どんなに待っても､あの人は帰ってこない｡

会うことはできないのだと､そのうちわかった｡

同時に､全てを自分が負わなければならないことも｡

｢軍曹のお兄さんってどういう人？｣

そう問われて､戸惑ってしまった｡

会ったこともない人を表現する術など持ち合わせていない｡

兄というものが存在するのは確かだ｡その痕跡も家にはある｡

しかし､その兄はオリビアが生まれたときにはもう姿を消していた｡

ただ､｢お前には兄がいる｣とだけ告げられてきた｡

｢あのね､兄さんは外国で暮らしてるの｡私が生まれたときには､もう家にはいなかったのよ｣

どこにいるかなんて知らない｡とっさに思いついた､嘘か本当かもわからない説明｡

質問した本人は納得してくれたようだったが､オリビア自身がそうではない｡

いるのにいない｡そんな曖昧な状態がもどかしい｡

いないなら自分の負っている役目を果たすことに専念できたし､

いるのなら重圧はもっと軽かったに違いない｡

知らない人を恨んでも仕様がないのだけれど､それでも考えずにはいられない｡

パラミクス家は代々王家に仕えてきた家柄だ｡

男子は王宮兵としてエルニーニャ国王を護る役目を担っている｡

女子は王子に嫁ぎ､次代の女王としてこの国の象徴となる｡

子が数人いれば､その役割を分担できた｡男子ならば皆王宮兵となり､女子は一人が嫁ぎ他は兵となる｡

しかし今はオリビア一人だ｡彼女は二つの使命を持っている｡

将来は女王として､そして王に最も近い兵として､王宮を護らなければならない｡

こんなケースは今までになく､次代は異例になるといわれている｡

だからこそ､王家に仕える家々は彼女に注目している｡

その重圧は彼女一人で抱えるにはあまりにも大きすぎた｡

姿も見たことのない兄に縋りたくなるのも､当然のことだった｡

その重圧から少しでも解き放たれたのは､軍人学校で出会った友人や恩師のおかげに他ならない｡

軍人学校は､簡単に言えば世間のエリートが通うところだ｡

学費がかかるので､一般人は自分で勉強して軍に入るのが普通である｡

つまり､オリビアの周りには顔見知りばかりが揃っていたのだ｡

社交の場では必ずと言っていいほど会う面々｡彼らはオリビアを時期女王として見る｡

腫れ物に触るような､明らかに気遣いの見える態度｡

オリビアにとっては窮屈な家の中にいるのと変わらない｡

だからホリィが話しかけてきたときは本当に驚いた｡

転んですりむいた傷を手当してくれただけでなく､特別扱いを全くしない接し方をしてくれた｡

一緒にいたドミナリオも同様だ｡彼の場合は自身も似たような状況に置かれていたため､オリビアの気持ちをわかってくれたのかもしれない｡

彼らはオリビアにとって､かけがえのない友達になった｡

｢オリビアってさ､兄弟とかいるのか？｣

友達だから､この問いにも正直に答えることができた｡

｢兄がいるんだけど…私､一度も会ったことがないの｣

｢会ったことがないのに兄って認識できるんだ｣

すごいね､とドミナリオが無表情で棒読みする｡

それを他に反応しようがないときの態度だとわかっているから､オリビアはくすっと笑って続けた｡

｢いたことはわかってるの｡使ってた部屋はそのままにしてあるみたいだし､誰かしら話してくれるから｣

｢会ったことがないのは何でだよ？｣

｢私が生まれる前にいなくなっちゃったんだって｡私と兄は十二歳くらい離れてるの｣

｢なんでいなくなったの？｣

｢それはよくわからないけれど…もし兄がいたら私はここにいなかったわ｡軍人になるのは兄の役目になってたと思うから｣

パラミクス家の役割についてはよく聞かされていた｡兄のこともその延長で聞いた｡

さりげなく､唐突に｡初めて兄の事を聞いたとき､自分の耳がおかしくなったのかと思った｡

