お母さん、お体の具合はいかがですか。
目と手の機能が回復してきたと伺ったので、この手紙を書いています。
もう随分寒くなりましたね。時間が経つのは本当にあっという間です。
アズハに攫われ、たくさんの人に助けられたあの日から三日が経った。検査のためにと私は軍管轄の病院に入院していて、けれども少しも休む暇がなかった。
検査の合間に聴取というハードなスケジュールをこなし、早く眠りたいと願う日々。それは私だけではなく、レナ先生もだった。
「マトリさんの退院は明日だそうですね」
「はい。先生はこれから手続きですか」
「僕はもともと怪我などしていませんでしたから。……でも、入院してみてちょっとだけ良いことはありました」
ラウンジで並んでアイスクリームを食べる、僅かな安らぎの時間。こうしていると先日の騒ぎなど夢だったかのようだ。
先生も嬉しそうに笑っている。
「ルーファさんとニアさんが、揃って迎えに来てくれたので。このアイスクリームも二人からの差し入れなんですよ」
「え、そんな大事なものをいただいちゃったんですか。よく見たらこれ、老舗の有名店の……」
「バニラが一番美味しいんですよね。うちの祖父がとても好きなんです。小さい頃はよく散歩のついでに食べさせてもらいました」
家族が顔を合わせられたのが、余程嬉しいらしい。こういうときも口数が多くなるのか。
ところでその二人はどこにいるのだろう。疑問は抱いた途端、声とともに解けた。
「あ、アイス食べてる。いいなあ、今日暑いものね」
軍医のユロウ・ホワイトナイト先生が、後ろにレナ先生のご両親を伴ってやってきた。ニア先生――インフェリア先生だとややこしいと言われたので改めた――がこちらに手を振ってくれ、私も会釈で返す。
暑いという割には、ホワイトナイト先生はいつも首をすっぽり覆うハイネックの服を着ている。首が隠れてないとまずいんだよね、とレナ先生とは逆のことを言っていた。
「ニール、手続きは終わったからね」
「え、これから行こうとしてたのに」
「ニア君がさっさと済ませちゃったよ。早く帰って精算したら」
雑談してくるだけって言ってたのに、とレナ先生は拗ねたように口をとがらせる。可愛らしくて思わず笑ってしまいそうになるのを必死で堪えた。
ホワイトナイト先生がレナ先生を少しだけぞんざいに扱うのは、彼がエイマルさんの叔父であり、昔からの馴染みだからだそうだ。知人の無茶には慣れていると言って、今回のことも実に手際よく対応してくれた。
「ニールはこれで終わりとして、マトリちゃんは検査結果の説明をしたいからおいで。それ食べてからでいいから」
「あ、はい。急いで食べちゃいますので。レナ先生、また改めて」
「はい、また」
次の約束をして、レナ先生の姿を見送ることができる。その幸せをアイスクリームの甘さと一緒に噛み締めた。
検査の目的は、怪我の具合、魔眼の影響ともうひとつ。私が薬や毒の効かない体質であることの確認だ。
病院で処方された薬も効果がなかった。やはり私は薬を「無効化」してしまうのだ。
「いやいや、『無効化』はしてないよ。ものすごーく効きにくいだけ」
ところが私の認識を、担当医は軽い口調で覆した。医者なのに前髪が長くてどんな目をしているのかわからないけれど、口は完全に笑っている。
「……でも、昔、そうやって言われてたんですけど」
「昔じゃん? もしかしたら体質がちょっとずつ変わったのかもしれない。とにかく今は、君が強固に信じていたほど、薬が効かないわけじゃない」
だからねえ、と担当医のサウラ・ナイト先生は身を乗り出し、私に顔を寄せてくる。近距離での声は、先程より重みを増した。
「毒虫に手を突っ込むとか、もう二度としないように。魔眼にやられたというよりは、毒がまわっていたところで更に三半規管がやられたんだよ。動けなくなるのは当たり前だ」
「でも、私、毒は」
「効いてるんだってば。いいかい、君は万能じゃない。君が思い悩んでいたよりもずっと、ただの人間なんだ」
私は不幸なんかじゃない、可哀想なんかじゃないと思い続けてきたのは、自分の生まれに対して絶望を感じていた裏返しだ。
親はいない。妙な体質がある。それを乗り越えて幸せになる主人公を、物語の中ではたくさん見てきた。見習わなければと頑張って、けれども他の人と同じようにもなりたいといつも強く願っていた。
でも何かが違うと、他の人のように上手くいかないと、どうせ私は可哀想で不幸で、異質なものなのだと諦めた。例えば、親子のことなどわからない、人間関係は私が知っているものと違うようだからわからない。色々なかたちがあるのは本で読んで知っているし、立ち入らず何も考えずにいよう。そんなふうに離れてしまい、失くした関係もあった。
誰かをそんなものなのだと認めたふりを装って、その実、他人を理解できない自分をこそ守っていたのだった。
私を呪い縛っていたのは、私自身だ。お母さんの言葉はそこに名前を与えただけに過ぎない。
でも、もしも私がただの人間なら。
特別に可哀想なわけではなく、異端の者ではなく、悲劇を背負った主人公などではないのなら。
「え、ちょっと、どうしたの。俺の言葉、キツかったかなあ?」
ナイト先生がおろおろしだす。私は慌てて頬を伝ったものを拭ったけれど、後から後から溢れて止まらない。
「あの、違うんです。……これは、怖いとか悲しいとかじゃなくてですね」
言い訳を並べてみるけれど、適切な言葉がどうにも出てこない。この涙はなんだろう。
向かい合って互いに動揺していると、部屋の外から戸を叩く音がした。
「サウラくーん、検査結果の説明終わったー?」
聞き覚えのある女の子の声だ。誰だっけと考えている間に、ナイト先生が立ち上がって更に焦る。
「待って待って、終わってるけど終わってない!」
私にちり紙を押し付けて、早く拭いてと促す。急いで従い、紙を捨てた。
ナイト先生の「もういいよー」に応じて入ってきたのは、いつぞやに護衛をしてくれ、先日も助けに来てくれたヨハンナ・グラン少尉。それから、
「何を騒いでたんだ、全く」
呆れた顔をしたエスト准将だった。グラン少尉は軍服だが、エスト准将は入院着で、胸部に固定具が巻いてある。
「准将、安静にしていなくて良いんですか」
「しててほしいんだけどね。この人全然俺のいうこと聞いてくれなくて」
心配した私にナイト先生がそう言うと、エスト准将は眉間に皺を寄せる。そろそろ痕が取れなくなりそうだ。
「無駄話のせいで安静にする時間が減るんだ。アンダーリュー、ここからは患者の関係者として話を聞いてもらう」
「関係者、ですか? 准将の?」
「私ではない。ブランキルト養育園の園長、カヤバ・エカルテのことだ」
どきりとした。園長――お母さんのことは、ここに来てから聞かされていなかったのだ。もちろん会うこともできていない。こちらから容態を尋ねる勇気もなかった。
口にしようとすると、思い出してしまう。お母さんの骨に皮だけを張ったようなかさかさの手や、掠れた声の「可哀想」を。
「彼女には身寄りがいない。かつて養育園のスタッフだった者とも連絡がつかない。今この話を伝えられるのは貴様だけだ、アンダーリュー」
私だけ。これから他の誰かが知るとしても、今ここには私しかいない。動けなくなってしまったところに、グラン少尉が入ってくれた。
「でも、断ることもできますよ。あなたは施設の出身というだけで、エカルテの家族ではないし……」
気遣うような声は、しかしふと途切れた。グラン少尉は私の顔をまじまじと見つめ、それからナイト先生をキッと睨んだ。
「サウラ君、マトリさんのこと泣かせた?」
「え」
「涙の跡。ねえ、女の子虐めるとかそんなブサイクなことしてないよね?」
ぎくりとわかりやすく動揺したナイト先生を、グラン少尉は綺麗だけれど怖い顔で問い詰める。完全に話が逸れてしまった光景を呆気に取られて眺める私に、エスト准将が「おい」と低く呼びかけた。
「それでどうなんだ」
「あ、すみません。お母さんのことでしたら、私が聞きます」
「そうか、それはありがたい。……で、泣かされたのか」
もしかして、今の「どうなんだ」はそっちだったのか。頬が熱くなるのを隠すように、慌てて顔を俯けた。
「いえ、泣かされたんじゃないんですよ。ただ、私の体質が思っていたより深刻なものではなかったので、……そう、ちょっと気が抜けて」
やっと近い言葉が導き出せた。納得してくれたのか、怒っていたグラン少尉と本当に泣かされそうになっていたナイト先生も静かになる。
「だからですね、本題に戻りましょう。お母さんのこと、聞かせてください」
私がへらっと笑顔をつくると、それぞれが寝台やスツールに腰を落ち着けた。
「エカルテは薬物中毒だ。随分長いこと使用していたと思われる」
エスト准将が切り出し、私も頷いた。それはお母さんの様子からも窺えたので、誰かから言われれば改めて聞く覚悟はできていた。
ブランキルト養育園の経営が立ち行かなくなり、廃止されてしまったのは一年程前。私がレナ先生の担当になった頃より、もう少しだけ前のことだ。
