目を覚ますのが怖かった。けれども起きなければ、痛い思いをすることになる。館内にけたたましく響く甲高いベルの音がしたら、すぐに目を開けて体を起こす決まりだった。
一度に六人は詰め込まれる狭い寝室の外に、私たちは並ばされる。その人数は前日の夜よりも減っているのだが、昼以降にはまた増える仕組みだったので、誰も気に留めない。
自分の番号が呼ばれたら返事をする。私たちには名前がない。番号で互いを、そして自分自身を認識するのだ。ただし返事をする声は頻繁に変わった。その中で私はどういうわけかずっと「十三番」で、誰にも取って代わられることはなかった。
点呼の後は別室に移動し、食事をする。これが全く美味しくなくて、ただ口に入れてお腹を満たすだけのものだった。それでもここにいるほとんどの子にとっては「お腹に入るものがある」というだけでも随分いい状況であるようだった。
それに比べたら、私は恵まれていた。ここに来る前に、黄金色でしっとりと甘い焼き菓子を、生まれて初めて食べさせてもらえたのである。後になって、それは私が抵抗することなくここに来るようにと与えられた餌だったのだろうと思い至ったのだけれど、あの味を思い出しながらの食事はおそらく幾らかましだった。
食べたあとは時間をおいて、色々な検査をする。私たちは毎日血を採られ、口の中を覗かれ、身体中を調べられた。来たばかりの子は泣くこともあったけれど、慣れてしまえば何も考えずに大人の指示に従うようになる。
昼以降は薬の時間。与えられる薬は毎日違った。そしてグループごとにも少しずつ量などが異なっていた。私はよく投与量の多いグループになり、一緒にいた子が翌日にはいなくなっているのは珍しいことではなかった。
ここに集められる子供の多くは、食うや食わずの生活をしていたところを拾われた。でも私は少し違ったらしい。記憶にはないけれど、親は生後一年ほどの私を高いとはいえない金額で売り、買い取った業者は私を四つまで育て、さらにここの担当者に売ったのだという。私の現在の年齢は聞いたところによると八歳。四年もここにいるというのは稀有な例だそうだ。
「十三番には何の変化もありません」
「これも無効化したのか。驚いたな」
幾度となくこのやり取りを聞き、夜も美味しくない食事をして、寝る前には整列と点呼。眠っているときだけが自由だった。
同じ目覚めは二度と来ない。私のように毎日存在できることも、ここでは奇跡だ。
「マトリさん」
それを自分の名前だと認識し、反応できるようになったのはいつからだったか。
つられるように目を開けた、つもりだった。けれども辺りは真っ暗で、自分の目が開いているのかどうかがわからない。視覚がまったく頼りにならない中で、私を呼ぶ声の方向を探る。
「マトリさん、大丈夫ですか」
「ええと、レナ先生で合ってます? 私、何も見えないんです」
「はい、僕はレナ・タイラスです。今いる場所は、マトリさんの右側ですね。位置確認のために、手に触れてもいいですか」
お願いします、と返事をすると、右手に人の手が触れた。低い体温が私の手を包むと、ほんの少し落ち着く。
「先生、これはどういう状況なんでしょう? 私は家で寝ていたはずなんです」
「僕もですよ。どうやら僕たちはここに強制的に連れてこられたようです」
気配が動く。完全な闇の中で私の目は全く役に立たないけれど、それ以外の感覚はいつもよりも鋭敏になっている。肌に触れる空気の流れは、先生の動きを知らせてくれる。
けれどもさすがにここがどこなのかまではわからない。湿った土か黴のような臭いが微かに漂っているので、暫く放置された古い建物なのかもしれない。
「どこかの地下室だと思います。人がいたようには見えないので、随分使われていないのではないかと」
私の考えを肯定するように、先生が言う。
「木箱がたくさん積んであるんですけど、どうやら食品が入っていたようです。一度にたくさん調理するのだとしたら、この建物は個人の家ではない可能性もあります」
「え、もしかして先生、周りの様子が見えるんですか。こんなに暗いのに」
木箱の存在までは感触やぼんやり見える程度でもわかるかもしれないけれど、何が入っていた箱なのかまで判別できるなんて。驚く私には相変わらず先生の声と手から伝わる体温しかわからない。
「目は良いんです。鼻や耳も、人よりちょっとだけ」
いつもいただくお菓子などを思い出すと、おそらく味覚もよく働くだろう。先生の意外な一面をまたひとつ知り、こんな状況でなければもっと嬉しかったななどと考えてしまう。
「先生、出入口は見えます?」
「はい。出られるかどうか確認してくるので、マトリさんはここから動かないでください」
周囲の状況がわかっていたなら、まず出口に向かってもいいはずだ。それなのに私に声をかけることを優先したのだろう。
先生の足音に迷った様子はなく、離れたところに行き、しばし軋む音や叩く音などをさせてから戻ってきた。結果は聞かなくてもわかる。
「駄目でしたか」
「ええ、こちら側に鍵穴があるんです。この部屋のどこかに鍵があれば出られると思うんですが」
「……先生、そういうお話書かれてましたよね?」
鍵を探し出して部屋から脱出する話は、まだ私が担当になる前にレナ先生が出した本にあった。そういえばあれは、暗い部屋の灯りを探すところから始めるのだ。もちろん先生はホラー作家なので、ただ脱出するのではなく。
「見えない獣の話ですね。それがいる室内から出るために、急いで鍵を探さなければならない」
まさか見えない獣なんてものが実在するわけはないが、似たようなシチュエーションで閉じ込められている。私たちを攫って監禁するような人物に心当たりは一人しかいない。そしてレナ先生のファンを自称する彼女なら、こんな手の込んだ「見立て」もやりかねない。
でも「見立て」なら、解き方はわかる。
「とにかくまずは灯りを見つけます。僕は暗くても動けるので、任せてください。マトリさんはここで待っていて、明るくなったら一緒に鍵を探しましょう」
「お願いします」
先生がいるおかげで、物語よりも探索は楽そうだ。あちこちを躊躇うことなく歩き回る先生の足音を聞きながら、私はひとまず元となった作品の筋書きを思い出してみることにした。
見えない獣が出てくるのは、先生が得意とする建物を舞台にした物語のひとつ。主人公は地下室に監禁され、そこに獣の気配を感じる。このままでは食われてしまうと、必死になって脱出を試みる――というのが第一章。最終的には建物から出ることを目的としている。
つまりここを出られても、次の罠が待ち受けている可能性は大いにある。先生と協力し、できるだけ体力を温存したい。
「痛っ」
不意に足に走った痛みに、つい声が出た。先生が慌てて走って来る音がして、それから「うわ」という小さな悲鳴。
感触と記憶でわかってはいたけれど、私は就寝時のルームウェアのままここにいる。上半身は薄手だが袖の長いTシャツ、下半身はショートパンツという、先生に見られるにはかなり恥ずかしく、このひんやりした空間には寒い格好だ。
「マトリさん、足が痛みました? 刺されたような感じは?」
近くで先生の声がする。焦っているようだ。何が起きたかわからないけれど、訊ねられたとおり足はじんじんと痛む。
「刺されたのかどうかはわかりませんけど、痛みはあります」
「毒虫に刺されたようです。早く手当てをしないと」
先生が言う間にも、床についた私の手の上を何かが這っていった。一匹ではないのかもしれない。
「先生、私のことは気にしないでください。いくら刺されても平気ですから」
「平気なはずないでしょう」
「本当に大丈夫なんですよ。毒も薬も効いたことがないんです」
笑って答えたのに、同じようには返ってこない。それはそうか、と思い直して、もう一度「本当ですよ」と繰り返した。
「どうやらそういう体質らしくて。なので、先生は先に灯りをお願いします。そうすれば虫も避けられるようになるかも」
先生が刺されてしまってはいけない。いくら目がいいからといって、暗闇が視界を遮っていることにはかわりがない。優先すべきは灯りだ。
先生は申し訳なさそうに「わかりました」と言い、また離れていく。床を擦るような音は、ついでに足で虫を払ったのかもしれない。
やがて何かを叩くような音、続いて木の板が割れたような音がして、金属を打つような高い音が数回。そうしてぼんやりと室内が照らされた。
レナ先生の姿がやっと見える。手持ちの燭台を胸の高さに掲げる先生は大袈裟でなく神々しく見えた。表情は安堵の後、すぐに厳しいものに変わってしまう。
「マトリさん、大丈夫ですか」
「はい、ありがとうございます」
「虫は払いますから、あまり動かないで」
毒が回るのを心配しているのだろう。先生は急いで私に駆け寄り、周囲にいた虫たちを散らしてくれた。胴が長くびっしりと脚が生えた虫たちが、思っていたよりもたくさん床に蠢いている。
「うわあ、見えたくなかった……」
「足はどうですか。他に刺されていませんか」
「平気です」
本当はさっきからさらに刺されている。しかし改めて確認してみても、手足は腫れている様子すらない。小さな傷を洗えば問題ないだろう。
親切のつもりなのかサンダルを履かされているので、立っても足の裏は無事だ。勝手に自宅から持ってこられたのだろうお気に入りのサンダルを、こんなところで履きたくはなかったけれど。
私にも周囲が見えるようになったので、一緒に鍵を探すことができる。もしやと思うことはあった。
「先生、虫に襲われる話も書いてましたよね。とても描写がリアルな」
「ああ、ありましたね」
この部屋の罠が作品に準えたものなら、虫もまた意図を持って仕掛けられたものだろう。あれは確か、重要アイテムが入った壷が登場していた。
部屋の壁に沿って置いてある木箱の上に、ぽつんと置かれた壷。あからさますぎる。
「あの中に鍵がありそうです」
「危険です。中から音がしていますから、きっと僕の書いた話のとおりの罠ですよ」
わかっている。けれどもこれは私にしかできない仕事だ。先生が壊したらしい木箱と、置いてあるバールを見る。一人であれだけのことをしてくれたのだから、次は私の番。
壷に近付き、その蓋を開ける。案の定、中には虫たちが犇めき蠢いていた。内側が蝋燭の灯りを反射しててらてらと光っているのは、油が塗られているのだろう。
底にちらちらと輝く金属は間違いなく鍵だ。手に入れればここから出られる。
私が深呼吸したのを見て、先生は壺を持ち上げようとした。が、動かせない。固定されているのだ。
「遠ざけようとしました?」
「だってマトリさん、手を入れる気でしょう」
「一番手っ取り早い方法でしょう」
「道具を使って壷を壊せば」
「中の油が流れたら引火するかもしれませんよ」
任せてください、と胸を叩いても先生は退いてくれない。怒ったような顔をして、私を真っ直ぐに見ていた。
「無茶はしないでください。僕の書いた物語でマトリさんを傷つけたくないんです」
物語に準えての犯罪の、最も罪深いところだ。本来、物語は人を傷つけるためにあるのではない。それなのに物語に罪を着せるような行為は卑怯極まりない。私はそんな卑怯と戦うのだ。
「違いますよ、先生。私が傷つくとしても、それはこんな仕掛けをする人のせいです。相手は私に毒が効かないことをわかってやっているはずです」
だから私が適任なんですよ、と手を伸ばす。先生が止める前に、勢いをつけて壷に手を入れた。
