緑の香りが濃い広い庭のある、独りで住むには大きな家。そのリビングにいるのは、私を含めて五人。
 正面にはレナ・タイラス先生。心を抉るような展開と灯火のような希望の物語が人気の、覆面ホラー作家だ。この家の主でもある。
 レナ先生の隣に座っているのが、グリンテール・インフェリア君。九歳になる男の子で、先生の助手兼ボディガード。
 私の隣にいるのはマリッカ・エスト。老舗の大手出版社アメジストスター出版に勤める、文芸編集者だ。つまり私の同業者。
 私はマトリ・アンダーリュー。サフラン社という出版社の文芸編集者で、マリッカと私はレナ先生の担当をしている。
 そして私たちを見渡せる位置にいる女性。赤みがかった茶色の髪を指に絡めて耳にかけると、目鼻立ちのはっきりした美しい顔がよく見える。
 玄関で彼女を出迎えたグリン君はとても驚いていた。走って先生を呼びに行き、連れてこられた先生もまた金色の目を満月のようにしていた。
「エイマルちゃん、いつ帰ってきたの?」
 私はそのとき彼女の名前と、先生が彼女と親しいことを知ったのだった。
 お茶とお菓子を供され、みんなでテーブルを囲み、先生は改めて謎の美女を私に紹介してくれた。彼女と初対面なのは私だけなのだ。
「こちら、エイマル・ダスクタイトさん。僕とは長い付き合いの、……親友です」
 初対面だけれど、その名前は知っている。フルネームを聞いて確信した。
「あの、エイマルさんって『冒険図鑑』シリーズのエイマルさんですよね」
「そうだよ。もしかして読んでくれたの?」
「うわあ、嬉しい! 読みましたよ、何度も読みました!」
 アメジストスター出版から出ている『エイマル隊長の冒険図鑑』は、身近な土地の謎から世界の秘境までありとあらゆる冒険と探究を本に纏めたものだ。自然や土地、民俗の研究書であり、かつ読み応えのあるエッセイでもあるこのシリーズは、現在五巻までが絶賛発売中である。
 かくいう私も大ファンなのだけれど、どこにでも足を運び逞しく活動をするエイマル隊長がこんなに綺麗な人だとは知らなかった。
「まさかレナ先生のご友人だったなんて……世間は狭いですね」
「あたしもこんなに可愛い読者に会えて嬉しい。しかもあのマトリさんでしょう」
 感動に打ち震える私に、エイマルさんはにっこりして言う。彼女はこちらのことを知っていたのか。
「あの、とは?」
「ニール君がお手紙をくれるから、あなたのことはちょっとだけ知ってるの。あちこちまわってるからどうしても読むのは遅れちゃうけど、あなたの名前が出るようになってから、なんか文面が明るくなったなあって思ってた」
 先生は私のことをなんてエイマルさんに報告していたのだろう。評価を高めに書いているのではないか。嬉しくて、恥ずかしくて、少し怖い。
 もうひとつ、隣に座るマリッカの視線も怖い。きっと先生に想いを寄せているであろう彼女が、私と先生の関係について誤解をしないといいけれど。
「積もる話はあるけれど……。マトリさん、先に打ち合わせをしませんか。お忙しいでしょう」
 ついエイマルさんに気を取られてしまったが、私はまだ仕事中だった。先生と仕事の話をしなければならない。
「今日は直帰の許可をいただいているので、そんなに急いではいませんよ」
「仕事は先に済ませましょう。外で軍の方が待っているようですし、遅くなると危ないので」
 危ない目に遭ってこの家に駆け込んだのは、つい昨日のことだ。先生が心配するのも当然だろう。そして私を守ってくれている軍の人を待たせてもいけない。
「私たちが庭に出ていた方がいいかしら」
「マリッカちゃんたちはここで休んでいて。マトリさん、すみませんが僕の部屋に来ていただけますか」
「……先生のお部屋ですか」
 この家は広い。編集者とはいえ他人である私が歩き回るわけにはいかず、これまではリビングで話をさせていただくだけだった。
 先生の部屋はもちろん、未知の領域だ。そしてそこで作品が生まれる、聖域でもある。
「マトリ、あまり余計なものを見ないように」
 マリッカにすかさず釘を刺され、苦笑いしつつ先生の後についていく。階段を上り、二階の突き当たりの部屋へ。扉が開くと、良い匂いがした。
 リビングは焼き菓子の甘い香りで満たされているけれど、先生の部屋は私が以前贈ったアロマキャンドルと同じ、気持ちを落ち着かせる花の香りがする。私が鼻をひくつかせていると、先生はくすくすと笑った。
「マトリさんからいただいたアロマキャンドルがとても良かったので、グリンに頼んで買ってきてもらったんです。よく眠れる気がして」
「そうだったんですか。それは良かったです」
 私が贈ったものはすでにないけれど、先生が健やかに過ごすための一助になっていたようだ。
 先生は過去に辛い経験をし、今でも悪夢を見るらしい。頻度は減っているとはいえ、それを元に怖い話をいくつも書いていたくらいなので、余程恐ろしいものなのだろう。夢も見ないほど深く眠れるのなら、先生の心身にどんなにいいことか。
 足を踏み入れた部屋は、窓から光がたっぷりと入って明るい。一方で端に寄せてあるカーテンは暗い色で厚く、閉めれば一切の光を通しそうにない。
 机は広く、電気スタンドや小物、普段使っているであろう道具がレナ先生らしく几帳面に並んでいる。すぐ側にある本棚には本やバインダーがきちんと分類されて並び、しかし背表紙は擦れや毛羽が目立つ。
 これがレナ先生の仕事場。広くはないけれど、無限の世界が生まれる場所だ。
「椅子にどうぞ」
 勧められるまま座った椅子も、座り心地がいい。背もたれもクッションも完璧な具合だ。どこの家具ですか、なんて訊くまでもないだろう。
「それでは打ち合わせを」
「待ってください、先生。どうして私が椅子を使わせていただいて、先生がベッドに座るんですか」
 良い椅子にうっとりしていたら、先生を見下ろすかたちになってしまっていた。慌てて立ち上がろうとした私を、先生は「いいんですよ」と制する。
「その椅子、気に入ってくれたらいいなと思ったんです。もう僕の親については、マトリさんもご存知なんでしょう」
「……はい。グリン君とイリスさんから聞きました」
「フォース社の家具、年々良いのが出てるんです。良かったらご検討を」
 営業マンもかなわない上品な笑顔で、レナ先生は言う。私の気まずさなど気にしていないというふうに。
 先生の親の片方は家具を扱う大会社、フォース社の副社長だ。さらにもう片方は著名な画家である。けれども先生は、しばらく親と会っていない。私には理解が難しい、でも先生たち家族にとってはきっと大事な理由で、距離をおいている。
 しかし今は仕事に集中しなければならない。先生の用意したプロットについて話をし、方向性を詰める。私はここで少しだけ、その先の仕事をどのようにしていくのかを考えておく。例えば校正、装幀、キャッチコピーなどが後々必要になるが、どうしたら作品の魅力を読者により伝えることができるだろうか。もちろん今後物語を完成させていくうえで状況が変われば、柔軟に対応していく。進行の具合から先生の希望を汲みつつ私がプランをつくり、必要に応じて各作業担当者に仕事をお願いすることになる。
 今回の仕事が形になるのはまだ先だ。スケジュールとしては随分余裕がある。
「今回も面白くなりそうですね」
「面白くしたいです。とびきり怖くて、読み応えのあるものを書きます」
 楽しみにしていてくださいね、と微笑む先生に疲れは見えない。それどころか自信に満ちているようにさえ感じる。
 無理をさせてはいけないけれど、作家の意向は大切にしたい。今、先生は意欲を持って仕事をしているのだ。
「それはもう、わくわくして待ってます。でもアメジストスター出版でのお仕事を優先していただいていいですからね」
「ありがとうございます」
 本来なら他社での仕事に取り組んでいる期間だ。担当しているマリッカがすっかり元気になったら、またそちらを進めていくだろう。
 だから今日見せてもらったプロットがまとまり、物語として完成するのはずっと後だ。そのときは私が最初の読者となる。アメジストスター出版での仕事では、マリッカがそうだ。それは彼女が叶えた長年の夢。――そう、私たちの夢だった。
「……あの、先生。以前に仰ってましたよね。物語を書くのは、ある大切な女性のためだって」
 ここに来て、あの人に会ってからずっと気になっていた。先生が彼女を表現するのに、少し考えたことにも気づいた。
「それは、エイマルさんのことだったんですか」
 彼女こそが、先生が物語を書き始めたきっかけであり、今も書き続ける理由のひとつなのではないか。
 はたしてレナ先生は、ほんのり頬を染めて頷いた。
「そう。エイマルちゃんは僕の最初の読者で、ファン一号なんです。彼女の心に留まりたくて、僕は物語を書きました」
 なるほど、マリッカの「天敵」であるわけだ。