子供たちもスタッフもみんな園を離れてしまい、お母さんはひとりぼっちになってしまった。そこをアズハに利用されたのではないか、というのが今のところの軍の見解だという。
「あの女の背後にあるものについては、これから捜査を進める。アズハ自身も薬物を使用しているからには、エカルテが薬物を手に入れるのに関与している可能性は非常に高い」
薬物への依存が強くなったお母さんを、アズハは椅子に縛り付け、衰弱させたのではないか。おそらくは、薬物を手に入れることが難しくなったから。
「アズハも自分の手持ちの薬物を切らしかけていた。だからアンダーリューの殺害を早めようとした」
「どういうことですか。話が飛んでますよ」
「つまりですね、マトリさんを亡き者にしたかったのは、アズハの背後にいる何者かなんです。アズハはその人物に依頼されたとおりにマトリさんの命を差し出すことで、危険薬物を手に入れられるはずだった」
グラン少尉が手帳を開き、ペンでぐるぐると図を描いてくれた。背後にいる人物には「まだ謎!」と書き添える。
この先はアズハを取り調べなければわからない。はっきりしているのは、お母さんに使われていた薬のことだけだそうだ。
「養育園を隅々まで調べ、成分の採取に成功した。使用することで一時的に多幸感を得ることができるけど、その後の倦怠感や抑鬱状態が強い。食事や体を動かすことが困難になり、だんだん衰弱していく。昔からある種類の危険薬物でね、エルニーニャ軍も長いこと取り締まりを続けている」
ナイト先生の簡単な説明だけでもぞっとする。そんなもの、使い続けていたら死んでしまう。でもお母さんはそれに縋ってしまったのだ。
唆したのがアズハたちだとしても、受け入れてしまったのはお母さん自身。全てを失って追い詰められていたのかもしれない。
「でも、希望はあるよ。俺たちにはエカルテさんのような患者が回復するためのノウハウがちゃんとあるからね」
「回復……お母さんは良くなるんですか」
元気になるなら嬉しい。でも、きっと厳しく根気のいる道のりだ。同じことを繰り返さないために、多くの手助けが必要になる。
「……あの、マトリさんがエカルテの面倒をみなきゃいけないってことはないですからね」
寝台の上で片膝を抱えたグラン少尉が言う。ナイト先生が何か言おうとしたけれど、一音すら発せないうちに次いだ。
「あたしだったら嫌ですもん。人のことずっと可哀想だとか不幸だとか言う人と、一緒になんていられない」
聴取のときに私と、きっとレナ先生も証言した内容だ。お母さんがずっとうわ言のように呟く言葉。私自身ショックを受け、動けなくなってしまった「呪い」。
「マトリさんは幸せになっていいんだから」
「だとしても、それはヨハンナが言うことじゃない。たしかに今後について色々選択肢はあるし、場合によってはまたマトリちゃんに話をしたり聞いたりすることがあると思うけど」
グラン少尉やナイト先生の話は、まだうまく頭に入ってこない。とにかく今は、お母さんが回復できる可能性があるという、それだけでいっぱいいっぱいだ。
「おい、ひとまずいいだろう。今後の話はまたいずれすればいい」
混乱をすぱりと切り口も鮮やかに、断ったのはエスト准将の低音だった。
「それもそうだなあ。悪かったね、マトリちゃん」
「いえ、大丈夫です。大事な話なんだから今でも」
「エカルテについてまだ捜査が十分ではない。次回もう一度機会を設ける」
行くぞ、と立ち上がったからには、私も共に退室しなければならないらしい。慌てて立ち上がってナイト先生とグラン少尉に礼を言い、部屋を出た。
怪我をしているというのに、エスト准将は相変わらず大股の速足だ。追いつこうとして私も駆け足になり、案の定つまづいた。
「待ってくださいよ。お母さんの捜査って何ですか」
転ばずに済んだけれど、変に体重をかけてしまった足が痛い。ようやく立ち止まって振り向いたエスト准将は、また眉を寄せていた。
「足も痛めていたのか」
「これはたった今痛くなったんです。それより質問に答えてください」
「もう少しだけ歩け」
そうしてまた先に行ってしまう。腹が立ったら痛みを忘れた。追いついて、彼の腕を両手で掴む。
「何をする」
「紳士ならエスコートしてくださいます? そうやって自分だけどんどん先に行くんじゃなくて」
「残念ながら紳士ではない。ほら、あそこに座れ」
前方に腰掛けられそうな場所がある。あれを目指していたらしい。促されて向かい、二人で座った。
エスト准将が渋い顔をして胸の固定具に触れる。私よりもこの人の方が大怪我をしていて、痛むはずだ。
「大丈夫ですか」
「何も問題はない」
強がりだろう。これ以上言うと、また口喧嘩で終わってしまいそうなので、黙っていたけれど。
「重要なのは」
何の脈絡もなくエスト准将が切り出し、私は姿勢を正す。彼はこちらに一瞥もくれず続けた。
「エカルテ園長に回復の見込みがあるということだけだ。他のことは考えなくていい」
「……はい」
先程の続きだったようだ。話がややこしくなりかけたので、脱出させてくれたのだ。
次いで、准将は事件の全貌はアズハの聴取と、その後の捜査で徐々に明らかにしていくということを教えてくれた。それには長い時間がかかりそうだということも。
だから私は、自分自身の心配をして、たまにお母さんが元気かどうか気にすればいいらしい。
「園長についても、サウラに任せていればいい。あれは危険薬物に関してはエルニーニャ軍で最も信頼できる。血が苦手な軍医だが、なくてはならない人材だ」
「ナイト先生ってそんなにすごい人なんですか」
「それとヨハンナは物言いに偏りがあるが、あれはあれで心配しているんだ。親との確執で潰れかけた人間をよく知っているからな」
「ああ、それで。わかりますよ、グラン少尉が私のことを考えてくれてること」
相槌を打ちながら、やはり、と思う。この人は横暴な態度をとるくせに、誰かのフォローはしたいのだ。
最近変わったのか、それとも私が知らなかっただけで実はこういう人だったのか。いずれにせよ初対面のときより随分と印象は良くなった。
「……何故そんなだらしのない顔をしている」
「失礼な。私はただ准将にも」
いや、違う。今の私たちは同じ服を着ている。
「……センテッドにも優しいところがあるんだなって、思ってただけ」
私服のときは階級で呼ぶな、って言っていたでしょう。目を丸くしているから、忘れていたのだろうけれど。
気が狂いそうだ、と音をあげたのはこれで三人目だった。本来の担当者が重傷を負ったために休んでいて、他の人員を当たらせているのだが、聴取はなかなか進まない。
任せろと言った手前もある、と大総統閣下に時間を貰い、ルイゼンはこの狭い取調室にいる。供述書の作成を担当する部下の疲れた顔を窺い、申し訳なさを抱きながら対象に改めて向き合った。
目の前で頬杖をついて退屈そうにしている彼女は、連続殺人犯だ。自分では外せない目隠しの下には、赤く光る魔眼がある。
「休憩はできたか」
こちらから尋ねると、彼女の赤い唇が開いた。
「また人が変わったの? いちいち自己紹介から始めるのが面倒だわ」
「すまないな。君の話に耐えられる人間がなかなかいないんだ」
「正直に喋ってあげてるだけなのに、軍って本当に無粋で失礼ね」
はあ、と大仰な溜息を吐き、彼女はパイプ椅子の背もたれに気怠げに寄りかかる。
「まずは、名前と年齢、職業を」
「言い飽きたー。ええと、アズハ・ヒース、歳は内緒の殺し屋でーす」
「三十三歳無職で間違いないだろうか」
「……ほーら無粋。でもあなた、怒鳴らないだけマシね」
すぐに話を茶化される、と前任者たちは憤っていた。凄みをきかせても通用しないのは、三年前の逮捕時と同じだ。当時はセンテッドが特に苛立っていた。
逆にこちらが冷静であっても、アズハは相手を揶揄うような発言を繰り返す。時間をかけすぎればアズハに投与した薬の効き目が切れ、話ができなくなる。
薬はごく弱く調整した筋力増強効果を得るもので、用法用量を誤れば危険薬物と同様の作用がある。だがこれがなければアズハは動けない。彼女はそれほどまでに危険薬物と魔眼に依存していた。
前回の釈放後、まもなくしてアズハの悪癖が出た。本を読み漁り、好みの作家を見つけ、自分の理想を押し付ける。彼女の場合はその方法が作家の殺害だった。傑作を発表し人々に認められたとき、それが作家の人生の絶頂期であると勝手に判断し、「幸せなうちに終わらせる」。
ニールを襲撃した事件も、実は余罪があると考えられていた。それ以前に数件、作家が被害に遭う事件が起きていたのだ。しかし証拠が不十分だったため、アズハの犯行であると断定できなかった。
釈放後に一名を手にかけたアズハは、反社会組織――所謂「裏」に目をつけられた。彼らは何の躊躇いもなく確実に人を殺すことのできるアズハを利用しようと考えたらしい。
裏は身体能力を劇的に上げる薬をアズハに提供した。薬を使用して能力を示せば、更なる支援をすると約束した。
