ゲティスは激しく落ち込んでいた。

そりゃもう知らない人にもわかるくらいの落ち込みようだ。

彼のいる場所だけ暗雲が立ちこめ、土砂降りにでもなりそうな。

声をかけることもできず、周囲はおろおろするばかり。

そして彼に唯一声をかけられる者の姿を捜すのだが…

その姿は、どこにも見えなかった。

 

事の発端は、ゲティスが女性軍人からの告白を受けたことによる。

初めてということもあり、彼は随分と浮かれていた。

彼には全く悪気はなかった。だから、

「ゲティス、パロいなくても大丈夫」

「え?」

「だからパロ、出てく」

こんなことになるなんて、全く考えもしなかったわけで。

「ちょっと待てよ、パロット!」

「パロいなくても、女の子いる。大丈夫」

どうしてこんなことになったのか、ゲティスにはわからない。

とにかくパロットはいなくなった。それだけが事実だ。

「どこ行ったんだよ、パロットぉ…」

そんなわけで、ゲティスは一気にどん底に叩き落されたのであった。

 

寮の部屋を出たものの、パロットには行く場所がなかった。

何しろ対人コミュニケーションが苦手で、いつもはゲティスに頼りっぱなしだ。

「…自分でやる」

今はそんなことを言っていられない。いつまでもゲティスに依存するわけにはいかないのだから。

自分で調べて、何とか寝る場所を確保しよう。

できるだけゲティスから離れた場所がいい。寮内はまず却下だ。

とすると、アパートなどを利用する手段が考えられる。

しかし自炊は苦手なので、これも却下。

考えた末、思いついたのが下宿。

確かこの近くに一軒あったはずだ。あまり人が入らないらしいので、対人関係も最小限で済むかもしれない。

訪ねてみよう。ゲティスから離れられて、生活ができる場所はそこしかない。

そうしてパロットは、玄関の前に立っている。

下宿の名は「ひかり」。要するに「光」ということなんだろうけど。

目の前に立つ人物は、なかなかそれとは結びつかない。

少なくとも、パロットにとっては。

「何の用だ」

低くて乱暴そうな響きのある声。

顔には傷があり、どうみても真っ当な生き方をしてなさそうだ。

「あ、えと…」

どうしよう。早くも挫折か。

俯いておろおろするパロットを、正面に立つ男は怪訝な表情で見ている。

もしかしたらイラついているのかもしれない。

耐え切れなくて後ずさろうとした、その時。

「お前が出たら客が怯えるだろ!」

突如、男の姿勢が崩れる。

いつの間に現れたのか、男の後ろにいた人物が回し蹴りをくらわせたらしい。

呆然とするしかないパロットに、その人はにっこりと笑いかけた。

「さっき電話くれた、パロット・バース君?」

「…はい」

よく見ると綺麗な人だった。

さっきの男の人を踏んだままのその人は、さながら勝利の女神。

「こいつは気にしないで。中へどうぞ」

「………」

本当にここに来ることは正しかったのだろうか。

もしかするととんでもないところに来てしまったのではないだろうか…。

その考えはこのあと更に肯定されることとなる。

 

