その色がだんだん遠ざかって、手が届かなくなる。

この手はあまりにも幼すぎて、抵抗すらできない。

遺されたのは同じ色。

「建国の英雄」と呼ばれた緋色。

 

ゼウスァートがどんな家なのかを滔々と語られ、それを絶やした裏の人間がどんなに残酷かを聞かされる。

よくもこんなに話し続けられるものだと、レヴィアンスは欠伸を堪える。

退屈でも、苛立ちを覚える内容でも、聞いていなければならなかった。

裏を倒すためのヒントが、どこにあるかもわからない。

そのためにイクタルミナット協会に従った。ニアを裏から救い出す方法が、そこにあると信じて。

軍に残っている仲間を敵に回すかもしれないとわかっていても。

協会もまたニアを狙っていたが、今はおいておくことにする。

どうせニアを助けたら、すぐに逃げ出すつもりだ。

逃げ出した後どうするかなんて、考えていない。

軍に戻ることはできない。黙って敵側につけば、それは裏切りだ。

ニアは軍に戻して、自分はどこかへ消えてしまおうか。

どうせゼウスァートは滅びたんだ。

「…というわけで、まず貴方は血を絶やした者へ復讐せねばなりません」

白い衣装を纏った男が、漸く聞きたかった言葉を発してくれた。

これで裏へ潜入する手口がわかるはずだ。

「裏への復讐でしょ?拠点を教えてくれさえすればすぐにでも乗り込むよ」

しかし、白装束の男は首を横に振る。

レヴィアンスの期待は、最悪の形で裏切られた。

「いいえ、今は裏にいませんからね。憎き血を逆に絶やしてやるのが貴方の役目です」

倒すのは裏ではない。

ゼウスァートを滅ぼした、暗殺者アストラの血を継ぐ者。

「…そっか、やっぱりそうじゃないとダメか…」

裏切ったなら、もう仲間じゃない。

友達なんて言ってはいけない。

ただの仇だ。

「それでも一応元仲間だからさ、ボクがアストラを心の底から憎むにはまだ足りないんだよ。だからもっと裏の悪いトコ教えてよ」

「…いいでしょう」

そうしなければ前に進めないというならば、この運命を受け入れよう。

その役目を全うしよう。

 

裏にとって最も邪魔な軍。そして、そのトップだったこともあるインフェリア。

「軍を服従させた」裏の人間たちは、次の計画を練っていた。

「大総統がインフェリアの子に気をとられている今こそが稼ぎ時だ」

「クスリも売れるし、邪魔者も消せるし」

下卑た談笑が嫌でも耳に入ってくる。

聞くところによると、ニアは彼らの切り札だ。すぐには殺されない。

だが、誰かが傷つけられることを知り、それを伝えられないというもどかしさはこれ以上ない仕打ちだった。

「ほら、食え」

差し出される食事は意外にも普通のものだったが、何が入っているかわからない。

絶対に口にはするまいと、目を背けた。

「可愛げのないガキだな」

言い捨てる声に何の反応も返さず、ただ壁を見つめる。

ルーファは大丈夫だろうか。他のみんなはどうしてるだろうか。

そればかりを考えている。

ダイは怒っているかもしれない。勝手な行動はするなと叱られるだろう。

レヴィアンスはきっと、「バカだなー、ニアは」なんて言いながら体当たりでもしてくるんだろう。

グレイヴは呆れるかもしれない。そしてアーシェがそれをなだめる。

そんな幸せな場所に戻って、またルーファの隣で眠りたい。

もう一度、あの暖かい景色を見たい。

「お父さん…」

今、そっちはどうなってるの?

みんなは無事?

自分からここにきたのに、僕は帰りたくてたまらないよ。

膝を抱え、腕に顔を埋める。

このまま意識を手放してしまえたら、と思ったが。

「ゼウスァートがイクタルミナットについたそうだ」

その言葉で、一気に現実へ引き戻される。

ゼウスァート――レヴィアンスのことだ。

イクタルミナットについたとは、つまり。

「奴らはそっちか。これで分担はできたな」

「軍がどんどん潰しやすくなるねぇ」

「今頃大総統は打ちひしがれてるだろうよ」

嗤いながら語られるそれが示すのは、一つ。

レヴィアンスはすでにイクタルミナット協会にいる。

――なんで…なんでレヴィが?!