アズハの個人的な目的と裏からの依頼、それぞれを薬で強化した身体を駆使してこなす。自在な跳躍などは追跡や逃亡にも役に立つ。彼女曰く「楽しみながら仕事ができた」。
魔眼と出会ったのは昨年の秋頃。殺人の報酬として薬を受け取りに売人と会った際、こんなものを作っているが興味はあるかと写真を見せられた。
写っていたのは眼球だ。瞳は大陸南部で採掘される宝石のような赤い色。見蕩れている間に、売人はそれが力を持ったものであることを教えてくれた。
眼を見た者の恐怖や嫌悪を煽り、頭痛や目眩を誘発して気力を奪う。まるで大好きな物語に出てくるような能力に、アズハは心を奪われた。
どうしたら手に入れられるのかと問うと、売人は「上の仕事を請け負えば」と答えた。それがどんなものかわからないまま、ただ眼が欲しくて、売人を通じて「上」と接触した。
任されたのはある貴族の後始末だった。裏と繋がって危険薬物を手に入れていたことを軍に知られ、貴族特権を剥奪された家を片付ける。複数に分割された仕事のうち、アズハの担当は貴族家が経営に関わっていた養護施設の処理となった。
貴族家からの収入が一切なくなった施設はとうに廃され、残るは建物と施設の園長の処遇だけ。貴族が押し付けた危険薬物の在庫を軍に渡されないよう、園長は既に裏が監禁していた。
つまり園長を殺害し建物を消せば仕事は終わってしまう。それでは面白味がない。当初はそう思っていたが、思わぬ掘り出し物が出た。
ひとつは園長が保管していた、施設にいた子供たちの名簿。保護するに至った経緯なども詳細に書かれていた。
そしてもうひとつは、手紙だ。園長の机に大切にしまわれていた、施設が機能しなくなる直前に届いた手紙である。名簿と照らし合わせて、かつて施設に暮らしていた人物からだとわかった。
名簿には興味深いことが書かれていた。その子がまずは軍に保護されたこと。行方不明者のリストに該当しなかったこと。――自らを「十三」と名乗り、「研究施設から来た」と話したこと。
当時は証言通りの研究施設らしいものはいくら探しても見つからなかったため、子供が混乱し夢と現実の区別がつかなくなったのではと考えられたようだ。
アズハは名簿を雇い主に見せ、心当たりを尋ねた。返答は思った以上に面白いものだった。
かつて施設から遠くない場所に、たしかに研究施設は存在した。そこでは人身売買組織から買い上げた子供たちを利用して、人体実験を行なっていたという。
研究施設が勝手に薬を売って利益を得始めたので、罠にかけ、研究員や被検体の子供たちごと消滅させたはずだった。だがどうやら生き残りが存在したらしい。
――薬を無効化する、特異な被検体がいたという話を聞いたことがある。
特殊な状況下にあった、特別な人間。しかもそれはアズハが読んだ手紙によると、順調に成長して、出版社に勤めているらしい。
研究施設の存在は完全に抹消しなければならない。そのため生き残った人間を処分することも、アズハに任せられた。確実に遂行するならば、やり方は自由だと。
それから手紙を書いた人物について徹底的に調べあげ、運命的ともいえる事実に辿り着いた。彼女は出版社の文芸編集者、しかもアズハがターゲットとして定めていた作家の担当をしている。これは素晴らしいシナリオが描けそうだ。
監禁していた園長は、とうに薬漬けでまともに字を書くことも難しい。手紙を代筆してやりとりを続け、情報収集をすることにした。
より良いシナリオを組み立てたいと裏に交渉し、数回の殺人を重ねて実績を示し、遂に魔眼も手に入れた。好きな物語をモデルにしたキメラも用意した。
順風満帆だった。ターゲットにも接触でき、魔眼の威力も確認した。絶対に上手くいくと確信していた――しかし。
薬を使用していないときの体の動きが鈍くなった。無理に強めた筋肉が、動きに対応しようとしていた内臓が、少しずつ傷ついていた。徐々に危険薬物の副作用が現れ始め、アズハは焦った。
日常生活にも危険薬物が欠かせなくなり、使用量は増える。所持していたストックは足りなくなり、売人から買おうとした。
これ以上は仕事をしないと提供できない、と言われた。好きに遊ぶことにこだわって、ターゲットの殺害を先延ばしにしてきたが、もう猶予はなかった。
誘拐事件はアズハが今できる全力の遊びであり、仕事だった。弱った体で完遂することは不可能だったが。
最後は自嘲で締めたアズハの、長い長い語りを、ルイゼンは黙って聴いていた。相槌は無言の頷きで、記録をする手も静かだった。
「ご清聴ありがとう。こんなに口を挟まずに聴いてくれた人は初めて。お顔を見られないのが残念ね」
美しく弧を描く赤い唇は、よく見るとかさついている。頬もふっくらと見せる化粧ができなければ、痩けているのが明白だ。
こうなってまで、彼女は人を殺したかったのか。怨恨ではなく、ただ己の理想と快楽のために。
「君の言い分はわかった。マトリ・アンダーリューを狙った理由も教えてくれてありがとう」
「え、お礼まで言われちゃった。あなた、本当に軍人?」
「ああ。だからこれから君にいくつか質問をする。できるだけ答えて欲しい。答えるからには正直に。嘘をつくと罪になる」
「どうしても隠したいときは?」
「黙っていて構わない。君にはその権利がある。その後の裁きでの有利不利は当然出てくるが、無駄に罪状を重ねるよりはいい」
目隠しの下にあっても、アズハが驚いて瞠目するのがわかった。記録係は心配そうにルイゼンを見ている。
コツは彼女を興醒めさせないこと。恫喝するのも全く無反応でいるのもいけない。相手が行使できる権利を明らかにして、警戒を解く。
尤もルイゼンとてただ受け身でいるつもりはない。反撃の手は先輩譲りだ。
退院の手続きを終えた私を迎えに来てくれたのは、ドネス先輩だった。にっと笑って手を振ってくれる姿に、じんわりと目頭が熱くなる。
「先輩、ご迷惑をお掛けして、本当に本当に申し訳ありませんでした!」
「何だよ、謝るのか。俺はマトリに『ありがとう! 先輩にハンバーグ弁当奢りますね!』って言ってもらえるのを期待してたのに」
私たちが助かったのは、ドネス先輩が軍に的確に連絡をとってくれたからだ。でなければ軍が到着するより先に、私は死んでしまっていたかもしれない。
「ありがとうございます、先輩。もちろん近日中に何かしらのお礼はしますよ。でも私の真似っぽい裏声はもうやめてくださいね、下手ですから」
「冗談に対して手厳しいな。わかった、もうやらん」
苦笑する先輩と並んで行こうとすると、背後から咳払いが聞こえた。用があるなら声をかけてくれればいいのに。
「何ですか、エスト准将。お礼ならさっき言いましたけど」
肩に軍服の上着を羽織っているので、名前で呼ぶのは遠慮した。どうやら既に仕事に戻っているらしい。
「その事ではない。マクラウド、時間はあるか」
「ないですね。部下を送ったらすぐ仕事に戻るので」
相変わらずこの二人の間には険悪な空気が漂っている。今回は協力して私たちを助けてくれたはずなので、もう少し関係が良くなるのではと思ったけれど、そう簡単にはいかないようだ。
「そうか、邪魔をしたな」
「用事なら後ほど電話でもかけてください。では失礼」
「待ってくださいよ先輩……。准将、また今度」
先輩を追いかけて、車の助手席に乗り込む。落ち着く間もなく発進し、口を開こうとした私を遮るようにドネス先輩が話しだした。
「しっかり休んで、出られそうなら一度連絡しろ。君の仕事は手分けして進めているそうだから、焦ることはない」
「それはありがたいんですけど。あの、准将とお話しても良かったんですよ」
「何を話すんだ。相変わらず上から目線だな、あの人は」
「そうですけど、話してみたら案外悪い人じゃないと思います」
私には今後もしばらく軍人がつくらしい。エスト准将とドネス先輩が顔を合わせる機会もあるかもしれない。その度に険悪な雰囲気になるといたたまれない。
しかしドネス先輩は大きく長く息を吐いた。
「わかってるさ、あの人が悪くないことは。部下も妹も世話になったんだ」
独り言のように、不明瞭に洩らした言葉に反応する暇は与えられなかった。先輩はすぐに仕事の話を続ける。
「戻ってきたらまずは仕事を引き受けてくれた人全員からきちんと引き継ぎをしてもらうこと。机の上がメモだらけになってるぞ」
「どうして先輩がそんなこと知ってるんですか」
「一時的に文芸に戻ったんだ。マトリが担当している作家なら俺は詳しい」
「先輩から引き継いだ人が多いですからね」
ドネス先輩は大切なことも少しずつ教えるような人で、思い返せばレナ先生と同様に謎は多い。妹という単語だって初めて出た。私が知っている先輩のプライベートといえば、奥さんと犬たちと一緒に暮らしているということくらい。
まだこの人のしてきた仕事の、全てを引き継げてはいないような気がする。その想いも、私が知っているのはほんの一端なのだろう。
ぼんやりと先輩の横顔を見ていると、次の話題になった。
「それとレナ先生な。一緒に外出したんだって?」
「そうなんですよ。ニア先生の個展に伺いました」
