書類を手にするハルの表情が暗い。
理由はわかっている。
アーレイドは練兵場から聞こえてくる音に耳をすます。
大総統の「理由」がそこにある。
「本日はここまで」
男子の訓練が終了した。
解散の号令とほぼ同時に、ニアとレヴィアンスは伸びをした。
「砂袋担いでたら背が縮みそうだよね…」
「あれ重いよ…」
軽めのはずの子供用砂袋も、彼らにとっては巨岩のようなものだ。
担いで百五十メートルダッシュは厳しい。
「そのうち慣れるだろ。俺はもう慣れたけど」
「さすがルーだよね」
「ルーファには勝てないんだよなぁ…ニア相手なら余裕なのに」
「レヴィと僕はあんまり変わんないってば…」
訓練終了後のいつもの風景だ。こうしてお喋りをしながら食堂に向かう。
「おつかれさま」
これもその過程だ。
「あ、大尉!おつかれさまです」
教練担当の上司であるダイは、ニア達三人によく声をかける。
「ニアとレヴィはよく頑張ってたな。次回からちょっと砂の量をふやそうか」
「え、あれ以上ですか…?」
「ルーファはさっき慣れたって言ってたよな。次回は大人用二つに…」
「俺の体重超えませんか?それ」
「超えるよ。二倍くらいだな」
「………」
ルーファはこの上司が苦手だ。爽やかな笑顔の裏の黒いものが見えてしまう。
レヴィアンスも最近それを感じ、少々苦手意識を持っている。
彼の前で能天気なのはニアだけだ。いっそ羨ましい。
「こっちだよー」
食堂の隅のテーブルで、アーシェが手を振る。
その隣にはグレイヴが座っていた。
二人は従姉妹同士で、グレイヴが軍に入ってからはいつも一緒だ。
「遅くなってごめんな」
「いいのよ。男子の教練って大変なんでしょ?」
アーシェの笑顔で、ルーファのすまなそうな表情も和らぐ。
食堂のカウンターで昼食を貰ってきて、楽しい時間が始まる。
「アーシェちゃんのお弁当美味しそうだよね」
「お母さんが作ってくれるの。ニア君にもあげようか?」
「わーい!」
アーシェにたこウィンナーを貰って、ニアは上機嫌だ。
「いいなー。ニアばっかりずるいよ」
「レヴィ君にも、はい」
「やったぁ!」
「おいおい、ニアもレヴィも人の取るなよ…」
呆れ顔のルーファをよそに、二人は大喜びだ。
アーシェも弁当を褒められて嬉しそうなので、これ以上は何も言わないことにした。
「グレイヴちゃんは自分で作ってるのよ」
「アーシェ、そんな事…」
話を振られて、グレイヴは少し戸惑う。
それに構わず、ニアとレヴィアンスは彼女の弁当箱に注目した。
「すごいね、グレイヴちゃんって」
「偉いね、グレイヴ」
「自分でやらなきゃ誰もやらないからよ。たいしたことない」
「僕にとってはたいしたことだよ」
褒められたためか、グレイヴは恥ずかしそうに俯く。
その隙をついた、一瞬のできごとだった。
「…うん、見た目だけじゃなく味も良い。
グレイヴはいい奥さんになれる」
さっき別れたはずの声で、ルーファとレヴィアンスは固まる。
「大尉…」
「ダイさん、まだ仕事あるんじゃ…」
「もう終わった」
グレイヴの弁当箱から盗った物を飲み込んで、ダイは爽やかに微笑んだ。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまじゃないわよ!アタシのかぼちゃコロッケ返して!」
盗られた方が怒るのは当然だ。
しかも
「かぼちゃコロッケ、グレイヴちゃんの好物なの…」
だそうだ。
食後に微塵切りショーがあったのは言うまでもない。
午後はデスクワークの手伝いで、コピーと資料運び。
いつもの作業だ。
「ルーファ君、図書館からこの資料持って来てって頼まれたんだけど…」
「わかった。ニア、行くか?」
「行く!」
そういうわけで、ニアとルーファは図書館へ向かった。
司令部施設と繋がっているので、廊下を進んでいけば辿り着く。
「ニア」
「ん?」
不意に呼ばれ、ニアは首を傾げる。
ルーファはごまかすように笑って見せた。
「いや、たいしたことじゃないんだ。
ただ、ちょっと気になってて…」
「何が?」
「えーっと…」
急にこんなことを訊いて良いのかどうか。
今更躊躇っても仕方がないのだが。
「なにー?」
「…ニアは、どうして…軍人になろうと思ったんだ?」
人の「理由」というものは、誰にも知られたくないこともある。
彼にとっては、どうなのだろう。
「どうしてって…」
ニアは少し顔を上げ、考えるような仕草をした。
どんな答えが返ってくるだろう。
「…僕、説明するの苦手なんだ。
簡単に話すけど、いい?」
話して、くれる?