レヴィアンスは「ハイルの子だ」と胸を張っていた。協会側につくはずがない。

むりやり連れ去られたのではないか。

「これでアストラは消されちまうのかね」

「だろうな。どうせ最後には全部なくなるんだ」

レヴィアンスが協会にいて、ルーファが消される。

どうしてそうなるのか、ニアには理解できない。

それに彼らの言葉は、協会を邪魔者と認識していないかのようだ。

協会は裏を撲滅しようとしている。それなら、軍と同じく潰すべき相手ではないのか。

単に恐れるに足らない相手なのか、それとも。

「はは…まさかね…」

想像を打ち消す。そんなことがあるはずはない。

だけど、もしもそうなら敵は…

「インフェリアの子がいるそうじゃないか」

考えを強制終了させる、初めて聞く声。

低く重い、男の声だ。

それにずっと嗤っていた男が答えた。

「昨夜つれてきたそうですよ。大事な人質です」

「あぁ、いい餌だろうな」

くくく、と低い声。彼が現れると周囲が途端に静かになった。

裏組織において重要な人物であることは間違いない。

ということは、彼の言葉から何か情報を得られるかもしれない。

「インフェリアであいつを釣れればいいが…」

「こだわりますね。まだあの女を恨んでるんですか?」

ニアによって釣られることが期待されている人物がいるらしい。

考えられるのは父であるカスケードか、大総統だ。

もう少しよく聞こえないかと、壁に耳をぴったりくっつけてみる。

「いや、マグダレーナにはもう興味はない」

聞いたことのある名が耳に入る。

父の話に時々ではあったが、その名があった。

「今興味があるのはそのガキだ。去年私の部下をぶっ殺そうとしてくれた」

「あー、あれか…」

げたげたと嗤いが起こる。男の低い声もそれに加わり、室内が満たされる。

「ガキ」ということは父や大総統には関係ないようだ。とすれば、思いつく中で可能性があるのは。

――あの人、大尉の裏嫌いに関わってるのかな…

すぐに考えられたのは、そのこと。

もっと聞き出せないかと思ったが、別の話題になってしまったようだ。

最も知りたいことはわからない。

どうして人質がニアでなければならないのか。

どうして裏は協会を邪魔者と認識していないのか。

これから軍をどうするつもりなのか。

「聴かなきゃ…」

辛くても、情報を得なければ何もできない。

今は何もできなくても、何か糸口を掴めれば変わってくるかもしれない。

戦う方法は、武器を握るだけじゃない。

 

計画はすぐにまとまった。

レヴィアンスならば軍の人間を呼び出すことは簡単だ。

すぐに「危険因子」を始末できる。

猶予を与えないため、執行は今夜。

――あ、そっか。もうこんなに時間が経ってたんだ…

自分がここに来たのが夜だったからか、時間の感覚がおかしい。

それともあの長い話の所為だろうか。

真っ白な部屋の真っ白なベッドに横たわり、入手した情報を思い起こす。

協会が危険な血脈を持つものを滅するという策をとり始めたのは、つい最近のことらしい。

それまでは良い血脈が永く続くと信じ、それを崇拝する程度だった。

裏を撲滅するのが目的であることはずっと変わっていないが、裏から抜けたものまで消すということはなかった。

神から託宣があって、関わったものは全て血脈を絶つという方針に変わったという。

先祖が恨むべきものならば、子孫を殺せ。どうせ同じ血が流れているのだから。

「大司教」が言うならば、そのとおりなのだ。

その大司教は託宣の数週間前から祈祷部屋に篭っていて、誰も姿を見ていないのだという。

――もしかして、その大司教って。

考えられないことじゃない。

それまでは裏を非難し、それに勝ちうる良き血脈に希望を見出していただけだった。

最近になって人を殺すようになった。それも、大司教の言葉によって。

このことを軍は知っているだろうか。知っていれば、今夜の戦いは回避できるかもしれない。

僅かな希望に賭けたいが、それを却下するように睡魔は襲ってくる。

これ以上は何も考えられない。

 

一字一句、漏らさぬように詰め込んだ。

耳に神経を集中させ、頭の中で整理した。

全て解った。本当の敵は何なのか。

伝えなければならない。巻き込まれ犠牲になってしまう人を増やさないため、一刻も早く。

だけど、拘束された身がそれを許してくれない。腕も足も、視界も自由を奪われてなす術がない。

唯一、声を聴くことが強制される。

「お利口だ。二度も言う必要はないな」

抱えられ、運ばれている感覚。

どこへ連れて行かれるんだろう。

「国を救った英雄の子孫が、国を統治するものを倒す。そしてまた新しい英雄が生まれるんだ」

ごうごうと、全身を震わせるような音が響く。

何かの機械が動いているのだろうか。

「お前は英雄になる。軍政を終わらせ、王政を復活させる」

機械の音は耳元まで近付いて。

「――が――て、――だな」

もう、耳も塞がれてしまった。

頭の中に浮かんだ大切なものが、入ってくるものに塗り潰されていく。

どんどん、どんどん、自分がどこかへ行ってしまう。

最後に言葉を呟いた。でも、自分の耳に届かない。

だから、上手く言えたかどうかも分からない。

もう考えていたことは何もなくて。

全て、忘れた。

「…ルー?」

「どうした」

「いや、こいつがそう言ったんですよ」

「どうでもいい事を報告するな。とにかくこれで準備の準備ができた」

子供の頭からヘルメット状の装置をはずすと、暗青の髪がぱらりと零れた。

齢十歳の小さな子供に、全てがかかっている。

彼によって未来が拓かれるなんて、まだ冗談のように思える。

 

