いつからそれは始まったのか。

いつまで縛り付けるのか。

解放を許さない鎖は、細い腕に絡みつく。

冷たい錘に締め付けられる。

 

その手を、見る。

温かくて大好きな、いつも自分と繋いでくれていた、手。

その手がかつては血に染まったのだと、考えたくないのに意識される時がある。

知っていた。確かめた。

真実を知ることは、必ずしも正しいことではない。

それに気づいたのは、全てを心に刻んでからだった。

「アーシェ?」

「…え」

母の声で我に返る。

またあのことを考えていたのだと、自己嫌悪する。

けれどもそれを外に出してはいけない。もう終わったことで、忘れるべきことだ。

「ごめんなさい、お母さん…ちょっとぼーっとしちゃって」

「そういうときもあるわよ。さ、お茶にしましょう」

父と叔父から過去の話を聞いたあの日以来、アーシェは頻繁に家に戻るようになっていた。

休みのたびに家族に顔を見せ、仕事が始まれば寮に戻る。

決して暇なわけではない。今、仲間が大変なことになっているのだから。

自分にできることは何だろうと考え、まだ答えは見つからない。

何かあったときに助ける…いや、何かあってからでは遅い。

情報収集をしようにも、まだ新米の自分が正攻法でなんとかしようと思っても制限がかかってしまう。

規則を破ることも、やろうと思えばできる。

しかしそうすると、責任は自分以外にも及んでしまう。監督責任は指揮にあるのだから。

「お母さんは、昔どうやって仲間を助けてたの?」

紅茶の香りを吸い込んでから、呟くように言う。

母はそれを漏らさず聞いていてくれて、優しい声で返してくれた。

「そうね…私が本当に仲間を助けられたのかどうかは、正直わからないわ」

自分が生まれる前、自分と同じように軍人だった母。

人から慕われ、人を支えている母。

それでも、わからないという。

俯きかけるアーシェに、母は続きの言葉をかける。

「でもね、助けたいって思いはいつもあったの。だから、精一杯頑張ったわ」

「頑張ったって…何を?」

「人に優しくすることよ」

何年も多くの人を癒してきたのであろう笑顔で、そう言った。

「やさしく…」

「そう。いつも誰かに優しくしていようって、そう決めてたの。それが私の役目だって」

例えば、誰かが傷ついている時。

自分が助けられたことを思い出して、その温かさの分優しくしよう。

与えられた気持ちの分、誰かに気持ちを伝えよう。

それが今日までの、リア・マクラミーの生き方。

「優しく…かぁ…」

「アーシェも優しい子よ。きっと誰かがアーシェに癒されてるわ」

「そうかな…」

母のように、自分も誰かを癒せるなら。

今できることは…

「やっと終わったよ」

「お父さん、お疲れ様」

居間で仕事をしていた父が、テーブルにつく。

その後から弟がついてきて、自分の隣に座った。

「姉さん、何の話をしてたの?」

「んー…」

父の手を見る。

かつて血に染まったその手は、今は優しく温かい、大好きな手だ。

「優しい人になれたらいいなって話」

過去に何があろうとも、今があるならそれでいい。

そう思えるのは、「優しさ」があるからだ。

 

