それまでわからなかった事が、ちょっとしたきっかけでわかるようになる。

何気なく伸ばしていた手が、不意に掴まれる。

知らない声が、突然自分の名前を呼ぶ。

合わせた目に、デジャヴを感じる。

始まりなんて誰にも想像できなくて、

誰にでも創造できる。

 

どこまでも蒼い、夏の青空。

その下に少年は立っていた。

向こうからバスが来るのを確認し、一つ息をつく。

到着した巨体に巻き上げられる砂煙。思わず咳き込んで、一歩踏み出す。

動き出す景色が、海色の瞳に映る。

――そうか、今日からなんだよな。

つい先ほど、自室から出てきた彼を見た父親が最初に言った言葉。

感慨深げで、どこか寂しそうな表情だった。

頷いて、いってきます、と言おうとした彼の手をとる大きな手の感触が新しい。

――これ、やるよ。きっとお前を守ってくれる。

そのとき手に握らされた銀色に光るカフスは今、彼の左耳に光っている。

そっと触れると冷たく、だけど温かい。

「大丈夫…だよね」

流れていく窓の外を見ながら、呟いた。

――頑張って来い、ニア。

車内の振動に揺れるダークブルーの髪は、受け継がれる意志を伝える。

「頑張れるよ…お父さん」

これは、自分で決めたことだから。

 

住宅街でも一際目立つ、大きな邸宅。

この国で有名な会社の社長宅だということを知る者は、近所だけではない。

その玄関から出てきた少年は、すぐに世話役の女性に呼び止められた。

「ルーファ様、本当に送らなくてよろしいのですか?」

不安げな表情に、少年は笑って返す。

「良いって。バスの乗り方知らないわけじゃないんだから」

「でも乗るのは初めてではありませんか」

「どんなことをするにも初めてはある。それに…」

自信に満ちた彼の表情。次の言葉は世話役にはすぐ分かった。

「俺は誰の子?」

彼がよく言う台詞で、最も誇りにしていること。

「…わかってます。ルーファ様はご両親によく似てらっしゃいます。

この家に勤めて三十年経ちましたが、つくづく実感させられます」

世話役の台詞もいつもの通りだ。

少年は腕時計を確認し、世話役に向き直った。

「それじゃ行って来るよ、エルファ。母さんによろしく」

「お父上様には?」

「さっき言った」

駆けて行く少年を、世話役は目を細めて見つめていた。

両親の姿を見て育った彼は、とても輝いていた。

 

朝食の匂いがまだ部屋に残っている。

慣れ親しんだ空気の中で深呼吸し、鏡を見直した。

今日から新しい生活が始まる。自分で望んだことだ。

「…よし、カンペキ!」

鏡の前で一回転し、笑顔を作る。

笑っていなければ、不安を感じてしまう。

崩しかけた表情を、ノックの音で元に戻す。

「リヒト?」

「…うん」

少女が呼ぶと、少年はゆっくりドアを開けた。

「どうしたの?」

「そろそろ時間だから…」

「わかった。ありがとう」

少女が笑顔で答えると、少年は俯いて目を逸らす。

首を傾げる彼女に、彼は小さな声で言う。

「姉さん」

「なぁに?」

「本当に、これで良かったの?」

少年の問いに、少女は笑顔を崩す。

彼の言うことが何を意味するか、よく分かっていた。

「…いいの」

だから、もう一度笑顔を作った。

「だって、こうしないとずっとわからないままだから。

私、どうしても知りたいの」

どんなに危険でも、真実を求めようとする。

少年は少女の姿勢に不安を感じながらも、それを止めることは出来ない。

彼女の意志だから。

「アーシェ姉さん、…いってらっしゃい」

そう言って送り出すことしかできない。

「うん、行って来るね」

少女は眩しいくらいの明るい表情で家を出た。

 

エルニーニャ王国は大陸の中央に位置する大国で、国土も広大だ。

国王は国民の象徴であり、政権は軍のトップである大総統にある。

それ故、その地位での責任は重大だ。

国の統合を繰り返し、その度にできる限りの平和的交渉を試みてきた。

戦争の歴史はほとんどない、世界に誇る国。

その軍隊は守るため、救うために存在する。

決して殺戮のためではない。

現大総統もその意識の下に国を治めている。

 

そして今、新たな歴史が刻まれようとしている。

強い意志を受け継いだ者が、それぞれの道を歩み始めた。

 