本当は皆で出かけた翌日にドネス先輩に報告するつもりだった。けれども当日に話せたのは、私と先生が監禁されているということだけ。
「もう先生の親子関係は大丈夫です。昨日だって迎えにいらしてましたし」
「そうらしいな。一安心ってところか。……それで、レナ先生から相談を受けてるんだが」
ちょうど車が停止した。信号機に従って、目の前を人々が横切っていく。
「ことあるごとに訪問するの、そろそろおしまいにするか」
予想通りの展開だ、今更驚きはしない。この後信号機が色を変えて、私たちが再び進み始めるのと同じ。
先生は抱えていた問題を乗り越えられたのだから、私も認識を改めなければならない。感傷で仕事はできないし、するつもりもない。
マリッカとの約束を果たせたのは、仕事に復帰してからだった。これまで散々人に任せてしまった分をなんとか取り戻して、ついでに新しい仕事も引き受け、後日にはレナ先生との打ち合わせも控えている。
私の住む部屋のテーブルには、こちらで用意した料理やお菓子と、マリッカが持参したおつまみやお酒。私は甘い果実酒を、マリッカはウイスキーを、それぞれグラスに氷を入れて準備万端。
「マリッカってお酒強いんだね」
「そこそこ。マトリはアルコールも効かなかったりするの?」
「ううん、ちゃんと酔うよ。そういうことを考えると、やっぱりなんでもかんでも効かないわけではないんだよね」
料理は出来合いのものを買ってきて盛り付けただけだし、おつまみはちょっと高級だけれど遠慮なく口に放り込むし、優雅な時間とはいえない。でも私たち双方にとって初めての、友達と過ごす夜だ。
しばらくは仕事の話をしていた。社内の情報はもちろん出さずに、当たり障りない、でもたしかに私たちの業界に通じる、他愛もない話を。
お酒が進んでから、マリッカの方から話題を変えた。ずっと保留にしてしまっていた、彼女が私にしたかった話だ。
「マトリに謝ろうと思ってたの」
「私に? なんで?」
「知ってたのよ、あなたの過去。アズハが話すのを、止めさせもせずに聞いた」
知ったタイミングや、どのような言い方だったかを、マリッカは詳細に教えてくれた。アズハが話したという内容に殆ど否定するようなところはない。しいていえば彼女が強調するほど、私はその事を悲惨だとは思っていない。
「でも、私には衝撃だった。あなたはただただ能天気にレナ先生の担当をしていて、狙われる理由なんてわからなかったから」
「そうだよね。私もわからなかったもん」
「……そういう風に軽く返事をするところ、予想してたけどイラッとする」
私はずっとマリッカのことを羨ましいと思っていたけれど、マリッカも私のことが羨ましかったという。先生と一緒にアズハに狙われているというところに、特別なものを感じていたそうだ。
しかし私の境遇を知ってしまったことで、嫉妬している場合ではないと、勝手に知ったことを謝ろうと思っていた。
「でも、やめた」
グラスに残っていたお酒をあおり、それでも顔色ひとつ変えずにマリッカは私を真っ直ぐ見た。
「あなたの過去がどうであろうと、現在のことには関係ないし。誘拐や傷害は笑い事じゃないけど、先生と長い時間二人きりでいたのはやっぱり羨ましいし妬ましい」
もしや、酔っても顔に出ないだけなのだろうか。こころなしか早口にもなっているような。戸惑う私に、彼女は人差し指を突きつけた。
「だから謝るのはやめた。何があろうと、あなたが私のライバルなのは変わりないもの」
「ライバル……」
魅力的な響き。私が憧れた関係のひとつ。でも私はもうひとつ、マリッカとの関係を表しておきたい。
「ライバルで友達、でしょ?」
身を乗り出した私に、マリッカは少し驚いて、こちらに呆れたような視線を送り、それから。
「……まあ、そうね。友達でも間違いじゃない」
再び満たしたグラスで、私たちは乾杯をした。
「あ、でも、私は先生に恋愛感情はないよ」
「あろうとなかろうと嫌なの。それと私のスーツ、一着駄目にしたのも恨んでるから」
「それは私のせいじゃないよ。マリッカが派手に大立ち回りしたんでしょう、センテッドから聞いたよ」
「あ、それ。あなたいつのまに、どうしてセンテッドを呼び捨てするようになってるの?」
私たちのお喋りはいつまでも続いた。だって、夏の夜は長いのだ。
今頃はもう突入しているだろう。時計を一瞥し、机の上の書類に戻る。本日はある反社会組織を追い詰めるため、実働部隊が出動していた。
長らくセンテッドが追っていた事件に関連しているのだが、今回は現場に行くことはできなかった。折れた肋骨がまだ軋み痛むのだ。一瞬でも表情が歪んでしまったら、ヨハンナが目敏く見つけて休養を迫る。
アズハの証言と文派のガンクロウ隊長の調査により、目標とその位置を定められた。作戦が遂行されれば、アズハの雇い主や危険薬物の売人、製造元を一網打尽にすることができる。
遡って証言を引き出していけば、マトリの生まれにも辿り着けるかもしれない。
「……いや、求められていないものを突き止める必要は無いな」
浮かんだ考えを、センテッドは緩くかぶりを振って消した。判明した彼女の過去は壮絶なものだったが、当人は過ぎたことだからと笑っていた。
――良いんです。だって私、今は幸せだから。
ごまかすような笑顔ならすぐにわかる。あんなにわかりやすく表情が変わる人間だ。幸せというのは嘘ではないだろう。
春の陽だまりのような、手を伸ばしたくなる笑顔だった。
「いやいやいや何を考えてるんだ僕は……」
「何を考えてたんだお前は」
ただ漏れていた思考に怪訝そうな声が重なり、センテッドは焦って振り返った。背後に立っていたのはよりによってルイゼンと、大総統フィネーロだ。
「ぼ、僕は、じゃない私は、別に何も」
「落ち着け。別に真面目くさって一人称を改めたりしなくていいのに」
呆れたような、けれども腹立たしいほどに慈しみに満ちた笑みを浮かべるルイゼンが、センテッドは苦手だ。
結局この男が立ててきた作戦が今日結実しているという事実も含めて。
「閣下まで、どのようなご要件ですか」
咳払いをしてから尋ねると、フィネーロは小さく頷いて答えた。
「ガンクロウ隊長から連絡があった。アンダーリューさんが八歳までを過ごした研究施設についての資料が見つかったそうだ」
「! ……そうですか。では彼女やアズハの証言の裏付けは取れたんですね」
「ああ、軍の調査が十分ではなかったこともな」
子供の言うことだからと証言を侮ったために、再び彼女を窮地へと追いやることとなってしまった。軍にも責任はある。
幼い少女がいつか諦めてしまったことが、長い年月を経て、ようやく掬われた。
「報告によると、研究とやらは酷いものだな。まもなく資料を寄越してくれるそうだが、内容をアンダーリューさんに確認してもらうのはまだつらいかもしれない」
「彼女は養育園の園長についても抱えています。現時点で負担を増やすのは、私もあまり気が進みません」
ブランキルト養育園のエカルテ元園長は、未だに治療後の行先が見つからない。園のスタッフだった者やかつてそこで世話になった者たちには、それぞれ自分の生活がある。
だからといってマトリ一人に背負わせるのはあまりに酷だ。
「なんかセンテッド、ちょっと変わったな。以前なら、つらかろうが必要ならば確認しなければならないでしょうって言うところだ」
「いや、元に戻ったんだろう。十代の頃はこうだった」
「私のことはどうでもいいでしょう。資料が届いたら教えてください」
早く大総統執務室に戻ってくれないかと目で訴えるが、二人はまだ留まっている。眉間の皺を深めると、ルイゼンがこちらに向き直った。
「ところでセンテッド、俺たちに言ってないことがあるよな」
「何も無いですよ」
「そうか。じゃあどうやって魔眼を攻略したんだ? アズハから『魔眼封じ』って言葉が出たんだが、俺には心当たりがない」
報告しなかったのは、あれが半分はったりだったからだ。だがたしかに効果はあった。マリッカもそのおかげで魔眼に倒れることがなかったのだ。
「そのことでしたら、軍医のサウラ・ナイトに聞いてください」
「サウラが関わっているということは薬か? 何か特別な調合を?」
特別なことなど何もない、とサウラは言っていた。あれはごく一般的な酔い止めなのだ。乗り物酔いをしないため、事前に飲んでおくものである。
伝えると、やはりルイゼンとフィネーロは訝しげに顔を見合わせた。
「サウラが魔眼の被害に遭った人々の状況から思いついたんです。魔眼の能力の正体は超音波で、眼ではなく使用者から発せられる特殊な音波が人の三半規管等に干渉しているのではないかと」
アズハの魔眼の被害があまりにも広範囲だったので、仮説を立ててセンテッドを利用した実験をしたのだ。確証がないから公表はまだするなと添えて。
「イリスたちにも当てはまるかどうかはわかりません。でも、もしサウラたち研究者の支援を国が手厚くするなら、裏を出し抜くこともできるのでは」
「なるほど。フィン、今度の三派会で検討してくれ」
「わかった。優秀な人間が資金を求め裏に流れてしまうことは食い止めなければな」