花瓶の花を新しいものに取り替えた後は、洗濯物を大きな籠に詰め込む。

自分が幼い頃は父の仕事だったが、全て覚えてしまった今は自分がやった方がいい。

「いつも悪いわね」

「母さんは気にしないで寝てて」

グレイヴが入院している母を見舞うのは日課だ。病院に行けなかった日は落ち着かない。

無事でいる母を確認して、やっと心が穏やかになる。

特に最近は、少し重かったから。

自分に疲れていた。

それを忘れるために病院に来て、動き回る。

「来てたのか」

「父さん」

手をかける前にドアが勝手に開いて、部屋に父が入ってくる。

「学校は?」

「昼休みだ」

いくら休み時間でも、教師がそう頻繁に学校を離れていいのだろうか。

いつも心配になるが、それは母がつっこんでくれるからグレイヴからは何も言わない。

役割を奪ってはいけない。父とのコミュニケーションが、母の生きがいのようなものだから。

以前、母はよく言っていた。「父さんがいなかったら、私はもうこの世にいなかったかもしれない」と。

母の体を蝕んでいる病は、実際とても重いものだった。子供を生めたことも不思議なくらいだ。

ドアを静かに閉める。

母はいつどうなるかわからない身体で、自分は危険な仕事をしている。

更にはかつて負うこととなった業。

父は相当な覚悟をしているはずだ。

どうして父は、立っていられるんだろう。

「洗濯行かねーのか」

「行くけど…もう戻るの?」

「授業あるからな。お前もさっさと仕事に戻れよ」

「自分はよく抜け出してたくせに」

「お前はオレと違うだろ」

違う。そう、違うんだ。

自分は父と違い、そうしっかりは立っていられない。

今にも倒れそうなほどふらついて、それでも強がって。

苦しくてしょうがないことを看破されながらもごまかしている。

「だって…父さんみたいにできないもの」

籠を抱える腕に力が入る。

普段は無力なくせに、どうしてこんな時ばかり力があるのか。

「何かあったか」

「………」

言葉が出なくて、そのまま立ち止まる。

父は背を向けていってしまう。

やはり自分は一人でいたほうがいいのだろうか。

誰にも近付かない方が良かったんだろうか。

人と関わることが、こんなに辛いなんて。

「オイ」

「え」

去ったはずの声が頭上から。

顔を上げると、無表情な父の顔。

いや、違う。

優しく見える。心配してくれているんだ。

「午後は自習だ。何があったか話してみろ」

「父さん…」

「お前のためじゃねーよ。ほっとくとオレが落ちつかねーんだ」

何も言ってないのに。

少し、笑えた。

コインランドリーには人がいなかった。

白い服を洗濯機に入れながら、グレイヴは少しずつ語りだす。

「アイツ…ダイに、守りたいって言われたの」

避け始めたあの日から、逸らし続けた今日まで。

遮って、逃げて、自分の弱さを認めなかった。

「本当は嬉しかったのに…自分が守られなきゃいけないほど弱いんだって認めたくなくて…」

守るために軍人になって、守れなかった。

強くなろうと思って、弱いままだった。

立ち止まりっぱなし、置いてかれて、現実を受け入れられずにいて。

「だって、弱いアタシを見せたくなかった。皆の前では強くありたかった。でも…」

結局、何か変わった?助けられてばかりで、何もできていないじゃないか。

「アタシは父さんみたいに強くなれない!誰かを守ったり、助けたりなんてできない!」

過去に何があったとしても、父が誰かを助けたり守ったりしたことには変わりない。

自分はそこに至れない。

悔しかった。何もできない自分が悔しくて、だけど涙を流すことは許されなかった。

「グレイヴ」

返事はしなかった。それでも、父は続けた。

「オレは昔、自分の弱さを認めなかった。復讐だけを考えて、とにかく力だけを求めていた」

力を求めて多くを奪った。

それは結果的に、大切な人を巻き込むことになった。

その時自分には何もできず、泣いた。

その時初めて自分が弱いことを悟った。

「お前は自分の弱さを認めてる。オレとは違う」

「認められなかったから、今…」

「今この時点では認めてるだろ」

髪に手が触れた。温かくて、優しい。

「ここで後悔したら、どうすればこれから後悔しないかわかるだろ。それでいいんだよ」

だから、やるべきことはわかるな?

自分と同じ色の瞳が、そう尋ねる。

「今を乗り越えれば、お前は強くなる。助けたいと思えば助けられる」

「でもやっぱり…」

「昔アーシェが泣いている時、お前は慰めた。入隊した日、お前はニアとルーファを助けた。お前はちゃんと助けてる」

自分では気づいてなくても、どこかで誰かの助けになっている。

だからきっと大丈夫だ。

「仲間がいるじゃねーか、お前が潰れそうになったら助けてくれる仲間が。そいつらは側にいるだけでお前の助けになってるはずだ」

「そう…だね」

「お前も同じだ。誰かの隣にいるだけで、そいつを支えてるんだよ」

あとはほんの少しの勇気。

「…アタシ、やるよ」

できることでいい。ただし、全力でやれ。

そうすればきっと。

「ありがとう、父さん」

 

