ならばこれは、あの女の遺留品と考えていいだろう。
あの細い路地に向かえば、自分も会えるかもしれない。あの憎い女に。アズハ・ヒースに。
黒いドレスにはたっぷりとフリル。黒い薔薇の飾りのついたヘッドドレスが、黒く艶やかな髪に似合っている。化粧が余程巧いのか、年齢は見た目では分からない。
微笑んだ顔は小さく可愛らしいけれど、マリッカにはただただ腹立たしい。
「明るいうちから随分堂々としてるのね、連続殺人犯」
「隠れる必要ないもの。必要に応じて撤退することはあるけれど」
現れても軍に捕まらないのは、その撤退の能力が優れているからか。要するに逃げ足が速いということだ。速いだけでなく、跳ぶ。家庭内に出現する、厄介な害虫のようだ。
「それで、あなたはどうしてここに来たの?」
わざとらしく首を傾げる仕草が癪に障る。拳を強く握り締めすぎて、掌に爪が食い込む。
「呼び出したのはそっちでしょう」
「呼び出した? わたしはただ、カードを落としただけよ。あなたが拾って、ここに来ようと思った。来てなんて言ってないし、カードにも書いてない」
一歩、一歩とこちらへやってくる。厚底ブーツは砂利の音を殺し、スカートが軽やかに揺れる。
後退りはするまいと、マリッカは足に力を入れた。
「ね、あなたは何がしたいの? わたしとお話がしたいのかしら」
「……できることなら殺してやりたい」
相手を睨みつけ、吐き捨てた――つもりだったが、絞り出したような掠れた声しか出ない。喉が異様に渇いている。
それを聞いた彼女は、甲高い笑い声を上げた。
「でもできないんでしょ? ここに来るのに、軍に連絡もしてないわよね。だってあなたは、わたしとお話がしたいんだもの。他の人に聞かれたら困る話。あなたの心の醜い部分のお話」
「黙りなさい」
「他の人は欲しいものを手に入れ、成したいことを成している。けれども自分だけは思い通りにならない。どんなに足掻いても追いつけない。羨ましいわよね、妬ましいわよね」
「黙れ!」
どうしてそんなことを知っている。この心に抱えてきたものを、誰にも言っていないようなことを、全くの他人である彼女がどうして語れるのか。弓のような目の奥を、愉快そうに輝かせて。
「なんでわかるのって顔してる。でも、あなただって本に携わっているんだからわかるんじゃない? 『主人公になりたいと願う人』は、そういうものだって」
身体中を貫かれたような心地がした。冷たい壁に杭で留められ、身動きが取れなくなったような。そのまま冷えていく身体を、どうしようもできないような。
主人公になりたいと願う、という意味はマリッカには痛すぎるほど理解できる。幼い頃から現在に至るまでの自分を的確に表現している言葉だ。だからこそ主人公にはなれないということもわかる。
「あなたがここに来たのは主人公になりたかったから。でもごめんなさいね、あなたはわたしのシナリオには不要なの」
「不要……?」
彼女は眉を八の字に下げ、顔の前で手を合わせる。目は笑ったままで。
「あなた、つまらないから。わざわざ入れる必要性を感じないの。レナ先生編では彼の悲惨な人生と、彼に出会ってしまったマトリ・アンダーリューの報われない不幸があれば、要素としては十分」
その名前を聞いて、どうして、と呟く。自分がつまらないことなど、マリッカはとうに知っている。他でもない自分自身が一番わかっている。
けれども何故マトリは狙われるのか。夢を叶え、仕事に邁進でき、確固たる地位を築こうとしている彼女の、何が凶悪犯の琴線に触れたのかが全くわからない。十分に報われた人生を送っているだろう。
「納得できない? 事情を知ったら納得するはず。教えてあげるわね」
白い手が伸び、細い指がマリッカの頬から顎をつうっと撫でた。暗い赤色の唇が蠱惑的な弧を描き、それから小さく開く。抵抗はできなかった。
「あの子はね、実の親に売られたの。そして買い取られた先で、表には出せないお薬の被検体として使われていたのよ」
ね、あなたよりも可哀想でしょう?
