月明かりに、切っ先が輝いた。
同じ後悔は二度としない。したくない。
その意志がルーファを動かしていた。
「誰だ」
渡したくない。絶対に守り抜く。
「裏か?協会か?」
ニアを奪うものは、何人たりとも赦さない。
抱いた肩は離さない。
「ルー」
「ニア、お前は俺が守るから。だから心配するな」
真夜中の侵入者に剣を、親友に力強い眼差しを。
敵意を向けられた相手は、口の端だけで嗤った。
真夜中、寮内は静まりかえっていた。
特に年齢の低い者は熟睡していて、揺さぶっても起きない。
そのはずだったのに、ルーファは完全に目を覚ましていた。
剣をしっかりと構えて侵入者を捉え、隣のベッドで寝ていたニアを庇う。
いや、ニアも眠ってはいなかったのか、事態をちゃんと把握していた。
侵入者は何故か、彼らを笑みつつ見ていた。
「よく気づきましたね。気配は隠したつもりだったのですが」
「俺は寝つきが悪いんだよ。考え事してる時は特に」
「何を考えていたんですか?」
「お前には関係ない」
半分は希望だ。関係ないといい。
目の前の敵が裏なら、全く関係ないとは言い切れない。
「関係ない、ね…」
くくく、と声が聞こえる。
それがルーファの神経を逆なでした。
「お前は誰なのか、答えろ!」
声を荒げると、腕に震えが伝わってきた。
ニアを怖がらせてしまったか。
「…ごめん」
できるだけ語気を抑える。
しかしニアは首を横に振った。
「謝らないで」
思ったよりも、ずっとはっきりとした返事だ。
怖がっているわけではないのか。
「ルー、僕は大丈夫だから。…自分で戦えるよ」
笑みさえ浮かべて、ニアは言った。
この表情は知っている。彼の父と――カスケード・インフェリアと、同じ。
「僕のことだけ考えてってわけじゃない。ルーはルーなんだから」
以前聞いた言葉をもう一度繰り返し、銃を手にする。
見くびっていた。別の意味で謝らなければならない。
ニアは一緒に戦えるんだ。
「いくぞ、ニア」
「うん」
相手はますます面白そうに笑む。
ニアの表情に、その血脈を見出せたから。
すっ、と顔に手をあて、目標を見た。
二人まとめて確保できるなら、好都合だ。
知るはずのない光景が目の前に広がっている。
赤い髪の男性が、自分に向かって語りかけている。
聴き取れない。聞こえないのではなく、言葉が分からない。
まだ生まれたばかりの赤子には、その男の感情のみが何となく感じられるだけだ。
申し訳なさそうに、彼は言葉をかけ続けた。
ただそれを見ているだけの自分が冷たい石の上に横たえられる。
そのときだけは、言葉が理解できた。
「さようなら」
どうして、ボクをおいていくの?
どうして…ボクをおいて死んでしまうの…?