「この部屋使って。夕飯の時間になったら呼びにくるから、それまでは自由にどうぞ」

下宿の管理者は勝利の女神――もとい、アクトという人だった。

蹴られ踏まれていた男の人はディアという名だと紹介されたが、怖いので関わるのは最低限にしたいと思った。

それはおいといて。これからどうするかが問題だ。

まだ荷物を寮に残したままだ。でも、あまり戻りたくない。

ゲティスと顔を合わせたら、離れようという意志が揺らいでしまいそう。

「…一人で、大丈夫」

ふかふかの布団をぎゅっと握る。もうゲティスに甘えてはいけないのだ。

自分で何とかしなければ。

どのくらい考えていたのかはわからないが、こつこつとドアを叩く音で我に返った。

「食事ですが」

「あ、はい」

ぼうっとしていた所為か、声が聞き覚えのあるものだということに気づかなかった。

気づいていれば、少しは覚悟できたのかもしれないのに。

ドアを開けて互いに目を丸くした。

「…君は」

「………っ!!」

目の前にいたのは、以前任務を共にした上司。

疎遠になっていたが、忘れたことはない。

「…大尉」

彼の階級を呟く。

目の前にいるのは、紛れもなくダイ・ホワイトナイト大尉であった。

「あ、えと…何で…」

どうしてここにいるのか、と尋ねたかったのだが。

「食事らしいけど、食べないのか?」

言葉が出ないうちに遮られ、訊くに訊けなくなってしまった。

後でわかったことだが、ダイはこの下宿の管理人の息子らしい。

言われてみれば、ディアという人に良く似ている。

どう接したらいいかわからない人がいて、他は全部初対面。

パロットはただただ不安を増幅させるばかりだった。

 

夕食時にわかったことがいくつかある。

一つはこの下宿に住む人の家族構成。

管理人とその夫(だと思う)

その息子(と思われる)のダイと弟のユロウ。

どうやら下宿人はパロット一人らしい。

管理人――アクトはパロットによく話しかけてくれ、食事にまで気を使ってくれた。

ユロウもそれを手伝って、懐いてくれる。

しかし、ディアとダイにはどうしても馴染めそうに無い。

父は無言、息子は威圧的な笑顔。

パロットが思い出すのはいつかの任務だ。あの時もダイは同じ笑顔だった。

さらには、

「ねぇパロットさん、サラダいりますか?」

「あ…いただきま」

「ごめん、もう無い」

ユロウがせっかく声をかけてくれたのに、それを無意味にしてしまう。

素晴らしいタイミングの嫌がらせだ。

「お兄ちゃん…いつもあんまり食べないのに…」

「今日は腹が減ってたんだ。悪いな」

ごちそうさま、と立ち上がったダイは、パロットを一瞥して食器を片付けに行ってしまった。

いや、一瞥どころじゃない。確かにあれは睨んでいた。

ゲティスなら文句を言っているところだ。

「………」

駄目だ、思い出すのは止めよう。わざわざ離れてきたのに、思ってはいけない。

「ごちそうさまでした」

「もういいの?」

「おいしかったです」

わかったことの二つ目は、自分がダイに避けられているということ。

そして三つ目は、

「パロット君、さっき電話があったけど…」

「電話?」

「レガートさんって人から。心配してたみたいだけど、何かあった?」

ゲティスが自分を捜しているということ。

というよりは、もう場所がわかっているけれど、会いにいっていいのかどうか迷っている。

「パロ、ゲティス卒業。会わない」

「…そう」

駆け足で部屋に戻る。

早くドアを閉めよう。そうじゃないと、入ってきてしまう。

置いてきた気持ちが、追ってきてしまう。

 

受話器を置くと、全てのつながりが絶たれたような気がした。

パロットが何を怒っているのか、ゲティスにはまるでわからない。

そればかり考えていたら、告白してきた女の子に心配された。

考えたいことがあるから今は付き合えない、と返事をしたら、あっさりと受け入れてくれた。

…そういう風に見えただけかもしれない。

「オレにはわかんねぇよ…」

他の人はともかく、パロットの考えていることならすぐにわかる。

今までずっとそう思っていた。

なのにここにきて初めてわからない。

何故出て行くなんて言ったのか。何故戻ってこないのか。

居場所はわかった。でも、そこに行って良いものか。

大体、その「居場所」というのが。

「何でよりによって大尉の家なんだよ…」

寮の管理人であるセレスティアに、パロットのことを尋ねた。

返ってきた答えが

「下宿に行くって言ってたわ。えぇと…ダイ・ホワイトナイト君って知ってるかしら?」

「大尉だろ?それと何の関係が」

「その下宿ね、ダイ君の家なの。お父さんとお母さんと弟君と、四人家族なのよ」

何かを懐かしむようにセレスティアは言うのだが、聞いている方は固まるしかない。

例の事件から何ヶ月かしか経っていないのだ。パロットが虐められないという保証はほぼゼロ。

謹慎期間が終わって軍に復帰したダイは、自分たちを避けていた。

仕事などで避けられない事態が生じれば、常に威圧的な笑顔。

「大丈夫…じゃないよなぁ…」

だからこそ、すぐ戻ってくるだろうと思っていたのに。

考えすぎて、ゲティスの思考回路はそろそろ焼き付きそうだった。

 