そう言った彼女――アズハ・ヒースの表情は、お気に入りの絵本を捲る子供のように輝いていた。
マリッカ・エストさんは、私にとっては仕事に厳しいあまりちょっと怖くて、でも担当している作品やそれ以外の本もとても愛していることが伝わってくる、熱心な編集者だ。その情熱には私も憧れ、きっと影響されている。
幼い頃からレナ先生の書く作品を読み、先生の担当になって本をつくるという望みも叶え、羨ましいくらい順風満帆な生き方ができている人だと思っていた。仕事に誇りを持ち胸を張る姿が、とても大きく見える人だと。
「そんな人が私に嫉妬とか、ありえませんって」
そもそも私なんか眼中にないのでは、と笑い飛ばそうとしたのだけれど、エスト准将の表情が変わらないので――いつも硬いけれど、なんだか今は纏う雰囲気が違っていて――少し真面目に話をすることにした。
「私がレナ先生に近すぎるというのは、先生に対して踏み込みすぎだということですか。だとしたらマリッカさんは私に怒ることはあっても、嫉妬するとは考えにくいですよ。あなた達きょうだいと先生は幼馴染なんでしょう」
「幼馴染といっても、出会った頃には既にあっちは八歳。四歳の子供から見れば十分に大きく見えた」
「ああ、確かに子供の頃ってそうですね。一つか二つ歳が違うだけで、印象が全然違いました」
つまりは幼馴染ではあるけれど、先生の方が随分お兄さんであるという認識だったということか。その存在はきょうだいにとって、なかなかミステリアスだったに違いない。
「おまけにニールは人の陰に隠れて怯えているような奴だったから、我々もどう接するのが正しいのか困惑していた。歩み寄りは子供なりに少しずつ、時間をかけたものだった」
「先生、人見知りなんですね。それに准将にも、そんな殊勝な時代があったんですね。時は残酷に流れるんだなあ」
「貴様……」
心の中で呟こうとしたはずのことも全部出してしまい、私はとりあえず口を押さえる。青筋を立てるエスト准将は、しかし投げずに続きを語ってくれた。
「……仕方なかったんだろう、奴は母親を亡くしたばかりだった。目の前で親を惨殺され、自分も危うく死にかけたんだ。そんな経験をしたら、もっと人間を拒否していてもおかしくはなかった」
「え、あの、それって本当に? 私、そんなのは知りませんよ」
ドネス先輩からいつか聞いたのは、目の前で家族を亡くしたという意味合いのことで、私が知っていたのはそこまでだ。あとは調べてもわからなかった。
動揺する私に、エスト准将は一瞬だけ瞠目して、それから「とにかく」と口調を強めた。やはりこの情報は、知らない人に対しては失言だったのだろう。
そうか、だから先生は悪夢を見るのか。私の頭の酷く冷静な部分がそう納得していた。
「我々がニールとまともに交流できるようになるまでには、時間と段階を経ている。貴様はそんなことはなく、奴の信頼を勝ち得ているだろう。加えてあの鈍感男はマリッカに貴様の話を楽しそうにしていたようだし……」
「……えーと、准将。その言い方はなんだか、マリッカさんが先生のことを……」
異なる種類の情報が多すぎて、一度に全てを呑み込むのは難しい。けれどもそれくらいは私にだって拾える。
マリッカさんは、先生を慕っている。尊敬や憧れだけではなく、おそらくは恋をしている。もちろんエスト准将の言うことをそのまま真に受けるのなら、だけれど。
だから私に嫉妬していると、そういうことなのだろうか。私はただの担当編集者で――確かにレナ先生はとても魅力的で、こちらもたまにドキドキさせられるけれど――そういった関係になることはないと思う。先生がありがたくも私を褒めてくれるのだとしたら、それは私がまあまあ上手く振る舞えているらしいというだけのことだ。
「ていうか、なんでそんなことを准将がご存知なんですか。まさかマリッカさんと恋バナをなさるんですか」
「いや、ニールからマリッカの様子を聞いている。マリッカは最近、私と直接会話をするのは避けている」
「だからさっきから変に曖昧なところがあるんですね。又聞きしたことを勝手に他人に話すのは如何なものかと思います。なんで避けられてるのか心当たりはありますか」
こうなのでは、という予想はある。本当にそうだったら最低だ、とずっと思っていたことが。はたしてそれはあっさりと肯定されてしまった。
「大方貴様のように、ニールに作家を辞めさせろと言ったのが気に食わなかったんだろう。編集者なんてものはまったく」
「あなたなんかマリッカさんに嫌われて当然ですよ、この超横暴横柄軍人!!」
頭に上っていた血が一気に沸騰する。先程まではほんの少しだけ、マリッカさんのことは気にかけているのかな、と思っていたのに。
私のことならまだしも、きょうだいにまで自分の勝手な考えを押し付けようとするなんて。そうなるとマリッカさんが私に嫉妬するなどという話も、この人の妄想、いいかげんなでっち上げなのではという疑惑が生じてくる。
だって、あんなに真っ直ぐな彼女の情熱を、血の繋がった双子のくせにわかっていないなんて。
「ほーんと、厭よね。無粋な軍人って」
「ですよね、無粋も度が過ぎてます! ……え?」
今、私に同意した声はどこから?