「あぁ」
「じゃあ言うね」
笑っている。
ルーファはホッとして、ニアの話に耳を傾けた。
「僕のお父さん、大総統だったから…ちょっと憧れてたんだ。
かっこいいお父さんを見てると、僕もあんなふうになれるかなって…」
それは当然の感情だ。
ニアはずっと大総統としての父を見てきた。
多くに慕われる存在に憧れるのは普通のこと。
「だけどね、お父さんは僕を軍人にしたくなかった。
僕の曾お祖父ちゃんは軍人時代に受けた傷の後遺症で死んじゃったらしいし、お父さんもたくさん危険な目にあったから。
僕にまで危ないことさせたくないって…」
ニアが軍人を志した時、父は猛反対した。
自分に対してあんなに強く怒鳴る父を見たのは、あれが最初で最後だ。
「でも、僕は諦められなかった。
お父さんへの憧れもあったけど、もう一つ理由ができたんだ」
「もう一つの理由?」
「うん。助けられてばっかりじゃなく、僕が人を助けたいっておもったんだ。
僕に力がなくて何もできなかった時、お父さんが助けてくれて嬉しかったけど…
でもやっぱり、悔しかったんだ」
もう一度志を伝えた時、父はあることを話してくれた。
かつての親友の生涯だった。
危険な目にあうかもしれないけれど、それでも軍人になりたいのか。
そう言われて、ニアは頷いた。
頷いたから、ここにいるのだ。
「僕は人を助ける軍人になる。もっと強くなって、誰かの力になりたい」
強く宣言するニアを、ルーファはじっと見つめる。
これまでニアの強さを意外だと思ってきたが、そうなるべくしてなったのだと認めさせられた。
やはり前大総統の子だ。気持ちが強い。
「…ニアに負けないようにしなきゃな」
「え?ルーはいつも僕に勝ってるじゃない」
「そうじゃなくて。
俺は両親に憧れて軍人になったけど、まだそれ以上が見つからない。
ニアはもう見つけてるから、俺より上だ」
「ルー…」
これから見つかるだろうか。
いや、見つけなければいけない。
自分だけの「理由」を。
「じゃあ、ルーが見つけるまで僕と一緒にしようよ」
「え?」
「人を助ける軍人、ルーもいっしょに目指そう!」
ね?と手を差し伸べるニアと、
「…ありがとう、ニア」
その手をとるルーファ。
それはまるで…。
アーシェ、レヴィアンス、グレイヴの三人は事務室での手伝いに当たっていた。
「アーシェって上司の人よりパソコンできるよね」
レヴィアンスが小声で言うと、アーシェは頬を染めて笑う。
「そんなことないよ。ちょっとお父さんに教わっただけだから…」
「ボク苦手だから羨ましいんだよ」
レヴィアンスはしきりに「いいなー」を繰り返すが、グレイヴはそれを複雑な思いで見ていた。
アーシェがここまでできるようになったのは、彼女に信念があるからだ。
パソコンを教えてくれた父にも話せない信念が。
グレイヴがそれを聞いたのは、一年以上前だった。
「グレイヴちゃん、少尉さんが呼んでるよ」
「え、…あぁ、ごめん」
慌てて上司のもとへ走る間も、従妹の抱く思いを反芻する。
――私、知りたいの。お父さんのこと。