「どうして…っ!」
自分の叫び声で夢から覚めた。
時計の音が室内に響く。
とてもとても静かな夜、独りの寂しさに胸が痛んだ。
「まだ夜中…」
朝になれば、きっといつものように笑って騒いで、楽しい日々に戻れる。
戻れたら、どんなにいいだろう。
戦いは始まったばかり。そんなことはわかっている。
またいつ協会が手を出してくるかわからない。
「ボクは…レヴィアンス・ハイルだ」
そっと呟く、確かなこと。
自分がアーレイドとハルの本当の子ではないと知った時、大きなショックを受けたけれど。
だけど彼らが自分を育ててくれたことは揺ぎ無い事実で、だからこそ彼らを両親と思っていて。
そうして割り切ってきたはずなのに、今になってまた抉られる。
今までできていたことが、できなくなっている。
初代大総統ゼウスァートの血筋。その最後の生き残り。
もし本当の両親が自分を育てていても、今と同じような「大総統の子孫としての誇り」を持てたかもしれない。
それだけじゃない。自分の出生や育ちに疑問や悩みを持つことなく過ごせたかもしれない。
ゼウスァートはすでに軍や政治から身を引いている。両親が忙しくて自分が寂しい思いをするということは、なかったかもしれない。
もっと平和な日々を送れたかもしれない。
そう、全て過去の仮定。現実が存在している以上、意味のないこと。
分かっているのに、考えてしまう。
この幸せだったかもしれない仮定を壊したのは。
「暗殺者アストラ…か」
ルーファの本当の親であるという、その人物。
「ルーファは関係ないのにね…」
何も知らなかったのだから、ルーファに罪はない。
それに彼は、レヴィアンスにとって大切な友人だ。仇だなんて思いたくない。
違う、そもそも仇なんかじゃないんだ。
だけど、どうしても引っかかってしまう。
「ボク…誰なんだろう」
夜が明けても、自分はレヴィアンス・ハイルのままでいられるだろうか。
レヴィアンス・ゼウスァートになってしまって、自分から友情を壊してしまわないだろうか。
楽しい日々に戻れなかったら、それはきっと自分の所為だ。
まだ矢を握って突き刺した感触が残っている。
その後の行動も全て鮮明に覚えている。
大総統は気を遣ってくれたが、アーシェはそれに対し冷静に応えていた。
状況説明を求められた時も、淡々と語ることができた。
寮に戻ってオリビアに心配されたが、それにも何も感じなかった。
自分の手で人を刺したことにずっと囚われていて、他のことを考える余裕はなかった。
協会は裏を滅ぼすために、その血脈であるアーシェを狙った。
アーシャルコーポレーション事件首謀者の血だけが目的ではない。
東方諸国連続殺人事件の犯人の血も、協会にとっては滅すべきもの。
その両方を受け継ぐ自分は、協会の敵。
その両方を受け継ぐから、人を刺した後に冷静な対処ができたのだろうか。
自分にはやはり、人殺しの血が受け継がれているのだろうか。
「違う…違うのに…おじいちゃんたちの所為にしちゃ駄目だよ…」
自分の行動が理解できないから、その理由を他に求める。
そして全ての罪をそこに帰属させてしまう。
そんなずるい自分が見えてしまう。
――だって、リヒトも同じなんだよ?あの子はいい子で、私みたいな事はしない。
――だからこれは、私がやったこと。他の何かに責任を押し付けるなんてしちゃいけない。
「…あれ」
ふと、気づいた。
自分が「血を受け継ぐもの」として狙われたのなら、危険にさらされる人がまだいる。
「リヒト…は…?」
協会はリヒトにも手を出すかもしれない。
自分と同じように狙われるかもしれない。
「守らなきゃ…」
リヒトを危険な目にはあわせない。
でも、また相手を傷つけるの?
今度は取り返しの付かないことになってしまうかもしれない。
「私が人を傷つけたら…みんなに迷惑がかかっちゃう…」
アーシェ自身が意識したように、協会はさらに血脈に注目するかもしれない。
もちろん、悪い意味で。
これ以上祖父を、家族を悪く言われるのは嫌だ。
言わせない。そのためにはどうすればいい?