軍に入ってから何度も同じ工程で進み、すっかり慣れた書類整理。

よほど重要なものでない限り、この単調な作業は新人の仕事だ。

自分たちはいまだ新人なんだな、と、アーシェは複雑な気持ちになる。

とても大きなものを背負いながら、それでもある意味弱くあることを赦された立場。

弱いから、知りたいことに真正面からあたることを許されない。

今の自分の立場は、とても矛盾したものだと思う。

「一、二、三、…これで全部かな」

今日も軍には多くの依頼がある。中には個人で解決できそうな、とても小さなこともある。

そういうものは軍に頼る以外の方法を依頼人に伝え、引き取ってもらうことになっている。

この状況について、「軍を何でも屋と勘違いしている」と以前叔父――ようするにブラックなのだが――が言っていた。

聞いたときはよくわからなかったが、こうして依頼書を扱っているとよく理解できる。

依頼人に逆らいにくいと依頼が通りやすくなってしまう、という現状もよく見える。

矛盾しているのは自分だけではない。世界は矛盾だらけだ。

受け入れられる矛盾と理不尽な矛盾があって、おそらく自分が抱えるのは「受け入れなければならない理不尽な矛盾」。

仲間が巻き込まれていることも、きっと同じように表せる。

「ニア君、これお願いね」

「え、あ、…うん」

今朝からニアの元気がないのは、ルーファが休んだからというだけではない。

そしてルーファが休んだのは、体調不良の所為じゃない。

それを裏付けるように、

「アーシェも気をつけて」

さっき、レヴィアンスにそう告げられた。

「理不尽」の中に放り込まれた仲間と、関係する自分。

いつ何が、自分にもあるかわからない。それを覚悟しながら、守らなければならない。

だけど弱い自分には自分と仲間の両方を守る方法がなくて、あったとしても微量な範囲に限られていて、…

「…優しく、って…どうすればいいんだろう…」

苦しんでいる仲間に、自分は何ができるだろう。

どうすれば、「矛盾」がなくなるだろう。

同じことが頭の中をぐるぐる回っていて、今日が半分寝ぼけたような感覚のまま終わってしまう。

目覚めるには、まだいろいろなものが足りない。

 

まず、謝ろうと思った。

そうしなければ始まらないと思った。

それなのに、今日に限ってその姿はどこにも見当たらない。

しつこいくらいに付きまとっていたくせに。

「グレイヴちゃん、私休憩行くね」

「うん、お疲れ様」

アーシェが食堂へ向かう。グレイヴもこの作業が終われば休憩時間だ。

きっと、何もしないまま過ごすのは落ち着かない。

ダイを探してみよう。もしも見つからなかったら、帰りにでも探しに行こう。

自分の中でそう決めて、グレイヴは指令部内を歩き回る。

広い建物の全てを見るわけにはいかないから、ダイの行きそうな場所だけを見て回る。

「…アイツのことなんて、全然知らないのに」

自嘲が漏れる。「行きそうな場所」なんてわかるはずもないのに、見当をつけている自分に対するもの。

知るはずもないことをどうしてそうだと決め付けているんだろう。

――だけど、きっとここに

半分は勘だ。だけど、半分はちゃんと理由があった。

大きな事件を指揮しているのだから、きっと上層部との連絡を密にしているはず。

それなら、もっとも関わりの深いのは。

大きな扉の前に立って、少し上を向いた。

一介の伍長でしかない自分にとって、大総統室なんてこちらから用事があってくるものじゃない。

まして、その用事がとてもくだらない個人的なものならなおさら。

わかっていても、どうしても。

そっと扉に近付き、震える手で扉を叩こうとした。

まさか目的の声に、それを寸止めされるとは思ってもいなかった。

「…え」

向こうから聞こえるのは、確かにダイの声。

扉がきちんと閉まっていなかったのか、それははっきりと聞こえた。

その地名は知っている。その行動がどういうことかもわかる。

だけど、どうしてそうするのかは理解できない。

わかるのは、その行動の後。

「まだ決めかねていますが」

こんな状況なのに、彼はそうすると言う。

「ノーザリア軍移籍の話、真剣に考えています」

この国から、出て行くと言う。

引きとめようとする声が聞こえる。だけど、それをかわす言葉が続く。

何があったのかはわからない。わかるはずもない。

廊下を走って、その場を離れながら考えようとする。

考えようとしても、どうして、という言葉しかでてこない。

謝らなければ、という思いは隠れてしまった。

 