見回したけれど、姿は見えない。それどころか辺りは異様に静まり返っている。ここはもう私の住まいの近くで、本来ならばこの時間は帰宅途中の人々が行き交っているはずだ。
エスト准将を見上げて、ぞくりと足先から肩、頭まで震えが走る。いつも怒っているような人の、それを超えた嫌悪と憎悪の滲む眼。紫の瞳の中心は闇を映して真っ黒に染まっていた。
「こんばんは、マトリ・アンダーリュー。それとおまけのセンなんとかさん」
声は空から降ってきた。見上げると、近くの一軒家の屋根に巨大な鴉がとまっているのを見つけた。――いや、鴉のはずがない。ただ私が、その存在を認めたくないだけだ。
鴉のように真っ黒な、しかし明らかに人間が意匠を凝らした装飾たっぷりのロリータ風ドレスを纏った彼女は、屋根を蹴って飛んだ。そうして呆気に取られている私たちの前に、華麗に降り立って見せた。
こんなことが、人間業であってたまるか。
「お仕事は順調? 軍人なんかに邪魔されてないかしら」
妖艶というには可愛らしすぎ、しかしながら少女というには幼さの窺えない笑顔で、アズハ・ヒースは話しかけてくる。
声を出せず、後ずさることもできない私の前に、エスト准将が進み出た。
「アズハ・ヒース。貴様、よくものこのこと現れたな」
「今のが『のこのこ』? わたしとしてはふわりひらりと、なかなか素敵に登場できたと思ったのだけれど」
「減らず口も大概にしろ」
エスト准将の手が、その腰に携えていたものを掴む。静かに、躊躇いなく抜かれた細い刃が、街灯を反射して輝いた。その切っ先はアズハへと向けられたのだろうけれど、私には見えない。准将の広い背中が、私の盾となっていた。
「もう貴様は牢獄には戻らない。ここで斬る」
「そんなことしたら、上司に怒られちゃうわよ。わたしを殺してしまったら損をするもの」
「何が損だ。生かしておいた方が余程害になる!」
光が宵を割くように宙を駆ける。准将の動きは私の目では追いつけないほど疾かったのに、アズハの爪先すら捉えられない。彼女は飛び上がり、美しい姿勢で宙返りすら披露してみせた。揺れるスカートが花のようだ、と私の鈍った頭が呟く。
「厭ねえ、あなたには全く用事なんかないのに。無粋な人は、わたしの理想の物語には不要なの。あなたの双子より要らない」
双子、という言葉に私の脳が醒める。准将はそれよりも早く反応し、剣を構え怒鳴った。
「マリッカが何だ。あいつに何かしたのか!?」
「なんにもしてないわ」
アズハは拗ねたように唇をすぼめた。いかにも不本意である、と訴える小さな子供のように。
「あの子が勝手に来て、お話を聞きたそうにしてたから話してあげたの。そしたら勝手に倒れちゃっただけ」
だからなんにもしてないの。アズハはおそらくそう言おうとしたのだろうけれど、言い終わる前に刃が振り下ろされた。
咄嗟に手で視界を覆ってしまった私がようやくその先を見たのは、声が響いたときだった。
「だめよ、軍人なんだから得物は冷静に扱わないと」
くすくすと笑い声が混じる。その姿は闇夜に溶けてしまったようにどこにも見えない。エスト准将が苛立って舌打ちをするのが聞こえると、笑い声がさらに愉快そうに高くなった。
「怒りっぽいと損よ。あなた、前にそうやってわたしのことを責めたてて、上の人に叱られたんでしょう」
「黙れ! 姿を現せ、その減らず口を二度と叩けないようにしてやる!」
「だからぁ、そんなこと言って出てくる人はいないでしょう」
それこそ「のこのこ」だわ、と溜息を吐く。その声はどうしてか、とてもはっきり聞こえた。
突然、膝から力が抜けて、がくりと折れる。地面に座り込んでしまった私の耳に、ふう、とぬるい空気がかかった。そして肩には、闇に浮かぶくらい白く細い指が食い込んだ。
「マトリ・アンダーリュー、お仕事の進捗はいかが? もし軍なんかに邪魔されるようなら、わたしがお手伝いをしてあげる」
蕩けるような甘い声。お菓子を掬った匙を食べさせたいペースで口に運んでくるときの、愛に満ちた響き。たとえ相手が咀嚼しきれていなくても、満腹でも、どんどん詰め込もうとする。相手が求めていなくても、自分がそうするのが幸せだから、愛を受け取れと迫る。それが当然だと思っている。
だから彼女は、先生を狙う。先生の担当である私を狙う。
「あなたの最期のお仕事は、人生で一番良いものにしたいものね」
経験がなくても、想像はできる。私は本を読んで生きてきたのだから。
「いりません」
今、何が適切な答えなのかも、見つけられる。
「私はいつだって、そのとき一番良い仕事をしたい。最期の仕事に賭けるなんて、そんなことはしたくない」
