本のページをめくりながら、親友の驚く声を聞いた。
何事かと思ったけれど、待つ。
親友が電話を終えて戻って来た。
何があったのか聞こうとしたら、先に言われた。
「あのね、ルー…子供できたって」
「…で、ルーファは焦ったと」
レヴィアンスが駒を動かす。
「ニアがいきなりあんなこと言うからだ。誰の子かと思った」
ルーファは続けて駒を動かしたが、レヴィアンスはしめたとばかりに笑う。
「チェック。今日のルーファは弱いねー」
「ニアが動揺させるからだ」
「うぅ、ごめん…」
結局レヴィアンスがそのまま勝ってしまい、昼のチェス勝負はお開きとなった。
そして、
「ま、とにかく良かったね、ニア」
「まさかお前が兄貴なんて信じられないけどな」
ニアは照れ笑いし、頷いた。
あの事件以来、平和な日々が続いていた。
とはいえ大総統や補佐などは事件の処理や調査に大忙しだ。
ダイがニアたちの他に五人の部下の上に立つようになってからは、仕事もかなり賑やかになった。
裏組織はニアを狙っているようだが、今のところ動きはない。
昨日の電話はそんな中でのものだった。
ニアの父カスケードからで、かなり興奮していた様子。
途中から母シィレーネが出て、それを伝えた。
「ニアにね、弟か妹ができたの」
生まれるのは来年だけれど、ニアは兄になるらしい。
ずっと欲しかった兄弟。もちろんニアの喜びも大きく、
「ニア、ベッドで飛び跳ねるなよ…」
とルーファに注意されたほど。
「弟かな。妹かな。名前は何にするんだろ」
「ニアってば本当に嬉しそうだね」
「だって僕がお兄ちゃんだよ?これでもうルーに弟扱いされないもんね!」
「いや、今この瞬間もお前が年下に見える」
「…ルーのいじわる」
ルーファとレヴィアンスはちょっとうらやましかった。
自分たちは弟も妹も望めない。いたかもしれないけれど、今はいない。
「あ、それでね。兄弟ってどんな感じかよくわかんないから、ちょっといろんな人に聞いてこようと思って」
「ボクも聞きたいなー」
「じゃあまずアーシェにでも聞いてみるか?」
兄弟が望めない分、仲間や両親と過ごす時間を大切にしたい。
だから、ニアのことも自分のことのように喜べる。
「ニア君、お兄さんになるの?!」
アーシェはかなり驚いていた。その隣でグレイヴも呆然としている。
「そんなに驚かなくても…」
「ごめんね。でもやっぱりびっくりしちゃう」
そう言いながらも、アーシェは質問にちゃんと答えてくれた。
「兄弟がどんな感じか、ね…。
私の弟、リヒトっていうんだけど、昔は私やグレイヴちゃんにくっついて離れなかったよねー」
「そうね。昔は甘えてたけど、今は恥ずかしがってくっつかないわよね」
グレイヴも頷きながら言う。
アーシェの弟にはまだ会ったことがないので、そのうち会ってみたい。
きっとアーシェに似て頭の良いかわいい子だ。
「リヒトは将来、お父さんのあとを継いで社長さんになるの。今から経営とか勉強してるのよ」
「…へぇ…」
似たような状況のルーファは、思わぬところで将来のことを考えさせられてしまった。
アーシェの次はダイに尋ねてみた。
彼もまた兄という立場。参考になる話が聞けると良いのだが。
「ニアが兄か…なんか下に負けそうな兄だな」
「大尉酷いです…」
いきなりいじめられたが、話を聞くことはできた。
「そうだな…やっぱり弟は守らなきゃって思う。
特にうちのユロウは体が弱いからな」
「そうなんですか…」
ダイも案外いいお兄さんらしい。
普段の部下いじめからは想像し難いが、きっとユロウにとってはいい兄なのだろう。
「あと色々吹き込むのが面白いな。父さんは優しいんじゃなくやらしいんだって教えたらそのまま学校の作文に書いてた」
「…ダイさん、そういうことやめましょうよ…」
あっさり前言撤回。
続いてゲティスとパロット。
「といってもオレたち兄弟いないしな」
