軍人二日目、ニア・インフェリアの朝。

「お母さーん」

「なぁに?」

「パン真っ黒けだよ」

皿の上にあるのは、すでに炭と化したスライス食パン。

最近改善されてきたと思ったら急に失敗したらしい。

ニアの母シィレーネは、まともな料理が苦手だ。

いや、トーストは料理ではない。

「ごめんね、ニア…パン屋さんで買ってきたの食べて」

「結局そうなるんだ…」

商店街のパン屋で買ってきたオレンジパンを、ニアは半分呆れながら頬張った。

産まれた時からこの環境だ。もう慣れている。

「お父さんは?」

「遅くまで何かやってたみたいだから、まだ寝てるんじゃないかしら」

「ふーん」

最後の一口を飲み込んで、ニアは席をたった。

今日は初めての教練の日。

担当の上司が新兵を指導するそうだ。

「教練担当の人って誰だろ…」

ニアは呟きながら想像する。

やはり厳しい人だろうか。ものすごく恐い人だったらどうしよう。

ニアは一人身震いし、階段を下りた。

 

ルーファはバスの中で、父の言葉を思い出していた。

昨日、教練担当が決まる話をしたら、こう言われたのだ。

「部下虐めが趣味の人に当たらなければ良いな」

どうやら父の知り合いがそういう人だったらしい。

珍しく母も同意していたので、よほどのことがあったのだろう。

不安を感じながら、ルーファは溜息をついた。

嫌な予感がするのだ。

物凄く嫌な予感が。

 

教練は男女別なので、アーシェとは班が違う。

成績別でもあるので、ニアとルーファは同じ班になる。

「よろしくね、ルー」

「あぁ」

一緒で良かった。もし担当者に問題があっても、これなら心細くはない。

たとえ厳しい人でも、部下虐めが趣味でも、なんとかなるかもしれない。

二人はホッとして練兵場へと向かった。

その後ろの緋色の影にも気付かずに。

「みーっけ。…あれが前大総統の息子か」

緋色は不敵に笑い、ターゲットの後を追った。

 

初教練の始まりだ。

まだ武器の登録をしていないので、今回は共通の訓練。

「何やるのかな」

「体術とか…基本的なものだろ、きっと」

整頓された列の中で、ニアとルーファは前にある壇を見る。

あそこに担当者が現れるはずだ。

不安が募り、話し声が止み、重い静けさがその場を押さえつける。

やはり恐い人だろうか。

ニアとルーファは息を呑んで壇を見つめた。

視界の端に見えた影は、一歩、また一歩と壇上へ登ってくる。

 

その頃、大総統室はここが軍施設であることを忘れさせるくらい和んでいた。

「チェックメイト!」

「…またか」

大総統ハルの嬉しそうな宣言に、大将アーレイドは額を押さえる。

今のところチェスと腕相撲でハルに敵う者はいない。

「アーレイドってば負けっぱなしだよ。これじゃ…」

「言うな。あの人と一緒にされたくない。オレ暴れないし」

「はいはい」

アーレイドの言葉を、ハルは笑いながら受け止める。

チェスセットを片付け、外の音に耳を傾けた。

「始まったみたいだね、新兵教練」

「もうそんな時間か…」

アーレイドは大総統用事務机の上の名簿を徐に手に取った。

今日からの教練班の名簿。

「ハル、お前謀っただろ」

「何を?」

「わかってるだろ」

並ぶ名前の中には、見知ったものがいくつかある。

ニア・インフェリア、ルーファ・シーケンス、…

そして、教練担当者もよく知っている人物だ。

「ハル、これはまずいと思う」

「なんで?」

「だって、担当者…」

この班の教練担当は、七年前に入隊した大尉だ。

七年前といえば大総統はカスケード・インフェリアだ。

教練担当の大尉が入隊する直前に辞めてしまったが、大総統補佐は「喧嘩屋」と呼ばれる者だった。

「…似てるとこあるからなぁ…」

アーレイドは溜息をつき、客用ソファに座り込んだ。

 