任命の儀は大総統室で行われる。

指定された時間に行って、大総統から階級バッジを受け取る。

手順をブツブツと呟きながら、ニアは渡り廊下を歩いていた。

自分の番までかなり時間がある。

「…ここ、かな?」

ふと横を見ると、広い芝生が広がっている。

休憩や訓練など、いろいろな用途に使われる中庭だ。

そこには大きな木がある。

簡単に登れそうで、生い茂る木の葉が樹上のものを覆い隠してしまいそうだ。

それ故、木の上で仕事や訓練をサボるものもいるらしい。

ニアの父が昔そうだったと聞いた。

幼い父はこの木に登っていて、ちょうど降りた所でかつての親友に会った。

一年程前、軍に入ることを決心したニアに父が語ってくれた話だ。

父の親友は木の前で父の名を呼んだという。

しかし、ニアには呼ぶ相手がいない。

それでもほんの少しの期待を持ってみたくなる。

「誰かいますかーっ!」

結構な声量で、何気なく呼んでみる。

何も返ってこない。期待は裏切られたようだ。

そうだよね、と思いながら、ニアが木に背を向けたときだった。

かさっ

と木の葉が鳴り、

とさっ

と影が落ちてきた。

ニアが振り返ると、少年が立ち上がろうとしていた。

薄い茶色の髪が、一陣の風に流れた。

「…いたんだ…」

数秒の間を空け、ニアから口を開く。

「…うん」

驚くニアと、怪訝な表情の少年。

よく見ると階級バッジをしていない。

ということは、もしかすると。

「ねぇ、君も今日からなの?」

「…まぁ、そうだけど」

やっぱり。

このできごとは偶然だろうけど、ただの偶然とは思えない。

ニアは嬉しさに目を輝かせ、少年に近付いた。

少年の方が背が高いので、ニアは彼を見上げる。

「僕、ニア・インフェリア!君の名前は?」

同じスタートラインにいるなら、いっしょに走りたいと思った。

この木で出会ったからこそ、名乗りたかった。

相手を知りたかった。

「…ルーファ」

少年はゆっくり口を開く。

ニアに戸惑ってはいるが、嫌そうではない。

「ルーファ・シーケンス」

知ればきっと仲良くなれる。

「…ルーファ?」

「そう」

「じゃあルーだね」

手を差し出し、笑いかける。

「よろしくね、ルー」

ルーファにはもう戸惑いは見られない。

笑みを返し、

「あぁ、宜しく…ニア」

伸ばした手を握った。

そうしてから、ふと考えた。

互いに同じことを思っていた。

――シーケンスって、

――インフェリアって、

そういえば、よく聞く名前だ。

 