 先生とともにリビングへ戻ると、腕組みをしてマリッカを見つめるエイマルさん、渋い顔でエイマルさんに視線を返すマリッカ、困り果てた様子のグリン君が待っていた。テーブルの上のお菓子はもう随分減っている。
「先生、マトリさん。なんかエイマルちゃんとマリちゃんがバチバチしてて怖かった」
 グリン君は先生に駆け寄ってきて、そのまま腰に抱きついた。余程のことがあったのか、目が潤んでいる。
「バチバチなんてしてないよ」
「意見の相違があっただけです」
 人聞きの悪い、と呟く二つの声が重なった。同時にマリッカがエイマルさんを睨み、エイマルさんはやれやれと息を吐く。
「何があったの? エイマルちゃん、マリッカちゃんに何か言った?」
「ニール君、いつも先にあたしを疑うのね」
「疑うとかじゃないよ。エイマルちゃんから話しかけることのほうが圧倒的に多いでしょう」
 先生の呆れ顔なんて珍しい。そんな表情をするほどに、繰り広げられるやり取りはよくあるものなのだろう。
 エイマルさんは降参を示すように両手を顔の高さに挙げる。しかし悪びれた様子は全くない。天気の話でもする気軽さで言った。
「マリッカちゃんに、お仕事はどう、って訊いただけ。そうしたら少しの間お休みしてるっていうじゃない。そうするとニール君のお仕事も進められないんだって?」
「まあ……まだ他の人とのやり取りに不安があるから」
「それじゃ駄目でしょ。いいかげんにニール君も関わる人を増やさないと、そのうち生活できなくなっちゃう」
 口調は何気ないのに、ずばりと核心を突く。マリッカがエイマルさんを睨んだ気持ちがわかってしまった。それは私が、そしておそらくはマリッカも、考えていかなくてはならない課題だった。
 レナ先生との仕事は特別な措置のもとで進められる。打ち合わせから原稿の完成まで、私たちは先生の家に赴いてやり取りをする。他の作家が電話や郵送、場合によっては電子メールを主に利用する中で、レナ先生だけはより時間を割く訪問というかたちをとっている。
 さらに担当者は、万が一都合がつかない場合でも代わりがいない。マリッカが体調を整えるために仕事を休んでいる間、アメジストスター出版はレナ先生に関する仕事を停める。私の勤めるサフラン社も同様で、もちろん他の作家とは大きく異なる特殊な仕様だ。
 レナ先生は外に出ない。一般道に面する門より外に、彼が足を運ぶことはない。電話や外から来るお客さんの応対は、まずグリン君に任されている。出入りの多い私たちは意識することがあまりないけれど、実際ここは隔絶された場所だった。
「先生の事情はあなたもご存知でしょう。先程から何度もそう申し上げています」
 マリッカの発言で、エイマルさんは心底不思議だというような表情をする。
「その事情を、どうしてマリッカちゃんが主張するの? 周りがそんなふうに固めてしまうのは本人のためにならないよ」
「周囲の配慮は必要でしょう」
「更新されないままの古い認識は配慮っていうのかな。あたしは違うと思うけれど」
 私がそうであるように、マリッカにもその言葉は刺さったのだろう。苦い顔をして黙ってしまったその隙に、エイマルさんは再び先生に向き直る。
「こんな事態を引き起こすような怠慢、そろそろやめるべきだと思わない?」
 先生はエイマルさんから目を逸らさない。相手の言葉を否定も肯定もしない。何も言わずに彼女と見つめ合うだけだ。困っているようでもなく、怒っているわけでもない。表情から感情が読み取れない。
 空気に耐えきれなくなったのか、グリン君が先生にしがみついたまま「あのさあ」と切り出した。
「エイマルちゃんだって、言いたいこと言ってるだけじゃんか。そんな話するために来たんじゃないだろ」
 私たちが打ち合わせをしている間、グリン君はこの空気の中にずっといたのだ。先生の助手とはいえ、子供には酷な状況だろう。
「あの、一旦落ち着きましょう。先生も立ったままですし、ほら、お茶も冷めてますよね。グリン君、淹れ方教えてくれるかな」
 必死で言葉を絞り出すと、グリン君は弾かれたように先生から離れて頷いた。するとマリッカが立ち上がり、私よりも早く台所に向かう。
「私がやります。マトリは座って」
「俺、手伝う! マトリさんと先生はお菓子食べて待ってて!」
 やっと空気が循環しだした。私は先生に誘導され、ソファに腰掛ける。途端に溜息が出てしまい、慌てて居住まいを正した。
 だが先生とエイマルさんは、こちらを気にしない様子で向かい合っている。あの少し怖いやり取りをまだ続けるのだろうか。はらはらする私の前で、先に口を開いたのは。
「そう、こんな話をしに来たんじゃないの。今日は報告を二点ほど持ってきたんだ」
 何事も無かったかのような笑顔のエイマルさんだった。先生も特に気にしていない調子で、手で私にお菓子を勧めつつ、エイマルさんに尋ねる。
「二点? 一つは帰ってきたこと?」
「うん。今回は三ヶ月くらい、こっちで次の活動資金を稼ぐ。二つ目はその傍らで執筆活動をすること」
「『冒険図鑑』の新刊作業?」
「じゃなくて、別のエッセイ。サフラン社から出させてもらうつもりなんだ。だからここにマトリさんがいて良かった。あとで連れて行って欲しいの」
 そんな話があったなんて。にこにこして私を見るエイマルさんに、私は戸惑いつつ了承を返す。
「わかりました。では一緒に弊社に行きましょうか」
「マトリさん、直帰じゃないんですか? いくら軍の人がいても、遅くなると危ないですよ」
 心配してくれる先生に、ちょっとなら大丈夫です、と返事をする。いずれにせよそろそろ動いた方が良さそうだ。軍人の子も外で待ちくたびれているかもしれない。
 先生は手際よく、私とエイマルさんにお土産を用意してくれる。お茶を淹れかけていたマリッカは少し不満げに、グリン君は名残惜しそうに、私とエイマルさんを見送ってくれた。

 軍人は私たちから少し離れ、辺りの様子を窺っていてくれる。エイマルさんは私の隣を歩きながらそれを気にしていた。
「もしかしてマトリさん、変なことに巻き込まれてる?」
「ええ、まあ……。でも大丈夫ですよ、軍の方がちゃんと守ってくれていますから」
「そう。この道中はあたしにも頼っていいからね。昔、誘拐犯に蹴りを入れたこともあるんだから」
「え、誘拐……?」
 反応に困っている私に、エイマルさんはのんびりと「あれも冒険のうちかなー」などと言う。彼女の著書は突飛なエピソードも魅力のひとつだったけれど、まず本人が相当変わった人だということを知ってしまった。
「あのときもニール君を困らせちゃったな。思い立ったらすぐに行動に出てしまうあたしを、彼はいつだって立ち止まらせようと頑張ってくれた」
「……先生とはとても親しいんですね。付き合い、長いんですもんね」
「お互い、初めてできた同年代の友達同士なんだ。あたしは友達を作るってことが苦手だったから」
 意外だった。著書の中では、エイマルさんは現地のスタッフなどとすぐに良い関係を築いているようだったが、実際は違うのだろうか。
 すぐに疑問が顔に出る私の癖は、早速彼女にも看破された。
「子供の頃のあたしは、変に小賢しくて。周りが大人ばかりだったのもあるかもしれないけれど、自分は他の子よりも頭がいいし運動もできるんだって、同年代の子なんか相手にならないって思い込んでたの。そんな態度じゃ、味方なんかできないでしょう」
 たしかに、と頷きながら、私は自分自身と他にいくつかの顔を思い浮かべていた。エスト准将、今日は仕事に集中できただろうか。
「一方、ニール君は人見知りで、乱暴な子の標的になりやすかった。でもそうじゃない子には好かれやすいの。相手に常に敬意を持って接するから」
「それ、わかります。先生のそういうところに私も絆されちゃったので」
「そうそう、見習わなきゃなって思ったんだ。そうしたら変われた。人間って変われるの」
 胸に手をあて、空を見上げるエイマルさんの瞳は、強く輝いているように感じた。著書から想像していた通りの、希望に満ちた強い人がいる。
 だからあんなことを言ったのか――エイマルさんは、きっと先生にも、そしてその周りにも、良い方へ変わることを望んでいる。
 それはもう、けっして性急なことではなく、少しずつでも動いていったほうがいいのだろう。必要なのはきっかけだ。
「エイマルさん。私、会社の先輩に言われたんです。そろそろ先生との仕事を、訪問しなくてもできるようにしていかないとって」
「編集者は忙しいものね。その方ができることは増えるでしょう」
「そうなんです、わかってはいるんです。でもきっかけに迷っていて。マリッカは先生の気持ちを考えているけれど、私は違うんです」
 ただ方法を変えましょうと、先生に話すだけでいい。家に誰かが来てくれるのを喜ぶ先生は、少しは残念がるかもしれないけれど、きっと提案を受け入れてくれる。
 だからこれは、私のわがままだ。
「私、先生の家に行くのを楽しみにしているんです。あそこには先生がいて、グリン君がいて、とても温かい。あの場所が好きなんです」
 あの広い庭のある大きな家は、私の理想。そこに行けば心が満たされる。私が離れ難いのだ。
 エイマルさんはじっとこちらを見ていた。大きな瞳で、私を射貫くかのように。マリッカや先生に向けていたのと同じ眼差しだ。
「みんな、複雑に考えすぎなんじゃないかな」
「え?」
「答えはシンプルだと思う。でもきっと、あたしがそれを言ったところで、まだ誰も納得しない」
 経験則でね、わかるんだ。エイマルさんは顔を上げ、ついでに足下の石を蹴る。跳ねながら転がっていったそれは、少し先で止まった。
「あたしが焦りすぎたね。相手が納得するまで、待てる限りは待たないと。でも現状として、タイムリミットはあるよね。生活に関わるんだから」
「そうですね……」
 動かなければならない。私は先生を守ると誓ったのだ。エイマルさんはいち早くやるべきことを明言し、先生やマリッカ、私に提示してくれた。本来ならば私がやらなければならないことだった。
 悶々として溜息を吐きながらも、歩みを進めればそのうちサフラン社の社屋が見えてくる。立派だね、と感心するエイマルさんよりも一歩前に出て、エントランスへ誘導する。受付にいた社員は私を見て「直帰では?」と首を傾げた。
 エイマルさんから担当者を聞き、繋げてもらう。そこで私の役目は終わりだ。気が抜けたところに、受付社員が呼びかけた。
「マトリちゃん、これ明日の朝に渡す予定だったんだけどね」
 彼女が差し出してきたのは催事のお知らせ。開催にはサフラン社は関わっていないそうだけれど、大きく書かれた見出しは私の興味をひいた。
「前に話しかけてたでしょ。もしかしたら仕事の取っ掛りになるかなって」
 仕事に繋げることは難しいだろう。あのとき、きっぱりと断られた。けれども個人的には役に立つかもしれない。
「へえ、有名なのにこんなにひっそりと個展なんてやるんだ。開催も来週からだし」
 覗き込んだエイマルさんも気になるようだ。日時と場所を確認する。そして朗らかな笑みを私に向けた。
「『先生』の久しぶりのお出かけには、ちょうどいいと思うよ」
 私も同じことを考えていた。ここに行けたら、あらゆる問題を前に進めることができる。

 うちに電話をしてくれたマリッカに、私は思いついた計画を話してみた。怒らせるかもしれないと思ったけれど、最後まで相槌を打ちながら聞いてくれた。
「マトリも先生を外に連れ出したいのね」
「無理にとは言わないけれど。マリッカから見てどうかな、先生は外に出たいと思う?」
 まずはそれが大事だ。先生が拒否するなら、このことは提案もせずに終わらせる。
 マリッカはしばらく無言だった。こちらも大人しく待っている。逡巡の息遣いが、受話器を通して伝わり、重なった。
「……出たいとは思う。でも、きっとまだ怖いと思う」
 私たちが家を離れた後、マリッカは先生の様子を窺っていたという。いつもの穏やかさでグリン君と話したり、マリッカにも声をかけたりしていたけれど、何度も窓の外に目を向けるのは見逃せなかった。
 先生が外に出なくなり、仕事相手が家を訪問するようになったのは、三年前の襲撃事件以降だ。それからずっと、先生は家の敷地内からほとんど出ることがなく過ごしている。
 できるだけ外には出ないように、というのは軍の指示でもあったという。けれども今の生活に至った最もたる理由は、先生自身が家の庭より先に行くことができなかったためだ。――私は知らなかったけれど、マリッカはその経緯を見続けてきたのだった。
「歩いていると、誰かに見られているような気がして落ち着かないんですって。緊張してしまって、具合が悪くなって、動けなくなってしまう。誰かが助けようとして体に触れると、その手を反射的に振り払ってしまう。そんなことが実際にあってから、外に出ることができなくなったの」
 初めて聞いた話だけれど、納得はできた。他でもない私が、迂闊に先生に触れてしまい手を振り払われたことがある。元々急に触られるのが苦手な人なのだ。
 襲撃事件直後は特に罪悪感があっただろう。あのとき怪我を負ったのは付き添っていた当時の担当者、ドネス先輩だった。ただでさえ先生は、目の前で他人が傷つくことを厭う。
「やっぱり、先生のペースが大事だよね。あんまり無理も言えないか」
「ええ、無理は禁物。……でも、私たちが先生を守るのではどうかしら」
 てっきり、マリッカは反対するものだと思っていた。だからとても驚いたのだ――私と同じ考えを、あちらから提示してくることに。
「どうして黙るの」
「なんでもない、ごめん。そうだよね、みんなで一緒に行って、何かあったらすぐに先生を助けられるようにすれば……なんとかならないかな」
 いずれにせよ、私たちだけで話していても仕方がない。先生に提案して、さらに様子を見なければ、実現はできない。
 ただ、マリッカのおかげで光明は見えた。
「話せて良かった。そういえばマリッカも私に話したいことがあるんだっけ?」
「それはまた今度でいい。電話で話すようなことじゃないから」
 そのうちお茶でも飲みに行きましょう、と彼女が言うので、私はすっかり舞い上がってしまった。

