誰かが言った。
全てはその血脈で決まると。
誰かが賛同した。
気高き血は受け継がれると。
人々の心には、その言葉が深く根付いた。
そして、今。
血脈信仰はその道をどこへ広げようとしているのか。
それは、実際にサーリシェリアの血脈を受け継いでいるボクにもわからなかった。
「今日は…雨が降りそうだね」
こんなに勉強したのは軍入隊試験前以来だ。
もともと難しいことを考えたり、文献に目を通したりするのは苦手だが。
「今回はそうも言ってられねーだろ」
「そうだな。だから特別講義頼む、黒すけ先生」
「その呼び方をやめたら教えてやるよ」
カスケードはブラックの家を訪れ、歴史書を読み漁っていた。
いや、正確にはめくる程度で、目に付いた部分をブラックに質問している。
職業柄なのか、ブラックは文句を言いながらもできるだけわかりやすい言葉を使って教えてくれる。
それはなんだか可笑しな光景で、脇で見ていたスノーウィーはつい吹き出してしまう。
「…何だよ」
「だってブラックってば、なんだかんだ言ってしっかり先生やってるんだもの」
「にしてはデカい生徒だけどな」
「何か若返った気分だな!黒すけ先生、ここの説明頼む!」
「ふざけんじゃねーよ」
見た目には賑やかで和やかだが、調べていることはこれからに大きく関わっている。
血脈信仰の歴史、そして信仰に当てはまる血筋。
イクタルミナット協会が狙うかもしれないものを事前に知っておくことで、少しでも事件を防ぎたい。
いや、防がなければならない。実際に被害者が出ているのだから。
「お前の妹、どうなんだ?」
「クリスが大丈夫だって言ってた」
「…そうか」
今わかっているのは、協会がニアを狙っていること。
まずインフェリアの歴史を調べた。
エルニーニャ建国後、初代大総統補佐として選ばれたのがインフェリアだった。
恐ろしいまでの力を持ち、大総統からその家名を授けられた。
その由来は古代語で、「地獄の番人」。
「どれだけ恐れられたか、これでわかっただろ」
「まぁな。…でもほら、ニアを見てみろ。あんな可愛い地獄の番人いるはずが」
「話を逸らすんじゃねー!」
身体能力の高さが代々遺伝してきたインフェリア家が、血脈信仰の下に狙われるのはおかしいことではない。
それはすでに結論付けられている。
「それとお前が心配してたエスト家だが、こっちは古代語で賢者。
力のインフェリア、頭脳のエストがエルニーニャ軍三大勢力のうちの二つだ。
残りの一つは初代大総統のゼウスァートだな」
「ゼウスァートって今どうなってるんだ?」
「十四代目大総統がゼウスァート家から出てたんだが、暗殺された。
この事件以来ゼウスァート家は軍や政界から完全に姿を消している」
とすると、今最も危険なのはインフェリアとエストということになる。
「やっぱりセンちゃんにちゃんと説明しとくか…」
「誰だよ」
「現エスト家当主。黒すけ先生の講義が終わったら尋ねてみる」
「だからその呼び方やめろ。
エストにならオレが直接言うこともできる」
「じゃあ俺がセンちゃんに話すから、黒すけはドミノな」
やることはまだまだたくさんある。
大切なものを守るため、必要なこと。
窓の向こうが暗くなってきたのに気付き、グレンは眉を顰める。
雷でも鳴りそうだ。そうなると帰り道が厄介なのだが。
「早めに帰りますか?」
リアが心配そうに尋ね、それに対しては首を横に振る。
まだ用が全て済んでいないのだ。帰るわけにはいかない。
「デザイン画はそれで全部ですよ。話は後で電話で…」
「それじゃ駄目だ。家族に心配をかけたくない」
最近起こった出来事の詳細を、グレンの親は知らない。
ルーファが怪我をしたときでさえ、事情はほとんど伝えなかった。
それでもそれ以上訊かれなかったのは、彼らが理解者であるからであった。
これ以上は、巻き込むわけにはいかない。
「リア、俺たちにできることは何だ?」
「…できること、ですか…」
今狙われているのは、インフェリアの末裔であるニアだ。
しかし、関わりがある以上は自分の子供にも危険が及ぶ。
「ルーファはニアを親友だと思っている。何が何でもニアを守ろうとしている。
例え自分が傷ついても、…場合によっては………」