無数の脚が肌を這い、鳥肌が全身に広がる。指に触れる柔らかい腹を避け、金属を摘み上げた。鋭い痛みが指先から手首の上までのあちこちに走るけれど、我慢しなければ先生に心配をかけてしまう。やっとのことで壷から鍵を取り出し、手に絡みついた虫を払い落とした。
蝋燭の炎に照らされた金色の鍵がやけに美しく見えて、つい溜め息が漏れる。が、先生に手を掴まれて、また息を飲み込んでしまった。
「傷だらけじゃないですか。いくら毒が効かないからって、こんな無茶をするなんて」
「毒が効かないっていうのは信じていただけましたか。良かった、もうこの手の罠に遠慮はいらないですね」
「マトリさん」
緊張と動揺をごまかそうと明るく言ったつもりだけれど、先生には通じない。真剣な金色の瞳は炎を映して紅く揺らめき、それから長い睫毛に伏せられた。
「お願いですから、自分を大事にしてください。以前も危ない目に遭ったことを笑い話にして済まそうとしましたよね。……でも、ごめんなさい。僕はそういうの、一緒に笑ってあげられない」
もう手に刺されたような痛みはない。代わりに先生が掴んだ手首が熱くて、じんわりとした痛みは胸にある。
レナ先生は優しい人だ。他人の痛みを汲んで、他人よりも悲しんでしまう。自分本位で、他人の痛みを利用して自分の痛みを訴えるような、狡い私とは違う。
きれいな人だと思う。私が傍にいられることが奇跡であるほどに。だから私は、この人を守らなければならない。この人を笑顔にすることを他の誰かに託してでも、私は何が何でもこの人を守り抜かなければならない。
私は私の希望を失いたくない。
「……ちょっとの辛抱です。すぐにここから出られます。そうしたら、もう傷つかなくて済みますから」
先生の手をそっとはずし、視線を室内へと移す。こちら側に鍵穴がある扉を見つけ、行きましょう、と声をかけた。
虫が這い回る部屋を出ると、壁にほのかな灯りが揺れる通路が現れた。ようやく暗闇から解放され、私たちはほっと息を吐く。
「草木の匂いがするので、外に出られるかもしれませんね」
レナ先生が言うような匂いは私には感じられないけれど、どこかに移動できるというだけでも大きな希望だ。通路に沿って注意深く進んでいく。
途中でいくつか扉を通り過ぎた。案外広い建物のようだ。先に歩いていく先生が急に立ち止まった。
「階段だ」
「やっぱり先生の言う通り、地下室だったんでしょうか。地上に出られれば脱出できますね」
これが罠ではないことを祈りながら、階段を上っていく。突然崩れたりしたらなどと恐ろしい想像が頭を過ったけれど、二人とも無事に上の階に辿り着けた。
階段を上った先の扉を開けると、ぽっかりと空間が現れる。狭くて家具は何もなく、壁にダイヤル式の電話機が備え付けてある。正面にある扉の向こうがこの建物のメインスペースなのだろうか。
なにはともあれ、注目すべきは電話だ。外部に連絡ができるとしたら、助けが呼べる。
「まずは外に出て、ここがどこなのかわかる目印を探した方が良いですね」
「……いや、そう簡単にはいかないみたいです。これを見てください、マトリさん」
つい声を弾ませた私に、先生は難しい顔のまま壁を指さして見せた。電話機の真下に付箋が貼ってあり、丸く可愛らしい字が書かれている。
[あなたは電話番号をひとつしか覚えていない]
字体がどんなに可愛くても、内容はちっとも愛でられない。またレナ先生の作品に「見立て」ている。
あれは記憶を失った男の話。彼が覚えているのは、たった一つの電話番号だけ。ミステリー要素のあるホラーだ。
もしやと思い、出口のドアノブに手をかける。回して押して引いてと一通り試してみたが、向こう側を見ることはできなかった。
「どこかに電話しなきゃ、外に出られないってことですか」
「問題はどこに電話するかですね。一箇所にしかかけられませんから」
確実なのは軍にかけること。でもそんなに簡単なことだろうか。二箇所以上にかけられるかもしれなくても、それは一箇所を試してみなければ確かめられない。
ここは多少遠回りしてでも確実な方法をとりたい。電話を受けられて、軍に状況を伝えられる人。
「マトリさん、いつも始業は何時頃ですか」
唐突な先生の問いに、首を傾げつつ答える。
「一応九時ということにはなっていますね。それより早い人も遅い人もいますけれど」
「時計の音が聞こえたんです。それを信じるなら、今はきっと午前九時。……サフラン社に連絡することは可能ですか」
先生の閃きを理解した。この状況をすぐにわかってくれて、軍にも伝えてくれる人。そして出社していれば、きっとその人は社内にいる。
受話器を取り上げ、私の記憶に刻み込まれた番号を回す。あとは繋がることを祈るしかない。
マトリ・アンダーリューが姿を消した。見張りの軍人が一晩中住居を囲んでいたにもかかわらず、判明したのは朝。起床時間を大幅に過ぎても人が動く気配がないことを不審に思ったためだった。
彼女は護衛対象であると同時に、アズハ・ヒースもしくは反社会的組織と繋がりが疑われている存在だ。ほぼシロではあるが、不審な点が全く無いわけではない。
軍中央司令部に連絡が入るとすぐにセンテッド・エスト准将は一部の軍人をニール・シュタイナーの家に向かわせた。まもなくの報告は彼の悪い予感が当たっていた――不在かつ何者かが侵入した形跡あり。
これらがひとつの事件であるとするには、まだ材料が足りない。ひとつ、またひとつと上がってくる報告を元に、その可能性を詰めていく。
「エスト准将。シュタイナー邸を訪ねてきた者があります」
無線が新しい情報を告げる。来訪者の特徴を尋ねようと口を開いたところで、耳に馴染んだ声がした。
「センテッド、これはどういうこと?!」
「マリッカか? 何故そこにいる」
「先生と打ち合わせの約束があったの。そうしたら物々しい雰囲気だし、先生はいないって言われるし」
こちらを問い詰めるような双子の声の奥で、こら待ちなさい、止まりなさい、と騒ぐのが聞こえる。もしやと思うと同時に、独特の呼び方が聞こえた。
「マリちゃん、何これ? 先生は?」
「グリン、あなたは無事だったのね。センテッド、何があったのか説明しなさい」
あの家に出入りしている子供は巻き込まれていない。少しだけ安堵し、センテッドは今言えることだけを答える。
「ニールは捜索中だ。何があったのかはまだ明らかになっていないが、そこには何者かが侵入した形跡がある。あまり踏み荒らすな」
「事件ってこと?」
「だから明らかではない。それとマトリ・アンダーリューも姿を消した。マリッカ、心当たりはないか」
「マトリまで? ……心当たりも何も、二人ともいなくなったならあの女が関わってるとしか思えないでしょう」
その通りだ。それがセンテッドの予測でもある。だが慎重に冷静に調べなければ、重要なことを見逃す。
「センちゃん」
不安そうな子供の声。なんだ、と低く返事をすると、苦手な言葉が耳を刺した。
「先生とマトリさん、大丈夫だよな。……無事に帰ってくるよな?」
肯定できないから嫌なのだ。何をもって無事とするのかも定義がわからない。目の前にないものがどうしてわかる。
こういうとき、諸先輩方は力強い声で言うのだろう。大丈夫だ、信じろ、と。だがセンテッドには、大切な人を守れなかった自分には、言い切ることができない。
――ああ、そうだ。自信なんかあるものか。人を死なせたんだぞ。
喉が詰まったように声も息も吐けずにいると、背後から無線機を取り上げられた。振り向くとルイゼンが普段と変わらぬ表情で立っている。
きっとこの人なら、グリンを励ますような言葉をかけられる。
「グリン、聞こえるか。いいか、泣くんじゃないぞ」
言いながら、センテッドに人差し指で何かを示す。視線で従う方向には保留中の電話機。こんなときに何だというのだ。
受話器に手を伸ばそうとして、背後の男の継いだ声を聞いた。
「軍は全力で二人を捜している。だが無事かどうかはまだわからない。今お前にできることは、勝手な憶測で怒ったり落ち込んだりして、無駄な体力を使わないことだ」
わかったな、と念を押す声はやはり力強いが、下手な励ましは口にしなかった。
「子供なんだから、元気づけなくていいんですか」
受話器を取りつつの呟きはしっかり拾われた。
「あいつはお前の後輩になりたいんだろ。だからこれでいい」
子供扱いはしない、ということか。それでよかったのか。想定とは違ったが、悔しいくらいにルイゼンは大人であり上司だった。
電話は外部情報取扱係からだ。センテッドが出たのを確認すると、やや興奮気味にその名を告げた。
「サフラン社のマクラウド氏より重要な話があるとのことです」
おそらくマトリの安否確認だろう。彼女の行方を追うため、会社にもとうに連絡をしている。軍がついていながら、と罵られることを予想し、繋ぐよう指示する。
「エスト准将、お疲れ様です」
「マクラウド、すまなかった。完全にこちらの不手際だ。マトリ・アンダーリューの行方は現在捜索中だ」
先んじて状況を話すと、ドネス・マクラウドは大きな溜息を吐いてから声を潜めた。
「そんなわかりきったことを聞くために連絡したんじゃありません。これは情報提供です。マトリから連絡がありました」
「何だと」
全く予想外の発言に、センテッドは身を乗り出した。マクラウドは確かに本人からだったと続ける。
「ニール先生もいないんでしょう。二人は一緒に監禁されているようです」
「何処に」
「それはわからないと。ただ、目が覚めたときには地下室らしきところにいたそうです。今は上階に上がったが先に進めないそうで。一箇所だけ電話をかけられそうなので、こちらに連絡をしたとのことです」
「地下室のある建物だな。他に特徴を言っていないか」
「地下にはマトリと先生がいた部屋を含め、四つも部屋があるらしい。かなり広い建物なんじゃないですか。現在地に至るまで窓は一切なく、外の様子はわからない。しかし先生によると草木の匂いが濃いので周囲は緑が多く湿度が高いのではないかと」
ニールの五感は侮れない。あれで反射神経が良ければ軍にスカウトしたいくらいだ。彼の感覚による情報は有益で確かだと考えていい。
一晩でそう遠くへは行けないはずだ。首都及び近辺の、草木が多い場所にある大きな建物。地域を絞るのに湿度は重要な要素となる。
しかし、これほどの情報を何故軍に直接伝えないのか。電話をかけられるのが一箇所だけだったというなら尚更だ。
――いや、電話をかけることが犯人の指示であれば、軍を避ける理由としては十分だ。マクラウドを頼ったのは賢明な判断だろう。
「向こうの番号はわからないのか」
「辿れません。マトリは電話をすること自体が罠である可能性もあると言っていました」
「罠?」
「毒虫などが仕掛けられていたようです。レナ・タイラスの著作から着想を得ている可能性が非常に高い」
だからすぐに話のわかる自分を電話の相手に選んだのだろう、とマクラウドは言う。そういう条件があるのならば、なるほど、ニールの書いた本を読んでいないセンテッドでは理解に手間がかかる。
こんな手の込んだことをするのは、やはりあの女くらいだろう。他にも物語に準えた罠があるかもしれない。
「准将」
不意に呼ばれ、受話器の向こうへ意識を戻す。マクラウドは静かに告げた。
「先生とマトリを……俺の部下を、頼む」
センテッドは返事を探す。二度と何かを頼まれることはないだろうと思っていたのに、この男に何を返せるだろう。