「ニールを外に連れ出すつもりなのか」
 案の定、エスト准将は渋い顔をした。休日に出かけたい場合の軍の警護はどうなるのかを尋ねようと思ったのだけれど、複数人であることや同行者の体調等を考慮することなどを伝えるうちに、先生のことに気づかれてしまった。
「軍が先生の行動を制限しているのは知ってますよ」
「制限という程のものではない。以前はアズハが誰と繋がっているかわからなかったから、なるべく外をうろつくなと言っていた。全く外に出なくなったのはあいつの意思だ」
「具合が悪くて外に出られないのを意思とは言いませんよ」
「そうこうしているうちにアズハは自由になり、貴様を含めた多くの被害が出るようになった。このタイミングでわざわざニールを外に出そうとするなんて正気の沙汰じゃない」
「つまり軍の落ち度が大きいということでは」
 私が口を挟む度に、エスト准将の額の青筋が濃くなる。かまうものか。私が確認したいのはそこではない。
「それで、休日の行動にも軍の付き添いは必要だと思われますか? もし付き添うなら、昨日ついてくれた人がいいんですけど。グラン少尉でしたっけ」
「指名までするつもりか。貴様があれを気に入るとは思わなかった。怪奇小説を『陰気妄想本』と呼ぶような奴だぞ」
「それは初耳ですけど、彼女とは面白いエッセイ本の話で盛り上がったので。少なくともあなたよりは一緒にいて楽です」
 なのでよろしくお伝えください、と話を切り上げた。欲しい答えはきっと得られないだろう。
 レナ先生のところに向かうのではなくても、私が社外に用事があるときは軍の人が付き添う。スケジュールをできるだけ明確にしておく必要があるが、イレギュラーは発生してしまう。例えば他の担当作家の原稿が間に合わないかもしれないとか。
 そういうわけで急に呼び出されたエスト准将――他の人でも良かったのだけれど――は、顔を合わせたときには既に機嫌が悪かった。申し訳ないとは思いつつその態度に腹が立ってしまったので、私ももう言葉を呑み込むことをやめた。
 不機嫌な軍人を伴っての訪問に、最終締切当日の作家先生は怯えたうえに腰を抜かしていた。なんとか宥めすかしてできたての原稿を受け取り、会社へと戻る。威圧感で大切な作家さんたちを潰さないよう、今度は別の人に来てもらったほうがよさそうだ。
 何度目かの溜息を吐いたところで、不意に低い声が言った。
「マリッカをどうやって懐柔したんだ」
「はい?」
 訝しむ私に、エスト准将は躊躇いがちに繰り返した。
「だから、マリッカが貴様に親しげにし始めただろう。何故だ」
「どうしてそんなことを? もしかしてマリッカと仲良くしたいんですか」
 目を逸らして押し黙ってしまったのは図星と捉えていいのだろうか。そういえば准将は、マリッカに酷いことを言っていた割に、様子を気にしてはいるようだった。ただ偉そうな物言いをやめるだけで、随分良くなると思うのに。そうすれば双子が「対等」であると主張しているマリッカの意向に沿う。
 けれども私も不思議ではあった。マリッカが私に歩み寄ってくれたのは、何がきっかけだったのか。エスト准将に怒鳴ったことか、それとも他にも理由があったのか。つい先日まで私にあまり関わりたくなさそうだったのに、その心境の変化が測れない。
「……まず、懐柔とか言ってる時点で難しいと思います」
 呆れが零れたけれど、エスト准将は私とは違う。赤の他人ではないのだから、ちゃんと話せばいいのに。いや、家族だから話せないのかもしれない。ともあれ、このきょうだいにはまだ関係を良くできる余地があると思う。
「あの、准将。さっきの休日の警護のことですけど」
 今度こそマリッカを怒らせるかもしれない。そうでなくとも、今目の前でエスト准将が先に怒る可能性が高い。
 私はいつからこんなにお節介になったのだろう。それでも思いつきを口にすることを止められなかった。


 エルニーニャ軍中央司令部施設内の会議室は、大きな順に第三までがあった。先代大総統が引退直前に旧資料室を片付け、現在は第六まで増やしている。しかし六番目の会議室は狭く、外の光も入りにくい構造になっている。
 そのような事情から滅多に使われない部屋ではあるが、この日は満員御礼状態だった。
「アズハ・ヒースが魔眼持ちなのは確かだろうな」
 目頭を揉む大総統補佐大将ルイゼン・リーゼッタの後ろにはホワイトボードが設置され、複数の殺人の容疑がかけられているアズハの情報が書かれている。そこに貼ってある顔写真は、以前の収監時に撮られたものだ。
「前の写真だと、瞳は黒く見えます。特徴を書いた資料にもそうありますし。魔眼って、イリスさんみたいに赤いんですよね?」
 手を挙げて発言するのは、ヨハンナ・グラン少尉。最近東方司令部から異動してきたばかりだが、進んで捜査に加わるなど、この件には意欲的だ。
 名指しされたイリス・インフェリア王宮近衛兵団副団長は頷きながら「たぶんね」と応える。
「わたしが先日見たアズハの眼は赤かった。今まで隠していたのか、それとも発動に条件があるのかな」
 最近アズハが出現した現場では、民間人と軍人が意識を失い倒れているのが多数確認されている。これが魔眼――見た者の感覚や体調に影響を及ぼす眼――の効果だとすれば、かなり強力だ。
「いや、アズハの犯行と思われる他の事件では、今回のような現象は確認されていない。前回捕まえたときの身体検査では見つからなかった。最近力を得たと考える方が自然じゃないか」
「なるほど。……そうなるとわたしとしては余計に嫌な感じなんだけどね」
 イリスが苦虫を噛み潰したような顔をして溜息を吐く。
 彼女がこの件に協力を申し出た理由は二つある。一つは身内が狙われているということ、もう一つは自分の持つ魔眼に関係しているからだ。アズハが魔眼を持つことは対峙して初めてわかったことだが、それ以前からこの力が悪用されている気配はあったのだ。
 魔眼を狙う者たちをこちらから討たんとして駆け抜けた年月は、相手にとっても同じ時間だ。その間に彼らは様々なアプローチを試みている。そのいくつかが恐らくは結実し、現状に至っている。
「早くに僅かな情報から『記憶を保持した命』をつくりだしていた連中だ、何があっても驚きはしない」
 センテッド・エスト准将が吐き捨てる。驚きはしないけど、とイリスは額を押さえた。
「憤りはするのよ。魔眼の再現が、それも強力なものを用意することができるようになったってことは、相手にわたしたちの体の一部だったものが渡っちゃったってこと。これは渦中にいたはずのわたしがもっと気をつけるべきだった。そうしたら……」
 奥歯を噛み締めるその表情は、昔抱えた怒りとはまた異なるものだ。立場が変わり、あるいは新しく得て、イリスにも大切なものが増えた。
「母さんやグリンまで、サンプルになんかさせなかったのに。絶対に赦すもんか」
 既に軍を退いた身だ、直接本拠地に乗り込むことはできない。しかし手の届く範囲のものを守るため、行動することはできる。
 大元を叩くのは、軍にいる仲間たちに任せた。アズハは末端であろうが、大元に繋がる手掛かりだ。彼女の好きにさせたままでは、被害はこの近辺に留まらなくなる。彼女を止めなければ。
「引き続き、アズハを追うのはセンテッドに任せる。ヨハンナはその補佐を。イリスはセンテッドを手伝ってくれ」
 大総統フィネーロ・リッツェが命じる。ヨハンナは即座に、センテッドは僅かに眉を動かしてから敬礼をする。
「僕たちはアズハに力を与えたものを捜し、捕らえる。情報収集に協力してもらおう、ガンクロウ隊長」
 フィネーロは視線を会議室の隅に向ける。壁に体をあずけて立っているのは琥珀色の髪の女性だ。補修を重ねた古い眼鏡の奥でペリドットの瞳が光る。
「情報収集だけでいいのか。狙撃も承るが」
「まだ結構だ」
 申し出を断られて舌打ちをする彼女は、文派に属する人間だ。大文卿が文化財の保護のために特殊部門を設立し、有事の際の荒事を専門とする特殊部隊が結成された。その初代隊長は、かつての仲間以外の者がいる場では慣れた名前を呼ばせない。
 対魔眼関連組織の動きは決まった。だが、彼らの話はそれだけでは終わらない。ヨハンナが再び挙手した。
「次の報告していいですか? マトリ・アンダーリューについて」
 付き合いの長いもの同士の間に流れる空気が、一瞬にして氷の礫となって落ちる。発言の先を促したのはセンテッドだった。
「あれから何がわかった」
「彼女、ブランキルト養育園の出身でした。高校卒業までいたそうです。大学進学をきっかけに施設を出て、以来ずっとブランキルトの園長と文通してると話してました」
 ヨハンナがマトリの警護をしたのはまだ一回だ。それなのにもうそんなことまで聞き出したのか。センテッドの眉間に皺が寄るのをちらりと見て、ヨハンナは挑発的な笑みを浮かべた。
 一方、こちらも眉を寄せた大総統と補佐は、しかし全く別の部分を訝しんでいた。
「グラン少尉、『ずっと』とは具体的にいつまでだ」
 ルイゼンの問いに、ヨハンナは待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「『今までずっと』です。そろそろ引越しを知らせる手紙を出したいと言ってましたから。でもそれっておかしいんですよね?」
「ああ。……ブランキルト養育園は廃されたからな。もうすぐ一年になるか」
「廃された?」
 反応したのはセンテッドだけではなかった。イリスも表情が強ばる。続きを引き取ったフィネーロが淡々と説明した。
「設立発起人であり出資者だった貴族家が違法行為をし、貴族資格を剥奪された。養育園の経理に深く関わっていたために資金源のほとんどを失い、園は以降の運営が困難になった。在籍していた子供たちはあちこちの他の施設に引き取られ、スタッフもすぐに再就職できたが、園長だけは行方が知れない」
「つまり、アンダーリューは消息不明の人間と連絡をとっていると」
「しかも宛先の住所も変わっていない。不思議でしょう」
 ブランキルト養育園だった建物は売りに出され、まだ買い手が見つかっていないはずだ。まさか配達員が売家の看板がある建物に郵便物を届けるはずもない。調査対象はさらに拡大した。
 そして当のマトリにはさらに注意していなければならない。アズハに命を狙われる彼女だが、だからといって潔白とも判断できない。
「彼女をよく見ておけ、センテッド」
「言われなくてもそうします。休日も外出の際は監視すべきでしょう」
「テッド、マトちゃんのプライバシーは守ってよ。苦情が出たらヨハンナかわたしに代わってもらうからね」
 この件も引き続き調査を進めることになった。マトリに関しては護衛よりも、彼女の行動を把握することが重要だ。
 解散後、ルイゼンがイリスを呼び止めた。あまり暴れすぎるなと念を押されるのかと思ったら、そうではないらしい。
「お兄さんの個展あるんだろ。お前は行くのか」
「行きたいけど、隙を見てになるかな。あんまりゆっくりはできなさそう」
 近々、兄がごく小さな規模で個展を開くことになっていた。著名な画家ではあるが、時折近所への近況報告のつもりでギャラリーなどを借りる。
「お前が行けるなら、モルドを頼みたかったんだが……今回は難しいか」
「ゼンが良ければ、エイマルちゃんに頼めるよ。連絡が来てね、わたしは忙しいからグリンだけ連れていってもらうことにしたの」
「帰ってきてるのか。そうだな、エイマルちゃんとグリンなら安心だ」
 先程までしかつめらしい顔をしていたルイゼンが、家族の話をして柔らかく微笑む。こんな平和をいつまでも続けるために、それぞれの仕事をしていくのだ。
 またよろしく、と拳を軽くぶつけ合う。いつだって自分たちは戦友であり、親友だ。