壇上からの爽やかスマイルは、女性なら多くが落ちるであろうほどの威力を持っていた。

発せられる言葉は事務的だが、声色は優しい。

「…で、今回は基礎訓練だ。これも重要なデータになるから、真面目にやるように」

担当上司ダイ・ホワイトナイト大尉が壇上から姿を消すと、新兵は一斉に移動を開始した。

「ルー、優しそうな人でよかったね」

「そうだな」

初めに持っていた不安が解消され、二人の足取りは軽かった。

基礎なので気楽にいけると考えながら、所定の場所に並び直す。

担当者の指示に従って進んでいけば良いのだから、おそらく最も簡単な教練だ。

ニアはこれから始まることに期待を持っていた。

しかし、

「インフェリアって、君だよね?」

この言葉によって、教練は試練と化す。

「…そう、だけど」

「ふぅん、なんだかそれっぽくないけど…まぁいいか」

ニアの隣に並んだ、緋色の髪の少年。

小柄で表情も幼いが、口調は自信に満ち溢れている。

ニアは首を傾げて彼に尋ね返した。

「君、誰?」

知らない相手に「それっぽくない」なんて言われて、気分が良い筈がない。

名前くらいちゃんと名乗って欲しい。

「ボク?ボクはね…」

緋色の少年は不敵な笑みを浮かべ、

「大総統の息子」

はっきりと、そう言った。

「え、それどういう…」

「黙った方が良いよ。説明始まるから」

ニアの言葉は遮られ、もやもやしたまま上司の説明を聞く。

一体隣の少年は何者なのだろう。

ニアの事を知っているようだが、こっちは全く知らない。

「ニア、どうかしたのか?」

やり取りを聞いていたのか、ルーファが小声で尋ねる。

ニアは首を横に振り、隣をちらりと見た。

そこには平然とした緋色があった。

幼い横顔だ。自分とそう変わらない。

説明が終わった直後、ボーっとしていたニアの袖を緋色が引っ張った。

「ニア・インフェリア、ボクと勝負しない?」

唐突な言葉つきで。

「…勝負?」

瞬きして訊き返すニアに、緋色は笑う。

「簡単だよ。訓練の結果でどっちが良いか判断すれば良いんだから」

「でも…」

「何でいきなり勝負になるんだ?」

渋るニアの後ろから、ルーファが声をかける。

自分と彼の二十センチはある身長差にも怯まず、緋色は続けた。

「ボクとニア・インフェリアはどっちも大総統の息子だから。

どっちが強いかなって思って」

「大総統の息子…?」

ルーファは少し考え、何かに思い当たった。

いつか聞いた事がなかったか。

「そういえば…大総統には子供がいたような気がする」

「そうなの?」

「あぁ。名前は覚えてないけど…」

ルーファがちらりと緋色を見る。

緋色は仕方ないなぁ、と呟いた。

「レヴィアンスだよ。レヴィアンス・ハイルっていう名前なんだ、ボク」

漸く聞けた名前には、不思議な点があった。

ニアは首を傾げる。

「でも…大総統さんってスティーナじゃ…」

「そうだよ。ボク、父方の姓名乗ってるから。お父さんは大総統補佐」

「うそぉっ?!」

でも、確か、なんで、とニアが混乱しているのを見て、ルーファは溜息をつく。

「ニア、説明するから落ち着け」

「え、何でルーが説明するの?」

「いいから」

立ち止まって話しているとまずいから、と、ルーファは移動しながら説明してくれた。

 