何も出来ないまま、その日が終わろうとしていた。

もうすぐ終業時間。下級兵は大抵定時に帰されるので、この作業が最後だ。

グレイヴはずっと俯いていた。何かあったのかと聞いても、なんでもないと答えるだけ。

――私じゃ、グレイヴちゃんの力にはなれないのかな。

――やっぱりあの人じゃないと、だめなのかな。

アーシェはずっと考えていた。どうすれば優しくあることができるのか。

今目の前で悩んでいる大切な人に、自分は何ができるのか。

きっと何も出来ない。

それはアーシェではどうすることもできないのだ。

「グレイヴちゃん、私そろそろ帰るね」

終業を知らせる時計の音が止んでから、そう言った。

聞こえているのかいないのか、グレイヴは何も答えなかった。

だから、待った。

いつものように微笑んで、「また明日」と言ってくれるのを。

「グレイヴちゃん」

もう一度、呼んでみる。今度はこっちを向いた。

「え?」

「私、もうお仕事終わったから」

「あぁ…そうなの」

上の空のまま。

原因は分かってる。だけど、これを言ってしまったらグレイヴに対し優しくはなくなる。

「ねぇ、どうすればいいかな」

声に出すつもりはなかった。

でも、もう止めることができない。

「私、グレイヴちゃんが笑ってくれるように…何をすればいいのかな」

溢れてしまったら、もう元には戻らない。

「…何のこと?」

「私じゃ役に立たないのは知ってるよ。でも、話してくれたっていいんじゃないかな…」

「役に立たないなんて思ってない。だけど、アタシは何でもないの」

「そんなはずない!」

強い口調に、グレイヴが怯んだ。

「なんでもないなら、どうしてグレイヴちゃんは笑ってくれないの…?」

困らせてしまっている。これじゃ、やっぱり役立たずだ。

ごめんね、ごめんね、ごめんね、…。

「アーシェ…」

本当は、アーシェがハンカチをグレイヴの頬にあてるべきだった。

だけど、実際は逆で。

自分は昔の、弱いアーシェのままで…。

「どうして泣いてるの?どうしてアンタが泣かなきゃいけないの?」

「だって…グレイヴちゃんが泣かないから…」

「アタシは泣かないよ」

「でも、泣きたかったんじゃないの?」

さっきまであんなに辛そうだったのに、どうして泣かないの?

あんなに絶望的な表情をしていたのに、どうして言葉にしないの?

「…どうしようもないんだよ、アタシにも」

「どういうこと?」

「これは、アタシの問題じゃないから」

グレイヴがハンカチを畳みなおし、アーシェの頭にそっと手を触れた。

口元だけが漸く微笑んでいて、だけど、とても痛々しい貌で。

「アイツ…ダイが、遠くに行くかもしれないんだって」

「遠く…?」

「まだわからない。もしかすると、そうならないかもしれない」

アーシェにはわからない。どうしてそういうことになったのか、それを何故グレイヴが知っているのか。

だけど、一つだけ明白なことがある。

「これはアイツの問題だから、アタシが泣く必要はない。関係ない」

グレイヴはきっと、

「なのに、どうしてアタシが…泣かなきゃいけないの?」

ダイと離れてしまうのが、哀しいのだ。

「グレイヴちゃん…大尉のこと」

「好きなんかじゃないわよ、あんなヤツ」

台詞と表情が合っていない。

そしてそれを、本人も認めた。

「そう思ってたのに…どうしてだろうね」

やはり、アーシェには何も出来ない。

アーシェではダイになれない。グレイヴにかける言葉も思い浮かばない。

ただ、泣くだけ。涙を流さないグレイヴの代わりに、雫を落とすだけ。

どうしたら優しくなれる?

グレイヴの助けになれる?

大切な人に、辛い思いをさせないで済む?

「ごめん…私、グレイヴちゃんを余計傷つけちゃったかな…」

「違う。アーシェはアタシの代わりに泣いてくれた」

もう一度、ハンカチが雫を受け止める。

その向こうの笑顔は、いつものグレイヴ。

「おかげで、アタシにはアーシェがいるんだって気づけたよ」

 

また、助けられてしまった。

だけど今度は悩まない。アーシェに勇気を貰った。

今度こそちゃんと言える。

寧ろ、本当に会えなくなるなら今のうちに言わなければならないのだ。

今日はもう少し考えを整理して、明日は必ず謝ろう。

ほら、いつだか父が言っていた。

「あとで後悔しても遅いんだ」って。

思い返してみると、色々な人に支えてもらっている。

グレイヴに出来ることは、その支えでしっかり立つことだ。

そして、しっかり踏み出すこと。歩いていくこと。

迷わずに自分の道を行くこと。

父との待ち合わせ場所に向かいながら、小さく頷く。

いつの間にか日が短くなっていた。もうすぐ全てが夕闇に包まれるだろう。

「…?」

きっと、その所為で後に人の気配を感じるんだ。

誰もいなくて、そこには自分の影が伸びているだけ。

全て気のせい。

気のせいであって欲しい。

欲しかった。

「誰?」

振り返らずに口にしてみた。

返答無し。だけど、確かに。

確かにそこに、それは存在している…!