――どうして手を怪我したのかとか、どうして父方のお祖父ちゃんがいないのかとか。
――お父さんは何も言わないから…。
全てを知ろうという決心をした従妹と、彼女を守るためだけにこの道に進んだ自分。
グレイヴが追い着いた時、アーシェはすでに「守られるもの」ではなくなっていた。
どんなに力があっても、もう必要とされない。
知る決意のない者は、何の役にも立てない。
グレイヴにも関係のあることなのに、知ることを怖れている。
父兄弟の隠し事には闇がある。それに関わるのが怖い。
立ち向かうものを止めることもできず、ただ情けなく立ち止まる身が恨めしい。
直接伯父さんに訊けば良いじゃない。そう言った事もあった。
すると彼女はこう答えるのだ。
ダメだよ。もし辛い真実があったら、きっと私受け入れられない。
お母さんのことを聞いた時、しばらくそうだったから。
だから自分で導き出して、それから訊きたいの。
アーシェは笑っている。重いものを抱えているのに、周囲に明るく笑いかける。
グレイヴは笑えない。何もないのに、作り笑顔さえできない。
アーシェとレヴィアンスが話しているのが見える。
楽しそうで、輝いている。
「ボクさ、お父さんとお母さんに憧れてるんだ」
アーシェが出力した書類をコピーしながら、レヴィアンスが言う。
「大総統さんと補佐さんだもんね。わかるなぁ」
紙が詰まりかけて、アーシェが少しコピー機を調節した。
「ボク、お父さんみたいな立派な軍人になりたい。
それからお母さんみたいな立派な大総統になりたいんだ」
「うん、レヴィ君ならなれるよ」
「ありがと、アーシェ」
レヴィアンスは明るく笑ったが、すぐに俯いてしまった。
アーシェは首を傾げ、コピー機のボタンを押した。
「どうしたの?」
「…このままでいいのかなって」
「え?」
印刷物が次々に吐き出され、溜まっていく。
「お父さんもお母さんも立派な人だよ。
でもボクはそれに甘えてるんだ」
誰も手を触れず、少しばらつく紙の束。
「本当はね、ボク十歳じゃないんだ。アーシェより二個も下なんだよ」
「そうなの?!」
「うん。他の人には内緒だよ。
実力がついてきたからって、お母さんに許してもらったんだ。
ボクのワガママのせいで、お母さんは決まりを破っちゃった」
コピー機は不穏な音をたて、最後の一枚を吐き出した。
「ボク…このままじゃだめだよね。
立派な軍人にも程遠いよ」
「レヴィ君…」
動きを止めた機械から、アーシェは紙の束を抜き取った。
「ねぇレヴィ君、これからもこのままって事は無いと思うの」
束は綺麗に揃えられ、アーシェの腕の中に収まる。
「私たち、まだ軍人になったばかりだもの。時間はたっぷりあるよ。
レヴィ君はきっと、立派なレヴィ君になれるわ」
「立派な…ボク?」
「うん。レヴィ君はレヴィ君だから。
ハルさんでも、アーレイドさんでもないの。
レヴィ君だけの立派な軍人さんになればいいの」
もちろん私もね、とアーシェは言った。
いつもの優しい笑顔で。
「…なんかアーシェのおかげで元気出てきた!