過去の絶望は消せない。だが、未来の希望を目指して今を積み重ねていくことはできる。
長い間忘れ、考えてもいなかった。闇に沈み、自信を無くしていた。しかし、センテッドはようやく未来に目を向けられた。
守れなかったあの人は、許してくれるだろうか。許してもらえなくてもいいが、忘れずにいさせてほしい。そのまま前に進むから。
草花の匂いが湿り気を帯び、鼻腔に、肌に、まとわりつく。一年前ととても似ていて、けれどもやはりどこか違う夏の匂い。
汗を拭ったハンカチは、大切な友人が贈ってくれたもの。なんでも私が約束を果たしてくれたお礼なのだそうだ。何もしていないどころか、迂闊にも人を巻き込んで誘拐までされたのに。
情けない私をそれでも認めてくれた、その気持ちが嬉しいので、大切に使わせてもらっている。
通りに面した門の向こうには、青々艶々の葉や鮮やかな花、丸々とした実が陽の光を浴びる広い庭。そして深い青の髪をぴょこぴょこと揺らす子供が一人。彼こそが贈り物をくれた張本人だ。
「マトリさん、いらっしゃい!」
「こんにちは、グリン君。今日は庭の手入れ?」
「違うんだよな。稽古してるんだ」
晴れた日の海の色をした瞳をきらきらさせて、グリン君が私を見上げる。その手にはスコップではなく、身長に合った木刀が握られていた。
「そういえば来年、軍の入隊試験だっけ。もう準備してるの?」
「早い方がいいって、母さんやセンちゃんも言うんだ。でもやる気が出たのは先生とマトリさんのおかげ」
にんまりしたグリン君に、私は首を傾げる。レナ先生はともかく、私が何かしただろうか。
ちょっと時間ある? と訊ねられて時計を確認する。少しだけなら大丈夫だろう。目的地にはもう到着しているのだし。
並んだ支柱に蔓がしっかり巻きついて、緑の壁を作っているその下に、並んで屈み込む。立っているより少しだけ涼しい。
「俺ね、今まではうちが軍家だから俺も軍人になるんだと思ってたんだ」
グリン君の家は教科書にも名前が載るような歴史ある軍家だ。お母さんのイリスさんも、グリン君が産まれる前までは軍にいた。影響を受けるのは自然なことだろう。
「強い軍人になったらばあちゃんやモルドを守ることだってできるんじゃないかとは思ってた。でもさ、なんかこうしたいっていう気持ちは、そんなに強くなかったというか……。軍人じゃなくてもできるんだよな」
色んな方法があるもんな、と腕組みをして頷くグリン君の表情が、ふと曇った。
「だけど、こないだみたいに……先生とマトリさんが危ない目に遭ったようなことがこれからもあったりしたら、俺にはなんにもできない」
「それは仕方ないよ。あんなことそうそうあるものじゃないし、グリン君を巻き込むわけには」
「でも俺は先生の助手でボディガードなんだよ。それにマトリさんの友達だ」
私よりも小さな手が、傍らに置いた木刀に伸び、柄を強く握り締める。少し伏せた海の色に炎がちらついたように見えて、どきりとした。
「悔しかったんだ。俺は軍人じゃないし子供だから、無事を祈って待ってることしかできない。マリちゃんは軍人じゃないけど、センちゃんにびしっと言ってついてったのに」
だから、と顔を上げる。夏の空を映した瞳は真っ直ぐで、子供とは思えないほど凛としていた。
「決めたんだ。俺は今度こそ大切な人を助けて、守りきれるくらい強くなる。たしかに色んな方法はあるけど、俺は軍人になるよ。それで人を助けるためならどこへだって行くんだ」
私へ向けたのは、にんまりした笑顔。血の濃さと決意の固さを証明するような、彼は。
「待ってるだけなの、もう嫌なんだ。拗ねるのやめなきゃ、大人になれない」
彼はグリンテール・インフェリア。未来に向かって、これからどんどん大きくなる、新しい世代だ。
眩しさに目を細め、私は大きく頷いた。
「なれるよ。グリン君はきっと、強くてかっこいい、頼れる軍人になる」
「マトリさんに言われたら頑張るしかないな!」
よし、と立ち上がった私たちの耳に、扉が開く音が届いた。大きな家の入口には、そこの主が佇んでいる。
「おやつができたからグリンを呼ぼうと思ったんですが。マトリさん、もういらしてたんですね」
「先生、こんにちは。約束の時間、まもなくですから」
グリン君がレナ先生の方へ駆けていく。私も続いて歩き出す。
私も頑張らなくては。先生との未来の話を、これからしなくてはならない。
冷たい紅茶に、焼きたてのパイ。香ばしさの中にレモンクリームが爽やかだ。今日も先生の手作りのお菓子は美味しい。
「もう少し置いたら、より味が馴染むと思います。後で包みますから、持っていってください」
「ありがとうございます。また編集部の皆が大喜びしますよ」
なにしろ久しぶりのレナ先生謹製おやつだ。そしてきっと、これから食べられる機会は減ってしまう。
今日は原稿の話をしに来たのではない。私たちの未来――これからの仕事をどう進めていくか、相談をする。予想していた通り、レナ先生からの提案になった。
「郵便局まで一人で行けました。子供の頃のおつかいみたいで緊張しました」
先生は恥ずかしそうに笑って、紅茶のグラスを手にした。私も真似るように手を伸ばす。
「今まで大きい荷物は引取りに来てもらって、グリンに対応してもらっていたんです。小さな封書なんかはグリンに出してきてもらって。……助手遣いの荒い、駄目な大人でした」
「俺は楽しいけどな、先生のお世話」
レモンパイから溢れたクリームを口の周りに付けたまま、グリン君が言う。私たちはくすくす笑って、話を続けた。
「お店での買い物はまだグリンの助けが必要かな。人にぶつかりそうになってしまったりすると、やっぱりちょっと動悸や呼吸の乱れがあるんです。その場で立ち止まってしまう時間を短くしていくのが、しばらくの目標ですね」
「ええ、少しずつクリアできたらいいと思いますよ」
その少しずつのうちに、私たちの仕事のスタイルも含まれる。簡単な打ち合わせを電話に、原稿のやり取りを手渡しから郵便に。少しずつ必要に応じて切り替えて、私が直接家を訪問する回数を減らしていく。
元々速筆で締切を破ることもなかったレナ先生だから、原稿の催促をしたり、最終期限に引き取りに来たりということもほとんどないだろう。私たちが仕事で会うことは少なくなる。
私よりも少し早く、マリッカも同じ話を先生としているはずだ。ただ、彼女はもともと先生とは付き合いが長いから、プライベートで気軽に会える。
でも私は仕事で先生と出会い、仕事のためにここに来ている。まさかグリン君を友達だからとだしにするわけにもいかない。レナ先生に会いたいと思っても、会う口実がない。
これからずっと一緒に仕事をしていくための、最善の方法。互いに効率よく、他の仕事に影響の少ないようにするには、変えていくべきなのだ。
理解して納得したはずなのに、私は笑顔をつくろうとするのに必死だ。お菓子があまりに美味しくて口元が緩むことに、かなり助けられている。
「一年、経ちましたね」
不意にレナ先生が言う。
「そうですね。なんだか初めてここに来た日が懐かしいです」
「あの日のマトリさんは緊張していて、しかも僕のことを不審に思っていたでしょう」
「不審なんて、そんなことは」
たしかにそうだった。レナ先生の作品は中毒性のある精神攻撃だと巷で話題になっていて、私自身も先生に会う前は、どれだけ暗くて気難しい人が書いているのかと思っていた。さらにニール先生と入れ替わりにデビューしたように見えていたから、少し不貞腐れていたこともある。
記憶を引っ張り出している私の表情は、先生の言葉を肯定していたらしい。グリン君が「怖い話書くからしょうがないよね」と笑った。
「緊張していたから、そのときの僕のお願いは憶えていないかもしれませんね」
「お願い?」
何か頼まれただろうか、と考え始めたときだった。開いた窓から風が強めに吹き入って、部屋に夏の匂いが満ちた。
庭の青く甘い香りと共に、先生の声がよみがえる。
――僕から一つお願いです。ときどきここに遊びに来てください。
人差し指を立てて、にっこりする先生が見えた。ちょっと寂しがり屋な先生の、私に直接伝えた最初のお願い。
「仕事じゃなくても遊びに来てください、マトリさん。クッキーでもケーキでもアイスクリームでも、なんでも作って待ってますから」
「そんな、友達みたいなこと」
「僕は友達だと思ってますよ。大切な友人で、共に困難に立ち向かい乗り越えられる戦友だと」
私はレナ先生の担当編集者で、自分の仕事を全うしさえすればいいのだと思っていた。一年前は先生の作品の人気が盛り上がってきた頃で、いかにしてモチベーションを保てるようにしていくかということを優先して考えていた。
だけど、今はどうだろう。
もちろん作品の質や先生の調子は大切で、第一だ。でも何のために大切にするのかという部分は、少しずつ変わってきた。いや、理由が増えた。
私はレナ先生が好きだ。優しく、繊細で、けれども誰かを想う強い心を持っているこの人に、幸せでいて欲しい。
恋慕ではなく、愛情というほど大袈裟でもない。ただただ先生に笑っていてほしい。望む道を行き、望む場所にいてほしい。