勝負は一瞬だ。タイミングが早すぎても、遅すぎてもいけない。

両手で握り締めていた袋の中身に、そっと手をかける。

あぁ、

来た、

今だ…っ!

鞘から引き抜くのは刹那。しかし、それを受け止めたのも刹那。

相手もその手に刃物を握り締め、グレイヴを抑えている。

周りにはそれ以外、誰もいない。おそらく、相手の狙い通りなのだろう。

でなきゃ、堂々と刀を振るえるわけがない。

「アンタ、誰?」

「誰でもいいだろう」

「また誘拐?」

「いや、そんな回りくどいことはしない」

互いの刀身が離れ、距離が出来る。

だが油断したらすぐにでも斬りかかってくるに違いない。

「狙いは父さん?それともアタシ?」

「両方だ」

「それはわかりやすくていいわね」

今度は、自分の身は自分で守る。

柄をぎゅっと、痛いくらいに握る。

相手より少しでも動きが遅れたらアウトだ。きっと一撃で命を絶たれる。

――冗談じゃないわよ…まだ言ってないのに…!

死ぬわけにはいかない。こんなところで死んだら、未練の重さで地獄行きだ。

足元の砂が、じゃり、と音を立てた。

 

ニアの表情が、昼間よりもほんの少し明るくなっていた。

レヴィアンスと話したんだな、とわかった。

励ましあって、頑張っている。壁を乗り越えようとしている。

自分には、何ができる…?

「じゃね、アーシェ。また明日」

「また明日ね、アーシェちゃん」

「うん、またね」

寮で別れる。女子寮は反対の通路だ。

一人の廊下は寂しい。賑やかに帰ってきた後は、いつもそう思う。

いや、いつもなら「今日も楽しかったな」と思える。

今日はなんだか疲れた。泣いたせいだろうか。

「でも、どうして…」

ぽつり、と。

誰も答えることの無い疑問を呟いた。

グレイヴはダイが遠くに行くかもしれないと言っていた。この時期にそんなことがありうるのか。

よほどの理由が無い限り、そんなことはないだろう。ダイは今回の指揮だ。

でも、もしも。

その理由がダイにとって、何よりも大切なものだったら。

例えば、先日ドミナリオから聞いた話のような、ダイが豹変するような理由があったとしたら。

一体何が起こってるんだろう。どうすればいいんだろう。

アーシェの混乱はますます酷くなる。

だから、気づくのが遅れた。

「きゃあっ!」

間一髪、壁に突き刺さった「それ」から逃れた。

違う、相手がわざとはずした。そうでなければ、あんな笑みは見せない。

「アーシェさん、ですね?」

ゆっくりと、相手が言う。

「レスター・マクラミーの孫の」

よく知っているその名を、口にする。

「あなた…誰?」

ボウガンを持つその手には真っ白な手袋。

手袋だけじゃなく、身につけるもの全てがその色だった。

「イクタルミナット協会から参りました。…あなたの命をいただきに」

それも聞いたばかりだ。ニアを狙っているのではなかったか。

どうして自分が。

「…ううん、尋ねるまでもない。あなたはもう答えを言ってた」

ケースから弓を引き出す。相手が自分を殺そうとしているなら、戦わなければならない。

「協会は裏を嫌ってるって聞いたけど…だから私を殺すの?」

「えぇ、裏の血を引いてるなら消さなければ。アストラは先手を打たれたけれど…」

ボウガンの矢が見えた。ここで戦えば寮が巻き込まれる。

「裏が嫌いなら、正々堂々と戦わない?」

「いいでしょう。あなたが外に出るのを待ってあげます」

「ありがとう。それと…」

来た道を戻る前に、一つ言っておかなければならないことがあった。

アーシェにとっては、最も重要なこと。

「おじいちゃんは、もう裏の人間じゃない。それをよく覚えて帰りなさいな」

 