昔のようにいかないのは分かっている。

自分たちの多くは軍を退役して何年も経ち、今はただの一般市民だ。

だからといって、忘れたわけではない。

大切なものを守るために、この手はある。

「確認します」

これが最後でありますように。

その祈りを込め、アーレイドが口を開いた。

「一般市民の方は自分の身を守ることを第一に考えて下さい」

戦うのは軍の仕事だ。余計なことをされては困る。

ただし軍の手が届かないところで危険が迫ったら、そのときは。

「軍人じゃない人に戦えとは言いたくありませんし、言えば軍人失格です。

だけど、今回だけはあなたたちを元軍人として扱うことを赦していただきたい」

それが、話し合いの末に出した結論だった。

きっと決戦は近い。そのとき、信じさせてほしい。

かつてともに戦ってきた、その力を。

「腕は鈍ってないと思うけどね」

「正直、今になってそれを振るいたくはなかったがな」

カイとグレンはフォース邸にて待機。

「すぐに終わることを願いたいです」

「そうでなければ全力で応戦しますよ」

リアとアルベルトはリーガル邸で事に備える。

「できることはします。…誰も怪我しないのが一番いいけれど」

「そうはいかないでしょう。すでに血は流れてますし」

ラディアとクリスは司令部で救護班に加わる。

「病院の警護は十分なんだろうな」

「警備も動いてんだ。少しは信用しやがれ」

「でも心配だよな、こいつだし」

ブラックは国立病院で、ディアはその付近の警護班で行動。

アクトは自宅で救護の補助にあたる。

「あとは全員無事に事態を収束させれば完璧だ。だろ、アーレイド?」

ニッと笑うカスケードに、アーレイドは頷く。

「ハル、…いや大総統閣下、号令を」

「うん」

ハルが椅子から立ち上がり、過去、そして今も自分を支えてくれる面々を見渡す。

今は自分が彼らに号令を告げる立場だが、それ以外は変わっていない。

あの頃から持ち続けてきた志を、ここに存在しながら抱いていることがわかる。

「軍は必ず、全てを終わらせます。…約束します」

信じて助けてくれた。ずっとそうだった。

「僕たちは、大切なものを必ず取り戻します!」

自分に暖かな場所を、取り戻してくれた彼らだから。

今度は自分が、彼らのためにそれを取り戻す番。

「敵は軍総出で迎え討つ。

ニア君を救出するのはホワイトナイト大尉とシーケンス伍長の仕事。

ダスクタイト伍長は自分の家族の警護にあたって。

リーガル伍長は救護班に。

絶対に無茶はしないで、危なかったら上の人間に任せること。…それから」

一拍、呼吸、もう一度顔を上げて。

「レヴィはまだ見つからないけど…きっと戻ってくる。そのときはよろしくね」

一瞬だけ、親の表情をした。

心配じゃなく、信頼を込めて。

 

休憩室は賑やかな二人がいない所為か、やけに静かだった。

レヴィアンスの行方は依然として掴めないまま。連絡は一切ない。

「レヴィも誰かに攫われたってことは考えられないか?」

ダイがぽつりと、誰もが思いついては打ち消した言葉を吐く。

「誰かって…誰にですか?」

「協会の接触があったなら、単純に考えてそっちだろう」

皆そう考えて、でも誰も言わなかった。

親の前でそんなことを言えるわけがない。

「そうでなきゃ、ルーファにあわせる顔がないんだろ」

「俺はもういいのに…」

「意外にレヴィは繊細なのかもな」

表面だけのダイの笑い。いつものことのはずなのに、いつもと違う。

文句を言うはずの人物がいれば、こんなに乾いていなかっただろう。

再び静寂に堕ちる。

ドアを一枚隔てた向こうは、ある程度の緊張の中でいつも通りの日常があるはずなのに。

「ルーファ」

「何ですか」

「俺が想定する最悪の事態、聞きたいか?」

「…聞かずに済めば一番良いんですけどね」

どうせ断っても、独り言として口にする。

ルーファは否応なしにそれを考えなくてはならなくなる。

それをわかってか、ダイは話し始める。

「ニアを助けるために、いくつか障害が出てくるだろう。もしそれが…」

彼らはまだ知らないが、それは確実に進行していること。

その始まりは、待ちわびたはずの一本の電話。

話を聞かなければ、もっと喜べたかもしれなかった。

 