それから､兄の帰りを待ち続けた｡帰ってきて役割を果たせば､自分への期待は半分になる｡

いや､異例の事態だから…そうなると半分以下になって､ずっと楽になれるのだ｡

自分は王宮の女性として､その振る舞いを勉強すれば良いだけだったのに｡

兄は結局､今日まで帰ってこなかった｡

その間にオリビアは軍人としての力をつけ､王宮女性になるために学ぶ､二重の生活を送らざるを得なかった｡

パラミクスとして強くあれ｡エルニーニャ女王として淑女であれ｡どちらも怠ってはならない｡

｢オリビアの家って大変なんだなー｣

｢そりゃあ､ホリィの家よりは誰だって大変じゃないの？｣

｢ドミノ､それはオレの家に失礼ってもんだろ｡オレの父ちゃんと母ちゃんはオレを学校に通わせるために日夜働いてるんだ｣

｢偉いね｡働いてるご両親も､期待を裏切らないよう頑張ってるホリィ君も｣

ホリィは軍人学校において特殊な存在だが､その頑張りは誰よりも優れているだろう｡

期待に応えられているのか､常に不安を抱くオリビアには彼が輝いて見える｡

そう思って発言したのだが､ホリィは首を横に振った｡

｢オレ､別に期待を裏切らないようになんて思っちゃいないけど｣

｢え？｣

｢オレは軍人になるために頑張ってる｡父ちゃんと母ちゃんに少しでも楽させてやりたいから､今勉強しとく｡それだけだぞ｣

期待なんてどうでもいい､とホリィは笑う｡

そしてドミナリオに睨まれる｡

｢ホリィはそれでいいかもしれない｡でも僕とオリビアは君とは違うんだよ｡

こうしろって言われて､その期待に添えなければいけない立場なんだ｣

｢なんだよ､ドミノまでオレを差別するのか？｣

｢初めから軍人になりたいホリィにはわかんないよ｡やりたいことがあってもできない人の気持ちなんて｣

｢二人ともやめて！喧嘩なんてしても状況は変わらないのよ｣

止めながらも､オリビアの心には相反するものが残る｡

期待に添えるよう頑張り続けるか､期待される状況の中で自分の目標を見つけるか｡

前者ならこれまでと同じように続ければいい｡しかし､ずっと重いものが残るまま｡

後者なら見つけるまでは苦しいが､そのあとはどうにかなるかもしれない｡

どちらにせよ､今苦しいことには変わりない｡すぐになんて取り除けるものではない｡

｢まだ残ってたのか､お前ら｣

黙りこくってしまったところに割り込んできた声｡

教室の見回りに来た､大総統史教諭だった｡

｢早く帰れよ｡門閉めるぞ｣

｢あの､先生｣

考えるより先に､呼び止めていた｡

彼――ブラック･ダスクタイトはオリビアが初めて心から信頼できた大人だ｡

特別扱いや振る舞いの強制をしてくるような大人ばかりが周囲にいた｡

でも彼は､そんなことを一切しない｡

立場の違うドミナリオ､ホリィ､オリビアに対し平等に厳しく､時に優しく接する｡

だから聞きたかった｡自分はどうすればいいのか｡

先生ならきっと､自分の声を聞いてくれる｡

｢先生は…どうして軍人になったんですか？｣

｢聞いてどうする｣

そう思ったのに､返答は冷たいものだった｡

｢オレのことはどうでもいいだろう｡それよりさっさと帰れ｣

｢私､帰りたくないんです！｣

誰もが自分の肩書きしか見ない冷たいところに帰りたくない｡

それを､先生ならわかってくれると思った｡

思った途端､何かが見えた｡

家は､肩書きしか見ない｡

自分はそれが嫌だ｡

もしも兄がいなくなった理由が､同じものだったとしたら｡

｢どうした､用がないなら帰れ｡帰りたくなくてもな｣

｢…どうして､帰らなきゃいけないんですか？｣

｢そこがお前の家だからに決まってんだろうが｣

兄は帰らない｡

自分は帰らなくてはならない｡

何故こんなことになってしまったんだろう｡

どうして自分は､パラミクスに生まれてしまったんだろう｡

｢エストとグライドはさっさと帰れ｣