その手伝いができること、共に歩めることが、私はとても誇らしい。先生の幸せが私の幸せだ。
そしてそう思えるように導いてくれたのは、他でもない、この人の生み出した作品なのだ。
レナ先生は私の恩人であり、守りたい人であり、――この繋がりを離さないでいたいと願う、そう、たしかに「戦友」だった。
――みんな、複雑に考えすぎなんじゃないかな。答えはシンプルだと思う。
エイマルさんが言っていたのは、きっとこういうことだ。私はまた自分で自分を縛ってしまっていた。
「……私は、先生に感謝してるんです。尊敬もしています」
「ありがとうございます」
「だから、友達というのはとても照れるんですけど……天にも昇るような気持ちといいますか」
「ここにいてください、ずっと」
いつかの私は、きっと驚く。私にたった一年間で友達がたくさん増えたことを。言い聞かせるのではなく、本当に心から幸せだと感じられるようになったことを。
今ならきっと、なんでもできる。私たちなら、何だって。
お母さんは覚えていますか、私が昔から大好きな作家さんのことを。
私は今、その人の担当編集者をしています。
お母さんが一番最初の本を読ませてくれたから、私は進みたい道を見つけられたんです。
夏の盛りを過ぎると、季節は速度を上げて移っていく。薄いコートを羽織ってもまだ物足りない秋の真ん中で、私は気持ちを落ち着かせようと深呼吸をした。
初めて向かった場所は、築年数が経ってはいるけれど立派なマンションだ。この建物の中の一室に、私を呼び出した人がいる。元はといえば私から連絡をし、荷物を送り付けたのだけれど。
指定された部屋に辿り着き、呼び鈴を鳴らす。緊張をごまかそうと背筋を伸ばしてみたけれど、かえって肩に力が入ってしまう。なにしろ今日の仕事の相手は、社運を賭けなければならないような人なのだ。
扉の向こうから音がする。近づいてきて、開く。
「……どうして目を瞑っているんですか?」
ニア先生の、穏やかだけれど明らかに笑いの混じった声がする。
緊張がピークに達しまして、と言うと、何を今更、と返された。
ニア先生たちが住む部屋はきちんと片付いてはいるけれど、絵の具の匂いがする。家具はやはりフォース社のものでほぼ統一されているようだ。
リビングに通されると、テーブルの上には既に私が送った厚みのある封筒があった。中身は原稿のコピーだ。
「お忙しい中、御足労いただきありがとうございます」
芳しい紅茶の香りと共に、ニア先生がこちらにやってくる。レナ先生が紅茶党なのは、この家で育ったからなのだろう。
「こちらこそすみませんでした。電話一本でお願いをしてしまって」
「それはいいんですけど、送ってしまってから電話をするのは順序が逆じゃないですか。僕は暇だから絵を描いてるわけじゃないんです」
微笑みながらのお叱りが鋭く突き刺さる。返せる言葉などひとつもない。もう一度謝ろうとすると止められた。
「きっと送ることすら拒否されたらって思ったんですよね。会ってきちんとお話をするのは三回目ですが、あなたの僕の印象はあまり良くないでしょうし」
「いいえ、そんなことはないです。でも……送るのを断られたらどうしようもなくなってしまうとは思っていました」
叱られても読んでほしかった。冒頭だけでも見てもらえたなら、絶対に気に入ってもらえる自信があった。
「とにかく中身を見ていただければ、全部解決するはずだったんです」
「……すごい自信だね」
眇めたニア先生の瞳は、光の届かない深海の世界を思わせる。口元だけがまだ笑みをつくっているけれど、漂う雰囲気だけで圧倒されそうだ。
唾を飲み込む。頭の先から痺れて動けなくなりそうなのを、振り払うように前へ進んだ。
「私に連絡を下さったということは、お読みいただけたんですよね」
「読みましたよ」
節の目立つ長い指が、テーブルの上の封筒に触れた。そのまま動かない。
「これ、本当に出版する気?」
「します」
「それはあの子の意思?」
「レナ先生と、私の意思です」
上司やドネス先輩に話したときは驚かれた。会議を重ね、レナ先生にも来てもらい、正式に通ったのが先週。それからすぐにニア先生にコンタクトを取ろうとした。
全ての人を説得するために先生が書き上げた、その作品の第一章。私を含め、読んだ人に稲妻のような衝撃を与えた。
「あとはニア先生に装画を描いていただければ、傑作中の傑作が誕生するんです」
実現させたいのは、レナ先生の夢であり、私の夢だ。私たちは希望の夢を叶えようとしている。
目を逸らさずに見つめていると、ニア先生はゆっくり息を吐いて、目を伏せた。
「以前、僕が装画を描いた本がどうなったのか、忘れたわけじゃないでしょう」
「アズハが傑作と見て、レナ先生……ニール先生が狙われました。それから」
膝の上に置いた手を握り締める。あの襲撃事件は、実はそれだけではなかったのだということを、私は最近になってようやく知ったのだ。
「弊社の週刊誌部門に、ニール先生とその周囲に関するスキャンダルが送られてきました」
これこそが、ニール・シュタイナー名義の作品を絶版にすると先生が決めた最大の原因。アズハが用意していたシナリオの、おそらくは真のクライマックスとなるはずだった部分だ。
一人の作家の真実を徹底的に暴くことで、より大きな混乱を生じさせる。しかもその混乱は、アズハが捕まっていようといなかろうと、世の人々が勝手に展開してくれる。
サフラン社はこの情報を見なかったことにし、記事にすることはなかった。ドネス先輩も尽力し、その影響もあって昨年の夏に週刊誌に異動になったのだ。
「スキャンダルは世に出ませんでしたが、いつまた同じようなことがあるとも限らない。ニール先生はそう考え、一度文壇から自らを消し去ろうとしました。戻ってきて下さったときには名前を変えていました」
「周りのことなんか考えなくても良かったのにね。僕らはあの子が思うよりもずっと面倒に慣れていて、それなりに立ち回れたはずなんだ」
なのに相談すらなかったのは、その前にレナ先生とニア先生の親子関係があったからではないか。あの事件よりも先に、先生たちは会わなくなっている。
事件は元々あった溝をさらに深めてしまった。解決するのに、長い時間を要するほど。
「もう二度と同じことが起こらないよう、私たちは対策を立てています。レナ先生ももう大丈夫だと、自分の力で守りたいものを守ると仰っています」
その決意と信念のかたちが、ニア先生が触れている作品だ。これは私たちの共闘なのだ。
いつかの壁を、突破する。そのためのより強い力を、ニア先生に貸してほしい。
「……言い分はわかりました」
長い睫毛が上がり、凪いだ水面が私を映す。
そして封筒の上の指がそっと離れ、もう一度触れ直す。
「これ、持って帰ってくれますか?」
私に向かって、押し出すために。
駄目だったのか。どうしてもこの人の心は動かないのか。それとも作品が気に入らなかった? いや、この時点で既に最高傑作になると、予感を抱いたのは私だけではない。
目の前にある封筒を受け取れない。受け取りたくない。せめて理由をはっきり言ってほしい。
「嫌です。持ち帰りません。ニア先生が装画を描いてくださるまで、何度でもこちらに参ります」
「もう来なくていいですよ」
「来ます! 毎日でも来ます! 朝晩二回は来て、諦めずにお願いします!」
既にひとつミスをしているのに、さらに噛み付いては分が悪い。賭けた社運もなくなってしまうかもしれない。わかっていても、止められない。
私はどうしても、レナ先生の望みを、私の願いを、叶えたい。
水面の私が揺れ、海の色が少し濃くなった。ニア先生は大きな溜息を吐き、呆れたように言葉を紡ぐ。
「……マトリ・アンダーリューさん。君の熱意は素晴らしいと思います。ただ、落ち着いて人の話を最後まで聞くようにしないと」
「お断りの言葉は聞きたくないです」
「あのね。僕は今日、一度でも断ると言いましたか?」
はたと前のめりになっていた体を戻す。断る、とはまだ言っていないと思う。しかし、原稿は持って帰ってと言われた。それは断るということとは違うのだろうか。
頭の中が疑問符で埋まっていく。ニア先生が何か言おうとして、口を開きかけた。
「今のはニアが悪いと思うぞ」
そこに入ってきた声は、先程のニア先生よりももっと呆れていて、けれどもずっと優しかった。
「ルー、部屋にいてって言ったよね」
「いや、さすがに編集さんが可哀想だ。お前は勿体ぶりすぎなんだよ」
現れたのはがっしりした筋肉が衣服の上からでもわかる男性――この家のもう一人の住人、ルーファさんだった。当たり前のようにニア先生の隣に座り、私に困ったような微笑みを向ける。
「ごめんな、編集さん。この人、息子の仕事仲間が来ることに緊張しすぎて、口悪くなってるんだよ」
「部屋に戻ってくれないかな。仕事中はそういうルールだよね」
「引き受けるならすぐに言えばいいだろ。そうしたら俺が痺れを切らすこともないんだから」