「でもゲティスとパロ、ずっと一緒。兄弟、同じ」
この二人は幼馴染で、兄弟同然に暮らしてきた。
待遇に大きな違いがあったが、それでも二人の関係は変わらない。
「ゲティスさん、パロットさんって弟?」
「オレたちはどっちが弟とかないな。双子みたいなもん?」
「でもゲティス、たまにパロのお兄さん。おにぎり作ってくれる」
「そうそう、お前らもどうだ?新作のチョコレートおにぎり」
「遠慮します」
最後にドミナリオ、ホリィ、オリビア。
しかしこの中で兄弟がいるのはオリビアだけだ。
「それにね、私は下なの。兄がいるのよ」
「へぇ、初めて聞いた。軍曹のお兄さんってどういう人?」
レヴィアンスが興味津々で聞くが、オリビアはさらに困った顔をしてしまう。
「あのね、兄さんは外国で暮らしてるの。私が生まれたときには、もう家にはいなかったのよ」
「あ、そうなんだ…」
オリビアの家の事情を少しではあるが知っているドミナリオとホリィは、この会話がオリビアにとって辛くないか少し心配だった。
けれども、彼女は割と楽しそうに話していたため、それはないだろうと安心した。
「僕も兄とか欲しかったな」
珍しくドミナリオから発言が出て、ニアはちょっと嬉しくなった。
「准尉はどんなお兄さんが欲しいんですか?」
「僕の代わりに軍人やってくれたら、僕が家継がなくて済む」
けれども結局少しシビアな話になった。
色々な兄弟がいるらしく、ニアは「いい兄」の糸口をつかめないままだ。
そもそも弟なのか妹なのかもわからないので、どうしたらいいのかさっぱりわからない。
「んー…やっぱりお父さんに聞いてみようかな」
「ニアの父さんに?」
「うん。お父さんはサクラおばちゃんのお兄さんだし」
ニアにとって一番身近な兄妹だ。
二人は仲が良く、ニアもサクラにはよく遊んでもらった。
「明日お休みだし、家に帰ってみようかな。お母さんとも話したいし」
「じゃあボクも行く!この前行きそびれたし」
「俺も行っていいか?」
「うん!お父さんに電話するね」
こうして翌日のインフェリア家訪問が決まった。
しかし連絡の電話はなかなか繋がらない。
「おかしいな…」
それもそのはず、絶え間ない「話し中」。
もちろん電話は大総統夫婦にもきていた。
『それでさ、名前とかどうしようかなーとか思って…』
「カスケードさん、同じ電話何回目だと思ってるんですか?切りますよ」
『あー待て待てアーレイド!俺は次女の子かなーと思ってるんだけど、本当はどっちだって無事に生まれてくれば』
「切りますね」
ハルはアーレイドの後ろでにこにこ笑っていた。気楽なものだ。
「カスケードさん、幸せそうだね」
「単なる親バカだろ。わからなくもないけど…」
本当は、この電話に救われていた。
例の事件の処理をするうちに、ハルたちはある疑問を持った。
何故ニアが剣を使えたか――しかも相手に深い傷を負わせるほど。
慣れていないものの動きとは思えなかったという。
「カスケードさんは、自宅では大剣振るったことないんだって」
「それに身体能力…確かにニアは今年の受験生の中でもトップクラスだ。
しかし裏の者と互角…いや、それ以上の闘いができるほどではないはずだな」
入隊試験の結果がもうあてにならないことはわかっている。しかし、それでも不自然すぎた。
ニアにそんな力があるなんて、誰にも想像できない。
「アーレイドは…初代大総統補佐のこと知ってる?」
「え?」
ハルが五百年以上も前の話を持ち出す。
何の関係があるんだと言う前に、続きは語られた。
「ガロット・インフェリア…インフェリア家初代当主だよ。
すごく強かったらしいけど、それが逆に恐れられて大総統にはなれなかったって」
ハルが何を言いたいのかはわかった。
ニアの力は、もしかするとインフェリアの血にずっと秘められていたものなのかもしれない。
それが今の代になって目覚めたのだとすれば、一応の説明はつく。