事態の把握に数秒を費やした。

風呂が沸いたから入るようにと勧められ、それに甘えることにしたのだが。

腕の包帯をとった直後、彼が現れたのだ。

「ご…っ、ごめんなさい!」

真っ白になった頭が出した結論が謝罪。

自分を抱くように腕の烙印を隠し、ダイから目を背ける。

震えながらその後の反応を待った。

が、何の物音もしない。

ドアを閉めることすらない。

「…?」

恐る恐る顔を上げると、彼はまだそこにいた。

「大尉…?」

「…あぁ、悪い」

声をかけられて我に返ったように、ダイは曖昧な調子で返す。

あの黒い笑顔ではない、そのままのダイがそこにいた。

きっとこれが普段の彼なのだろう。

「あの…パロ、お風呂…」

「そうだったな。邪魔した」

漸くドアが閉められ、彼の姿が見えなくなる。

ほう、と息をつき、烙印を隠していた手をそっと下ろした。

服に手をかけようとして、

「腕、どうした?」

まだそこにいた気配に気づく。

「…あの、これ」

よりによって見られたくないものを見ていた。

裏切りの烙印のことは、ゲティスしか知らない。

誰にも知られてはならなかった。

また裏切り者と言われてしまうような気がして、隠していた。

「あの…」

見なかったことにして欲しい。

ドアの向こうにそう訴えようとしたが、声が出ない。

黙っていると、再びドアが開けられた。

「た」

「黙れ」

口を塞がれる。

ドアが閉められ、狭い密室に二人。

「父さんたちにばれると厄介だ。…それから、ここは軍じゃない」

軍じゃないから、何?

彼は一体何をするつもりなんだろう。

身体が震える。

ゲティスがいれば、良かったのに。

そうしたら、こんなに怖くないのに。

「俺が怖い…だろうな。家では殺さないから安心しろ」

物騒なことを言う。

ここが家じゃなければコロサレテタ…?

「そんなことより、これだ」

腕を掴まれ、引っ張られる。

烙印がダイの目に映る。

「セパル村出身か?」

頷く。

どうして村のことを知っているのかはわからないけれど。

「あの村は軍人になることを奨励してるだろう。何故烙印がある?」

口を塞いでいた手が離れる。

「それは…」

言えない。

もし訊かれても言わなくていいと、以前ゲティスが言っていた。

言いたくないことはそれで良いと。

黙っていると、ダイは離れた。

「…ここは軍じゃないから、階級で呼ぶのは無しだ。

俺が怖かったらここに来るな、パロット」

再びドアの向こうに消える。

今度はもう、戻らなかった。

 

ダイの部屋は、この家で二番目に本が多い場所だ。

趣味のために買ってきた文庫本や、トラウマがあるにもかかわらず置いてある医学関係の本、

そして、エルニーニャで起こった事件に関するデータがぎっしりと並んでいる。

データファイルを一つ取る。背に四年前の日付が入っているものだ。

綴じてあるスクラップを捲り、少し考える。

確かこの時期に、セパル村に関する情報は入ってこなかった。

大総統の地位を強く望むものが多いことは知られていたが、それは村の意向のためだ。

パロットの腕の烙印は、村で罪を犯した者への戒めだ。

入隊してから初めて行った視察先のことだ。よく覚えている。

「裏切り者は見ればわかる」と、鉄でできた印を見せられた。

「裏切り者…か」

あの烙印は、ゲティスにもあるのだろうか。

…いや、ない。無かったはずだ。

「何でパロットだけ…?しかも」

烙印は両腕にあった。あれは誰の罪なのだろう。

「…まぁいいか」

考えずとも、一つの事実がわかっている。

あの視察の日に上官が「異常なし」と書いたのは、嘘だった。

それが怠惰からくるものにしろ、村から何らかの圧力をかけられていたにしろ、同じこと。

大総統に伝えて視察の為直しを求めれば、大総統補佐による監視も少しはマシになるかもしれない。

パロットにもあれだけ言っておけば出て行くだろうし、もう何も自分に関わってくるものは無くなる。

漸く独りで行動できる。

ダイはファイルを棚に戻してから、一冊の本を手にとり、ページをめくった。

 

眠れない。

さっきのダイの発言と、ゲティスのことを考えると。

「居場所…ない」

声に出してみると、胸の辺りが強く痛んだ。

別の場所を探さなければならない。でも、他にどこがある?