 レナ先生を外に誘うにはどうしたらいいか、私は幾日も悩んだのだ。正直に話すのが一番だろうと決めてからも、大丈夫だろうかと不安だった。
 ところが先生から再び打ち合わせができないかと連絡があり、家を訪ねると、その心配はもうなくなっていた。
「マトリさん、僕、出かけてみようと思うんです」
 先に切り出したのは先生だった。次の週末は空いてますか、と訊ねられて、私は呆然としたまま頷く。元々先生を誘おうと思って空けておいた候補日だ。
「一緒に行きませんか。親が個展をやってるんです」
「え、ええ。でも、どうして私を」
「エイマルちゃんがみんなで行こうって言ってくれたんです。彼女はグリンとモルドを連れていく予定らしくて」
 先を越されたというわけだ。行動力のあるエイマルさんのことだから、いつまでたっても動きのない私に焦れたのかもしれない。
 ニア・インフェリア先生が個展を開く。会場の規模はさほど大きくないという。それならレナ先生を連れ出す口実にでき、あわよくば親子が久方ぶりに顔を合わせることができるのではないか。私がそう考えたとき、エイマルさんもその場にいて同じことを思っていた。
「他の同行者はどなたですか」
「マリッカちゃんが是非って。センテッド君は呆れて怒って『仕事だ』って言ってましたけど」
 先生とともに苦笑したのは、エスト准将のいかにもな態度のせいだけではない。エイマルさんがいとも簡単に先生を動かしてしまったことに、何故か私は感じる必要のないものを覚えてしまったのだ。
 それは何度かマリッカにも感じていたけれど、エイマルさんが相手だとまた格別だ。何しろ彼女は、先生の「大切な女性」なのだ。
「みんながいれば安心だし、親の仕事に向き合う勇気も出る。マトリさんも来てくれるなら心強いです」
 いつもなら嬉しいはずの言葉だけれど、胸を締め付ける「敗北感」の前では微々たるものだった。もしかしたら、私と話し合いなんかするまでもなく、先生はこれまでの仕事のスタイルを変えるかもしれない。
「予定が決まったところで、先日見ていただいたプロットなんですが」
「はい、何か変更が?」
 いずれにしても、私は自分の仕事をしなければならない。こうして訪問できるのはあと僅かだと思うと、お茶とお菓子もより味わい深い……はずが、あまり味はわからなかった。ただ美味しい。
「変更というより、描写を明確にするにあたって相談がしたくて。これはマトリさんでなければ確認ができないので」
 先生は新しく纏め直されたノートを見せてくれた。もしや今までにないほど恐ろしい展開が用意されていて、表現に入念なチェックが必要なのだろうか。場合によっては年齢制限も考慮が必要だとか。
 ところが拝見するうち、私の予想は全くの見当違いであったことがわかった。理解するに伴って、冷たかった胸がだんだん熱くなる。先生の書きたいものがはっきりとわかったとき、口に含んだ紅茶が芳醇な柑橘の風味を持つことに気がついた。
「これは、書いてもいいものですか」
 レナ・タイラス先生は、一世一代の大勝負に出るのだ。その勝負にゴーサインを出し、伴走できるのは、他でもない私。
 答えは決まっていた。これだけは、エイマルさんやマリッカにはできない。申し訳ないけれど、私の仕事だ。
「書きましょう」
 これが完成して世に出たとき、先生は全てを乗り越えられる。本当の最高傑作が生まれる。私はそう確信した。
 そのために私がやるべきことも。

 先生の考えがわかってからというもの、計画は当初考えていた以上に重要度を増した。決意を抱えたまま、私は約束の週末を迎えた。
 自宅を出て最初に見たのは、天気の良さに似つかわしくない仏頂面だったけれど。
「おはようございます、エスト准将」
「遅い。どれだけ待ったと思っている」
「挨拶くらいできるようになった方がいいですよ、大人なんですから」
 結局、本日の護衛はエスト准将となった。一度はグラン少尉をと希望したが、准将がマリッカと仲良くしたそうだったので、これも良い機会にならないかと思い頼み直したのだ。
 そのときは「ふざけたことを」なんて言ったのに、ちゃんとここに来てくれている。しかも私服任務の扱いになったのか、爽やかな白いシャツにグレーのスラックスという初めて見る格好での登場だ。地味だけれど似合っているので、野暮ったく感じない。
「先生に誘われたときは仕事だなんて言ったらしいじゃないですか。でも私服で来てくれたんですね」
「仕事だろう、貴様の面倒を見なければならないんだ」
 そうですね、と軽くあしらい、並んで歩き出す。しかしエスト准将は一切こちらを見ることなく、だんだん早足になっていく。いや、悔しいことに彼は足が大きく股下が長いせいか、一歩に幅があるのだ。
「あの、准将。もう少し私に合わせてくれると嬉しいんですけど」
「貴様が遅いんだろう。それと今日は階級で呼ぶのをやめろ。私服任務の意味がない」
「うわあ、いつものことながら自分勝手。もう少し相手のことを考えてみたらどうです。そんなだと恋人とかできませんよ」
 何とか追いついて彼を睨む。不機嫌が最高潮に達したのか、その顔は無表情だった。
 レナ先生の家は、私の現在の住まいからそう遠くない。それを知ったきっかけは不本意ながらアズハの襲撃だった。あのときはぼろぼろだったから、辿り着くまでにもっと時間がかかったけれど、元気であれば徒歩十五分程度の距離だ。
 まもなくして、門が、庭が、家が見えてくる。庭の草花はしっとりとして、青い匂いが立ちこめていた。だんだん先生と出会った頃の香りに近くなってくる。
 私たちを迎えてくれたのは、いつも通りにグリン君。ドアを開けてくれた彼は海が陽に輝いているような瞳をした。
「マトリさん、今日の服可愛いな! お化粧もいつもとちょっと違う」
「ありがとう。せっかくのお出かけだから張り切っちゃったんだ」
 早速褒めてくれるとは、グリン君はなんてできた子だろう。このまま育てばきっとモテる。
「何が違うのかさっぱりわからんが、時間はかかってたぞ」
 エスト准将はモテないに違いない。このデリカシーのなさはいっそ珍しい。右手に殴る準備をさせていると、グリン君がやれやれと息を吐いた。
「センちゃん、素直に言えばいいのに。『どんな君でも可愛いよ』ってさ」
「大人を揶揄うな、クソガキ!」
 准将が伸ばした手を軽やかに躱し、グリン君は笑いながらリビングの方へ駆けていく。「あがっておいでよ」と言う声が奥へと消えてしまったので、お邪魔させていただくことにした。
 リビングには既にエイマルさんとモルドちゃんが待っていた。一緒に本を覗き込んでいた二人は、私たちを見止めるとにっこりして手を振ってくれる。同時に台所からレナ先生とマリッカがお茶を運んできた。
「マトリさん、センテッド君、いらっしゃいませ。マトリさんの今日の格好、とても素敵ですね。よく似合っています」
 なるほど、グリン君が褒めてくれるのは先生の仕込みだったのか。照れながらお礼を言うと、マリッカがじとっとこちらを見る。
「マトリ、照れるだけ無駄よ。先生はとりあえず褒めるんだから。ただ呼吸をしただけと思いなさい」
「マリちゃんだって先生に褒められて照れてただろ。そのワンピース、よく似合ってるもんな」
「グリン、余計なことを言う口は縫ってあげましょうか」
 確かにマリッカの清楚なワンピースはよく似合っていて、先生が褒めるのも当然だろう。私もグリン君と一緒に褒めると睨み直された。
 お茶をいただきながら、今日の予定を確認する。目的地は街のギャラリー。インフェリア先生の個展を観に行く。
 目的地までは急がない。先生の具合が良くなければ、休んだり、場合によってはすぐに帰ることも考えている。もしそうなっても、エイマルさんはグリン君とモルドちゃんを目的地へ連れていく。
「色々手間をかけさせるかもしれないけど、よろしくお願いします」
 先生が深々と頭を下げる。そんなに恐縮しなくてもいいのに、と思っていたら、グリン君がその肩をぱしぱしと叩いた。
「大丈夫だよ、先生! 俺がついてるからさ!」
 頼もしい笑顔はお母さんにそっくりで、私まで安心させる。レナ先生は目を細め、グリン君の頭に優しく手を触れた。
「そうだね、グリンは優秀なボディガードだもの。頼りにしてるよ」
 では、と立ち上がり、先生の久しぶりの外出が始まった。