いや、やることはただひとつ。言葉に悩む時間があったら、動き回った方がいい。こうしている間にもニールとマトリは危険の只中にいるのだ。
「善処する」
絶対は約束できない。今できることを必死にやるしかない。
受話器を置くと同時に、ルイゼンに肩を叩かれた。
「やるべきことは見えたか」
「微かにですが」
「ちょっとでもいい。ここは俺が引き受けるから、お前は走れ!」
大きな手にそのまま背中を押される。手掛かりは足りない、確信が持てない、このまま前に進んで失敗したらどうする。文句はいくらでも思いつくが、それを口に出している暇はない。
もしかして、程度の閃きを頼りに動き回るのは効率がよくない。理にかなわない。だが今この瞬間できる全ての第一歩ではある。
闇雲に駆けるのではない。手放したくないから、喪いたくないから、賭けるのだ。
立派な服を着た大人たちに囲まれ、褒めそやされたことがある。私のことをではなく、私の飲まされた薬を。
この通り副作用は一切ありません、と私をその場に連れてきた人が言ったけれど、そもそもの作用すら私にはわからなかった。きっとまた「無効化」してしまったのだろう。
同じ薬を飲んだ他の子がいなくなってしまったことは伝えられなかった。相手は何も知らないままにこにこして、薬が入ったケースを持って出ていった。こちらには相手が持っていたケースが残され、私を連れてきた人はそれを大事そうに抱えた。
そういう場面に立ち会う頻度は次第に増えていった。指示されたこと以外は絶対に喋らないこと、と厳命されたことを守り、何度も何度も繰り返した。
おそらく、繰り返しすぎたのだと思う。ある夜に、施設に人がなだれ込んできた。私を含めた番号のついた子供たちはいつものように美味しくない食事をとっていて、突然現れた知らない大人たちに驚いた。怯えて泣き出す子もいた。施設の職員は私たちに部屋に戻るよう言って、来訪者たちの対応を始めた。
微かに聞こえた「副作用がないなんて嘘じゃないか」という声。それで私は、私だけは、事情を察することができた。けれども他の子たちが「何だろう」「どうしたんだろう」と震えながら囁きあっても、私はそこに加わらなかった。
しばらくして職員は、私たちの部屋を順番にまわり始めたようだった。その頃には騒ぎは収まっていて、施設の中は静まり返っていた。
私たちの部屋にも職員が到着し、ひとりひとりにカプセル薬を配っていった。――さっきは怖がらせてすまなかったね、これを飲んで落ち着いて、ゆっくりおやすみ。
翌朝もベルに合わせて起きなければならなかった私たちは、言われるままに薬を飲んだ。飲んでベッドに入り、目を閉じた。
眠らなかったのは私だけだ。職員は知っているはずなのだ――私は薬を「無効化」してしまう。それなのにどうして薬を飲ませたのか。
ひとつは、他の子と同じように扱わなければならなかったから。私の体のことを他の子に知られてしまうわけにはいかないために、普段から口止めもされていた。
もうひとつは、私が彼らにとっての「切り札」だったからかもしれない。まさか誰も私が特異体質だとは思わない。資料さえ隠蔽すれば、そんなことは誰にもわからない。
とにかく私は、毒によって施設内の人々が全員死んでも生き残ることができたのだった。
同じ部屋の子たちが寝息をたてていないことで、私が最初に思ったのは「今日はいなくなる子が多いんだな」ということだった。誰かがいなくなったら職員を呼びに行かなければならない。仕方なくベッドから出て、部屋にある呼び出しボタンを押しに行く。
でもボタンがあるはずのところには張り紙がしてあって、「用があったら宿直室に」と書いてあった。
部屋から出てもいいということに戸惑いながら、毎日職員が一人は詰めているはずの宿直室を目指した。長い廊下はとても静かで、人の気配がない。どの部屋からも何の音もしない。私がぺたぺたと歩く音だけが響いていた。
宿直室の戸は開いていた。異様に寒いのは、どこかから風が吹き込んでいるからだ。どこって、それは。
「……外だ」
勝手口が開け放たれ、夜の闇に木々の影が塗り重ねられているのが見えた。消毒液の臭いではない、湿った土の匂いがする。
足がふらふらとそちらへ向かった。出たらどうなるかなんて考えなかった。考えられなかった。思い返せばあれが本能で動くということだったのだろう。
大人用のサンダルを足に引っ掛けて、私は施設を後にした。誰も追っては来なかった。暗い中を彷徨い、どう歩いたのか全く憶えていない。
妙に体が温かいと思ったら、毛布で包まれていた。ぼんやりと見えた紺色の服の人が軍人であったことを知ったのは、それから随分後のことだ。
駐在所で保護された私は車で運ばれ、到着した場所で以降十年程暮らすことになる。
電話は三分程の通話が可能だった。勝手に切れると同時にガチャリと音がして、さっきまで開かなかった扉は勝手にゆっくり動き出した。
「やっぱり、電話が鍵だったんだ」
レナ先生が呟くあいだに、私はもう一度ダイヤルを回してみた。けれどももう受話器からは何の音もしなくなっていた。
「本当に一回だけ……あとはドネス先輩が頼りですね」
「大丈夫ですよ。ドネスさんはきっと軍に連絡してくれます。本当は詳しく場所を伝えられたら良かったんですが」
それでも先生は匂いや地下室の様子からこの場所についてのヒントを伝えようとしてくれた。先生のおかげで希望は見えている。
この先に進めば、また外と連絡を取れる機会があるかもしれない。先生が扉を押し開け、私も続いた。
大きな窓から、自然光が室内に取り入れられている。外の木々が影になり十分とはいえないけれど、昼間の明るさだ。
現れた広い空間には長机と椅子が並べられている。机にはテーブルクロスがかけられて、椅子は全て同じ形。
「食堂のようですね」
私の抱いた印象を、先生が口にする。二十人程が一度に利用できそうだ。机や椅子にうっすらと埃が積もっているけれど、元々はそれだけの人数がいたのだろう。
「子供がいたんでしょうか。児童養護施設だったのかも」
先生は辺りを見回して言う。特にそれらしいものが貼ってあるわけでもないのだけれど、妙に確信めいている。訝しむ私に、先生は柱を指した。
「マトリさんのいた施設では、ああいうことしてませんでした?」
視力の良い先生には離れていても見えるらしい。私は柱に近づき、やっとそこに刻まれた傷を確かめられた。
「ああ、身長を刻んでるんですね。懐かしいなあ。先生もやったことが?」
「はい。今の親に引き取られる前に、記念にと。名前と一緒に残しておくんですが、今もあるかなあ」
こんな状況で和んでいる場合ではないのだけれど、緊張は解けた方がいい。つい笑みが込み上げ、柱を撫でた。
この柱にも傷の横に名前と年齢が添えてあり、この場所が先生の言う通り子供たちの暮らす場所であったことを窺わせる。この情報を伝えられたら、現在地はより明確になったかもしれないのが惜しい。
柱の前で振り返り、もう一度室内を見渡した。よく見れば、私が昔いた施設に似ている。どこもこういう雰囲気なのかもしれない。あの頃の思い出がよみがえってくる。
「私、食堂にまで本を持ち込んでいました。もちろん読むのは我慢するんですけれど、傍にないと落ち着かなくて。後片付けが終わったら、そのまま食堂に残って読んでました」
「マトリさん、本当に本が好きなんですね」
「好きすぎて困ったことも色々ありますよ」
話しながら、ここでいえばこの辺りが定位置だった、と隅の席に向かう。あんまり本に夢中で呼び掛けに応じなくて、椅子を蹴られたこともあった。背もたれの一部が欠けてしまって、蹴った子は大層怒られたけれど、別の椅子が用意されることはなかった。
欠けてしまった椅子には誰も座りたがらず、私が施設を出るまで、私だけの椅子になった。
「……どうして」
その私だけの椅子が、どうして隅の席にあるのだ。記憶と同じように背もたれの一部が欠け、他のものよりも少し傷が多い。
「マトリさん、どうかしましたか」
駆け寄ってきた先生の前で、椅子を引いてひっくり返した。いつもこの椅子に座るからと、他の子にらくがきをされたのを思い出したのだ。
「……毛虫?」
座面の裏を見て、先生が首を傾げる。
「本の虫、だそうですよ。私が食堂に行くと、虫が来たって笑う子たちがいたんです」
突然何の話を、と先生は思ったはずだ。不思議そうな表情が、私と目が合うと困った顔になってしまった。私としては頑張って笑ってみたつもりだったのだけれど、上手くいかなかったみたいだ。
「先生、ここがどこだかわかりました。……ここは、私がいた施設。ブランキルト養育園です」
段々思い出してきた。椅子から離れ、さっき見たものとは違う柱へ向かう。ここにあるはずだ。
たくさんある傷のうちのひとつ、その横の名前は今でも届く手紙と同じ筆跡。なぞる名前は、ここで貰った。
軍人と養護施設の園長は困った顔を見合わせていた。私が年齢と誕生日ははっきりと言えるのに、名前を聞かれた途端に黙り込んでしまうからだ。ずっとこうなんですよ、と軍人が溜息を漏らした。
識別情報として、年齢と誕生日は自分で覚えていなければならなかった。ただし誕生日は本当にその日に産まれたというわけではなく、研究施設に連れてこられる際にそういうことにしろと教えられた。
最初に軍人に名前を聞かれたとき、十三、と答えて変な顔をされた。これは通じないんだとわかり、それからどうしようもなくなってしまった。
「もしかして、あなた、名前がないの?」
園長が私の目線に屈みこみ、尋ねる。それで私はやっと安心して頷くことができたのだった。
「名前がないなんて、そんなことが」
「ありますよ。ここにはそういう子もたくさんいます。親から名前すら貰えなかった可哀想な子たちにも、ちゃんとここで愛を与えますからね」
にっこりして、園長は私の手を取った。私って可哀想だったのか、と心の中で呟くあいだに、
「ようこそ、ブランキルト養育園へ」
私はここの子供の一員となっていた。
ここの子供たちは園長のことを「お母さん」と呼ぶ。私もそれに倣うことにした。お母さんは私を園長室に連れていき、本を開いた。
「さあ、あなたのお名前は何にしましょうね」
名前のない子供には愛情を込めて名前をつけるところから始めるのだそうだ。お母さんはしばらく本を捲って何か考え、手を止めて大袈裟なくらい大きく頷いた。
「マトリにしましょう。あなたの名前はマトリ」
「……マトリ」
与えられた響きを舌で転がして、これは好きだな、と思った。戸籍をつくるためにアンダーリューというファミリーネームも貰い、私の「マトリ・アンダーリュー」としての人生が始まった。
ブランキルト養育園での暮らしは、研究施設よりも更に良かった。朝寝坊は叱られるけれど、棒で打たれたりしない。服は真っ白なものだけでなく、好きなものを選んで着られる。そしてなにより、食事が美味しかった。研究施設では食べたことがないようなものを毎日味わった。
薬の注射は最初だけ。病気の予防にといくつか打たれた。私が薬の効かない体質だということは黙っていた。
周りの子供たちは元気で、無邪気に笑っていて、私の知っているような子供とは違う。違いすぎて、なかなか馴染めなかった。みんなと仲良くね、と大人たちは言うけれど、どうしたら仲良くできるのかがわからない。