どういうことだろう。さらに疑問符が犇めき合う私の頭の中で、一つだけ感嘆符が光る。
「……引き受けてくださるんですか?」
おそるおそる尋ねると、ルーファさんがニア先生の脇腹をつついた。すると先程までの厳しそうな雰囲気はどこへやら、ニア先生は叱られた子供のように口をとがらせた。
「断るなんて言ってません」
「違うだろ、はっきり言え」
「わかったよ。受ける。受けるってば」
半ば自棄になったように叫んで、ニア先生はソファの背もたれに倒れ込む。天井を見たまま膨れている姿は、とてもさっきまでの落ち着いた人と同一人物とは思えない。
代わりにルーファさんが、苦笑混じりにこちらに向き直った。
「というわけで、御社のお仕事はするようです。良い装画が出来上がるはずですよ」
「ありがとうございます! でも、答えが決まっていたならどうして渋るようなことを?」
いいえと言われたら諦めずに通うけれど、はいと言ってくれたらそれで成立、今日の話はすぐに終わるはずだった。それに原稿を返す理由もわからない。絵を描く材料として必要ではないのか。
私の疑問を表情から察したのか、ルーファさんは封筒に視線を落とし、微笑みを浮かべた。
「その原稿、ニアは何度も読んでた。三周くらいしたあたりで紙とペンを用意して、今度は描きながら読んだ。内容はすっかり頭に入っているし、絵の構図も何パターンかできてるはずだよ」
そっと封筒を引き寄せて、中身を見てみる。コピーした原稿は送ったときよりも明らかに紙が拠れ、所々毛羽立っている。さらにはこちらから送った覚えのない物が一緒にされていて、私はそっと取り出した。
「……これ、ラフですか? もう描いてくれたんですか?!」
着色済みのスケッチが三パターン。現時点で既に美しく、完成品が人々を惹き付けるものになることは容易に想像できる。現に私が目を奪われている。
ニア先生はこちらを見ないままで「もっとあるよ」と呻いた。
「今、僕が選べるのはそれが限界です。でも、ご満足いただけなければより良いものをご用意する準備はあります。なにしろその小説の作者は、人の想像力を煽るのが巧い」
だから持って帰って参考にしてみてください、というのが先の言葉の続きだったらしい。
「私、またとんでもない早とちりを……。大変申し訳ございませんでした」
「いや、ニアが変に勿体ぶるからだろ。気にしないでください。こういうことをするからニールとも話せなくなるんだ」
ルーファさんが言うので、もしやまた拗れたのではと心配になったけれど、そうではなくてレナ先生が独りで大きな家に住むようになった原因のことらしい。
あからさまに興味を示した私に、ルーファさんが教えてくれた。
五年前、レナ先生――当時のニール先生は、中古で売りに出されていた家を、それまでの稼ぎで購入した。広い庭と大きな家は、そこに家族三人で暮らすことを考えて決めたものだった。
ところがニア先生は、引越しの誘いを即答で断ったのだった。
――そこまでしたなら、もう独り立ちできるよね。僕は行かないよ。
ニール先生は何度か説得を試みたけれど、ニア先生は絶対に折れなかった。そこまでは私もイリスさんから聞いている。
どうしてそこまで頑なに断ったのかは、ずっと不思議だった。
「ニアはさ、ニールに自由に生きてほしかったんだ」
まだ黙って天井を見ているニア先生を、ルーファさんは呆れと愛しさの入り交じった目で見つめた。
「色々と事情があって、ニアは完全に自由になるまで時間がかかった。子供にはそんな苦労はさせたくないし、親が枷になるなんてとんでもないと思っていた」
だからといって、突き放す力が強すぎでは。うっかり口に出してしまう前に、ニア先生が再び呻くような声を出した。
「ニールは親だと言ってくれてるし、僕らもそう自称してきたけれど、結局はあの子の後見人に過ぎない。戸籍だってそのままなんだ。だからあの子はずっとシュタイナーのまま」
そしてようやく座り直して、顔ごと視線をテーブルの上に戻す。やっと見えた表情は、何故か泣きそうに見えた。水の満ちた海は、溢れそうに揺れている。
「僕はあの子の負担になりたくないんだよ。だから離れたのに、それでも駄目だった。あの子に大好きなことを一度でも辞めさせてしまった」
だから関わらないようにしていたのに――絞り出すような声は気をつけていないと聞こえないくらい頼りない。
ふと、ニア先生の個展で見た絵を思い出した。斜め後ろから見た我が子。その視線はこちらを見ない。ただ真っ直ぐに、前を向いている。
「レナ先生を描いた絵は、そういうことだったんですか」
「どの絵?」
「個展で出してらした人物画です。レナ先生を斜め後ろから描いたものがありましたよね」
親など気にせず前だけを見ていてと、そういう意図で描かれたものだったのか。私が問うと、ニア先生は思い出したように顔を上げた。
「あ、あれか。ううん、あの絵にそこまで深い意味はない。五年前よりもっと以前に描いたものですし」
「違うんですか? 今の話からだとそういうテーマだったのかと」
瞠目した私が見たのは、またもや異なる側面。耳まで赤くなったニア先生が、恥ずかしそうに笑っている。
「あれは単に、好きだから描いたんです。耳の形ってひとりひとり違って、同じものはないんだそうですよ。僕はニールの、彼の持つ唯一無二が、とても愛おしいんです」
愛しているから、突き放した。突き放したけど、愛している。
私には親子というものが、今でもわからないままだ。この関係をどう捉え、どう扱っていいのか、掴みあぐねている。
でも、これだけは確かだ。親子関係がわからなくても、私はきっと、愛というものを知っていた。
そのかたちに納得ができず受け取ることが難しくても、相手にとっては愛なのだ。逆もまた然りで、こちらの愛が相手に必ずしも良いものとして届くわけではない。
けれども送り手と受け手の双方の認識が重なったとき、愛は愛し合いになる。家族でも、恋人でも、友人でも。或いは隣人だったり、道ですれ違った相手でも。
愛はある。そうして不意に誰かを救ったりもする。
「こちらのラフ、今からレナ先生に見せに行っても良いですか?」
飛んでいって伝えたい。もう伝わっているだろうけれど、それでもやはり改めて教えたい。
どうぞ、の一言に、私は喜びと感謝をめいっぱい込めて礼をした。
私はずっと、お母さんの言う「不幸で可哀想」を、私を縛りつける言葉だと思っていました。
もう不幸じゃないのに、可哀想な子供ではなくなったのに、どうしていつまでもそんなことを言うのだろう。ずっとそのことが引っかかって、振り払うように私は幸せなのだと自分に言い聞かせてきました。
けれど最近になって、少し考えてみたのです。お母さんはどんな気持ちで、私に「可哀想」と言っていたのか。
私の知るお母さんはいつも優しく、そして気丈に振舞っていましたね。園長の仕事は好きでやっているのだと、笑顔を絶やしたことがありませんでした。
一方で、本当に苦しいことや大変なことを、他の人に気づいてもらいにくくなっていたのではないでしょうか。それがずっと昔から、長いこと続いていたのでは。
だから私たちブランキルトの子供には、つらい気持ちを抱え込んでほしくなかったのではないですか。
私は「可哀想」にとらわれてしまったけれど、きちんと記憶を紐解いてみれば、お母さんにはもっとたくさんの言葉をもらっていました。
良かったね、すごいね、と褒めてもらいました。本が好きだということを認めてもらいました。学校に行きたいと言ったら、たくさん協力をしてくれて、試験で良い成績をとればおめでとうと言ってくれました。
何より、お母さんはただの「十三番」に、みんなから親しみを込めて呼ばれる「マトリ」という名前をくれました。
あなたは私を愛してくれた。私だけでなく、ブランキルト養育園にいた全ての人を愛していた。だから独りになってしまって、とても寂しかったのではありませんか。
私はあなたの愛の全ては受け止められませんでした。でも、愛を受けたと気づいた分は、私も返したい。
とても時間がかかると思います。私はまだ未熟で、より成長しなければ、あなたを十分に支えられない。
でも、もしあなたが許してくれるなら、待っていてくれるなら、私はもう一度あなたと過ごしたい。笑いながら、季節が移りかわって行くのを共に見たい。
ほの暖かい陽に照る赤や黄色の木々を。灰色の雲にぽかりとできる透き通るような青い空を。硬い殻を分けて顔を覗かせる新芽を。露を輝かせながら伸びる、鮮やかな花や葉を。
私が幸福を感じた全てのものを。
お母さん。私はあなたにも、幸せになってほしいんです。
今年も残りひと月、つまり超繁忙期がやってくる。サフラン社文芸編集部はみんな、スケジュールの調整のために既に目を回している。
私の仕事もピークを迎える。何人かの作家が締切間近で、さらに単行本の発売を年明けに控えていた。
新年の店頭に並ぶ予定の本は、レナ・タイラスの待望の新作だ。
作業を早めて年内に出せたなら、国内の大きな賞「アトラ・エルニーニャ文学賞」の審査対象だったのだけれど、この作品は焦って出すものではないと編集部内で意見が一致した。レナ先生も納得してくれている。