サーリシェリア人に予知能力があるように、インフェリアの血筋にも何か特殊なものがあるのだとしたら。
「似たような話は各地にある。ノーザリア人が基本的に気性が荒いのは、古代に大型生物を倒して生活の糧にしていた名残だとか」
「その例はわかりやすいな」
「だけどただの説だよ。…インフェリア家の話だって、同じ。
だからカスケードさんには内緒ね。あの人多分悩むから」
特に、今は。
翌日、ニアとルーファとレヴィアンスはインフェリア家を訪れた。
休みは二日間あるので、泊まる準備も万全だ。
「ただいまー!」
ニアがドアを開けると、母シィレーネがにっこり笑って出迎えてくれた。
「おかえり、ニア。ルーファ君とレヴィ君もいらっしゃい」
「こんにちはー!」
「おじゃまします」
ニアが返ってきた上、お客が二人。シィレーネはかなり浮かれていた。
「ニア、クッキー焼いておいたよ」
「あ、ありがとー」
実家に帰ると、ニアは更に子供っぽく見えた。
本当にこれが兄になるのだろうか。
「はい、ルーとレヴィの分ね」
「…クッキーだよね?甘いにおいしないけど…」
「レヴィ、気にしないで一口食べてみろ」
ちなみにこの家の手作りクッキーは
「辛っ!なにこれ?!」
「レヴィ、失礼だぞ。ほらどんどん食えー」
「ルーファぁ!自分の分ボクのところに入れないでよ!」
「ごめんね…お母さんのクッキーってこうなんだ…」
カスケードが辛党のため、唐辛子入りである。
しかしカスケードはクッキーまで辛いのはおかしいと思っている。念のため。
そしてシィレーネには全く悪気はない。念のため。
「ニア、お友達来てるのに申し訳ないんだけど、おつかい行ってきてくれる?」
何とかクッキーを詰め込んだところで、外出の準備をしたシィレーネが言った。
「どこに?」
「ホットファーム。明日の朝ごはんに好きなパン買ってきていいよ。
お母さんはちょっと用事があって、帰ってくるのが夜になるの」
「ん、いいよ。晩御飯は作ってあるの?」
「カレーを温めてくれる?お父さんにも頼んであるけど…」
「わかったー」
普通の親子の会話だ。シィレーネが出ていくと、この家には子供三人だけになった。
そういえば「お父さん」を見ていない。
「ニアの父さんは?」
「もしかしたら軍かも。最近忙しいみたいなんだ」
「そういえば特別指揮官だっけ」
そのうち帰ってくるとは思うが、それまでは目的を果たせない。
というわけで
「先におつかい行こうか。好きなパン買っていいって言ってたし」
「ホットファームのパンおいしいよねー」
三人は家を出た。
休日を満喫しよう。せっかくの平和な時間なんだから。
だから気づかなかった。
ずっとついてくるそれを、少しも意識しなかった。
ホットファームはごく普通のパン屋だ。
おいしいと評判で、お得意様は多い。
「いらっしゃいませー!…お、チビじゃん」
従業員で店主の姉、そしてシィレーネの親友であるシェリア・ライクアートは、ニアを見るなり意地の悪い笑みを見せた。
「チビっていわないでよシェリアさん…」
「チビはチビじゃん。これでシィに似てなかったらもっといじめてたよ」
「シェリアさん、お父さん嫌いなの?」
「嫌いなんじゃなくて気に入らないの」
ニアはよくシィレーネにつれられてきていたので、シェリアとはよく会っている。
しかし、ルーファとレヴィアンスは数回しかあったことがなく、少し戸惑った。
「こんにちは」
「こんにちはー」
「ん?あれ、珍しいねぇ君たち」
シェリアの声色がまるで変わる。ニアはそれに不満げな表情。
「シェリアさん全然違う…」
「だって大総統閣下のご子息とカイさんの息子さんだもの」
「僕だって元大総統の息子なのに…」
「アタシはちゃらんぽらんを大総統とは認めません」
目の前で繰り広げられる漫才。ものすごくわかりやすい関係。
軍人じゃないニアの日常。ルーファともレヴィアンスとも違う。