置いていかれてしまったときは、割り当てられている部屋で本を読んだ。部屋には本棚があったが、本は数冊しか入っていなかった。一冊を何回も繰り返し読んで、内容はすっかり覚えてしまった。
研究施設では知能を調べるために、読み書きや計算などの教育は年齢に応じて行われていた。おかげで本を読む楽しみができたのだから、そのことには感謝すべきだろう。
お母さんはそんな私を見て、マトリは本が好きね、と微笑んだ。そして私たちの部屋の本棚に本を増やしてくれた。お母さんが読み終えた本や、通いの職員が持ってきてくれた古本が、物置から移されたのだ。
子供は十五人ほどいたのに、熱心に本を読むのは私だけのようだった。読み始めると周りの声が聞こえなくなるほど没頭してしまって、ますます誰にも遊びに誘われなくなった。
誰かが「本の虫」という言葉を覚え、私を「虫」と呼んで揶揄うようになるまで、時間はかからなかった。
本の虫は養育園にあった本を片っ端から読んでいく。子供向けも大人向けも関係ない。わからない言葉は調べればいいのだし、経験が足りずに想像できないこともいつか理解できる日を思うと生きる希望になった。
本の世界が私の全てと言っても過言ではなくなった、ある日のこと。お母さんが本棚に増やした本の一冊が、私の人生を決めた。
怖い本だよ、とお母さんは心配していた。怖かろうがなんだろうが、活字を求めていた私は頁を捲る。新しい本なのか、紙の匂いがした。
幻想的な、けれども表現のひとつひとつがやけにリアルな、五感の全てを刺激するような怪奇小説だった。湿った土のにおい。甲高く鳴く鳥の声。肌に触れて過ぎていく風。口の中に広がる血の味。――目の前に広がる闇と、それよりも濃い枯れた草木の影。
それは研究施設の宿直室から見た、外の世界の光景だ。どうしてこの本は、私があの日見たものを知っているのだろう。それともあの時、私の方が本の世界にいたのか。
夢か現か、虚構か事実か。混じりあって自分の存在すらも曖昧になるほど、その物語は私を強く引き込み、温く柔らかに包み込む。
絶望にも小さな光。最後は希望が持てて、優しさに涙が流れた。
それがその作家の初めて出した本であることを知ったのは、読み終えてすぐのこと。その人の物語を追い続けたい、あわよくば関わりたいという願いが生まれたのはもう少し後。
そして作者――ニール・シュタイナーが当時僅か十四歳であったことを知るのは、もっとずっと月日が流れてからのことだ。
シュタイナー邸に駆けつけたセンテッドを待っていたのは、マリッカとグリン、そしてイリスとエイマルだった。
「どうしてここに」
人が増えると面倒だ、という言葉は飲み込んだ。イリスも元軍人だし、エイマルはそれがわからないような人ではない。
「わたしはグリンを迎えに。ヨハンナから連絡があったんだよ」
答えるイリスは、グリンの手をしっかりと握っている。ルイゼンに言われた通り大人しく待っていたらしいグリンは、しかしその眼が赤みを帯びている。興奮状態にあるのだ。
「あたしは軍からニール君がどこに行ったか知らないかって訊かれて、何があったのか様子を見に来た」
エイマルは平然と言うが、右手の爪をしきりに擦り合わせている。内心ではかなり苛立っているようだ。
「そうか。何か知っていることは」
「ないなあ。軍ではどういうことになってるの」
「目下捜索中だ。だが」
センテッドは声を潜める。彼女らには教えた方がいいだろう。何も言わずに勝手に動き回られるより、現状を正しく伝えて大人しくしてもらった方がいい。
「先程、サフラン社のマクラウドから情報があった。奴はニールたちと連絡が取れたらしい」
「本当に? たち、ってことはマトちゃんも一緒にいるんだね」
「どこ? どこにいるんだよ、センちゃん!」
グリンが掴みかかってくる。目が赤いときのグリンは力が強く、丈夫な軍服も引き裂かれそうな勢いだ。センテッドは躊躇なくその額を指で弾いた。
「いてっ」
「リーゼッタ大将からも言われているだろう、落ち着け。二人は無事だが、居場所まではわからない。だが、心当たりはある」
「へーえ。それで、心当たりがあるならどうしてそこにすぐ行かないの?」
こちらを射抜くように見つめるエイマルに、センテッドは一瞬怯む。
「……罠があるらしい。ニールが書いた小説の内容に沿っているものだと」
「ああそっか、センテッド君はニール君の書いたものは一切読んでないから、状況の把握も予測もできないんだね。ここに来ればとりあえず全ての著作が確認できる。でも、今はそんな時間ないでしょう」
どうするの、とエイマルが更に問う。言葉の棘を隠そうともしない。飛び出してきたはいいものの、確認作業の手間まで考えが回らなかった。いつもはそんな下手を打つことはないが、センテッドもかなり動揺していたのだ。
情報にあった虫や地下室などのキーワードだけでも拾えないだろうか。建物を舞台にした、実現可能であろう部分を。いや、そもそも該当する著作はいくつあるのだ、それすらもわからない。
「私を連れていきなさい」
そこに響いたのは、小さな稲妻。
いつからかその背丈は、センテッドの目線よりも随分と下になってしまった。元々小柄な家系だ、センテッドだけが平均的に伸びたのだった。
しかしそんな差などはどうでもよいことだと思い知った。気高さでいえば、彼女の方がずっと上だったかもしれない。
「心当たりはあるのよね。だったらサポートできる。私は先生の作品を誰よりも知ってる、彼の担当編集者よ」
「しかし、マリッカは一般人だ。危険に晒すわけには」
「今更何?!」
戸惑っていると、軍服を掴まれる。左胸の国章と階級章ごと、マリッカの手の中だ。マトリに胸倉を掴まれたときのことが頭を過った。
「あなた、私に軍家の人間だとかなんとか散々言ってきたでしょう。どうしてそれが必要な場面で急に一般人扱いするの。今から私は協力者よ、いいわね!」
有無を言わせぬ迫力に、センテッドは頷く。よろしい、と手を離したマリッカは、一転して柔らかい表情を浮かべる。笑顔ではないのに優しさが滲む眼差しは、グリンへと注がれた。
「イリスと一緒に待っててね。戻ってくるときは四人だから」
「……うん。マリちゃん、気をつけて。センちゃんも」
グリンも落ち着いてきた。センテッドも冷静さを取り戻しつつある。行きましょう、と先を急ぐマリッカと追いかけてすぐに横に並んだセンテッドを見て、エイマルはやっと爪を引っ掻くのをやめた。
行先を告げると、マリッカは驚いたり聞き返したりすることなく、ただ「でしょうね」と言った。
「知っているのか」
「ええ。でも、マトリからその名前を聞いたわけじゃない。みんなで先生の家に避難した日を憶えてる?」
アズハの襲撃を受けたときのことだ。マリッカは路地で倒れていたのをイリスに助けられた。
「あのとき、アズハに会ったの。それで全部聞いた。……マトリの過去のこと」
確かに記憶している。アズハはセンテッドに、「マリッカは話をしていたら勝手に倒れた」という主旨の話をした。だがその接触でどんなことを話したのか、マリッカは軍の聴取で証言しなかった。
何故言わなかったのか、少し前なら問い詰めていただろう。だが今のセンテッドには、隠したい気持ちもなんとなくわかる。
「あの女が言ったことが全部真実だとは思わない。いいように歪めているはず。でも、全くの嘘ではないだろうとは思ってた。少なくともマトリがブランキルト養育園にいたことは確かなのだし」
でなければそこに目星はつけないでしょう、と目を伏せる。
「半信半疑だったけど、調べた。ブランキルト養育園はもう存在しないのね」
「少なくとも施設の体裁は失った。建物は売りに出ている」
だがマトリの手紙はそこに届き、返事がきている。彼女は一体誰と文通していたのか。その相手が今回の事件にも関わっているはずだ。
「私、謝りたいの」
シートベルトを握りしめ、マリッカは言う。
「マトリの過去を、勝手に聞いてしまったこと」
「……アズハが聞かせたんだろう。不可抗力じゃないのか」
「ううん、確かに好奇心があった。でなきゃ、あの女を殴って逃げてる」
だってあの女は私に興味がないのだし。その呟きで、アズハの身体能力から逃げるのは無理だろう、という慰めは使えなくなった。センテッドは黙って前を向く。
「聞いて後悔した。あんなの背負って笑ってられる人に勝てるわけない。つまらない嫉妬もできない。私が謝ったところで、きっとマトリなら気にしてないふうで流すんでしょう」
ただ、マリッカ自身がけじめをつけたいだけだ。楽になってしまいたい。――もう二度と彼女に会えなければ、一生つかえて取れなくなる。
「助かってくれなきゃ困るのよ」
ようやく得心がいった。マリッカがマトリとの距離を詰めたのは、そういうことだったのだ。ただ道理を通すため、歩み寄ったのだ。
真面目で、真っ直ぐな、堅物。自分たちきょうだいは、やはりよく似ていた。
「もちろん先生も。私は編集者だもの、作家を追いかけなきゃ」
「恐ろしい仕事だな」
「そうよ。すごいでしょう」
互いには目をやらず、行先だけを見つめる。そうして不敵に笑うところまで。
誰もいないのは、まるでしばらく放置されていたように埃が積もっているのは何故なのか。その答えを無視しようとしたけれど、認めざるを得ない。
私の育った場所は、とうにその機能を失っていた。そうとは知らずに送り続けていた手紙は、誰の手に渡り、誰が返事を書いていたのだろう。――ここに私たちを連れてきた彼女が、正答を持っている。
姿は見せない。でもどこかでほくそ笑んでいるに違いない。
「アズハ! 出てきなさいよ、いるんでしょう?!」
顔を上げて叫ぶ。明確な返事はないが、どこかから物音がした。二階だ。
「先生、ここにいてください。私はアズハを探します」
ここが知っている場所なら動ける。十八歳までいたのだ、記憶はまだ新しい。
ところが踏み出した私を、先生は止めた。
「駄目です、ここにいましょう。ドネスさんが軍に連絡をしてくれたのであれば、もうまもなく助けが来るはずです」
「具体的な場所はわからないのに? あれだけしかない情報ですぐにここに辿り着けるとは思えません」
「センテッド君ならできます。彼を信じましょう」
断言するほど信じているのか。たしかにエスト准将はとても優秀なのだろう。でも、この場所を最もわかっているのは私のはず。ここから出られれば、首都に帰ることもできる。少しでも早く助かるように、できることはなんでもするべきではないか。
私は先生を助けたいのに。
「手を離してください」
「離したら、マトリさんは行ってしまうでしょう」
「ここでじっとしてても、埒が明かないじゃないですか。私なら大丈夫ですから」
「マトリさん」
語気が強くなる。互いにではあるけれど、私よりも先生が。あまり強くものを言わない先生がこんなふうに厳しくなるということは、結構怒っている。
「僕はマトリさんが自分から傷つきにいくことが嫌なんです。僕のためであるならもっと嫌だ。あなたはとても大切な人なのに」
そうして口数が多くなる。先生の癖だ。この優しい人は、言葉を尽くそうとする。
「どうしても行くというなら、僕も行きます」
「でも先生、それは」
「後悔したくないんです。僕はあなたを、何が何でも守りたいんだ」
こちらをじっと見つめてくれる、その瞳の金色が綺麗だ。夜の闇を照らす月明かり。いつか私を導いてくれた光と同じ。
さっき、もう守ってくれたじゃない。助けてくれたでしょう。私はそれで十分なのに、この人は足りないというのだろうか。