 庭を横目にぞろぞろ歩き、門の向こうへ順繰りに。私たちが先に行き、先生は最後に出て、門の鍵をかけた。
 ここまで特に躊躇うことはなく、あっさりと公道に出る。先生の様子も変わらず、微笑みながらグリン君とモルドちゃんと話している。
 子供たちを挟んで、エイマルさんが立っている。その位置が自然で当然のことであるように。
「まるで家族だな」
 エスト准将の言葉が駄目押しとなって、何故か私の胸が締めつけられる。そっとマリッカを見ると、眩しそうに目を眇めていた。嬉しいのか切ないのか、思うことまでは読みとれない。
「あ、あの、准将とマリッカも、幼い頃に親御さんと出かけたりしたんですか」
 せめて空気を変えようとした発言だったけれど、双子はそっくりの不機嫌顔をした。撤回する前にマリッカが口を開く。
「親と出かけた憶えはない。私たちの母が先々代大総統と駆け落ちしたせいで、急遽先代が立てられた話はご存知? 文句のやり場に迷った人々に激しく非難された父が、以来引きこもっていたことは?」
「ごめん、知らなかった……」
「知らないで、興味すら持たずにいれば良かったのに」
 二度と訊くなということだと受け取って、私は口を噤む。けれどもマリッカは私を一瞥してから、早足で先に行ってしまった。双子の機嫌を損ねたまま出発することになってしまったので、先生たちを見ては胸が、双子を見ては胃がきゅっと締められる。
「我が家のことだが」
 エスト准将の低い声に身構え、慌てて遮った。
「すみません、もう訊かないようにします。私が無遠慮なのがいけなかったのはわかっているので、これ以上追い討ちはかけないでください」
「いや、マリッカの話には続きがあるんだ」
 はた、と焦りが疑問符に変わった。私が大人しくなったのを確認するように小さく頷いて、准将は歩きながら淡々と語る。
「騒ぎの後、父の友人が我が家の面倒を見てくれた。その友人夫婦と出かけることもあったから、さっきのニールたちのような並びを経験したことはある」
 家族だと思われたこともよくあった。――今まで聞いたこともないような穏やかな口調で、准将はそう言った。この人が怒っていないと明確に判断できたのは初めてかもしれない。
 この人は態度も口も大層悪いけれど、意外とそんな思い出を大切にしていて、だからこそマリッカと仲直りをしたいのではないか。それから。
「……あの、勘違いだったらすみません。もしかして、フォローしました?」
「貴様の質問に答えたまでだ、他意はない」
 私とマリッカのどちらも助けられる答えだったと思うのだが、はたして本当に他意はないのか。以前聞いた先生やグリン君の評価を信じるなら、准将の優しさと思っていいはずだ。
「何をにやけている」
「なんでもないですよ。ほら、早く行かないと」
 先生たちはもう随分先に行っている。グリン君たちが引っ張っているのもあるのか、元気そうだ。
 私たちが追いついたところで、人通りが多くなってきた。買い物客や外回りの会社員、巡回中の軍人など――エスト准将の姿を見て慌てて姿勢を正す人もいた。
 エイマルさんは店先に立つ人々に挨拶をし、またバイトさせてね、と手を振っていた。あの大冒険を支える資金はこんなところからも調達しているらしい。
 子供二人が横にぴったりついている先生の歩みは、先程よりゆっくりになった。グリン君とモルドちゃんが口々に話しかけ続けている。余程先生と出かけられるのが嬉しいんだなと思うと微笑ましい。
 けれどもふと視線を下に向けて、どきりとした。グリン君と繋いでいる先生の右手が、左手よりも丸まっている。左側にはモルドちゃんがいて、その手を柔らかく握っているのだけれど、グリン君とはその握り方が固い。そしてグリン君も先生の手をしっかりと握っている。
 ――俺がついてるからさ。
 言葉のとおりにグリン君は役割を果たし、先生はグリン君に頼っている。先生の笑顔を守っているのは、あの小さな手なのだ。
 本当は、私たちが思うよりもずっと、先生は緊張しているのだろう。いくらかの恐怖もあるかもしれない。深い傷はそう簡単には癒えないのだということを目の当たりにしてしまった。
 心も身体も、ついた傷はすぐには塞がらない。適切な手当をし、その人自身と環境の力で少しずつ治していくしかない。治癒速度は人や傷によって違うのだから、焦るべきではないのだろう。
 マリッカも先生の様子に気づいているのか、心配そうな表情を浮かべている。准将はいつもと変わらない仏頂面だけれど、同じ気持ちなのかもしれない。エイマルさんは明るく振舞っているけれど、足取りは先生に合わせている。
 そんな私たちを、笑顔を絶やさない先生もわかっているのかもしれなかった。
「あ、ここじゃない? 辿り着けたね」
 エイマルさんが商店街の横道に見つけた、ギャラリーの看板。催し物の案内には、確かにインフェリア先生の名前があった。
 その表示を先生はじっと見る。その目も口元も笑ってはいなくて、けれども強ばっているようでもない。グリン君が手を軽く引っ張るまで、微動だにしなかった。
「先生」
「ああ、ごめんね。入ろうか」
 先頭はエイマルさん、その後に先生とグリン君とモルドちゃんが続く。すぐ後ろからマリッカが追い、私とエスト准将は最後に。
 絵画には文章ほどの興味はなかった私は、こういう場に来ることもほとんどなかった。外から見るとさほど大きくは見えなかった建物の中は、異次元と見紛うほど広い。空間の使い方が贅沢なのだ。壁面には額が、中央にはショーケースがあり、作品が展示されている。
 不思議なことに、照明も壁も白いはずなのに、フロアは水の中にいるようにほの青く、波のようにゆったりと揺れているという錯覚までしてしまう。――絵のせいだ。波間、飛沫、舞う光。視覚情報が他の感覚器官も刺激している。
 ぽかんと口を開けて立ち止まる私の背中をマリッカが叩き、我に返る。
「何をぼんやりしてるの」
「ぼんやりというか、見入っちゃって。そういえば私、インフェリア先生の絵をちゃんと見たことってなかったんだ」
 唯一知っているといえる作品が、レナ先生がニール名義で発表した最後の作品『朽葉館物語 』の装画だ。あれは作品に沿ったダークな色合いの絵だったので、光がたっぷり降り注ぐ水の世界が描かれているのは初めて見た。
 正直に話した私に、マリッカは呆れていた。
「珍しい人ね。ニアさんの絵はこっちの方が主流なのに。絵の他にもアクセサリーを作ったりしているのだけれど、それも知らなかったんでしょうね」
「あ、それはさっきリーフレットで見た」
 様々な画材、ときには絵以外の方法でも繊細で緻密な表現を見せる。特に素晴らしいのは、水彩で生み出す、透明感のある水の絵。この内陸の国では、海を描いた作品の人気が高い。――入口で受け取ったリーフレットから得た情報くらいしか、今の私には備わっていない。
 これからもっと勉強しなければならない。今回はそれも目的のひとつだ。
 作品を見ながら、レナ先生のことも気にする。子供たちと一緒にゆっくり鑑賞しているようだ。グリン君と繋いでいる手も緩くなって、外にいたときよりもリラックスしている。
 けれども作品を見る眼差しは真剣だ。細部まで見逃すまいとしているのか、或いは全体を捉えようとしているのか、じっくりと時間をかけて眺めている。
 その横顔が綺麗で、つい見とれてしまう。何秒か動けないでいて、はっとした。すぐ傍にマリッカがいるはずなのに、先生を見ていたら誤解をされてしまう。弁解の言葉を考えながら慌てて振り向くと、マリッカはさっきまで私が見ていた方向を――レナ先生を見ていた。
 慈しむような、切ないような、きっとそういうのを「愛しい」というのだろう。幾重もの感情を湛えた彼女の紫色の瞳は、とても美しかった。
「……何? マトリ、あなたは私を見てないで作品を勉強なさい」
「はーい」
 叱られてしまったので、真面目に作品を見る。水の絵の他にも、鮮やかで健康的な草花やどこかの広々とした景色など、様々なものが描かれている。「人物画」としてまとめられているコーナーには小さな額が幾つか掛けられ、その中に見知った顔がある。
 向かい合ってお喋りをしている老夫婦は、グリン君の祖父母だ。今にも声が聞こえてきそうな、楽しそうな絵。きりっとした横顔はフォース社の副社長さん、つまりインフェリア先生のパートナー。実物もとても素敵な人だけれど、絵の中だと一層優しそうな目をしている。
「あ、これは」
 思わず笑みがこぼれてしまった。子供を真ん中にして手を繋いだ親子三人の姿は、間違えようもない、グリン君たちだ。弾けるような笑顔のグリン君の両側にはそれぞれ、イリスさんとその夫さん。仲良く歩いている様子はいつ頃のものなのだろう。絵の中のグリン君は、今よりも少し幼い。
「珍しい光景だな。年に一回あるかどうかの場面ではないか」
 急に隣から声がして、つい一歩引いてしまった。いつの間にいたのか、エスト准将が絵を覗き込んでいる。
「そのコメントはグリン君たちの絵に対してですか」
「そうだ。あいつのところは両親が滅多に揃わない」
 そういえば、一度家にお邪魔したときは、グリン君のお父さんは不在だった。その存在を確認したのは、先生の家に迎えに来てもらった時だ。絵の通り、優しげなハンサムだったと記憶している。
「見て描いたのではなく、ただの想像の光景かもしれないな。有り得ないものでも絵にはできる」
「またそういうことを……。あなたね、そういうことばかり言ってると、本当に恋人とかできませんよ」
「もうそんなものは要らない」
 低い声で呟くように吐き捨て、エスト准将は順路を先に進んでいってしまった。
 言葉に引っかかるところがあるけれど、問い詰めるよりも絵を見ることに集中しよう。たくさんの人物画の中に、もうひとつ気になるものがあったのだ。
「これって、先生だよね……」
 斜め後ろから見た人物画は、特定が難しい。でも色を重ねて艶を表現した黒髪と、何より耳の形がレナ先生なのだ。いや、インフェリア先生の立場でいうなら、ニール先生か。
 こんなに近くて、振り向きそうで、けれどもけっしてこちらを見ることのない絵。見ていて胸が苦しくなる。
 どうしてこんな絵を描いたのだろう。文章を書く人の中に何らかの柱があるように、絵を描く人にも表したいものがあるはずだ。
 もしもこの絵が、「振り向かない」のではなく「振り向くな」だったとしたら。――インフェリア先生がレナ先生に会いたくなかったらどうしよう。
 グリン君との約束を果たせるかもしれない。ここに来たのは、そういう思いもあってのことだ。レナ先生がさらに傷つく可能性を考えていなかった。そんなことになったら、グリン君までがっかりしてしまう。
 考え込んでいると、袖を引っ張られた。我に返って視線を少し落とすと、当のグリン君がお腹を押さえている。
「どうしたの? まさか具合でも」
「ううん、お腹空いちゃってさ。おやつにしない?」
 恥ずかしそうに笑うグリン君に続いて、レナ先生がモルドちゃんの手を引いてやってくる。
「ここ、同じ建物の中の喫茶店を使うなら、再入場可能だそうです。少し休みませんか、マトリさん」
 一番疲れたのは、久しぶりに外に出た先生ではないか。グリン君もそれを見越しているのかもしれない。私は頷き、先生と一緒に同行者を集めた。