パンをトレーにのせながら、おしゃべりしたり笑ったり。
「またおいでよ」
「うん、おまけありがとー!」
店を出て見上げた空は、いつものエルニーニャの空。
「俺、おつかいって初めてだった」
「あーそっか。ルーファはおつかいなんて行く必要ないもんね」
「じゃあルーは初めてのおつかいだったんだね!」
平和な日々が、このまま続けばいいのに。
何事もなく、笑っていられる日々が。
だけどそうすれば自分たちが軍人である意味もなくなる。
「…でも、その方がいいんだろうな…」
「ん、どしたの?ルー」
「いや、なんでもない」
たくさん傷ついたあの日が、もう遠いことのようで。
このまま忘れてしまえたらいい。
だけどきっと、どこかに根をはっている。
それでも、
「ニア、競走しよ競走!」
「よーし、負けないよ!」
今こうしていられるんだから、きっと幸せといえるんだろう。
「ルー、はやくーっ!」
「今行く!」
普通の子供が、商店街を駆けていく。
家に戻って出会ったのは、ダークブルーの髪。
けれどもそれは意外な人だった。
「サクラおばちゃん!」
「あ、ニアおかえり。ルーファ君とレヴィアンス君もね」
カスケードの妹で、ニアの叔母にあたるサクラ・インフェリア。
近くに住んではいるのだが、この家を訪れることはあまりない。
今日に限っているということは、
「シィさんから頼まれたの。どうせお兄ちゃんはカレーのお鍋のことなんか忘れてるだろうって」
そういうことだ。
ニアたちは容易な想像に笑う。確かに忘れていそうだ。
自分たちもさっきまでは忘れていた。
「あ、サクラおばちゃんは知ってる?僕の弟か妹ができたこと」
「知ってるわよ。良かったね、ニア」
サクラの子供に対する笑顔は輝いている。
彼女が小児科医であるからではなく、彼女が子供を好きだからだ。
ニアは小さい頃からこの笑顔が大好きで、サクラによく懐いていた。
ルーファとレヴィアンスは顔見知りだが、ニアが彼女を慕うのがよくわかった。
荷物を置いてから、サクラの用意してくれた甘いクッキーに手を伸ばす。
レヴィアンスは甘いものに感動を覚えるという珍しい体験をしていた。
ニアとルーファはそれに納得しながら、淹れてもらった紅茶を飲む。
本日二度目のお茶の時間は、とても穏やかな雰囲気。
「サクラおばちゃんから見たお父さんって、どんな感じなの?」
その中でニアが思い出したように言った。
「私から見たお兄ちゃん?そうね…」
サクラは頬杖をついて、懐かしげな表情をする。
ニアが前に聞いた話では、サクラは七歳の時から十三年ほどカスケードに会っていなかったという。
それは軍人になったカスケードが実家に帰ってこなかったためであり、サクラはそれを寂しく思っていた。
この話になるとカスケードは何度もサクラに謝る。彼自身も申し訳なく思っているのだ。
「…私が小さいときは、とても優しいお兄ちゃんだったわ。入院してる時は毎日お見舞いに来てくれたし」
「なんか簡単に想像できるね。毎日毎日病院に通いつめるニアのお父さん」
「家族を大切にする人だよな」
レヴィアンスとルーファが口々に言うと、サクラは嬉しそうに笑みを浮かべる。
「自慢のお兄ちゃんだったのよ。…軍に入るまではね」
ニアは何度も聞いた話だ。
代々軍人の家系であったインフェリア家は、カスケードとサクラに軍人になることを強制した。
しかしサクラは医者になりたいという夢があり、カスケードはその夢を守るために自分だけが軍人になろうとした。
だが結局サクラは一時期軍医として北方司令部に務めることになってしまった。
「お兄ちゃんを恨んだ時もあったわよ。軍人にならないって言ったのになって、しかも帰ってこないんだから。
ニアも気をつけなさいよ。ちゃんと帰ってこないと弟だか妹だかに忘れられちゃうんだから」
もしかしたら兄がいるって認識さえしてもらえないかもね、と付け加えると、ニアは慌てた。