「戦いたくないよ…」
守るための戦いで、誰かを傷つける。
そんな矛盾で、混乱している。
「守りたいのに…私、戦えないよ…」
どうすれば、誰も傷つけずに済むのだろう。
暗闇の中なのに、ここがどこだかすぐにわかった。
慣れてしまった匂いがする。幼い頃から通い続けた場所のもの。
いつもは見ているだけのベッドに、今は自分が寝ている。
――病院…か。
戦って、負けた。
負けたけれど、生きている。
意識を手放す前の一瞬、父の声を聞いたのは幻ではなかったらしい。
幻じゃないから、こうして存在している。
また、助けられた。
自分の身すら守れない。
胸にあるのは悔しさ。グレイヴはそれをぎゅっと押さえる。
もっと強くならなければ。
ダイがいなくなるなら、なおさら。
――アイツがいなくなったら、アタシがあの子達を守らなきゃ。
今のままじゃ駄目だ。自分の力で守れるようにならなければ。
こんなところで寝ている場合ではない。傷なんか痛くない。
こうしている間にも、何かが起こっているかもしれない。
ふと、サイドテーブルの上に目がいった。
包帯を切るのに使ったまま置き去りにされたらしいそれを手にする。
絡む連鎖を断ち切らなければならない。これはそのためのけじめ。
必ず強くなる。大切なものを守り抜く。
決意を込めて、刃を閉じる。
黒髪がぱらぱらと落ちる。これでいい。
本気で戦うなら、これくらいしなければ。
「今度こそ…」
絶対に、終わらせてみせる。
もう誰かの辛い表情は見たくないから。
猫が鼠を追い詰めるように、にらみ合いながら後ずさる。
「猫」は突きつけられた剣に臆することなく、一歩ずつ近付いてくる。
「ルー」
相手を見据えたまま、ニアが囁く。
「あっちに移動した方が良い」
部屋の少し広くなっている方。できるだけ動きやすい場所へ。
ルーファの得物は長さがあるので、そうでなければ扱いにくい。
「そうだな」
少しずつ移動していく。意図を相手に覚られないように、というのは難しい。
だったらいっそ、一気に。
床を蹴って、素早く跳ぶ。大きな動きがあれば、意識を逸らすことができる。
しかし、それは――
「ニア?!」
――そう。狙われているものがその行動をとったときならば、相手の目が逸れた隙に攻撃することができる。
けれども、狙いが動かなかったなら。
「そこから動かないでね、ルー」
ただルーファを逃がすためだけに、ニアは指示をした。
いつの間に隠し持ったのか、銃を構えて侵入者と対峙していた。
「どこの人か教えてくれませんか」
ニアの位置は壁際。相手が攻撃してきたら、逃げるのは困難。
「今教える必要はない。一緒に来ればわかる」
「一緒に行きたくないから訊いてます」
「すぐにそんなことは言えなくなるだろうよ」
侵入者はニアに近付き、手をのばす。
それとは逆の手に、光るものが見えた。
「ニア!」
危険を察知して、ルーファがとっさに侵入者へ飛び込んでいく。
けれどもそれはまさに、相手の思う壺。
危ないのは、ニアではなくて…。
「ルー、だめだっ!」
ニアの叫びが届く頃には、侵入者の握るナイフは完全に光を失っていた。
刃はルーファの身体に収まり、行き場をなくした剣は床に転がる。
「人のことを気にするから弱くなる。まだわからないのか、アストラ」
そんなことは嘘だ。人を想うから強くなれると信じている。
それでも力が及ばないのなら、それは完全に自身の不足。
また、守れないのか。
「まだだ…!まだ倒れてない…!」
こんな痛み、なんでもない。こんどこそ守りぬくんだ。
「ニアの泣き顔…見たくないんだよ」
剣を拾おうと手をのばす。
侵入者はそれを一瞥し、ニアへ近付く。
「インフェリア、アストラはもともと我々の側の人間だ。軍にいても君たちの真価は」
「そっか、裏の人なんだ」
ルーファの指が柄に届いたのと、同時だった。
その音は寮内に響き渡り、人を呼ぶ。
部屋には火薬の匂い。銃を握る彼の瞳は、暗い海の色。
躊躇なんかなかった。侵入者の肩を掠った銃弾は、そうなるように狙ったもの。