親として口にすることは憚られる。それをリアもわかっていた。
自分も、親だから。
「アーシェもきっとそうね。あの子も仲間を大切に思っているから」
子供たちは自ら危険に飛び込んでいくだろう。
それが大切なものを守るためなら、全てを承知して立ち向かっていくだろう。
だからといって、それをただ見ているだけなんてできない。
できるわけがないのだ。自分たちも彼らが大切なのだから。
「これから、どうしたらいい?」
大切なものを守るために、かつては戦った。
戦うことで支えてきた。
「本当は…私はもう、戦いたくないんです」
「わかっている」
支えると同時に、戦うことで失った。
多くの傷を、流れる血を、壊れていく人間を見た。
それでも。
「けれども、このまま壊されることを受け入れるのも嫌なんです」
失わないための戦いなんて、都合のいいことはない。
戦えば必ず傷つき、失う。
それでも自分たちは戦ってきた。
だから、もう一度。
「もう、家族が…皆が壊れるのは見たくない」
決心など、とうにできていた。
我が子が軍人の道を歩み始めた、その時から。
「リア、俺は戦う。…お前は?」
「聞かなくても、あなたならわかっているはずですよね」
すでに動き出しているものがいる。
選択肢は初めからなかった。
自分自身で、他の選択肢は消去していたのだから。
激しい雷雨がレジーナ全域を襲っている、という報せが入った。
それだけでも不安になるというのに、電話は無情に鳴り響く。
「エルニーニャ王国軍中央司令部です」
『ハルか?』
無遠慮な声。それだけではなく、いつも以上に機嫌が悪そうだ。
「そうですけど…ディアさん?」
『あぁ』
彼から電話があるときといえば、ダイの事で何かあったときくらいだ。
重要な時期に、何があるというのか。
『カイゼラから連絡いってねぇか?』
「カイゼラ…?ノーザリアのスターリンズ大将のことですよね?」
ノーザリアから連絡はない。
最後に危険薬物の情報が連絡されてから、暫くカイゼラとは話したことがなかった。
「どうかしたんですか?」
『あいつが何か言ってきたら断れ』
「え?」
そんなことを急に言われても、何のことだかわからない。
声の調子から、ディアが相当苛立っているのは明らかなのだが。
「あの…一体何が…」
『いいから断れよ!』
耳が壊れそうになるくらいの音を立てて、電話が切られるのだろう。
そんなことを一瞬にして考えたが、
『ハル?ごめんな』
「…アクトさん?」
どうやら相手が変わったようだ。
ホッとしながら用件を聞きなおす。
「何かあったんですか?スターリンズ大将がどうとか…」
『それなんだけどさ、実は…』
安心はつかの間。
落ち着いた心はすぐにまた動揺へと引き戻される。
『まだダイは知らないはずなんだ。もし連絡がきても、保留にしておいて欲しい。
その方が今はいいだろ』
「そう…ですね…」
もしも今、ノーザリアの要請に応えてしまったなら――こちらの戦力を大きく欠くことになるだろう。
まさかダイがすぐに応じることはないと思うが、事情が事情だ。
「大丈夫…だよね?」
こういうときに限ってアーレイドはいない。
少しの言葉も返ってこない、独りの大総統室は、あまりにも広すぎた。
こんなに酷い天気なのに、ニアの姿が見当たらない。
事務が一段落して休憩を貰ったのだが、それからすぐにどこかへ行ってしまった。
「レヴィ、ニア見なかったか?」
「見てないよ」
「そうか…」
こんな時にどこに行ったのか。
もし一人で行動して、敵に狙われたらどうするんだ。
軍施設内でそんなことはあるはずがないと思いたいが…。
ルーファは窓の外に目をやる。
この悪天候の中、外にいるなんてことはないだろうか。
「ルーファ、どこ行くのさ?!」
「射撃場!」
返事を一言で済ませ、早足で廊下を抜ける。
人をかわしながら、急いで、急いだ。
そんな必要はないのに。
休憩時間なのだから、どうしようと自由なのに。
どうして、ニアが気になるんだろう。
豪雨の中庭を走り、練兵場の隅へ。
並ぶ建物の一つに、彼はいた。
「…ニアっ!」
呼吸を整え、視界に映るダークブルーの名を呼ぶ。
呼ばれた彼は振り向き、にっこり笑った。
「ルー、どうしたの?びしょびしょだよ?」