「帰ってくるもん!ちゃんと覚えてもらうんだから!」
「そのときはボクも一緒に来て、ボクがお兄ちゃんの座を奪おうかなー」
「そ、そんなことさせないよ!お兄ちゃんは僕だもん!」
レヴィの冗談にもムキになって返す。
それほど「お兄ちゃん」になるのを楽しみにしていて、誇りに思っていて。
ルーファはそんなニアを見てふと思う。
もう自分は「ニアの兄役」ではなくなるのかもな、と。
ニアがしっかりすれば、そんな役は必要なくなる。
少し寂しい感じがした。
カスケードは司令部の大総統室を訪れていた。
来てすぐに第二子についての話をし、アーレイドに呆れられる。
ハルはそれをにこやかに聞きながら、紅茶を二つとコーヒーを一つ用意する。
書類も、一緒に。
「カスケードさん、お子さんが無事に生まれてくると良いですね」
「そうだな。…そのために、俺はちゃんと働かなきゃな」
書類に気づき、カスケードの表情は真剣なものに変わる。
平和な時間はおしまいだ。
「本題に入る前に、一つ」
「何だ?」
ハルは書類を一旦脇に除け、
「リアさんから連絡がありました」
別の場所で起こっていることを語った。
「アルベルトさんたち、あの事件のことを話すみたいです」
その言葉だけでわかる。
長年隠してきた、東方諸国連続殺人事件の真実が語られる。
子孫に漸く告げられるのだ。
「どこまでなら話してもいいかということだったんですけど…
ボクたちはあまり深く関わっていませんでしたから」
あの時、当事者以外で最も深く関わったのはカスケードだ。
しかし、
「俺もどこまでとか言えないしな…ここはアルたちの判断に任せようと思う。
リアちゃんだって、不安で電話してきただけだろうし」
「アーシェの前例がありますしね。ハル、リアさんに電話しておこう」
「うん」
多分、そんなことをしなくても話は始まっているんだろう。
あの悲劇を、きっと彼らは淡々と語る。
子供はそれを受け止めるのに、時間がかかるかもしれない。
辛さを軽減してやるのは、周りの役目だ。
「カスケードさん、リアさんが…」
受話器が手渡される。しっかりと受け取り、彼女に声をかけた。
「リアちゃん、俺」
『カスケードさん…良かった、声が聞けて』
やはり不安だったのだ。
今、夫であるアルベルトは彼女を支えられない。リアも気にしないでと言ったのだと思う。
だとしたら、支えるべきは誰だろう。
彼女には母がいない。父は相談できるところにいない。
祖母や妹たちに、こんなことを言えるわけがない。
だとしたら、それは、
『ごめんなさい。でも、カスケードさんと話したくて…』
幼い彼女を知っていて、その後苦しんだ彼女も知っている、
父のようであり兄のような存在である、彼。
「俺でよければいつでも話は聞く」
『ありがとうございます』
その後は推測したとおり、話はすでに始まっているという旨。
けれどもアーシェとグレイヴは、自分たちで事実を解明していたという。
そんなことを聞いて、挨拶を交わしてから、受話器を置いた。
「…向こうは大丈夫そうだ。俺たちも本題に入ろう」
「そうですね」
書類が机に置かれる。
冷めた紅茶が波を立てた。
「…では、ニア君を狙っていたという裏の人たちについての報告をさせていただきます。
なお、これはまだ断片的な情報に過ぎないので、つじつまの合わない部分を考えていくことも今回の目的とします」
サクラの話に盛り上がっていた子供たちは、ぐぅ、という音で時間を意識する。
カレーのいいにおいがしてくると、食器棚から皿とスプーンを出してテーブルに並べる。
三人いれば流れ作業だ。
「お腹鳴ったのはニアでしょー」
「違うもん、レヴィだもん」
レヴィアンスとニアは先ほどからずっとこの調子だ。
「どっちだって良いだろ。そこまでにしとけよ」
ちなみにルーファには同時に二方向から聞こえた。
「ほらほら、カレーこぼすわよ。火傷するといけないから退けてなさいね」