軍服の布は硬いはずだが、よく手入れされた刀の前では役に立たない。

大きく裂けたその切り口は、息を呑むほどに美しかった。

――あぁ、どうしてくれるのよ一張羅。

思っても口にする暇など無い。秒の隙すら相手は与えない。

切っ先が掠るだけで精一杯だ。向こうは闘いに慣れている。

動かない足がもどかしい。段々もつれてくるのが分かる。

何も言わずに斬りつけてくる相手に、どうしても追いつけない。

――息が。

立ち止まりたい。でも、それは許されない。

動きを止めれば自分の首が飛ぶ。最後に見る光景が独りぼっちの道なんて、あんまりだ。

「やはりダスクタイトの娘だな」

何度目かの鍔迫り合いに、漸く相手の声を聞く。

「見事な捌きだった。殺すには惜しい」

「だったら殺さないでおいてくれると嬉しいんだけど」

手が震える。言葉を発しても、かすれた音になる。

「こちらも仕事でね。何より父の敵を討たねばならない」

相手が押す。柄を握る手が緩む。

――限界だ。

思いたくなかった言葉が脳裏に浮かんだ。

ふと、笑顔が頭を掠めた。

憎らしいけれど、傍にあって欲しいあの人の。

「グレイヴ!」

自分の名前を呼ぶ声。

こんな都合よく現れたら、狙ったみたいじゃないか。

――馬鹿みたいね。

意識が遠くなった。どこへ行ったか分からない。

最後に聞いたのは、金属のぶつかる音。

 

矢を番えて引いて。その時間も惜しい。

スピードは完全に劣る。狙いもうまく定まらない。

せめて風上に行きたい。しかし相手はそれをさせてくれない。

ハンデはあれでおしまいらしかった。

「アーシェさん、対人訓練したことあります?」

相手は余裕だ。こちらを嘲笑っている。

「まぁ、どうせ弓で対人訓練は難しいでしょうね。その矢自体もおもちゃに等しいですし」

アーシェの弓矢は軍支給のものだが、矢の先は物に刺さらないようにできている。せいぜいぶつけて足止めをする程度だ。

人を射ることなど想定していなかった。したくなかった。

「先ほどあなたは私を帰すといいましたが、それはあなたが死んでみせることでしか実現できないのでは?」

ボウガンの矢が足元に刺さる。相手は遊び始めたようだ。

きっと一撃では殺さない。

「段々ふらついてきているようですし、それじゃ矢を当てることすらできないんじゃないですか?」

「うるさいわね」

馬鹿にしたような声が耳障りだ。黙って戦うことができないのか。

多分、アーシェにもっと力があれば黙らせることができた。相手がこんなにも口を開くということは、力の差が歴然であるという証拠。

「あなたがお喋りしないから、私がこうして喋って差し上げてるのに」

「うるさいのよ、その声。大事な場面では私語を慎んでくれない?」

矢は残り三本。そのうち一本は今構えている。

「私に勝てなくて悔しいんでしょう?このまま殺されるのが名残惜しいんでしょう?」

「うるさいって言ってるでしょッ?!」

手から矢が離れた。狙いが外れて、相手の横をすり抜けていく。

激情に任せてはいけないということは、わかっているはずだったのに。

「子供は感情が豊かで良い事。幼いうちは自分の気持ちに素直でなくちゃね」

その幼い命を奪おうというのだから、残酷なものだ。

再び矢を番える。残り二発。

「撃ってみなさい。どうせ当たりませんから」

「そんなのわからないわ」

「じゃあ待ってあげましょう」

その台詞を後悔させてやりたい。だけど、それには力が及ばない。

勝算はない。わかっている。

だからといって相手の思うままに殺されるのは嫌だ。

相手を睨む。矢を放つ。

「あらまぁ、どこに撃ってるのやら」

「黙れっ!」

笑い声が冷静さを奪っていく。惑わされるな。

最後の一本。もう後が無い。

これがうまくいかなければ、殺されてしまう。

――お願い!