「ルーをアストラなんて呼ぶのは、裏の人だよね?でもルーは裏じゃなく、正真正銘軍の人間だよ」
廊下から足音が聞こえてくる。銃声に気づいた寮生が集まってきていた。
「みんなもう来ちゃったから、捕まっちゃうよ。僕らのことは諦めたら?」
「それはどうかな」
侵入者とて、銃を撃てば轟音が響くことはわかっていた。
寧ろそうしてくれなければ、この計画は失敗すると思っていた。
外の騒ぎに真っ先に気づき、ルーファは言葉を失う。
「ルー、どうしたの?!」
「お前…何を…」
何もせずにこの部屋に入ってきたわけはない。当然罠は仕掛けてある。
それを解除できるのは、侵入者だけ。
「部屋の前に何をした?!」
「わざわざ言わなければならないことか?」
嫌な笑みが闇に浮かぶ。
ニアに銃口を向けられたままだというのに、侵入者は臆することなくその条件を出した。
「インフェリア、お前さえ来てくれれば仕掛けを解除し、アストラも見逃そう」
人質は多い。受け入れなければ一人殺せばいい。
犠牲者が増える前に、ニアは決断しなければならない。
「卑怯だぞ!」
ルーファの振り上げた剣は、腹部への蹴りで止められる。
傷が深くなり、激痛が走った。全身の動きを奪われて、うずくまるしかない。
「ルー!」
「断ればアストラから順に殺していく。ぐずぐずしていれば、外にいる奴らも全員感電死だ」
救う方法はただ一つ。選択肢はない。
「ニア…」
自分を呼ぶ声を振り切って、目の前の男に従うしかない。
「ごめん」
せっかく助けてくれようとして、怪我までしちゃったのに。
無駄にしちゃったね、僕。
「ごめんね、ルー」
ニアの手から、軍支給四十五口径が離れた。
その騒ぎはすぐに大総統へ届いた。
事態を把握して命を下すまでは口外するなと、その場にいた者全てに告げられる。
レヴィアンスもその一人だった。罠にはかからなかったが、そこで起こった事はわかる。
ルーファが血を流し、ニアが姿を消していた。
ニアを疑う者もいたが、レヴィアンスにはわかっている。
彼は誰かによって、どこかに連れ去られた。
ルーファの怪我を、連絡を受けて駆けつけたラディアが治癒する。
その様子を、レヴィアンスはじっと見つめていた。
「ありがとうございます、ラディアさん」
「これでルーファ君を治癒するのは二度目ね。本当に無茶ばっかりして…」
傷は塞がったが、その場にいる者全ての表情は暗いままだ。
いるべき人が、いないから。
ついさっきまで大総統と話をしていたダイは苛立っていた。
裏か協会かははっきりしないが、相手は先に動いている。またしても止められなかった。
「ルーファ、説明しろ」
「ダイ君、ルーファ君は今傷を塞いだばかりだよ。急かすのは…」
「こいつが話さなきゃ何もわかりませんよ。また一から作戦を立て直さなければならない」
ハルの制止も聞かず、問い詰める。
焦っていた。こんなに早く事が進むなんて思っていなかったから。
「…話しますよ。言われなくても、全部説明します」
こんな事にしてはいけなかったから。
一切を語る。それだけで親友が戻ってくるわけではないとわかっていて。
自分が彼を守れなかったことを伝えた。
言葉にする前に、すぐにでも追いかけたかった。
今ならまだ間に合うかもしれない。ニアを取り戻せるかもしれない。
けれどもそれはかなわない。自分一人では何もできないことがわかっているから。
この力があまりにも小さすぎることを、痛感したから。
「裏か…」
ダイは忌々しく吐き捨てた。
しかし、それ以上は何も言わなかった。
代わりに口を開いたのは、
「何もできなかったんだね」
それまでずっと無言だった、レヴィアンスだった。
「ニアとずっと一緒にいたくせに、ルーファは何にもできなかったんだ」
「レヴィ、何てこというの?!」
ハルの叱責を無視し、視線を伏せたままぶつける。
さっきまでの迷いが混沌とした状況でふきだした。
「それとも何もしなかったの?本当はもう裏と通じてたりしてね!」
「レヴィアンス!」
アーレイドの怒鳴り声に、一瞬身体を震わせた。