サクラがカレーを盛り付けてくれ、全員着席したところで
「いただきまー…」
呼び鈴が鳴った。
「何かしらね、こんな時間に」
サクラが苦笑しながら玄関へ向かう。
先に食べてなさい、と声が聞こえたが、どうもそういう気になれない。
「誰だか知んないけど、気分ぶち壊しだよー」
レヴィアンスが文句を言う。
「ニアの父さんかもしれないだろ」
「違うと思う。お父さんは呼び鈴鳴らさないから…」
ルーファの言葉を否定し、ニアは玄関の方へ目をやる。
何か嫌な感じがした。
ただ食事の時間を邪魔されたからというだけじゃない。
もっと嫌なものを感じた。
サクラが戻ってくる足音。
怪訝な表情が見える。
「ニア、…イクタルミナット協会って知ってる?」
「え?」
「そう名乗る人たちが来てるの。…ニアに用事があるみたい」
聞いたことのない名前だ。
ニアは首をかしげながら席を立とうとしたが、
「ニア、行くな」
ルーファに止められた。
「ルー?」
「用心した方がいい。お前は…」
ルーファはそこで言葉を切ったが、言わんとすることはわかった。
もし彼らが裏と繋がっていたなら。
わけのわからない協会などを名乗り、ニアを狙っていたなら。
「…おばちゃん」
「わかったわ。追い返すから」
サクラはにっこり笑って、玄関に戻った。
大丈夫よ、任せなさい。
そう言っているように見えた。
その後姿が見えなくなって、
三秒、四秒、五秒、六秒、
「おばちゃん、ダメ!戻って!」
七秒。
ニアが席を立つのと、サクラが崩れ落ちるのは同時だった。
駆けつけたとき、玄関には見覚えのある色があった。
それは怖れた色で、見たくないのに鮮やかで。
「おばちゃんっ!」
ニアが駆け寄り、腹部を押さえて横たわる彼女を呼ぶ。
「サクラおばちゃん!」
「…大丈夫。このくらいなら平気…っ」
後を追ってきたルーファは、その光景から即座に判断する。
「レヴィ、病院と軍に電話!」
「わかった!」
通報をレヴィアンスに任せ、ルーファはニアの部屋へ向かった。
荷物の中には応急処置用具の入ったポーチがある。それで何とかなればいいのだが。
「ニア・インフェリア、そこにいるのか」
ドアの向こうから声が聞こえる。
鍵が閉まっているドアには、穴が開いていた。
長い刃物がドアを突き破り、サクラの腹に刺さったのだろう。
「…誰?」
「ニア・インフェリア…君には力がある」
質問に答えないその声は、罪など感じていないかのように言葉を吐く。
「その力を今ここで見られたらと思い、彼女を傷つけた。しかしその兆候はないようだ」
「何のこと?!なんでこんなことするの?!力って何?!」
「申し訳ないことをした。治療費は全額協会が負担する」
「そんなこと望んでないよ!何で関係ない人を巻き込むの?!なんで!」
ニアの言葉は全く無視され、「協会」は要件だけを告げる。
「ニア・インフェリア、イクタルミナット協会に君の力を提供して欲しい」
その声は機械音声よりも気味悪く響いた。
救急車と軍の車両が家の前に止まったのは、「協会」が去った後だった。
「サクラ!」
カスケードが駆けつけると、サクラは弱々しく笑ってみせた。
「大丈夫…ニアたちは無事…」
「あぁ、お前のおかげだ。でも…」
「私は平気だから。…ルーファ君の応急手当、とっても上手だったわよ」
救急車に運ばれるサクラ。共に乗り込むカスケード。
そして、その場に取り残される子供たちと、ハル。
アーレイドはもしもの時のために軍に残ったが、本当は駆けつけたかったはずだ。
その場には、レヴィアンスもいたのだから。
「…ニア君、ケガとかしてない?」
ハルが声をかけると、ニアは首を横に振った。
「僕は…なんでもない。でも…」
ぼろぼろと涙を流しながら、ニアはまた無力を悔いる。
何一つ守れない自分を責める。
「ほんとは…おばちゃんが戻ってきたときに止めればよかったんだ…っ!