目頭が熱い。零れそうになるものを抑えて、私は頷いた。
先生に手首を握られたまま、私たちは並んで歩く。二階へ行く階段の場所は、記憶の通りだ。上には私が昔使っていた部屋がある。そこを目指すことにした。
養育園の子供たちのうち、学校に通っていた子は半分に満たない。本に携わる仕事がしたいと思うようになり、私はまず学校に行きたいとお母さんに頼んだ。
私のことを虫と呼ぶ養育園の子たちとは馴染めなかったが、学校では意外にも上手くやれた。学校図書館には本がたくさんあり、読めば読むほど褒められた。本が好きな友達もできた。
けれども人との付き合いがどんなに増えても、私は養育園に来る前のことは誰にも話せなかった。
保護してくれた軍人には一度話しているのだけれど、信じてもらえなかった。どんなに探しても私がいうような薬の研究施設など見つからなかったからだ。
結局、あの施設のことは私の空想ということになっている。本をよく読む子だから、そうやって自分の境遇を妄想していたのだろうと。それほどまでに可哀想な子なのだとお母さんも納得してしまっていて、今更本当だと訴えることもできない。
薬や毒が効かない異端の子だと知られるのも、その先がどうなるのかわからないので避けたかった。私は普通の子供でいたかったし、そうして育ちたかったのだ。
それでも施設の職員に追いかけられる恐ろしい夢や妄想にはよく囚われた。ひたひたと後をつけてくる何かから逃げるように、走って養育園へ帰り、お母さんに宥められる。可哀想に、と抱きしめられて頭を撫でられる。そんなことが度々あった。
ブランキルト養育園を出たのは、高校を卒業してからだった。大学に進学が決まって、首都に住むことにした。
養育園の子供たちのほとんどは里親に引き取られ、人数が減った分また新しい子を迎える。私が発つ頃には、私が来たときにいた子はいなかった。ここでも私は残っていたのだ。
お母さんはずっと私を心配していて、手紙のやり取りをする約束をした。こまめに書くことは次第にできなくなってしまったが、今に至るまで私たちの文通は続いていた。
いつも何の変哲もない内容で、まさか養育園がなくなってしまっていたなんて、想像もしていなかった。
二階は部屋毎に罠があった。バリエーションに富んだ仕掛けはこれも全てレナ先生の著作を元にしたものらしく、先生は自分の作品がこんな使われ方をしていることに大層心を傷めていた。
なんとか怪我を増やさずに最奥の部屋――かつて私が寝起きしていたところに辿り着く。木製の扉に真鍮の取っ手は、私がちょっと素敵だと思っていたそのままだ。
向こう側から軋むような音がする。やはりここに誰かがいるようだ。
「アズハでしょうか」
「そうだとしても違っても、危険だと判断したら逃げますよ」
先生はまだ私の手首を掴んでいる。先程から何度も罠に遭遇しているのに、絶対に離さない。
触れると冷たいドアノブを、ゆっくりと回す。押し開けた扉が悲鳴をあげた。
正面には大きな窓。夏用のカーテンが光を遮っている。机と本棚は記憶のまま並んで、けれども本棚の中身は空っぽだ。私がいたときには本が詰め込まれていた。
そんなことばかりが目に入るのは、現実から目を逸らしているからだ。私は認めなくてはならない。
部屋の真ん中に、椅子に腰掛けた女性。髪は白く、肘掛けの上の手は乾いて皺が目立つ。俯いていた顔をあげると、虚ろな瞳。頬が痩け眼窩は窪み、私の知っているその人とはまるで変わってしまっている。でも、間違いない。
「お母さん」
呟いた声は掠れ、うまく音にならない。それでも先生はわかってくれたようだった。
「この人が、ここの園長さん?」
「……はい。私たちのお母さんです」
先生の手が弛み、私の手首から離れる。罠のことなどすっかり忘れ、私はお母さんに近づいた。
肘掛けに置かれているのだと思っていた手は、よく見ると縛り付けられているらしい。胸の下にも縄がまわっている。
「どうしてこんな……誰がやったんですか」
解こうとしても固すぎて太刀打ちできない。お母さんは私に答えず、そのかわりに細く音を吐いた。
「……ねえ。……こうで、わいそ、ねえ」
縄を弛めるのに加わってくれた先生が眉を寄せた。耳がいいから、お母さんの言っていることがわかったのかもしれない。
「先生、お母さんは何て?」
「マトリさん、縄に集中しましょう」
話を逸らすなんてレナ先生らしくない。戸惑っていると、お母さんは同じ音を繰り返した。つい耳をそばだててしまい、
「マトリ」
そのことを酷く後悔した。
「あなたは、とても不幸で、可哀想ね」
養育園だけが生活の場だった頃は、ただそうなのかと受け入れていた。
学校に行くようになって世界が広がり、読む本の種類も増えた頃、その言葉は慈しみなどではないことを知った。
客観的には事実なのだろう。本を読んでいると、そこに重なる私の人生はつらい経験として扱われる。登場人物が乗り越えなければならない壁として、覚えのある出来事や感覚が描き出されていた。
でもそれを他人から、明らかな言葉で浴びせられ続けることは、私という人間をつらく悲しい可哀想な人生に縛り付ける「呪い」だった。体よりも心を蝕む、私には特に効果的な「毒」だった。
手紙では「心配」という言葉で表現されていたっけ。悪意はないとわかっていたから、もう不幸ではないのだと知らせるつもりで、私からは良い事ばかり書いていた。
「……どうして」
伝わらなかったのか。どんな生き方をしても、私は不幸と思われ続けてしまうのか。
縄にかけた手が止まる。指先から力が抜けた。お母さんを助けなければいけないと、頭ではわかっている。なのに、どうして動けない。
どうして、わかってくれない。
「マトリさん!」
先生の声が、近いはずなのに遠い。どんな毒も効かないはずの私の身体に、頭のてっぺんからつま先まで満遍なく広がる「不幸」が、耳も喉も、目も塞いだ。
だから全然気が付かなかった。悪意に触れられ、掴まれ、引かれても。
「――――っ!!!」
奈落へと吸い込まれるまで。
こんなに優れた五感があるのに、と軍に身を置く友人は惜しんでいた。
――反射神経はどうも鈍いんだな。これで動けたら勧誘したんだが。
運動は嫌いではないけれど、同じ年齢の男性と比べると能力は高くはない。なまじ動くことも考えることも得意な友人や大人が多かったために、劣っているようにすら見えた。
今、そのことを恨めしく思う。この手が、足が、すぐに動いてくれれば、彼女と離れることはなかったのに。
床にぽっかりと空いた穴は、老女を拘束している椅子を中心にぐるりと仕掛けられていたようだ。ニールの足元にも、よく見ると不自然な継ぎ目がある。こんな大掛かりなことは物語の、特に思い切った展開でなければありえないだろうと思っていた。――その展開を文章にして世に送り出してしまったのは、他でもないニール自身だ。
穴を覗き込むと、マトリが仰向けに倒れ込んでいるのが見えた。弾力のあるマットの上らしく、怪我はないようだ。
「マトリさん、大丈夫ですか?!」
呼び掛けにも応じて、片手を挙げてくれる。だが先程から老女が呟いている言葉がダメージになっているのか表情は弱々しく、声も出ていない。
せめてもっと強く言うのだった――老女の様子はおかしいから、言葉には耳を貸すなと。虚ろな目や口周りの汚れから、ニールは早い段階で老女が薬物中毒なのではと疑っていた。
掴んでいた手を離すのではなかった。弛めてはいけなかった。それとも無理にでも二階には行かないようにするべきだったか。後悔はいくらでも湧き上がり、この身を侵蝕していく。
それでも五感は脳に知らせる。這いつくばっている場合ではないと。
「お久しぶりですね、先生」
足音は床に伝わり振動を起こし埃を臭いとともに舞いあげる。顔を上げれば、彼女の笑顔がはっきりと見える。
初めて目の前に現れたときと同じように、真っ黒なロリータ衣装に身を包む彼女は、幸福で堪らないというように頬を紅潮させている。
以前と唯一異なるのは、彼女の瞳が赤く輝いていることだ。あの日はこんな色はしていなかった。
「レナ先生とお呼びすれば? それともニール先生かしら」
「……アズハさん、今すぐマトリさんを解放してください」
「こっちが質問してるのに。わたしの答えは『嫌』だけど」
アズハは声を弾ませ、目を細める。恍惚を浮かべたまま部屋に入ってきて、穴を挟んでニールの正面に立った。
「ねえ先生。わたし、先生にまたお会いできてとても嬉しいんです」
「僕らをここに連れてきたのはあなたですか」
「ええ。最高のロケーションでしょう。先生にたくさんたくさんたーっくさんの悪夢をご覧いただくために、とても頑張って準備をしたの」
「悪夢?」
まさかと思ったその通りに、アズハは首肯した。
「だって先生、悪夢をご覧になって作品を執筆されるんでしょう」
どうしてそれを、と問う前に、アズハが紙を取り出した。そこに綴られた丁寧な筆跡は、ゲラに添付された付箋などで見慣れたものだ。
「マトリ・アンダーリューが教えてくれたのよ。先生のことや周囲のこと、全部を」
お母さんとは文通をしている、とマトリから聞いた。文面からして園長に宛てたものであることは間違いない。
「人の手紙を勝手に読むなんて、いい趣味ではないですね」
「人のじゃないからいいの」
アズハはにっこりして、綺麗に塗った爪で老女を指す。
「その人が以前と変わらない筆跡で手紙を書けるかしら。無理よね。だからわたしが代筆してあげてたの。ちゃんと筆跡を真似て、その人らしい文章で、上手に返事を引き出した。だからこれはわたしへの手紙」
「マトリさんを騙していたんですか」
「騙してないわ。わたしたちは二人で一つだったんですもの。その人はわたしがいなければ生きていけないのよ」
「そうなるよう仕向けたのはあなたでしょう」
「偶然そうなっちゃっただけ。こんなおばさん、わたしから関わろうなんて思わない。つまんないもん」
その点、とまたうっとりと目を伏せる。絶句しているニールに向かって、言葉を次いでいく。
「先生の人生はドラマチックで素晴らしいです。穏やかになったように見える日常も、手にした栄光も、その裏にはずっと悪夢が居座り続けている。いつ壊れるのかハラハラドキドキ……なんて魅力的な物語なんでしょう!」
他人の人生を弄び、あくまで鑑賞しているのだと主張するのか。こちらの苦しみはアズハにとっては楽しみで、彼女を飽きさせないスパイス。
大立ち回りはできない。この手は拳を振るえない。だから話し合いで何とかなればと、心のどこかではまだ甘い算段をしていた。だが無理だ。価値観の全く異なる相手と、同じ次元で話をすることは不可能なのだ。
「マトリさんを解放してください。僕が目的なら、彼女は何の関係もないでしょう」
「ごめんなさいね。わたしの目的は確かに先生だけど、わたしの雇い主の目的はマトリ・アンダーリューなの。……ううん、たしかそんな名前じゃなかったな。被検体十三番ね」
何のことだ、と問おうとして、足元が揺れた。視線を落とすと、そこにあった穴はなくなっている。当然マトリの姿は見えない。
「マトリさんをどうする気ですか」
「殺すように頼まれてるので、その通りに。でもやり方は任されているの、だからもうちょっとだけ使ってからお別れします」
もう一歩、アズハがこちらに踏み出す。穴のあったところは彼女の足の下だ。ヒールの高い靴が、そこを躙るように強く踏んだ。