だけど、それだけ。
「ルーファは暗殺者の子だもんね!ボクの親を殺した、裏の人間の!!」
叫んで、部屋を飛び出す。
「待ちなさい、レヴィ!」
追いかけようとしたハルがドアの外に見たのは、
「あ…」
レヴィアンスではなく、大きな影。
報せを聞いた、ルーファの両親――グレンとカイだった。
昔は、部屋に人が集まることはとても楽しいことだった。
辛いことを忘れて、みんなで騒いで笑いあった。
でも今は、全く違う。
率先して場を盛り上げていたカスケードは悲痛な表情。
グレンとカイは語られた真実がまだ受け入れられない。
ラディアは状況の把握さえ難しい。
ハルとアーレイドは顔を上げられない。
そこにダイとルーファがいる。
誰も話を進めようとはしなかった。
言葉にすれば、それを現実だと認めなければならなくなる。
「…黙っていても、無駄な時間を過ごすだけです」
ダイが漸く、そこに声を与えた。
「待っていればニアが帰ってくるわけじゃない」
「そうだな…」
カスケードが力なく相槌を打つ。
「ダイ君に話したことを、皆さんにもお伝えします。…でも、その前に」
ハルがグレンとカイ、そしてルーファに頭を下げる。アーレイドもそれに続いた。
「レヴィアンスの発言をお詫びします。本当にすみませんでした」
「いや、えぇと…」
グレンは困惑し、カイを見る。彼もまたどうしていいかわからない様子だ。
しどろもどろに、尋ね返した。
「あのさ…さっきの話、本当なのか?」
「本当だよ」
ルーファが即答する。そして、裏が接触してきたことなどを語った。
自分が暗殺を生業とするアストラの血を引いていることを、育ての親に告白した。
「でも俺は裏と繋がってなんかいない。これだけは信じてほしい」
「もちろん信じてるよ。…だから、さっきのレヴィの発言は赦されるものじゃない」
ハルはぎゅっと膝を掴んで、再び俯いた。
当のレヴィアンスは、自分の部屋に鍵をかけて閉じこもっている。呼んでも返事をしなかった。
仕方なくそのままにして来たのだが、これでいいはずがない。
「あの…ね。レヴィ君の言葉を擁護するわけじゃないけど…ちょっとだけ、気持ちはわかるわ」
ラディアが遠慮がちに言った。グレンが視線を送るが、彼女は首を横に振って応えた。
「どうしようもない迷いが、今回のことで暴走しちゃったんじゃないかな…レヴィ君は自分を産んだ親について、すごく悩んでたんだと思う」
「それはボクたちがよく考えてあげるべきでした。レヴィはしっかりしてるけど、やっぱり子供なんですよね」
「だからそれをルーファ君にぶつけてしまうのも、酷い言い方をすれば仕方なかったのかもしれない」
本来ぶつけるべき相手はいないから、その子に。何の罪もないことはわかっていても。
わかっているはずだから、きっとレヴィアンスは後悔している。
「ハルたちはレヴィとちゃんと話せ。できれば今すぐに行くべきだと思うが…」
何を優先したらいいのか迷うハルに、カスケードが遠慮がちに言う。
国のトップとしての責任か、親としてのつとめか。二つの道を前に戸惑うのは、彼も経験したことだ。
こうすべきだと言っても、ハルはすぐには動けないだろう。
「…アーレイド、レヴィの部屋に行ってあげて」
しかしそれは一人だった場合の話。パートナーに助けてもらうことが可能なら、その方が良い。
アーレイドは頷き、席を立った。
「カスケードさん」
「わかってる。お前はちゃんと父親やってこい」
「…お願いします」
ドアが閉まって、再び部屋は無音になる。
ハルが話し始めるまでの僅かな時間が、途方もなく長く感じた。
「ダイ君に話したこと、なんですが…」
これまでの経緯を、大総統として語る。
子供たちそれぞれが背負っているものと、辿り着いたいくつかの真実。
本来は一般人に聞かせるべきではない情報。
「知らない間にややこしくなってたんだな」
「血ってそんなに重要なのかな…俺には理解しがたいよ」
グレンとカイには完全に初耳だ。彼らは知る必要がなかった。
だが、自分の子が巻き込まれているとなれば別だ。