なのにまた…僕…何にもできなくて…」
悲しい音が遠ざかっていく。
「これじゃダメだよね…軍人としても、お兄ちゃんとしても、僕ちっとも誇れないよ…」
ハルはニアを見つめる。
子供だ。どう見ても子供なのだ。
それはルーファや、わが子のレヴィアンスも同じ。
子供なのに、どうしてこんな辛い目に合うんだろう。
それは自分たち大人の責任だ。
だけど、その道を選んだのは彼ら自身でもあるのだ。
「インフェリア伍長、今回の事件の犯人は誰?」
ハルはあえて大総統として訊いた。
ニアの「ちっとも誇れない」を、否定するために。
「犯人…?」
「わかってたら教えて欲しい」
大丈夫。彼はくじけない。
目を合わせて、頷いてくれる仲間がいる。
「…イクタルミナット協会」
答えたのは一人だが、強い眼は三人分。
戦う覚悟で、大総統に報告した。
「イクタルミナット協会?」
カスケードはその名を見て、怪訝な表情をした。
全く聞いたことの無い名だ。無理もない。
ハルもつい最近知ったのだ。
彼らは裏組織ではなく、寧ろ裏を撲滅しようという組織らしい。
だから、イクタルミナット――古代語で「撲滅」、あるいは「滅殺」。
「それがニアを狙ってるっていうのか?つまりこの前のは…」
「いえ、この前のは間違いなく裏です。ニア君は二方向から狙われているんです」
「…でも、どうして…」
カスケードにはわからない。わかるはずもないのだ。
「裏は俺が昔色々あったからわかるが、そのイクタルミナット協会ってのは何で…」
「それはまだわからないんです。でも、裏を探って同時にそのことが発覚するということは…」
ハルは言葉を濁したが、十分に伝わった。
裏を嫌う「協会」も、ある意味では裏なのだ。
したがって、どちらも共通して軍を嫌う。
「なぁ、ハル…これからどうするつもりだ?」
「イクタルミナット協会はまだ目立った動きがありません。何か起こる前に調査を進めたいんですが…」
レヴィアンスが通報してきたのは、ちょうどその時だった。
「何か起こる前に」は、とっくに無理な話となっていたのだ。
だから、カスケードもハルも憤っている。
関係の無い人まで巻き込んだことも許せない。
「ニア君、軍人としての誇りを忘れないで。
悪意を持って人を傷つけるような人を、軍は絶対に許さない」
休日が終わったら、戦地に放り込まれることになる。
大切なものを守るため、自分の誇りを失わないための戦い。
「ルー、レヴィ、一緒に戦って欲しい」
もう涙は流さない。
こんな涙は流したくない。
「僕は…弟妹が生まれる前に、全部終わらせられたらいいと思ってる。
こんなことに、巻き込みたくないから」
大切なものは何が何でも守り抜く。
「わかってるよ」
「ボクたちがついてるからね」
それが軍人のあるべき姿であり、誇りだから。
To
be continued...