「ニアこそどうしたんだよ。天気、凄いことになってるんだぞ?」
「うん…雷とか怖かったね」
怖かったのに、一人でこんなところにいたのか。
ルーファは安堵と呆れを半々に混ぜた息を吐く。
「どこ行ったのかと思った…」
「でもちゃんと居場所わかったんだから、ルーはすごいよ」
「そうじゃなくて」
「?」
ニアが首をかしげ、ルーファの顔を覗き込む。
あどけない笑顔は、やっぱり子供だ。
とても同い年とは思えない、のに。
「ニア、行くなよ」
「え?」
「裏とか、協会とか」
なんだか、遠くなってしまうような気がした。
近くにいなければ、ここにいるんだとわかっていなければ、落ち着かない。
「行くわけないじゃない。僕は軍人だよ?」
「…だよな」
離れてしまうわけがないと思いつつも、不安になる。
ずっと思考がループしている。
大丈夫だと思っているのに、心配。
ニアがいなくなってしまうなんて、そんなことにはならない。絶対に。
そうさせないと誓った。
「ルー、気を負いすぎなんじゃないかな」
「!」
考えていたことを全て読んでいたようなタイミングで、ニアが言う。
言葉を返せずにいると、いつもの笑顔が続けた。
「ルーはルーでいいんだよ」
「………」
それって、どういうことなんだろう。
自分はニアの親友で、親友だから守らなきゃいけなくて…
だけどニアも強いから、きっと大丈夫だと信じたくて…
「手伝って欲しいって言ったけど、僕のことだけ考えてってわけじゃない。
ルーはルーのままでいて欲しいな」
「別に、ニアのことだけ考えてたわけじゃ…」
「そうだよね。それならいいんだ」
ニアが銃を握り、床の印につま先を合わせる。
まっすぐに腕を伸ばすと、的の真ん中と銃口が一直線に結ばれた。
「ありがとう、ルー」
右手の人差し指に力が込められて、射撃場を破裂音が満たす。
弾丸は決められた道を行き、ゴールに突き刺さった。
「大丈夫だから。…ルーが気を負うことないよ」
ほら、と。
撃たれた的を示して、ニアは笑う。
「…貸せよ」
その手から銃をとり、ルーファは同じ目標をとらえ、
一発、重ねた。
「ニアが撃ったのはちょっとずれてた。俺の勝ち」
「あー…せっかくうまくいったと思ったのにぃ…」
笑いあう。
強く意識する必要はない。それだけでいい。
張り詰めていた糸が緩む。
そこへ。
「ルーファ!ニア!」
飛び込んできたのはレヴィアンスだった。
息を切らして、それでも立ち止まらずに駆け寄ってくる。
「何やってんのさ、二人とも!ボクまで濡れちゃったじゃん!」
「レヴィ…もう休憩終わりか?」
「まだだけど…あ、ニアだけ濡れてない!えい!」
「ひぁ?!や、やめてよ、くっつかないでよレヴィ!」
「ニアも道連れだーっ!」
冷たい雨だったはずなのに、何故か温かかった。
笑っていることが、楽しかった。
一緒にいることが、嬉しかった。
「…なぁ、ニア」
「ん?」
「俺は俺のために戦うよ」
この笑顔と、いつまでも一緒にいたいから。
「…うん!」
だから、一緒に戦う。
手伝いなんてもんじゃない。本気で立ち向かう。
「何の話ー?ボクだけ除け者にするの?」
「しないよ!ね、ルー」
「レヴィ次第だな」
「なんだよー!何の話なのさー!」
一足遅れての休憩となったが、今から探せば一緒に過ごせるはず。
アーシェはそう考え、グレイヴに声をかけた。
「ね、ニア君たち探さない?」
しかし、
「…グレイヴちゃん」
「え、何?」
さっきから、彼女はずっと上の空なのだ。
仕事中もその調子で、一緒に作業をしていたホリィに心配されていた。
「具合悪いの?」
「違う…なんでもないよ」
また、「なんでもない」。
そんなことないくせに、隠そうとする。
「また大尉と何かあった?」
「…ない」
目を逸らした。
多分、図星だった。
「大丈夫。アーシェは何も心配いらない」
「…うん」
ここで話を切っておかないと、壊れそうだった。
原因の予想はついた。だったらこれ以上は。
「あ、あのね、グレイヴちゃん…時間があったら、私と手合わせして欲しいの」
話題を変える。
どうせ話そうと思っていたことだった。
「手合わせ?」
「うん。私たちって、男の子たちに比べると実践って少ないじゃない?