「俺たちも戦うべきだろうな」
元軍人としてじゃない。親として、子供を守る義務がある。
「本当はボクたちがなんとかしなければならない問題です。ここまで事態が進展してしまったので、関わらせたくはなかったんですが…」
「もし家が襲撃されでもしたら、そんなことは言っていられないだろ。任せろよ」
子供たちにとっても、ハルにとっても、心強い言葉。
「…軍人以外が武器を扱うことは、許可できないんですけどね」
「だったらグレンさんは何度逮捕されてるかわかんないですよ」
「お前が変なことを言うから撃ちたくなるんだ」
冗談で、ほんの少しだが空気が和らいだ。
決心を口にする余裕ができる。
ルーファはカスケードに向き直り、頭を下げた。
「ニアを守れなくて、すみませんでした」
「いや、ルーの所為ってわけじゃ…」
「俺の所為です。だから」
慰めなんていらない。そうされるべきではない。
ただ、この言葉を信じてほしい。
「俺は裏と戦う。そしてニアを取り戻す」
顔を上げて、真っ直ぐに。
守れなかった色と同じ色を見た。
「…今度こそ、守れるんだな?」
「守ります」
できるかどうかじゃない。やらなければいけない。
大切なものを守れなかった後悔は、これで最後だ。
「これがラストチャンスだ。ルーだけじゃなく、俺も」
ニアが攫われたと聞いて、カスケードは自身を責めていた。
しかし自分を責めていても前に進めない。それを思い出した。
ルーファが思い出させた。
「ニアは俺の子だ。裏になんかとられてたまるか!」
「俺の親友でもありますよ」
「そうだな。どっちにしろ取り戻すのには変わりないさ」
笑みを浮かべあう二人。互いの決意が同じものであることを確かめ合う。
その間に声が割り込んだ。
「勝手に二人で良い話にしないでください。裏は俺の敵です」
「ダイさん…」
やっぱり執着はあるのか、とルーファが溜息をつきかける。
けれども、それを遮ったのもまた笑み。
「騎士役は譲ってやる。だから遅れずついてくるんだな、ルーファ」
「…はい!」
これなら大丈夫。ニアはすぐに戻ってくる。
辛い戦いになるかもしれないが、乗り越えられるはずだ。
その場の全員がそう思っていた。
それなのに。
「ハル!」
飛び込んできたアーレイドが、非情な報せでそれを破る。
どうしてそうなったのかは誰もわからない。
だがそれは現実に起こっている。
レヴィアンスが、姿を消した。
いきなりドアを開けるから、てっきり父かと思った。
息を切らすその姿は、普段なら静かに入ってくるはずの彼女。
「アーシェ…?」
「グレイヴちゃん、大丈夫?!私、さっきグレイヴちゃんのこと聞いて…!」
「落ち着きなさい。アタシはなんでもないから」
アーシェをなだめながら時計を見る。面会時間になったばかりだ。
話を聞いたのはさっきと言っていた。話したのは大総統だろうか。
そんなことはどうでもいい。
急いで駆けつけてくれたことが嬉しくて、少し申し訳なくて。
「こんなのかすり傷よ。午後から復帰するわ」
「でも…裏の人って聞いて…」
「そんなことも聞いたの?話したのは誰よ」
「大尉が…」
余計なことを。悪態も吐けないほど呆れる。
アーシェにこんな顔をさせるなんて。
もとはといえば、負けた自分がいけないのだが。
「髪…切っちゃったの?」
「うん」
「何で?」
「負けたくないからよ」
心配しなくていい。強くなるから。
もうアーシェにも、家族にも、誰にだってこんな表情はさせないために。
戦うために、昨日までの自分は捨てた。
「アタシは戦うよ。連鎖を断ち切らなきゃいけないから」
「…そう」
アーシェが俯く。来たときから様子がおかしい。
どうかしたの、と尋ねようとしたら、
「調子はどうだ」
「大尉」
タイミング悪く、この男が現れる。
全く、調子が狂う。
「このくらいで病院にいるなんて、甘やかされてると思うわ」
「すぐ出られるんだな」
「当然よ」
珍しく真面目だ。何かあったのかという前に、突然告げられる。
「だったら、ニアとレヴィの捜索に加わってもらう」