初めての「トモダチ」と一緒に歩く廊下は、話が弾んで足取りが軽い。

時々階級が高い者とすれ違い、その度に敬礼する。

面倒だが、それも楽しい。

「ルー、見て見てー」

「ん?」

ニアが立ち止まって壁を見ていた。

ルーファは進んだ所から少し戻り、ニアの見ているものに目をやる。

「試験の結果?」

「うん」

壁に貼り出されていたのは、入隊試験の結果だ。

得点順であると説明書きがついている。

「…あ、ルー見っけ」

「俺もニア見つけた。…意外なところに」

ルーファの名前は一番上に、ニアの名前はその下に。

総合一位と二位。

「ニアって結構すごいんだな…」

「ルーはとってもすごいんだね!一位って一番すごいんだよ!」

「すごいのは父さんだよ。俺につきっきりで剣技教えてくれたんだから」

「へぇ…すごいね!ルーの家ってどんな家?」

「俺の家は…」

ルーファが言いかけた時、こちらへ向かってくる足音が聞こえた。

通り過ぎずに後ろで止まり、振り返った二人に笑いかける。

女の子だった。

「新しく入隊した人?」

高めのトーンが可愛らしい。

長い金髪がふわりと揺れた。

「君も?」

バッジをつけていないのを見て、ニアが尋ね返す。

「うん。ねぇ、名前教えて?私一人じゃ心細くって」

人懐っこい笑顔に、ニアとルーファは和む。

そして彼女の頼み通りに名前を告げた。

「僕はニア・インフェリア」

「俺はルーファ・シーケンス。宜しく」

名前を聞いた彼女は、一瞬目を丸くした。

「え、あなたたちがインフェリア君とシーケンス君?」

二人を交互にまじまじと見つめる。

「うん」

「そうだけど…君は?」

自分たちは彼女を知らない。だけど、彼女の方は知っているような口ぶり。

やはり上位効果だろうか。いや、それだけじゃなさそうだ。

彼女の言葉が、真実を語る。

「私、アーシェ。アーシェ・リーガルよ」

笑顔のまま、

「あなたたちの両親と私の両親は知り合いなの」

知らなかったことを、あっさりと。

「…知り合い?!」

ニアとルーファが同時に叫び、アーシェは少し驚く。

しかしすぐに肯定を返した。

「そう、知り合い。

インフェリア君のお父さん、先代の大総統さんでしょ?」

「うん」

「え、ニアが?!」

ルーファが驚愕する。

道理で聞いたことのある名前だと思った。

それに加えてこの髪と眼の色は、間違いない。

どうして気づかなかったんだ。

「それから、シーケンス君のお母さんは社長さん、お父さんは薬屋さん」

「正解」

「そうなの?!ルーって社長さんの子供なの?!」

今度はニアが驚く番だ。しかし、シーケンスという名は別の所で聞いた気がする。

たしか、父から聞いたのではなかったか。

「私のお母さんは昔シーケンス君の両親と一緒に仕事してたの。

ニア君のお父さんの下でね」

「俺の親と…?」

「僕のお父さん…?」

彼女が知ることを、自分たちは知らなかった。

いや、気づかなかっただけだ。

言われてみれば、名前が記憶にある。

「なんか意外ね。絶対知ってると思ったのに」

「親同士の行き来があっても、俺たちは初対面だからな」

「うん。僕はほとんど何も聞かされてなかったし。

お父さんが大総統だったのは知ってるけど…」

「有名だからな。…まぁ、その有名人の息子がニアってのはまだ信じがたいけど」

「えー、なんでー?アーシェちゃんは信じてくれてるよね?」

ニアの困惑した言葉に、アーシェは少し考える。

表情はにっこりしたまま。

「信じるよ、…ニア君」

「今なんで考えてたの?」

「考えてないよー。…あ、私時間だから行くね」

アーシェはごまかすように時計を見て、二人に背を向けようとした。

しかし、

「なんだ、アーシェも俺たちと同じ時間なんだ」

「僕たちもこの時間なんだ、大総統室」

嬉しく重なった偶然。

温かな手に取られる、二人の手。

「じゃあ、いっしょに行こうよ!

よろしくね、ニア君、ルーファ君」

呼ばれた名前は、始まりの合図。

 

大総統室は先日入隊した者の入れ替わりが続いていた。

さすがに疲れてきて、溜息をつく国のトップ。

「あともうちょっとだって分かってるんだけどね…」

その横で大総統補佐である大将が名簿を見る。

さっき出ていった者の名を消しながら言う。

「全員にいちいち会うからこんなことになるんだ。

もともと無茶だったんだって」

「でも全員の顔見ておきたいんだ。それに…」

薄い赤紫色をした髪を編み直しながら、大総統は微笑む。

「今回の子は面白そうだから。一度会いたかったんだ」

エルニーニャ王国軍史上初の美人大総統にこんな表情をされると、補佐は返す言葉がない。

思わず手を伸ばしかけたが、我に返って気を取り直す。

「…次だぞ、その面白い奴ら」

「そうみたいだね。きっといい子だよ」

「レヴィは?」

「一番最後。時間かかりそうだから」

大総統が時計を見ると、ちょうどいい時間になっていた。

そろそろ小さなノックの音が響く頃だ。

 