「でも、あなたはもうすぐお仕事ができなくなってしまうのよ。可哀想な人生なら、エンディングくらい幸せにしましょうよ」
アズハは子供を宥めるように私の肩を撫で、目を合わせようと片手で頭を抱き寄せる。密着しているためか、エスト准将は手を出せない。
ならば、私がどうにかするしかない。せめて彼女を引き剥がさなければ。
「……私にだって、理想くらいある」
握った手に力を込めていく。気付かれないよう、ゆっくりと持ち上げる。言葉で相手の意識を引きつける。
「私の理想に、あなたはいない!」
叫ぶと同時に一気に拳を引き上げ、後方に肘を打ち込んだ。できる限りの力で、できる限りの速さで。
けれども手応えはない。――なくていい。彼女の体温を感じなくなれば。その瞬間に彼は動ける。
私の真横を風が駆け抜けた。振り返れば、刃が闇に輝いている。空を、そして翻るレースを斬り裂き、それから――
「う……っ」
呻いて地面に倒れ伏したのは、エスト准将だった。
どうして、なんて声も出ない。渇いた喉はすっかり貼り付き、手足に入れかけた力は抜けてしまった。
頭はどうにか働いて、耳から入る音を意味のある言葉として捉えた。
「夢を見たいのね」
憐れみの色をした声はまだ甘ったるい。
「可哀想な生まれだもの、可哀想な運命だもの、やっと出逢った良い事には縋り付きたいでしょう。仕方がないことよね」
ひたすらに黒く先が見えない、そこに浮かんだ人形のような微笑み。細められた瞳は、ずっとその色だっただろうか。
何故か暗闇でも認識できる、赤。
「でもね、シナリオは変えられないの。死ななきゃならない運命なら幸せなまま終わらせてあげたい、そんなわたしの愛をわからない?」
アズハの手に、何かが光った。はっきり見えなくてもどういうものかはわかる。ただ、認めたくないだけだ。
もう私には、抵抗する力が残っていない。
「……そんなものが『愛』か」
低く呻くものに、アズハが視線を落とす。私に向けた憐憫ではなく、冷めた侮蔑を。
「貴様のシナリオとやらは、ただの独り善がりだ」
「注いだ愛を受け取れないのは可哀想よ。不幸が重なって歪んでしまったから素直になれないんでしょう」
邪魔、と吐き捨て、アズハはエスト准将を蹴る。そうして私には、慈しみにそっくりな笑顔をまた向ける。
彼女の足が一歩、こちらへ近づいた。
「マトちゃん、伏せて!」
反射的に倒れ込むようにして伏せた私の頭の上を、強い風が過ぎていった。鈍い音と布の落ちる音、それから砂利を踏む音が重なる。
呼び方と声は間違いない。勢いをつけて体を起こした私の目に入ったのは、人を背負った背中だった。
「イリスさん……ですよね? あの、背中の人は」
「ごめんマトちゃん、疲れてるだろうけど頼まれて」
イリスさんが素早くも丁寧に降ろしたのは、金髪の女性――マリッカさんだった。目を閉じていて、何の反応もない。けれども呼吸はしていた。
「気を失ってるの。少しだけ見てて」
早口で言うやいなや、イリスさんは駆けていく。地面から起き上がろうとしていたアズハの腕を掴み、捻りあげる。痛ぁい、と呻く声がした。
「やっと捕まえた。今度は前よりずっと重い刑罰が科されるからね」
「あなたにわたしを捕まえる権限はないでしょう。だってもう軍人じゃないんだから」
「閣下の許可は得てるんで」
イリスさんはアズハの顔をじっと見つめる。手に込めた力は徐々に強くしているのか、アズハの表情が歪んだ。
「ほんっと、『オリジナル』は不気味さが違うわ」
アズハが苦々しく呟き、踵を一度鳴らした。
直後、辺りが真っ白になった。光だ、とわかるまでに時間がかかる、異常な眩しさ。
「もう捕まるなんて面倒なことはしない。前は参考に拘留されてみたけど、面白くなかったから二度とごめんよ」
声が遠い。どんどん遠ざかる。視界が元に戻る前に、やられた、とイリスさんが悔しそうに叫ぶのが聞こえた。
とても草臥れて、手足にほんの少しの擦り傷。私の負ったものはその程度で、なんということはない。
エスト准将は私よりも多い擦り傷と、それから何度か吐いてしまっていた。喉とお腹が辛そうだけれど、落ち着いてきている。
マリッカさんは怪我こそないけれど、酷い貧血を起こしているらしい。けれども彼女はちゃんと薬を持っていて、イリスさんが飲ませていた。
そのイリスさんはというと、先程からずっと電話をしている。とてもフランクに話しているけれど、相手は軍、しかも大総統閣下だと聞いて驚いた。
そう教えてくれたのは、私たちが避難してきたこの家の主――レナ先生だった。
「センテッド君、ちょっとお腹に何か入れられそう? 空っぽのままだと辛いよ」
「……少しなら」
「わかった。マトリさんもどうぞ。怖いことがあると身体が冷えてしまいますから」
「ありがとうございます」