「捜索って…アイツらに何かあったの?!」
「ニアは裏に攫われ、レヴィはどこかに行った」
簡潔で、何故そうなったのかはわからない。
アーシェに目配せするが、彼女も首を横に振った。
「私もさっき聞いたばっかりで…よくわかってないの」
「…こんなところで寝てる場合じゃないわね」
すでに戦いは始まっている。遅れて迷惑をかけるなんてできない。
傍らの棚を開けてみる。全てを見透かしたように、そこにはきちんと畳まれた服が用意してあった。
きっとわかっていた。自分はとても父に似ているらしいから。
「着替えてから行く。先に戻ってて」
「できるだけ急いでくれ」
「言われなくてもわかってるわよ」
ダイの背中に、アーシェが視線を床に落としたままついていく。
様子がおかしかったのは、ニアとレヴィアンスがいないからだったのか。
どうしていないのかとか、何があったのかとか、状況を把握するためには早く自分もついていくしかない。
服を着替えたら、そのあとは気を抜けない戦場。
「あぁ、そうだグレイヴ」
気を引き締めようとしたところで、再びドアが開く。
脱ぐ前で本当に良かった。
「いきなり何よ!」
「短いのも似合うな」
「…!」
これから命がけの戦いが始まるのに、その笑顔でそんな言葉をかけられたら。
どうしてこの男は、こんなにもタイミングが悪いのか。
すぐにドアを閉められたら、礼すら言えないじゃないか。
「決心鈍らせないでよ…」
言いたいだけ言って、その返事は全て終わるまで言わせないなんて、ずるいにも程がある。
現状の全てと、それに基づき立て直した作戦が説明される。
多くのサポートが得られることになったが、それらに頼りきりになるわけにはいかない。
それぞれが自分の敵に立ち向かう。そして、平穏な日々を取り戻す。
「ニアは裏にいることがわかっている。レヴィはわからないが…」
レヴィアンスの捜索とニアの奪還を最優先する。
それから裏及び協会の人間を捕まえる。
加えて危険薬物の取り締まりだ。これは尉官以上の仕事になる。
「これ以上作戦を立て直すことがないと良いがな。全く、ニアもレヴィも余計なことをしてくれる」
「ダイさん、そんな言い方…」
「他にどんな言い方があるんだ」
異議ありげなルーファをかわし、話を続けるダイ。
真剣に考えているから乱暴な口調になるのだと、わかっていても許せない。
「必ず向こうから接触があるはずだ。それを合図に、一気にいく」
「接触があるまで待つんですか」
「まだ情報が足りないからな。ルーファ、お前はとにかく俺についてこい」
「…わかりました」
もどかしいが、そうするしかない。相手がどこにいるかさえもわからないのだから。
――ニア…無事でいてくれよ。
そう願うしか、今はできない。
落ち着かないまま一旦解散し、次の召集に備えることになった。
ダイは大総統室へ、グレイヴは正式な退院手続きのため病院へ。
そして、
「アーシェ、大丈夫か?」
アーシェはその場で、一人俯いていた。
「大丈夫よ」
「顔色悪いぞ。昨日大変だったみたいだし、体調が悪かったら休んでろよ」
「本当に大丈夫」
どう見てもそうは見えない。ルーファはアーシェの隣に座る。
彼女を一人で放っておいたらいけないような気がした。
「ケガは?」
「ほとんどないようなもの。だから心配しないで」
「辛かったら部屋まで送るけど」
「ありがとう。でも今はかまわないで欲しいの」
アーシェらしからぬ言葉。協会に命を狙われ、心が疲れてしまっているのかもしれない。
ルーファが離れるべきか迷っていると、小さく呟く声が耳に入った。
それはあまりにも細くて、気をつけなければわからないほどのものだったけれど。
彼女は確かに、そういった。
「私が、怖くないの?」
「…どうして」
「だって私…人を刺したんだよ」
それは正当防衛だ。そうしなければアーシェが殺されていた。
その場面を見たわけではないが、ルーファはそうだと確信している。
「仕方なかったんだ。…それに、これから戦わなきゃいけないんだから」