大きな扉の向こうには、かつて父が見ていた景色がある。

ニアはしばらくぼうっとしていた。

「ニア君?」

「入るぞ」

アーシェとルーファの声で我に返り、頷く。

ノックの音が耳に入ってくる。

この向こうにはどんな人がいるのだろう。

恐い人だったらどうしよう。

――お父さんはいい人だって言ってたけど…

緊張しながら扉を開け、広い部屋の中へ進む。

俯いたままの敬礼。ルーファとアーシェはどんな表情なんだろう。

大総統は、どんな人なんだろう。

「ようこそ」

落ち着きのある、優しい声がした。

ニアは目だけを正面に向け、国の最高権力者を見た。

「これからよろしくね」

綺麗な笑顔。

薄い赤紫の髪と、紫の眼。

その傍らにブロンドの髪の男。

「バッジを渡すから、もう少しこっちに来てくれる?」

「はい」

「は、はい!」

他二人に遅れて返事をするニアを見て、ブロンドの男が少し笑った。

「…バッジの前にちょっと話そうか」

大総統は机の上に茶色のバッジを並べ、ニアたちの方を真っ直ぐに見た。

親しみを込めた温かな眼差し。

「君達は最後から二番目なんだ。だからゆっくり話せる」

大総統は傍らの男に目配せし、椅子を用意させた。

「長くなるかもしれないから、座ったほうが良いぞ」

そう勧められ、三人は敬礼してから腰をおろした。

まさかこの場で座れるとは思わなかった。

本来なら立ったまま短い話を聞き、バッジを与えられ、退室する。

聞いた手順はこうだったのに、早速違う。

三人の中で特にルーファが怪訝な表情をしているのを見て、大総統は少し困ったような顔をした。

「戸惑っちゃったと思うけど、長くなるかもしれないのは本当なんだ。

聞きたいこともいくつかあるし…」

「聞きたいこと、ですか?大総統閣下が?」

尋ねたのはルーファだ。

その言葉に再び傍らの男が笑う。

大総統は彼をちらりと見て、すぐに視線を子供達に戻した。

「単純なことだから、硬くならないで良いよ。

…まず初めに、ボクが自己紹介しなきゃね」

知ってるとは思うけど、と付け足す。

確かに大総統の名は常識として知っている。

国王の名前は覚えなくてもいいが大総統は知っておきなさいと大人は言う。

「ボクはハル・スティーナ。そしてこっちがアーレイド・ハイル大将」

大総統は傍らの男を示して言う。

「僕たちがこの国の実質的なトップってことになるかな。

そして、軍を統制する人間でもある」

それはわかるよね、と言い、続ける。

「だけどね、それ以前に…ボクらは君たちのご両親の部下だったんだ」

「!!」

変な感じがした。

国で一番偉い人が、自分たちの親の部下。

ニアは父が前大総統であるため違和感はなかったが、ルーファとアーシェはやはり少し混乱している。

まったく知らなかったわけではないのに。

「まず…アーシェ・リーガルさん。リアさんとアルベルトさん、元気?」

「はい!…家族みんな、元気です」

「そっか、良かった。アルベルトさん、手はどう?」

「物は持てないけど…大丈夫みたいです」

名前で呼んでいる。本当に知っているんだ。
アーシェはドキドキしながら答えていた。

「次は…ルーファ・シーケンス君」

「はい」

「グレンさんとカイさん、相変わらず?」

「撃ちつ撃たれつですけど」

「そっか、変わってないね…」

昔からああだったのか、自分の両親は。

呆れると同時に、それを変わってないねで済ます大総統を偉大に感じる。

「それから、ニア・インフェリア君」

「は、はいっ!」

自分は何を言われるのだろう。

アーシェやルーファは家族のことを訊かれた。

自分もそうなら、普通に答えれば良い。

だけど、どうしてだろう。

緊張して、頭の中が真っ白になっていく。

「…ニア君?」

「え、あ、はい?!」

思いっきり裏返る声に、ルーファとアーシェは思わず吹き出す。

「そんなに笑わなくても〜…」

「ごめん…」

「ごめんね、ニア君…」

ニアの恨めしそうな抗議にも、二人はまだ笑い続ける。

大総統補佐の咳払いが耳に入るまで。

その後の一瞬の沈黙に苦笑し、大総統はニアに言った。

「ニア君、カスケードさんにありがとうって…そう伝えておいてね」

「…え?」

ニアは数回瞬く。

何で「ありがとう」?

それを察して、大総統は続ける。

「ボクが大総統になって二年、君のお父さんはずっとボク達を助けてくれていたんだ。

もう引退したのに、軍での仕事を何度も引き受けてくれた。

ボクの我侭を、何度も聞いてくれた」

「お父さんが…?」

父がたまに出かけるのは知っていた。

でも、軍に出入りしていることは知らなかった。

父が軍を辞めたのは、ニアに軍人としての自分を見せたくなかったからだという。

知られないように陰でこういうことをしていても、おかしくはないのかもしれない。

「本当に感謝してるんだ。だから…」

「…分かりました。伝えておきます」

母から聞いた話では、父は周囲からよく慕われる存在だったという。

今ここで、それが証明されたような気がした。

授与された階級バッジを、ニアはぎゅっと握り締める。

――僕も、お父さんみたいになれるかな。

父と同じ道を望んでいる訳ではない。

信頼される人間になりたいのだ。

 

もしもし、カスケードさん?

はい、今バッジ渡したところです。

大丈夫ですよ。カスケードさんによく似た、良い眼をしてたから。

…分かってます。もしものことがあったら、その時は…

今度は、ボクが守ります。

 

大総統室を出た三人は、緊張から解放されてはしゃいでいた。

「きれいな人だったね!大総統さん」

「そうだな」

「いい人で良かったね」

胸に茶色のバッジをつけて、気持ちを新たに歩き出す。

窓から射し込む光と、自分たちの始まり。

「そういえばニア、お前やっぱり将来は大総統?」

ルーファがふと思い、尋ねる。父親が前大総統ならば、目指すかもしれない。

「んー、まだわかんない。お父さんが大総統だからってなれるわけじゃないし。

それに、僕は僕だから」

「…そっか」

ニアの言うことは正しい。

だけど、彼が目指すのなら後押ししたいと思った。

「どっちにしろ今のニアじゃ無理っぽいけどな」

「ルーってば酷いよ…」

「ふふっ…二人とも面白いね」

笑顔が並んで通る。

開いた窓から、夏の爽やかな風が吹き込んだ。

 

すれ違った緋色には、誰も気づくことなく。

 

 

To be continued…