私たちが急に駆け込んできても、先生は一瞬驚いただけで、あとは嫌な顔ひとつせずに世話を焼いてくれている。一人でいたなら仕事中だったかもしれないのに。
怖いことがあると――先生もそうだったのだろうか。アズハに襲われた後、そしてお母さんを亡くした後。
先生が用意してくれたスープは生姜の良い香りがして、そっと口に含むとやさしい野菜の味がした。透き通った琥珀色で、具は何も入っていないのに。
「美味しい……。すみません、突然押しかけて、スープまで用意していただいて」
「スープは夜食にしようと思って作っていたものなので、むしろありあわせで申し訳ないくらいです。……センテッド君、焦らないで。食べにくいなら手伝おうか」
「手伝いなんかいらん」
気を遣ってくれる先生に、エスト准将はぶっきらぼうな返事をする。お礼も言わない。けれどもそれはいつものことなのか、先生はほっとしたような表情でエスト准将を見ていた。
「先生、マリッカさんは目を覚ましました?」
薬を飲んだマリッカさんは、レナ先生の部屋に運ばれた。先生は度々様子を見に行っている。
「おそらくはまだです。覚ましていても、暫くは目を開けるのも辛いかもしれません。昔から頑張りすぎて体調を崩してしまうことがあって、だから休めるときにしっかり休んでほしかったんですが……」
マリッカさんは細い路地の突き当たりに倒れていたという。どうしてそんなところにいたのかはわからないけれど、アズハが言っていたことを思い出すと、彼女が絡んでいることは想像に難くない。
発見したのはイリスさんだ。軍の中央司令部で用事を済ませた、その帰り道だったようだ。病院へ向かおうとした途中、私たちを見つけた。偶然が重ならなければみんな危なかったと、電話で話しているのが聞こえた。
つまり事の経緯は、レナ先生の耳にも全て入っている。
「どうしてあの人は、僕の周りまで巻き込むんでしょう。以前も、今回も。僕と関わっているばかりに、マトリさんもマリッカちゃんも、センテッド君も……」
「先生、それは」
あなたのせいじゃない。そういう前に、硬く高い音が響いた。エスト准将の持っていたスプーンが食器の中に落ちた、いや、落としたのだ。
「それが辛いなら、作家を辞めろ。グリンの為に再開したのならもう十分だろう、あいつはとっくに元気だ。辞めればあの女は貴様への興味を無くしてくれるだろう。貴様を苛む悪夢を売り物にする奴や買って喜ぶ奴らと縁を切れば、寿命も伸びる。全て丸く収まるんだ」
疲弊の滲んだ、いつもにまして低い声だった。先程まで戦っていたのだから当然だ。この状態を労うのが、きっと人間として当たり前のことなのだろう。
けれども私は、そんな寛容さは持てなかった。もしかしたら人間じゃないのかもしれない。体力はすっかり尽きたはずなのに、エスト准将の胸倉に掴みかかったのだから。
「……何のつもりだ」
「撤回して! 先生に作家を辞めろって言ったこと、撤回しなさいよ!」
周囲への配慮も何も考えずに叫ぶ。イリスさんがまだ電話をしていることも、マリッカさんが臥せっていることも、先生が傍にいることも、一切頭にはなかった。
「撤回する必要はない。ここにある事実を見ろ」
「ずっと見てきたから言ってんの! 何よ、何でもかんでも先生が作家であることが原因みたいに! 先生が危険な目に遭うのはアズハのせいでしょう。丸く収めるっていうなら、そっちをどうにかすればいい!」
それだけじゃない。この人はあろうことか、自分のきょうだいをも侮辱した。――もしかしたら、私はこれが一番悔しかったかもしれない。
「悪夢を売り物に? そんなのは私たち編集者だって、言われなくても考えてしまうことなの! それでも先生に書いてほしい、たくさんの人に届いてほしいって思うのは残酷なんじゃないかって、何度も自問自答した! きっとマリッカさんだって思ったはず。だって彼女は、私よりもずっとずっと長く先生を見てきたんだから!」
編集者は、その作家の新作を読む最初の読者だ。でもマリッカさんはそれだけではない。彼女は先生がデビューする前から、その作品を誰かに届く前に見てきた。
作品がどうやって生まれているのかを、先生が過去に簡単には癒えないような傷を負っていることを知りながら。
「それでも先生と本をつくりたくて、それがマリッカさんの夢で、希望で。私だってそうだけど、私よりも強く思ってて、仕事に情熱を持って取り組んでいた。あなたは彼女の家族でしょう、双子なんでしょう?! どうして彼女の気持ちを踏みにじるような物言いができるの? どうして先生に書くのを辞めさせろなんて言うの?」
「貴様にはわからんだろうが、我々は軍家の人間だ。優先すべきはそんな感傷ではない」