ニア、ルーファ、そしてレヴィアンスの三人は、百メートル走の順番を待っていた。

後ろの方なので、自分たちの番まで結構時間がかかるはずだ。

「説明すると、大総統補佐のハイル大将とスティーナ大総統は一応夫婦なんだよ」

「え、でも…」

「ニアの言いたい事はわかる。同性なんだよな、あの二人。

だから戸籍上は夫婦じゃない」

「………?」

「だけど子供は欲しかったから、養子をとった。それがレヴィアンスだ」

「??????」

一生懸命なルーファと混乱しているニアを、レヴィアンスはすぐ横で見ていた。

ニアは理解してくれるだろうか。

できないならさっさと諦めて、勝負のことを考えてほしい。

「レヴィアンス、この説明で良いか?」

「…説明は微妙だけど、もういいよ。

それと、レヴィアンスって長いからレヴィで良いよ」

「そうか、分かった」

あんなに長かった列は、ルーファが説明している間に短くなっていた。

気がつけばもうすぐ自分たちの番だ。

「…ねぇ、レヴィ」

「なに?」

「なんで勝負なの?」

ニアが話を戻し、レヴィアンスはホッとしながら言う。

「君は前大総統の息子で、ボクは現大総統の息子。どっちが強いのかはっきりさせたいんだ。

言うなれば親の名誉をかけた勝負をして欲しいんだよね」

「親の…めいよ?」

「そう」

順番はもう次だ。

前の人たちが走っていく音が、遠い所で聞こえる。

「つまり、君の負けは君のお父さんの負けなんだよ」

「………!」

位置につく指示が出た。

もう、後には引けない。

 

午前中の教練が終わり、クタクタになって食堂に辿り着く。

今日からほぼ毎日お世話になる場所だ。

「二人とも、大丈夫?」

心配そうなアーシェに、ルーファは苦笑しつつ答える。

「俺は大丈夫。…問題はニアだな」

その通りだった。

プレッシャーと疲労で、ニアは食欲も失っていた。

「ニア君、お昼ご飯は?」

「食べれない…」

「私の卵焼きあげようか?」

「アーシェちゃんの取る訳にいかないよ…」

「食べなきゃだめよ。午後から力でないよ?」

「でも…」

すっかりヘコんでいるらしい。

――無理もない、か。

ルーファが見た限り、ニアはまだ一度も勝てていない。

全てにおいて、僅差ではあるがレヴィアンスの方が勝っている。

さっき入隊試験の成績も確認してきたが、レヴィアンスの実技成績はニアより低いがそう変わらない。

試験後から今まで鍛えていれば、今回のような逆転もおかしくはない。

それに加えてあの台詞だ。

「ねぇ、ルー」

「何だ」

「僕…お父さんに迷惑かけてるよね…」

ニアが一番気にしているのは、このことだ。

「ルーファ君、一体何があったの?」

「実は…」

ルーファはアーシェにことのあらましを説明した。

アーシェはレヴィアンスのことも親から聞いて知っていたようで、大体の話は理解したようだった。

「…そっか、ニア君はそれで落ち込んでるのね」

「そうなんだよ。レヴィが短期間で実力をあげてて、今のニアじゃ太刀打ちできない」

「そう…」

大きいのは親への負い目だろう。

自分が父親の名誉に傷をつけてしまったと、ニアは自身を責めている。

「ニア君、昨日自分で言ってたと思うんだけど…」

アーシェがぽつりと言う。

ルーファはそれで思い出した。

昨日、ニアは言っていた。

「そうだ、ニア!僕は僕なんじゃないのか?!」

「!」

昨日ルーファがニアに大総統になるつもりかを聞いたとき、ニアは言った。

「ニアはニアなら、それで良いだろ。もっと力をつけるためにこれから頑張れば良いんだから」

「そうよ。ニア君ならきっとできるよ!」

励ます声に、ニアは顔を上げる。

「僕は…僕?」

「そうそう」

「ニア君はニア君」

ふと、父の言葉を思い出した。

仲間がいたから今の自分がある。そう言っていた。

その言葉の意味が、少し分かった。

こうして支えてくれる仲間がいたから、父は大総統になれた。

――じゃあ、僕は?