だから、これからのためにも練習しておいた方がいいと思うの」
「そうだね…」
これから戦うことになる。
何があっても対応できるようにしておきたい。
グレイヴもそう思っていたようで、
「じゃあ、時間ができた時に」
文句なく承諾してくれた。
「良かった!それじゃ、ニア君たちと合流してから」
「うん」
ニア達がどこに行ったのかはわからないが、見当はつく。
第三休憩室か、食堂か、あるいは…
「この天気の中、練兵場ってことは…」
「わからないわよ。ルーファはともかく、ニアやレヴィなら雨なんて気にしないかもね」
「グレイヴちゃんってば…」
あえて否定はしない。
けれどもそれはどうしても見つからなかった場合にして、他の場所を見てみることにした。
食堂にはいなかった。休憩室も珍しく空っぽだった。
それ以外にも可能性のありそうな場所を順々にまわっていく途中、
「アーシェとグレイヴじゃないか」
聞き覚えのある声に呼び止められ、二人は振り向いた。
段ボール箱を抱えた、黒髪の男性。
にこやかに空いている手を振っている。
「ルーファ君のお父さん!」
「カイさん、どうしたんですか?」
「ちょっと医療部にね」
カイの持っている箱は、どうやら薬が入っているらしい。
時折こうして軍の備品を揃えに来ると、以前ルーファが言っていたことがある。
「ルーファは?一緒じゃないみたいだけど」
「今探してるとこなんです。会いますか?」
「いや、一応仕事中だからね。グレンさんにバレたら撃たれるだろうし」
カイはそう言って明るく笑った。
が、
「それじゃ、俺はそろそろ」
去ろうと見せた背中は、疲れていた。
そんな風に感じた。
「大人たちも大変って…本当みたいね」
「あの薬も、ただ備品だからってわけじゃない」
さっきまで整理していた書類は、備品関連のものだった。
それによると、薬品は一昨日も届けられているのだ。しかも相当な量が。
「話が大きくなってきちゃったね。もうニア君だけの問題じゃない」
「最初からそうでしょ。アタシたちがここにいる限り、関わりを持たないことはないんだから」
「そうだよね…」
何故こんなことになったのか、原因はまだ知らされていない。
何も知らないのに、周りは動いている。
大人たちは連携し、得た情報を自分たちにくれることになっている。
それを活用するのが現役軍人の仕事。
「頑張らなきゃね。強くならなきゃ」
「…そうね」
もう後戻りはできない。それはわかっている。
覚悟なんて、今更。
「強くなきゃ…ね」
自分が守られるようではいけない。
グレイヴが今も変わらずそう思っていることを、アーシェは知っていた。
そのためにダイとすれ違いが生じていることは、簡単に想像できた。
「グレイヴちゃん、あの…」
大尉ともう一度話したほうがいいよ。
そう言おうとして、気づいた。
グレイヴが立ち止まっていること。
そして、前方から来る人影があったこと。
「…大尉」
「やぁ、グレイヴにアーシェ」
いつもと同じ、爽やかな笑顔。
そして、それから逸らされるライトグリーン。
「あ…」
ダイが口を開こうとすると、早足で行ってしまおうとする。
アーシェがその後を追おうとして、一旦立ち止まった。
「大尉、…色々あるでしょうけど、ちょっと待ってあげてください」
何も言葉は返ってこなかった。
それを確かめてからグレイヴを追いかけ、追いつく。
隣を歩きながら、今のことは忘れたように言う。
「グレイヴちゃん、練兵場に行ってみよう」
「雨、凄いわよ」
「ニア君たちならいるかもしれないって言ったの、グレイヴちゃんでしょ?