ノミネートされればいつかのリベンジもできたかもしれないけれど、それはまた次ということで。
多忙の中ではあるけれど、今日だけは遅くならないように帰る予定だ。少し早めの忘年会なのである。
場所は広い庭のある大きな家――レナ先生の家。
「思ったより早かったな」
申し訳なさを少し背負いつつ退勤した私を、センテッドが車をつけて待っていた。
「迎えなんて頼んだっけ」
「必要ないなら先に行くが」
「待って待って、寒いのでお願いします」
後部座席に乗り込むと、ほっとする温かさに包まれる。斜め前から指されたところには膝掛けまで用意されていた。
「うわ、準備良すぎ。今日休みだったの?」
「しばらく出張だったから、その代休を取った」
いつからか、センテッドに対して敬意のさほどこもらない敬語を使うのを辞めた。同い年で、マリッカとも気軽に話しているので、対等に接することにした。
すると彼の態度も信じられないくらい柔らかくなったので、あの偉そうな態度は実はなかなか無理をしていたのだと解釈している。
「ニールに買い物を頼まれている。あいつは酒を飲まないから、何を用意したらいいのかわからないそうだ」
「じゃあ、ちょっと良いのを買っちゃおうかな。センテッドは何か飲みたいのある?」
「僕もそんなに飲む方ではないから、マリッカと相談しろ。これから合流する」
そうなると、少し強めのお酒を選んでもいいだろう。ジュースも追加で必要だろうか。候補をいくつか思い浮かべていると、低い声が遠慮がちに尋ねた。
「お母さんの様子はどうだった」
先日、私はお母さんがいる施設に行った。軍の管理下にある、薬物依存を治療する専門の施設だ。会える時間は短いので、手紙を書いて持って行った。
身体機能は回復していると聞いていたけれど、実際に会ったお母さんは私を見てもぼうっとしていて、こちらの問いかけに反応することはなかった。
「ちょっとずつ良くなっていってるみたい。次は話せるといいな」
「……そうか」
良い方向には進んでいるのだから、焦らずに。何度も言われ、私もそう思っているのだけれど、もどかしい気持ちはある。
次は、をあと何度重ねられるかもわからない。明日は当たり前には来ないのだから。それだけは幸せでもそうでなくても同じだ。
「しばらく忙しいんだろう。会いに行く時間は取れそうか」
「難しいかも。もっと頻繁に行った方が、思い出してもらえるのかもしれないけどね。仕事納めまでは私もへろへろになりそうだし」
話しているうちに、アメジストスター出版の社屋が見えてきた。マリッカを待たせてしまっているかもしれない。
「何かあれば言ってくれ。僕にできることであれば協力する」
「ありがとう。なんだか最近、すごーく気を遣ってくれてるね」
揶揄うとセンテッドは黙ってしまう。怒らせてしまっただろうか。こっそり顔を覗いて眉間を確認すると、皺はなかった。
まもなくして合流したマリッカは、寒い遅いと文句を言いながら助手席に乗り込んだ。これから買い物をすると聞いて、さらに不満そうに呻く。
「それくらい先に行っておきなさいよ。休みだったんでしょう」
「何をどうしたらいいんだ。君が飲むものなんだから自分で用意しろ」
双子が遠慮なく喧嘩するのを見る機会も増えた。こういうときは間に入らず、二人のそっくりな顔を眺めている。するとどうやら私はにやけているようで、気づいた二人が同時にこちらに文句を言う。そこまでが定番の流れだ。
話が途切れたところで、そういえば、とマリッカが切り出した。
「昨年亡くなったジラ先生の本、新装版がレナ先生の新刊と同時期の発売に決まった」
「急だね。ジラ先生もアズハの被害者だっけ」
久しぶりにその名前を口にした。アズハはレナ先生だけではなく、他に何人も作家を襲っている。むしろ生きているレナ先生の方が例外的で、他の人はみんな殺されてしまっているのだ。
どうしてそんなことを、という問いは何度もたくさんの人が投げかけたけれど、納得できる答えは未だにない。というよりも、多くの人にとっては納得しがたい理由があるだけなのだそうだ。
「あの女は本気で他人の人生を物語だと思っている。だが僕たちにはその考えが理解できない」
「相手を『生きている人間』じゃなくて、『登場人物』と捉えてるんだと思う。だから退場させることに躊躇がないのかも」
そう考えるようになったのは何故か、ということもわからない。軍が調べたところによると、アズハの生い立ちには問題があるように思えないのだそうだ。
比較的裕福な家庭に生まれ、両親は今も健在。被害者に心から詫びると共に、アズハのことをとても心配している。学生時代も大人しくはあったが、いつも友達と一緒に楽しそうに過ごしていた。アズハ自身も「親はごく普通の良い人」「友達とも普通にうまくやっていた」と証言し、懐かしむことさえしていた。
犯罪者にありがちと思われるような異常さは、彼女の人生には――少なくとも二十代半ばまでは見られない。
ひとつ気になることがあった、とセンテッドがいつか話していたのは、アズハの幼少期のエピソードだ。
――いつもわたしを叩いてくる男の子にね、試しに「泣け」って言ってみたの。じっと見つめて、落ち着いて。そうしたら簡単に泣いちゃった。
子供の喧嘩の、ちょっとした反撃だ。特に取り沙汰することでもないだろうというのが大多数の判断で、すぐに忘れられた話だった。
けれどもセンテッドの脳裏には、焼き付いて離れないという。
――あのときのぞくっとした感覚がね、ずっと忘れられないの。
その言葉が、アズハの行動原理のような気がする。さらにその考えを裏付けるように上司が言ったことを、センテッドは繰り返した。
「暴力性なんてものはほとんどの人間が持っているもので、理性や倫理観で抑えられているものなんだ。だがアズハはそれをしなかった。他の人間との違いなんて、それだけだ」
過去に社交的に問題のない生活をしていたなら、途中で自ら抑制をやめたのかもしれない。
「アズハは自分が普通で主人公にはなれないと思ったから、主人公の素質がありそうな他人で思い通りの物語を作りたかったのかしら」
マリッカが街の灯りを眺めながら呟く。落ちた沈黙がようやく破られたのは、車が店に着いたときだった。
広い庭は葉が枯れた植物が片付けられ、夏よりも随分静かだ。けれども家の窓からオレンジ色の明かりが漏れて、暖かそうに見える。
私たちが玄関に辿り着くと、呼び鈴を鳴らす前に扉が開いた。
「いらっしゃい! 待ってたぜ!」
「こんばんは」
子犬みたいに飛び出してきた子供たちを、先頭にいたセンテッドが受け止める。グリン君とモルドちゃんはエプロンを着けているので、お手伝いをしていたのだろう。
「二人とも、こんばんは」
「マトちゃん、マリちゃん、お疲れ! 先生がごちそういっぱい作ってるから、たくさん食べてな」
「わたしたちも切ったり混ぜたりしたの」
お喋りをしながら私たちを家の中へ導いてくれる二人について行き、漂う良い匂いを深呼吸で吸い込む。リビングの奥の台所に、エプロン姿のその人を見つけた。
「レナ先生」
呼びかけに顔を上げ、彼は満月の色の瞳を細めた。
今日を過ぎたら当分は忙しい。私たちだけではなく、レナ先生もだ。
本が出来上がったらサイン本を作ってもらう。予定数が多いので大変だと思いますが、とお願いすると、笑顔で了承してくれた。
来年の発売日の後には、四年ぶりのサイン会の予定もある。しかも以前のようにバックヤードでこっそりサイン本を作るのではなく、人前に出るのだ。
レナ先生が覆面作家をやめる。私がその決意を知ったのは、先生から今度の新刊のプロットについて相談を受けたときだった。
新刊は、ニール・シュタイナー名義で最後に出した作品『朽葉館物語』の、正統な続編になる。
それが書けるのはもちろんニール先生だけ。つまりレナ先生は、この作品で自分がニール・シュタイナーと同一人物であることを明かすつもりだった。
アズハのことだけではなく、ニールという名前で立ちはだかる様々な壁を乗り越える。今ならそれができる、やり遂げる。先生の一世一代の勝負なのだ。
だからこそ前作『朽葉館物語』の装画を担当したニア先生の絵が必要だった。新旧いずれの朽葉館も、描けるのは彼しかいない。
これは私たちの戦いの、新たな始まり。ここからは新章だ。でも私たちの人生は、物語のように筋が通ってきれいに伏線が回収されるような、そう上手なものではない。終わりは突然来るかもしれないし、どこかでまた改めて始める必要もあるかもしれない。
何があっても、私はレナ先生の伴走者でありたい。これは私の叶えた夢で、これからの夢でもある。
「マトリさん、お菓子もどうですか。これ、お好きでしょう」
レナ先生が差し出してくれるのは、黄金色に輝く焼き菓子。私の人生にいつも輝くその色を翳すと、自然と笑顔になれる。
「いただきます」
私たちの目指す輝く未来が、誰かの心も照らし導くことができたなら、それが一番の幸福だ。
いつか私が導かれたように。