励ましてくれる人がいるのに、自分が諦めていちゃ話にならない。

たとえ今は無理でも、諦めなければきっと糸口は見つかる。

「ルー、昼休みってあとどのくらい?」

「まだたっぷりある」

「ご飯貰ってくる!」

ニアが走っていった後、ルーファとアーシェは顔を見合わせて笑った。

きっと大丈夫だ。

ニアなら、きっと。

 

午後は長距離走だ。

始まる直前、レヴィアンスが話し掛けてきた。

「ちゃんとゴハン食べた?」

「食べたよ。…今度こそ負けないよ!」

ニアの威勢に、ルーファは少し離れたところで目を細める。

レヴィアンスは少し驚いていたが、喜んでいた。

ニアはさっきよりずっとやりごたえがありそうな眼をしている。

「…ボクだって、負けるつもりはないからね」

最終ラウンドがスタートした。

 

初めからスピードが出ているものは三人。

一人は余裕を持って最前を走る。

少し離れて続くのは、風に流れる緋色。

僅かに遅れてダークブルー。

急な坂道でも、勢いのつきがちな下りでも、その位置はほとんど変わらない。

緋色とダークブルーの入れ替わりは激しく、どちらがどうなってもおかしくはない。

後方二人を気にしながら、薄茶髪の少年がスピードを上げた。

 

一位着のルーファは、後続をゴールで待っていた。

担当上司のホワイトナイト大尉と一緒に。

「名前は?」

「ルーファ・シーケンスです」

「あぁ、今年のトップの…」

大尉は成績を把握しているようだ。

ルーファが黙っていると、続けて話し出した。

「一緒にいた青いのがニア・インフェリア?」

「そうです」

「赤いのがレヴィアンス・ハイル…大将殿の息子だな」

「そうらしいですね」

向こうから並んで走ってくる青と赤を見ながら、ルーファと大尉は短い会話を続ける。

「これから教練よろしくお願いします、大尉」

「ダイで良い。…お前の両親も俺の親を名前で呼んでただろ」

「…大尉の親?」

ダイ・ホワイトナイト大尉は立ち上がり、ストップウォッチのボタンに触れた。

ルーファに目だけ向け、爽やかに微笑む。

「俺の親、軍で喧嘩屋って呼ばれてたんだけど」

「?!」

笑顔の裏のどす黒いものを、ルーファはその時確かに感じ取ってしまった。

「正確には養父だけどね」

ストップウォッチのボタンが、素早く二回押された。

 

勝負の結果は、僅かな差でニアの勝ち。

「やったーっ!」

大きくバンザイをするニアに、ルーファが良かったなと笑いかける。

引きつっていても、笑顔は笑顔だ。

レヴィアンスが手を頭の後ろに回し、笑みを見せる。

「あーあ、負けちゃった。…ま、いつでも巻き返せるけどね」

「次も負けないよ!」

レヴィアンスとニアは互いに手を叩きあった。

二人の間にあった壁が、完全に取り払われた瞬間。

「それにしても、レヴィって強いよね」

「弱いと親に示しつかないから。ニアだって頑張りやさんだよ」

「これからもっと強くなるよ!」

勝負で得た物は、名誉なんかよりずっと大切なもの。

 

お母さん、ニアと勝負してみたんだ。

ケンカじゃないよ!教練だもん。

大方ボクが勝ったよ。…最後ちょっと負けちゃったけどね。

それでね、友達になった!

…お母さん、これを謀ってたんでしょ?

 

「ただいまー」

「おかえり、ニア」

ニアの帰宅を迎えたのは、大好きないい匂い。

大急ぎでカバンを置いて、台所へダッシュする。

「グラタン?」

「そうよ。今朝失敗しちゃったから、お詫びにね」

「やったー!」

上機嫌なニアを見ると、シィレーネも嬉しい。

グラタン以外にも何か良いことがあったんだろうな、と察することができる。

「ニア、軍はどう?」

「楽しいよ。トモダチ増えたんだ!」

「そう…」

きっと父親に似るだろう。

同じ道を辿らなくても、信頼できる仲間がいればそれだけ成長できる。

たとえ、今はまだ小さくても。

「ニア、帰ってたのか」

「お父さん、ただいま!」

「お帰り。…あ、大総統から電話きてたぞ。息子よろしくって」

「うん。レヴィとはもう友達だよ」

「あと…上司には気をつけろよ」

「?」

 

To be continued…