 窓枠、座席、照明がレトロな雰囲気で統一された喫茶店は、いつかデートで来たいくらい好みの空間だ。例えば、マリッカと話をするならこんな所がいいかもしれない。
 しかし今、私と向かい合っているのは同じ顔をしている別人だ。どうしてボックス席にエスト准将と二人きりで座らなければならないのかというと、それは私たちがジャンケンで負けたからである。ボックス席は最大六人掛け、私たちは七人、仕方ないことではあるけれど残念だ。
「不満そうだな」
「すみません、顔に出てました?」
「不満なんだな」
「冗談ですよ。すみません」
 みんながいる席は賑やかだ。飲み物やデザートが運ばれてくると、グリン君とモルドちゃんは目をきらきらさせていた。
 こちらは静かなもので、珈琲が二つ運ばれてきただけのささやかなテーブルを挟んで向かい合っている。
「先生、元気そうで良かったですよね」
 私は珈琲にミルクと角砂糖を一つ入れてかき混ぜる。エスト准将は角砂糖を続けざまに三つ入れた。実は甘党だったのか。
「元気か、あれが。痩せ我慢して歩いていたのに」
「あ、やっぱり気付いてたんですね。そういうところはとても良いと思いますよ。いつか現れるかもしれない恋人にも、気を配ってあげてくださいね」
 口は悪い、態度は大きい、こちらがうんざりさせられることも多いけれど、エスト准将は先生のことをよく見ている。それは私も認めるようになっていた。
 その眼差しを是非とも周囲に満遍なく向けてほしいところだけれど、まだそこまでは難しいかもしれない。まず私に対する態度が良くない。
 守ってくれたときの背中は、なかなかかっこよかったのに。
「……さっきから恋人がどうのと煩い」
 カップを持ち上げつつ、不機嫌そうに眉を寄せ、エスト准将はぼそっと言う。少々しつこかったかな、と思い私は謝ろうと口を開きかけた。
「そう呼べるような相手はもう二度とつくらないつもりだ」
「いたんですか、前に」
 二度目の「もう」に、つい謝らずに食いついてしまった。この人が愛し愛されたのがどんな人なのか気になってしまう。口ぶりからして別れたのだろうけれど。
 興味を隠さない私を、エスト准将はしばし眺めていた。そして珈琲を一口飲んでから、しみじみと言った。
「貴様とは全く異なる美人でな」
「私と異なるって部分いらないでしょう」
 わざわざ失礼な言葉を入れなくてもいいだろう。こちらがカチンときたのには構わず、彼は続ける。
「彼女は軍とは関係がない。ただこちらの任務がきっかけで知り合った」
 付き合っていた期間は半年ほどだったけれど、互いに将来のことも話し合ったらしい。それはきっと幸せな時間だっただろう。
「だが無駄な時間だった」
「どうしてですか。振られたからですか」
「殺したからだ」
 あるはずの賑やかさが遠くなる。言葉の意味を掴もうとする私に、エスト准将はそれよりも早く続きを被せた。
「彼女は美しいから、近付きたいと思う人間は多かった。それなのに私と付き合っているのだから、気に入らないと考える奴はいた」
 デート中の出来事だったという。彼女は突然、知らない男に薬品を浴びせられた。ずっと隣にいたエスト准将の目の前で、彼女は顔に大火傷を負ってしまった。
 犯人はその場で捕まったが、彼女の顔がすぐに元に戻るわけはない。火傷の範囲は広く、深かった。
「病室で『別れてほしい』と言われた。受け入れることができず、混乱しているのだろうから後日またきちんと話そうと思っていた」
 でも、その機会は永遠に訪れなかった。
「翌未明、彼女は高層階から飛び降りた。顔は完全になくなり、長い手足も折れてしまった。……今でも目に焼き付いている」
「見たんですか」
「通報を受けたからな」
 おそらくは、と溜息を吐くように継ぎ、目を伏せる。
「私などと出会わなければ、彼女は今も生きていただろうな。美しく笑って、幸せな人生を送っていたはずだ。私は彼女に無駄な時間を使わせ、そして殺した」
「そんな……あなたが手を下したわけじゃないでしょう」
「目の前の人間を、愛しいと嘯きながら守れなかった。だから彼女も私に失望したんだろう」
 この話は終わりだ、とカップを置く。――聞くのではなかった。こんな話を聞いてしまったら、私は。
「『無駄な時間』なんて言わないでください」
 私はこの人との関わりを、半端にしてはいけなくなってしまう。
「好きな人と一緒にいる時間が、無駄なはずないですよ」
「終わりだと言っただろう」
「納得できないんですよ。どうしてそう、遡って否定するんですか」
 出会わなければ。あるいは書かなければ。この人は「元」と定めたものを無くせば苦難は無くなると考えているのだろうか。
 どうして――「自分では守れない」から?
「わかりました、イリスさんの言っていた意味」
「イリスに何の関係がある」
「あなた、大切なものを守り抜けるという自信がないんですね」
 エスト准将の表情が歪む。怒りとは少し違うそれは、狼狽だろうか。「貴様」と怒鳴る前に遮った。
「自信がないから、相手のことを考える余裕がないんじゃないですか。あなたが無駄だと言った時間は、彼女さんにとってはかけがえのないものだったかもしれないのに」
「本人に会ったこともないくせに何を」
「ええ、想像です。これは私が本を通して様々な人生や考え方を知った上で、想像したことです。将来を考えるほどだったんでしょう。あなただけでなく、彼女さんもとても幸せだったと思います。その気持ちを無駄だなんて言葉にしないでください」
「私と出会わなければ他の誰かと幸せになれただろう」
「あなたとでなきゃ得られない幸せです。代わりなんてない。出会わなければとか、無駄だったとか、そんなふうに言わないで」
「貴様に何がわかる。死んだ人間の考えを勝手に捏造して楽しいか」
 捏造といえばそうだ。会ったこともない人のことを、想像だけで決めつける。エスト准将の恋人は物語の登場人物ではなく、実際に生きていた人だ。私のやっていることは単なるお節介を越えて不遜。でも、楽しくてやっているわけではない。
 そして、見知らぬ女性のためでも、目の前の人のためでもないのだ。私が守りたいのは……私だ。
「あなたこそ、人の人生を勝手に不幸だと思っているじゃないですか。その人が生きていた時間を無視しようとしていませんか。他人の人生は、あなたに見える部分だけじゃない」
 他人のことは想像しかできない。それなのにいいかげんなことを言うのは失礼だ。やってはいけないことだ。私がしているのはそういうことだ。
 でもたった一つだけ、想像ではない確かなことがある。これは私自身の思いで、私だけが知っていること。
「あなたは認めないかもしれないけれど、私はあなたに助けられてます。ちゃんと守られてます。あなたは……センテッド・エストは、人を守ることのできる人なんです。だから私は、あなたが彼女さんを死なせたとは思わない。認めない」
 私が大切に守りたいのは、この人に助けられたと思っている私なのだ。それを助けてくれた本人に裏切られたくないというエゴを、この人に押し付けている。
「……貴様は本当にわけのわからん女だ」
 何度目かの深い溜息の後、エスト准将はそう吐き出した。
「貴様ごときに認められようとは思っていない。何様のつもりで人に意見している」
「すみません、出過ぎた真似でした。ちょっといらっとしたもので」
「心から謝るつもりはないんだな。自分から興味を持ったくせに」
「そこは悪いと思ってますよ」
 すっかり冷めた珈琲を飲み干し、先生たちのいる席を見る。子供たちはデザートを食べ終え、エイマルさんとマリッカがまた火花を散らしかけていた。困った顔の先生と目が合ったので、そろそろ店を出た方がいいだろう。
 エスト准将は意外にも何事もなかったかのように振る舞い、当然のように全員分の支払いを済ませた。絶対に機嫌を損ねたと思っていたのに、そんな素振りは見せない。
 怒りを通り越して呆れ果てているのかもしれない。私は明らかに喋りすぎた。
 不幸な人生だと思われるのが嫌なのは、エスト准将の恋人ではなく、私自身だというのに。どうして重ねて考えてしまったのだろう。

 気を取り直してギャラリーに戻り、まだ見ていない展示に向かう。中央のショーケースには手作りのアクセサリーが、デザイン画と共に並んでいた。
 先代大総統のものと同じデザインだという結婚指輪のキャプションを読んでいて、他にもたくさんの案があったこと、そのラフスケッチも展示していることを知った。規模の大きなイベントでは見られない、貴重なものらしい。
「そんなこと、リーフレットにも目録にも書いてなかったけどなあ」
 ここに来た人だけが知ることのできる情報なのだろうか。有名画家の貴重なラフスケッチなんて、きっと多くの人が見たいと思うだろうに。
 私もすっかり気になってしまって、順路の最後に近い、スケッチブックが展示されているコーナーに立ち寄った。全てのページにクリアカバーがかけられ、直接は触れないようになっている。
 そうっと手に取り、丁寧に捲る。ラフとはいえ、鉛筆のみのものも彩色してあるものもある。まるで絵本のようで、本好きとしては心が浮き立つ。
 今回展示されている作品の元と思われるものの中には、ラフの時点で既に完成されているのではと思うものも見受けられる。プロとしてはただのイメージなのかもしれないけれど、素人にドの付く私には十分な出来のように見えた。
 ――これが表紙だったら、絶対綺麗な本になるのに。
 彩色されたラフを見ていると、レナ先生の作品を想起してしまう。この絵はあの作品に合う。これなんかあの作品のイメージにぴったりなのに。ついそんなことを考えながら絵を眺めてしまった。レナ先生の作品に関する仕事を、インフェリア先生は受けてはくれない。本人に言われてわかっているのに、思わずにはいられない。
 ああ、これなんて昨年の冬の――。
「……ちょっと待って」
 前のページに戻ってみる。さらに前へ、その前へ。私がレナ先生の作品を連想した、最初の絵まで。
 それからまた、順番に追っていく。頭の中にタイトルを思い浮かべながら。ラフスケッチには全て日付が入っていることに今更気付いて、それも確認していく。
 私がレナ先生の作品を読むようになったのは、恥ずかしながら担当になることが決まってからだ。ニール・シュタイナー名義の作品は全て追っていたけれど、初めは二つの名義が同一人物であるということは知らなかった。
 でも、今ではレナ・タイラスの作品は全て頭に入っている。刊行順や初版の発売時期も。たとえサフラン社から出したものではなくとも。
「……ああ、やっぱりだ」
 その私が確信した。インフェリア先生は、私に嘘をついた。
 スケッチブックをそっと元に戻し、レナ先生の姿を探す。グリン君とモルドちゃんはエイマルさんと一緒だ。アクセサリーの展示を見ている。エスト准将はさっきから私と等間隔で移動しているので、誰とも一緒ではないことはわかっている。マリッカは最後の展示の前だ。――先生は会場にいない。
 早足でマリッカのもとへ行くと、彼女は眉を顰めた。
「マトリ、落ち着きがない。ちゃんと作品を見なさい」
「見たよ。見たから急いでるの。先生は?」
「ロビーで休んでるって。人も少し増えてきたし、疲れたのかもね」
 先生はラフスケッチを含む全ての展示を見たのだろうか。それとも休んでから見るつもりだったのか。
「少し一人にさせてあげなさい。あなたも急がないの。ほら、この作品はあなたのところと縁が深いでしょう」
 権利は引き揚げたそうだけど、とマリッカは視線を展示されている絵に戻した。
 今はもう、古書店くらいでしか手に入らないだろう。大きな賞にノミネートされながら、それを辞退して絶版となった、幻の傑作――『朽葉館物語』の表紙を飾った、ひっそりと佇む館の絵。
 今ならわかる。そのシルエットを、私は知っている。通い始めて、もうすぐ一年になるのだから。
「マリッカ。これが何の絵なのか、あなたは知っていたよね」
「わざわざ言うんだから、装画という意味じゃないわよね。知ってたわよ、『朽葉館物語』の表紙が解禁になってからずっと。だから私は、この作品が先生たちのわだかまりを解くのだと信じていた」
 それなのに、できなかった。そうして年月が経ってしまった。
「マリッカ、ラフスケッチは見た?」
「あなたがずっとそこにいたから見られなかったの。他の人のことも考えて作品を鑑賞なさい」
「ごめん。じゃあ見て。すぐに見て。あなたにもきっとわかるから」
 怪訝そうなマリッカを置いて、私は会場を出た。ロビーへ急ぎ、壁際に並んだ椅子に先生の姿を見つける。
 行儀よく足を揃えて座るレナ先生は、姿勢が良いのに疲れているように見えた。その目はぼんやりと宙を、いや、掲示された催し物一覧を見ている。
「先生」
「……あ、マトリさん。もう全部まわれたんですか」
「おかげさまで。あの、先生はラフスケッチはご覧になりましたか」
「ううん、まだそこまでは見られてないんです。そろそろ戻って続きを見ようかと」
「その前に、ちょっとお時間よろしいですか。ちょっとでいいですから」
 首を傾げる先生を留め、館内受付へ向かう。こんな客の相手をするのは嫌だろうなと思いながらも、受付にいた人に尋ねた。
「今回の展示って、インフェリア先生ご本人はいらっしゃらないんでしょうか。……お聞きしたいことがあるんです」
 困惑されるだろう。もしかしたら怪しまれて追い出され、二度とここには来られないかもしれない。それが弊社に伝わったら、私は仕事を失うかもしれない。
「聞きたいこととは?」
「あの、それはご本人に」
「だからどうぞ。作品についてでしょうか。因みに今回は売買はしないことになっていますが」
 はたと気づく。受付にいた人は声を出さず、背後の奥を見ている。そして応える声は、その柔らかく落ち着いた響きは、奥から聞こえてくるのだった。
 顔を上げ、そちらへと目を向ける。作業着に軍手というスタイルで立っていた、その人の髪と瞳はグリン君と同じ色をしていた。
「ん? あなたはたしかサフラン社の」
「インフェリア先生、どうしてここに」
 しかも私のことを憶えている。会ったのはたった一度、それもこちらがとんでもなく失礼だったというのに。だから憶えられていたのかもしれないけれど。
「そりゃあ、僕の作品があるわけですから。様子を見がてら、展示作品の調整を。それでええと、マトリ・アンダーリューさんでしたっけ、来てくださってありがとうございます。ご用件は?」
 名前までしっかり記憶している。しかし今は感動している場合ではない。これは千載一遇の大チャンスだ。
「先生、ロビーでお話することはできませんか」
「どうして?」
「どうしてもです。ご安心ください、仕事の話ではありません。今日はお休みですから、私は編集者の仕事はしていません」
 とはいえ怪しいことには間違いない。心象はかなり良くないだろう。断られたら引くしかない。
 インフェリア先生は凪いだ海のような瞳で、こちらをじっと見ていた。逸らしたら負けだと思って見返していると、そのうち海色が細くなった。
「アンダーリューさん。今日は可愛らしい服をお召しですね。とても似合っています」
「え? ああ、ありがとうございます……」
「うちの息子とデートですか?」
 瞬時に頭が冷たくなった。体は凍ったようになり、指一本も動かせない。固まってしまった私がかろうじて絞り出した言葉は、
「私なんかがレナ先生とデートだなんて滅相もないです。まさか私たちだけで来たわけじゃないですよ」
 レナ先生の存在を半ば認めるようなものだった。
「マトリさん、どうかしましたか。もしかして何か落し物でも……」
 背後から声と足音。お疲れだというのに、レナ先生は心配して来てくれたらしい。ああ、でも、ここには。
「外に出られるようになったの?」
 前方から、私と話すのと何も変わらない声。
「……いらしたんですか、ニアさん」
 後方から、驚愕を含んだ震えた声。
 久方ぶりであろう、親子の再会だった。