ついでにお手合わせ願います」
笑ってみせる。
自然な笑顔に、グレイヴもつられて息を吐く。
動けばすっきりするよ、という気遣いも伝わってくる。
だからこの返事は、どちらにとってもいいように。
「そうだね…そうしようか」
言葉を交わすタイミングをことごとく逃している。
アーシェには「待ってあげてください」と言われてしまった。
次に許される機会は、おそらく全てが片付いた後だ。
「それっていつだよ…」
「何がだ」
独り言のつもりで呟いた言葉に、ツッコミが入る。
思いもしなかった声に振り向き、わざとうんざりしたようなため息をついて見せた。
「大将…いい加減に俺の監視は止めてくれませんか?」
「監視などしていない。偶然通りかかっただけだ」
アーレイドもまた心外だとため息をつく。
本当に偶然であったということは、彼の後ろに客人がいることでわかった。
「大将、そちらの方は?」
「あぁ、彼は…」
アーレイドが紹介する前に、異国の軍服を着た客人は右手を差し出した。
「私はノーザリア軍の使者です。…ダイ・ホワイトナイト君ですね?」
軍服でわかっていた。一年に何回は必ず見るものだったから。
握手に応えると、使者は柔らかく微笑んだ。
「貴方にお話があって来たのです」
「俺に?」
「えぇ」
アーレイドが歩き出し、使者はその後をついていく。
何が何だかわからず呆然としているダイに気づき、アーレイドは視線で合図した。
来い、と。
偶然ではあったが、ダイに用があったのは確かだった。
黙ってついていくその先には、すっかり慣れてしまった大総統室があった。
「大総統閣下、ただいま戻りました」
「…ご苦労様」
本当はいつものように「遅いよ、アーレイド」という台詞を用意していたのだが。
呼称と報告のなかった来客に、ハルは姿勢を正した。
「そちらの方は?…ホワイトナイト大尉まで、どうしたの?」
「閣下、こちらはノーザリア軍からの使者の方です。偶然門のところでお会いしました。
ホワイトナイト大尉に話があるそうですが、よろしいですか?」
「ノーザリア…か」
ダイはハルの表情に気づく。
何か覚悟を決めたような、そんな眼をしていた。
使者をソファに招き、椅子から離れる。
もう全て決めていたというような行動にアーレイドは戸惑い、ダイはそれも含めた流れ全てに戸惑った。
ノーザリアが今更何の用だ。
また危険薬物関連で、何かあったのか。
しかし、わざわざ出向くくらいだ。もっと大きなことが起こってしまったのかもしれない。
考えを巡らせたが、明確な理由は思いあたらない。
「大まかな話は、ヴィオラセント氏を通じて聞いています」
ハルがそう切り出す。
「…閣下、父さんが何か?」
「大尉、座って黙ってて。説明は追ってするから。
大将も…今は何も言わずに話を聞いて」
口調は柔らかいが、これがハルの命令だ。
アーレイドは素直に従い、ダイは舌打ちを堪える。
それを確認して、ハルは使者に尋ねた。
「貴方が此処に来られたのは、スターリンズ大将の命によってですね?」
「はい」
「用件はホワイトナイト大尉のノーザリア軍移籍で間違いないですね?」
「はい」
耳を疑ったのはダイだけではない。アーレイドもだ。
「派遣」ではなく「移籍」。
それに対して使者は肯定を返した。
そんな話がいつ交わされたのか。
「父さんがそう言ったんですか?!」
「黙ってて。さっきもそう言ったよ。
…それで、スターリンズ大将は何と仰っていますか?」
「こちらの文書を差し上げるようにと言われております。どうぞ」
静かにダイを制し、文書を受け取る。
ノーザリア軍のシンボルである熊の描かれた、灰色の封筒。
それに加えてノーザリア軍大将カイゼラ・スターリンズのサイン。
「…間違いないですね。今此処で開封してもよろしいですか?」
「そうしていただくための使者です」
「ありがとうございます。大将、ナイフとって」
アーレイドが無言でペーパーナイフを渡す。
ハルは封を切り、ナイフを戻すように指示してから、中身を取り出す。
文書は三枚。一枚目は挨拶と用件、二枚目は用件に至った理由、そして三枚目は――。
「…わかりました。こちらでしばらく検討する時間をいただきたいです」
「この件へのご返答は文書を預かってくるように言われております。
ですから一週間以内によろしくお願いいたします」
「延ばせませんか?」
「延ばせません」
相手は譲る気などないようだ。
この問題を一週間でなんて、時間がなさ過ぎる。
「せめて一ヶ月は猶予をいただきたいです」
「大将はどうしても延ばせないと。…申し訳ございません」
使者は使者であり、それ以上の権限はない。
何を言っても仕方がないのだ。
ハルは使者に謝罪の言葉を述べた後、返答の仕方についてもう一度確認した。
使者が部屋を出る頃には、ダイはすでに限界だった。
「閣下、移籍ってどういうことですか?父さんは何を言ったんですか?