「感傷?! バカじゃない?! 編集者だって感傷で働いてるわけじゃない。そりゃあ軍人みたいに直接人を救ってるようには見えないかもしれない。でもね、マリッカさんたち文芸編集者は、作家と読者が日々を生きていくために働いてんのよ! 作品を通じて人の人生に真剣に関わる仕事なの、感傷でできることじゃない。文芸編集者を舐めんじゃないわよ!」
この人は知らない。私たちの日々を。事件に巻き込まれていなくたって、毎日が苦渋の決断の繰り返しだということを。
そうしていく中で灯る希望――作家や読者が「言葉」で生きていけることを、どんなに救いに思い、日々の糧にしているかを。それは実は、仕事量から見れば僅かなものだ。でもかけがえのない輝きだ。
働いて対価を得る。それは当然の権利だけれど、必ずしも保証されるわけではない。物語に携わる私たちは、「当たり前」は突然終わってしまうことを作品を通じて目の当たりにする。もちろん現実の世界でも、それは同じこと。
変わってしまった「当たり前」に戸惑う人々の心をほんの少しでも休ませ、あるいは世界を広げ次へと向かうきっかけとなれば、私たちが働いている意味はある。
作家がそう考えているなら、私たちはそれを届ける。人の命を削ったものを消費して儲けようなんて、それは私やマリッカさんの思う仕事ではない。
「私に言うなら、何度でも言い返してやる。でもマリッカさんに、希望を捨てろなんて意味のことは言わないで。先生にも。もう二度とそんな酷いことは言わないで」
興奮しすぎたのか、体は熱いし、涙もとめどなく溢れてくる。エスト准将の顔も、近いのに滲んで見えない。
掴みかかっていた手を緩めると、足がよろけた。けれども倒れなかったのは、先生が咄嗟に支えてくれたからだ。そうして優しく、ソファに座らせてくれた。
「マトリさん、お疲れ様です」
「……ごめんなさい、先生。お見苦しいところを……」
差し出されたハンカチはいい匂いがした。心が鎮まるような香りは、いつか嗅いだことがある。
「センテッド君、びっくりしてるね」
先生が、何故か笑いながら言う。視線の先のエスト准将は、バツが悪そうな顔をして座り直していた。
「打ち合わせでもこんなに叫ぶのか」
「ううん、僕だってこんなマトリさんは初めて見たよ。情熱的な良い担当さんでしょう」
先生の言葉に、また私の頬が熱くなる。そのあいだに、ハンカチの香りの正体に行き着いた。
「その情熱に応えて悪夢を見るのか、ニール」
「君はなかなか作家としての僕を認めてくれないね。もう十五年も書いてるんだよ。実際に見てる悪夢を書くだけで、こんなに長く専業としてやっていけると思う?」
「読んだことがないからわからない。ホラーしか書いていないんだろう、どれも似たようなものじゃないのか」
「違いますー……。先生の書く小説はそんな単純じゃないですー……」
本当に読んだことがないらしい。私がぼそぼそと抗議しても、エスト准将はピンときていない様子だ。レナ先生は苦笑いして仕切り直した。
「悪夢は随分見なくなったし、パターンは決まってしまっているから、実際はあまりネタにできない。それにマトリさんやマリッカちゃんは、僕が魘されないように気を遣ってくれてますよね」
こちらを見た先生に、私は鼻をすすりながら頷いた。ハンカチの香りは、以前に私がプレゼントしたアロマキャンドルと同じだ。
「僕の寿命を縮めようとなんて、誰もしていないよ。みんな僕と一緒に、誰かが毎日を本を読むのを楽しみに生きられたらいいなっていう願いを叶えようとしてくれている。一番辛い時期を見ていたセンテッド君が心配してくれるのはわかるし嬉しいけど、僕はもう大丈夫」
エスト准将は納得していないような顔をしている。それとも単なる地顔だろうか。仏頂面ばかり見ているので、実際はどんな気持ちなのかわからない。黙っていると、不意にレナ先生が廊下の方へ振り返った。
「マリッカちゃん、具合は良くなったの?」
先に反応したのはエスト准将だった。ハッとしてリビングの出入口を見て、それからようやくマリッカさんがこちらに顔を覗かせた。
「どうしてマリッカさんが来たのわかったんですか、先生」
「足音がしたので」
先生はなんでもないことのように言い、マリッカさんの方へ歩いていった。私には黙っていても聞こえなかったので、先生はかなり耳がいいのかもしれない。
「こっちにおいで。温かいスープがあるけど、食べる?」
「……いただくわ」
「では、お手をどうぞ」
先生が差し出した手に、マリッカさんはおずおずと自分の手を重ねた。ゆっくりとマリッカさんをエスコートしてくる先生はいつも通りの微笑みで、私に向けてくれるものと変わらないように見えてしまう。