 話す場所は、受付の奥の控え室に移された。そもそも受付にいては邪魔になるし、ロビーでは通りがかりの人の目がある。
 低いテーブルを挟んで設置されたソファには、向こう側にインフェリア先生、こちら側にレナ先生と私が座っている。親子はよく似た姿勢の良さで向かい合っていた。
「元気そうで良かったよ。ルーから様子は聞いてたけど」
「ニアさんもお元気そうで何よりです。作品も順調に増えていますね」
 あまり親密そうではないけれど、血の繋がらない親子とはこんなものだろうか。なにしろ私には親子という感覚がよくわからない。参考になりそうなグリン君とイリスさんとは、全く違う雰囲気だ。
「で、ニールは作品を見に来たの? それとも僕に会おうと思ってた?」
 挨拶もそこそこに、インフェリア先生が訊ねる。どきどきする私の横で、レナ先生は平然と答えた。
「実は今日、久しぶりに家を出たんです。エイマルちゃんが、みんなでここに来ようって誘ってくれて」
「エイマルちゃん、帰ってきてるの? 僕も篭ってたから、初耳のことが多いなあ」
「グリンも来てますよ。それからモルドと、マリッカちゃんとセンテッド君。そしてこちらのマトリさん」
 名前を呼ばれて、心臓が大きく跳ねたような心地がした。インフェリア先生は私を見て、何故かふわりと微笑む。雰囲気はやはりレナ先生と似ていて、親子を感じさせた。
「マトリさんは僕の今の担当編集者なんです」
「知ってる。一度会ったもの。サフラン社で声を掛けられて、少し話した」
「そうだったんですか」
「うん。君絡みの仕事を持ちかけられても受けないよって話をね」
 それを本人に言ってしまうのか。驚きと焦りで冷や汗をかきながら、私はおそるおそるレナ先生に目を向けた。
 ところが当のレナ先生は、苦笑はしているものの、落胆している様子はない。
「それはそうですよね。僕も無理だろうなって思ってます」
 そんな。レナ先生にとって、インフェリア先生は憧れの画家ではないのか。また装画を描いて欲しいと望んでいるのでは。
 それとも、私はまた早合点をしていたのだろうか。
 ――いや、この際、レナ先生の希望を勘違いしていたとしてもいいのだ。私には確信していることがある。
「そうだ、アンダーリューさんの聞きたいことって何でしょう?」
 インフェリア先生がこちらに水を向ける。いよいよだ。彼の嘘を指摘する。
 ――僕はレナ・タイラスの作品に関わる気はありません。
 本当にそう思っているのなら、あのラフスケッチの説明がつかない。
「インフェリア先生。今回展示されていたラフスケッチを拝見しました」
「ああ、ありがとうございます。初めての試みなので、反応は気になっていました」
 落ち着いた笑顔は少しも揺らがない。あまり動じない人だとは思っていたけれど、こんなに穏やかでいられるものだろうか。
「……私は編集者である前に小説好きなので、絵から物語を連想するんです。あのラフスケッチも、ある物語を想起させるものがありました」
「面白い見方をするんですね。例えばどんな物語ですか?」
 これは挑戦だろうか。それとももしかして、全ては私の思い込みか。いや、日付からしてもこの推理は間違っていないはずだ。
 言ってしまっていいものだろうか。私はレナ先生の様子を横目で確認する。――何故か目を輝かせていた。金色の瞳は期待に満ちている。
 更には向き直ったインフェリア先生の目も、色は違えど似たような輝きを持っていた。本当に私の解釈に期待をしている……?
 こちらの方が戸惑ってしまう。でもここまで来たら、やっぱり無しで、なんて言えない。このまま突き進むしかない。
「例えば、あの――」
 覚悟を決めて、絵の内容と物語のタイトルを口にした。私が連想を始めた絵と、レナ先生が今の名義で再デビューしたときの作品のタイトルを。
「その後に続く絵も、レナ先生の作品の刊行順にイメージが合致していました。最新作までです。入っている日付も初版が出た日の直後でした。つまりインフェリア先生はずっとレナ先生の作品を追っていて、その絵を描いていたのではないですか? 本当はレナ先生の作品に関わりたいと、ずっと思っているのではないですか?」
 一息に、止まらないように。全部言った後でなら、的外れだと笑われたって、怒られたって仕方がないと納得できる。
 反応はどちらだ。改めてインフェリア先生の表情を窺う。話しているあいだは、見る余裕がなかった。
 はたして、彼は笑みも怒りも浮かべてはいなかった。考え込むように口許に手を当て、やがて私に訊ねた。
「そのラフスケッチは、どこでご覧に……って、ここしかないですよね」
「? そうですけど」
「少々お待ちください。確認するので」
 何かがおかしい。全く予想していなかった展開に、私の頭の中は疑問符だらけになる。インフェリア先生が部屋を出ていき、レナ先生と二人で残されてしまった。
「どうしたんでしょうね、先生?」
 訊ねつつ横を向いて、ぎょっとした。レナ先生は俯いていたけれど、耳から首まで真っ赤なのは隠せない。
「あの、先生、大丈夫ですか」
「……マトリさん、ラフスケッチの話、本当なんですよね?」
「はい、さっき確かに見たので……」
 レナ先生はゆっくりと顔をこちらに向ける。真っ赤になって、涙目で、つまりはまた今まで見た事のない表情で。
「先生、もしかして照れてます?」
「複雑な気持ちです。思ったより親に認められてるかもしれないという喜びもありますけど、それを第三者に解説されるということへの恥ずかしさもあって……」
「それは、その……すみませんでした」
 なんだかとんでもないことをしてしまったようだ。私はやり方を間違えたのかもしれない。深々と頭を下げると、先生は「謝らないで」と言う。
「それより気になるのは、これがニアさんにとっても予想外だったのではということです。自分で仕掛けたことなら、あんな反応にはならないので」
 やはりそうなのか。あのラフスケッチは本来、人の目に触れるはずではなかったものなのだ。私たちは互いに、自分が思ってもみなかったことを話していたことになる。
 しばらくして、インフェリア先生が部屋に戻ってきた。疲れたような表情で、何故かその後ろにエイマルさんを伴って。
「アンダーリューさんがご覧になったスケッチブックはこれですよね」
 その手に掲げているのは先程見た絵だ。レナ先生の再デビュー作を思わせる作品である。
「はい、そうです」
「これは置く予定ではなかったんです。きちんと確認しなかった僕が悪いんですが……仕組んだのは僕のパートナーと友人たちでした」
 溜息混じりに言うインフェリア先生とは対照的に、エイマルさんは満面の笑みで続けた。
「あたしが絡んでたら疑わなきゃですよ。あたしの両親は誰ですかー?」
「だってまさか、みんなグルだとは思わないでしょう」
 その様子を見てレナ先生は察したように額を押さえたけれど、私にはさっぱりだ。インフェリア先生は「ちょっとややこしいんですが」と前置いて、わざわざ私のために説明を始めた。