当分異動は無しでと申し上げたはずですが」
早口で問う。ハルは頷き、答えた。
「ボクがこの話を聞いたのはついさっき。ディアさんから電話があって、初めて知った。
ノーザリアのスターリンズ大将が、君をノーザリア軍に移籍させて欲しいとディアさんに掛け合ったらしい」
現在の危険薬物関連事件の中心はノーザリアだ。事件の件数は増え、軍では取締りが強化されている。
しかし現状では、その処理や対策が追いつかない。
そこで適切な対応ができ、且つ総合的に有能な人材が必要だという。
彼の危険薬物事件への執着を知ってか知らずか、スターリンズが白羽の矢を立てたのがダイだった。
「そんなの国内から選べばいいじゃないですか」
「ディアさんもそう言ったって。でも…」
もう一つ、ダイが選ばれた理由があった。
そしてディアを怒らせたのも、それだった。
ハルは躊躇する。これを言ってしまったら、また嫌なことを思い出させてしまう。
「でも、何ですか?」
「…ん…とね…」
嫌なことだから、ディアも怒った。あんなに反対した。
だけど…言わなければ説明はできない。
「ノーザリアで、危険薬物の人体実験が行われてるって…そういう疑惑があるんだ」
「………っ!」
ダイの目つきが変わる。
やはり、傷を開いてしまった。
ハルは後悔しながらも、続けた。
「それで…スターリンズ大将は君の力が必要だって。
だけどディアさんは断った。ボクもできれば断りたい」
一年前のことを思えば、行かせるわけにはいかない。
使者を送りに行ってしまったが、アーレイドもそう言うだろう。
「君がいなくなったら、こっちでの裏対策も協会対策も、戦力を欠いてしまう。
指揮がないと、どうしようもない」
「………」
せめて猶予があれば、どうにかなったかもしれない。
けれども、一週間では。
ハルがそう言っているのを、ダイはほぼ聞き流していた。
これは、チャンスだった。
ずっと願ってきた、復讐のチャンス。
時間が経てば逃げられてしまうかもしれない。わざわざ声をかけてくれたスターリンズに感謝せねばなるまい。
すぐに行けば、きっと殺せる。復讐できる。
「…ダイ君」
「あ、…何ですか?」
我に返る。
アーレイドがいれば、怒鳴られていただろう。
一応考えてみて、とハルが文書のコピーを渡した。
ダイはコピーの入った封筒を抱え、大総統室を後にする。
それがあまりにもあっさりしていて、ハルは不安になった。
やはり、まずかったか。
もしかするとダイは、ノーザリア移籍を選んでしまうかもしれない。
一年前に見た彼の表情が、ふと頭をよぎった。
それはさっき見た眼と同じだった。
「あれ…アーシェちゃんたちだ」
ピンク色の傘を見つけて、ニアは手を振る。
小さく振り返される手は、段々とはっきりして。
「やっぱりここにいたのね。探してたのよ」
「手間かけさせたな」
「ううん、練兵場には用事もあったし。ね、グレイヴちゃん」
豪雨も気にならないほど笑って、賑やかに屋内へ。
アーシェたちの用事を聞いて、レヴィアンスが目を輝かせた。
「ボクも!ボクも闘ってみたい!」
「そういえばアーシェたちの闘い方って見たことないよな」
ルーファもそう言い、五人での訓練が決定した。
それぞれで力の把握をしておくのは重要だ、ということもある。
思いがけず参加者の増えた訓練に、アーシェは喜び、グレイヴは呆れながら笑っていた。
「んじゃ、どうしようか。ボクは全員と闘ってみたいな」
「でも今、全員はさすがに時間がないから…
私とグレイヴちゃんは気が向いたら一緒にできるし、他の組み合わせにしてみる?」
「そうだな。対戦相手はどうやって決める?」
「じゃんけんかなー。グーとチョキとパーで合った人!」
「ニアの案を採用しましょう。アタシは誰とあたっても手加減しないわよ」
じゃんけんだけならとても子供らしいのに。
これからやることは、戦う練習なのだ。
無邪気な声が、広い屋内に響いた。
「あ、レヴィ君と私ね」
「で、俺とグレイヴか」
「僕は余りだね。観戦してるから頑張ってねーっ!」