ボク、頑張ってみる!」
「そうそう。頑張れ、レヴィ君!」
アーシェの持っていた束を半分受け取り、レヴィアンスは走っていった。
目をキラキラさせて、真っ直ぐに前を見て。
「”僕は僕”。そうだよね…ニア君」
アーシェはレヴィアンスの後を早足で追いかけた。
大総統室に呼ばれる回数は、どんなに名高い将官よりも多い。
ここ一ヶ月で急に増えた。
「失礼します」
「度々ごめんね、ホワイトナイト大尉」
困笑する大総統を見るのも、これで何度目だろう。
数える気も起きない。
「今回はどのような?」
「北方諸国から連絡が入ってる」
答えたのは大総統補佐だ。用件を伝えるのは、いつも彼の役目。
「新たな危険薬物として、三種類が登録された。
全て高度な調合技術がなければ生成できないものだ」
言葉とともに差し出される資料は、言葉に矛盾している。
「ここに書かれているのは六種類ですが」
「登録されていないものを含む。正確に言えば…」
「登録が阻止された、ということですか?」
「そうだ」
ダイは資料に目を通し、眉を顰めた。
危険薬物に関する事件が増えつつある。理由もわかっている。
わかっているのは、上層部とダイだけだ。
「俺に情報をまわしておいて、どうして遠征に参加させてくれないんですか?」
「まだ大尉だからだ。左官以下は緊急事態や特別な事情がない限り、海外任務はできない」
「緊急事態でしょう。特別な事情だって…」
紙の束に皺が刻まれる。
重要事項が書かれているはずの資料は、ダイによって原形を失っていく。
「まだ緊急事態とは言えない。それに、お前の事情は…」
「肉親を傷つけられたんです。犯人を追うのは自然なことでしょう」
「追うだけじゃないだろ。お前は奴に復讐を」
「大将に何がわかるんですか!」
赤味がかった濃茶の瞳は、冷静さを失っていた。
自分を作ることを忘れ、本性を剥き出しにした、
怒りと憎しみの眼。
「ダイ君」
「…っ」
大総統――ハルが呼びかけて、漸く自身を取り戻す。
「…取り乱してしまい、申し訳ありませんでした」
「いいんだよ。ボクは君に残酷なことをしているんだから。
資料のことも、階級のことも」
「いいえ…資料、ありがとうございました。
階級の件も、伍長達と引き合わせて下さったのでもう良いです」
ダイが会釈して背を向けようとした時、
「大尉」
アーレイドが彼を呼び止めた。
「新兵を…頼む」
ダイは振り返らない。出口に向かって歩む。
「俺に頼まなくても大丈夫ですよ。
…ハイル伍長も、八歳ながら良くやってますから」
大きな扉が開き、閉じた。
もうすぐ仕事が終わる。
資料を図書館に戻せば、ニアたち新兵は帰る事ができる。
「寮にしようかと思ってるんだ。近いし、緊急時でもすぐに来られるだろ?」
「ルー、家出るの?」
「まぁ、そういうことだな」
そんな話をしながら、ニアとルーファは図書館を後にした。
「僕も寮にしようかなぁ…」
「そうなったら同じ部屋になると良いな」
「そうだね。ルーと一緒なら怖くないや」
「…怖いんだ?」
もうすぐ別れの時間。
また明日会えるけれど、やっぱり寂しい。
ずっとこのままなら良いのに、と思うニア。
その名を呼んだのは、
「インフェリア伍長、シーケンス伍長」
「え?」
「あ…」
きれいに笑む大総統。
「今日もご苦労様」
「大総統閣下もお疲れ様です」
「お疲れ様です!」
こんな所で会うなんて。
普段は大総統室にいるので、滅多に会うことはない。
「インフェリア伍長、ちょっと話したいことがあるんだ。
時間もらえるかな?」
こうして呼び出されるのも、入隊初日以来。
「えと…わかりました。
ルー、先行ってて」
「あぁ。…失礼します」
ルーファが丁寧に会釈して去っていくのを見送ったあと、大総統はニアを連れて行った。
自分の場所、大総統室へ。
「ごめんね、急に」
「大丈夫です。もう仕事も終わりましたから」
ニアを座らせ、大総統は大きめの封筒を差し出した。
しっかり封がされており、隅には名前が書いてある。
「Quesqueed Infelire」――ニアの父の名前だ。
ニアは首を傾げる。
「お父さんに、ですか?」
「うん、どうしても伝えなきゃいけないことがあるんだ。
これを渡してくれれば大丈夫」
「…わかりました」
伝えなきゃいけないこととは何なのか、ニアには知る由もない。
それが自分に関わってくるということでさえ、このときはまだ考えもしなかった。
物事にはそれぞれの始まりがある。
終わりにどうなるかなんて、誰にもわからない。
走り出したばかりの頃は、周囲の景色に目を奪われるだけだ。
「お父さん、ただいま!」
「お帰り。今日はどうだった?」
「あとで話す。えっとね、これ大総統さんから」
「…わかった」
すでにいくつかの通過点を過ぎた者は、その先を予測しようとする。
「まずいな…思ったより早いぞ」
しかし、予測が実際の未来と必ず合致するということはない。
「闘いは終わらない、か…」
走り出した者がこれから出会うものを、知るものはいない。
To be continued…