「それじゃ、アタシは病院の警護だから」

短くなった髪は、もうグレイヴの背中を隠さない。

ずっと見えなかったからか、やけに大きく見えた。

「グレイヴちゃん、頑張ってね」

「アーシェもね」

滅多に見せない笑顔も頼もしい。

戦うと決めた彼女は、きっとこれまでで一番美しかった。

アーシェはまだ、戦うのが怖い。

怖いけれど、こうなってしまった以上は逃れられない。

わかっているのに、手が震えた。

「グレイヴちゃん」

「何?」

呼び止めても、これ以上はかける言葉がない。

ただ、誰かが離れていってしまうのが怖い。

一人になったら、自分じゃない自分が出てきてしまいそうで。

だけどそんなことは言えない。

「…なんでもない。いってらっしゃい」

救護班ということは、戦いの場に出ることを免除されたということ。

正確に言えば、自分あるいは誰かの血を流すことから離れられるということ。

だけどみんなは違う。傷だらけになる場所に行く。

ニアやレヴィアンスも、きっとどこかで戦っている。

自分だけがここにいて、本当にいいのだろうか。

「アーシェ」

優しい声が、不安を払うように響いた。

「大丈夫、アンタを一人にはしないから」

「え…」

そっと抱きしめるしなやかな腕。それがこれから誰かと戦う。

でもその前に、こうして温もりをくれる。

誰かを傷つけるんじゃなく、守るためにその腕がある。

「アーシェにはアーシェの戦いがある。アタシたちにそれぞれの戦いがあるように、ね」

「私の戦い…?」

「アーシェならできる。アタシを助けてくれるくらい、アンタは強いんだから」

今まで動けたのは、大切な人を守りたかったから。

今も、大切なものを守るために戦う。

それぞれの大切なものを、失くさないように戦う。

それはアーシェにとっても大切で、失くしたくなくて。

誰かの悲しむ顔は、見たくない。

「アタシは行くよ。でも、アーシェについてるから」

自分だって、悲しむのはごめんだ。

「だから…」

顔を上げて、ぎゅっと手を握り締めて。

自分に負けずに進んでいこうと、もう一度誓った。

「私も戦うから」

もうこの部屋には誰もいないけれど。

心にはいつも、支えてくれる仲間がいる。

 

それは開戦の合図。

鳴り響くそれに応えることが、こんなにも怖いなんて。

「…はい」

『ボクだよ』

本当なら、彼の無事を確認してホッとするはずなのに。

なぜか、絞り出す声は強張ったままで。

「レヴィ…どこにいるんだ?」

『郊外の森。ルーファ、一人でここまで来てほしいんだ』

「一人で、か?」

『うん、話したいことがあるから』

自分たちがどんな話をしなければならないか、わかっている。

それが自分たちに直接関係するものではないことも。

昔のことだ。それに、その名はすでに意味のないもの。

それでも話さなければならないのか。

「どうやって行けばいいんだよ。一人で郊外なんて無理だ」

『仕方ないな、ルーファは。それじゃ大尉あたり使っていいよ』

届く声はいつもの生意気なレヴィアンス。

だから自分も、いつものように振舞おうと思った。

「大尉に怒られるの、俺なんだぞ」

声が震えるのが、自分で分かった。

『そんなのいつものことじゃん。あ、それと』

「何だ?」

『電話のこと、大総統閣下と大将には絶対に言わないでね』

「…あぁ」

これだけで十分だった。

レヴィアンスはもう、こっちに戻らないつもりだと理解するには。

ばらばらになっていく。

これまでの楽しかった時間が、色褪せていってしまう。

「ダイさん、車お願いできますか?」

あっという間だった、ほんの数ヶ月。

笑って、泣いて、喧嘩して仲直りして。

自分が生きてきて最大の大喧嘩は、うまく仲直りできるんだろうか。

「ルーファ、乗れ」

たとえまた笑えたとしても、

全員揃ってないと、意味がないんだ。

 

欠員確認、戦力は分散している。

今こそ出撃の時だ。

さぁ、宴を始めよう。

祀り上げられたものは、深海の瞳で空を仰ぐ。

 

目の前に広がるのは、闇ばかり。

「ちゃんと一人で来てくれたんだ」

「約束だからな」

浮かび上がる二つの色は、小さくも決意を抱いている。

「…それじゃ、始めようか」

「何をだよ。話つけたら帰るぞ、レヴィ」

「帰れないよ」

あの日々に別れを告げるように

「ボクはゼウスァート、キミはアストラ。…もう、帰れないんだよ」

刃が輝き、空を切り裂いた。