｢わかりました｣

｢え､オリビアは？｣

｢オレが送ってくから､気にするな｣

荷物は持ってもらった｡

何も持っていないと落ち着かない｡

｢家に帰りたくない理由は？｣

少し前を歩く大きな背中が､静かに問いかける｡

｢…家に帰れば､私は王宮女性です｡それはとても窮屈で､とても辛いです｣

｢王宮に仕えてるなら仕方ねーだろ｣

そう､仕方のないことだ｡受け入れるのは嫌だけれど｡

｢私､軍人になっても…十八歳になったら辞めて､王子と結婚しなきゃならないんです｣

｢お前が国の象徴になったら､平和になりそうなもんだけどな｣

｢それってすごく重いです｡私は普通の女の子になりたかった…｣

今では単なるシンボルとはいえ､国のトップには変わりない｡

女王として完璧に振舞えなければ､国際関係にも支障をきたす｡

自分ひとりの行動に､エルニーニャ全てがかかってくるのだ｡

さらに軍人としての力も要求される｡

少女には抱えきれない｡

｢でもよ､今逃げてたらずっと辛いままだ｡それはわかるか？｣

｢………｣

わかっている｡逃げ出せないことは知っている｡

これを宿命と受け入れるしかない｡

｢私の人生って､とてもとてもつまらないものなんですね｣

｢そういう言い方はやめろ｡それはお前の周囲も否定することになる｣

｢…そうなんですか？｣

｢エストやグライドも､もうお前の人生の一部だ｡あいつらもつまらねーのか？｣

｢そんなことないです！寧ろドミノ君やホリィ君と一緒にいるときが､一番楽しくて…｣

｢だったらお前の人生はつまらなくねーだろ｡辛かったらあいつらが助けてくれるさ｣

｢だけど､私の問題だから…｣

前を歩いていた足が止まる｡

振り向かずに､声は言う｡

｢あいつらと会って話せることがお前の幸せなら､明日も明後日も幸せだろ｡

お前の問題だからどうしようもないってのは､あいつらもわかってる｡

それでもお前の悩みを軽くしてやりたいって思ってる｡

それは､幸せなことじゃないのか？｣

確かにそれは､とても幸せなこと｡

だけど､背負ったものが変わるわけじゃない｡

自分がどうなるかは､すでに決まったこと｡

｢あいつらに幸せになってほしいと思うか？｣

｢思います｡…なれると思います｣

｢お前が幸せにしてやろうとは？｣

｢…私が？｣

誰かを幸せにすること｡

それは､オリビアが忘れてしまっていたこと｡

自分の不幸ばかりを考えて､幸せにしてくれる誰かを忘れていた｡

｢私なんかにできるわけ…｣

｢お前にしかできないことがあるだろう､パラミクス｣

いつの間にか､ライトグリーンの瞳がこちらを見ていた｡

オリビア自身がその答えを持っていると､彼は確信しているようだった｡

｢行くぞ｡遅くなったら心配されるだろ｣

わかっている｡自分がしなければいけないこと｡

それが自分にできること｡

視点を変えれば､大切な誰かを護ることもできる｡

そんな力を､自分は持つことになっている｡

兄はやはり帰ってこない｡

軍人になった今も､その姿を見ることはかなわない｡

だけど､兄の仕事を押し付けられたわけじゃない｡

自分にできることが､兄がいないことで増えた｡

そう思えるようになったのは､大切な友人と恩師のおかげ｡

大切なものを護るために､強い女王になろう｡

好きな人と結ばれないことは少し悔しいけれど｡

後ろばかり向いてたら､明るく照らす前方が見えない｡

もしかしたらこの先､兄も戻ってくることがあるかもしれない｡

そうしたら､貴方の妹はこんなに強いんですよと胸を張れるだろうか｡

｢オリビア､仕事だよ｣

｢オレたち三人でだからな｡がんばるぞ！｣

強くなれたのは仲間のおかげですと､自慢できるだろうか｡

誰よりも自分を誇れるように､オリビアは今日も未来へ向かう｡

Fin