「どうしよ…」

ゲティスのところに帰りたい。でも、自分がいたらきっと邪魔になる。

ここにいても、ダイが迷惑がる。

軍を辞めて村に…帰れるわけがない。

裏切り者は行く場所がない。存在が許されない。

布団を引っ掻く。引き寄せる。

ちっとも温かくならない。

「…ゲティス…」

名前を呼び返してくれる声は無い。

独りぼっちになってしまった。

涙が溢れないように、ぎゅっと目を瞑った。

逆効果だ。雫が一筋、頬を伝った。

拭おうとして体を起こしたとき、

「まだ起きてる?」

ノックの音と、優しい声がした。

「起きて…ます」

「入っていい?」

「はい」

きぃ、と高く鳴くドア。

暖色の明かりを背に、その人は柔らかい笑顔を見せる。

「管理人さん」

「アクトで良いよ」

遅くにごめん、と言って、静かに歩いてくる。

ベッドに腰掛けると、そっと手に触れた。

「あ…」

「良かったら聞かせてくれない?ここに来た理由」

アクトは何かあると気づいたらしい。

いや、もしかすると最初からわかっていたのかもしれない。

「パロ…喧嘩した」

自分でも意外なほど、素直に言葉が出てきた。

今日会ったばかりの人と話すなんて、いつもなら信じられないようなことなのに。

語り始めると塞き止められなくて、どんどん溢れてきて。

「ゲティス、迷惑する。もう…一緒、だめ…」

さっきの雫が、もう制御できない流れになって。

片言な気持ちを、アクトは何も言わず聞いてくれた。

泣いているパロットを優しく抱きしめて、頭を撫でてくれた。

今まで得られなかった、初めて感じる温もり。

よくわからないけれど、もしかするとこういうのを母親というのかもしれない。

「パロット、君の気持ちと似たものをおれは知ってるよ」

落ち着いた頃に、声が聞こえた。

「知ってる…?」

「似たようなことを考えたことがある。大好きな人だけど、もう一緒にはいられないんだなって…そういうの」

自分が今感じているものを、他人であるこの人も感じたことがある。

そう思うと、自然と顔を上げることができた。

視線の先にあった表情は、慈愛の微笑。

「でも、その大好きな人はそう思ってなかったみたい。寧ろ一緒にいたかったって。

電話までくれたんだから、ゲティスもきっとそう思ってるよ」

優しい言葉にもう一筋、零れた。

 