ごう、と風が吹く。

強いそれは、追い風。

矢は向こう側へ吸い込まれるように飛んでいく。

相手の肩の向こう側へ。

「最後の望みも断たれましたね」

その言葉が意味するのは、終わり。

この闘いは、幕を閉じる。

 

一般市民が武器を所持することは、本来ならばできない。

軍の人間で且つ証明になるものを持っているときのみ、所持が可能となる。

しかし、それが銃や武器としての刃物以外なら別だ。

資材置き場の鉄パイプなど、本来は武器のうちに入らない。

武器として使用した時に罰せられるのは確かだが、これは正当防衛だ。

「明日の新聞に軍人学校教師逮捕とか載らなきゃ良いな、黒すけ」

「うるせーよ」

その場は二対一になっていた。

刺客の相手をするのは、現役軍人学校教諭と、元大総統。

「ダスクタイトか…出てくるのが遅かったな」

「あぁ、自分でもそう思う。人の大事な娘に手出しやがって…」

気を失ったグレイヴは、カスケードが保護した。

これで思いっきり闘える。

「覚悟しろよ」

言葉が耳に届くのと、痛みを身体に感じたのは同時。

頭を狙わないのは、命まで奪うつもりは無いから。

金属が叩いたのは腹だ。骨にダメージは無い。内臓は分からない。

けれどもこれは、明らかな手加減だ。

「さすがだな…娘とは大違いだ」

「ガキが粋がってんじゃねーよ」

「黙れ!お前の所為で俺は」

「オレの所為なら娘は関係ねーだろ」

ブラックが相手の胸倉を掴む。さっきまで刀を振るっていたのは、少年だった。

ダイと同じくらいかな、とカスケードが呟く。

「多分お前はオレの所為で親の顔を憶えてないんだろ」

「そうだ!お前が父さんを殺すから」

「だったら最初からオレを狙え」

「お前にそんなことをいう資格はない!人殺しのくせに!」

「じゃあお前は今何をしようとしてた」

問いは静かだった。低く抑えた、教え諭すような声だった。

「連鎖させるのはやめろ。大元のオレにそんなことをいう資格がないのは承知だ。

だがな、それでもオレは娘を守る」

虫のいい話だとわかっている。分かっているから、言う。

取り戻せない過去を償いたいから、これから起こることを防ぎたい。

「軍に保護してもらえ。そうすればお前も死なずに済むだろ」

「父さんの敵をとれるなら死んでもかまわない!どんなに悪いことをしても、父さんは俺の父さんだった!」

「自分の親父のこと考えてんなら生きろっつってんだよ、ガキ!」

これ以上、「自分」を増やしたくない。

結局は後悔するだけになってしまうから。

「カスケード、このガキ連れてけ」

「黒すけは?」

「グレイヴ連れて病院行ってくる。すぐそっち行くから」

「了解」

カスケードに少年を預け、ブラックはグレイヴを背負う。

裂けた服と身体の切り傷が痛々しい。

「…よく頑張ったな」

そう呟いた後、謝った。

 

ボウガンを中心に、赤が滲んでいく。

もう、声は出ない。

口をぱくぱくさせて、目の前の人物を見ていた。

「風が押すのは矢だけじゃないの。人の背中も押すのよ」

傷は浅くは無い。けれど、致命傷にもならないだろう。

すぐに病院に行って暫く入院すれば、元のようにお喋りができるはずだ。

「私の足元に撃って遊んだりしなければ、こんなことにはならなかったかもね」

アーシェの矢は最後だったが、相手が放ったものが近くにあった。

遠距離が駄目なら、至近距離で。相手が矢に気をとられて隙ができたのを、アーシェは見逃さなかった。

「ごめんね、傷つけて」

早く病院に行かなければ。

寮からあまり離れなくて良かった。引きずって運べる。

「矢はまだ抜かないでね。血が噴き出しちゃうから」

自分でも驚くほど、アーシェは冷静だった。

矢の刺さった身体を寮の玄関まで運び、セレスティアを呼んだ。

「アーシェちゃん?!この子…」

「早く病院に行かないと、苦しいと思います」

「…そうね。すぐに連れて行くわ」

一連の流れを終えて、アーシェはふと思った。

自分には、二人の犯罪者の血が流れている。

「…違うよ。違う…」

だからこんな芸当ができたのか。

「違う…おじいちゃんは…違うよ…」

流れる血が、この身体を動かしたのか。

「おじいちゃんは悪くないよ…悪いのは…」

誰の血が流れていようと、結局この身体はアーシェだ。

だけど。

「私…人を刺したんだ…」

 

蘇る苦しみが、重く響いた。