 個展やらない? と持ちかけてきたのはアーシェだった。思えばそこからすでに仕組まれていたのだ。
 国の文化の守り手である大文卿の妻として、そのサポートをしているアーシェ・ハルトライムは、形は違えど昔も今もニアの仕事仲間だ。作品の発表や保存などに関して、常日頃から協力をしてもらっていた。
「ギャラリーが空いてるの。たまには地元凱旋のつもりでどう?」
「凱旋って、僕はどこにも行ってないけど」
 しかし地元に何かしらの活動報告はしたいとは考えていた。世話になっているアーシェの勧めを断る理由もない。
 個展の準備を進めるにあたり、パートナーであるルーファも手伝ってくれた。これはいつものことであり、特に不審なこともなかったとニアは記憶している。だが、その裏で計画は動いていた。
 かねてより、ルーファはニアと息子のニールの交流が途絶えていることを気にしていた。なにしろ二人共、特にニアが頑固で、なかなか自分からは動かない。そのくせルーファがニールに会うと、様子を気にするのだった。
「そろそろどうにかしたいんだ。また面倒なことも起きてるようだし、何かあってから後悔するんじゃ遅いだろ」
 こっそり相談した相手は、長年の友人レヴィアンス。大総統の職を退いてからは首都を離れ、妻と子供とのんびり暮らしている彼は、ルーファに同意してくれた。
「オレも気になってたから、アーシェに様子を聞いたんだよね。そしたら舞台は用意してくれるって」
「舞台?」
「そう。ニアにはまず個展をやってもらう。こういうときって、準備はルーファも手伝うんだろ」
 電話口なのに、にやりとした顔が見えるようだった。彼の考えた作戦を聞き、どのように仕掛けをするか具体的に詰めていった。
 ニールが新しい本を出す度、ニアはそれを読んで、感想の代わりのように絵を描き溜めていた。一作品につき一つは必ず色もつけ、ルーファにだけは見せていた。絵を描いている間も手元に置いておきたいだろうと思い、ルーファは新刊をいつも二冊ずつ買うようにしている――いつかマトリが居合わせたのは、まさにその時だった。
 ラフスケッチも一部だけ公開したら、と提案する役目はレヴィアンスが担った。あとはニアが置く予定だったスケッチブックと、ルーファがこっそり用意した「感想画」の描かれたスケッチブックをすり替えれば、会場の準備は完了だ。
 しかし肝心なのは、どうやってニアとニールを会わせるかだ。ニールはずっと家から出られないでいる。そこでエイマルのもとに、彼女の親を経由して相談が届いたのだった。
「ちょうど帰ろうかと思ってたので協力はできますけど、何があるかわからないので保険はかけましょう。ニール君自身がスケッチブックを見なくても、描かれているものを伝えられる人がいたらいいですね」
「だったら心当たりがある。先日、サフラン社の担当編集者に会ったんだ」
「おや、それはもしかしてマトリさんという方では? いいですね、巻き込みましょう。あたしはマリッカちゃんをと考えてたんですけど、この際ですから二人共利用させてもらいます」
 サフラン社の受付に個展のフライヤーを置いてきたのはルーファだ。もちろんエイマルの指示である。アメジストスター出版にも出向いたが、マリッカは休んでいた。
 マトリやマリッカがニールを連れ出してくれればいいのだが、エイマルはさらに策を用意した。サフラン社に連絡をして、自分のエッセイ原稿を売り込んだのだ。そうしてマトリに直接会うための口実をつくった。
 結局、それは正しい判断だった。マトリやマリッカは慎重で、なかなか行動に出ない。エイマルは自らニールを誘い、みんなで出かけることで目的を果たそうとした。
 そして思惑通り、マトリにラフスケッチに気づかせたのだった。
 ルーファを問い詰めようとしてニアが自宅へ電話をかけると、そこには既に関わった仲間たちが集まっていて、後で合流しようと笑っていた。
 怒る気になんかなれなかった。彼らはニアたちを気にかけながらも、この作戦を楽しんでいたはずだから。


 計画の規模よりも、関わった人たちの豪華さに気を取られてしまったが、今日のことは随分前から用意されたものだったらしいということはわかった。
 私が呆気に取られている間に、レナ先生はエイマルさんへ恨めしげな視線を送っていた。
「こんな大掛かりなことなんてしないで、言ってくれれば良かったのに」
「言ったところで意地っ張り親子は意地を張るだけでしょう。それにこんな面白いこと、ネタバレなんて勿体ない」
 実行犯はまるで悪びれることがない。レナ先生とインフェリア先生は、顔を見合わせて苦笑した。
「……ニアさん、良かったらその絵、見せてください」
「ラフで良ければ。本当は家にまだまだあるんだ。外に出られるなら見に帰って……いや、違うか」
 何のためにここまでしたのか、最終的にはどうするのがいいのか。インフェリア先生は深呼吸をしてから、レナ先生にスケッチブックを差し出した。
「ここに無いものを持って、僕が君の家に行くよ。良いかな、ニール」
 レナ先生、いや、ニール先生は金色の目を満月のようにして、それから美しい弧に細め、頷いた。
「お菓子を作って待ってます」

 控え室を出ると、マリッカとエスト准将、グリン君とモルドちゃんがロビーで待っていた。私を見るなり、グリン君は一目散にこちらへ走ってくる。
「マトリさん! 本当に約束果たしてくれたんだな、ありがとう!」
 私に飛びつくグリン君に、けれども何と言ったらいいのかわからない。
 グリン君との、友達としての大切な約束――レナ先生を親と会わせるというのは、確かに今実現できた。でもそれは、私が成し遂げたことではない。エイマルさんやインフェリア先生の仲間たちの計画が実を結んだのだ。
「グリン君、私は何もできなかったよ」
「そんなことないぞ。だって、絵を見てレナ先生の書いた話だってわかったんだろ。読み込んでなきゃそんなことわかんないじゃん」
「それはだって、私はレナ先生の担当編集者だもの。きっとマリッカだってできたよ」
 エイマルさんたちの計画では、私かマリッカのどちらかがスケッチブックを見ればいいことになっていた。つまり、今回はたまたま私が先に見ていたというだけのこと。
 ところがマリッカは「どうかしら」と悔しそうに息を吐いた。
「私にわかったのは、『朽葉館』がレナ先生の家ということだけよ。実物がわかっていなければ気づけないことではあるけれど、近しい人ならすぐにピンとくる」
 かつて『朽葉館物語』の装画だった館のシルエットの絵は、レナ先生の住む家の形そのものだ。あの物語の舞台である館は、先生が自分の家をモデルにして設定した。それをインフェリア先生もわかっていたのだろう。
「ラフスケッチがレナ先生の作品をモチーフにしたものだとわかっても、だから本人に突撃しようだなんて、そんな猪突猛進で失礼極まりないことができるのはマトリだけじゃない?」
「うう……確かにとても失礼でした。すみません」
 私は改めてインフェリア先生に頭を下げる。彼は声をあげて笑っていた。
「僕はその猪突猛進さ、結構いいなって思うよ。他の人にはやらない方がいいと思うけど」
「もう誰にも二度としません」
 暴走したことは認める。もちろん、こんな無礼はもうしない。――でも、インフェリア先生にはもう一つだけ伝えておきたいことがあった。
 顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに見る。グリン君と同じ海色の瞳は、穏やかに私を見返していた。
「今度は編集者として、先生に改めてお仕事のお願いをしに参ります。やっぱりレナ先生の作品には関わっていただきたいので」
 ラフスケッチを見て、インフェリア先生は嘘をついているのだと思った。レナ先生の作品に関わる気はないだなんて、本当は思っていないのではないかと。
「……まいったなあ。関わる気はないんだけど」
「絵を描いてらしたじゃないですか」
「個人的に勝手に描いただけで、関わろうと思ってやったわけじゃないよ」
 そうか、また私は早合点をしてしまったらしい。しかし、それでも心に決めてしまったのだ。
 レナ先生の新作のプロットと、それについての打ち合わせを経て、作品にはインフェリア先生の絵が不可欠だと思った。そうでなくてはいけない。
 私はレナ先生の、先生たちの、最高傑作を編み上げたい。
「関わりたいって言わせます、絶対に」
 不遜な態度の私に、どうしてかインフェリア先生はにんまりとした。
「楽しみにしてる」

 マリッカとエスト准将が、同じ顔で呆れている。レナ先生を家に送り届けてから、私を送ってくれているのだけれど、その間ずっとだ。
「あなたって思ってたより図々しいのね」
「私も自分でそう思う……」
「主張が強すぎる。もっと慎ましくできないのか」
「准将には言われたくないです」
 双子による息の合った小言はちくちく刺さるけれど、二人がきょうだいであることをしみじみ感じられるのはなんだか嬉しい。
「何をにやにやしている。貴様、自分が何をしようとしているのかわかっているのか。ニールに書かせたものにニアさんを関わらせるということは、傑作ができてしまうということだ」
「だから傑作を世に送り出すんですってば」
 素晴らしい作品が生まれるのは良いことだろう。それともエスト准将は、まだレナ先生に小説を書かせたくないのか。
 しかつめらしい顔をして、エスト准将は少し違う理由を語った。
「以前にアズハがニールを狙ったのは、あいつの作品がこれ以上ない最高傑作であると判断したからだ。賞を獲ったということよりも前に、あのニア・インフェリアが装画を引き受けたという点が重要だった」
 アズハ本人の供述だから間違いないという。インフェリア先生がレナ先生の作品に関わることを拒んできたのは、レナ先生が自分の一存で全ての著作を絶版にさせたからだと思っていたけれど、実はアズハのような脅威から我が子を守るためだったのか。
 でもそれなら、こちらに引く理由はない。
「だったらあなたが守ればいい、センテッド。マトリはマトリの仕事をするのだから、あなたもそうしなさい」
 私が言い返すより先に、マリッカが涼しく言ってのける。
「一度や二度の挫折が何だというの。どうしようと過去は変えられないのだから、目の前にあるものとしっかり向き合いなさい」
 同じ色の瞳が互いを捉える。驚いて見開かれたエスト准将の目と、微かに細められたマリッカの目。双子も大切なものを取り戻したように、私には見えた。
 ぼんやりしていた私に、マリッカが厳しい視線を向ける。思わず姿勢を正した私に、彼女は人差し指を突きつけた。
「あれだけの大口を叩いておいて、半端なものを作ったら許さない。先生たちは必ず最高の作品を仕上げるに決まっているのだから、それでも物足りないと感じるようなら全面的にあなたの所為だとみなす」
 それから、と今度はエスト准将に。
「センテッド。マトリに何かあってそれが全うできなかったら、あなたの所為だということにするから」
「理不尽じゃないか」
「いいえ、真っ当な責任よ」
 私から見ても真っ当とは言いきれないのではと思ったけれど、そんなことは口が裂けても言えない。そもそも無茶を言い出したのは私だ。
「それから、私も私のやるべきことをする」
「マリッカの? 仕事のこと?」
「それもあるけど、そうじゃない方。マトリ、明日の夜は時間を作れるかしら。話したいことがあるの」
 そういえば、以前からそう言っていた。連絡先を教えたのもそのためだったのに、なかなか機会を設けられずに先送りになっていた。
「もちろん。場所はどうしようか」
「私があなたの家に行ってもいいかしら。何かつまめるものを持っていくから」
「わあ、楽しみ! じゃあ私も用意しておくね」
 約束がひとつ、またひとつ。この幸せのために、私は頑張れる。明日の朝を迎えるために、今日の夜を越えていける。
 部屋の前で双子を見送り、満ち足りた気持ちで一日を終える。先生たちも今頃は、今日を振り返りながら身体を休めているのだろうか。

 日々は当たり前に巡ってくるものではなく、偶然と奇跡の積み重ねなのだということを、このときの私はすっかり忘れていた。
 朝を迎えることができないだなんて、想像もしていなかったのだ。