「先生、これから書いてください、小説」
「……は?」
「だから、この場で書いてくださいよ。そしてわたしがその第一の読者になる。一章ごとに見せていただいて、面白ければ十三番……おっといけない、『マトリさん』の寿命を延ばして差し上げます」
尖った踵で床を叩く。赤い唇が動く。
「この下は元あった部屋を素敵にリフォームして、密閉できるようにしたんです。先生が一章書き終えたら、ちょっと空気を入れてあげます。ああでも、いいかげんに書いたなと思ったら一気に空気を抜きます。リアルタイムで悪夢を見てるんですから、良い作品が書けますよね、先生」
踵を返すアズハを追いかけることは、その分だけマトリを危険に晒すことに繋がる。机の上に原稿用紙と筆記用具を見つけたニールに、アズハの弾んだ声が聞こえた。
「素敵な絶筆を期待してますね、レナ先生」
やけに遠く感じた。首都からはそれほど離れていない、むしろ道がしっかり舗装されていて進みやすいはずなのに、なかなか辿り着けなかった。
散々焦れながらやっと車をつけ、センテッドとマリッカはその姿を見た。
半ば廃墟と化しつつあるブランキルト養育園の建物と、そこを守るように立ち塞がる巨大なもの。それは唸り声をあげ、今にもこちらに飛びかからんとしている。
頭は獅子のものだが、身体中が鱗に覆われている。鎧を纏ったような獣は、建物に近付こうとするものを敵とみなすようだ。
「……何だ、あの化け物は」
「先生の作品に出てきた怪物みたい。門を守っているの」
「あいつめ、厄介な物を書いてくれたな」
アズハが独りでこの怪物を用意できたとは思えない。裏に協力者がいて、キメラを作らせたに違いない。だとしたらいつからこの計画を練っていたのだ。そのあいだに止められたかもしれないのに、軍は何もできなかった。
センテッドは舌打ちをし、剣を抜いた。
「マリッカ、車に戻っていろ」
「まだ戻れない。あの怪物には弱点がある」
だって物語だもの、とマリッカは目を閉じた。
ニールの書いたものは何度も読んだ。内容だってすっかり覚えた。あの怪物は――。
「弱点は腹よ。でも鎧みたいな鱗で守っている。原典に忠実なら、あの鱗は剣を折るほど硬い」
「それは弱点というのか? 剥き出しの頭を狙うのが確実だろう」
「ううん、ああ見えて頭も硬いし、それに牙が簡単に肉を裂く。鱗は一枚が大きくて思ったよりも簡単に剥がせるということになっていた」
なんて面倒な筋書だ。苛立つセンテッドに、マリッカはさらなる面倒を叩きつける。
「腹を狙わなければならない理由は他にもある。建物の鍵はあの怪物の腹の中なの」
「そんなものを忠実に再現できるか! あの怪物は無視して、扉が開かなければ窓を壊して突入する!」
待ちなさい、とマリッカが叫ぶのを無視し、センテッドは剣を構えて怪物へと突っ込んでいく。すり抜けて玄関に辿り着きさえすればどうとでもなるだろう。マリッカは危なくなれば車に戻るはずだ。
しかし怪物は素早く身を翻すと、センテッドを前脚で殴りつけた。もちろん鱗で補強されていて、一発のダメージが大きい。
地面に叩きつけられたセンテッドは、脇腹の痛みに顔を顰める。肋骨が折れたか、いや、そこまでではない。ヒビは入ったかもしれないが。
「センテッド、大丈夫?!」
「大丈夫だ、こっちに来るな!」
こんな怪物、ヒント通りに倒すことも難しい。昔なら軍にキメラ退治の依頼があったようだが、現在は数年に一度あるかないかの珍しい案件だ。センテッドは関わったことがない。
援軍を待つか。いや、そんな悠長なことはしていられない。早くニールとマトリを助け出さなければ。
移動中の車内で、ニールの書いた作品の中で罠として実現できそうな案を、マリッカからいくつも聞いた。その中にはかかれば死に至る可能性があるものも多くあった。
ニールがホラー作家でなければ良かったのに。ミステリーでも駄目だ。何かこう、ほのぼのとした家族ものやひたすらに明るいコメディなどを書いていれば、こんな目には遭わずに済んだのではないか。そんな恨み言を内心で呟き、センテッドは再び剣を構える。
ホラーでなければ、自分だって彼の作品を読めた。怖い話は大の苦手なのだ。同じように苦手だと言っているエイマルは、しかしわざわざ読んで怖がっている。全く理解できない。
でもこんな戦いや冒険の要素があるなら、もう少し読んでおいても良かったかもしれない。そうすればひとつも話を知らないと後悔することもなかった。
他に弱点はないのか。物語の中に何かしらの描写は。マリッカに目配せするのも、怪物のターゲットが彼女になってしまいそうで躊躇する。
いちかばちか、頭部に斬りかかってみるか。顎の下はどうだろう。迷っている時間が惜しい。
再び地面を蹴る。顎の下をめがけて低く刃を振るった。皮、肉と沈む感覚に、突破の期待が高まった。
だが激しい痛みに怪物が大人しくしているわけはない。大きく首を振った勢いで剣は抜け、血飛沫とともにセンテッドまで飛ばされる。背中から木に叩きつけられ、呼吸がままならない。先程はなんとかもってくれた骨も、今度こそ折れた。
大きく口を開けた怪物の鋭い牙が、こちらに向いている。自分が噛み殺されたら、マリッカはどうなる。
負けていい理由がない。血塗れの体を奮い立たせ、足に力を込める。骨が軋んで諦めを誘うが、生憎素直に聞く性分ではない。
腹の装甲を剥がしさえすれば、その内側は柔らかい――ということになっている。体の下に入り込むことができれば勝機はある。
しかしその前に、小さな姿がセンテッドと怪物のあいだに飛び出して、怪物の前脚にしがみついた。
「マリッカ、離れろ!」
叫んだつもりが、痛みで声が掻き消える。いつの間に近づいてきていた。どうしてそんなことを。頭の中を回り始めた疑問を、双子のきょうだいは一刀両断した。
「剥がせ!」
指示の意味は考えるまでもない。反射するように肩が、腕が、腰が、脚が、姿勢を正し剣を構えた。
目標は眼前。脚にしがみついたマリッカを振り払おうと、上体を起こし後脚だけで立ち上がった怪物の、剥き出しになった腹の鱗。
踏み出した勢いで、剣を下から上へ、地面と空気を掬いあげ天に放り出すように振り上げた。
脆い鱗は剥がれ、美しく光る円盤となり宙を舞った。
怪物の無防備な柔らかい腹が露になり、間髪を入れず剣を構え直す。
疾さを増して振り下ろした刃は肉とその向こうを切り裂いて、輝く鱗に重なるように鮮やかな赤い雨が降り注いだ。
怪物が倒れるより先に、センテッドは全力で走る。剣は地面に放り出し、両手を伸ばした。投げ出された双子の身体を受け止め、後ろに倒れ込む。
「随分無茶するのね」
マリッカはすぐにセンテッドの上から退いて、彼を抱き起こした。
「マリッカこそ、丸腰のくせになんて無謀なことをしたんだ」
死ぬかもしれなかったんだぞ、と迫力なく叱ると、双子は微かに笑みさえ浮かべた。
「一度こんな無茶をしてみたかったのよ」
私はなんて幸運で幸福なのだろうと、そのときは本当に思っていたのだ。
「サフラン社文芸編集部にようこそ。君たちの入社を心より歓迎する」
夢を追いかけて、遂に憧れていた会社に就職することができた。サフラン社という出版社は、愛する作家が一番最初に本を出したところだ。そして現在まで多くの著作を世に送り出している。
「俺はドネス・マクラウド。しばらく君たちの研修にあたる。なんでも質問してくれよ」
しかも希望通りに配属されたそこの指導担当者は、優しく頼もしく、さらに。
「俺が担当してる作家? まずニール・シュタイナー先生だろ。それから……」
想い続けたホラー作家、ニール・シュタイナー先生を担当している、まさにその人だった。
ドネス先輩は仕事を教えてくれる他、息抜きの雑談もよくしてくれた。私のことは就職試験のときから覚えてくれていたらしい。
「ニール先生の担当編集者になりたいです! だもんな。俺の仕事を奪いに来たのかと思った」
「いや、あれは、その……緊張のあまり意気込み過ぎたというか、暴走したというか。大変失礼致しました」
「恐縮するなよ。やる気があっていいじゃないか」
面接のときに口走った言葉は短期間に何度も弄られた。――短期間しか弄られなかった。
ドネス先輩が突然入院し、腕に怪我をした状態で出社してきた、その数日後にニール先生の作品が全て絶版となることが発表された。他社から出しているものも全てだ。それからは私の望みには触れられなくなった。
混乱していて、仕事も覚えるのに必死で、ゆっくり落ち込んでいる暇はなかった。大学に入ってからひとり暮らしをしていた部屋には、ニール先生の既刊が全て揃っている。アルバイトができるようになってから、書店を駆け回って集めた日々が懐かしい。
もう、そんなこともできないのか。そんな寂しさも、朝になれば頭から追い出して、仕事に向かわなければならない。
「先輩、ニール先生はまた作品を書いてくださるでしょうか」
「そうだなあ……いつかまた、その日が来ることを待つしかないさ」
零した言葉をドネス先輩が否定しない、そのことだけに縋っていた。
月日が流れ、その年の夏の盛り。ドネス先輩は機嫌が良さそうに、受け取ってきた原稿のチェックをしていた。
「それ、良い作品なんですか?」
「おお、マトリ。とても良いぞ、時間があったら是非読んでみてくれ。これが冬に出る季刊誌に載って、デビュー作になるからな」
「どんなお話なんですか?」
「ホラーだよ。えげつないくらい怖くて心に刺さる、でもどこか切なくもある、そんな話だ」
この人の真骨頂だな、と先輩は笑った。けれども私は、そのときは作品を読まなかったのだ。同じ表現が似合う最愛の作家の、代わりを用意されてしまった気がして。
意地悪にも、その後で先輩に言ってしまったことがある。
「ニール先生は、お戻りにならないんでしょうか」
ドネス先輩は頼もしい笑顔で言った。
「いつかまたその日が来るのを、待つしかないな」
どうしてそんな晴れ晴れと笑えるの。もう他の作家を見つけたからか。そうですね、と微笑みながら、私は心の中で恨めしく思っていた。ドネス先輩と新しい作家――レナ・タイラスのことを。
そんな気持ちがあって、その人の作品を読むことは避けていた。素直に受け取れないだろうと遠ざけて、何冊か本を出しても手に取ることはできなかった。
思ったことがすぐに表情に出る私のことを、ドネス先輩もわからなかったはずはない。だから三年目の夏、先輩が異動のために引き継ぎを行なったとき、私はとても困惑したのだ。
「え、私がレナ・タイラス先生の担当を?」
「そうだ。マトリならきっとできると確信している」
「でも……レナ先生って、打ち合わせだけじゃなくて書類や原稿のやり取りまで、全部こちらがお宅に伺うんですよね」
正直、なんて面倒な人だろうと思っていた。ドネス先輩がレナ先生との仕事のために出かけると、他の用事がなかなか進まない。他の作家のように郵便などを活用してくれれば済むはずなのだ。特別扱いをする意味がわからない。
とはいえ割り振られてしまったものは仕方がない。レナ先生の本を集め、合間を縫って読むことにした。デビューから二年、本になった著作はそれほど数があるわけではなく、しかも全てサフラン社から出している。今は弊社の文芸雑誌に連載を持っている。
連載を単行本にするのは私の仕事になりそうだ。まずはそこから目を通していくことにした。
連載の初回を読んで、すぐに後悔した。意地を張って読もうとしなかった自分を殴りつけたい。