鈍感男、とエスト准将は言っていた。この人にそんなことが言えるのかは甚だ疑問だけれど、先生が誰にでも優しすぎるのは確かだ。天然人たらしと言った方がしっくりくる。
私の隣に座らされたマリッカさんは深い溜息を吐く。そして何故か私を睨んだ。
「……あ、もしかして私がうるさくて起こしてしまいましたか」
「他に何があるっていうんです」
「すみません、お休みのところを邪魔してしまって……」
マリッカさんはただ休んでいたわけではなく、具合が良くないのに。できるだけ深く頭を下げて謝るけれど、許してもらえるとは思えない。
「でも、ありがとうございました」
思えなかったから、そのとても小さな声を拾った自分の耳が信じられなかった。
顔を上げ、彼女を見る。既に私からは目を逸らし、背筋はしゃんと伸びていた。
先生が運んできたスープをマリッカさんが行儀良く食べているところへ、イリスさんが戻ってくる。長い電話は、どうやら一箇所だけにかけていたわけではなかったようだ。
「ニール、うちの夫が迎えに来てくれるから、それまでもうちょっとだけ世話になるよ」
「わかりました。ウルフさん、今日はお家にいるんですね」
「うん。というわけだから、テッドとマリ、マトちゃんも一緒に乗っていってね」
にんまりしたイリスさんに、頷いてお礼を言う。マリッカさんも一度スプーンを置き、丁寧に頭を下げた。
「閣下とも話していただろう、イリス。何と仰っていた」
ただ一人、エスト准将だけはそう尋ねた。言葉の中の違和感と、本来あるべきものがないことへの違和感が、再び私の熱を上げる。
「准将、あなたもしかしてお礼というものを知らないんですか。挨拶は生き物のコミュニケーションの基本ですよ、なんでしないんです? それにイリスさんのことを呼びすてにするなんてどういうことですか」
返事の代わりに鬱陶しそうに眉間に皺を寄せ、舌打ちをする。もう一度立ち上がりかけた私を、イリスさんの豪快な笑い声が制した。
「いいのいいの、テッドは昔からわたしのことは呼びすてだから。マリもね」
「私は常識的に修正しました。今はイリスさんとお呼びしているでしょう。態度と身長ばかり大きくなったセンテッドと一緒にしないでください」
双子の間で火花が散る。やはり仲はあまり良くないようだ。私からは、ほぼエスト准将が悪いようにみえる。
無言のきょうだい喧嘩を終わらせたのは、イリスさんの次の一言だった。
「ドミノさんが心配してるから、二人とも帰ったらちゃんと顔を見せてただいまって言ってあげてね」
今度はエスト准将も素直に頷いた。戸惑う私に、マリッカさんがそっと「父よ」と教えてくれる。
それからほんの少し、イリスさんが現在の状況を説明してくれた。軍はアズハの行方を追うために町を捜索しているが、優先しているのは私たちが彼女に遭遇した付近の住民や張り込んでいた軍人の救助及び保護だという。
妙に静かだったあのとき、そこを通るはずだった人々は意識を失っていたのだ。にわかには信じ難いが、二度も同じ状況を経験すれば受け入れざるをえない。
「もちろんアズハの仕業だよ。あってほしくないけど、もしまた遭遇したら、できるだけあの子の目は見ないで」
どうしてかは言わなかったけれど、エスト准将は「やはりか」と零していた。
「被害規模が毎度大きいんだよね。早く捕まえたいけど、あの身体能力も厄介。マトちゃん、怖かったでしょう」
「はい……さすがに色々覚悟しちゃいました。でも、エスト准将が守ってくれたので擦り傷だけで済みましたよ」
アズハは私を殺すつもりだ。今回のことではっきりした。エスト准将がいなければ、私がここで温かいスープをいただくことはなかっただろう。
「腹が立つところは大いにありますけれど、やっぱり軍人ですよね。助けてくれて、本当にありがとうございます」
お礼を言っても、エスト准将は返事をしない。私に一瞥もくれない。
「イリスさんもありがとうございます。ピンチに駆けつけるなんて、ヒーローそのものですよね」
「どういたしまして」
返事とともにウィンクまでくれるイリスさんを、少しは見習ったらどうだろう。エスト准将はウィンクをくれなくてもいいけれど。
「マトちゃんには改めて軍から話を聞かせてもらうかもしれない。でも今回はテッドが一緒にいたから、前ほどは大変じゃないはず」
「大丈夫ですよ。あの人を捕まえるためなら協力します」
捕まえるためなら、に少し力を入れた。エスト准将は気付いているだろうか。
「それからマリも。体調と相談しながらにはなるけど」
「平気よ。どうせ仕事させてもらえなくて暇だし」
マリッカさんは投げやりに言う。やはり仕事は休むように言われたのだ。体調が良くないのは心配だけれど、彼女は動いていた方が落ち着くタイプだろう。この状況はもどかしいのではないか。