「これからもっと傷つけなきゃいけないの?!私、きっと今度はもっと酷いことをする…!」
細い肩が震える。表情は見えないけれど、きっと怖がっている。
「どうしてそんなこと…」
「だって、私にはそういう血が流れてるのよ!史上最悪の猟奇殺人鬼の血が!」
アーシェを怖がっているのは、アーシェ自身。
自分の中に流れるものを、強く恐れている。
「それはアーシェには関係ないだろ」
「だって私、人を刺して…あの感触が忘れられないの。何度も思い出すのよ」
自分はこの感触に恍惚を感じてはいないだろうか。
あの状況を求めてはいないだろうか。
「私、戦うのが怖い。今度こそ殺してしまうかもしれない。それを楽しんでしまうかもしれない」
だけど、家族を守らなければならない。友達を助けなければならない。
戦わなければならないのだ。
「戦いたくない、私…」
みんなが守るために、助けるために戦おうとしている。
それなのに。
「…アーシェは、俺が怖いか?」
「え?」
アーシェは思わず顔を上げる。
ルーファと目が合って、逸らせなくなった。
どうして突然、そんな話をするんだろう。
「俺には暗殺者の血が流れてて、しかもレヴィの本当の両親殺してるんだけど」
「そんな…たとえそうでも、ルーファ君は違うじゃない」
「アーシェも同じじゃないのか?血がどうこうって関係ないだろ」
「私はルーファ君とは違うよ…実際に人を刺しちゃったんだから」
「だから、それは仕方なかったんだろ。衝撃的なことって忘れられないし」
血なんて関係ない。アーシェを怖がる理由もない。
「寧ろアーシェが強いことに感心したんだけどな。俺はニアも守れなかったし」
「感心してる場合じゃないよ。今私がルーファ君を殺しちゃったらどうするの?」
「殺されないから大丈夫。俺、斬られても刺されても生きてるし」
ニアを助けるまでは絶対に死ねない、と笑って見せた。
どうして笑えるんだろう。隣には平気で「殺す」と口にする、酷い女がいるのに。
再び俯くアーシェに、ルーファは続ける。
「今のアーシェは、ちょっと前のニアと同じなんだよ。傷つけるのが怖くて、そこから動けなくなってる」
「ニア君と…?」
「ニアが動けたんだ。アーシェだって動けるさ」
ふわりと、手が温かくなる。
アーシェは自分の手に重なるものを見た。自分のそれより少し大きくて、優しい。
「アーシェがどんなに自分を怖がっても、俺たちは怖がらない。ずっと一緒にいるよ」
目が熱くなる。視界がゆらりと歪む。
悲しいからじゃない。もっともっと温かい。
「戦えなかったら、俺がいる。グレイヴもダイさんも。きっとレヴィやニアだって」
「…うん。ありがとう」
どうしたらいいのかは、まだわからないけれど。
ただ一つ、自分には仲間がいるという、確かなことがわかった。
「まさかあっさりついてきてくれるとは思わなかったよ」
以前会った時とは違う姿で、彼は言った。
これが素顔なのかどうかもわからないが、ハルの姿をして現れたときよりマシだ。
「こっちも色々あって。…ていうかさ、来るタイミング良すぎじゃない?」
「そうかな?ただ上の命令に従っただけなんだけど」
「ふぅん…」
レヴィアンスはつまらなそうに周囲を見渡した。
白い壁が続く。清潔感を通り越して、冷たく不気味だ。
「協会の施設って病院みたいだね」
「裏というウィルスを撲滅するという点では、病院みたいなものだよ」
「ウィルス撲滅は研究所とかの管轄じゃないかな」
あの後――レヴィアンスが一人で部屋に戻ると、すぐにイクタルミナット協会の使者が現れた。
まるで全てを知っていて、狙っていたかのように。
「ボクにできることなんてあるの?」
「それはもちろん。インフェリアが裏に渡った今、ゼウスァートの血が重要だからね」
「そんな何代も前の栄光が重要かなぁ…」
「重要だから滅ぼされた。あのアストラにね」
「………」
足音が冷たい廊下に響いていく。
この先にあるのは、先祖が全ての世界。
ここにいる本人が無視され、過去の人物の所業に依存する者たち。
To
be continued...