人の深層心理を露わにさせて抉るような展開とその言葉選び。やけにリアルだが不快にならない、五感に訴えかけるような描写。そして漆黒の闇に針で穴を開けたような、ささやかだけれど確かな希望。
文体はまるで違う。けれども似ていた。――レナ先生の作品は、ニール先生の綴る世界と通じるものがある。
ただ、ニール先生の書く物語はハッピーエンドも多かった。レナ先生の作品は、絶妙な後味の悪さを感じる。希望はあったはずなのに、最後は救われない。或いは幸せの裏に確実に深い悲しみや痛みが残っている。
私が、この人の物語を世に送り出せる。この人の伴走者になれる。そう思った途端、脳が痺れた。体温が上昇し、口角が上がる。――心の底から、わくわくしていた。
「だから、先生」
空気が段々薄くなってくる。私が呼吸をするごとに、この空間から酸素が失われる。大人しくして助けを待つのが最善だ。
なのに、私は止まれない。届かない言葉を紡いでしまう。
「望まないものなんか、書かないでください」
悪夢を元にしていようとそうでなかろうと、先生が書きたいという気持ちに突き動かされて書き続けてきたのが、彼の作品だ。
書きたい、の先にある、楽しませたい。或いはその逆。どちらか一方でも欠けてしまえば、きっとそれはレナ・タイラスの本領ではなくなってしまう。
私なんか捨ておいてしまっていい。納得のできるものを書いてほしい。私が好きなあなたは、あなたの作品は、そういうものだ。
あなたは私の希望なのに。幸福なのに。そうではなくなってしまったら、私は私の人生を呪ってしまう。
「嫌なんです」
私は幸せでいたい。自分の人生に胸を張りたい。そのためにあなたを利用する、卑怯で姑息な私だけれど。
このままじゃ、終われない。終わらせない。
たしかにこの状況は、これまでに見た悪夢に匹敵する。暗闇や毒虫などの罠のことではなく、この手に人の命がかかっているということが。
原稿用紙は机に大量に用意してあった。ペンは新品で、インクはたっぷりある。けれどもペン先は紙に引っかかり、インクは余計な滲みと掠れを繰り返す。苛立ちが考えを阻害して、思うように書き進まない。
早く書かなければ。認められなければ。彼女が殺されないように。
――こんなときでも、僕の手はちゃんと動いてくれる。それはとてもありがたい。
スムーズに進まないというだけで、着実に原稿用紙の行は埋まっている。ある意味、十五年の文筆業の集大成になってしまうかもしれない。
でもその言葉は、別の作品に使いたかった。本当に書きたいもののために。
強要された即興の物語は粗い。もっと丁寧に重ね、繊細に削り、作り上げていきたい。しかしそんな時間はない。
――マリッカちゃんなら怒るだろうな。
彼女にはこんな粗はすぐに見抜かれ、厳しい指摘をもらう。
――マトリさんはきっと、困った顔で首を傾げて、「なんだからしくないですね」なんて言うんだ。
彼女はややマイルドではあるが、的確に問題を見つけ出す。そうして少しずつ突き詰めていく。
アズハはどうだろう。彼女にも編集者たちのような目があれば、これでは満足させられない。マトリの命は削られ、消える。
自信がない。全力を出してはいるが、力の配分がいつもとは違う。自分で書いたものが他人にも面白く感じるのか、それはいつでも不安だ。今ここにあるものは、自分でも面白くはないと感じる。
――マトリさんを救えないかもしれない。
また無力だ。幼い頃に母が殺されるのをただ見ているだけだったように。親友である女の子をみすみす拐かされてしまったように。一緒に仕事をしてくれた人に大怪我を負わせてしまったように。
またこの手は届かずに、大切なものを奪われる。
既に後悔し始めている。こんなところで文字を綴るより、他に確実にマトリを助けられる方法があったかもしれない。
縋りついた方法は、この出来損ないの文章を書きつけるだけ。きっと選ぶべきではなかった道を選んでしまった。
一章分をピリオドで閉じる。やり直す時間はない。机の上のベルを、叩いて鳴らした。
アズハはすぐにやってきた。軽やかな足音が近づいてきて、部屋の扉が開け放たれる。彼女は好奇心に満ちた子供のような笑顔をしていた。
「待ってました! ああ、先生の生原稿を拝見できるなんて!」
「……読む前にマトリさんに空気を」
「ええ、約束ですものね」
アズハは手元で何やら操作した。これでマトリは新鮮な空気を吸うことができているのだろうか。
疑問は言わずとも伝わったらしく、アズハは軽く言った。
「大丈夫、今空気が流れ込んでます。様子をお見せすることはできないので、そうなんだなーって思っててください」
やはり姿を見ることは叶わないようだ。マトリの無事を信じるしかない。
空気が入るということは、どこかに通気口があるはずだ。それを見つけるだけの体力がマトリに残っていれば、あるいは。
アズハに原稿用紙の束を渡すと、目を輝かせて読み始めた。その場に立ったままはつらいのか、目を原稿用紙から離すことなく部屋の隅に座る。
読むことは本当に好きなんだな、とついしみじみ眺めてしまった。アズハが原稿用紙を捲る音と、そのまま放置されてしまっていた老女の何やら呟く声だけが部屋を満たす。
部屋の外から聞こえる音は遠く、しかしこの耳には届く。執筆中は全く入ってこなかったが、どうやらこれは希望の音だ。不穏さも窺えるが、好転すると信じるしかない。
やがて、アズハが顔を上げた。
「とても面白かった。やっぱりあなたは素晴らしい作家だわ、レナ先生」
にっこりして言うので、つい安堵の息が漏れた。これで自分もマトリも、首の皮が繋がる。時間を稼げばきっと助かる。
ところがその笑顔のまま、アズハは明瞭な発音で告げた。
「でも残念、時間切れでした」
「時間切れ? ……マトリさんは?! まさかもう……」
ニールが身を乗り出し立ち上がると、アズハは目を弓のように細める。赤い唇が「まだ生きてるけど」と動いた。
「ちょっと邪魔が入りそうだから。要らないかなと思ってたけど、双子を人質にとればまだ書いてくれるでしょう、先生」
「そんな……マトリさんはどうする気ですか」
「彼女は確実に殺すように頼まれてるから、ここでおしまいにしないと。ごめんなさいね」
手を合わせるアズハの表情に、言葉通りの申し訳なさは見えない。ニールは手に力を込め、短い爪が内側に刺さるほど握りしめた。
「誰に頼まれているんですか」
「そんなことを知ってどうなるんです? 先生には関係ないですよ。あなたはただ、これを完成させてくれれば良いんです。それともこれで終わりにした方がいいかしら。不完全な物語も想像をかきたてて良いですよね。ううん、やっぱりもうちょっと続きが読みたい気がするし……」
悩むなあ、と服でも選ぶかのようにアズハは言う。
「では続きを書きますから、マトリさんには危害を加えないでください」
「だからあ、マトリ・アンダーリューはもう殺しちゃわないと、わたしが困るんですよ。それにこんなに不幸でつらい目にあったら、死んで楽になった方がマシですよ。解放してあげましょう、先生」
「あなたは何が困るんですか」
「内緒です。ものすごーく困るんですけど、人に言うことじゃないです。男の人があんまり女の子のプライベートに踏み込んじゃダメですよ」
アズハの発言はめちゃくちゃだ。マトリをつらい目に遭わせているのは自分だという自覚がない。先に他人の生活に踏み込み脅かしたのも彼女だ。
それでもアズハにとっては正当性があり、筋の通った言動なのだろう。三年前から、彼女は自分のやり方に少しの疑問も持っていない。
「マトリさんを狙うのは誰かに頼まれたこととして、あなたはどうして作家を殺害するんですか」
「素晴らしいことをした人は、素晴らしいうちに華々しく人生を終えた方が美しいイメージを持って人々の心に遺るから。一瞬たりとも惜しまれもしないのは可哀想ですし、過去の栄光に縋りながらみっともなく生きるのも可哀想なので、わたしが感動のフィナーレを作ってあげるんです」
素敵でしょう? と首を傾げる彼女に邪気は見えない。何を話しても意味はないのだ。
そんなことはとうにわかっている。それでもニールがアズハに問い続けたのは、
「それで先生、時間稼ぎはまだ続けますか?」
彼女が返したとおりの理由だった。
息を呑んだニールに、アズハは腹を抱え、声をあげて笑う。
「お話していれば、わたしが下の部屋の空気を抜かずにいると思いました? そんなことしなくても、『マトリさん』は着実に死に近づいてますよ。ちょっと空気を足してあげただけで、劇的に寿命が延ばせるわけじゃないです。あなたはただ無駄な時間を使っただけ。思ったより頭が良くないのかしら? 残念、わたしの望む先生像からかけ離れちゃった、やっぱり今のうちに死んでしまいましょうかそれがいいわ!」
甲高くけたたましく、アズハの笑い声が響く。耳障りな音の中、彼女は袖からナイフを滑り落とし、その手でしっかりと柄を握る。
「絶筆は飽きるほど読んだらどこかに送ります。だから心残りなく、さようなら」
刃が体に届くまで、あと何秒だろう。
それだけあれば、十分だ。
「レナ先生! ご無事ですか?!」
ほら、信じていた通りだ。無駄な時間なんて、編集者である彼女が許すわけがない。
開け放ったドアの向こうの、アズハの姿さえ見透かして。私の目は一点集中、レナ先生の姿だけを捉えていた。
怪我はしていない。でも、安堵しているほどの余裕もない。
床を思い切り蹴り、私はアズハの背中に飛びつこうとした。
「マトリさん、危ない!」
先生が叫び、目の前のアズハが消える。倒れ込む先には、先程私が落ちた穴が空いている。
焦ったけれど、大丈夫。
「貴様は馬鹿か。勝手な行動はするなとさっきから言っているだろう」
襟首を掴み、少々いやかなり乱暴に、エスト准将が引き戻してくれた。機嫌が悪そうな眉間がさらに皺を深めている。
「すみません、つい暴走しました」
「本当に元気な被害者よね」
後ろからマリッカもひょっこりと顔を出す。おまけに彼女はそのまま前進し、エスト准将が止めるのも聞かずに穴を飛び越え、呆気に取られている先生の隣に降り立った。
「先生は? 見たところお怪我はないようですけど、ご気分はいかが?」
「僕は大丈夫だけど、それよりマリッカちゃんの怪我は? こんなに血塗れで……」
「これは全部私の血ではありませんので、ご心配なく」
先生と同じく、私もマリッカとエスト准将に会った時には驚くやら心配するやらでパニックに陥りかけた。他人の心配をしている場合じゃないだろうと、声を揃えて叱られたけれど。
「ちょっと、わたしを無視しないでくれる? せっかくの気分が台無し」
天井から声が降ってくる。私たちが見上げると、アズハが蝙蝠のように器用にぶら下がっていた。頬を膨らませたまま、穴を閉じてただの床になった場所に降り立つと、私を上目遣いで睨んだ。
「マトリ・アンダーリュー、あなたどうやって脱出したの? あの部屋はしっかり塞いだのに」
「塞がってません。あの部屋、昔は物置だったの。子供たちが勝手に入って遊んで、暴れて壁をぶち抜いたことがある。……そんなこと、あなたは知らなかったんですね」
私の寝室の真下は何だったか、息を止めつつ必死で思い出した。部屋の構造がわかれば、脱出の糸口になるかもしれない。
空気が少し入ってきたおかげで冷静になったのもあり、記憶が蘇った。