朝食の準備が整って、ユロウはパロットに飛びついた。

「お皿出すの手伝ってくれてありがとう!お兄ちゃんは手伝ってくれないから助かったよ!」

人懐っこいユロウは、もうパロットと仲良くなっていた。

パロットもユロウが接してくれるのが嬉しくて、起きてからずっと一緒にいる。

「大尉、手伝わない?」

「うん。お兄ちゃん、ねぼすけさんだから。お父さんほどじゃないけど…」

ユロウが話すのは主に兄のことだ。

それを聞くたびに、パロットの中のダイのイメージは変わっていく。

上司であるからか、家でも完璧な人なんじゃないかと思っていたのだけれど。

目玉焼きを作っている時も、

「お兄ちゃんは半熟苦手なんだよ。どろどろしたのが嫌なんだって」

と言っていた。

いつかの任務の時から思っていたことが、段々はっきりとしてくる。

やっぱりダイは怖い人じゃない。だって、弟はこんなに彼を好いている。

「おはよう」

「あ、お兄ちゃんおはよー!」

ダイが起きてきたのは、そろそろ起こしに行ったほうがいいかな、と思う時間だった。

なるほど、ユロウにとってはねぼすけさんなわけだ。

「おはようございます」

「…まだいたんだ」

挨拶をしてみたけれど、返事は鬱陶しそうな言葉。

ユロウが「ちゃんと挨拶しなよー」と怒って見せても、ダイの態度は変わらない。

「お兄ちゃんってばぁ…ごめんね、パロットさん」

「大丈夫」

昨夜のこともあり、こうなることは予想できていた。

でも昨日ほど怖くない。

朝食を終えて支度をし、今日も職場へと向かう。

「いってらっしゃい、お兄ちゃん、パロットさん!」

「いってきます」

「…いってくる」

通勤中は二人だ。けれどもそんなに気まずくはない。

しかしそれはパロットだけの話だ。

「どういうつもりだ」

ダイは昨日以上に不機嫌だった。

「どう、って」

「いつまでいるつもりなんだよ」

すぐにでも出て行って欲しがっていることはわかっている。

けれども、パロットはすでに自分でその答えを出していた。

アクトと話して、そう決めたのだ。

「ゲティス来るまで」

「…は?」

「ゲティス来るまで、いる」

多分ゲティスは、パロットが寮を出て行った理由をまだわかっていない。

だったらわかるまで離れていようと思った。

パロット自身が甘えすぎないようにするためでもある。

そう結論したらアクトは笑っていたけれど、

「ふざけるのもいい加減にしろ」

ダイは相当怒ったようだった。

「俺は昨日来るなと言った」

「でも、出てけ言ってない」

「お前な…」

怒りを通り越して呆れても、パロットは笑っていた。

ダイが言い返せないのが、ちょっと面白いと思ってしまった。

 

何度か話しかけようと思った。

安否の確認をしたかった。

しかし、ことごとくかわされる。

ここまで隙を見せてくれないとなると、やはり嫌われてしまったんだろうか。

動く気力をほぼ失ったゲティスに、上司も部下も部外者も、揃って視線を投げかける。

その中にパロットがいないとわかって、当の本人は更に落ち込んでいく。

「何でだよ…」

たった一晩隣にいないだけで、全く変わってしまった。

いて当たり前だった。

そう思っていたのは、間違いだった…?

「おい」

何だよ、こんな時に。

「聞こえないのか」

今考え事をしているんだ。話しかけないでくれ。

「聞け」

「襟を引っ張るな!苦しいってば!」

…あ。

状況を把握して、青くなる。

また威圧的な笑顔。しかも

「もっと苦しい思いをしたいのか?」

かなりご立腹の様子。

「た…大尉…っ?!」

「どうしたんだ?前大総統みたいな顔色して。

人の話を聞かないなら苦しい思いをするのは当然だろう」

いつもの何倍、いや何十倍も怖い。まずいことをしてしまった。

言葉が出ずに口をぱくぱくさせていると、機嫌最悪らしい彼が先に切り出した。

「バース少尉を引き取りに来い」

「…へ?」

高速直球。少しのブレもなく、用件をそのまま頭へ。

ごんっ、と音までしそうだ。

「引き取り…て」

「お前が迎えに来ないと帰らないんだそうだ」

「…オレ、が?」

襟首を掴んでいた手が、急に離れる。

引力に従う身体と、無重力に放り込まれたような脳。

「さっさと来ないと………から」

よく聴き取れない。ゲティスにはそんな容量は無い。

出て行った理由はわからない。

けれど、それ以外のところで重要な答えが見つかったような…

 