手加減はしない。
でもこれは、まだまだ遊びの領域。
いつかは本気で、命をかけなければならない。
それをできるだけ意識したくない。
だから、笑っていた。
笑いながら、闘っていた。
「レヴィ君、速いね!」
「アーシェも思ってたよりいい動きするね!びっくりだよ!」
互いに発見し、激励しあいながら。
「これって因縁の対決…って言っていいのか?」
「父さんたちの代理と思えばね。アタシはどうだっていいけど」
互いの力を引き出していく。
特性を理解し、長所短所を見究め、これから立てていく作戦をより確実なものにする。
「アーシェちゃんはちょっと力が弱め、かな…武器を考えても遠距離型だよね。
レヴィは近距離、もしくは中距離か…」
観戦のニアは分析役。
考えたことはメモするまでもなく頭の中にとっておける。
この記憶力を、両親はよく不思議がっている。二人とも覚えることが苦手だから。
だから、よく言われるのは…
「…ニア、かぁ…」
自分の名前は、父の親友の名だ。
記憶力が良かったらしいという話は何度か聞いた。
本当に生まれ変わりなんじゃないか、などと父の知り合いが言っていたのを聞いたことがある。
この名前とそんな考えが、以前は軍人になることを反対される理由になっていた。
それを割り切って軍人になれて、こうしてここにいるのに。
今度は、インフェリアの血。
どうしようもない現実が、ニアの行く手を阻んでいる。
阻むものをどうにかしようと、多くの人が尽力している。
今目の前で繰り広げられている光景も、その一端。
――ねぇ、「ニアさん」…もし僕に力を貸してくれるなら。
――お父さんと一緒に戦ってきた、その力を。
「…あ、いけない…えと、ルーとグレイヴちゃんは…」
慌てて試合に目を向ける。
アーシェとレヴィアンスは半ば追いかけっこのようになっていて、
ルーファとグレイヴはいつの間にか、剣を手にしていた。
「ちょ、ちょっと、ルー!どこから持ってきたの?!」
「あぁ、今倉庫から。俺のもグレイヴのも木製の模造品だから心配要らない」
「アタシたちはこの方が合ってるのよ。…因縁の対決、でしょう?」
そういえば、ルーファの父とグレイヴの父は昔からのライバルだと聞いたことがある。
双方相手に対して悪態をついて、でもそれなりに仲が良いようにも見えたという。
「このこと聞いたらどう思うかなぁ」
「父さんたちのことだから、きっと決着は自分たちでつけるって言うんじゃないか?」
「違いないわね」
少し笑って、ニアが離れてから勝負再開。
アーシェやグレイヴを見ていると、血かな、とも思う。
けれどもルーファやレヴィアンスを見ていると、血なんか関係ないんじゃないかと思う。
結局は本人の力。
全てが血脈で決まるなんて、そんなことは納得できない。
それがニアの答え。
だから、どこにもいかない。裏にも、協会にも。
「…ルーもグレイヴちゃんも近距離戦に強いかな。
僕は遠距離射撃を頑張ろうかなぁ…」
「いや、遠距離射撃は俺の専売特許だ。奪うなよ」
不意に割り込んだ声に振り向いたのは、ニアだけではない。
動いていた四人も、足を止めた。
「大尉…」
「訓練か?それとも遊びか?どっちにしろもう休憩時間は終わりだ」
ダイは穏やかにそう言った。
怒っている様子など全くない。珍しく。
「事務に戻れ。レガート中尉が待ってるぞ」
「はい!」
上司に生じている僅かな違和感を、ルーファは敏感に感じ取る。
いつもならグレイヴと行動している時点で、何か言われてもおかしくない。
「ダイさん、何かあったのかな…」
「知らない」
呟いた言葉はグレイヴに打ち切られる。
外はまだ雨が降り続いていた。
「ルー、みんな、早く行こう!」
「あ、あぁ…」
「ちぇーっ!せっかくいいとこだったのにぃ…」
「また一緒にやろ。ね、グレイヴちゃん!」
「…そうね」
雷はずっと遠くの方で、まだ呻り声をあげていた。
雨は人を呼ぶ。
また誰かが訪れる音がした。
To
be continued...