読んでいない本を求めて、私は物置によく出入りしていた。それを囃し立てようと追いかけてきて暴れた男の子たちが、ものの見事に壁を壊して、お母さんに叱られた事件。私や無関係だった子も手伝って、みんなで壁を直したのだ。だからそこだけ壁の材質は薄く脆い。
アズハは気が付かず、部屋に手を加えた人がいいかげんな仕事をした、そのことが私に幸運に働いた。
壁を殴っていたら、音に気がついた双子が外から破ってくれた。このタイミングも素晴らしかった。
「先生ならきっと音で気がついてくれるんじゃないかと思ってましたけど、アズハに途中で気が付かれたらピンチでしたね」
「上手く時間を稼いでくれたようだな」
エスト准将が珍しく褒めて、先生はちょっと照れたように笑った。
それが除け者にされたようで面白くなかったのか、アズハが突然「あー!」と叫んだ。
「時間稼ぎってそのためだったの?! ひどーい、先生ってば!」
「酷いのはどっちよ、人を誘拐監禁しておいて」
マリッカが冷静に言う。ふざけているようなやりとりの中で、エスト准将が一人、剣を構えた。
「遊びは終わりだ、殺人鬼。先日のようにはいかない」
こちらがぞっとするほどに空気が張り詰める。アズハも膨れるのをやめ、不敵に口角を上げた。
「無理。あなたはわたしには絶対に勝てない。わたしには魔眼があるんだから」
長い睫毛を伏せ、再び大きく目を開く。アズハの瞳が真っ赤に輝いている。一瞬でも見てしまった私は立ちくらんでしまい、近くの壁に手をついた。
今やアズハの最強の武器である魔眼。見た者を恐怖させ、立っているのが難しいほどの症状を引き起こす。
ずっとここにいたお母さんにも影響が出ているのか、苦しそうに呻き出した。這いずるようにして傍に行き、拘束されたままの手を握った。
「大丈夫。大丈夫ですよ、お母さん。すぐにつらいのは治まりますから」
骨と皮ばかりになってしまった、かさかさの手。けれどもまだ温かい。この人も救い、みんなで一緒に帰らなければ。
部屋を見渡す。膝をつく先生を、マリッカが傍らで支えている。アズハと対峙しているエスト准将もつらそうに――
「何を突っ立っている、アズハ・ヒース。こっちから叩き斬るぞ」
――している様子が、まるでない。
「どういうこと……?」
私の呟きに、アズハの声が重なった。エスト准将は一度、魔眼の前に倒れている。手も足も出ない悔しい光景を、私は目の当たりにした。
しかし今の彼は、アズハに勝るとも劣らない不敵な笑みを浮かべていた。そのまま剣の構えを少しも崩すことなく、アズハに向かう。
咄嗟にナイフで振られた刃を受け止め、アズハは貼り付けた笑顔を歪ませる。
「克服したの? オリジナルさんに手取り足取り訓練でもしてもらった?」
「そんなものは要らん。できたのさ、魔眼封じが!」
互いを弾くように距離をとった二人の表情は、以前とは逆転している。エスト准将には余裕があり、アズハは混乱しているようだ。
魔眼封じって何? そんなものがあったの? 私は視線で疑問を投げかけようとして、マリッカへ目をやり、さらに驚いた。
彼女も顔色ひとつ変えず、先生を守るように右腕を真っ直ぐ横に伸ばしている。私より身体が強くないはずなのに。
一方の私は何倍もの重力に押し潰されているような心地で、戦況を見守るばかりだ。情けないけれど、お母さんの隣にいるだけで限界なのだった。
「魔眼封じだなんてあるわけないでしょう」
アズハから笑みが消える。憎らしそうに、恨めしそうに、エスト准将を睨みつける。
「貴様の目の前にあるものが現実だ。下手くそな造形の夢から醒めろ」
エスト准将が再び踏み込む。目にも留まらぬ疾さで銀の光をアズハに叩き込む。
彼女は全くその場から動かなかった。
「下手くそですって」
動かなくても、刃に十分対抗できる無駄のない動きができる。彼女の武器は一つではない。天井まで一瞬にして跳べるほどの、常人離れした身体能力がある。
攻撃が届くまであとほんの僅かというところで、アズハは尖った踵が高いうえに重そうな靴を履いた足で、エスト准将の胸を蹴り潰していた。
勢いで背中から倒れ込んだ彼を、蹴りを入れたのと同じ場所を選んで踏む。エスト准将が苦しそうに呻いた。
「センテッド!」
「センテッド君……!」
マリッカと先生が悲鳴をあげると、アズハは再び嬉しそうに笑った。
「やっぱり肋骨折れちゃってるじゃない。今まで我慢してたの? いい子ねえ」
それで受身が遅れたのか。私も叫ぼうとしたけれど、目眩が酷くて吐き気がする。声を出したら胃液が喉を焼きそうだ。
「この場で戦えそうなのはあなただけだものね。悔しい? 憎い? 心残りがあれば魂だけでも留まれるかもね」
より強く踏まれたのか、エスト准将が胸に伸ばしかけた手も止まってしまう。歯を食いしばって呻いているのに、すぐ近くにいるのに、助けることができない。
「やめなさい! その足を退けて!」
駆け寄ろうとして、マリッカが立ち上がる。近付くとアズハはエスト准将を踏んでいた足を一瞬だけ持ち上げた。
そのまま回して、マリッカの腹を蹴り飛ばす。起き上がりかけたエスト准将を再び踏んで床に叩きつけ、やれやれと息を吐いた。
「弱いんだから無駄に動かない方がいいわよ」
蹲るマリッカの背に、先生が気遣うように触れる。――誰もアズハを止められない。絶望的だ。
「こうしましょうか。魔眼封じとやらについて詳しく教えてくれたら、双子と先生は見逃してあげる」
良かったわねえ、生き残る数が多くなっちゃう。にこにこして言うアズハの勘定に、私とお母さんは入っていない。どうしても私は死ななきゃいけないらしい。
「……そうか、これではっきりした」
低い声に、何故か僅かな笑みが混じった。
「貴様の狙いは最初からアンダーリューだけだったんだな」
ざらついた呼吸が混じるけれど、確信している。エスト准将が何かを掴んだことがわかると、アズハは笑うのをやめた。
「切り札が無くなりそうで焦っているんだろう。乗り切るにはアンダーリューを早く始末する必要が……っ!」
「肋骨と内臓まとめてぐちゃぐちゃにされたいの?」
足に体重をかけ、アズハはエスト准将を黙らせる。声も冷えて、かえって指摘が図星であったことを示しているようだ。
私だけが目的だったなら、誰も巻き込まないでほしかった。どうして先生たちまで傷つけたのだ。怒りが込み上げるけれど、まだ動けない。
「やれる、ものなら、やってみろ」
絶え絶えに、なのにまだ口角を上げたまま、エスト准将は言葉を発し続ける。
「……貴様には、無理だ」
――魔眼に対抗する方法だが、誰でも可能なのが一つだけある。
――重要なのは「耐えて待つ」こと。これができれば、必ず勝てる。
かつて魔眼の少女の相棒だった男は、そう教えてくれた。
耳を劈くのは、空間に幾つもの罅が走るのが見えるかのような断末魔。こちらの頭も割れそうな程だが、きっと本人はもっと激しい痛みを感じている。
黒いレースのスカートが床に崩れ落ちる。髪を飾っていたシルクのリボンが潰される。赤い唇が歪んで大きく開き、赤い瞳が天井を仰いだ。
「痛い……痛い痛い痛い痛い痛い!!!」
爪を塗った指先は黒髪に食い込んで、頭を掻き毟る。アズハの突然の変貌に、私は茫然としていた。
「魔眼の副作用だ。薬も切れたんだろう」
エスト准将がゆっくりと体を起こした。やはり骨折が痛むようで、少し動くたびに顔を顰める。
一方の私は体調の悪化が止んだ。全身にかかっていた不快な重さが和らぎ、呼吸が楽になる。
レナ先生もおそらく同じ状態だ。深呼吸をして、背筋を伸ばせるようになっている。
だから余計に酷く苦しそうなアズハに対して憐憫を感じてしまうのだろう。
「イリスの魔眼にいくらか慣れているはずのニールまであのザマだったんだ。かなりの力を使っていたはずだ。加えて危険薬物を使った代償がある」
エスト准将の言葉に、先生も頷いた。
「やっぱり、危険薬物で身体能力を無理やり強化していたんだね」
「でなければ、どれだけ素の能力が高いとはいえ、屋根までの跳躍なんか無理だろう」
どうやら先生も状況を理解している。私はまだ混乱しているけれど、アズハの状態が起きるべくして起こったものだということはわかった。
アズハは頭を抱えて蹲り、か細い声で呻いている。声も出せなくなってきたのだ。見ていられないと目を背けようとしたとき、外に大勢の人の気配がした。
「応援も来たようだ。観念するんだな、アズハ」
やがて部屋の外から雨のような複数の足音と、エスト准将を呼ぶ声が聞こえ始めた。
ここで指揮を執るなどと宣ったエスト准将は、やってきたグラン少尉の「はあ?」の一言で軍人たちに連行され、車に押し込まれていた。
私たちは――先生とマリッカさん、そしてお母さんも――中央司令部へ送られることになった。お母さんは自力で動けず、私とは別の車両に担架で運ばれた。
七人は乗れる仕様の軍用車両の中で、私と先生はぐったりとシートに身体を預ける。マリッカは姿勢良く座り、先生を心配そうに見ていた。
一番後ろの席ではエスト准将が寝かされている。ずっとぶつぶつと文句を言っているけれど、この対応は真っ当なものだと私は思う。怪我人に指揮は任せられない。
「マトリさん」
レナ先生が私を呼ぶ。私の名前を。
「魔眼の影響が酷かったでしょう。具合はどうですか」
「もうかなり楽なんですよ。ただ、ものすごく疲れました」
怠さがとれない。なんだか最近は仕事を休んでばかりだし、とても情けない。
「先生こそ大丈夫ですか」
「僕は慣れているので。イリスさんはあんなに乱暴には力を使いませんけれど」
「そうですか……」
魔眼がどうとか、危険薬物がどうとか、私にはよくわからない。エスト准将はよくアズハの様子がおかしくなるまで耐えたものだ。彼女が持ち堪えていたら、今頃はお母さんと同じく担架で救急車両に載せられていたかもしれない。
正直にそのまま口にすると、後方から低く呻くように返事があった。
「あの女は耐えられないとわかったから、時間稼ぎをしたんだ」
「わかったって、どうやってですか」
「発汗の具合や足から伝わる痙攣など、予兆は十分にあった。こっちだって十五年、そういう手合いを判断する技能を身につけ、向上させている。軍人を舐めるな」
痛みでつらいだろうに、どうやらこれはいつかの私への意趣返しだ。随分根に持っていたらしい。
「マリッカちゃんも来てくれるなんて思わなかった」
「だって、私は先生の担当編集者ですから。地の果てまでも追いかけていって、あなたから原稿をいただきます」
蹴られたお腹が痛むだろうに、胸を張ってマリッカが言うと、先生は困った顔で息を吐いた。
「僕の周りの人って、無茶をする人ばっかりだ」
先生だってそうですよ、と思ったのはきっと私だけではない。大切なものを守るために、この人だってやるときには相当の無茶をする。
「ありがとうございます、先生」
私を助けてくれて。そして、私に希望を与えてくれて。
一言に込めた気持ちが全て伝わったかどうかはわからない。先生は驚いたように目を見開き、それからすうっと金色の輝きを細め、月のように笑った。
「こちらこそ、ありがとうございます。マトリさんの勇気がなければ、乗り越えられませんでした」
勇気なんて、そんな立派なものではない。でも、先生にお礼を言われると胸が温かくなる。頑張って良かったと思える。
私は、私の人生を頑張ってきて良かった。
少し眠ったら、また頑張るんだ。頑張りたい。
だって私は、とてもとても、幸福なのだから。