足に擦り寄ってくるねぁーに手を伸ばす。

しっとりとした手触りが気持ちいい。

この穏やかなひとときを、本当はゲティスと過ごしたい。

今日はひたすら避けてみた。そしたら、追われなかった。

こんなことで、本当に迎えに来てくれるんだろうか。

もう一度ねぁーに手を伸ばしかけて、

「むやみに触るな」

ダイに奪われた。

「…だめ?」

「駄目だ。懐かれると厄介だからな」

没収され、遠ざかっていくねぁー。

しかしこの家にはたくさんねぁーがいるので、一匹とられても問題は無い。

ユロウがねぁーを抱いてとたとたと走ってきた。

「お兄ちゃんってば、どうしてパロットさんに意地悪するのかなー…」

「意地悪、違う。きっと、仲直りして欲しい」

「?」

ユロウは首を傾げたが、それがパロットの考えだった。

ダイの嫌がらせを、できるだけいい方に考える。確かに意地悪だけど、それはきっと自分のためなんだと思った。

あの任務の日も、嫌味や突発的な行動は結局良い方に向かっていた。

「大尉、いい人。…そうでしょ?」

「うん!お兄ちゃん、本当は優しいんだよ!」

その時だった。

呼び鈴が鳴って、アクトが玄関へ行く。

と。

「パロット、帰るぞ!」

あの声がした。

一緒にいたいと思ったあの声が。

「ゲティス…?」

あの空色が、そこに。

「迎えに来た!…そうして欲しかったんだろ?」

手を差し伸べて、笑ってる。

「…遅い」

「ごめんな」

伸ばされた手に触れようと、腕を挙げ

「残念だったな」

…ようとしたところを、愛想のかけらも無い笑顔に邪魔される。

ダイが間に割って入り、行き場を失ったゲティスの手を掴んだ。

「大尉…何するんだよ」

「来るのが遅すぎた。時間切れ。パロットは返せないな」

「何言って…大体、引き取りに来いって言ったのは大尉だろ!」

こんなに理不尽なことは無い。この人は何をしたいんだ。

ダイを睨みつけるゲティスと、おろおろするパロット。

そして、

「…お母さん、止めないの?」

「今はね」

傍観者に徹する者。

異様な雰囲気の玄関では、いつ何が始まってもおかしくない。

例えば…決闘とか。

「オレはパロットと一緒にいたいんだよ!どうしても返さないって言うなら、」

「言うなら?」

決意の瞳を相手に向け、息を吸い込み、

「オレもここに住む!」

一気に吐き出した、が。

ダイは絶句し、パロットは目が点になり、アクトは声を殺して笑い出す。

ゲティス本人はいたって本気であるにもかかわらず、この反応。

いや、本気だからこその反応だった。

「…何でそうなるんだよ」

「パロットがいない寮に戻っても仕方ないだろ!」

あぁ、こいつバカなんだ。

ダイはそう結論付け、息を吐いた。

「わかった、返してやるよ。面倒が増えるのは嫌だ」

回れ右、一瞬パロットと目が合って、

すたすたと自分の部屋へ。

パロットはゲティスとダイを交互に見て、

「…帰る」

ふわ、と微笑んだ。

 

世話になったアクトやユロウに挨拶をして、

荷物をまとめて、下宿を出た。

隣にはゲティスがいて、また前のような日々が始まるんだと思った。

「あの子、付き合う?」

「え?…あぁ、この間のか。考えてなかったな」

「何で?」

「パロットのことばっかり考えてたから、忘れてた。

やっぱオレにはパロットがいないと駄目だな」

晴れた日の空のように、すっきりとした笑顔。

もう一度並んで歩けたのは、きっと。

――あの時

パロットは、去り際のダイを思い出す。

――大尉、笑ってた

それはいつもの意地悪な笑みじゃなくて。

良かったな、と言ってくれているような。

一瞬だったけれど、そう思えるくらい頼れる笑顔だった。

きっと「返さない」と言ったのも、ゲティスにあの言葉を言わせるためだったんだ。

一緒にいたい。その言葉が、どんなに嬉しかったか。

どんなに救われるものだったか。

「大尉…知ってた」

「え?」

「…なんでもない」

そうだ、そういえば。

下宿では、「パロット」と呼んでくれたっけ。

一度くらいは、「ダイさん」と呼べばよかった。

「ゲティス」

「何だ」

「パロ、ゲティスとずっと一緒」

そう言えるのも、きっとあの人が導いてくれたから。

 

机の上のメモを見て、忘れてた、と思った。

本当は帰り際にでも投げつけてやるつもりだったのに。

「…もう来るなよ」

ベッドに倒れこんで、ダイは呟く。

メモは医学書を見ればいつでも書ける。

あの烙印をきれいに失くすことなんて、腕の良い医者にかかればあっという間だろう。

いつか、機会があったら教えてやるよ。

 

つまらないことから始まった小さな出来事は、

いつでも一つの大切な思い出として残る。

きっと、忘れないから。

 

Fin