「マリッカちゃん、せめて睡眠はとった方がいいよ。僕が言うのもなんだけど」
先生も心配そうだ。マリッカさんは先生をちらりと見て、わかってます、と呟いた。
「今日はもう疲れてるでしょう。事情聴取の他は軍に任せて。ね、頑張ろう、テッド」
「こちらも一応負傷してるんだが」
イリスさんがさりげなくエスト准将に圧をかける。私に向かって笑いかけてくれたので、先程の私の叫びを援護してくれたのかもしれない。恥ずかしいやら嬉しいやらで、つい表情が弛んだ。
まもなくして迎えが来てくれ、私たちは先生の家をお暇することになった。こんなときでも先生は「簡単なものですが」とお土産を用意してくれていた。丁寧にラッピングされているのは焼きたてのスコーンだ。
私は明日、仕事のためにここに来ることになっている。軍人を伴うことになるが、無事に仕事ができればいい。
――最期のお仕事は、人生で一番良いものにしたいものね。
これで終わりになどするものか。頭をよぎるアズハの声を振り払うように、真っ直ぐにレナ先生を見る。
「先生、また明日。新しいお話、楽しみにしてます」
先生はしっかりと目を合わせてくれた。金色の瞳を細め、力強く頷く。
「はい、また明日」
このやりとりを、この先何回でも。最後なんて、先生にも私にもまだまだ来なくていい。アズハになんか終わらせない。
翌日は忙しかった。会社にやってきた軍人の聴取を受け、レナ先生との約束の時間にそのまま一緒に出かけた。担当してくれたのは若い女性の軍人で、聞けば年齢は十六歳だという。
彼女と楽しくお喋りをしながらの道中だったけれど、やはりそこは非常事態で、周囲に気を配りつつだ。それでもエスト准将と歩くよりは緊張せずに済む。
リラックスして門をくぐり、庭を眺めながら玄関へ。その途中で軍人が立ち止まり、私の袖を引いた。
「アンダーリューさん、あれ」
「え?」
示された方向には、レナ先生とエスト准将が立てたという蔓植物の支柱がある。その陰からこちらを覗いている人物に、私は瞠目した。
「……マリッカさん、どうしたんですか」
体調は大丈夫なのだろうか。思わず駆け寄ると、マリッカさんはそっとこちらに出てきてくれた。
「昨日、先生に言っていたでしょう。また明日って」
「あ、もしかして気に障ってしまいましたか」
「違います」
マリッカさんが元気であれば、おそらくは私ではなく彼女が、先生と仕事をしていた。それなのに気遣いが足りなかったかと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。
きっぱりとした否定の後、深呼吸してから。マリッカさんは私の目を見て言った。
「時間のあるときにあなたとお話がしたいと思ったのですが、個人的な連絡先を知らなかったもので。今日、ここに来ればとりあえずは、あなたに会えるでしょう」
「私に?」
「ええ。……あなたに会いたかったの、マトリ」
初めて聞いた。彼女の凛とした声に呼ばれる、私の名前。距離をおくような「アンダーリューさん」ではなく、ぐっと近づいた「マトリ」。
頬が紅潮していくのがわかる。自然に口角は上がり、胸のあたりがくすぐったくて温かい。
「……だらしない顔」
「え、あ、ごめんなさい。マリッカさんから会いたかったなんて言ってくれるのが嬉しくて」
「私にだけ呼びすてさせるつもり?」
「私も呼んでいいの? じゃあ、ええと、……マリッカ」
そう呼ぶのにまだ気恥ずかしさはあるけれど、なんて愛おしい名前だろう。少し顔を赤くしたマリッカが、とにかく、と仕切り直す。
「連絡先を教えなさい」
「待ってて、今メモを」
慌てて筆記用具を取り出そうとしていると、傍らで軍人が門の方を振り返った。つられて視線を向けると、敷地内に入ってくる人がいる。
女性だ。赤みがかった髪はふわふわとウェーブがかかり、目はぱっちりと大きい。端的にいえば美女。
一切の躊躇なくこちらへ歩いてきて、にっこりしながら片手を振った。
「久しぶりだね、元気?」
屈託のない笑顔に対して、マリッカは強ばった表情で頷いた。
「こちらの方は?」
戸惑う私を見る女性はやはり美人で、思わず唾を飲み込んだ。そのあいだにマリッカが口を開く。
「サフラン社の編集者」
「そうなの? ちょうどサフラン社に用があったの。あたしって運が良いなあ」
そう言って彼女は玄関の方へ行ってしまう。マリッカとは知り合いのようなので、このまま先生のところに行かせてしまっても問題はなさそうだけれど。
「あの人、どなた?」
こっそり問うと、マリッカは目頭を押さえて溜息を吐いた。
「……天敵よ、私の」